クシティガルバ棟
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2021/05/16(日) 18:47:22.38ID:SVBes+tI0
クシティガルバ棟
0374ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/10/30(日) 20:43:39.21ID:XxiuYuc60
鎌倉殿#41

開幕ヒヒーン
朝比奈義秀、騙し討ちとか考えられる柄だったのか
「北条を信じるな、父上!」それはそう
敵はあくまで北条、鎌倉殿に指1本でも触れたら...
双六やってる場合じゃねぇ!

「ここぞという時に裏切られたら」「通じてるんだろ?」和田のIQが上がった
いとこ同士じゃないかって、衣笠城陥落の遠因を作った男が言っちゃうんだもの
全員で起請文を吐こうと頑張る「まったく出ない、クソォ!」「…俺の指を使えぃ」「ウオオオ」w
南は平六、東は五郎、西は太郎に任せ小四郎は鎌倉殿に随行
大江は頼朝以来の文書や記録を八幡宮に移す

巴御前が戦に出たら手柄を取ろうとムキになった連中が...わぬしマコト義盛か?

太郎泥酔、盛綱にはお前呼ばわりされてるw
「何故父は私に指揮を」「信じてるからに決まってるじゃないですか」
叩きつけてやれ!

今度こそ死ぬっ!
義盛は南門から突入、焼かれてた兵は何があった...?
大倉御所炎上
両手に風呂敷を抱えて腕まくりした大江が可愛い
髑髏を忘れてきた羽林「その役目、私が」大江の株が上がった(元々ヘイト買ってないけど)
強っw 日野勝光もやってほしい(花の乱じゃねぇよ)
一方の太郎はまた飲んでやんの
0375ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/10/30(日) 20:43:48.63ID:XxiuYuc60
勝てば義盛は鎌倉殿、巴は御台所、羽林様は大鎌倉殿に
北条と和田の戦いを鎌倉殿と和田の戦いにすげ替えたい小四郎、うーん北条ムーヴ
ついに鎌倉そのものを人質に取るか、元も子もねぇ

「あ"ーっ、やられたぁ。俺に構うな(棒)」てめぇw
その辺の民家の塀や壁で垣盾を形成し前進する泰時、まぁ火の海になるよりは...
和田勢は撤退、しかし犠牲は多かった「手負いの者1004名」

おおっ、実朝の鎧装束!「大人しく、降参せよ!」
「お前に罪は無い!」うわ、嫌な空気が...
これ程までに鎌倉殿と心が通じあった御家人が他にいたか

「これが、鎌倉殿に取り入ろうとした者の末路にござる!」義盛無惨
太郎の絶許顔、それでいいんだ
いや小四郎も泣いてんじゃん...
義秀、メッセンジャーボーイを全うし落命
巴御前復活、「鎌倉を去れ」追っ手を切り伏せて何処へ...

人を束ねていくことに最も必要なものは力にございます
→心を許せる者は、この鎌倉におらん

「板戸で敵の矢を防ぐのを思いついたのは二郎にございます」これは泰時ムーヴ
「役に立つ男になってくれ」
頼家様も頼朝様も越えようとしている、小四郎も満更じゃない

父上が作られたこの鎌倉を、源氏の手に取り戻す
0376ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/10/31(月) 16:36:05.64ID:dJbPAojq0
失われゆく文明の悲しみ···薩満(さまん)でシャーマンか
東北の満州民族は全てのサマン儀式において必ず神樹を持っている
行燈は日本にも通じるものがあるね

映画ロスト・マンチュリアン・サマン予告編
https://youtu.be/vfjGOSQAc1M

魂のロードムービー
0377ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/03(木) 10:02:52.47ID:WDzY9MP+0
これは三本の和田義盛生える

「鎌倉殿」大江殿、大乱闘の必殺仕事人 三谷氏提案で数人斬り予定が「和田勢二、三人じゃないんかーい」
tps://news.yahoo.co.jp/articles/0835ba74659532c5d2fe66ba508c90d3b765ad6e
>「吉田さんに、二人くらい斬りましょうかと言われ、いや三人くらいと冗談半分で答えた。
> また後日、殺陣リハに行った。和田勢、、二、三人じゃないんかーい」と、大乱戦となったことにツッコミを入れた。
>「最初の一人を小刀で斬り。その後二人目を捉えて四者を牽制しながら二人目を倒し刺して大刀を奪い、
> 残り四人を斬りまくり、最後の七人目御簾からの太刀をかわし刺す」と、激しい戦闘シーンを振り返り、
>「私が良く見えたのは、斬られ役がプロフェッショナルだからです。辻井さんはじめ殺陣チームに感謝」と記した。

オマケ
大河ドラマ 毛利元就 総集編2-1
tps://sp.nicovideo.jp/watch/nm10042658
この太刀、いただきます

主水セレクションvol.11-12(新仕置人)
tps://sp.nicovideo.jp/watch/sm14030301?ref=sp_video_watch_related_videos
何気に岸田森さんも大江広元を演じている
tps://sp.nicovideo.jp/watch/sm14031523?ref=sp_video_watch_related_videos
諸岡さんはメフィラスじゃなくてヤプール
0378ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/03(木) 13:00:37.86ID:WDzY9MP+0
役職をいくつか

坊官(房官)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E5%AE%98#:~:text=%E5%9D%8A%E5%AE%98%EF%BC%88%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%8B%E3%82%93%E3%80%81%E6%88%BF,%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%89%80%E3%81%AB%E7%9B%B8%E5%BD%93%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
> 平安時代以後に寺院の最高指導者(別当・三綱)などの家政を担当した機関及びそこに属した僧侶のこと。
>俗世の政所に相当する。
> 寺院内において僧侶が住む空間を僧房(僧坊)と呼んだが、
>特に別当や三綱が居住する僧房内において身の回りの世話や事務の補助を行う僧侶を坊官(房官)と称した。
>後に別当(寺院における別当とは別のもの)以下、勾当(こうとう)・預(あずかり)などの公家や武家の政所の同様の役職が派生するようになった。
>特に皇族や公家の子弟が門跡として入るようになると、寺院の要職はこうした門跡による継承によって固定化され、門跡に近侍する僧侶を坊官と呼ぶようになった。
> 門跡は三綱以下の人事権を掌握して自己近侍の坊官を補任し、更に永宣旨による権限を行使して、
>本来ならば一定の資格を必要とする法橋・法眼・法印などの僧官を彼らに与えてその忠誠を確保した。
>その一方で、代々坊官を務めた事によって実務に精通した世襲坊官(坊官家)も出現するようになり、
>門跡は彼らをもまた近侍の坊官同様に遇して、自己の勢力下に加えた。
>本願寺における下間氏、青蓮院坊官大谷氏などはその代表的な例である。豊臣大名大谷吉継はこの大谷氏の出自であるという説も存在する。
> 江戸時代に入ると、門跡の公家化が進み、近侍の僧侶でも最上級のもののみを坊官と呼び、
>以下を諸大夫・北面・侍などと公家と同様の家臣形成をしていくようになる。

法橋・法眼・法印(中世以後、医師・仏師・絵師・連歌師などに僧位に準じて与えられた称号でもある)

法印
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%B3%95%E5%8D%B0/#jn-201069
>仏教を外道から区別し、仏教が真実であることを示す標識。三法印など。
>《「法印大和尚位」の略》僧位の最上位。僧綱 (そうごう) の僧正に相当。この下に法眼 (ほうげん) ・法橋 (ほっきょう) があった。

法眼(ほうげん)
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%B3%95%E7%9C%BC/#jn-201444
>1 五眼の一。諸法を見る智慧の眼。菩薩 (ぼさつ) のもつ、衆生を済度するための諸事象の真相を知るという眼。
>2 《「法眼和尚位」の略》法印に次ぐ僧位。僧綱 (そうごう) の僧都 (そうず) に相当。

法橋(ほうきょう、ほっきょう)
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%B3%95%E6%A9%8B_%28%E3%81%BB%E3%81%86%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%29/
>仏の教えを、人を彼岸に渡す橋にたとえていう語。法 (のり) の橋。
>《「法橋上人位」の略》僧位の第三位。法眼に次ぐ。僧綱の律師に相当し、五位に準ぜられた。
0380ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/05(土) 17:24:17.21ID:JyBc36rL0
>>378続き

蜷川新右ヱ門(にながわしんえもん)
https://dic.pixiv.net/a/%E8%9C%B7%E5%B7%9D%E6%96%B0%E5%8F%B3%E3%83%B1%E9%96%80
> 史実の室町幕府には「寺社奉行」という奉行人は存在しない。
>延暦寺を担当する山門奉行、 >興福寺などを担当する南都奉行、 >そしてその他の仏寺を担当する寺奉行、 >神社を担当する社家奉行などが置かれていた。
>義満は主な寺社にはそれぞれ奉行人を設置して将軍家との取次を担当させる政策を取った。
>新右ェ門が寺社奉行と名乗りつつも安国寺以外の寺社にほとんど関与していないのは、ある意味ではこの政策に合っているかもしれない。

公文(くもん)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%96%87
> また、足利将軍家が発給した五山十刹などの住持を任命(補任)する辞令を「公文」もしくは「公帖(こうじょう)」と呼んだ。
>五山制度は鎌倉幕府にも存在しており公文(公帖)が出されていたが、同制度が整備されたのは、室町幕府初代将軍足利尊氏が禅宗保護に積極的であったことに由来する。
>したがって公文(公帖)は将軍直々の命令書である御教書もしくは御内書形式(手続としては、
>僧侶代表(鹿苑僧録・蔭涼職)から出された名簿を参考に将軍が選任し、将軍の指示に従って公文奉行が本文を執筆し、
>将軍が内容を確認の上で署名捺印して僧侶代表に発給してそれを被任命者に授与した)で発給されるのが通例であった。
> また、室町時代中期以後には実際には居住していない僧侶に対して名誉職の意味を持った住持職任命を目的とした公文(公帖)が発給される場合があった。
>これを「坐公文(いなりのくもん)」と呼ばれた。
> このような公文(公帖)の発給のために献上された礼銭が室町幕府の重要な財政収入になったのみでなく、
>織田信長によって京都を追放された足利義昭の追放中の活動資金にもなったと言われている
>(「五山十刹」の住持の任免権は室町幕府ではなく、足利将軍個人にあると考えられていたため)。
>なお、鎌倉五山などの関東の寺院に関する公文(公帖)は鎌倉府に発給権があり、地方の寺院については現地の守護が将軍の代理として発給した例も存在している。
> その後、足利義昭の出家による引退後は代わって豊臣政権や江戸幕府が公文(公帖)が発給している。
>江戸幕府は五山十刹諸山之諸法度を出して蔭涼職を廃して鹿苑僧録に替わって金地院僧録を設置し、
>「秉払なしに公帖を発行してはならない」などの厳しい資格制限を付けた。
>ただし、東福寺は九条家・一条家のいずれかが、天竜寺・大徳寺・南禅寺などは院宣や綸旨によって出される事もあった。
0381ニンティ奴隷王朝 ◆oC8dXgsJP6IK
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2022/11/06(日) 20:47:11.89ID:xFOR2KU70
鎌倉殿#42

「私だよ、上皇様だよ」北条に惑わされるな
(上に)ひくわー......w
義時に異を唱えられるのは泰時のみ

将軍家領の年貢は儀礼に使うので減らしにくい→場所と時期を分けて減らす
太郎、言い返した!
二階堂「名乗ってしまおうよぉ!」w

「(鎌倉殿が)暑そうだったら扇いであげてください」なお煽られるのは尼御台
調べの早い執権「いいんですよ、色々試してみて、不具合があれば別の手を試してみればいい」なお万全だったのは泰時くらいでは...?
周りがしっかりしろ、そりゃそうよ
聖徳太子(肖像出演)
あの陳和卿が泣く、前世では何とか山の長老だったことにされる実朝w
夢日記、そういうのもあるか
「宋へ行き、交易を行うのです」ここ黄金の日日OPテーマで!(早いわ)
足を悪くしても見舞いに行きにくい時政「...太郎に行かせよう」

鈴木京香の老け演技いいね、死んだ子を思い返すのは甘え
「人並みの人生など、望んではなりませぬ」「何の為に生まれたのか、何の為に辛い思いをするのか、何れ分かる時が来ます、いずれ」
仲章が夢日記をカンニングして信任を得た...? 西の御方の思惑なら坂東のためにならない
設計図は木板に、巻き物だと不便か

「北条など取るに足らないゴミムシ」なお戦績
「人が最も恐れるものは最も似た者」
帆は筵で作る(堅い)か、竹で編む(重くて頑丈)か、なお最近は繊維強化プラスチック製がある模様

硫黄山の舎利がほしい実朝、千世も泰時も連れていきたい欲張りセット
「生き急ぐことはない、ゆっくりと時をかけて立派な鎌倉殿になればよいのです」その時間がな
船には作った者たちの名を記す、これは鎌倉殿個人のものではない
逃げるな尼御台

丸太のコロで海に出す方法は応用すれば城郭の基礎補修時にも使える
「まだお若いではないか(※70過ぎです)」
あー、穴を開けるんじゃなくて設計図で重量増大させたか「全く動かないではないですか(棒)」
八田、脱いだ「死ぬ気で引けぇー!」マルタオレタ 平六も脱いだ
浜辺で朽ち果てた船...(※後に泰時が交易用の和賀江島を造りました)

「大事(おおごと)」「大御所である」九条頼経キターッ(※2001年には鴻上会長が演じました)
北条ハブられてやんの...
仲章スマイル「腹の立つ顔だ」 朝時は公暁を知らないのか

やめてくれエバン・コール、その家路は泣ける
りくには逃げられたのか...
「力を持つってのは、しんどいなぁ」いや新しい女いて草

いやぁ、今週の剣客商売もよかったなぁ(錯乱)
0382ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/07(月) 10:35:00.24ID:Zbl7hfzK0
昔から「男と女、ふたつのセックスしかないわ」だよなぁ

鳴神
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E7%A5%9E
> 世継ぎのない天皇からの依頼をうけて、鳴神上人(なるかみしょうにん)は戒壇建立を約束に皇子誕生の願をかけ、見事これを成就させる。
>しかし当の天皇が戒壇建立の約束を反故にしたため、怒った上人は呪術を用いて、雨を降らす竜神を滝壷(志明院)に封印してしまう。
>それからというもの雨の降らぬ日が続き、やがて国中が旱魃に襲われ、民百姓は困りはててしまった。
> そこで朝廷では女色をもって上人の呪術を破ろうと、内裏一の美女・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を上人の許に送り込む。
>姫の色仕掛けにはさすがの上人も抗しきれず、思わずその身体に触れたが最後、とうとう戒律を犯し、さらには酒に酔いつぶれて眠ってしまう。
>その隙を見計って姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け、竜神がそこから飛び出すと
>一天にわかにかき曇ってやがて豪雨となり、姫はその場を逃げ去る。
>雨の音に飛び起きた上人はやっと騙されたことに気づき烈火のごとく怒り、
>髪は逆立ち着ている物は炎となって姫を逃さじと、その後を追いかける。

オマケ
水かけ祭りとしても知られるタイ旧正月のお祭り「ソンクラーン」(※ゴーグル、防水バッグ推奨)
https://www.thailandtravel.or.jp/thai-festival-01/
> 太陽の軌道が12ヶ月の周期を終え、新たに白羊宮(おひつじ座)に入る時期を祝う伝統行事です。
>もともとは、仏像や仏塔、さらに年長者などの手に水を掛けてお清めをするという伝統的な風習が受け継がれて来たソンクラーン。
>一年で最も気温の上がる季節の、暑さしのぎとしても親しまれてきました。
> 近年はそれが転じて、街で通行人同士が水をかけあって楽しむ「水掛け祭り」として知られるようになり、
>バンコクはもちろん、各地で独自のイベントが開催され、これを目当てに多くの旅行者がタイを訪れるようになりました。
(中略) 象と水掛け合戦を楽しめるのが、世界遺産の街、アユタヤ。旧市街のエレファント・キャンプや象柵跡では、長い鼻から放水する象と一緒に、水遊びができます。
>街の中心では、美を競い合う「ミス・ソンクラーン」のコンテストや、
>民族衣装で華やかに着飾った人々がパレードをして回るイベントなどが開催され、訪れる人を魅了します。
(中略) チェンマイではソンクラーンのことを「サリー・ピーマイ・ムアン」と呼び、
>托鉢する僧侶に食べ物を献上したり、持参した砂で寺院の境内にパゴダを作り、出来映えを競い合ったりと、伝統的な仏教儀式が行われます。
> 他にも、チェンマイの守護神とされる仏像「プラ・ブッタシヒン」に水をかけようと市民が集まり、市街地は大賑わい。伝統舞踊や文芸芸術の上演もお祭りムードを盛り上げます。
>派手な水かけ合戦に参加するなら、毎年大勢の人々で賑わう、旧市街地のお堀周辺に繰り出してみてはいかがでしょうか。

ギリメカラ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%83%A1%E3%82%AB%E3%83%A9
> 仏教における魔王マーラが乗る乗獣とされる。身長が150リーグとも250ヨージャナとも言われている。
>説話ではいつもギリメカラは仏陀の前でこけてひざまづきマーラの前で失態をしでかす象である。
0383ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/11(金) 10:06:46.17ID:zt3RSEaY0
何も考えない、といことが考えられない今日この頃

ヴィパッサナー瞑想
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3
> ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、
>仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想(バーヴァナー)である。
>アメリカでは仏教色を排した実践もあり、インサイトメディテーションとも呼ばれる。
>ヴィパッサナー(巴: vipassanā, ウィパッサナーとも)は「観察する」を意味する。
>また、ヴィパッサナー(巴: vi-passanā)とは「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味である。
> 仏教において瞑想(漢訳「止観」)を、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方がある。サマタ瞑想は精神集中であり、高ぶった心を鎮める手段でもある。
>ヴィパッサナー瞑想は洞察(智慧)であり、沈み込んだ心を活気づける手段でもある。
>通常、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想はペアで修習される。
>ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想は包摂概念でもあり、様々な瞑想状態もしくは瞑想法は、このどちらかか、あるいは両方に含まれる。
(中略) スリランカ・東南アジアの上座仏教では、止は普通のお寺に住んでいる比丘たちが行う瞑想法で、心を鎮めるものであり、
>観は止よりずっと高度であり、諸行無常・諸法無我・一切皆苦という仏教的真理を洞察して、涅槃寂静に達しようとするものであるとされている。
>これは伝統的に、森林にこもって瞑想に専念する森林僧が行うものである。

サマタ瞑想
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%BF%E7%9E%91%E6%83%B3
> こころを特定の対象に結びつけて集中力を養う瞑想である。
>サマタ(巴: samatha)、シャマタ(梵: śamatha)、奢摩他とは、ひとつの対象に心を落ち着かせることを意味する仏教用語であり、止と漢訳される。
> 上座部仏教では業処と呼ばれる瞑想対象が40種類ある。
>現在、欧米で広まっているヴィパッサナー瞑想(観行)の一類である、上座部仏教のマハーシの文脈における瞑想では、準備段階としてサマタ(止)の一種である慈悲の瞑想が行なわれる。
>最も一般によく使われるサマタは呼吸を対照する安那般那念(別名アーナーパーナ・サティ)である。
> 元来の上座部仏教では、ヴィパッサナー瞑想の前の段階として集中力を強化するためにサマタ瞑想が行われるが、
>現代ではサマタ瞑想を簡略化して初めからヴィパッサナー瞑想に入る方式が広く行われている。

安那般那念(アーナパーナ瞑想)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%82%A3%E8%88%AC%E9%82%A3%E5%BF%B5
> ānāpāna(アーナーパーナ)とは、āna(アーナ)とapāna(アパーナ)の合成語であり、āna(アーナ)は入息を、apāna(アパーナ)は出息を意味する。
>また、sati(サティ)やsmṛti(スムリティ)は、念(意識していること)を意味する。
>合わせて、ānāpāna-sati(アーナーパーナ・サティ)、ānāpāna-smṛti(アーナーパーナ・スムリティ)とは、
>入出息(呼吸)を意識すること(あるいは、呼吸を数えること)を意味し、上記のような音訳・意訳も含む、様々な漢訳語が生み出され、使用されている。
0384ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/11(金) 10:23:17.88ID:zt3RSEaY0
モンゴルも変わっていくよ

発電所からお湯がくる!モンゴルを街ごとあたためるセントラルヒーティング
https://dailyportalz.jp/kiji/ulan_bator-central-heating
> ウランバートルの場合は、市内にある4つの発電所でつくられた熱水が暖房に使われている。
>街じゅうに配管が通っていて、そこに熱いお湯を送ることでアパートやテナントビルを温めているのだ。
> 温水の供給が行われるのは、毎年9月15日から5月15日と決まっている。気温に関係なく、とにかくこの日程のとおりに暖房がスタートするらしい。
>そのため、セントラルヒーティングがスタートした直後、まだ気温が高い昼間にカフェに入ると、冷房が入っていることもあった。
>合理的なシステムには、いくらかの非合理が含まれているのだ。
> ちなみに便利なことに、各部屋に設置されたヒーターに靴下などを干すと、一晩で乾く。
>モンゴルで一般的な使い方なのかは知らないけど、旅行者としてはうれしいポイントだ。
>ストーブで同じことをしたら火事になってしまうかもしれないが、このヒーターはお湯が通っているだけだから安全だ。

海がないモンゴルで史上初となる「魚の養殖」
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/200477
> この国で、史上初となる魚の養殖が始まっています。これが、その魚。ハタ科の「海水魚」です。
>岡山理科大学工学部 山本俊政 准教授「良く育ったな。これ、日本から来たんだから、日本から」
>モンゴルの首都、ウランバートル。プロジェクトは3年前の2019年に始まりました。
>水槽に満たされているのは陸上での「海水魚」の養殖を可能にする特殊な水です。岡山理科大学のチームが2005年に技術を確立しました。
>真水に微量のナトリウムやカリウムなどを混ぜた淡水魚と海水魚が共存できる「好適環境水」です。
(中略) 岡山理科大学工学部 山本俊政 准教授
>「天然の資源は先細りしているのは間違いない。そういう中で人口は70億から100億にも達する。
> このようにモンゴルでも生産ができるというのは、これからの大きな強みになる」

モンゴル音楽と聞くと伝統的なイメージを思い浮かべるが、現代のモンゴル音楽は完全にイメージをちゃぶ台返ししてくる
https://togetter.com/li/1957985
>馬頭琴とメタルが融合してる。
>匈奴ロックらしい
>The HuだろうなとおもったらThe Huだった
>エレキ馬頭琴が普通に見えてきました。
https://pbs.twimg.com/media/FYeM34yVsAAiWrk.jpg:medium
0386ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/11(金) 17:38:37.00ID:zt3RSEaY0
オマケ
バルダンギーン・ツェベクマさん(モンゴル日本文化交流促進「アリアンス」協会顧問)15日、病気のためウランバートル市内の自宅で死去、79歳。
http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20040315000358
> 1924年ロシアのバイカル湖近くで生まれ、現在の中国・内モンゴル自治区ハイラルで育ち日本語を学ぶ。
>59年に中国を脱出し、娘とモンゴルに亡命。
>作家の故司馬遼太郎さんと親交が深く、同氏の著作「草原の記」の主人公モデルとして知られる。
>自らの半生を描いた「星の草原に帰らん」を日本で出版、99年に勲五等宝冠章を受章した。

シリーズ 中国・天涯の地「アルタイの麓 自然の詩」
https://www4.nhk.or.jp/P6047/x/2022-02-17/48/20261/3154177/
> 中国、ロシア、モンゴルにまたがるアルタイ山脈。
>神秘の国境地帯の絶景、ラクダの乳しぼりや世界最古といわれるスキー!
>北京テレビとNHKの共同制作による8K絶景を堪能
> 幻想的な雪原の霧!中国のアルタイ山脈の絶景だ。
>ロシア、カザフスタン、モンゴルにまたがる山脈のふもとに続く原生林と草原。
>羊の遊牧を営むトゥバ族の暮らしは森と共にある。
>風から羊を守るため丸太小屋のすき間には森で集めた「コケ」が。
>海外TVが容易には入れない国境地帯を北京テレビとNHKの国際共同制作チームが撮影。
>「草原独特の墓」「ラクダの乳しぼり」「世界最古という伝統のスキー」8K超高精細映像で満喫!
0387ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/11(金) 17:52:26.84ID:zt3RSEaY0
どーもトゥバ紀行に見た現地民の印象とは違う......ロマンだね

まだ見ぬロシアへ vol. 6 ~トゥヴァの≪王家の谷≫~
https://russia.co.jp/wordpress/info/valley-of-the-kings-of-tuva/
> トゥラン-ウユク渓谷の総面積は約13万ヘクタールに及び、この地には千近い数のクルガンがあります。
>クルガンとは、北方ユーラシアの草原地帯に分布する盛り土または積み石のある埋葬塚のことで、この内のいくつかは直径100m以上、高さは5mにもなります。
>通常、クルガンは列を成していて、そこに埋葬されている人物との血縁関係を表わしていると考えられています。
>特に渓谷の奥まった所、尾根(クルトゥシビンスキー、ウユクスキー)が交差する場所に多く見られ、青銅・鉄器時代の紀元前1000年期の考古学的遺跡が存在しています。
> クルガンは、スキタイ文化の源流として考えられている古代遊牧民族に於ける上流階級の埋葬例として、とても貴重な価値を有しています。
>また、≪王家の谷≫には埋葬塚だけではなく岩絵もあり、埋葬や儀式に使われていて、今日まで続く3000年に渡る崇拝の対象となりました。
>この事から、2021年11月30日に世界遺産暫定リストに登録されました。
(中略) アルジャン1号クルガンには、5000本ものカラマツの丸太を使用した木製構造物が石の基壇の下に隠されていました。
>木製構造物は、クルガンの中央周辺より放射状に配置された長方形と正方形の形をした100以上の小部屋で構成されていて、全体として車輪の様なイメージとなっています。
>小部屋は丸太を井桁に積んでおり、槨室(遺骸を納める棺が直接土に触れぬように棺の周りを囲む木の外箱)と考えられています。
>この様な配列にある塚は世界で2つだけが知られており、いずれともここトゥヴァの≪王家の谷≫に存在します。
> 紀元前7世紀後半と推定されるアルジャン2号クルガンは、盗掘被害にあっておらず、その調査は世界的な注目を浴びました。
>中心に2つの偽の玄室を設けることで、略奪者の目をそらすことに成功したのです。
>発掘調査が開始される前、クルガンには、直径75~80m・高さ1.5~2mになる堤を有し、黒い石を用いた基壇がありました。
> 実際の玄室は中心から20m程離れた場所に設けられており、中からは大量の高品質な黄金装飾と共に、2名(王と王妃)の埋葬が確認されました。
>また、16名の殉死者が埋葬されており、王妃と共に死後の世界で王に仕える為に殺されたものと考えられています。
>王は40~45歳前後で身長167~175cm程度、王妃は30~35歳前後で身長160cm程度と推定されます。
>王は黄金のトルク(ネックスレスの一種)を身に着け、2,500もの黄金のパンサーを装飾した上衣をまとい、
>黄金をちりばめた短剣をベルトに差し、黄金のビーズで縫われたズボンに黄金のカフ付きブーツを履いていました。
>王妃も黄金のパンサーを装飾した赤いマントをはおい、黄金の櫛などを身に着けていました。
>同じく数千ものビーズが発見されており、その内の400以上はバルト海産の琥珀が使われていました。
0388ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/12(土) 10:45:13.64ID:MfkUNAud0
大河の時代が聖徳太子ブームだったということで

聖徳太子は観音様の化身?小学生でも楽しめる太子像のポイントを徹底解説!
https://intojapanwaraku.com/culture/160882/
>「法隆寺、冠位十二階・・・どっかで見た。あ、図書室のサバイバルとかタイムワープ※1の飛鳥時代のやつで読んだわ。妹子(小野妹子)の上司の厩戸皇子じゃね?」と、さらなる返事が。
>「厩戸皇子が聖徳太子だよ」と伝えると、え? と驚いた表情をみせた。なんと、厩戸皇子と聖徳太子があまり繋がっていなかったのだ。
>ちなみに、法隆寺でなにが一番おもしろかったか? を訊いたところ、「赤ちゃんの像。〇〇ちゃん(R君の2歳の弟)みたいだったから。あと世界一古い木の建物」との回答があった。
※1 朝日新聞出版の歴史漫画タイムワープシリーズ『飛鳥時代へタイムワープ  歴史漫画タイムワープシリーズ 通史編3』のこと
> では、R君が興味を持った「赤ちゃんの像」とは、一体なんであろうか? その前に、奈良国立博物館内でR君より「お母さん、仏像がすごくいっぱいあるけど、なんで?」との質問が飛び出した。
>母(筆者):聖徳太子は、仏教をすごく大事にして信仰したの。で、政治家として、仏教中心の国づくりに取り組んだのよ。ちなみに用明天皇の息子(第二皇子)ね。
>それで、仏教を広めるために法隆寺などのお寺を建てたわけ。
>だから(会場内には)、約1400年前の聖徳太子が生きた時代(飛鳥時代)の仏像がいっぱいあるの。
>そして、法隆寺(その他の太子ゆかりのお寺も)では、今でもお釈迦様と同じくらい聖徳太子を大事にしていているの。
>聖徳太子は観音様が姿を変えたとして信仰されているんだよ
(中略) ちなみに、太子の岡本宮を息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が
>寺院に改めた法起寺(ほうきじ/奈良県生駒郡斑鳩町)の「聖徳太子像(二歳像)」は、
>X線CTスキャン調査の結果、左掌中に数粒の舎利になぞらえた品が納入されていることが判明している。
>R君:え? 手ひらにお釈迦様の骨みたいなのを埋めてんの! マジ? レントゲン(X線CTスキャン)すげー
(伝七歳像) こちらは、太子の命日3月22日(旧暦の2月22日)に法隆寺で行われる聖霊会(しょうりょうえ)で、輿(輦/れん)に乗り、寺内を練り歩く像だ。
>もともとは法隆寺東院伽藍の絵殿に安置されていた像で、髪を古代の子ども髪形である角髪(みずら)に結った少年の姿だ。
(中略) 母:先生、聖霊会の太子像は、なぜ童形(子どもの姿)をしているのでしょうか?
>山口先生:うーん、それはやっぱり、子どもには昔から特別な力があると信じられてきましたので、
>童形で造るというのは、太子の特別な力を意識したのではないかなと思います
>母:なるほど、太子の特別な力を意識ですか。R君、特別な力を感じる?
>R君:なんか、肌が白いし、像だけど生きている子っぽく見えてきたかも・・・
>会場内には、聖霊会で10年に一度行われる法要「大会式(だいえしき)」の際、この像(聖徳太子坐像(伝七歳像))が乗る「聖皇神輿(しょうこうみこし)」の展示もあった。
>R君:なんで、この太子は御神輿に乗るの?
>山口先生:神輿に乗ってやってくるというのは、実際に肉体をもった生身(なまみ)の太子そのもの。
>研究の世界では生身(しょうじん)というのですが、おそらく生身の太子であることを見ている人達に実感させる効果があったのだと思いますよ
>母:R君、太子が信仰として、今も生きているってことを感じてもらうためなのかもね
(中略) この太子像の像内には、法華(ほけ)経、維摩(ゆいま)経、勝鬘(しょうまん)経の三つの経を納めた
>三連筒形の容器の上に亀の背にそびえる蓬莱山(ほうらいさん)をあらわし、山頂に観音菩薩像が安置されているものが納入されている。
>なんと、観音像の顔がちょうど太子の口の高さになるよう設計されているというのだから驚きだ。
0389ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/13(日) 18:44:20.86ID:+xlQyYhq0
鎌倉殿#43

こゥ暁、戻ってきた... 43年前よりクールかも
ダークさと好青年が混ざってそうだ

善哉と比企尼(最強のBBA)の回想あるのか
もっとも鎌倉殿にふさわしい者は 一体誰なのか

「剣の腕も天下無双」大江といいお前ら坂東フレンズってワイルド過ぎる...
「しかも、女子で問題を起こすことはない、坊さんだからな」w

これでは三浦も可哀想だ
「後を継がせるべきではない」これも一理あるとは思うが、西のヤツらはなぁ
覚悟を決めれば還俗してもいい、それは室町以降や...

「軽はずみに話すことはないはず」ダメでしたw
坊主を相談役にするのは室町・江戸でもあるね
「京へ帰る!」いっそ帰してやれ

世話役の稚児...灌頂(やめないかw)
実衣は時元将軍就任を諦めてないのか
大江殿失明、一途だね 腰の悪い三善殿...

「勝手に八幡宮を出ては」「私は別当だ、何が悪い」これは頼家の子
評議で話がすんなり纏まったことはない「御先代御先代、何故頼家様と言わない、含みでもあるのか?」
まぁ親王様となれば三法師以上のジョーカーだよね、義時義村を黙らせたよ羽林が
雅子×兼子で売りたい大江殿(誤解を生む表現)

諦めの悪い男、いや犬なのか、平六
この世アレルギーから都アレルギーに耐性をつけたトキューサ
兼子のブレーンは慈円、政子のブレーンは大江
「たまには、汚れたものを口にされるのも美味しゅうございますよ」実際宮中の食事なんざ栄養ksだからな...バンバン献上したれ
0390ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/13(日) 18:44:31.93ID:+xlQyYhq0
親王様を鎌倉に送るのは怖い......なんと...良識的な不安視だ...
目に入れても痛くない子には即位の資格がない、では鎌倉殿になっていただいては?

蹴鞠で知り合う仲、そうか天皇(冠)じゃなくて上皇(烏帽子)だから外見では分かりにくいか
「何れまた、勝負しようぞ......トキューサ(はぁと)」 ジャンルは戦で?
おお兼子様を口説いたw 東大寺の大仏様に似ている、という褒め言葉(某檜山さんは絶世の美男子?)

太郎は讃岐守...「恐れ多い」「息子はまだまだ若輩」
そうか仲章が関白ってセンもあるのか、不味いな!
そりゃ小四郎は伊豆に落ち着きたいだろうが...「私が執権になろうかな」死ぬ気かw

朝時またかよw (よもぎ→ちぐさ)
「お前なら、私が目指していてなれなかった者になれる」「源仲章の好きにさせるな、借りを作るな」
ちゃんと息子の心をつなぎ止めた小四郎

姉がいないだけでウキウキの実衣w
こゥ暁...粘り強い子になって... 「思い...出した...!」
平六、焚き付ける流れはわざとらしいけど6歳の子供(一幡)が殺された件には感情がこもってたかも

ジュサンミ☆帰還

左大将の拝賀式、そして右大臣か 何処ぞのヤボテン提督「私も早期退職したい」
キャー、こゥ暁も下見してるよ...

髪伸びたこゥ暁がエロかった、これは僧侶枠
0392ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/19(土) 10:59:30.13ID:y82VIXr00
今年は紅白を見ない人が多いらしい
理由はまぁ、何となく

赤軍スレとしては新しいSSで赤入道vs黒衣の宰相vs白白教くらいやるべきか()
0393ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/20(日) 13:39:35.91ID:ZSToJIxi0
馬にまつわる事を幾つか

馬喰(ばくろう)、伯楽(はくらく)、博労(ばくろう)とも
https://kotobank.jp/word/%E9%A6%AC%E5%96%B0-1391347
> 伯楽は古代中国では馬相(ばそう)をみる者をさしていたが、日本では馬薬師(うまくすし)(馬医)もこうよんだ。
> 13世紀には馬医のほか牛の牛医(くすし)も現れた。16世紀に入ると、馬喰とは馬・牛の売買・仲介をする商人をいうこととなった。
>京都や鎌倉には伯楽座があり、また、都市周辺で馬市や牛市が開かれ数多くの馬牛商人の伯楽が集まった。
>馬・牛の需要はまだ特定の階層に限られていたが、17世紀からは駄送・耕作などに使役することが庶民の間にも広まるにつれて、
>各地の産地や市場町・宿場町に博労(馬喰)が生まれ、城下町などには馬喰の集住する馬喰町や、旅商人としての馬喰の宿泊する馬喰宿などができた。
>馬喰の多くは藩から鑑札を与えられていた。

馬廻
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%BB%BB#:~:text=%E9%A6%AC%E5%BB%BB%EF%BC%88%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%BE%E3%82%8F%E3%82%8A%EF%BC%89%E3%81%AF,%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
> 騎馬の武士で、大将の馬の周囲(廻り)に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制のひとつ。
>平時にも大名の護衛となり、事務の取次ぎなど大名の側近として吏僚的な職務を果たすこともあった。
>武芸に秀でたものが集められたエリートであり、親衛隊的な存在であったとされる。
(戦国時代) 信長の馬廻・小姓の精鋭は、赤・黒二色の母衣衆に抜擢された。
>初期の馬廻の中から、塙直政、佐々成政、簗田広正、河尻秀隆のように、部隊の指揮官を経て国持大名に昇進した者もいる。
(江戸時代) なお、諸藩の中には馬廻を異なる名称で呼ぶ藩もあり、長州藩及び越後長岡藩では『大組』と呼称していた。

謎だった家畜ウマの起源、ついに特定
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/102200520/?ST=m_news
> アナトリア半島(小アジア)、イベリア半島、ユーラシア大陸のステップ地帯西部という3つの地域のいずれかが家畜ウマのルーツとして有望視され論議されてきたが、
>今回の発見で、その起源は、ユーラシアステップ地帯西部(ボルガ・ドン地方)だという有力な証拠が得られた。
> 現在のボルガ・ドン運河周辺に住んでいた古代の人々は家畜用のウマを繁殖させると、ウマとともに新天地へと移動を始めた。
>こうして短期間で、この系統のウマは西ヨーロッパから東アジア以遠まで広がったと考えられている。
>「とても短い期間で移動したと考えています」とオーランド氏は言う。
>「数千年をかけて広がったのではありません」。オーランド氏の論文は、2021年10月20日付で「ネイチャー」誌に発表された。
0394ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/20(日) 18:45:04.66ID:ZSToJIxi0
鎌倉殿#44

出た、白い犬w (本スレではまた北大路欣也かと言われてた)
久々の運慶、(対になる像がまだ来ないので)朝時はともかく尼御台もポーズ取るのかw
「俺が絵を描いて作るのは弟子たち!」

すっかりヴィジュアル系になった公暁、胤義ノリノリw
全ては明日じゃ

OPで実朝と公暁が連名に...
運命は神仏の前で交錯しようとしている(※当時の鶴岡八幡宮は神社と寺院を兼ねた)

ここで八幡大菩薩(右大臣任官の御礼を申し上げる)、太平記に続く!
のえと仲章すっかり仲良しに、でも小四郎にバレる、駒若丸が公暁に蓑を渡す、でも小四郎にバレる
小四郎、平六の嘘の付き方が分かるようになったw

御所を西に、六波羅に、あはははは
命運尽きた...
頼家は公的に病死なんだ
「人の上に立ちたい」シンプル過ぎて草
「お前には無理だ」「血で穢れた誰かより、余程ふさわしい」

望んだ鎌倉は頼朝臨終と共に終わった...
晴れ舞台にも当然赤装束! 一途よの
式典に御家人だけ出すというのはアリなのか
「三浦殿のために出立が遅れた」お年寄りと譲り合っちゃったから...
800数年前の鎌倉は雪、北海道にはリアタイで地震とか不吉すぎる
0395ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/20(日) 18:45:17.61ID:ZSToJIxi0
そりゃ母は不安であろう
鎌倉殿をお支えする、天から与えられた道、では母上の道とは... うわぁ三浦くんアウト(後の宝治合戦)
実朝、これでは守ってもらえないぞ

おお、義村も時房も狩衣仕様、義時に至っては衣冠束帯の何れかときた
「鎌倉殿には愛想が尽きた」成程、修羅の道だ
今年は生き返ったことすら知らなかった実朝
ここで蒸し返される比企、テンションどん底にて候
政治家として結局無能だけど優しい人ではあった

「貴方が憎いのではない」おおっ
ちょちょちょちょちょ...
「...騙されるものか」あれまぁ トヨエツ「ぶっ○す」
大江殿が不憫でなりませぬ

仲章くんCome In. 「必ず吐かせてみせる」 雑色を使うとこまでバレてたとは
右大臣、そして源氏将軍の終わり...
閉じる門、拝賀式
※現在のイチョウは10年前に折れて再生中
尼御台、来ちゃった

まさかのクリフハンガー
0396ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/23(水) 13:29:48.67ID:Ev8ImEGL0
まぁ、何処の国でも色で見分けるのが一番簡潔よ

僧侶が身に着けている袈裟の色に意味はあるの?僧侶の位によって衣の色が違う?
https://takimotobukkodo.co.jp/column/%E5%83%A7%E4%BE%B6%E3%81%8C%E8%BA%AB%E3%81%AB%E7%9D%80%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E8%A2%88%E8%A3%9F%E3%81%AE%E8%89%B2%E3%81%AB%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%EF%BC%9F
> まず初めに多くの人が「袈裟」と呼んでいる装いですが、実際は袈裟+法衣(ほうえ)と呼ばれる袈裟の下に身に着ける衣のことで、
>法衣の色は僧階や僧位と呼ばれる僧侶の階級によって異なってきます。
> 袈裟に関しては色による違いはなく、身に着ける法衣の色に合わせて本人が選んでいるとのこと。
>いわば個人のセンスということになります。
> 僧侶の服装はもともと、インドの僧侶が身に着けていた○掃衣(ふんぞうえ)と呼ばれる使い道のなくなったぼろ布を縫い合わせて作られたものに由来します。(くわしくは袈裟を参照)
>その時に在家信者と区別するために衣の色が定められられました。
>この時に基本となった色が壊色(えじき)と呼ばれる草木や金属の錆を使って染められ、黄土色や青黒色のような色をしていました。
> これが、仏教が中国を経て日本に伝わる過程でそれぞれの国の文化や気候とともに法衣の色も変わっていきます。
>日本の法衣は大きく、
>律衣(りつえ:奈良時代の法衣)・
>教衣(きょうえ:平安時代にできた法衣)・
>禅衣(ぜんえ:鎌倉時代にできた法衣)の三つに大きく分けることができます。
>また、日本では推古天皇によって制定された「冠位十二階制度」以降、地位によって色分けがされ、国によって規定された色が重要なものとなります。
>現在の各宗派では、緋色(ひいろ:黄色がかった濃い赤色)や紫色を上位の色と定めていることが多く、
>緋色や紫色の法衣は最上位の僧侶のみが身に着けることができます。

オマケ
しげ‐どう【▽重×籐/▽滋×籐】
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8D%E7%B1%90-518399#:~:text=%E3%80%8A%E3%80%8C%E3%81%97%E3%81%92%E3%81%A8%E3%81%86%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%82%82%E3%80%8B,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
> 《「しげとう」とも》弓の束つかを黒漆塗りにし、その上を籐で強く巻いたもの。
>大将などの持つ弓で、籐の巻き方などによって多くの種類がある。
>正式には握り下に28か所、握り上に36か所巻く。

きり‐まと【切的】
https://kotobank.jp/word/%E5%88%87%E7%9A%84-2030226
> 射芸で用いる的の一種。鉋(かんな)をかけた板を四半、すなわち二寸(約六センチメートル)四方に切り、木でつくった串に斜(はす)にとりつけ、地にさしたもの。
>串の長さには諸説あり、一尺(約三〇センチメートル)とも〔射初之巻〕、八寸(約二四センチメートル)とも〔弓矢百問答〕いわれる。
0397ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/24(木) 18:06:04.08ID:jyfUZqlJ0
仏具やそれに由来するようなもので数点

岩谷堂箪笥
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E8%B0%B7%E5%A0%82%E7%AE%AA%E7%AC%A5
> 岩谷堂家具の起源は平泉が栄えていた頃の康和年間、藤原清衡が平泉に居を移すまでの約30年間、江刺郡豊田館を本拠地とし、産業奨励に力を注いだ時代にさかのぼると伝えられている。
>江戸時代の中期天明時代に岩谷堂城主、伊達村将が家臣の三品茂左右衛門に箪笥を作らせた。文政年間には、徳兵衛という鍛冶職人が彫金金具を考案した。
>江戸時代には仙台藩の政策により、特産の馬市が振興され多数の他国人が出入りし、他の産物同様岩谷堂箪笥の製作が盛んになった。

団茶
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%8C%B6
> 蒸した茶葉を臼で搗いて固めて作られる固形茶。紅茶・緑茶などを煉瓦状に固形化してで作られるものは磚茶(たんちゃ)とも呼ばれる。
>その形状は円形に限らず、球形・半球系・方形・中央に穴の空いた銭団茶など様々である。
> 唐代の陸羽が著した『茶経』によれば、南北朝時代には蒸した茶葉を杵と臼で搗き、米膏(のり)と練り合わせて餅状に固める製茶法が存在したという。
>陸羽の時代の製茶法も基本的には変わらず、当時団茶は「餅茶」と呼ばれていた。
>餅茶は茶の保存性を高めるための方法であり、薬研と同系の臼で粉砕して抹茶にし、塩を加え、肉桂や生姜などの香草を混ぜて香り付けして飲まれた。茶史ではこの喫茶法を「団茶法」と呼んでいる。
(中略) 明代に入り、初代皇帝の朱元璋は宋・元朝と続いた宮廷専用の龍鳳茶を、民力の浪費として廃止した。これを契機として団茶と抹茶は中国茶史上では一旦衰退した。
>団茶は専ら輸出用の茶として生産されるようになり、辺境の人々が飲む茶という意味で「辺茶」とも呼ばれた。
>清代には発酵・半発酵茶が作られる様になり、黒茶系のプーアル緊圧茶や、
>紅茶や緑茶を加工した磚茶と呼ばれる方形の団茶がチベットやモンゴルなど各地に輸出され、独特な喫茶文化を育み現在に至っている。

ブート・ジョロキア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AD%E3%82%AD%E3%82%A2
> 原産地のアッサム語でজলকীয়া(ジョロキア)は唐辛子の実、ভোট-জলকীয়া(ブット・ジョロキアまたはボット・ジョロキア)は「チベット唐辛子」を意味する。
>ভোট(ブットまたはボット「チベット人、ブータン人」)とアッサム語では発音が母音だけの違いとなり、同じくBhutとアルファベット表記されるভূত(ブットまたはブート)が
>「幽霊」を意味していることから英語で「ghost chili」または「ghost pepper」と呼ばれることもある。
(利用) 産地では香辛料として用いる他、生食することもある。薬用としては胃の不調を整えたり、発汗を促して夏の暑さを乗り切るために用いられる。
>北東インドでは、畑や民家を荒らす野生のアジアゾウを撃退するためにすり潰して柵に塗ったり、対ゾウ用のトウガラシ発煙筒を開発する試みがなされている。

香合
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%90%88
> 茶事において茶室に香を焚くのであるが、その香をいれておく器が香合である。
>その香合は茶事において重要な存在であり、炭点前のときに客は亭主に所望して香合を拝見する。
>香合の中には香を3個入れておき、その内2個を炭の近くに落とし入れ、薫じさせ、残り1個はそのまま拝見に回すことが多い。
>茶道具全般に共通することではあるが、風炉の場合と炉の場合などその茶席に応じて、香とともに香合も使い分けることが多い。
(仏具として) 一般に焼香、抹香を入れる。また塗香入れにも用いる。
0398ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/24(木) 18:15:17.94ID:jyfUZqlJ0
ブルハニズムについて
https://mobile.twitter.com/historian_nomad/status/1248750789666856960
> 帝政ロシア「このへんのひとらはアルタイ人やな」
>(現)アルタイ人「わしらはオイロトやで」
>「ハカスやトゥバと一緒にオイロト共和国(大オイロチア)を作るんや!」
>「シャマニズム捨てて新しい信仰にはいるで!ブルハニズムや!白いブルハンもしくはオイロト・ハンを待つで!」
>ロシア官憲「ちょっときみらなにしてんの、解散!解散!」
>アルタイ人「うるせえ!お前らに用はないねん!オイロト・ジャポン(=日本)が現れたんや!」
>「ジャポン・ハン(日本の天皇)はよきてくれー!」
>ロシア人農民「やべえ…やべえよ…(武装し始める)」
>※日本はなにもしてません

トゥバ紀行(メンヒェン)だと...
> 一九〇四年の春 ーー それは日露戦争のころであったが ーー チェトチェル・パンというアルタイ人が新しい教えを説いてまわった。
>白馬にまたがった男が現れて、自分のもとに一つのお告げをもたらした。
>人間はこれからは動物の血を食してはならず、幼畜を生けにえにしてはならず、キリスト教徒と同じ食器から食べてはならず、ロシア人と睦(むつ)み合ってはならないと。
>諸君はすべての武器と火薬を廃棄せよ。諸君は自分を解放する必要はない。オイラト・ハーンが助けに来てくれるだろうから。
>諸君の子孫はアルタイの君主になるだろう。シャマンの太鼓はすべて燃やしてしまえ。新しい教えは上天の善なる神々であるボルハンたちを拝むように命じていると。
> この運動はロシア人によって暴力的に禁圧された。指導者たちは逮捕され、殴られ、投獄された。ロシア人の植民者たちはこのチャンスに付け込んで一大略奪行を敢行し、奪いつくした。
>それにもかかわらず、今もボルハニズムは地下に生き続けている。アルタイだけでなく、アルタイに接するトゥバの各地に。

オマケ
ジャパニーズ・ティー・ガーデン
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3
> 日本人移民の萩原真(1857-1925)は、ゴールデン・ゲート・パークの設計者・運営者であるジョン・マクラーレンに対し、この庭園を恒久的な公園の一部にするよう提案した。
>当時アメリカでは異国情緒あふれる日本庭園に料亭や茶店を加えた施設が好評を得ていたため、萩原もそうした事業展開を考えてのことであり、
>庭園内の茶屋で煎茶と瓦煎餅を提供した(前年のシカゴ万博で日本館の敷地に茶店がいくつか立ち、萩原はそこで働いていたとも言われる)。
>萩原は庭園の公的な管理人(caretaker)を務め、庭園を運営した。萩原は庭園のために、今日庭園の名物となっている金魚や、1000本以上の桜をはじめとするさまざまな動植物を日本から取り寄せた。
>萩原のもと、庭師たちは庭園の拡充・整備に取り組み、現在の景観をつくり上げていった。
>園内にある五重塔は、1915年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋国際博覧会)において、日本から送られた資材で建設された展示物を移築したものである。
(中略) 戦後の1949年、S & G Gump Company によって、青銅製の仏像が寄贈された。この仏像は、1790年に但馬国で鋳造されたものである。
>1952年、「ジャパニーズ・ティー・ガーデン」の名が公式に復活した。

大和野菜
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%87%8E%E8%8F%9C
> 太古の湖であった奈良盆地は全国有数の肥沃な土地であり、また、いずれの地域も内陸性気候で昼夜の寒暖差が大きい。このため味の良い多様な農作物が育つ風土に恵まれている。
>有史以来、大和国は国の中心であり、784年に都が長岡京に遷された後も大社寺が栄えたため、農産物をはじめとする物品が全国から集まり、土着化して食文化の中に根付いてきた。
>さらに、古代の灌漑技術や条里制、近世の「田畑輪換」の成立とため池の構築、近代には明治三老農のひとり中村直三に代表される篤農家の輩出や「奈良段階」と称賛された生産性の高さ、
>そして現代、2011年奈良県産ヒノヒカリの食味ランキング特A全国トップ3獲得に象徴されるように、大和国は常に農業先進地であった。
>奈良県内では、このような大和国の風土と歴史、文化に根ざした多種多様で個性的な在来野菜が作り継がれてきたが、
>栽培や収穫に手間がかかり大規模生産と流通に向かないため、高度成長期以降、一般的な品種が栽培されるようになっていった。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0399ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/24(木) 19:32:53.60ID:jyfUZqlJ0
上手くやればwin-winにならないかな...
(却って売れなかった動物の処理方法が伝わって悪化する?)

「稲にお米がない」「黒豆は東京ドーム4分の1くらい食べられた」農業被害深刻な町に24時間投函OK『鹿ポスト』...農家も自治体も猟師も「助かっていますわ」
https://www.mbs.jp/news/feature/kansai/article/2022/11/091957.shtml
>「柵の下を見ていただいたらわかりますように、この穴はイノシシなんですけれど、
> イノシシが掘って穴が開いたところをめがけて鹿が入ってきます」
>柵を補修してもすぐに破られて、いたちごっこだと言います。
> 食用にするには殺処分後2時間以内に血抜きをする必要があります。手間がかかる一方で、独特の臭いから鹿肉の人気はいまひとつ。
>そのため、町が1頭につき約3万円かけて焼却処分するか、猟友会で鹿の死体を土に埋めるしか方法がありませんでした。しかし最近は埋める場所自体も減ってきているのです。
> そこで登場したのが鹿ポストでした。中は冷蔵庫になっていて、朝晩関係なくいつでも鹿を持ち込むことができて、血抜き作業も不要。猟師たちの負担は大幅に減りました。
>持ち込まれた鹿肉でドッグフードを作っています。1頭ずつ鹿の状態を確認して手作業で丁寧に解体します。
>ミネラルやビタミンも豊富な鹿肉はドッグフードに最適な食材です。鹿の骨も粉砕して肉と一緒に混ぜ合わせた後に地元の野菜をブレンド。
> ドッグフードになるのは肉や骨だけではありません。
>(NPO法人「カンビオ」理事長 後藤高広さん)
>「これは見ての通り鹿の角です。このまま切り取って保存していまして、表面だけ洗って加工して、ワンちゃんのガムにしていますね。
> (Q香ばしい匂いですね?)香ばしいですよ。基本、爪や皮膚なんで。中に髄液があって、ここの部分の匂いがすることで、ワンちゃんの好奇心が非常に上がる。
> テンションが上がるんですよね。当然、体内に入ってもなんの問題もないよと」

野生のヤギやヒツジも保護を、薬目当ての密猟が横行、ミャンマー
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/111800533/?ST=m_news
> 今回の研究によれば、野生のヤギやヒツジの目、舌、頭、脚、尾といった体の一部が医薬品として取引されているという。
>脂肪や腺から作られた瓶詰めの軟膏(なんこう)も販売されているほか、角も主に装飾品として取引されている。さらに、肉も食用として販売されている。
> ミャンマーにはカモシカ、ゴーラル、ターキンといった野生のヤギやヒツジが何種か生息しており、それらの狩猟は禁止されている。
>ヒマラヤ地域の最北端にも暮らすバーラル(被毛が青みを帯びていることからブルーシープと呼ばれている)は、ミャンマーの保護リストに含まれていない。
(中略) カモシカの舌は骨折に、脂は筋肉や関節の痛みにというように、体の部位の大半は医薬品として、または狩猟の戦利品やお守りとして売られていた。
>最大都市ヤンゴンや、中国と国境を接する北東部の町モンラー、仏教の巡礼地ゴールデン・ロックにある十数軒のレストランでは、
>野生のヒツジやヤギを使っているという売り文句の料理がメニューに載っていた。
0400ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 08:51:38.37ID:d08DtY3q0
なんと...雅な象だ...

広南従四位白象
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%8D%97%E5%BE%93%E5%9B%9B%E4%BD%8D%E7%99%BD%E8%B1%A1
> 「白象」とあるが、アルビノ種ではなく、体色が格別に白いわけでもない、一般的なゾウである。
>享保年間、徳川吉宗は産業開発に役立つ実学を奨励し、科学技術に関する知識の摂取のため、キリスト教文献以外の漢訳の洋書の輸入制限を緩和した。
>当時の日本は鎖国下にあったが、長崎への来航を限定的に認めていたオランダ人や中国人(当時は清国)を通じて海外の動植物や文物を積極的に取り寄せた。
>ベトナム象の渡来は、この時期の海外文化に対する旺盛な関心のあり方をしめす象徴的な出来事であった。
> 17世紀以降のベトナムでは、呉子明の故郷トンキン(ダンゴァイ)で飼育された象のほとんどは官象、
>すなわち国家管理下に置かれて朝廷の重要な行幸・行啓、宗教的ないし外交的諸行事に用いられる象であったのに対し、
>広南国(ベトナム中部、ダンチォン、阮主支配地)では象を捕獲する習慣があり、象や象牙の献上、商いが広汎に行われていた。
>ところが、呉子明が幕府に薦めた象はダンゴァイでもダンチォンでもなく、「暹羅地方」すなわち現在のタイ王国(シャム)であった。
>このことは、呉子明にとって、ダンチォンからではなく外国であるシャムから購入した方が好都合であったことを物語っている。
(中略) 象使いの1人は49歳の男性譚数(たんすう)、もう1人は31歳の女性漂綿(ひょうめん)でともに安南人(ベトナム人)であった。
>通訳はともに清国人で、福建省出身で58歳の李陽明と広東省出身で38歳の陳阿印であった。
>象の調教のことばも、当時の人びとにとっては珍しいものであったようで、
>「居を、りやうちんりやうちん、喰を、まふそみまふそみ …」(『通航一覧』、原出典は『世説談海』)、
>「草をくふ事 ロマン、竹の葉をくふ事 アンチユ …」(近藤重蔵『安南紀略藁』)などの「象語」も記録にのこっている。
>清国人から提出された象に関する説明書は詳細をきわめたものであり、長崎の大通事によって翻訳のうえ幕府に報告された。
> 長崎を出発する前(享保14年2月)、幕府勘定奉行稲生正武によって街道沿いの村々に出された触書では、象が通行する際、
>見物人は決して大きな物音を立てないこと、寺院の鐘を鳴らさないこと、牛馬の往来を避けること、飼料や河川を渡るための船を準備すること、道路を普請して小石を除去すること、
>宿泊所では大きめの厩舎(象厩)を準備をすることなど、細部まで念の入った指示が記されていた。
>寝所では、1日に大量の飲料水、藁100斤、ササの葉150斤、草100斤、饅頭50個という膨大な量の飼料が用意されたという。
(中略) 象の京都での宿泊場所は京都御所に近い浄土宗寺院の清浄華院(京都市上京区)であった。清浄華院には京都所司代の子息たちが象見物に訪れている。
>京都では、象が睡眠するとき、前足同士を組み合わせ、後足同士を組み合わせた姿で寝ることなどが記録されている。
>京都では他の地域と比較しても、ことのほか多数の触が出され、しかも詳細をきわめた。象の通る橋には、新しく造られた三条大橋以外の橋に土砂がかけられた。
> 文政12年(1829年)に発行された『江戸名所図会』巻之四 明王山宝仙寺の項目によれば、
>象の入京に先だち、象といえども無位無官の者が参内するのは先例のないことが問題となったため、朝廷は象を「従四位」に叙し、「広南従四位白象」と称されたとされる。
>牛車宣旨を受けた牛車を引く牛や、称光天皇が愛玩した羊など御所に動物が入った例は数多くあるが、多くの場合位階を受けたという記録はない。
> 象は京に入り、化粧を施されたうえ、享保14年4月28日(西暦1729年5月25日)に宮中に参内して中御門天皇に拝謁した。
>天覧に先立って清涼殿台盤所に「象舞台」がつくられ、3双の屏風が立てられた。
>28日の午前10時ごろ御所に入った象は、宮中において中御門天皇御覧の際に台盤所の前で前足を折って頭を下げる仕草をした。
(中略) 象は、道中各地でブームを巻き起こし、象にまつわる様々な書籍や瓦版、版画、双六などが現れ、
>江戸に着いてからも、象をモチーフとする置物や刀剣、刀の鍔、印籠などの商品がつくられて人気を呼んだ。
0401ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 09:16:40.36ID:d08DtY3q0
動物関係で

難読漢字「鴨脚樹」はなんて読む?
https://ecnavi.jp/mainichi_news/article/0eb5d531017cc9d33e1e416441b288d1/
カモミールじゃなかった...

牛追物
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%89%9B%E8%BF%BD%E7%89%A9/
犬だけじゃないんけ

ハヌマン・ドーカ宮殿
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8C%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AB%E5%AE%AE%E6%AE%BF
>「ドーカ」とは、門あるいは扉を意味する言葉である。

サフダル・ジャング(アワド太守)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%95%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B0
> 1739年3月19日、叔父であるアワド太守サアーダト・アリー・ハーンがナーディル・シャーによってデリーに監禁されたまま死亡し、
>息子なくして死亡したため、甥であるアブル・マンスール・ハーンが太守位を継承した。
>その際、彼はナーディル・シャーに対して、2000万ルピーの金を支払わなければならなかった。
> とはいえ、アブル・マンスール・ハーンの太守位世襲に関しては帝国の皇帝ムハンマド・シャーにも認められ、
>「サフダル・ジャング(戦争の虎)」の称号も賜り、これ以降はこの称号で呼ばれるようになった。
(人物像) サフダル・ジャングは個人的に高い倫理水準を持った人物であり、有徳の士として有名で、彼は生涯でたった一人の妃しか愛さなかったという。
>彼が虚偽や陰謀、裏切りなどといった手段を用いたのは、公的な政治の場のみであった。
0402ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 09:39:49.12ID:d08DtY3q0
悲しいね...

彌彦神社事件(群衆事故)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%8C%E5%BD%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
> 事故発生時、拝殿に向かう者と、参拝が終わり戻る者とが、中央の15段ある石段付近でぶつかり合い、滞留した。
>翌1月1日午前0時20分頃、この重さにより玉垣が崩壊し、支えを無くした参拝客が後ろから押し出されるように次々と高さ3mの石垣から転落、折り重なるように倒れ込んだ。
>多くの警察官がバス駐車場の交通整理に割り振られて境内にいなかったことも事態に拍車をかけ、死者124人・重軽傷者80人を出す大惨事になった。
>明治以降最悪の群衆事故である。
(原因と事前対応) 「越後一宮」の異名を持つ弥彦神社は多くの人が初もうでに来ていたことに加え、大晦日から元日にかけて行われる二年参りという風習があり、もともと混雑しやすかった。
> さらに、事故当時は雪のない元日であった上、前年は豊作で経済的に余裕のある家庭が多かった。
>またバスなど公共交通機関が新潟県内でも大きく発達した時期で、近隣市町村のみならず遠方からの参拝者が増えていた。
>このためそれまで多い年でも2万人程度だった弥彦神社の参拝者が、約3万人と大幅に増加していた。
> これに対して警備の警察官は前年よりも多い3個分隊36人であり、参詣人の繰り出す夜8時頃から神社周辺の警備にあたっていたが、その多くが交通整理に回っていた。
>神社側は人出が増えることを事前に予測し、8基だった照明を12基に増やしていた。
(その後) 本件を受け、随神門近くの通路や石段の拡張が行われた、翌年の1957年の初もうでからは参道が一方通行となった。
>また、後世に伝えるための慰霊碑が建てられた。
> 本件は群衆事故の危険性の例として言及されることがあり、たとえば新潟県知事の花角英世による2022年11月2日の定例会見では、
>少し前に発生した梨泰院群衆事故に関連した話題の中で、本件について言及している。

オマケ
ここでは神様より優先!? 神社の参道ど真ん中を突っ切る特急列車が発見され話題に
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/2211/20/news023.html
> この踏切がある場所は、有田焼の鳥居があることで知られる佐賀県有田町の陶山(すえやま)神社の参道です。
>本殿へと向かう階段の途中に警報機のみで遮断機のない踏切(第3種踏切と呼ばれる)があり、そこを列車が通過していきます。
>この区間ではJR九州の佐世保線の列車が1時間に上下あわせて3~4本ほど運行されているようです。
(中略) 境内に踏切のある陶山神社は1872年に創建され、その後1895年に現在の佐世保線が開業。
>このような歴史から、もともとあった神社の参道を後から線路が突っ切る形となったようです。
>大阪府藤井寺市の澤田八幡神社 >滋賀県大津市の関蝉丸神社 >山形県山形市の千手院 >福岡県小郡市の天忍穂耳神社 >府中競馬正門前

御旅所(おたびしょ)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%97%85%E6%89%80
> 神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。
>巡行の道中に複数箇所設けられることもある。
>御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
0403ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 10:54:33.19ID:d08DtY3q0
大河が終わる前に読みましょ

平安~鎌倉時代の雰囲気なんか好き
http://gabareki.blog.jp/archives/23039755.html?ref=category105495_article_footer1_slider&id=7117612
>竹林 妖しい月 豪華な公家屋敷
>九割九分は竪穴式住居定期
>全然平和じゃないのにのんびりしてる感じがいい
https://livedoor.sp.blogimg.jp/gabareki/imgs/f/0/f070f904.jpg
>寒そう
https://livedoor.sp.blogimg.jp/gabareki/imgs/3/0/30979869.jpg
>109mの塔を建てる財力のあった室町時代をすこれ

オマケ
藤原時平
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%99%82%E5%B9%B3
> 時平が華美な装束で参内すると、醍醐天皇の怒りを買って退出した、その後は自邸に閉じ籠って誰とも面会しなかったところ、その噂が広まって都では贅沢が治まった。
>これは時平と天皇があらかじめ打ち合わせをしていたことであるという。
>『大鏡』では時平の「あさましき悪事」によって、一族が早逝したとしている。
>また道真の才を高く評価する一方で「才もことのほか劣りたまへり」としながらも「やまとだましひなどは、いみじくおはしましたるも」と政治力を評価している。
>また『大鏡』や『古事談』では時平を評したものとして、容貌・才覚ともに日本国には過ぎている、「日本のかために用いるにはあまらせたり」という評が伝えられている。
>少将滋幹の母

最新研究で塗り替えられた木曾義仲の実像
https://serai.jp/hobby/1070988
旭将軍は粗野というより京武者との対立の果てに落日して候、あと北陸宮
>法住寺殿(寺跡に建てられた院御所)
0404ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 11:09:05.08ID:d08DtY3q0
続き

鎌倉幕府の設立に欠かせなかった広元や親能ら「文士はどこへ消えた?」
https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2022/07/21/169712
> 現在「文士」という単語は作家やライターを指しますが、当時は彼らのような文官を指し、京都から持ち込まれた制度や知性が御家人にも広がってゆきました。
>しかし武士政権の中で、文士は消えてゆきます。武士が文武両道となってゆく最中に、消えたというより融合していったのです。
>中国や李氏朝鮮では重要視されていた「文官武官の区別」と「文官上位」の法則。
>日本では溶け合いながら頂点に立ちました。
> 主役である北条義時は、初めの頃は腰に矢立(やたて・筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記道具)を、腰刀の横にさしていました。
>それが出世と共に扇子をさすようになります。
>木簡で米を数えるような実践的な雑事ではなく、もっと責任の重い業務を担うようになったことのあらわれでしょう。
(中略) 孝明天皇までは薄化粧をするなど、御簾の奥にいるもので、女性的な面もありました。
>それが明治以降になると、皇族が馬にまたがり、軍服を着て、写真におさまるようになり、最終的に軍人として戦場に立つようになります。
>男性性こそが近代国家で重要だと見なした明治政府にとって、西洋流の王侯貴族こそが正しい道とされました。
>かくして、武家政権の成立後も、かろうじて京都に残っていた文官の残り香は消え去ります。

《2022年大河ドラマ》“口封じ”こそ北条氏の“お家芸”? 父親に代わり「鎌倉の新たな支配者」となった北条義時がみせた驚異の政治手腕
「命だけは助かるだろう」と思っていた貴族たちを次々と処刑…承久の乱を終えた北条義時が行った“過酷すぎる戦後処理”の実情
https://bunshun.jp/articles/-/50222?device=smartphone&page=1
> しかし、「友情」と政治は別のものと考える冷徹さが義時にはありました。
>義時が権力を確立した1213(建暦3)年、畠山重忠の子で僧となっていた大夫阿闍梨重慶が日光のお寺で匿われていたことがわかりました。
>さらには謀反を企てているという情報ももたらされます。義時は、すぐに兵を動かして、有無を言わさず重慶の首を斬ってしまったのです。
>この子供に畠山家を継がせることもできたはずです。しかし、義時はためらいなく殺している。このことから、もう流れは変えられない、という冷徹な目を持った義時の姿が浮かびます。
>むろん、畠山領は皆で分配してしまったので、今更出てこられても困るというのも本心だったでしょう。
https://bunshun.jp/articles/-/50223?page=1
> 朝廷側に加わった御家人のなかには、大番役などでたまたま京都にいたため、参加したものもいました。
>東国には、兄弟や親族などが残っている場合が多く、普通なら彼らが助命嘆願したように考えてしまいます。しかし現実は違いました。
>朝廷側に加わった者の首を取れば、その領地が恩賞としてそっくり手に入るのですから、むしろ身内に対して極刑を望む者もあらわれたのです。
> 義時は後鳥羽上皇の血統を徹底的に排除することで、ある種の見せしめにしようと考えました。まず、4歳だった仲恭天皇(順徳天皇の子、1218~34)を退位させています。わずか78日の在位でした。
>即位式も行われず、さらに退位後母の実家の九条邸で亡くなったことから、九条廃帝と呼ばれていました。仲恭天皇と諡号が贈られたのは明治時代になってからです。
> さて、幕府はこの仲恭天皇の代わりに、後鳥羽上皇の兄で、天皇になったことのない守貞親王の子を即位させます(後堀河天皇、1212~34)。
>政治は上皇が行いますので、守貞親王は天皇に即位したことがないまま、太上法皇(後高倉上皇)となって院政を行うことになりました。
(中略) こうした所領の分配は事実上、北条氏によって行われたので、北条氏と御家人の関係が変化したこともあげられます。
>「俺たちに土地を保証してくれるのは将軍ということになっているけど、こんど土地をくれたのは北条だ」というわけです。
>実際にこの前後から御家人の中でも、将軍だけでなく北条氏にも個人的に仕えるような者が出始めました。
>彼らを「御内人」といいます。
(中略) 探題は北方、南方にそれぞれ一人ずつが任命されましたが、北条氏の中でも指折りの人材が就任しています。
>北条泰時や極楽寺(北条)重時(1198~1261)のように、京都で政治力を養い、鎌倉に戻って、幕府の中枢に上るパターンも見られるようになります。
0405ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 14:25:10.80ID:d08DtY3q0
雑訴決断所
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%A8%B4%E6%B1%BA%E6%96%AD%E6%89%80
> 朝廷の公的行事・儀式を「公事」と称したのに対し、所領に関する争い・訴訟を雑訴と称した。
>雑訴は、公事とくらべ従来は軽視されてきたが、13世紀半ば以降いわゆる「徳政」の一環として重視されるようになる。
>弘安9年(1286年)12月には亀山上皇の院政において、院文殿に持ち込まれた訴訟処理の迅速化を企図し、
>院評定を徳政沙汰と雑訴沙汰の二つに分け、雑訴沙汰には月6回中納言・参議クラスの公卿に評議させることとした。
>ここに雑訴沙汰は初めて一連の訴訟手続きとして独立することとなった。
> また、後嵯峨天皇代に復活した記録所(記録荘園券契所)も訴訟沙汰を扱う機関であり、天皇の記録所と上皇の院文殿(院評定)が並んで公家の訴訟を処理する体制となっていた。
>父の後深草院の院政を停止して親政を開始した伏見天皇は、正応6年(1293年)6月には記録所機構を大幅に改編し、
>「庭中(ていちゅう、裁定が実施されなかった訴状を担当)」が置かれて参議・弁官・寄人が配され、公事とともに雑訴沙汰も取り扱うようになった。
(中略) 後醍醐天皇の主導により元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が倒れ、建武政権が成立すると、
>それまで記録所・院文殿・幕府引付で扱われていた公武の訴訟沙汰は、すべて記録所に集中され、記録所が強大な権限を持つ機関となった。
>しかし、記録所にあまりに多くの事務が集中し、その処理能力を大幅に超えていたため、新たに雑訴沙汰を取り扱う専門機関の必要性が高まり、
>ここに雑訴決断所が新設され、記録所は寺社・権門に関わる大事の訴訟のみを扱うことになった。
(中略) 実際、南北朝期を扱った歴史書『梅松論』によれば、雑訴決断所は「決断所と号て、新に造らる、是は先代(鎌倉幕府)引付の沙汰のたつ所也」と評価されている。
>すなわち鎌倉幕府体制における引付衆と同様の存在として見なされていた。
>また中には楠木正成・名和長年のような元弘の変の勲功武士、六角時信・京極道誉のような守護クラスの在地武士、高師直・師泰のような足利家被官も含まれており、
>「才学優長ノ卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人」(『太平記』)を寄せ集めた公武折衷的な組織であった。
>また、のちに『建武式目』を起草することになる法学者、中原氏出身の是円坊道昭・真恵兄弟は、法体のまま出仕している。
> このような組織の拡大やそれに伴う無原則な人材起用により、必ずしも訴訟事務が効率的になったとはいえず、かえって各出身母体の利害が衝突する可能性もあった。
>そのため、雑訴決断所は建武の新政を揶揄した二条河原の落書でも、「器用ノ堪否沙汰モナク、漏ルル人ナキ決断所」と皮肉られている。
(中略) 決断所の職員の多くは、後に北朝の院政・親政や室町幕府の訴訟機関の構成員として引き続き法曹業務に携わったとみられる。
>建武政権における失敗の反省から、公家・武家の雑訴は分けられ、幕府・朝廷それぞれに訴訟機関が復活した。
(中略) 幕府側はむしろ院評定における雑訴審議を重んじようとしたが、観応の擾乱後の壊滅状態を経た北朝側は実力の低下を自覚し、幕府への依存体質を深めていったのである。
>この傾向は武家の棟梁でありながら公家政権における地位を高めることをも追求した3代将軍足利義満の時代にさらに加速し、
>後円融親政期(1374年 - 1382年)には記録所庭中も雑訴沙汰も全く形骸化し、ほぼ廃絶同然となっていったのである。

勝負検査役
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%9D%E8%B2%A0%E6%A4%9C%E6%9F%BB%E5%BD%B9-294435#:~:text=%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B6%E2%80%90%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%95%E3%82%84%E3%81%8F%E3%80%90%E5%8B%9D%E8%B2%A0,%E6%A4%9C%E6%9F%BB%E5%BD%B9%E3%80%82
>大相撲で、審判委員の旧称。検査役。

吉野朝太平記
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E6%9C%9D%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98
>鷲尾雨工により、楠木正儀を中心にし、当時の珍しい史実を使って作り出された長編歴史小説である。
>「何と云っても力作で、売れる当もないのにあゝした長篇を書き上げた努力は、充分認められてもよいと思う。
> 鷲尾君は、直木の旧友で、後不和になっていた人である。
> 直木が生きていたら、直木賞を(引用者注:第一回の)川口君にやることも、鷲尾君に贈ることも、反対したかも知れない。」(菊池寛)
0406ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 15:30:16.42ID:d08DtY3q0
満済
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B8%88
> 母が室町幕府3代将軍・足利義満の御台所・日野業子に仕えていた縁で義満の猶子となる。
>応永2年(1395年)11月に三宝院24世門跡であった定忠が義満の不興を買って追放されると、12月1日に報恩院隆源のもとで得度し、
>同時に三宝院25世門跡・醍醐寺第74代座主となり、更に大僧都に任命された。
>その際、義満から偏諱の授与を受けて満済と号す。翌応永3年9月16日には出家した義満に同行して延暦寺において義満と共に受戒している。
>足利義満の意向を背景に僧侶としての正式な第一歩となる受戒よりも門跡・座主・大僧都任命が優先されたが、
>伝法灌頂を受けるために必要な四度加行全て規定通りに終了し、更に鎌倉時代に発生した三宝院の法流分裂以降分かれていた各派の教説の全ての習得を応永19年(1412年)までに終え、
>更に高野山無量寿院の長覚からも教えを受けるなど、当時の僧侶の中でも群を抜く勉学と修行によってその負い目を克服した。
>義満もその事情を知悉しており、満済が護持僧(天皇の身体護持のために祈祷を行った僧)に起用されたのは義満の死去直後である応永15年(1408年)8月以降のことであった。
>義満とその子である4代将軍義持・6代将軍義教の信任が厚く、内政・外交などの幕政に深く関与し、黒衣の宰相の異名を取った。
>特に籤引き将軍・義教を登場させたのは満済の功によるところが大きく、さしもの恐怖政治を行った義教も満済の建言には従うことが多かったという。
>幕政の中枢にありながら情勢を冷静に判断し、人情に厚い満済の態度は、同時代人から「天下の義者」(伏見宮貞成親王『看聞日記』)と賞賛された。

オマケ
足利義将
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%86
> はじめ僧籍にあったとされ、重玄寺の大旦那(高僧)にあったとされる。
>嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱の際、赤松満祐に擁立された足利義尊の弟に当たる。
>『建内記』によれば、義尊の弟で禅僧となっていた者が備中から播磨に逃れようとして、
>備中守護・細川氏久(勝久の父)の兵に討ち取られ、その首が7月28日頃に京都に到着する予定と書かれている。

相良長隆
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%9A%86
> 5月11日夜、瑞堅は(観音寺の)常塔伽藍に火をかけ、それを合図として人吉城内に攻め寄せた。あらゆる寺院から掻き集められた僧兵・門徒ら200名余がこれに従い、大手門を破って城内に乱入。
>長定一派は狼狽して八代へと逃亡した。
> もともとは兄長唯を奉じるつもりであったが、大将として人吉城を攻略してその主となると、瑞堅は俄かに野心を抱き、
>翌日、還俗して「長隆」と名乗り、通称を太郎として、相良氏の家督を自ら継ごうとした。
> しかし僧籍にありながら寺院を焼いた暴挙と、その炎によって観音寺の僧舎が尽く全焼し、願成寺の金堂にも延焼するなど大きな被害が出たために
>僧兵・門徒らの心は離れ、相良一族や家臣も長隆に従わずに一人も登城しなかった。
>僧門徒衆は協議して、長隆に下城させて長唯を迎える方が領内が平静になって領民も安堵するだろうと考え、長隆に永里金蔵院への退去を勧告した。

九頭竜川の戦い
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%A0%AD%E7%AB%9C%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
> 長享元年(1487年)、加賀守護である富樫政親が室町幕府9代将軍足利義尚による近江の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に出陣中、一向一揆が発生した(加賀一向一揆)。
>すぐさま政親は軍を加賀に返したものの、翌長享2年(1488年)、一向一揆に攻められ自害した。そして加賀は百年近く仏法領国として独立する事となった。
> 朝倉氏と一向衆は果てしない戦を続ける事となり、永正元年(1504年)8月に謀反人として越前を追放された朝倉元景が一向一揆の協力を得て越前に侵攻したが迎撃され、
>永正3年(1506年)3月に近江から一向一揆が侵入したが国境付近で反撃に遭い、堅田本福寺の明宗の助けで撤退した。
> 永正3年7月、加賀一向宗は能登・越中の門徒も加え30万を超える兵(この数字は相当な誇張があると考えられる)で越前に侵攻。
>対する朝倉氏も朝倉宗滴を総大将とした兵8000から16000(諸説あり)で出陣し九頭竜川をはさんで対峙した。
>宗滴は敵の機先を制するべく夜半に渡河を決行し奇襲をかけた。これが功を奏し一向宗は打ち負かされ加賀に撤退した。勢いに乗った朝倉軍は越前吉崎御坊を破壊した。
0407ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 15:55:41.32ID:d08DtY3q0
鶴岡八幡宮の戦い
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
> つまり、当初は後年のように小弓公方(還俗した足利義明)や里見氏と北条氏は敵対関係ではなかったのである。
>そして、当時の北条氏に対しては小弓公方・古河公方双方が自陣営に加えようと政治工作を行った。
>また、北条氏としても当時の鎌倉における宗教的な象徴であった雪下殿であった義明との関係維持は自己の相模支配の上でも有効とみなしていた。
>これに北条氏と対立する扇谷上杉氏・山内上杉氏を交えて複雑な外交関係が展開されることになった。
(中略) この11月には鎌倉のすぐ北にある玉縄城が上杉朝興の攻撃を受けており、両者の挟みうちによる玉縄城攻略を意図していたと考えられている。
>鎌倉の海岸部にて里見軍は船縁に焼人形を並べて北条軍に遠矢を打たせて、北条方の船が接近すると、大石や材木を投げ込んだと言われている(『里見軍記』)。
>その後、戦いは鎌倉市中に移り、里見軍は鶴岡八幡宮の社家に乱入したり、宝物を奪ったり、仏閣を破却したとされている(『北条記』)。
>ところが、合戦中に鶴岡八幡宮から出火して炎上し始めたことから、里見軍は鎌倉から離れて玉縄城に向かった。
>だが、玉縄城を守る北条氏時は城と鎌倉の間の戸部川にて北上する里見軍を迎え撃ち、これを撃退した。
>一方、扇谷上杉氏も玉縄城を攻略できずに撤退し、北条氏が玉縄・鎌倉から三浦半島一帯を防衛した。
> この戦いにおいて、里見義豊は戦いそのものの打撃以上に、鶴岡八幡宮の炎上という失態による打撃を受けた。
>鶴岡八幡宮は源氏及び鎌倉の守護神であり、里見義成の末裔である里見氏歴代当主にとっても崇敬の対象であった。
>また、同氏が盟主に擁立していた小弓公方は鎌倉を拠点とする関東公方の継承者としての立場を打ち出しており、何よりも公方である足利義明自身が鶴岡八幡宮を統括する「雪下殿」であった。
>このため、合戦後北条氏綱が推進した鶴岡八幡宮の再建に対する協力を義明も義豊も拒絶することは出来なかった。
>また、敗戦によってこの戦いを主導した義豊の権威は傷つき、相対的に上総進出の責任者として勢力圏の拡大に努めてきた叔父の実堯の発言力が高まった。
>この状況は後の義豊による実堯暗殺、そして義豊自身滅亡を招く事になる天文の内訌の遠因となった。

七里頼周(しちりよりちか)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%87%8C%E9%A0%BC%E5%91%A8
> もとは本願寺の青侍(下級武士)だったが、顕如に見込まれて坊官となり、加賀一向一揆の指導を命じられた。
>織田信長との石山合戦が始まると、顕如の命で加賀の一向門徒を指導し、織田軍とたびたび争う。このことから一向門徒から「加州大将」と呼ばれた。
> 天正2年(1574年)、越前国では桂田長俊が暴政を行い国人や民衆の不満は頂点に達していた。
>長俊に敵対していた富田長繁は民衆に働きかけて土一揆を起こし、自ら大将となって一乗谷を攻め、長俊を滅ぼした。
>長繁は続けて魚住景固も殺害したが、敵対していなかった魚住一族まで滅ぼしたことに一揆衆は反発し、無策な長繁と手を切った。
>一揆衆は長繁を大将の座から降ろし、一揆衆の本願寺門徒の相当数の推薦があった頼周が指導者となった。
>こうして、この土一揆は一向一揆へと変わり、長繁とその与党、そして土橋信鏡、平泉寺と敵対勢力を次々に滅ぼしていった。
>この後、越前一国は本願寺から派遣されてきた下間頼照の支配を受け、頼周も彼の指揮下に入った。
>この時の2月半ばには、滅ぼした国人黒坂氏一族の首を差し出した一向門徒を「自分の命令もなく勝手に武士を殺したのは軍律違反」と激怒して処刑した。
> しかし、頼周は権力と信任を得ている事に笠を着て、先述の処刑といった非道で粗暴な振る舞いも少なくなく、
>そのために門徒からは人望が無いどころか、石山本願寺の坊官・下間頼廉に頼周を弾劾する門徒からの弾劾状が送りつけられるほどであった。
>このような越前や加賀の一向門徒の分裂(一揆内一揆)を見た信長は、翌天正3年(1575年)8月、大軍を越前に送り込んだ。
>門徒に人望が無かった頼照や頼周は全く統率が取れずに大敗北を喫した。頼照が逃亡先で殺害された一方、頼周は加賀まで逃げ切った。
0408ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/25(金) 16:37:43.81ID:d08DtY3q0
綽如(しゃくにょ)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BD%E5%A6%82
> 南北朝時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第5世宗主・真宗大谷派第5代門首。大谷本願寺住職。諱は時芸。法印権大僧都。
>至徳元年(1384年)頃に本願寺を継承し第5世になるも、まもなく寺務を法嗣(仏法上の弟子)である第2子の巧如に委任し、北陸に赴いて越中国杉谷に草庵を結び居所とする。
> 明から朝廷に送られてきた難解な国書を読むのに、青蓮院門跡は綽如を推挙し、上洛する。綽如によって、その国書の内容が分かり、また返書の草稿も書く。
>その才と功績を認めた後小松天皇より、「周圓上人」の号を賜わる。
>また後小松天皇より、宮中で『無量寿経』を講ずることを依頼される。その礼として、聖徳太子2歳の南無佛木像と『聖徳太子絵伝』8巻を賜わる。
> 後小松天皇は、綽如に一寺建立の願いがある事を知ると、「勧進状」の作成を認め「料紙」を授ける。
>越中国に戻ると「勧進状」(重文)を作成し、加賀国・能登国・越中国・越後国・信濃国・飛騨国において勧化する。
>明徳元年(1390年)その浄財により井波の地に寺を建立し、「瑞泉寺」の勅号を賜わる。これより後は、瑞泉寺を拠点に教化にあたる。
>また、北陸にいることが多かったので本願寺にある親鸞聖人像を祀る厨子の鍵を下間氏に預けて「鍵取り役」としている。

古市澄胤
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B8%82%E6%BE%84%E8%83%A4#:~:text=%E5%8F%A4%E5%B8%82%20%E6%BE%84%E8%83%A4%EF%BC%88%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%A1,%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%AE%98%E7%AC%A6%E8%A1%86%E5%BE%92%E3%80%82
> 戦国時代の僧、武将。大和国古市郷の土豪であり、東山時代の文化人大名でもある。興福寺の官符衆徒。
>応仁の乱において興福寺衆徒を統率し、義父の越智家栄や畠山義就と結んで筒井順尊・十市遠清・箸尾為国を追放、大和に勢力を拡大した。
>明応2年(1493年)には山城国守護を兼ねる室町幕府政所執事伊勢貞陸によって南山城の相楽・綴喜両郡の守護代に任じられ、南山城に入って山城国一揆を鎮圧した。
>その後は細川政元配下の武将赤沢朝経の大和への侵攻に協力している。
(中略) 澄胤はいわゆる戦国成り上がりの田舎大名であり、一時に数百貫を賭ける博打を好んだり、名馬を渉猟するなど派手な振舞いをする一方、
>神仏への信仰心も厚く、貴人や公家、高僧、諸芸能人とも交わり、茶の湯、謡(うたい)(能・猿楽)・尺八にも優れ、文人としても有名で、美意識を兼ね備えていた。
>連歌師猪苗代兼載からは『心敬僧都庭訓』を受け、自作句が、宗祇選『園塵』に入るほど。
>西本願寺に伝わる大名物の盆席「残雪」は、奈良の町屋にある屋根押さえに使用していた石の中から澄胤が見出したものと言われている。
(茶道について) もともと古市一族は、「淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)」と呼ばれる茶会を行っていた。淋汗とは夏風呂のことで、風呂と茶の湯があわさったものと考えられる。
>兄の胤栄が行った記録によれば、風呂の他、庭に松竹を植えて、山を作り滝を流し、周囲には花が飾られ、唐絵や香炉、食籠(じきろう)などが置かれ、客は百人以上にも及ぶこともあったという。
>飾り付けられた作り物を見物しながら茶を飲み、酒宴もあるという、賑やかなものだった。
> それ故か、一族の行う茶の湯とは相反する茶の道を求める茶人村田珠光に師事し、珠光の一番弟子となる。
>その珠光から送られた『心の文』(村田珠光の項目を参照)は有名で、公家・武士らの華美な会所、闘茶といった遊びに後戻りせぬように、
>目覚めたばかりの弟子を導こうとしている内容となっている。また、珠光「お尋ねの文」は、澄胤の茶花についての質問に対する返答である。

毛利家の外交僧安国寺恵瓊はなぜ関ケ原敗戦で斬首されたか?
https://rekishizuki.com/archives/295
> 追放された足利義昭は堺に留まり、毛利家に対して自身の受け入れの使者を送って来たので、恵瓊はその件に関し、
>信長配下の京都奉行となっていた羽柴秀吉と11月に京都にて談判しています。
(中略) あの戦国の動乱の中で、恵瓊が毛利家を見捨てて
豊臣秀吉に踏みつぶされていたら、今の近代日本はなかったかもしれないのですから、、、
>そう考えると安国寺恵瓊は京都六条河原の露と消えた人物ですが、結果的に歴史上の貢献度はかなり高いのかもしれませんね。
0409ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/26(土) 07:26:42.70ID:ITjI8bEn0
寺院その他の施設を並べるだけ

四天王寺
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA
> 用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。
>蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現・大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、
>敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。
>聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、
>「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。
>その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。
>その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。
>寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという
>(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。
(中略) 伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っており
>守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。
(四天王寺七宮) 聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営された神社群である。
>大江神社、上之宮神社、小儀神社、久保神社、土塔神社、河堀稲生神社、堀越神社の7つで、これらの神社を産土神とする7つの集落が東成郡天王寺村となった。
(四箇院) 敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園および薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。
>施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。
(八角亭) 1903年(明治36年)建築。同年、天王寺で行われた第5回内国勧業博覧会で使用された建物を後に移築したもの。この博覧会のために作られた建物で現存している唯一のもの。
(寛政10年=1799年当時の伽藍)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/Arial_View_of_Shitenn%C5%8D-ji.jpg/800px-Arial_View_of_Shitenn%C5%8D-ji.jpg
(大阪大空襲により焼失した東大門)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6a/Tennoji_Todaimon.jpg

飛鳥寺
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%AF%BA
> 本項では馬子が建立した寺院と、その法灯を継いで飛鳥に現存する寺院「安居院」とを含め「飛鳥寺」と呼称する。なお、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」である。
>『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、
>「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。
>そこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。
>当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。
>『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。
>このうち、鑢盤(ろばん)博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる。
> 飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は四天王寺式伽藍であると考えられていたが、1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)の発掘調査の結果、
>当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。
>これらの1塔、3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門があった。講堂は回廊外の北側にあった。
>四天王寺式伽藍配置では講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。
>以上を囲むように築地塀が回り、中門のすぐ南には南門、西側には西門があったことも発掘調査で判明している。
0410ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/26(土) 08:14:09.56ID:JPvhdbYC0
善光寺
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA
> 山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。
>「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。
>「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。
>住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。
> 特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。
>また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。
> 回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々、松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。
>2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年の杉が使用された。
>期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色の紐で結ばれ、
>回向柱に触れると前立本尊に直接触れたのと同じ利益(りやく)があり、来世の幸せが約束されるとされる。
>また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。
>故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏である釈迦如来と来世の仏である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。
(中略) 鎌倉幕府及び執権北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。
>名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、
>その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。
>同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。
>善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった。
>中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が「夢で見た」とされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、
>日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。
(中略) 平成20年(2008年)- チベット騒乱を受けて、善光寺は同じ仏教徒としての反対の意味とそれに伴う参拝客への危害が及ぶなどの混乱回避を理由に、
>当初予定していた北京オリンピックの聖火リレーの出発式会場に善光寺境内の不使用を長野市に求めた。
>2008年4月18日には、善光寺は出発式会場から辞退を表明した上、聖火リレーの時間に合わせてチベット騒乱の犠牲者(中国人およびチベット人双方の犠牲者)への追悼法要を実施した。
>同年11月、出発式会場辞退への感謝の印として、ダライ・ラマ14世より釈迦像が贈られた。この像は、翌2009年3月から、忠霊殿で一般公開されている。
(年間行事)
>1月6日 びんずる廻し(びんずるまわし) 妻戸台の周りをびんずる尊者像と参拝者が廻る行事。
>6月30日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 6月と7月の2回執行され、僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
>本堂平面図(A - 外陣、B - 内陣、C - 内々陣、赤色は本尊安置場所)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Zenk%C3%B4-ji_Plan.jpg/712px-Zenk%C3%B4-ji_Plan.jpg
>信州善光寺仲見世通り
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/eb/160501_Zenkoji_Nagano_Japan03n.jpg/800px-160501_Zenkoji_Nagano_Japan03n.jpg
牛に引かれて善光寺参り
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Kyoshinkai_to_Zenkoji_Ushi_ni_hikarete_Zenkoji_mairi.jpg

赤星因徹
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%98%9F%E5%9B%A0%E5%BE%B9
> この時既に重度の肺結核を患っていた因徹は、投了後吐血したと伝えられており、因徹吐血の局として知られる。
>またこの局中、幻庵は某寺に依頼し、不動明王に護摩を焚かせていたともいう。因徹はその2ヶ月後に死去。
0411ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/26(土) 09:23:53.29ID:JPvhdbYC0
ワット・シーサケット
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
> 建立当時の様式を保っている点でビエンチャン最古である。現在の建物は王国時代の1818年(1824年説あり)に建設されたもの。
>優美な大屋根が特徴のルアンパバーン様式に対し、本堂を取り囲むように広縁風のベランダを持つビエンチャン様式である。

ワット・スワンドーク(花園の寺)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%AF
> 舎利が新たに建立された寺院に納められるようになったとき、それは驚くべきことにそれ自体がそのまま2つになった。
>その舎利の1つは、予定通り、ワット・ブッパラームドークマイの中の祠堂に納められたが、もう一方の舎利は1頭の白いゾウの背に載せて運ばれた。
>チエンマイのすぐ西にある山ドーイ・ステープ(ステープ山)を登っていたとき、白象は甲高く3回鳴いて死んだ(白象伝説)。
>ワット・プラタートドーイステープは、その場所に2つ目の舎利を奉納するために構築された寺院である。
>ウィアン(囲郭都市) >ヴァッサ(安居) >チェーディー(仏塔) >sala kan prian(法堂) >ウボーソット(本堂)
(1886年)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/Wat_suandok-temple-1886.jpg

ワット・チェーディールワン
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3
> 現在の寺院の敷地は、もともとワット・チェーディールワン、ワット・ホータム (Wat Ho Tham) 、ワット・スックミン (Wat Sukmin) の3寺院で構成されていた。
(ラック・ムアン) それは当初ワット・サドゥムアンに位置していたが、1800年に王カーウィラによりこの場所に移された。
>王はまた町を守る市の柱を支えるものとして、そこに3本のフタバガキの木を植えた。その市の柱の祝祭が毎年5月に開催され6-8日間続く。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f0/Bangkok_city_pillar_inside.jpg/800px-Bangkok_city_pillar_inside.jpg
> 「モンクチャット」(英: monk chat)を毎日主催している。観光客は僧侶(通常見習い僧)と話し、仏教ないしタイについて何でも尋ねることができる。

チャンガンカラカン
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3/
>ブータンの首都ティンプーにある仏教寺院。市街西部に位置する。13世紀、同国の国教であるチベット仏教ドゥルック派の布教に訪れた僧侶により建立。ティンプーの守護寺院としても知られる。

タシルンポ寺
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%9D%E5%AF%BA
> パンチェン・ラマ4世は冊封下の最初のパンチェンラマで、以後歴代のパンチェン・ラマはみな寺を拡張した。
>現在のパンチェン・ラマは11世であるが、ダライ・ラマ14世によって認定された11世であるゲンドゥン・チューキ・ニマは中華人民共和国当局によって拉致されて今も消息不明であるため、
>この寺院には現在は、中華人民共和国側が擁立した11世であるギェンツェン・ノルブが座主として住んでいる(パンチェン・ラマ11世問題を参照)。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E#%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E11%E4%B8%96%E5%95%8F%E9%A1%8C
(山門)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4b/Entrance_to_Tashilhunpo_Monastery.jpg
(タシルンポ寺の大弥勒殿)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Tashilhunpo.JPG/800px-Tashilhunpo.JPG
(そびえ立つタンカ(チベット仏画)の壁)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dd/Tashilhunpo_Thanka_Wall.jpg

ダラハラ塔
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%A9%E5%A1%94
>ネパールのカトマンズにある円柱型の白い塔。
https://readyfor.jp/projects/many_a_little_project/announcements/25362
> 同じく観光名所として有名なダルバール広場周辺は、ほとんどが煉瓦造りの建物で、茶色系な街並みだったのに比べ、
>ダラハラ塔はあまりに真っ白な塔だったので、そこだけが異空間のように感じました。
0412ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/26(土) 10:27:34.59ID:JPvhdbYC0
絶壁のくぼみにある「日本一危険な国宝」、下から拝める遥拝所完成
https://www.yomiuri.co.jp/national/20221119-OYT1T50261/
> 鳥取県三朝町の三徳山三仏寺にある国宝・投入堂を下から眺めることができる 遥拝(ようはい)所が完成し、19日、記念式典が行われた。
>投入堂は三徳山の絶壁のくぼみに建立され、参拝には険しい道を登らなければならず、「日本一危険な国宝」で知られる。
>登ることができない観光客らのために、参道入り口から東に約500メートル離れた県道脇に遥拝所が数十年前に建てられたが、
>目の前の樹木が生い茂るなどして視界を遮っていることから、移転を望む声が上がっていた。
> 完成した遥拝所は古い遥拝所から北に100メートルほどの場所に県と町が設置。見上げると投入堂がきれいに見える土地を購入し、
>県産材で造った平屋と双眼望遠鏡、身体障害者用の駐車場を設けた。

「拝観謝絶」貫いてきた京都の寺院、今なぜ特別公開? 重い扉開いた理由は
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/925975
> 室町時代創建の尼門跡寺院・慈受院(京都市上京区)が、期間限定の特別公開を行っている。
>600年近く続く歴史の中で、ごく限られた期間を除いて拝観謝絶を貫いてきたが、住職のある思いから公開を決めた。
>慈受院は室町幕府の4代将軍・足利義持の正室だった日野栄子が1428年に創建、皇室ゆかりの女性が住職を務めてきた。
https://jijuin.jp/
> 当寺は門跡寺院であることから、今日まで永く非公開を貫き、皆様方とは中々ご縁がございませんでしたが、
>この混迷の時代、皆様方にとって、少しでも心のよりどころ、やすらぎの場となるようなお手伝いができないかという切なる願いから、
>令和四年春より公開させて頂く運びとなりました。
https://reserva.be/jijuinmonzeki/about
> 特別公開では、お越しいただいたみなさま方に、「自分供養」として慈受院を彩る四季折々の草花や神仏に触れ、
>写経や瞑想、一服のお茶をいただきながら自分を慈しむひとときを過ごしていただく場を提供させていただいております。
>自分を見つめなおす静かな時間が、新たな力になることを願っております。

鶴岡八幡宮の神矢に討たれた土屋義清~和田合戦~
https://ameblo.jp/namu-hatiman/entry-12671890087.html
> 1213年(建暦3年)5月3日、前日に北条義時を討つために挙兵した和田義盛は、由比ヶ浜や若宮大路で激戦を繰り広げていました。
>そんな中、土屋義清は甘縄から亀谷(壽福寺前)に入り、窟堂前を経て御所を目指します。
>しかし、赤橋(鶴岡八幡宮の太鼓橋)の傍らで流れ矢を受けて討死。矢が北から飛んできたことから神の矢と噂されたのだとか。
>この少し前、北条泰時から合戦の状況を伝えられた源実朝は、戦勝を祈願するために鶴岡八幡宮に和歌を奉納していました。
0413ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/26(土) 11:49:24.71ID:JPvhdbYC0
聖林寺(しょうりんじ)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9E%97%E5%AF%BA
> 聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にある。
>境内は斜面にある為に石垣が設けられ、その上に建物が建てられている。
>明治の神仏分離令の際に、大神神社(三輪明神)神宮寺の一つである大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら。現・大直禰子神社)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管されている。

談山神社(たんざんじんじゃ)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%87%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
> 天武天皇9年(680年)に講堂(現・神廟拝殿)が創建され、十三重塔を神廟として妙楽寺と号した。現在は桜と紅葉の名所として知られる。
>大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現・本殿)が建立され、聖霊院と号した。
>談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。
>後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像(現・安倍文殊院釈迦三尊像)が安置された。
>昌泰元年(898年)に初めて当社の裏山の御破裂山が鳴動する。以後、御破裂山は国に大きな災いが起こる際にその前兆として鳴動するようになり、慶長12年(1607年)までに計35回も鳴動したという。
> 延長4年(926年)、国内最古となる惣社を創建し、「談山権現」の勅号が下賜される。これにより、妙楽寺、聖霊院、惣社が神仏習合して一体化していった。
> 平安時代末期には妙楽寺は青蓮院の末寺となり、また、妙楽寺の南方に冬野城が築かれた。興福寺とは主に領地を巡っての抗争となり、最後は焼き討ちをされるという事件が多数起きている。
>永享7年(1435年)、南朝の遺臣に占領されて反室町幕府の拠点にされてしまう。
>これにより、永享9年(1437年)から始まった越智、箸尾両氏の幕府軍への抵抗戦・大和永享の乱に巻き込まれてしまい、翌永享10年(1438年)8月、幕府軍に焼かれて全山焼失した。
>しかし、大織冠尊像(藤原鎌足像)は事前に橘寺に避難させていたので焼失は免れ、嘉吉元年(1441年)9月に帰座している。
> 天正13年(1585年)、豊臣秀吉により郡山城下に寺を移すように厳命され、翌天正14年(1586年)に妙楽寺は郡山に寺基を移し、新多武峰、新峰、新寺と呼ばれるようになった。
>しかし、一方で大織冠尊像はそのまま多武峰に残り、こちらは本峰、本寺、古寺と呼ばれるようになって妙楽寺は分裂してしまった。
> 1869年(明治2年)2月に神仏分離令により僧達は還俗して神職となり、廃仏毀釈が行われて妙楽寺は廃され、数多くの子院が廃絶した。続いて6月30日には談山神社と改称している。
>ただ、神社とはなったが、十三重塔をはじめ建物は妙楽寺の寺院建築をそのまま使用しており、神仏習合の雰囲気を現在も良く残している。
>摂末社(摂社と末社)

安倍文殊院
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%96%87%E6%AE%8A%E9%99%A2
> 切戸文殊(京都府)・亀岡文殊(山形県)とともに日本三文殊に数えられる。
>創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、談山神社)の僧兵に焼き討ちされ、全焼する。
>明治になり、当寺は廃仏毀釈をくぐりぬけ、名称も文殊院というようになっていたが、かつて敵対していた多武峰の妙楽寺は廃寺とされ、新たに談山神社となった。
>その際、不要とされた妙楽寺の本尊・阿弥陀三尊像はくしくも当寺が引き取ることとなり、1883年(明治16年)に当院に移されるが、
>なぜか釈迦三尊像(桜井市指定有形文化財)として祀られ、現在も保存されている。毎年9月にはコスモス畑を迷路にして遊べるようになっている。
>金閣浮御堂(仲麻呂堂) - 1985年(昭和60年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、安倍晴明像などを祀る。
>白山堂(重要文化財) - 重要文化財指定名称は「白山神社本殿」。室町時代後期に建立された流造、杮葺の建物で、祭神の菊理媛神は縁結びの神として知られる。当院の鎮守である。
(電子マネー) 2007年(平成19年)4月、全国の神社仏閣では初めて電子マネーのEdy、iD、PiTaPa及びQUICPayを導入した。
>拝観料、絵馬奉納、お守り、祈祷料などの支払いを、本堂に設置された読み取り端末に、電子マネーのICカードや携帯電話(おサイフケータイ)をかざすことで現金を使わず行うことができる。
>2010年(平成22年)3月13日よりICOCA(Suica・TOICAでも)、銀聯も利用可能となった。
0414ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/27(日) 18:45:34.62ID:c/KemDzc0
鎌倉殿#45

聞かないであげてください
「もし公暁殿がうち損じたら、私は終わりだ」

ともかくBBA(天命に逆らうな)と縁のある公暁、縁のある1番若い女性が実母なのでは...
「聖なる儀式の邪魔をしてはならん」悪魔崇拝乙
(危なかったぁ...) 「寒いんだよぉー!!」京都も大概寒いような
懐刀はあったのか、あぁ...
この男は鎌倉殿を努めるには優しすぎた
大好きな人と目が合ったままなのは有情か

「笑えるな、お前の代わりに死んでくれた」「アニウエハテンニマモラレテイルノデス」
「鎌倉殿は失ったが、動揺は一切ない」嘘つけ
まだやらねばならぬこと...
「首を御所の正面に晒すのです」比企の時といい兄より坂東武士やってんな

出ていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

トウ脱出、ここ「紫煙立ち上る時」を流したい
ここで公暁と政子が密会か
やはり今年の公暁は賢いな(大佐かよ)
まさかの髑髏クン、公暁が持ち去るのか...

平六・小四郎いつもの格好に戻った
「せいぜい、馬から落ちないように気をつけるんだな」
館に入れちゃったじゃねーか!(草燃えるでは絶対NGだった)
君は平六の超速解体テクを見る
「北条と三浦が手を携えての鎌倉」 なお宝治合戦
尼御台のライフはもうゼロよ

「貴方の思い通りにはさせない」太郎はいつも小四郎を喜ばせるなぁ
親を殺された子が子を失った親を助命するのだ

上皇様が人徳者で、小四郎は腹黒ディクテーター、後者が主人公なのですよ...
平賀といい時元といい本人たち成る気ないんだよね < 鎌倉殿

義朝Return、まぁ丁寧に埋めるのが道理
「伊豆へ帰ります」残念ながらおまいう
とことん付き合えや、ファイナルデッドコースター鎌倉

「頼朝様と学んだのは、私だけではない」
義時に似せた仏像、この時代の偶像崇拝か? 運慶は興味を失った
「お前は俗物だ、だからお前の作るものは人の心を打つ」
坊主の本質を見抜き、坊主は一目で見抜けなかった、いやこれラスボスムーヴ...

藤原秀康、見た目はいいのだ
0415ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/27(日) 23:46:29.89ID:oKREVopH0
今更ながら

寺社勢力
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E5%8B%A2%E5%8A%9B
> 武家政権・朝廷とともに権力を三分した、大寺院・神社(当時は神仏習合のために一体)による軍事・行政・経済・文化パワーである。
>武家政権や朝廷のように権力中枢があったわけではなく、各寺社が独立して行動し、また一寺社内でもさまざまな集団がせめぎ合っていたため、「勢力」と呼ぶ。
(中略) また、衆徒・神人とよばれる俗人を多数配下において大人口を誇り、
>経済・学問・工芸活動などが盛んだった寺社周辺は、近年の日本歴史学で「境内都市」と呼ばれる一大メガロポリスであった。
>延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたこと、
>興福寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して中世を通してその経済力で京に大きな支配力を及ぼした。
>強大な寺社勢力である延暦寺と興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。
> また、大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。
>また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ばず、そのため源義経や後醍醐天皇など、戦乱に追われた人々の多くが寺社にかくまわれた。
> 1588年(天正16年)の秀吉の刀狩令は、百姓等のみならず寺社勢力の武器没収も意味しており、
>この結果として約五百年間続いた寺社勢力は日本の権力構造から消えることとなった。

オマケ
御曹子島渡
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9B%B9%E5%AD%90%E5%B3%B6%E6%B8%A1
> 藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、「大日の法」と称する兵法書があることを聞いた、
>頼朝挙兵以前の青年時代の御曹子義経は、蝦夷(えぞ)の千島喜見城に鬼の大王に会う事を決意する。
>四国土佐の湊から船出して喜見城の内裏へ向かう。途中、「馬人」(うまびと)の住む「王せん島」、裸の者ばかりの「裸島」、女ばかりが住む「女護(にようご)の島」、
>背丈が扇ほどの者が住む「小さ子の島」などを経めぐった後、「蝦夷が島」(北海道)に至り、内裏に赴いて大王に会う。
> そこへ行くまでに様々な怪異体験をするが最後には大王の娘と結婚し、兵法書を書き写し手にいれるが天女(大王の娘)は死んでしまう。

打吹城(うつぶきじょう)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%90%B9%E5%9F%8E
> 室町時代に伯耆国の守護・山名氏により守護所とされた。
>城下には商工業者が集められ、市が開かれるなどして活況を呈したという。以後、戦国時代まで山名氏による守護所として続く。
(廃城後) 元和3年(1617年)に池田光政が因伯32万5千石の領主として鳥取城に入った。その際、鳥取城とその城下町があまりにも手狭であるとして、新城の建設が検討された。
>打吹城も新城候補地に挙がったが『領国の中央なれど、山奥にて国主鎮座の地にあらず』として取り上げられなかった。池田光政は重臣・伊木忠貞を倉吉に置いて支配させた。
>櫓を模した展望台 >羽衣石城(うえしじょう)の模擬天守
0416ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/28(月) 00:10:22.10ID:KqJjzjO80
寺院諸法度
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%99%A2%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
> 文献によっては「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)」・「諸宗諸本山法度(しょしゅうしょほんざんはっと)」などの呼称が用いられる事もある。
> 五山十刹諸山法度においては、従来の「(鹿苑)僧録」、「蔭涼職」が廃止され、1619年、江戸に「(金地院)僧録」が新設され、黒衣の宰相の異名をもつ以心崇伝が任命された。
>その当初は、この新たな僧録によって禅宗全体の統制を図ったが、その統率は五山派のみにしか及ばなかった。
> 崇伝没後の1635年、寺社奉行が設けられると、寺院の管掌は寺社奉行が取り仕切ることとなり、僧録の権限は更に縮小されることとなった。
>基本的には、五山派の触頭を職掌とすることとなる。
>その後、1665年になって寛文印知による寺領安堵と合わせて全ての宗派・寺院・僧侶を対象とする共通の諸宗寺院法度を導入した。

オマケ
整然とした街中に、道が入り組んだ地域がぽつん ナビ画面から見えてくる中世集落の痕跡が想像力をかきたてる
https://maidonanews.jp/article/14750133
> きっかけになったのは大阪在住のワ田さん(@wa_da_da_wa)が
>「現場帰りにナビ見てて整然と区画整理された町中に村の痕跡現れたら気になって仕方ない」と紹介した長居公園(大阪府東住吉区)周辺の地図。
> 現在、長居東という町名になっている一帯だが、碁盤の目状に区画整理された整然とした街並みの中、そこだけやけに道路の入り組んでおり地域があり目立っている。
>長居東が市街化したのは戦後のことなので、たしかにこれはそれ以前から存在する集落の痕跡なのだろうか…
>「赤丸内に住んでました。古い大きなお家が固まっていて、道幅が狭い地域です~5年位住んでましたが、よく迷ってました(笑)」
>「そこは新堀城跡/堀村環濠跡です。石山本願寺の支城で、十河一行、香西長信が籠城してましたが、織田信長に攻められて落城しました。」

探訪 京都・山科 山科本願寺旧地を巡る -10 山科本願寺土塁跡・同土塁跡南西角
https://plaza.rakuten.co.jp/asobikokoro2/diary/201904160000/?scid=wi_blg_amp_diary_next
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/62cc9b63964fc5d41f3612d98c7eba6cce6c2645.77.2.9.2.jpeg
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/73f535e7d797b046562267a25c92f6353c7bcd64.77.2.9.2.jpeg
> 土塁には階段が設けられていて、その上を散策することができるようになっています。
>ここに残る土塁跡は高さが7mに及ぶ巨大なものであり、上掲の土塁上の景色でわかるとおり、かなりの広さがあります。隅櫓状のものがあったと推測されているとのこと。
>山科本願寺・寺内町の形成で城郭化し、御本寺・内寺内・外寺内の3つの郭が形成されています。その中でここの土塁跡は「内寺内」の北東部にあたります。この土塁の東側が「外寺内」です。
0417ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/28(月) 18:56:56.18ID:yrFR8rqx0
新春シャンソンショー...?

シャンシュン王国
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD
> 紀元前からあったと伝わる。カイラス山はヤルンツァンポ川及びインダス川の源流にあたり、チベット在来宗教ボン教の聖山でもある。
>『隋書』に記されている女国と考えられ、そこには山上の城に住まう女王の統べる戸数1万の国で、586年に隋に使者を送ったと書かれているが、確証はない。
>また『旧唐書』の東女国に比定する説もある。
>シャンシュン王国の最後の国王リ・ミヒャ(チベット語: ལིག་མྱི་རྐྱ lig myi rhya、中: 李迷夏)は吐蕃の王ソンツェン・ガンポにより暗殺され、643年に吐蕃に併合された。

女国
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%9B%BD
> その国は代々女を王とし、姓を蘇毗(そび)、字を末羯(まっかつ)といい、在位は20年であった。女王の夫を号して金聚といい、政治をとらなかった。国内の男たちは、ただ征伐のみを仕事とした。
>山上に城を築き、周囲の五六里に家を密集させた。王は9層の楼閣にあり、侍女は数百人、5日に1回朝政をきいた。
> また小女王があってともに国政をみた。その風俗は婦人が男性を軽んじた。男女は顔面を彩色し、1日に数度改めた。
>狩猟を生業とし、鉱石・朱砂・麝香・牛・馬などを産し、岩塩をインドと交易して多大な利益を上げた。女王が死ぬと、死者の一族中の賢女ふたりを選んで、一を女王とし、次を小王とした。
> 貴人が死ぬと、皮を剥いで、金屑と骨肉を瓶の中に置いて埋めた。1年経つと、その皮を鉄器に入れてまた埋めた。
>阿修羅神や樹神をあがめ、年初の祭りにはサル(獼猴、みごう)を用いた。祭りが終わると、雌雉のような鳥の腹を割いて豊年を占った。
>隋の開皇六年(586年)、使者を派遣して隋に朝貢したが、以後は途絶えた。
(『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要) その広さは東西に9日、南北に20日、徒歩でかかり、大小に80あまりの城があった。
>その王の居所を康延川といい、弱水が南に流れ、牛皮を船に用いて渡河した。4万あまりの人口が山谷の間に散らばっていた。
>女王を「賓就」と号し、女官を「高霸」と号し、国事を議論した。
0418ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/28(月) 19:06:01.90ID:yrFR8rqx0
続き

吐蕃(とばん、偉大なるチベット)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%95%83
> 638年、ソンツェン・ガンポの息子グンソン・グンツェンが吐蕃の王に即位。これらの外交が実り、
>641年に唐王室の娘である文成公主(ギャサ)をグンソン・グンツェンの妃として迎える。文成公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったためこれを禁じるなど公主を丁重に扱った。
>文成公主は唐から連れてきた工匠たちに小昭寺(ラモチェ)を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツン王女(赤尊公主)の大昭寺(ジョカン寺、トゥルナン寺)建立を手伝った。
>このように文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により唐との結びつきを強めた。
>さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。643年にグンソン・グンツェン王が23歳で死去し、ソンツェン・ガンポが王に復位した。
(中略) 649年、唐の太宗が死去し高宗が即位すると、王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受ける。
>さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。
>また唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため唐から工匠の派遣を得た。
(中略) チマルは乱を鎮圧し、吐蕃は唐の則天武后に妃として公主を求めた。唐はこれに応じ、吐蕃は710年に中宗の養女である金城公主を迎える。
>大臣シャン・ツェントレレジン(チベット語: ཞང༌བཙན༌ཏོ༌རེ༌ལྷས༌བྱིན shang btsan to er lt sa ibyn、中: 尚賛咄)が公主を迎えに長安へ赴いたとき、宮中で馬球試合が行われたという。
> チマルの没後、712年に大論バー・クリジシャンネン(チベット語: དབའས་ཁྲི་གཟིགས་ཞང་ཉེན dbavs khri gsigs shang nyen、中: 韋·乞力徐尚年)が任命され摂政したが、国威は振るわなかった。
>713年には以前から要請していた河西九曲の地(現:青海省東南部黄河曲部、同仁県周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として唐から贈られた。
(中略) 同年、修行寺院であるサムイェー寺が落成し、経典解説や説法などの活動が開始され多くの仏典が翻訳された。
>王は、等級に応じて僧侶に食物や生活用品を支給、さらに王子,后妃,臣民の前で永遠に仏法を行うことを誓約し、王子たちには仏法を学ぶことが義務づけられ、仏教が厚く保護された。
(中略) 798年、ムネ・ツェンポ王の死後、その弟、ティデ・ソンツェン(別名:セナレク)が王位を継いだ。
>810年頃、ティデ・ソンツェン王は仏教に篤く、王妃,同盟小国の王子,大臣たちを召集し、子々孫々仏法を奉じ、今後、新たに娶る王妃には仏教信仰を誓約させることを規定した。
>さらに、僧侶の中からタンボという僧官を選び寺院管理を任せ、高僧ニャンティンエシン(チベット語: མྱང་ཏིང་ངེ་འཛིན་、中: 娘·定埃增)をバンチェンポ(チベット語: བང་ཆེན་པོ་、中: 缽闡布)として大論(宰相)の上に置き、国政を司らせた。
(中略) このころ、チベットは仏教を国教とし始め、828年、ティツク・デツェン王の命令により大蔵経(一切経)をチベット語に翻訳、編纂を始めた。
>これらの大蔵経の目録はサムイェー、パンタン等に保存されている。これがチベット語での仏教経典の収集整理のはじまりになった。
>さらに、七戸の民で僧侶一人を養い、僧に不敬を働く者を厳罰に処す命令を下した。しかし、これは民衆の不満を引き起こした。
0419ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/29(火) 07:21:47.97ID:4LfxNcOz0
YouTubeで見ていく

追善供養とは?(見法寺法務チャンネル)
https://youtu.be/KGBIoZBKvMI
供養は元々「食べて養う」の意味
追って善くする...死者には食べることが出来ないので、音や匂いで伝える

飯縄山の山伏
https://youtu.be/jVrxM9gAxNw
鳥居を潜り、13の仏が守ってくれるというのは西洋的宗教観とはまた違うのだろう
神仏にひれ伏し、眼・耳・鼻・舌・身・意を浄化する
歌うことで掛け念仏と同化する...

西と東、2つの本願寺って何故?
https://youtu.be/fuav0pfwsJ8
退城派の顕如、籠城派の教如で宗派が二分
東が秀吉の寄進、西が家康の寄進で本山は大阪城に...
0420ニンティ奴隷王朝 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/29(火) 07:56:47.23ID:4LfxNcOz0
韓国とブータンの歴史の話をしよう
https://youtu.be/Bmg1Ue-Me48
ブータン初代国王は1907年に選出されたのか...
立憲君主制移行が1953年、割とあっけない(だがそれがいい)

琉球王国の歴史
https://youtu.be/FtaYJ6_GJvQ
三山国(琉球以前の3つの国)とか偽王と条約締結させて無効とか、コメ欄の方が色々とあるのが何とも

ジェット・リー「格闘飛龍 方世玉」吹き替え版
https://youtu.be/CQs19GmNUUg
恐ろしい功夫だ...こういう池田さんもいいね
0421ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/29(火) 15:09:16.20ID:1Ti1mKUq0
これが現代の寺内町か...

比叡平(限界ニュータウン)
https://youtu.be/IZxpeXggjVY
比叡山の中にファミマ(ややペンションっぽい)があるというのがちょっと意外
京大吉田寮の立て看板の群れ、何とも楽しそう
山道はくねってるし、幅員もないし大変だ
山中関...そのまんまな感じだ
比叡平は入口だけしばらく勾配があって、中は地名の通り平たい
更に上を見ればガーデンミュージアム比叡
大津京に降りるバスは右側に乗れば琵琶湖が見られる、比叡山ドライブウェイは有料だが景色がいいとのこと

オマケ
緑ヶ丘アパート群(岩手の雲上の楽園都市、廃墟)
https://youtu.be/iW6ZgdptVvw
露天掘り跡が棚田のようで綺麗
70年前の建物で洗濯機あるのか...
硫黄鉱山のあとしまつ(中和施設)で年間6-7億円か... (垂れ流し当時の写真が)青白ナイル川の合流点みたいでケミカルガーデン生えた

Sewell The Ghost Town In Chile
https://youtu.be/DiwSyRXi8GQ
やはり100年前の、MWの御先祖みたいな器具が残ってるのね

スフミ近郊(アブハジア)の空港廃墟
https://youtu.be/HeWhBhBzIl0
時代の流れで廃れたというよりも、戦争が原因のようで...
0422ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/29(火) 18:06:00.23ID:4LfxNcOz0
こういうの好き

ロシア連邦・サハ共和国「オロンホ」
https://narano.exblog.jp/13062341/
> マンモスのふるさとロシア連邦サハ共和国から
>サハ民族大英雄叙事詩オロンホから「キース・デビリエ太古の響き」公演
> ~ユネスコ・無形文化遺産~
> この公演はいわばオペラ歌劇で本当は8時間かかるそうです。それを1時間に短縮し演じられましたが、言葉は判らなくてもその動きでおおよそがつかめ非常におもしろかったです。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201008/12/06/e0078706_177339.jpg
https://pds.exblog.jp/pds/1/201008/12/06/e0078706_1774820.jpg
https://pds.exblog.jp/pds/1/201008/12/06/e0078706_1775995.jpg
https://pds.exblog.jp/pds/1/201008/12/06/e0078706_179827.jpg

Olonkho
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%9B-41803
> いくつかの長い語り物があり,なかには1万 5000行の詩句から成るものもある。
>成立年代は,ヤクート族がチュルク,モンゴル諸族と隣接して生活していた 14~15世紀以前とされ,自然や住居,衣服,道具などが英雄たちの所業のなかで語られる。
>オロンホの語り手はオロンホ・スーティと呼ばれる。

オマケ
マスレスリング
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
> ロシア・サハ共和国(ヤクート)発祥のスポーツ。北欧の船乗りなどが航海中の力比べでやっていたとも言われているスティックプル(棒引き)と類似する。
>エスキモースティックプルを彷彿とさせ、 競技者はお互いの前に座り、競技エリアを分割するボードに足を支え、
>木の棒( mas )を引っ張って、プロップボードと平行になるようにする。
>マスレスリングは、手、足、背中、腹部に大きな筋力を要求する。
>棒を離したり、体が板を越えたりしたら負け。
0423ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/11/29(火) 21:30:30.83ID:4LfxNcOz0
オブジェ的なもので

高さ9メートルの「巨大な馬」現る! 遼寧省大連市
http://j.people.com.cn/n3/2019/0703/c94638-9594220.html
> 大連国際会議センター広場に7月1日、巨大な馬のオブジェ「中華巨馬」が登場し、人々の注目を集めている。
>この巨大な馬の総重量は47トンで、高さ9メートル、全長14.5メートル。
>そのリアルな動きを再現するため、98個の「関節」が組み込まれ、そのうち油圧装置が68個、電動装置が20個となっており、
>馬の走行や跳ね上がる動作、顔の表情といった動きを再現できる。

ARの北前船が新潟駅前に出現 新潟市とメビウスが実証
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC121CZ0S2A011C2000000/
> スマートフォンで専用のQRコードを読み取り現実の空間にスマホ画面をかざすと、バーチャルの北前船やニシキゴイが現れる。
>ARを通じて観光客や市民に新潟の歴史や文化を知ってもらう。

ゾルの外の碑
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A4%96%E3%81%AE%E7%A2%91
> チベット・ラサのポタラ宮にある記念碑(石柱)である。
>763年(唐・広徳元年)、吐蕃のチム・シャン・ゲルシク・シュテン(チベット語: མཆིམས་ཞང་རྒྱལ་ཟིགས་ཤུ་ཏེང mchims zhang rgyal zigs shu teng、中: 尚野息)と
>ゲンラム・タクラ・ルコン(チベット語: ངན་ལམ་སྟག་སྒྲ་ཀླུ་ཁོང ngan lam stag sgra klu kong、中: 恩兰·达札路恭)が20万の大軍を率いて長安(陝西省西安市)を攻め、
>唐の代宗を追い出し、広武王李承宏を皇帝とし15日後に撤兵した。同碑はこの戦役を記念して建立されたものである。
> 碑の北面、南面、東面にチベット文字で刻まれており、北面は68列、東面が16列、南面が74列となっている。
>漢文資料では、長安を陥落させた吐蕃の将に「馬重英」の名があるが、
>吐蕃のティソン・デツェンの時期の名臣である 「ゲンラム・タクラ・ルコン」と「馬重英」の事績が一致することから、この二者が同一人物であることが指摘されている。

花置寺の摩崖仏 四川省邛崍市
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E8%8A%B1%E7%BD%AE%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%91%A9%E5%B4%96%E4%BB%8F-%E5%9B%9B%E5%B7%9D%E7%9C%81%E9%82%9B%E5%B4%8D%E5%B8%82/ar-AA13nmcp
> 中国四川省邛崍(きょうらい)市臨邛鎮盤陀(ばんだ)村の花置寺に、唐の貞元14(798)年に造立が始まった摩崖(まがい)仏がある。
>竹渓湖畔の長さ34メートル、高さ10メートルの岩壁に分布しており、現在は六つの仏龕(ぶつがん)と唐貞元記事碑1基が残る。
>初期仏教の造像や芸術様式、時代変遷を研究する上で重要な価値を持つ。
0424ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/04(日) 08:04:52.96ID:9xhXn7Xk0
成程ね

『鎌倉殿の13人』ニセモノの髑髏が示す“証” 三谷幸喜が新境地で描く“本物“のその後
https://news.yahoo.co.jp/articles/515b6218764a55c26246cc8cf3348d1918d245d2
> 歩き巫女の言葉もそうだが、『鎌倉殿の13人』に登場する神仏の扱いは絶妙である。
>基本的に、どれも胡散臭いまがい物として描かれるのだが、誰か一人でも信じてしまえば、それは現実となり、逆らうことのできない巨大な力となって、周囲を翻弄する。
>それがもっとも強く現れていたのが、僧侶の文覚(市川猿之助)が、源頼朝(大泉洋)に渡した髑髏だ。
> 文覚は元武士で、頼朝の父である源義朝に仕えていた。そして、義朝死去の際に頭部を持ち去り、いずれ頼朝にその髑髏を渡そうとしていた。
>だが、その髑髏はニセモノで、文覚が詐欺師であったことはすぐに判明する。
>ここまでなら、よくある話だが、『鎌倉殿の13人』が恐ろしいのは、その後である。
>後白河法皇(西田敏行)の密旨を読んだ頼朝は、平家討伐を決意し挙兵する。そして挙兵する際の最後の拠り所として髑髏を掲げて「どこの誰かは存ぜぬが、この命。お主に賭けよう」と言うのだ。  
>数年後、髑髏は幼い実朝に渡される。「全てはこの髑髏から始まったのです」と政子(小池栄子)は言い、義時も「上に立つものの証でございます」と実朝に言う。
> そして今回、髑髏は公暁の元へと渡る。謀反を起こした理由を「知らしめたかったのかもしれません。源頼朝を祖父に持ち、源頼家を父に持った私の名を」と公暁は政子に語った後、
>実朝の部屋から持ってきた髑髏を見せて「これぞ、鎌倉殿の証」「4代目は私です。それだけは忘れないでください」と言う。
>ニセモノだった髑髏は、持ち主を転々とした末に「鎌倉殿の証」へと変わっていく。ニセモノの髑髏は、義時が守ろうとしている武家社会の根拠のなさを示している。
> ニセモノが演じているうちに、やがて本物になってしまうという物語を、三谷幸喜は繰り返し描いてきた。
>ドラマで弁護士を演じた俳優を連れてくることで、故郷の村に産業廃棄物処理場が建設されることに抵抗するドラマ『合い言葉は勇気』(フジテレビ系)や、
>映画の撮影だと騙されて連れてこられた俳優が伝説の殺し屋を演じることになる映画『ザ・マジックアワー』は、その筆頭だ。
>ニセモノが本物に変わる物語を、多くの人々の思惑が絡み合う群像劇として描くことで、三谷は人気作家へと成長していったのだが、
>『鎌倉殿の13人』が新境地と言えるのは「ニセモノが本物になってしまった物語のその後」を描こうとしているからだ。
>それは、カリスマ的存在だった頼朝を失った義時が、鎌倉幕府をまとめるために闇落ちしていく物語として描かれてきたのだが、物語はいよいよ最終局面を迎える。
>「北条の鎌倉」を作ることを決意した義時は、運慶(相馬一之)に「神仏と一体となった己の像を作らせる。頼朝様が成し得なかったことがしたい」と言う。
>天才芸術家の運慶は、義時のことを見守ってきた作者の分身とも言える存在だ。だからこそ三谷は「お前は俗物だ。だからお前の作るものは人の心を打つ」と義時に言わせたのだろう。
>「ニセモノが本物に変わる物語」から「人が神仏を目指す物語」へと、本作は変わりつつある。
0425ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/05(月) 20:59:37.95ID:MF0DFQD50
仏教建築を見る

七堂伽藍(しちどうがらん)
https://www.caname-jisha.jp/cms/?p=916
> 伽藍(がらん)とは、本来は梵語の「サンガラーマ」が由来の僧侶が集まり修行をする場を指す言葉です。
>その意味が転じて、僧侶のあつまる寺院敷地内にある堂宇(どうう・【=建物】)群を、伽藍と称するようになりました。
> その建物群の主要な建物を「七堂伽藍(しちどうがらん)」と呼びます。
>宗派や時代により七堂の構成はまちまちで、実際の建物の数が7個でなくても、「主要な建物が整備」されている寺院を形容する言葉としても使われています。
>門(三門) 三門と表記される場合は「空(くう)」「無相(むそう)」「無作(むさ)」の解脱を象徴する三解脱門(さんげだつもん)を指します。
>本堂(金堂・仏殿) 本尊がまつられている、寺院の中核の建物です。
>塔 今日、一般社会では高い建造物を「塔」と総称していますが、もともと日本では仏教建造物だけを「塔」と呼んでいました。
>そのため、意味合いを分けるため「仏塔」という言葉が生まれました。
>現代では寺院の中核は本堂ですが、古代では仏舎利がおさめられた塔は寺院の中核の建造物でした。
>講堂(法堂はっとう) 経典の講義や説教にもちいる建物です。大寺院では大人数を収容するため、本堂より大きな建物となっています。
>経蔵(きょうぞう) 古では楼造り(ろうづくり)や、校倉造り(あぜくらつくり)とされていましたが、経蔵の普及に伴い、建物の形式は特に限定されなくなりました。
>鐘楼 梵鐘が吊された建物で、多くは四方から鐘が見える「吹き放し鐘楼」ですが、
>袴腰鐘楼や、鐘楼門など、より高い位置に鐘をおさめた建物もあります。
>鐘の代わりに太鼓をおさめた物を、鼓楼(ころう)と呼びます。
>僧房・僧坊(そうぼう)・本坊(ほんぼう)・食堂(じきどう)
>寺院での僧侶の休息・食事・睡眠をするための建物です。大本山・総本山などの寺院を除き、現在ではその役割は寺務所や庫裡といった建物に置き換わっています。
>同じく休憩・食事にもちいられる建物として客殿がありますが、こちらは、寺院への来客者にたいして使われます。

善能寺 (京都市)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E8%83%BD%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
(拝空殿) 現在の本堂(祥空殿)は1971年(昭和46年)のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたものである。

打坂地蔵尊
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%9D%82%E5%9C%B0%E8%94%B5%E5%B0%8A
>1947年(昭和22年)にバスの乗客・運転士の命を救い、殉職した長崎自動車(長崎バス)瀬戸営業所の鬼塚道男車掌を称え、1974年(昭和49年)10月に長崎自動車が事故現場付近に建立した。

五箇山の念仏道場
https://toyama-bunkaisan.jp/search/1559/
> この地区に所在する浄土真宗門徒の在家道場の好例であり、村民の中心的存在として今なお大きな役割を果たしている。
>寿川道場の創立年代は不詳であるが、喚鐘刻銘によって宝暦4年(1754)には存在していたことが知られ、文政3年(1820)に再建に着手し翌文政4年3月に完成したのが現在のものである。
0426ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/06(火) 13:16:00.90ID:buYDci370
続き
舟地蔵伝説(大庭城)
https://kojodan.jp/castle/355/memo/783.html
> これは、北条早雲が大庭城を攻め落とした際に、城周辺の沼地を干上がらせるための方法を教えてくれた老婆を斬り殺したというもので、
>この老婆を哀れんだ地元の人々が祀ったのが舟地蔵だといわれています。
>ただし大庭城に攻撃を受けた記録がないことや、老婆がボタ餅を売っていたという点
>(このような飴・菓子の辻売りは、江戸時代以降の街商風俗であり、室町時代にはこのような風習はなかった)、
>また舟地蔵(台座が船型)信仰は江戸中期に関東一円に広まっていたことなどから、この伝説は江戸中期以降の創作だと考えられるそうです。

サールナート
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88
> 現サールナートは、釈迦が悟りを開いた後、鹿が多く住む林(旧訳「施鹿林」、新訳「鹿野苑」)の中で初めて教えを説いた初転法輪の故地とされる。
>鹿野苑(ろくやおん、梵: mṛgadāva)はリシパタナとも呼ばれる。リシパタナ(梵: ṛṣi-patana)とは「聖仙の集まるところ」の意で、
>『解深密経』などでは「仙人堕処」(仙人の落ちる所)と誤訳され、『雑阿含経』などでは「仙人住処」(仙人の住む所)と訳されている
>(patana の語基である動詞根 √pat には「落ちる」という意味があるが、植木雅俊はこの場合「~に入る」の意味に解釈するべきであると指摘している。
>一方、中村元はパタナには現代ヒンディー語でも飛行場の意味に使われることがあり、仙人の飛行場の意味であるとしてしている)

サヘート・マヘート
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%88
> 仏教八大聖地の一つで、隣接した二つの遺跡群をまとめた呼称。ヒンドスタン平原の中、ガンジス川の支流ラプチ川に接している。
>現在はインドのウッタル・プラデーシュ州に位置し、ニューデリーからほぼ東へ600km、ネパールとの国境に近い。
> サヘート遺跡は漢訳仏典で言うところの祇園精舎、マヘート遺跡は舎衛城(シュラーヴァスティー)に当たるのではないかとされている。
>仏教経典では釈迦説法の場所として冒頭に「祇樹給孤独園」と記されたものが多い。
>略称である祇園精舎は、『平家物語』冒頭の有名な「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり・・」の書き出しで日本でも広く知られている。
>舎衛城は釈迦在世当時の有力大国コーサラ国の首都で、祇園精舎はコーサラ国の長者スダッタ(須達)とジェータ(祗陀)太子の寄進によって出来た園とされている。

クシナガラ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%A9
> 釈尊入滅の地とされ、四大聖地のひとつ。ワーラーナシー(ベナレス)の北150kmの地にある。(26.45 N, 83.24 E)。また、クシナラとも呼ばれる。
>死期を悟った釈尊は霊鷲山(ビハール州)から生まれ故郷に向う途中にこの地で亡くなる。
>純陀(チュンダ)の供養した「スーカラ・マッダヴァ(sūkara maddava)」(毒きのこ・あるいは豚が探すトリュフのようなキノコ料理とも)を食して激しい下痢を起こしたのが原因とされる。
>マハーパリニッバーナ・スッタンタ(大般涅槃経)には、このクシナガラで釈尊が涅槃するまでの模様が書かれている。
0427ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/06(火) 13:27:07.08ID:buYDci370
プレアヴィヒア寺院
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%82%A2%E5%AF%BA%E9%99%A2
> カンボジア・タイ国境にあるダンレク山地内のカンボジア領内(プレアヴィヒア州)に位置するヒンドゥー教寺院。9世紀末にクメール人によって建設され、11世紀に増築されたとされる。
>寺院名の「プレアヴィヒア」とはクメール語で「神聖な寺院」の意味で、サンスクリットから来ている。
>タイ側の呼称である「プラーサート・プラウィハーン」も同じくタイ語で「神聖な寺院」の意味である。
> 9世紀にクメール王朝によって創建された時はヒンドゥー教のシヴァ神を祀る寺院であった。
>プレアヴィヒア寺院における建築で現存するものの中では、10世紀初期のコ・ケー時代のものが最古である。
>プレアヴィヒア寺院は数世紀にわたって増改築が重ねられ、10世紀末期のバンテアイ・スレイ様式も残っているが、
>今日目にする寺院建築の大半は、11世紀前半のスーリヤヴァルマン1世と12世紀前半のスーリヤヴァルマン2世の治世に増築されたものである。
>寺院内にはスーリヤヴァルマン2世が祭祀を学び、師であるバラモンに像などを寄進したという銘文が残っている。
>>ヒンドゥー教がこの地域で衰退すると、プレアヴィヒア寺院は仏教寺院となった。
> 北側は平地で、今日ではここに国境線が走っており、その向こう側はタイの領土となる。参道は丘を登る形で南に伸び、そこに伽藍が位置する。
>南端は北端より120m高くなる。これは須弥山(世界軸の聖山)を模した形式である。参道には5つの楼門があり、北側から第5、第4…と便宜的に呼ばれている。
>各楼門とも階段を昇った上に建てられ、そこで眺望に変化がもたらされる。また楼門を潜らないと次の中庭が視野に入らないような工夫がなされている。
>第5楼門はコ・ケー(別名チョック・ガルギャー)様式で朱の色彩が残っているが、屋根の装飾は失われている。
>第4楼門はアンコール・トムのバプーオン(銅塔一座)やクリアン(収蔵庫)と同じ様式で、南側に三角形の切妻壁がある。
>これには乳海攪拌(ヒンドゥー教の天地創造神話)のクールマ(インド神話の亀)が描かれており、プレアヴィヒア寺院の傑作のひとつである。
>第3楼門は最大のもので2つの側門がある。最後に2つの中庭を経て、境内となる。外側の中庭には経蔵がある。

オマケ
円通寺 (昆明市)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E9%80%9A%E5%AF%BA_(%E6%98%86%E6%98%8E%E5%B8%82)
(伽藍) 円通勝境坊、八角亭、円通殿、銅仏殿、天王殿、放生池

高野山開創1200年
https://www.pref.wakayama.lg.jp/bcms/prefg/000200/nagomi/w26/22_t/index.html
> 開創1200年を記念して、高野山では歴史や魅力を伝える様々な行事が行われる。中心となるのは、4月2日から5月21日までの50日間執り行われる絢爛壮麗な記念大法会だ。
>日本中から集まった僧侶たちが、空海が残した大いなる遺産への感謝を込め祈る姿をみることができる。
> また、壇上伽藍中門が、天保14(1843)年の火災による焼失以来172年ぶりにその姿を見せる。
>開創1200年に向けて再建されたもので、新たな中門は、幅25m、奥行き15m、高さ16mの木造入母屋造、檜皮葺の屋根を持ち、
>丹土色に塗られた檀上伽藍でもひときわ壮麗な建造物となった。
>大法会初日には、その完成を祝い「開創大法会開白中門落慶大曼荼羅供」が執り行われる。
> 他には、高野山1200年の歴史上初めてとなる金堂の御本尊(=薬師如来)特別開帳や、16年ぶりとなる金剛峯寺の持仏御本尊(=弘法大師座像)開帳、
>国宝「不動堂」内部特別公開や高野山霊宝館に収蔵されている国宝・重要文化財の数々が期間限定で公開される。
0431ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/12(月) 20:03:03.07ID:vZfAHRfs0
南無阿弥陀仏

野辺送り とは?現代ではあまり見られなくなった葬列の風習について解説
https://tamanoya.cocolonet.jp/column/ready/%E9%87%8E%E8%BE%BA%E9%80%81%E3%82%8A-%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%82%E3%81%BE%E3%82%8A%E8%A6%8B%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F/#:~:text=%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%82%88%E3%81%86-,%E9%87%8E%E8%BE%BA%E9%80%81%E3%82%8A%20%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E8%91%AC%E5%84%80%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%84%80%E5%BC%8F%E3%81%AE%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%A7,%E5%86%85%E5%AE%B9%E3%82%92%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
> 葬儀における儀式のひとつで、古くは葬儀が終わった後に故人を埋葬する場所まで、あるいは火葬場まで送ることを指しました。
>葬儀場となる自宅やお寺から土葬墓地や火葬場まで続く弔いの列は、葬列と呼ばれたものです。
> 読経を行う葬儀の間は僧侶がその場を取り仕切りますが、野辺の送りについては、親族の代表者や近隣の人々が地域の風習に則って故人を送ることになります。
>遺体の扱いを間違うと死者の穢れが近くの人に移ると信じられていた時代においては、しきたり通りに野辺の送りを行うことが、送る側の大きな仕事だったのです。
(中略) 遺影や位牌を持つ役や、葬儀場を出る順番が決まっていることを不思議に思う人もいるでしょう。それは、野辺送りがあった頃の名残なのです。
>先頭にたいまつや提灯 >近隣の人の旗(地域によって異なる) >造花をつけた竹かご(おひねりや菓子が入ってる) >シカ(四華、死華) >香炉 >枕飯 >導師 >天蓋(魔よけ)

ローイクラトン
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
> 農業の収穫に感謝し、水の女神コンカーに祈りをささげ、罪を謝罪し、自らを清める祭りである。紙やバナナの葉で作った灯篭を川に流す。
>チェンマイにおいてはイーペン祭りと呼ばれ、コムローイ、コムファイと呼ばれる熱気球を空に飛ばす。
>サンサーイ郡で行われるイーペン祭りでは、数千個のコムローイが飛ばされる。

「香典」と「香奠」の違いは何ですか?
https://www.famille-kazokusou.com/faq/manner/post-417.html
> どちらも「こうでん」と読み、喪家様に贈る金品のことを指します。
>「奠」には神仏に供え物をするという意味があり、「香」がお香(線香)ですから、そもそも香典(香奠)には「お香をお供えする」という意味合いがあるのです。
>ただ「奠」は常用漢字ではないため、「香典」が広く使われています。
0433ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/16(金) 16:09:25.74ID:JNKwXb9/0
タンヌなんだっけの現代から

Tuva the World Drum
https://youtu.be/ysi3C53XuP8
大きな琥珀色で紋様のある太鼓は御利益がある模様
2:00過ぎくらいの女の子の格好がエゥーゴのファの軍服に似ていたw

Go to Tuva - film from Garlo Jo
https://youtu.be/FdNJ_nynQgw
トゥバの歌手とフランスのバンドが組んでの巡業
トゥバはスイスとオーストリアを一緒くたにしたような世界...
イルクーツクやアバカンを移動する
5:40辺りから並ぶ太鼓のイラストが一々ユーモラスでいい
ステップと草に覆われた丘の続く世界...風が気持ちよさげ
アルティンボラクというのはバンガロー村とアイとは違うのか...?(ネーミングはカザフスタンっぽい)
ユルタの中にチアーズみたいな囲い状カウンターがあるw
14:40頃から寺院が出てくる、簡単な囲いの中にポツンと...いくつかのダツァンの他には、赤軍に破壊された寺院の石壁が残る
(参拝者は壁を触りながら回っていく、中にはダライ・ラマが奉納した?神輿のようなものがある)
16:40辺りからユルタの組み立て、幕を張る際に1人が乗っても大丈夫なくらいの強度がある、扉の左右に覗き穴(縦長で顔を軽く突っ込めるくらい)がある例も
最後にパレード!馬とドレスとレスラー!
0434ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/16(金) 16:49:01.60ID:JNKwXb9/0
オマケ

ゴタル (モンゴリアン・ブーツ)
https://www.modalina.jp/modapedia/w/e382b4e382bfe383ab/
> ゴタルとは、モンゴルの男女とも着用する伝統的なブーツで、つま先が反り上がり、履き口の前側が高くなっているのが特徴。
>民族調の装飾がされているものが多く、モンゴリアン・ブーツとも呼ばれる。

東チベット カムの旅(11)~セルタ(色達)~
https://4travel.jp/travelogue/10808086
> セルタは一見ごく普通の田舎町ですが、道行くチベッタンの民族衣装着用率がすごく高く、皆おしゃれに着飾っています。
>郊外のトンガ・ゴンパ(洞ガ寺)にも立ち寄りましたが、寺の門前には様々な型をしたタルチョーが幾重にも張り巡らされていて、タルチョー好きの私にとっては大満足のゴンパでした。
>>山肌一面タルチョーに覆われている山で、地元では「神山」とされているそうですが、名称まではわかりませんでした。
>セルタまでの途中にあった、県政府が推進する遊牧民定住村。
>民族衣装を着飾ったセルタの女性。着物を綺麗に着こなしていて、カウボーイハットを身に着けており、皆おしゃれです。
>>このトンガゴンパはセルタの大草原の中に位置しており、ゴンパの前にはいくつもの塔に架けられた無数のタルチョーがひしめき合っています。
>まず木造の骨組みを作り、タルチョーを上からぶら下げて木組みの周囲を覆っていきます。このタルチョー塔はできてから古いからなのか、びっしり感が薄いです。
>塔から両端に伸びるタルチョーが手のようでもあり、タルチョーの白い衣装をまとった生き物の様にも見えます。

ロシア一危険都市と言われるトゥバ共和国の「クズル」に行くのを断念した理由
https://www.multilingirl.com/2021/07/tuva-republic.html
> で、イルクーツクにいた時にも行こうと試みたけど決心がつかなかったトゥバ共和国のクズル。ここノヴォシビルスクからも2時間以内で直行便があるので行こうと迷っていたが、結局やめた。
>ここノヴォシビルスクにいる間、クズルに行くことの判断に使った時間はおそらく10時間以上だろう。今、私にとって、トゥバ共和国が一種のブランドのようなものになっていて、常に考えている。
(中略) ロシア人からすると、トゥバ人はロシア人のことを嫌っている。と思っているようだ。
>これはグーグルマップで空港など、色んな場所の評価をみている時に、ロシア人がトゥバ人に対してこぼしていたコメントからも察することができた。
> 私はモンゴル自体が中国に統治されていたという歴史を知らなかったが、これを理解してから、以前クズルの街並みを紹介していた映像をロシア語で見てた時に、
>住宅地に、「SHANGHAI」と書かれていた意味がやっと分かった。
>つまり、現地のトゥバ人の若者はは、モスクワ中心のロシア人よりも、同じ外見をした中国の北京や上海を向いているのではないか?という推測。
> 彼らはロシア連邦にはいたくないのに独立すらできず、しかも一人当たりのGDPベースでいえばロシア最低レベル。
>中国に組み込まれるわけにもいかず、だからといって外見が似てるけど言語系統が違うモンゴルに統治されるのもプライドが許さない。
>そういう状況に、つまり、世界に存在すらしないかのように、ひっそりと存在している共和国ということなのかもしれない。
> いずれにしても、ロシア人からすれば、チェチェン共和国とトゥバ共和国は民族意識が非常に強く軍がなければ独立してしまうようなイメージのある国ということである。
>その中でもチェチェン共和国は首都グロズヌイの高層ビル群を見てもわかるように繁栄している一方、トゥバ共和国は貧しい物扱い。
>いずれトゥバ共和国がロシア連邦から抜けてトルクメニスタンのような独裁政権になると思います。というようなコメントにかなりの、いいね!がつけられていたり。
>トゥバ人を褒めるコメントで印象的だったのは、トゥバは子供が多いので、これが最高の庭だよ。というものだった。これには、4000もの、いいね!がつけられていた。
>子供が多い国は確かに素敵だ。
(中略) この動画に対して、同じ言語系統のアゼルバイジャン人から、トゥバ人よ、愛してる!とか、
>クズルの犯罪や、治安の悪さは誇張されすぎ、実際に行ったけど、夜にホテルまで戻った時、私のことを指差す人すらいなかったなど、
>トゥバに対して、肯定的なコメントで溢れていた。
0435ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/17(土) 21:42:10.46ID:6geZoD9v0
光る君への後に室町大河、来ないかなぁ

室町文化
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%96%87%E5%8C%96
> 南北朝文化の後、3代将軍足利義満の時代に北山文化が栄え、ついで8代将軍足利義政の時代に東山文化として成熟した。
>戦国時代にはさらに文化の民衆化と地方普及が進んだ。広義には、南北朝文化を含むことがある。
> 征夷大将軍足利氏を中心に有力守護をはじめとする上層武士が京都に多く居住し、伝統的な公家文化とさかんに接触し、
>また海外との交易によって禅宗をはじめとする大陸文化が伝えられると、武家はその影響を受けながらも、自らの力強さ、簡潔さと公家文化の伝統美を融合させ、新しい武家文化を開化させた。
> 一方、文化の面でも(町衆や農民との)幅広い交流がすすみ、庶民性や地方的特色がいっそう強まった。庶民文芸の発展や鎌倉新仏教の地方への広まりなどはその現れである。
>猿楽・狂言・連歌などは都市・農村問わず愛好され、喫茶の風習も茶の湯として広がった。
>これらはいずれも多かれ少なかれ団欒的な、あるいは「一味同心」的な性格をもつ芸能・芸道であったが、当時の武士の日常に対応したものであり、
>惣(集合形態)における庶民の日々の生活、さらに都市民の生活にも合致したものであった。
(北山) 大陸文化と日本文化、公家文化と武家文化など諸文化の融合が大いに進展するなど活気に満ちてはいるが、
>一方では粗野な側面をもつ足利義満の時期の文化である。
>3代将軍義満は京都の北山に壮麗な山荘を造ったが、そこに建てられた金閣の建築様式が、
>伝統的な寝殿造風と禅宗寺院における禅宗様を折衷したものであり、時代の特徴をよくあらわしているので、この時代の文化を北山文化とよんでいる。
(東山) 禅の精神に基づく簡素さ、枯淡の味わいと伝統文化における風雅、幽玄、侘(わび)を精神的基調とする足利義政の時期の文化である。
>北山文化で開花した室町時代の文化は、その芸術性が生活文化の中に取り込まれ、新しい独自の文化として根づいていった。
>8代将軍義政は、応仁の乱後、京都の東山に山荘をつくり、そこに祖父義満にならって銀閣を建てた。この時期の文化は東山山荘に象徴されるところから東山文化とよばれる。
(戦国期) 戦国大名のなかでとくに学芸に関心の高かったのは越前の朝倉氏、駿河の今川氏、周防の大内氏などであった。
>大内氏の場合は、勘合貿易による富や大陸文化の摂取もあって、城下町の山口には画僧雪舟をはじめ、
>多くの僧侶・学者・公家が集まり、「大内版」とよばれる出版事業もおこなわれた(大内文化)。
> この時代は、地方の国人衆や土豪層においても所領経営のためには読み・書き・計算などが必要と考えられるようになった時代でもあった。
>農民が書いた土地証文などの数もしだいに増加し、文字が庶民層にまで広く普及するようになった。
>『庭訓往来』や『御成敗式目』、『実語教』は武士の子弟教育における教科書として寺院などで広く用いられていた。

オマケ
三浦(さんぽ)の乱
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E3%81%AE%E4%B9%B1
> 李氏朝鮮建国当初は、入港場に制限はなく、通交者は随意の浦々に入港することが可能であった。
>しかし各地の防備の状況が倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、
>1407年、朝鮮は興利倭船(米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)に制限し、
>1410年には使送船(使節による通交船)についても同様の措置が取られた。
>1426年、対馬の有力者早田氏が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し、拒絶する代償として塩浦(蔚山広域市)を入港場に追加した。
>これら釜山浦・薺浦・塩浦を総称して三浦と呼ぶ。(浦は港の意味)
> 1443年の嘉吉条約により、朝鮮は対馬から通交する歳遣船(毎年派遣される使送船)の上限を年間50隻に定めた。
>それに対し宗氏は特送船(緊急の用事で送る使送船)を歳遣船の定数外とし、島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)とは別に有力庶家名義の歳遣船を定約し、
>また島主歳遣船の上限を引き上げるよう要求したが、これは朝鮮から拒絶された。
>さらに対馬島外勢力や実在しない勢力名を騙った新たな通交者の偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。
(中略) 日本国王使の派遣には朝鮮が室町幕府に発行する象牙符が必要であった。
>象牙符は大友氏と大内氏が所持するものであり、偽の日本国王使の派遣には大友氏、大内氏の協力が欠かせず、宗氏は両氏との関係の緊密化に腐心することになる。
0436ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/19(月) 14:45:05.87ID:9vnZFWh30
鎌倉殿関係のURLを消化していく

大泉寺 訪問
https://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/9d9ef2f5709183072acd6054ac7c968a
> 沼津市の大泉寺は、源頼朝の弟・阿野全成が源家供養のために建てたため、全成が開基と言われていて、本尊聖観音菩薩像は運慶作と伝えられています。
>元々は全成の館があったところとのことで、寺には土塁を観ることもできます。
> 頼朝の弟であり、北条義時の妹婿でもあった全成に対する頼朝の信頼は厚く、この地からは伊豆半島が遠望でき、富士山にも近いことから、
>源家将軍の時に度々行われた富士の裾野での狩りなどで将軍の休息に使われていたのではないか?とのお話しも聴きました。
> 全成の首は常陸から館まで飛び、この地にあった松に掛かったとの伝承があり「首懸け松」と呼ばれていました。
>一説には首を持ち帰った家臣が警備の厳しい館に入れずに首を掛けたとの話もあるそうです。
>首懸け松は、内部から虫にやられ倒れてしまいそこには切り株のモニュメントと石碑があります(本物の切り株も寺内に残っています)
> 倒壊時に門の瓦まで届いたとされています。
>とんでもない距離なので、現地で実感して欲しいです。

源実朝暗殺の黒幕は義時か? 義村か? それとも…
https://www.google.com/amp/s/www.nippon.com/ja/japan-topics/c10517/amp/
> 暗殺当日を記録した史書『愚管抄』と『吾妻鏡』をひも解いてみたい。
>同じ出来事を取り上げた2つの史料は記述内容が異なっており、このことが後世、実朝の死の真相に諸説紛々となる原因だ。
>まず『愚管抄』の暗殺場面を、『愚管抄 全現代語訳』(訳・大隅和雄 / 講談社学術文庫)から引用する。(全文引用は長文となるため、筆者の判断で一部省略)
(中略) 実朝を殺した公暁は、その足で三浦義村に使者を送り、「今将軍之闕(けつ)あり。吾專ら東關之長にあたる也」と義村に告げる。
>「将軍の席が空いたから、私が関東(東關)の長(将軍)に就く順がきた」という意味である。この発言は『愚管抄』『吾妻鏡』ともに記している。
>しかし、父の仇・北条義時は生きていた。義時暗殺に失敗したことによって、公暁の目論見は水泡に帰す。討つべき相手は、実朝より義時を優先すべきだったのである。
>義時が健在である以上、鎌倉は何ら変わらない。義時率いる鎌倉は、京都の後鳥羽上皇との最終決戦・承久の乱にひた走っていく。
暗殺現場の図解、『梅幸百種之内 公暁禅師』あり

公暁と平家一門の供僧の関係
https://serai.jp/hobby/1100961
同意供僧 : 共犯者 吾妻鑑ではこの3人(良祐、顕信、良弁)が平家出身者としている

ある朝敵、ある演説(AI生成イラスト)
https://www.pixiv.net/artworks/103544624
なんかサイケデリックアートみたいな味わいがある...
0437ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/25(日) 10:46:04.29ID:lP8d170g0
…仏教って激しくね?

無学祖元の「臨剣の頌」
https://tuesgenial.exblog.jp/27932882/
> 蒙古軍が南宋に浸入した時、祖元は、温州の能仁寺に避難していたのですが、
>元軍を前に詠んだ「臨剣の頌」(りんけんのじゅ)という漢詩があります。
>>乾坤無地卓孤笻   乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
>>且喜人空法亦空   喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
>>珍重大元三尺剣   珍重す、大元三尺の剣(つるぎ)
>>電光影裏斬春風   電光、影裏に春風を斬る
>これを聞いた元軍は黙って立ち去ったそうです。
>>天地には一本の竹棹を立てる余地もない。
>>ただ喜ばしいことは、人は空であり、法も亦空である。
>>珍重すべきは、元兵が持つ三尺の剣である。
>>その剣を振るったとしても稲妻のように瞬間に、春風を斬るようなものである。
> どうですか?解釈があっても、なおかつ難解な「頌」ですよね。もう少しくだけた解釈があります。
>>天地の間に一本の杖(孤筇)を立てる余地もない。
>>今、そちらも空、こちらも空。
>>空の世界にいるのだから、オマエさんがオレの首を斬ったって、それは稲光がピカッと光るときに春の風を斬るようなもので何たることはない。
>>何たることがないどころか珍重する。どうもありがとう、と言って喜ぶというわけ。
> なんとも、達観の極みというか、凡人の私には、はっきり言って判りかねます。
>首を斬られること=死ですけど、祖元の言う「死」は己の身体の死であって、魂の死ではなく、それならいくらでもどうぞ、という感じ???
> 元軍に殺されそうになったまさにその時、無学祖元は、この「頌」を、何事にも動じない態度でサラリと詠まれたのでしょうね。
>禅僧の威厳が元の大軍を圧倒したということですね。いやはや。

天性寺 (郡山市)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%80%A7%E5%AF%BA_(%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82)
(笹川のあばれ地蔵) 昔、地区を流れる阿武隈川が洪水になったとき、川上から数多くの木が流れてきた。
>一人の百姓がその木を持ち帰り、薪割りの台に使っていたところ、いつの間にかその木が神棚に上がっており、よく見ると、かすかながら目と鼻が刻まれていた。
>庄屋さまに見てもらったところ、お地蔵様に間違いないというのでこれをお寺に納めたところ、村で流行っていた病気が収まり、お地蔵様が信仰の対象となった。
> いつの頃からか、このお地蔵様を村中に引き回す風習が生まれ、お地蔵様も子供たちと暴れるのを喜んでいるようなので、やがては親しみをこめて「あばれ地蔵」と呼ばれるようになった。
(その後) 毎年11月2日の夕方から行なわれる、ヤナギの木で作られた地蔵を大地に打つ(鎮魂)という神仏習合型の伝統行事。
>当日は、まず地蔵堂で地蔵様に新しい縄が結ばれ、住職のお払いの後、頭からお神酒をかけられてから
>6体のお地蔵様がそれぞれに分かれて出発し、地域の一軒一軒のそれぞれの戸口のところで、かけ声とともに、お地蔵様を3回地面に叩きつけて回る。

摩利支天
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E5%88%A9%E6%94%AF%E5%A4%A9
> 摩利支天(マーリーチー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」(Marīci)を神格化したもので、由来は古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場するウシャスという暁の女神であると考えられている。
>陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。
>これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。
>タイ捨流剣術では、現在でもなお、「タイ捨流忍心術」摩利支天経を唱えてから稽古や演武に入る。
(中略) 日本には忍者が結ぶ印の基になった、戦場に臨む武士が行う修法「摩利支天の法」(まりしてんのほう)が存在し、摩利支天は武士の守り本尊として鎌倉時代から武士に人気があった。
>方法は、右手と左手の人差し指と中指をそれぞれ立て、右手を刀、左手を鞘に見立て、右手で空中を切る。
>空中を切った後、刀に見立てた右手指は、鞘に見立てた左手に納める。
0438ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/27(火) 08:59:58.87ID:4bBSiose0
なるほど、寺院には行政施設の一面もあったわけか

法雲寺 (兵庫県香美町)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9B%B2%E5%AF%BA_(%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E9%A6%99%E7%BE%8E%E7%94%BA)
> 法雲寺のある現在の兵庫県美方郡香美町村岡区周辺は、南北朝時代より七美(ひつみ)の庄と呼ばれており、庄内のほとんどは花園・妙心寺(臨済宗)第二世授翁宗弼の荘園であった。
>宗弼は俗名を藤原藤房(万里小路藤房)ともいわれており、後醍醐天皇の側近で建武の新政の一番の功労者であったといわれる。
>永和元年(1375年)、80歳の時に七美庄に自ら発願し報恩寺(ほうおんじ)を建立し、父母や先祖の菩提を供養すると共に、荘園の政所として土地の管理に当らせていた。
> 江戸時代、山名氏の嫡流である山名豊国は、江戸幕府より七美庄一帯6700石を与えられ、交代寄合表御礼衆となった。
>交代寄合は、参勤交代することが義務付けられていた諸大名と異なり、参勤の強制・義務ではなく、自発的に行うものとされていた。
>このため豊国とその次の当主・豊政は京や江戸で暮し、七美庄には足を向けた形跡はなく、同地の行政は国家老が行っていた。
> 元禄19年(1642年)、3代当主・矩豊が封地に入部し、陣屋を兎塚(香美町福岡)から黒野に移し、村の名前も「黒野村」から「村岡村」へと改め、新たな城下町造りを行った。
> 矩豊は黒野の報恩寺を山名氏歴代の菩提寺と定め、鎌倉時代以来の宝牌を納めて、名門・山名宗家としての祭祀を尽くした。
>また、矩豊は報恩寺の名称を父・矩政の法名・法雲(ほううん)をあてはめ、寺号を現在の法雲寺に改めさせ、
>併せて矩豊自身が熱心な法華経信仰者であったため宗派を臨済宗から日蓮宗に変更された。
>しかし、当時の徳川将軍家は天台宗と浄土宗を信仰しており、その後、矩豊は御伽衆という将軍に近しい役職上からの判断もあってか、天台宗へと宗派を再び変更し現在に至る。
・関連 : 打吹城 >>415
0439ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/27(火) 09:29:11.01ID:4bBSiose0
オマケ
万里小路藤房
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E8%97%A4%E6%88%BF
> 同1331年天皇の倒幕計画が露見したため(元弘の変)、8月四条隆資・北畠具行と共に天皇に供奉して笠置山へ逃れた。
>1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日には笠置山が陥落し、藤房は天皇を助けて敗走するも、翌日有王山で捕捉されてすぐに解官となる(『公卿補任』)。
>10月宇治平等院から六波羅に移送され、武蔵左近大夫将監の許へ預けられた。
>元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、5月京都を発って常陸国に下り、小田治久(高知)の藤沢城に籠居。
>この間、治久に対する与同勧誘が功を奏したのか、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月には治久を伴って上洛し、復官を果たした。
> 元弘3年(1333年)、四番制の初期雑訴決断所(訴訟機関)の寄人に任じられている。
>建武元年(1334年)5月18日 には、恩賞方四番のうちの三番局(畿内・山陽道・山陰道担当)の頭人に任じられており、建武政権でますます重きを為した(『建武記』)。
>同年8月中に、雑訴決断所が八番に拡充された際にも、やはり寄人に選ばれている(『建武記』)。
> ところが、同年10月5日に出家(『公卿補任』)。史料では「俄遁世」(にわかに出家してしまった)とあるばかりで(『尊卑分脈』)、理由は一切不明である。
>この時代、人生の絶頂期に出家願望を持つ事例は足利尊氏などにも見られる。
>その後の消息は不明で、相国寺に住したと伝える(『尊卑分脈』)他、各地に伝承が散見する(後述)。
(出家後の伝説) 3年もの間、中宮西園寺禧子の女房左衛門佐局(一説に平成輔の女)に懸想しており、笠置落ちの前夜に一夜限りの契りを結んだ。
>都を旅立つ間際に一目会おうとしたが果たせず、来るべき乱世を案じて形見の髪と離別の歌を残して去った。
>これを見た局はその悲嘆のあまり嵐山の大井川に身を投げたという(『太平記』巻4「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」)。
> 元弘の乱の笠置山行在所では、天皇が夢告により楠木正成を召し出した時、天皇に代わり勅使を派遣したという(『太平記』巻3「主上御夢事付楠事」)が、
>史実の正成はそれ以前から後醍醐天皇に加担しており(『臨川寺文書』)、物語を劇的に演出するための創作である。
> 建武元年(1334年)9月21日の石清水八幡宮行幸の際、既に官を棄てる覚悟をしていた藤房は、
>従者ともども人目を引く盛装で供奉したという(『太平記』巻13「藤房卿遁世事」)。

建武の新政は「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて
https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2022/07/25/113035
> 後醍醐天皇はこれ以前から独自の政策を始めており、例えば京都の米や酒の値段を決め、商人に米の定価販売をさせようとしておりました。
>京都ひいては全国の商業と流通を朝廷の支配下に置こうとしたのです。
(中略) ちなみに建武の新政では、以下のような役所が設けられていたのですが……
【中央政治】
> ◆記録所
>建武政権における最高機関。荘園の調査と訴訟を扱う。楠木正成などが所属。
> ◆武者所
>後醍醐天皇の親衛隊。新田義貞などが所属。
> ◆恩賞方
>討幕に参加した者への恩賞を決めるため、先例や意見を参考に話し合う部署。
> ◆雑訴決断所
>所領に関する訴訟を担当。二条河原の落書で「役に立たねえ」(超訳)と名指しされたところ。
【地方統治】
> ◆陸奥将軍府
>長官:義良親王 補佐:北畠顕家
>現在の宮城県多賀城市にあった
> ◆鎌倉将軍府
>長官:成良親王 補佐:足利直義(尊氏の弟)
0440ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/27(火) 09:29:22.53ID:4bBSiose0
山名豊国
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E5%9B%BD
> 着古した羽織を着ている豊国をみて、家康は「物持ちが良いと言っても限度がある」と窘めたところ、
>「これは足利義晴様にいただいたいものでございます」と答えた。これを聞いた家康は「豊国は古い恩義に背かない律義者だ」と賞した。
> ある時、「粗忽者と言うのは朽木卜斎(牧斎)殿のようなお方の事を言うのでしょうな」と徳川家康に語ると、
>家康は「なるほど、卜斎が粗忽者であるというのは皆が知ることであるが、御身(豊国)の粗忽さは卜斎以上であると私は思う」と答えた。
>周囲の者がこれを訝しむと、家康は「卜斎は粗忽者であるが、先祖伝来の朽木谷を今でも保っている。それに比べては御身はどうか。
>昔から山名家といえば六十余州の内の十一州を治めた大族で、六分の一殿と称えられた家である。
>それが今では所領を全く失い、こうして寄寓の身となっている。これはまさしく天下の粗忽と言えるもので、これを超える粗忽は無いと思う」と語った。
>これに対して豊国はさして恥じ入った様子もなく「全く仰る通りです。私も六分の一殿とまでの贅沢は言いませんから、せめて百分の一殿ぐらいには呼ばれたいものです」
>と答え、これには流石の家康も苦笑するしかなかったという。
> 関ヶ原の戦いの後、豊国はかつて自らを追放した武田高信の遺児・助信を捜し出して召抱え、200石を与えた。以後、助信の子孫は代々山名氏に仕えた。
> 征夷大将軍に就任した家康に謁見した際、室町幕府第10代将軍・足利義稙から山名氏当主に贈られた羽織を着用して賞された。
> 有職故実や和歌・連歌・茶湯・将棋などの文化、教養面に精通していた。
>室町時代の名族山名氏一門の生き残りとして、戦国時代から豊臣時代を巧みに生き残り自らの子孫を江戸幕府の上級旗本として存続させた。

花の乱・第25話『宗全切腹』(「受信料・花の乱」より移殖)
https://blog.goo.ne.jp/hirosawa_s/e/eeade9397bfc59851996d7be7732e863/?cid=f102b86dfd933abe4e081a555b043913&st=0
> 西軍の陣では、山名宗全が鷹を東軍・細川方に送ろうとしますが、鷹匠一行はその道中、畠山義就配下(多分)の馬切ヱ門に皆殺しにされてしまいます。
> 義就は、「鷹を敵陣に送るは和議の印。わしは山城の国を手に入れたばかり注・自己申告、
>これが戦いの終わりではない、むしろ始まりなのだ!」と、少年漫画の第1部・完みたいなことを言っています。
(中略) だらだらとした戦はさらに3年続きます。
>日野富子の周旋で、真乗院での和平会談が開かれますが、乗り気だったのは西軍・山名宗全と東軍・細川勝元のみ。
>赤松政則は、山名宗全と播磨・備前・美作の領有権を争う。畠山政長は、畠山義就と、家督と山城守護職を争いあう。
>斯波義敏は、斯波義廉と、越前・尾張・遠江守護職で争ってますし・・・(←調べんと分からん)
>真乗院室内で「そろそろ夢より覚めようか」「終わらせましょう、わが身が夢に食いつぶされぬうちに」と、宗全・勝元が和平を成立させようとしているそのとき、門前では
>「政長見参!」「政長ぁ!」「義就ぃ!」「義廉ぉ!」「義敏ぃ!」・・・と、耳で聞いただけではさっぱり分からない同族争いがおこります。文字を見ても分からん
>なお、相手が居ない赤松政則(18歳)は「かかれぇ!」とあごにしわを寄せて叫ぶしかありません。
>和平を望まぬ者どもの争いは室内におよび、戦を望まぬ山名宗全と細川勝元は、再び両軍の大将として祭り上げられ、さらに大義の無い戦いは継続していくのでした・・・
(中略) たぶんどなたもご存知無いとおもいますが、チェコアニメに「いもむしくんは大スター」というズデネク=ミレルクルテク(もぐらくん)の人の作品があるんですけど、
>> 「いもむしくん」がひょんな事でスターになり、クリスマスには世界中からプレゼントをもらう。
>>伴奏役の男の子が、そのプレゼントを開けながら、いもむしくんがそれを使って遊んでる様子をいろいろ思い浮かべて楽しむ
>のですが、それを見ている自分のなかに、「いもむしくんと男の子が一緒に遊ぶことは もう無いんじゃないか」という予感が起こったとき、
泣きそうになりました。(実際無かったのです)
>・・・非常に分かりにくい例えで、すみません。
0441ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/28(水) 22:00:30.44ID:U+svhSg20
What Future Waits

絶滅寸前のワニを復活させられるか、カンボジアで進む再導入
https://news.yahoo.co.jp/articles/03e9cfaec275337a61b9009577ca42680302b9dc
> 実際、シャムワニが人間を襲ったという報告は世界でもまれ。むしろ、恐れを感じるべきなのはシャムワニの方だろう。
>成長すると体長3メートルほどになるシャムワニは、かつては東南アジア全域に生息していたが、
>その皮や肉を目当てに数十年にわたって狩られ続けた結果、1990年代初頭には野生では絶滅したと判断されるに至った。
> ところが、シャムワニはカルダモン山脈で生き延びていた。2000年代に入ったころ、推定200頭足らずの個体が再発見されたのだ。
>それ以降、地元住民たちは定期的なパトロールを行って、密猟者などの脅威からシャムワニを守っている。
>「わたしたちは、ワニは神聖な生き物だと考えています」と、地域の監視リーダーを務めるチャンさんは言う。
(中略) 野生で捕獲されたシャムワニの多くは、かつてはワニの養殖場へ供給されていた。
>2010年のピーク時には、カンボジア国内に約900軒の養殖場があり、全部で25万頭以上のワニが飼育されていた。
>しかし近年、流行の変化や飼育コストの上昇によってワニ革製品への需要が衰えたことで、国内のワニ養殖産業は壊滅状態に陥った。
> 養殖場のワニは需要がなくなったのだから、それを野生に放流すればちょうどいいだろうと考える人もいるかもしれない。
>しかし、養殖されたシャムワニは、海生のワニや、数十年前にカンボジアに導入されたキューバワニとの交配によって、すでに遺伝子的な特徴をほぼ失っている。
>こうした交雑によって、本来おとなしいはずのシャムワニは非常に攻撃的になり、野生での生活に適さなくなってしまった。
(中略) 地元の人々はおおむね、ワニを守る活動を支持している。
>保護活動に伴う資金投入が、寺院や学校などの新しい設備を整える一助となっているほか、ワニの巣や卵を報告した村人には、金銭的な報酬も支払われるからだ。
>「うちの田んぼでワニを見かけたら、喜んで報告しますよ。これまでにもう2回報告しています」と、78歳のスレイ・ニーさんは言う。

オマケ
エボシカメレオン
https://pets-kojima.com/library/zukan_small/detail/id=24887

ニホンヤモリは外来種だった!遺伝子と古文書で解明したヤモリと人の3千年史
https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2022/12/press20221201-02-gecko.html
> ニホンヤモリは、約3000年前に中国から九州に渡来し、平安時代末までに近畿へ、一部が東海道を東進して江戸後期~明治初期に関東へ、
>また戦国時代に近畿から北陸に移った系統が江戸時代には、北前船の寄港地として栄えていた酒田へと移住したと推定されました。
>遺伝子から推定された歴史は古文書の記録と整合的であり、日本社会の発展の歴史との間に見られる多くの共通点は、ニホンヤモリが人や物資の移動に伴って分布を広げたことを裏付けます。
>本研究成果は、現在の生物の分布や多様性を理解する上で、近代以前の人と生物の関係が無視できない要因であることを示す重要な成果です。

ヘビも友達をつくる、「動物の友情」に新研究
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/051600298/?ST=m_news
> ヘビが親しい友達をつくると聞くと、意外に感じる人がいるかもしれない。だが、こうした関係は、フラミンゴからコウモリやゾウまで、動物界全体で見られることがわかってきている。
>例えば、ナミチスイコウモリに関する最近の研究では、コウモリも人間のように条件付きの友好関係を築くことが示された。
0442ダーバン亡命政府 ◆PujdL0.qWI
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2022/12/30(金) 12:51:07.46ID:p/lf/ezi0
最近のチノちゃんキツいや()

314 通常の名無しさんの3倍 2022/12/30(金) 12:48:29.71 ID:
グダグダ五月蠅いな
0443通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 13:04:51.01
荒らし乙
0445通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 13:07:04.25
今度はここで見苦し言い訳ショーか
0446通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 13:07:54.85ID:p/lf/ezi0
まぁココはアレだ、一応仏教のネタ扱ってるスレだからな
宗論といこうじゃないか、クシティ宗論、どうぞ
0447通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 13:12:23.61
何喚いてもお前が荒らしと言う事実は変わらない
アーアーキコエナーイミトメナーイしてるの丸わかりだが
0449ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/30(金) 13:48:42.42ID:p/lf/ezi0
何が障ったんだろうな、汚い言葉なんかは抑えたんだが

IDを消すようなハレンチなこともしてないしな~
0451通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 13:57:28.87
ブログでやれ…こんな簡単な事が理解できない荒らしが発狂してる
0452ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/30(金) 14:09:25.16ID:p/lf/ezi0
ブログガー、ブログガー

経緯から考えて5chしかないのに、何を寝ぼけてるんだろうこの荒らしは
0453通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 14:15:17.16
日本語分かりますか?わかってるならこんな荒らししないか
0454ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/30(金) 14:16:31.67ID:p/lf/ezi0
ID無しブロガーって書くとちょっとアウトローっぽくていいんじゃないか?いや荒らしだけどw
0455ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/30(金) 16:02:18.15ID:p/lf/ezi0
もう一度、NGに掛からないか試してみる

ID無しガイジ君 : ニンティ二重帝国のSS等はブログでやるべき、これが伝わっていない、ニンティ二重帝国は常軌を逸している >>451
ID無しガイジ君 : ニンティ二重帝国は日本語を介していないのでこのようにしている >>453

こちらからの回答
ブログでやるべき→そもそも5chのSSスレに由来するSSなので5chに投稿するのが妥当
日本語を介していない→拝読しましたが特に変更するところはありません、凸乙
0457通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 16:20:10.95
荒らしの発狂3連投か…日本語分かりませんって喚かなくても分かってるから安心しろ
0459ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/30(金) 17:49:39.58ID:p/lf/ezi0
どれ、可哀想だから勉強になるような物を貼っておこう、精進するんだぞ

じつは身近な仏教用語「舎利」
https://www.nichiren.or.jp/glossary/id135/
>小粒で白く綺麗なお米が、お釈迦様のご遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)のようだという事から、お米の事を「シャリ」と呼ぶようになったと言われています。

不安障害に効果的な10のアーサナその1
https://www.yoga-gene.com/post-27440/ryokokiuchi-0803-2/
木のポーズ(ヴルクシャーサナ)なんて不動の精神に心が洗われそうじゃないか

ノルブリンカ・インスティチュートの手紙 —— コロナで困っています
https://www.tibethouse.jp/news_release/2020/20200804_news.html
> ノルブリンカは過去25年にわたり、チベット人の職人、作家、教育者、クリエーターが活躍できるサステナブルなコミュニティを築き上げてきました。
>亡命チベット人は、才能と熱意をそこに注ぎ、生きる糧を得てまいりました。
> これまでノルブリンカはダラムサラ地域の亡命チベット人に最大の雇用機会を提供してまいりました。
>亡命地でもチベット文化が薫る環境を整え、チベット文化に触れ、楽しみ、学びを得る場を訪れる人に提供してきたのです。
> わたしたちは今年、創業25周年を迎えます。本来ならチームの成果を祝い、目指すビジョンの達成に向けた従業員の貢献と熱意を祝福する年となるはずでした。
>ところが今、コロナウイルス流行により、ノルブリンカのコミュニティ、366人の従業員、研修生、生徒、そしてその家族の生活が危機に晒されています。
>ノルブリンカはその収益を訪問者、観光客の買い物による工芸品の売り上げ、および、ゲストハウス宿泊に依存しています。
>そこへきてコロナにより訪問者の流れが止まり、現状、状況打開の見通しが見えません。
>現状、お客様はノルブリンカを訪れることはできませんが、ノルブリンカのウェブサイトがお客様をお迎えしています。
0460通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 22:18:19.29
スゲェな…上から目線で馬鹿アピールって
0461ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/30(金) 22:21:16.16ID:xvKZH3650
大学の先生が言ってたなぁ
「教える側が報われるとは思わない方がいい」とw

寺に入れられるなんて上流階級の坊ちゃんでもなきゃ余程の悪童もいただろうし、お察ししますわ
0462通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 23:03:46.77
荒らしコピペ貼るだけで教えてる気分になってるのか御目出度いな流石耄碌爺
エア大学は楽しかったですか?
0464通常の名無しさんの3倍
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2022/12/30(金) 23:27:51.75
荒らしがまた何か喚いてる
0466通常の名無しさんの3倍
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2022/12/31(土) 08:08:57.21
何が言いたいんだろう
0468通常の名無しさんの3倍
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2022/12/31(土) 08:23:56.76
また痴呆アピールしてるよこの荒らし爺
0469ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/31(土) 08:40:04.22ID:BtMhiymt0
その共感してほしいアピールにはいい加減飽きた
IDがない、汚い短文しか使えない、そもそも空襲ごっこしてる余所者

誰が共感するんだ?
0470通常の名無しさんの3倍
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2022/12/31(土) 08:42:04.11
借り物の言葉で馬鹿アピールする糞荒らし
0471ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/31(土) 08:47:57.86ID:BtMhiymt0
お前は常識に訴えかける戦術が好きみたいだが
誰もお前から(たとえ反面教師でも)常識を教わるほど幼稚じゃないんだよ
強いて言うなら荒らし連中? 汚ぇ呼び水だな(笑)

他人の言い分を借り物と呼ぶお前の語彙力は脳みそピーナッツみたいでお笑い草だったぜ
0472通常の名無しさんの3倍
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2022/12/31(土) 08:49:56.51
何長考して理解してない言葉拾ってきて貼り付けようとも荒らしの見苦しい言い訳
0473ニンティ二重帝国 ◆aCuGiKGtJc
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2022/12/31(土) 08:54:23.05ID:BtMhiymt0
×俺は短文で簡潔に賢く書いている
○俺は唾吐きとBaby shoes, never wornの区別すらついてない馬鹿です
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