【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net

1名無し三等兵2016/09/14(水) 22:22:24.04ID:5Pt2CVH5
モンゴル帝国による元寇を軍事的に考察しましょう。

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199名無し三等兵2018/04/01(日) 15:47:00.77ID:EAdZ0YfX

200名無し三等兵2018/04/01(日) 15:47:15.87ID:EAdZ0YfX
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201名無し三等兵2018/04/02(月) 17:19:22.43ID:Q5nvECvi
>>198
>元史日本伝には博多戦の記述がないということで決着だな。

もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?

>益斎乱藁の著者の李斉賢は高麗王朝の高官で、元史編纂よりも古い史料なんだが

当たり前だ。元史は元代に書かれた原史料を明代に編纂したものだ。
李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。
益斎乱藁を洪茶丘伝と較べて見よう。

益斎乱藁:與元帥忽篤、浮海討日本、破其一岐対馬伊蛮等島、以糧尽還。

洪茶丘伝:與都元帥忽敦等、領舟帥二万、渡海征日本、拔対馬一岐宜蛮等島。

都元帥忽敦→元帥忽篤 渡海→浮海 征日本→討日本 抜→破 宜蛮→伊蛮
と、わざわざ似た意味、音の漢字に置き換えているだけで、構文はいっしょ、
そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。

現代なら盗用と言われるレベルだ。君はこんなものを唯一の根拠にしているのだ。

202名無し三等兵2018/04/05(木) 01:44:19.45ID:C90k+Ah4
>>201
>もういちど聞くが、元軍はどこで矢を射尽くしたのか?

今津だな。

>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。

自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って

203名無し三等兵2018/04/05(木) 01:52:26.37ID:C90k+Ah4
途中で投稿しちゃった。
>>202の続き。

>李斉賢は1287年生まれだから元寇より一世代後の人、元寇の原史料はすでにできていた。
>李は元に何回も行ったからそれを目にする機会もあった。

自分が書いてることの意味を理解してる?
元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。

>そのくせ「伊蛮等島」という同じ間違いを冒している。

大陸と陸続きの朝鮮半島から見れば日本は全部島だから、高麗朝鮮の史料が日本の地名を
「島」と表現することは珍しくないぞ。
例えば、対馬壱岐博多もしくは松浦で「三島倭寇」と呼ぶだろ。

204名無し三等兵2018/04/05(木) 10:08:02.00ID:wgtnRBPu
例えば、朝鮮半島だって大陸から見れば半島だし、琵琶湖の烏丸半島だって、日本の扱いではれきとした半島なんだよな。

205名無し三等兵2018/04/07(土) 10:46:42.56ID:iLDvMm7j
>>203
>元に何回も行って元寇の原史料をもとに書いたのなら、それは信用できる史料ってことでしょ。

信用できる原史料をもとに改竄したから、改竄文も信用できるというのは、物凄い論理だな。
私が示したのは改竄の手口だから、似たような部分を抽出しているのは当たり前。
全体を見れば、主人公が入れ替わっているではないか。洪茶丘が金方慶に。

金方慶のことを書くのに、洪茶丘の史料を借りてきたわけだ。
君はこのような「首すげ替え文」を唯一の根拠にしているのだ。

>(矢を射尽くしたのは)今津だな。

冬十月,入其国,敗之。而官軍不整,又矢尽,惟虜掠四境而帰。

君の解釈によれば、上記の漢文の「其国に入りて之を敗」ったのは壱岐、対馬。
「矢尽」きたのは今津。
「虜掠」した「四境」は再び壱岐、対馬。

これを恣意的解釈と呼ばずしてなんと呼ぶ。
文章が対象とする明代中国の読者は、どうやってこの読み方が分かったのか?

206名無し三等兵2018/04/07(土) 12:22:03.43ID:9QGhq4vH
>>205
どちらの史料が改竄したかという話なら、当然「益斎乱藁」を「洪茶丘伝」が改竄したと
考えるべきだろうな。
「益斎乱藁」の方が「洪茶丘伝」より成立時期が早いんだから。
そもそも洪茶丘も金方慶も一緒に戦っているわけで、最終的には20日の日暮れまでに
遠征軍全軍が今津に追い込まれていたんだから、共通する内容になるのは当然。

あと、「四境」については史料を読み直してるうちに考えが変わった。
史料がちゃんと対馬・壱岐・今津の地名を挙げてるんだから、「四境」についても
そのまま史料通り「ただ対馬・壱岐・今津のみ」と考えるべきなんだ。

207名無し三等兵2018/04/07(土) 18:32:56.62ID:wSsnCTlF
ここで燃料を1つ投下すると、博多筥崎の武士たちは本当に水城へ撤退したのか問題がある。
博多筥崎の日本軍が水城へ撤退したというのは八幡大菩薩愚童訓系統の史料だけが根拠の上、
もともとの記述も武士たちが「水木之城」へ向かおうと囁き合ってるのを筥崎宮関係者が
聞き耳立てて横から溢れ聞いたという超曖昧情報。
「水城」という言葉の中に城という字が含まれてるから「水城の城」なんて言い方しないしね。
もしかして武士たちが向かった「水木之城」とは水城じゃなく、今津の水崎城なのではないか?
それを筥崎宮関係者が勝手に水城と勘違いしただけなのではないか?

208名無し三等兵2018/04/07(土) 19:28:57.02ID:2jIpsZez
箱崎から水城まで遠いです

209名無し三等兵2018/04/08(日) 09:32:27.11ID:uIF6gO5m
今津説の決定的な問題点は、今津で大きな戦闘をやったという日本側の記録が皆無なことだ。
早良郡/鳥飼潟には戦闘記録が多くあり、箱崎にもちらほらとあるが、今津だけはない。

210名無し三等兵2018/04/08(日) 09:55:28.54ID:uIF6gO5m
私も最近、必ずしも水城まで退却しなくてもよいのではないか、と考えるようになった。
武士たちは勝手に退却したのであり、水城を守れと命令を受けたわけではない。
それならば、元軍の届かない安全圏に逃れて、一夜の宿があればそれでいいわけだ。
二、三日分の口糧なら干飯を携帯しているわけだし。

大友ハ 子共打ツレ 落行テ 方々ニコソ 頼康(よりやす)ミケレ

この歌の「方々こそよりやすみけれ」も、
「方々にこそ寄り休みけれ」すなわち「所々に立ち寄って休息した」ではなくて、
「方々にこそ拠り寝みけれ」すなわち「あちこちの民家を占めて寝た」でもいいわけだ。

で、その辺に泊まったから翌朝早く元軍の撤退に気が付いた、と。

211名無し三等兵2018/04/08(日) 10:21:16.61ID:fuDBGFJn
>>209
皆無じゃないよ。

八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。

212名無し三等兵2018/04/08(日) 10:27:01.20ID:uIF6gO5m
>今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ

「乱れ入る」は無法に入って来ることであって、別に日本軍の抵抗が無くてもよい。

>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。

あるのならまずその「史料」を載せてからね。

213名無し三等兵2018/04/08(日) 12:33:27.94ID:EaLTZY+4
鳥飼まで海だったんだあ!

214名無し三等兵2018/04/08(日) 12:36:42.11ID:EaLTZY+4




215名無し三等兵2018/04/08(日) 15:10:03.95ID:uIF6gO5m
>>211
今気が付いた。
>今津に侵攻した部隊があったことは日本側の史料にも記載されてる。
というのは、筑紫本そのものことを言ってるのね。
それなら、金綱集だって言っている。
「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」

金綱集は19日に今津に「上陸」した部隊があった、と言っているわけだが、これと
筑紫本の「今津乱入」は区別できない。「乱入」だから戦闘だと言うのはいかにも弱い。
むしろ筑紫本は地名を並べた順序で元軍の進撃方向を示していると見た方がよい。
どちらも、今津で大きな戦闘があったことの証拠にはならない。

必要なのは、早良郡や箱崎と同じように、今津で戦った武士の「名前入り」の記録だ。
それがあるのか?と言っているのだが。

216名無し三等兵2018/04/12(木) 23:28:01.37ID:M+xbec6d
>>212
今津に侵攻した部隊があったことは、八幡大菩薩愚童訓筑紫本に「今津早良百路原赤坂ニ
及ヒ乱入ケリ」と書いてあることで史料的に裏付けられてる。
日本軍の抵抗とか関係ない。
モンゴル軍の侵攻した今津早良百路原赤坂の内、早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、
唯一戦闘記録の無い今津をモンゴル軍は「征した」としてる。
要するにモンゴル軍は武士との戦闘に全部負けたということ。
早良百路原赤坂で武士にフルボッコにされたモンゴル軍が最後に逃げ込んだのが今津なんだから、
今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ。

217名無し三等兵2018/04/13(金) 22:50:31.57ID:5wn0GhSn
>>216
>早良百路原赤坂には武士の戦闘記録があり、 唯一戦闘記録の無い今津を
>今津で大規模な戦闘なんかあったらそれこそモンゴル軍は全滅してるだろ

なんだ、今度は今津では戦闘がなかったことにしたのか。
君は以前はこう言っているぞ。

>モンゴル軍を赤坂・百道原・早良から駆逐した日本軍はさらに今津を攻め立てたが、 >>198

日本軍が今津を「攻め立てた」と言うのだから、以前は今津で戦闘があったと主張していたのだ。
まあいい。今津で戦闘がなかったと認めたのは殊勝なことだ。

しかし、そうなると元・高麗側の記録が今津を「破った」とか「抜いた」とか言っているのは、
19日深夜に先遣隊が上陸したことを指すことになるな。
深夜に無血上陸して住民を殺戮したことをこのように表した、と。

218名無し三等兵2018/04/13(金) 23:00:40.48ID:zDA2w3gd
>>217
そうはならないよ。
八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。
そもそも今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果だ。
元の史料にも高麗の史料にも今津を破ったとしか書いてないからね。
モンゴル軍は最終的に今津に追い込まれて撤退した。

219名無し三等兵2018/04/14(土) 16:55:06.62ID:JR8hE/Pg
>>218
>八幡大菩薩愚童訓筑紫本によればモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日上陸後。

そんなことは書いてない。まず、今津は下記のように出て来る。

「同十一年九月之比、異賊四百五十艘之大船、二三万人乗テ寄来ル。
対馬壹岐二之嶋ヲ打落テ、筑前国今津二着ニケル、 」

今津には「九月」に「着いた」と言っているだけ。九月は変だがそれはひとまず置くとしても、
普通、船が「着く」とは錨を下ろして停泊することだ。その後、上陸したのか、それとも
さらに移動したのかは、なにも言っていない。途中を飛ばして;

「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責(せめ)懸ル。」

ここで初めて上陸している。
上陸の日が十一月二十日というのも変だが、上陸した場所はまったく書いてない。
以上から「十月二十日に今津に上陸した」とは言えないし、ましてや最終的に今津から撤退した
などとは全く言えない。

それにしても「筑紫本」もいい加減な本だな。

220名無し三等兵2018/04/14(土) 17:06:54.18ID:LixwWZZ+
>>219
八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。
第一、高麗史金方慶伝に「舟を三郎浦に捨て、道を分ちて進み」と書いてあるんだから
元側史料でも上陸地点は今津なんかじゃなく早良だ。
早良に上陸したモンゴル軍が唯一の戦果と記録してるのが今津攻略。

221名無し三等兵2018/04/14(土) 18:48:32.92ID:Daq7mIj6
お寺の古文書も探せよw馬鹿w
大体太宰府が有るのに変だろw

222名無し三等兵2018/04/14(土) 20:57:30.13ID:JR8hE/Pg
>>220
>>221の言う通りだ。
せっかく早良に上陸しているのに、博多、大宰府に背を向けて今津を攻める
必然性は全くない。
補給のための港を確保するためと言うだろうが、高麗から補給や増援を送る
あてが全くないのに、全軍で港なんか確保してどうする。

223名無し三等兵2018/04/14(土) 21:02:31.49ID:JR8hE/Pg
>八幡大菩薩愚童訓筑紫本でモンゴル軍が今津に侵攻したのは20日。

そのように主張するのなら、その根拠となる原文をまず示せ。
私がやっているようにね。

224名無し三等兵2018/04/14(土) 21:23:23.53ID:Daq7mIj6
言い伝えだと水城どころか
筑後まで来たと言うぞw

古文書の一次史料を丹念に捜せ!w

225名無し三等兵2018/04/14(土) 23:08:02.59ID:nlXmcRCQ
>>222
必要性云々なんて全く問題じゃない。
早良から上陸したモンゴル軍が今津を破っただけで撤退したのは史料によって明白だからね。
早良から博多、大宰府を目指していながら最終的に全軍が今津に追い詰められていたってことは、
要するにモンゴル軍は日本軍に惨敗して今津まで敗走したってこと。

>>223
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

そもそも、こんなことに拘っても意味ないぞ。
今津攻略は九州におけるモンゴル軍の唯一の戦果なんだから。
仮に>>217 のように先遣隊が今津に上陸しようが、モンゴル軍が今津以外で全部負けたという
事実は動かない。

226名無し三等兵2018/04/15(日) 00:53:01.39ID:3rMgPu4y
>>225
数百隻の船団だから、ある程度の幅がないと上陸が難しいだろう。
10m間隔でも100隻で1km必要になる。
小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。


あるいは、主力の元軍は早良付近に上陸し、高麗軍は今津付近に上陸したかもしれない。
金方慶伝にあるように高麗軍は今津で勝利したうえで、元軍主力に合流した。
軍議の席で、勝ってる金方慶は継戦を主張するけど、苦戦した元軍の忽敦は撤退を決断した。
というシナリオはどうだろう。

227名無し三等兵2018/04/15(日) 08:43:31.20ID:+NUvu8eA
>>226
高麗史金方慶伝に「舟を早良に捨てて道を分けて進んだ」と書いてあるんだから高麗軍の
上陸地点は早良だよ。
その前提から違ってるじゃん。
その上で、益斎乱藁は金方慶が「元帥の忽敦と今津を破った」とし、元史でも洪茶丘が
「元帥の忽敦と今津を抜いた」としてるんだから、忽敦、金方慶、洪茶丘の3人によって
軍議が行われた場所は今津だろ。
つまり忽敦は主力のモンゴル軍を率いて博多や大宰府を目指したものの日本軍に敗れて
今津まで敗走したってこと。
忽敦は「モンゴル兵が戦い慣れてると言ってもこれが限界だ」と言いながら金方慶と
合流してるんだしね。
だから軍議でも強硬に撤退を主張した。
日本軍に大敗して今津に追い込まれたモンゴル軍の状況は忽敦のセリフ通り
「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」そのものなわけで、史料的整合性も完璧。

228名無し三等兵2018/04/15(日) 17:43:50.70ID:d7ei0Z5R
>>227
今津は撤退のための単なる通過点というわけだな。戦いも無かったということだし。
しかしそれだと金綱集と整合しないな。

金綱集「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来、
同廿日辰尅(中略)九国御家人等馳集令合戦」

金綱集によれば蒙古は「十九日」に「今津」に「賊来」している。「賊」の動詞は「損なう」
ことだから「賊来」は「乱入」と同じような意味だ。つまり暴力的に押し入った。
これのほうがよほど「破」とか「抜」にふさわしい。

繰り返すが、今津上陸は十九日だ。
金綱集を信じるのはやめたのか?

229名無し三等兵2018/04/15(日) 18:38:29.76ID:BiMlmBvi
>>228
もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。
何しろ今津攻略がモンゴル軍にとって九州における唯一の戦果で、最終的に今津に追い詰められて
撤退したことは史料的に確定してるんだから。

2302262018/04/15(日) 18:44:38.84ID:3rMgPu4y
>>227
高麗史金方慶伝で船を捨てたのは三郎浦だと思ってたが、三郎浦=早良ってことなの?
何かではっきりしてるのだろうか。

また、今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。
金方慶が率いる高麗軍は今津に近いところに上陸して制圧するものではないか。
どうせ、上陸にはある程度の幅(数km程度)が必要なんだから。

>>227の情報をもとに修正すると、
西から、金方慶、忽敦、その他の順に上陸して、金方慶を先鋒にして忽敦とともに今津を攻撃する。
今津が制圧できたら、反転して忽敦、金方慶の順で東に向かう。
というシナリオかな。

231名無し三等兵2018/04/15(日) 19:04:04.85ID:BiMlmBvi
>>230
三郎浦が早良の音に漢字を当てはめたものってのは長年の定説だよ。
特に否定する根拠もないだろ。
早良に上陸して今津を攻略し、また引き返して忽敦に合流するには戦闘しながら1日で
20キロ近い機動をしなくちゃいけない。
高麗軍にそんな機動力があるとは思えない。
それに今津攻略は元側史料、高麗側史料が挙げている九州における唯一の戦果だ。
今津から東に向かっても結局日本軍に負けて引き返したとしか考えられないね。

232名無し三等兵2018/04/15(日) 22:50:29.86ID:d7ei0Z5R
>>230
>今津の制圧を金方慶の当初の任務とするなら、何で今津から離れたところに上陸するのだろうか。

一か所と考えるからそうなる。高麗軍の三っつの翼軍と、洪茶丘の高麗人部隊とが、金綱集が
示すような数か所にそれぞれ上陸した、と考えればよい。このことが「分道而進」だと思う。
任務は、邪魔になる住民や地侍を抹殺するとともに、翌日の蒙漢軍の上陸を側面援護することだ。
このような働きを今津で行ったならば、十分に「破伊蛮」「抜伊蛮」に値すると思うよ。

これらの部隊は、翌廿日には鳥飼潟戦線に加わった。これが「諸軍與戦」だ。
このような考え方を、以下の二つのページにくわしく書いた。

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12321323496.html
廿日の朝、元軍はなぜ少数だったのか

https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12323289521.html
高麗史・金方慶伝をどう読むか

2332662018/04/16(月) 01:44:03.40ID:27WzV7Gd
>>231
なるほど、三郎浦=早良なのね。

ただ、上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
上陸したのが東西数kmの範囲となれば、西の端に上陸すれば往復20kmじゃなくて10kmやそれ以下になるんじゃないかな。
具体的地名で言えば、百道、姪浜、生の松原、今宿あたりを想定している。

>>232
ホームページ見たけど、ツッコミどころが多すぎて困るよ。
先遣隊が本隊の上陸を援護せずに突出する?
何のための先遣隊だよ。
満潮時しか上陸できない?
当時の船はそんなに吃水が深いわけじゃない。
満潮時は干潮時よりも海岸線は陸寄りになるから小型船が濃く距離はそう変わらない。

234名無し三等兵2018/04/16(月) 10:19:52.02ID:HZtmKhgG
>>229
>もし今津侵攻が19日ならモンゴル軍は19日に日本軍に敗れて日本から撤退したってことだね。

なるほど、金綱集も信じてるってことね。
で、その同じ金綱集が、朝8時ごろから夕方6時ごろまでに及んだ戦いが20日だったと言っている。

「同廿日辰の刻(中略)九国の御家人等馳せ集まりて合戦せしむる之間、両方死輩其の数を知らず、
酉の刻に及びて九国の軍兵引き退く」

19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする?

235名無し三等兵2018/04/16(月) 10:39:34.30ID:HZtmKhgG
>>226
>小型船はともかく、大型船にそんな間隔は無理があるから、数kmは必要になるんじゃないかな。

>>233
>上陸にはある程度の幅が必要だと思うんだが、そのへんはどうだろうか。
>上陸したのが東西数kmの範囲となれば、

大船が横一線に並ぶ必要はない。実際に着岸するのはバートルだから、大型船は
何列にもなって団子になっていたって構わない。
またたとえ大船が横長に並んだとしても、バートルが狭い幅の海岸に集中すれば
それでいいわけだ。
そのバートルも、必ずしも全軍が一斉に着岸するとは限らない。
現在でも、上陸用舟艇群がいくつかの梯団に分かれて波状に押し寄せるのが普通だ。
以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。

236名無し三等兵2018/04/16(月) 12:46:34.61ID:L1PHqhVP
>>234
>19日に撤退したら20日の戦いはできない。さてどうする?

なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。
モンゴル軍は20日に早良から上陸し戦い、日本軍に敗れ、今津に追い込まれて撤退した。

237名無し三等兵2018/04/16(月) 16:21:02.83ID:HZtmKhgG
>>236
>なら史料的根拠皆無の今津前哨戦など無かったってことだ。

これは驚いた。
「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか?

238名無し三等兵2018/04/18(水) 23:54:57.54ID:ecBb+/Vb
>>235
>以上から、一万五千、約百隻の蒙漢軍に対して百道浜の幅があれば十分だろう。

また嘘を書いてる。
蒙漢軍の兵数は2万5000人。
艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。

>>237
>これは驚いた。
>「19日今津上陸、20日合戦」と書いている金綱集は「史料的根拠」ではないのか?

これも嘘。
金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。
そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。

239名無し三等兵2018/04/19(木) 14:50:27.23ID:uEn9q0Y1
>>238
>また嘘を書いてる。蒙漢軍の兵数は2万5000人。

元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。

>艦艇の数は大船300艘含む総数900艘で諸史料が一致してる。

忠烈王六年記事に大船126隻と明記。この隻数は金方慶伝の梢工引海水主6700人と合致する。
(一隻あたり船員50~60人は他の史料からわかる)
また一万五千(高麗軍と併せて約二万)に対する126隻は弘安の役の四万に対する300隻と
較べて妥当。

>これも嘘。金綱集には「19日今津上陸」などという記述はない。

金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。
「上陸」でなく「賊来」だと言うかもしれないが、「上陸」しなければ「賊来」はできない。

>そもそも高麗軍の上陸は高麗史によって早良だったことが確定してる。

だから、高麗軍は19日に早良に上陸して20日に今津から撤退すればそれでいいではないか。
今津上陸は洪茶丘伝に「抜伊蛮」と書いてあるのだから、洪茶丘の高麗人部隊にまかせて
置けばいいのだし。

別に今津からの撤退に賛成しているわけではないが、君の今津説にせめて他の史料との
整合性を持たせて上げようと思って、言っているのだよ。

240名無し三等兵2018/04/19(木) 23:10:20.92ID:7I4FtJKr
>>239
>元史の、例の「其の国に入りて之を敗る」の前に「士卒一万五千を載せ」とある。

そんなもの史料的根拠にならないぞ。
元史・日本伝は元代の経世大典序録・征伐・日本を基に編纂された史料だが、その原文は

「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之」

つまり根本史料で2万5000人だったものが明代に元史が編纂された際1万5000人に改変されたわけで、
史料的には蒙漢軍の兵数2万5000人が正しい。

で、艦艇の数は経世大典序録が「千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘」、
元史・列傳第三十九・劉復亨が「戰船九百」、高麗史が「戰艦九百餘艘」で一致。
これだけ諸史料が一致するのは、それが実数ってこと。
忠烈王六年の記事は、高麗の負担した梢工引海水手の定員が大船126艘分だったと言うだけ。
つまり残りの大船174艘分の梢工引海水手は高麗以外が負担したってわけだ。
高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。

高麗史・金方慶伝
「蒙漢軍は二萬五千、我が軍は八千、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て合浦に留め、
以て女真軍を待つ」

この時点で蒙漢軍は定員の2万5000人が揃ってるわけだから、女真軍は戦闘要員じゃない。
足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。

241名無し三等兵2018/04/19(木) 23:20:42.38ID:7I4FtJKr
>>239
>金綱集には「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」と書いてあることは
君も知っているはずだ。

それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。
そんなもの根拠に、19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が
上陸してたことになるだろ。
博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで、モンゴル軍が
上陸してたわけない。

242名無し三等兵2018/04/20(金) 21:46:27.22ID:n1PAP/fY
>>240
>足りてないのは定員1万5000人の梢工引海水手なわけで、女真軍に求められてる役割はそれだ。

なるほど。で、その女真軍は「女真、期に後る」で、出発に間に合わなかった。
だから船の隻数を、6,700人の梢工引海水手で動かせる126隻に減らして、出発したわけね。
とても分かりやすい。

243名無し三等兵2018/04/21(土) 13:07:38.71ID:3xHWa4zY
>>242
いや、高麗史・世家・元宗15年10月3日条
「蒙漢軍二萬五千と、我が軍八千と、梢工引海水手六千七百と、戰艦九百餘艘を以て、日本を征す」
だからそのまま出発してる。
金方慶率いる高麗軍8000人を梢工水手と兼任させれば合計1万4700人で操船に必要な
頭数は取り合えず揃うからね。
もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
と非難されることになった。

244名無し三等兵2018/04/21(土) 22:07:09.92ID:MIBwW7T1
>>243
女真軍がだめなら今度は高麗軍か。お手軽なもんだな。
韋得儒が言っているのは高麗兵を水夫に使ったというのでなく、無理に集めた水夫の中に
海に不慣れな素人がいた、と言っているのだろう。

また、韋得儒の、水夫に関する非難は金方慶をおとしめる讒言の一部だ。
忠烈王が疑って、讒言状に署名した十四人の者を調べたところ、「韋得儒に言われて署名
しましたが、本心ではありません」と言ったので王は方慶の無実と信じた、という曰くつきだ。

君は当時の高麗王さえ信じなかったことを根拠にするのかな?

245名無し三等兵2018/04/22(日) 16:33:13.33ID:axOY3g2C
>>240
ついでに言えば:
>高麗は元宗15年4月に郭汝弼を元へ派遣し、梢工引海水手について「豈に止に小邦の人のみを
>用ちて足るべきか」と訴えてるから、それが認められて負担が軽減されたんだろ。
>残りの梢工引海水手を負担は、具体的には女真軍な。

引用は肝心のところをはしよってはいけない。元宗は梢工・引海・水手を徴発すべき地域を
「済州、東寧府、北界」と指定して上申している。これらはみな、もと高麗の領域であって
今は元の直轄領となっている地域だ。つまりこれらの地域にいる高麗人を出してくれと言って
いるのであって、女真人を出してくれなどと大それたことは言っていない。

私は、「女真軍」というのは女真人の軍隊が自前の船で、沿海州地域のどこかの港から、
朝鮮半島の東岸づたいにやってくるのだと思う。女真は刀伊の乱や渤海使の伝統があるから
ある程度の造船・航海の技術がある。「女真軍」はそれを基にした自己完結型の水軍というわけ。
そうであってこそ、高麗に新たな造船の負担を強いることなく兵力を増強できるという意味がある。

246名無し三等兵2018/04/22(日) 16:55:26.67ID:axOY3g2C
>>241
>それ、明らかにモンゴル軍の艦隊が19日に博多湾内へ侵入したって記事じゃん。

博多湾への侵入なら、亥の刻(午後十時ごろ)と時間まで指定するのはおかしい。
また「博多湾内」を示すのに、なぜ広く隔たった四つの地名で表すのか。
また「賊」はなにかを損なう、害をなすことだから停泊だけでは「賊」にならない。

>19日今津上陸があったと言うなら、博多や筥崎にも19日にモンゴル軍が上陸してたことになるだろ。

今津、早良という正しい地名も含んでいるのだから、問題のある地名を含んでいるからと言って
19日夜複数地点の上陸、破壊活動という全体像を否定することはできない。
また箱崎は箱崎半島北部に上陸した可能性がある。博多については上陸後進出した赤坂も博多地区である。

>博多や筥崎には20日に日本軍が布陣してたと蒙古襲来絵詞で確認できるわけで

蒙古襲来絵詞を持ち出すのなら、竹崎、菊池らが朝方戦った時、すでに祖原山、赤坂にいた元軍は
前夜上陸していたのでなければ無理がある。

247名無し三等兵2018/04/23(月) 13:54:27.66ID:YfPcHmfY
>>243
>もちろん非常手段で弊害も大きいから、金方慶は遠征後に得儒から敗因の一つとして
>「又た、東征の時、水戦を習わざる者をして梢工水手と為し、戦いを不利に致さしむ」
>と非難されることになった。

これにはもう一つの要素がある。
第一次東征軍の船隊は、帰国の際に大風雨に遭った。この際、高麗軍の左軍の司令官である
金&#20353;が海に落ちたが、同船した韋

248名無し三等兵2018/04/23(月) 14:11:36.79ID:YfPcHmfY
途中で投稿してしまった。以下続き。

得儒は彼を救わなかった。帰国後、金方慶応は韋得儒が金&#20353;を救わなかったことを責めて、韋を
免職してしまい、韋はこれを深く恨んだ。
上記した讒言状の一節は、「金方慶がまともな水夫をつけなかったために(操船ミスで船が傾くか
ぶつかるかして)金&#20353;が海に落ちて死ぬという、軍に対する不利益をもたらしたのだ」という、
責任転嫁であろう。

249名無し三等兵2018/04/23(月) 14:21:21.75ID:YfPcHmfY
>>247, 248
訂正:
金方慶応 → 金方慶
&#20353 → [イ先]

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