川端康成総合スレ2@文学板
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私がお訪ねしたときにトーストと牛乳が出た。行儀のわるい癖で、トーストを牛乳に浸して たべてゐた。すると川端さんがちらと横眼でこちらを見て、やがて御自分もトーストを 牛乳に浸して口へ運ばれだした。別段おいしさうな顔もなさらずに。 三島由紀夫「現代作家寸描集――川端康成」より 「学習院の連中が、ジャズにこり、ダンスダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、 「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と 云つてゐるやうに思はれる。 川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、殺人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか。僕が 「羽仁五郎は雄略帝の残虐を引用して天皇を弾劾してゐるが、暴虐をした君主の後裔でなくて何で喜んで 天皇を戴くものか」と反語的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。 「近頃百貨店の本屋にもよく学生が来てゐますよ」と云はれるから、 「でも碌(ろく)な本はありますまい」 と云つたら、 「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。 雨のしげき道を鎌倉駅へかへりぬ。 三島由紀夫「川端康成印象記」より 最近新潮文庫がやたら改版してるな 古都、眠れる美女に加えて山の音も活字が大きくなってる 川端氏は僕の吹く勝手な熱をしじゆう喜んでニコニコしてきいてくれた。おしまひには僕が悲しくなつて了つた。 僕の生意気な友人たちだつたら、フフンと鼻の先であしらひさうなこんなつまらない笑ひ話や、ユーモアのない 又聞き話が、どういふ経緯で川端氏の口に微笑を誘ふのだらう。 しかしかうして一人で喋つてゐるうちに、だんだん僕が感知しだしたのは僕の孤独ではなくて、むしろ川端氏の 孤独なのだつた。ひろい家の中には夕闇がよどんで来た。ひろい家のさみしさが身にしみる時刻だ。 平岡公威(三島由紀夫)昭和22年「会計日記」より 川端氏とのさびしい夕食、川端氏のかへつてゆく一人の書斎、僕は僕の行方にあるものをまざまざと見る気がした。 名声とは何だらう。このひろい家によどんでくるどうにも逃げようもない夜のことなのか?否しかしなほ僕は 名声を愛してゐる。なぜなら名声でやつとたへられるものが僕の中にあるからだ。 名声とは必要不可欠な人間にだけ来るものだ。さうして名声があるために、ある人の慰めになる不幸があるものだ。 こんな孤独の実質を名声は少しもかへえないが、名前と形容詞だけは支へてくれる。 文学の仕事、それが形容詞の創造であるとするなら、かうして形容詞の冷酷で花やかな報いをうけるのは当然だ。 平岡公威(三島由紀夫)昭和22年「会計日記」より 川端さんへは又いつかの機会に御一緒にまゐりませう。 あの眼だけでも見ていたゞきたいと思ひます。酷薄さと温情がいりまじつた鋭い眼、あそこに川端さんの文学の 象徴があります。川端さんといふと、芸だの感覚だの抒情だのといふ言葉しか知らない批評家に憤慨して、 川端康成ノートを作つてゐますが、二、三年たつたら書けると思ひます。 平岡公威(三島由紀夫) 昭和21年7月25日、徳川義恭への書簡より この間川端さんが、睡眠薬の服用を急激にやめられたことから、禁断症状の発作を起され、東大病院に御入院中で、 面会謝絶と知りつゝ、強引に押し込んで御見舞をしましたところ、もう相当御元気で一安心しました。 「睡眠薬遊び」はもうお懲りになつたでせう、と諫言しましたら、苦虫を噛みつぶしておいででした。 三島由紀夫 昭和37年2月27日、中村光夫への書簡より 警 告 皆さん、民主党を批判するのはやめなさい。皆さんはその有資格者ではありません。 民主党に投票したひとは、当たり前ですが民主党の方針を批判する資格はありません。 これはあなたたち自身が常々主張している理屈です。 民主党に投票しなかったひとは前提として民主党の敵ですから、その言説はすべて ためにする批判・批判のための批判であって、一顧だにする余地はありません。 民主党を批判する権利があるのは、民主党に投票し、なおかつ民主党の理想と方針に 今まで完全に同意してきて、現在もこの先も完璧に同意し、何があろうとも民主党を 支持しつづけるひとだけです。これが正論であり、民主主義というものです。 ノ´⌒ヽ,, γ⌒´ ヽ, // ""⌒⌒\ ) i / ⌒ ⌒ ヽ ) !゙ (・ )` ´( ・) i/ .| ⌒(__人_)⌒ .| 僕はほんとは菅ちゃん応援してたんだよ \ `ー' / _lVl ヽ 〈゛⊂) } 川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけでは ないことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、 明治以来の西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか 見えないかといふ色合の差にすぎない。(中略) 作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、 荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に 敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。(中略) 悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。 西洋イコール批評と云つても差支へない。(中略) 川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた。氏の最も 西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが私の意見である。 三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」 より …氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的 帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、 対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女に とどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに 対する興味だと思はれる。 …しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の 知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、 破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも 破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より 戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。 「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、 私の胸を搏つた。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より 川端さんは、暗黒時代に生きる名人で、川端さんにとつて「よい時代」などといふのはなかつたにちがひない。 「葬式の名人」とは、川端さんにとつて、「生きることの名人」の同義語に他ならなかつた。この世は巨大な 火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、現代はどうもそればかりでは ないらしい。地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げてしまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風 ばかりである。 これには川端さんも少し閉口されたらしい。「眠れる美女」は、そのやうな精神の窒息状態のギリギリの舞踏の 姿である。あの作品の、二度と浮ぶ見込のなくなつた潜水艦の内部のやうな、閉塞状況の胸苦しさは比類がない。 そこで川端さんの睡眠薬の濫用がはじまり、濫用だけに終つてゐればよかつたが、その突然の停止が、あたかも、 潜水夫が急に海面に引き上げられたやうな、怖ろしい潜水病に似た発作を起した。(中略) 三島由紀夫「最近の川端さん」より 幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の有難味がわかる一方、 生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さもわかるのである。 健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の運動の裡にひそむ奇怪な 官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる 傲慢、……これらのものは、ヒロポンも阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない 奇怪な症状である。 三島由紀夫「最近の川端さん」より 『川端康成氏の小説に、童貞を重荷に感ずる少年が、月に向かって、「僕の童貞をあげよう」 と叫ぶ美しい場面があるが、こんな厄介なそして持ち重りのする荷物は、一刻も早く捨てるに越したことはないのです。』 この小説の題名って何ていうの? 三島の文章、引用しまくってる奴って、何が楽しいの? 三島って、すごいな。これほどの文章が書けて。 それに惚れこむ自分もセンスあるな。 こんな感じか。 三島君はこの最初の長篇小説で、恋人が結婚のその日に心中するといふ心理に陥り、その作品を「盗賊」と名づけた。 自殺する二人が盗み去つたものはなんであるか。すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。 私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。 三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。 三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から 作品が出てゐると見る人もあらう。 この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を 編み合せたやうな生々しさもある。 川端康成「盗賊 序文」より 今日(10月2日)から「川端康成と三島由紀夫展」 鎌倉文学館で12月まで開催 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 昭和20年3月、川端康成は、20歳の三島由紀夫から最初の小説集『花ざかりの森』を贈られ礼状を認めます。 そして、終戦をはさんだ翌年の1月、三島は原稿を携え川端を訪ねました。川端はそれを読み雑誌「人間」に推薦、三島は本格的に文壇デビューします。 そこから、三島が亡くなるまで24年にわたり二人は深く交流しました。本展では、二人の交流の軌跡を多彩な資料でご紹介します。 鎌倉文学館は鎌倉市長谷。下記にアクセス http://www.kamakurabungaku.com/info/index.html (月曜休館) 関連イベント ○文学講演会 10月26日 午後一時〜三時 場所 鎌倉生涯学習センターホール 川端香男里(川端記念館理事長) 松本 徹(三島記念館館長) 事前に申し込み(定員280名) ○伝統へ、世界へ 文学講座 11月5日 午後一時〜二時半 場所 鎌倉生涯学習センターホール 講師 佐藤秀明(近畿大学教授、文藝評論家) 事前申し込み(定員280名) 申し込み方法 官製はがき、メール、FAXに郵便番号、住所、氏名、電話番号、参加人数を書いて、鎌倉文学館「文学講演会」「文学講座」係まで。 はがき 248−0016 鎌倉市長谷1−5−3 鎌倉文学館 メール bungakukan@kamakura-arts.or.jp FAX (0467)23−5952 川端氏の文学は近代小説の烙印を押された宿命的な古典の書である。 川端康成論(試論第一) 一、川端氏は抒情や感覚といふ低次な概念で総括さるべき作家ならず。 一、分析力と綜合力との矛盾せる競合、対象への背反 対象の前に行はれる作者自身の旋回、小説の可能性を最も豊かに感じさせると共に、小説の末期感をつきつめた仕事。 最後の仕事、天地創造(トルストイ*)の深い疲労に溢れた安息日(康成) 日常性の求める永遠の日曜日 *悪夢のやうな近代文学 一、川端氏とその作品の基底たる日常性の問題(旅― 孤児―) 日常性の抑圧と揚棄 川端康成=『生への嫉妬』 平岡公威(三島由紀夫)21歳のノートより 私にとつて技法的に影響をうける作家は長つづきせぬ。 精神的に影響をうける作家は長つづきする。 川端さんとリラダンとが私にとつてそれだ。 しかもリラダンは殆んどよんでゐない。よんでなくともわかるからだ。川端さんのも沢山よまないやうに 気をつけてゐる。「女の手」「過去」 人間愛がかういふ屈折をとらざるをえぬ文学。それは愛情のつきつめた一極点。 『愛情の北極』 ・神への不信と虚妄 ・ある川端氏と近しい人が 「それは川端さんは気附かれなかつたらしい」といふのをきいた時、私はわが耳を疑つた。 私には川端氏が気がつかぬ事柄なんてこの世にあると思へなかつたのだ。 川端康成――(芸術的)個性と自我の完璧な分離 川端氏の作品に僕は小説の極めて豊かな眼界を感じる。 牧野信一、稲垣足穂の作品に僕は小説のきはめて窮屈な眼界を感じる。 川端氏の眼界の豊けさは、薄や虫類や小魚をよせあつめる波打際のゆたけさだ。 平岡公威(三島由紀夫)21歳のノートより 「名人」は囲碁を全然知らなくても、 飽きずに読めるように書かれてある。 「雪国」と並ぶ作者のお気に入り。 駅弁、文士の玉手箱伊豆の踊り子弁当が三島駅で売ってますよ。 川端ファンの皆様、どうかWikipediaの“神取忍”の項目を訂正しておいてください。 http://www.unkar.org/read/changi.2ch.net/csaloon/1249719044 心が折れる、という表現はバキ発 1 :マロン名無しさん[sage]:2009/08/08(土) 17:10:44 ID:??? 今、世間でこの表現が定番化してるが発祥はバキ。 とりあえずこれを言いたかった。 それと、目が点になるってのも漫画発。 どおくまんの漫画でよく使われる表現をさだまさしが流行らせた。 44 :1[age]:2009/08/12(水) 19:33:17 ID:??? みなさん、お久しぶりです 1です その節はご迷惑をおかけしました。 「心が折れる」という表現はバキ発と言いましたが 皆さんから神取忍という指摘を受けて非常にショックを受けました。 しかし、あれから私は調べました。 その結果、とんでもない事実が判明しました。 何と「心が折れる」という表現の発祥はバキでも神取忍でもなく 川端康成だったのです。 昭和7年に発表された「抒情歌」という小説で既に使われていたのです。 「父は母の死に心折れて・・・」という一文があるのですが 興味のある方は文庫本か図書館で確認してください。 マルケスが川端の「眠れる美女」の影響を受けている、という人はいるよ。 マルケス自身が言ってたかどうか知らないが。 ガルシア=マルケスは『眠れる美女』をなぜ自分が書かなかったのか、 悔しいといった趣旨のことを言っている。 だから『わが悲しき娼婦たちの思い出』を書いた。 それは物語としての影響ですか? それとも、文章としての影響ですか? 日本語の読めないマルケスが文章としての影響を受けているとは思えませんが、 38のスレで語れれているのは、文章力に関する話なので・・・ 川端康成は霊能力が有った。 ──幼い時の私は搜しもののありかなどを言ひあてた。明日の來客なども言ひあてた。 さういふ勘を不思議がられる以上に、幾らか實際の便利とされてゐた。 物が紛失したり、明日の天氣模樣を知りたい時など、祖父母は私にたづねた。 私はなんの氣なしに答へるだけだつたし、あたつてもなんとも思はなかつたのだが、 小學校へ入るころには、さういふ勘は消えるともなしに消え失せてゐた。── 川端康成著 『故園』 だから、川端康成が後年、霊能力者 エマヌエル スウェデンボルグに惹かれたのは 当然と言えば当然であった。その事を知った上で川端康成の文章を読んでみると、 今までとは違った新たな発見が得られるだろう。 >>41 38のレスの全部に眼を通さなきゃならないのか?w マルケスのmemories of melancholy whore の主人公の男のキャラ設定は 川端のhouse of sleeping beautiesの主人公とそっくりらしいと聞いた がナ。たしかに、醜くてシャイな主人公は川端作品に良く登場する。 川端の作品はスペイン語に翻訳されてるから、川端に強い関心を持って いたとすれば、翻訳越しにでも影響を受けた可能性はあるだろう。 丁度、春樹の文体がアメリカ文学の影響を受けてると、この板で議論さ れるようにw >>20 言っている文句は多少違うが、小説の題名は『掌の小説』の中の『月』。 俺はあまり本は読まないし文章を読むのさえめんどくさい ぐらいのメンヘラーなのだが芥川龍之介の歯車と川端康成の 眠れる美女はかなり良かった。さすがは一流作家だなと思ったな 川端の方が三島より世界性がある。japonismとは無関係に。 三島がいくら言い訳しようとも、三島は川端のことを過小評価 していたんだな。 >>50 川端作品は三島由紀夫が一番評価して推薦してるの知らないバカですか? それに、一説には「眠れる美女」は三島由紀夫の代筆だというのもあるし。そう証言してる編集関係者もいるようですけど。 蘭陵王の79頁で「眠れる美女」を褒めちぎっているけど 自分の作品を褒めて恥ずかしくないのかな? >>53 はあ? 蘭陵王って、自衛隊訓練後の休息のひとこまを書いた短編小説ですよ。 「眠れる美女」についてはいくつかの評論で褒めてるのは確かですけど、 代筆だと明かせない歯がゆさと、作品への自信がそうさせたのかもね。 三島由起夫が『眠れる美女』を書いたなら、乙女が乙女のままで話は終わらないだろう。 上の14番で、「犯されたときはすでに処女ではない」などと言っているのだから。 犯されないからこそ処女なのに、なぜ犯された後までを「処女」の定義に入れて言う必要があるのか。 本人にそういうものを書きたい願望があるからだ。 で、この作家ってどこからどこまでが本人の作品なわけ? どんなに優れた作品でも、作家を詐称しての発表はフェアじゃないというか・・・ 萎えるわな 『眠れる美女』 芸術か、エロかって所、実に、女の体がせんさいに描かれてある。俺が今、ここで寝たら、若いからか、 禁を破るだろう。 森田必勝「高校時代から浪人時代にかけて読んだ小説の読書ノート」より >42 いったい現実ということを諦める事がいかに難しいものか。 川端さんを読むとそう思う。 三島さんと方法が違うが、 なじめない「現実」を前に、しようもなく綴っていた感のある 作品群を前にすると、 川端さんが超能力者というよりも 「現実」というものへの寂しさ、むなしさが 川端さんの「超能力者なるものへの共感」を生んだ気がする。 最後は、「くすり遊び」にはまってしまっていたようだし。 実は昭和43年のノーベル文学賞は三島由紀夫とほぼ目されていたが、審査員の一部から三島の政治的活動を 問題視する声があがり、三島の受賞に強く反対し川端康成へ移行していった。 ある審査員が三島を、全共闘の仲間と短絡し、急進左翼に肩入れしているとみなし、代わりに川端を強く推したのである。 また、川端は事前に自分が受賞することを知り、三島へ「今回は私がいただかせてもらいます」と電話した。 三島の死後、川端は、「あれは三島君がもらうべきだった賞だ」と知人に漏らしている。 そして自責の念にかられてか、川端は徐々に重度の睡眠薬中毒になってゆく。 実は受賞対象の作品の一つの「山の音」は三島が代筆したものだったと、三島の妻・瑤子夫人は友人に秘密を 暴露していたという。 また一説には「眠れる美女」も三島の代筆と言われており、三島死後の、父親・梓と川端康成との確執も この代筆問題に関連したものと思われる。 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監室に立てこもったニュースを聞き、川端康成はすぐに現場へ駆けつけた。 そして、川端は、総監室で壮絶な最期を遂げた血まみれの三島の死体と首を見てしまう。(これは警察官らの証言だが、 川端本人は遺体は見ていないと否定している) ひと足遅れてきた石原慎太郎は、現場検証した警察関係者から、「川端先生が中へ入って見ていった」と聞かされる。 慎太郎は川端が三島を見送ったならばと、入室を辞退していった。実際のところは単なる怖じ気だろう。 川端はその後、眠れないと周囲に漏らしたり、「ほら、三島君があそこにいる」と、三島の霊を見ているかのような 言動をするようになってゆく。 三島の死後、川端康成は会議や講演などはこなしていたが、健康がすぐれず、新しい文学作品は書かなくなっていった。 そして、三島の自刃から約一年半後の昭和47年4月16日、川端はふらっと鎌倉の自宅を出てタクシーを拾い、 仕事場の逗子マリーナ・マンション417号室へ向かう。 水割りを少し飲んだ後、川端はガス管をくわえガス自殺を遂げていた。遺書はなかった。机には太宰治の本が あったともいわれている。 遺書がなかったせいか、この自殺には諸説あり、なかには他殺説まであり謎のままである。 >>71 太宰でなく坂口安吾だって記事もあるぞ。 ガス管もってて事故はないだろうし、デマも 多い。 「日本文学」という呼び方の似合う 最後の世代の人かな。 >>73 誰も「事故」だと断定してないよ。よく読んでください。 川端の受賞は穏当な結果だったと思うが、 イデオロギー問題が絡むから、話が面倒に なる。 あったならあったで、なかなか興味深い話ではある。 作家本人としちゃ余り名誉な話ではないだろうが。 原稿の字が川端の筆跡じゃない、綺麗な字(三島の字に似てた)という話もあるようですよ。 代筆問題は、三島由紀夫の代筆の他にも、北条誠、沢野久雄もやってたという噂があります。 ▼川端康成は無類の美術品・骨董コレクターだった 川端康成は無類の美術品・骨董コレクターだった。相当の目利きで、かなりの優品を集めていた。 水戸駅からほど近い、千波湖の畔にある茨城県近代美術館の『川端康成コレクション展』(平成22年4〜6月)には、国宝の池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」、そして幻の蕪村文台も出品されていた。 サイデンステッカーが美術収集家としての川端について次のように語っている。 ・・・川端はすばらしい美術収集家で、それは彼自身の賜物でした。とくにどの分野の、いつの時代のもの、と限定することなく、自分でいいと思ったものだけを集めた。 繊細な眼、批評家の眼を持っていた。彼のコレクションは、批評家のコレクションです・・・(「諸君!」昭和52年8月号) 『中央公論』の編集者として、晩年の川端と十年余りつき合った伊吹和子は、最初の出会いを次のように綴っている。 ・・・広い縁側から座敷に入ると、右側が床の間になっており、軸がかかっていた。床の間の横の違棚の下に、一メートル余りの高さの仏像のようなものが置かれていて、 黒光りのする肌のところどころに、朱の漆らしい色が、障子を通して入って来る薄い光線に浮いて見えた。 私は背後の像が気になって、知らず知らず何回かそっと振り向いて見ていたらしい。像は、目尻の上った涼しい眼をちょっと伏せた幼な顔の中に凛とした気品が漂い、 上半身は裸形で、ふっくらとした両の手が、何かを包むように柔らかく合されている。そして下半身の袴の襞に、他より多く残ったらしい朱が、落ち着いた美しさを湛えていた。 先生はAさんに相槌を打ちながら、私を見ておられたようである。突然、こちらへ顔を向けると、「聖徳太子なんですけど……小さい頃の」と言われた。 私は、ただ「はあ」と言ったまま、あとの言葉は飲み込んでしまったが、初めて聞く声には、関西の訛りがはっきりと残っていた・・・(『川端康成 瞳の伝説』) 伊吹は、鎌倉長谷の川端邸を先輩Aと初めて訪問し、客間に置かれた聖徳太子の稚児像に強い印象を受けたのだ。私は稚児像の存在を知って、いつかこの像に見えたいと願った。 水戸の美術展で実見すると、期待に違わない、見る者の心をスーッと引き込む磁力のようなオーラを静かに発している像だった。これは必ずしも聖徳太子でなくてもいい。 両手のひらを胸の前であわせ、何事かをじっと一心に静かに、しかし勁く念じている木造の稚児像から、柔らかく、しかし厳かなものが伝わってきた。鎌倉時代のもので文化財にも指定されていないが優品である。 ▼川端の異常な金銭感覚 この稚児像は、川端が東大病院に入院していた時、見舞いに訪れた古美術商から入手したのだが、堤堯は川端と骨董について次のようなエピソードを明かしている。 ・・・当方の友人にUという男がいた。大学を辞めて古美術商の丁稚となった。文壇・画壇の古手が出入りする。ある日、こんな会話を耳にした。 「川端さんがちょっと預かると言うて壺持っていきよった。それっきり何の音沙汰もあれへん。そろそろ買うのか買わんのか、はっきりしてもらわんと困る」 「いや、あれはニセモノや。かまへん、ほっときい」・・・(「WiLL」2006年12月号) 金田浩一呂は、川端の骨董商との付き合い方や金銭感覚について、かなり特異なものだったと言っている。 ・・・骨董品店などで気に入ったものを見つけると、すぐ買ってしまう。亡くなったとき骨董商が集まってきて、未払いの品物を持っていったという話まである。 川端が金に放胆だったという話は多い。川端から「銀座のバーに行ってますか」と聞かれ、「最近は高いので、なかなか行けません」と答えると 「高ければ払わなきゃいいでしょう」と言われた、と聞いたのは吉行淳之介。中村真一郎も同じような回想録を残している・・・(産経新聞平成22年5月3日「文士の流儀」) 金田は「すぐ買ってしまう」と言っているが、川端は入った店にある、あるいは持ち込まれた骨董や美術品が気に入ると、カネを払うとも言わずに、 平然と占有する性癖があった。養子の香男里の話では、骨董屋・古美術商たちは川端康成を通った、還った品だと言って高値をつけていたそうだから、結局持ちつ持たれつだったのだろう。 臼井吉見の実録小説『事故のてんまつ』に、川端は安曇野の植木屋から鎌倉まで運ばせたイチイ他の植木、その運搬費、人夫賃の費用数百万円を払おうとしなかったが、 天下の川端にお代を払ってほしいと、田舎の植木屋はなかなか言い出せなかったとある。 或る週刊誌がノーベル賞を受賞した直後の川端に原稿を依頼したが、なかなか応じてもらえず、ハワイに滞在中の川端に編集者が会いに行き、懇請を重ねて執筆の約束を取りつけ百万円の原稿料を前渡しした。 しかしようやく届いた原稿は枚数にして4枚にもならない短いものだった。担当者のハワイへの往復の飛行機代・滞在費も含め、一字当たり1300円余の原稿料になったという。 今から40年余り前のエピソードだ。川端はそういうことを斟酌しない人だった。 (つづく) 一人の人間だと思うからいけない。 日本文学が足をはやして歩いてる だけ。 ただのキチガイだっただけだろ。 私小説作家は、殆どがキチガイだよ。 >>88 芸術家はすべてキチガイだよ。 でなきゃ、たいした芸術家じゃねえ。 ヒロポンとかやってたのが多かったからだろ。 だから人間だと思うからキチガイに見えるんだって。 ▼川端夫人の怨み 平成22年水戸駅の傍にある茨城県近代美術館で開催された『川端康成コレクション展』の一画に書簡コーナーがあった。 そこに三島由紀夫からの手紙が一通だけ出品されていた。便箋はレターヘッドに「Yukio Mishima」と刻印された自家製で、昭和41年8月15日の日付があった。 三島はその直後8月下旬から9月初めにかけて『奔馬』の取材に奈良の大神神社、広島(ここは恩師清水文雄との邂逅)、そして熊本の神風連縁の地所に赴いた。 「拝復 お手紙ありがとうございました。あれから下田へ行っておりまして、昨日帰京、又二十日から取材のため、関西と九州へまいります」という書き出しで、 「野坂昭如の「エロ事師たち」が武田麟太郎風の無頼の文学で面白く思いました」「一寸面白いのは宇能鴻一郎あたりかもしれません。あの人には谷崎潤一郎初期の悪童性があるように思います」という作品評や文壇話をしているごく普通のものだ。 あれだけの交流が川端と三島の間にあったのに陳列されていた三島からの手紙がこの一通だけとはさみしい。 川端夫人秀子(本名ヒデ)が夫との思い出をつづった『川端康成とともに』で触れた三島由紀夫のエピソードは一つだけ、しかも数行に過ぎない。 「三島」の名は他に二箇所のみ。この展覧会をプロデュースした川端の養子香男里も養母のそういう!)所作!)を踏襲したのだろうか。 平成22年10月香男里が館長をつとめる鎌倉文学館主催の講演会が鎌倉駅前のホールであった。 鎌倉文学館の建物は昭和11年前田侯爵別邸として建てられ、戦後はデンマーク公使が借り、三島が『春の雪』の松枝侯爵邸のモデルとして取材した時は佐藤栄作首相が借りて使っていた。 ▼かみ合わなかった対談 鎌倉文学館開館25周年を記念して開催された「川端康成と三島由紀夫 伝統へ、世界へ」展とコラボした講演会は二回行われ、 その初回に香男里と松本徹三島由紀夫文学館館長が講演と対談をしたのだが、この時の対談がまったくかみ合わないものだった。 香男里の講演内容が奇妙なもので、三島が生前くやしがったことが二つあるという話しをしていた。 そのひとつはノーベル賞が川端にいってしまったことで、もうひとつは「やんごとなき女性」にふられたことだと言うのだ。 後者については、長岡輝子が三島の母倭文重から聞いた話として、息子が正田美智子と見合いをしてふられた。それを長岡から聞いた話として或るジャーナリストが最近書いている。 しかし長岡が故人となった後書いているので長岡に確かめようがない。正田家から断られたとしても三島がどう受け止めたかは更に確かめようがない。 その話の次に香男里がしゃべったのは、三島には他に付き合っていた女性がいた、それは鹿島一族の娘で、二人が一緒に川端邸に来て、軽井沢の川端の所有地を鹿島に売ってほしいと頼んてきたというエピソードだ。 三島文学とどんな関係があるのだろうと聴いていたらただそれだけだった。三島の女性にまつわる二題噺で意味はなさそうだが、軽井沢の土地についての一件は秀子夫人が『川端康成とともに』に書いている。 その一件が同書が三島に言及したたったひとつの箇所で、秀子がそれを書き、香男里が講演会の壇上で蒸し返したのにはそれなりの背景があったのだ。 その軽井沢の土地は昭和15年頃、川端が秀子に「大変今まで世話をかけたからみな君にあげるよ」と言って渡してくれた、改造社から出した選集の印税で買ったものだという。 登記上は康成名義だったろうが、秀子は自分の土地だと思っていたのだ。それを川端は三島の依頼を受けて売ってしまい、その売却金は全部使って、秀子に一文も残らなかったと恨み節を述べている。 秀子は夫を恨まず三島に怒りを向けた。香男里はそれを養母から聞かされて三島によい感情を持てなかったのだろう。げに女の怨みは怖ろしい。 (つづく) 山の音読んだよ。 なんかよくわかんないけどとてもよかったー げんじものがたりだね かってになっとく 三島が描く風景と、川端が描く風景とは根本的に違うんだ。 三島が観ている風景は、観念のなかにしかない。 それが三島のいう日本的な美なんだ。抽象的なんだよ。 だから風景に心が宿ってない。意識が棲みついているだけなんだ。 風景と心が共鳴し合っていないんだよ。言っていることがわかるかな? その意識も西欧的なんだよ。西欧人が憧れる、観念的なイメージとしての日本の美なんだ。 あるがままに身体で感じ取った日本という風土性が描写に色濃く反映されていないんだ。 極論するとだね、三島の作品からはそんな印象が強く沸いてくるんだよ。 川端と同じことをしていても、人として持っている感性としての本質が違う。 勝ち目はない。頭がいい三島自身が、誰よりもそのことを痛感していたと思うよ。 猪瀬直樹は好きじゃないけど、三島の風景描写を銭湯の壁に描かれた ペンキ絵のようだ、というようなことを書いていたが本質を言い当てていると思う。 結論をいうとだ、三島に川端の代筆は無理なのだよ。 すべてとは言わない。「眠れる美女」なんかなら可能性はあるかもしれない。 モノローグ的に心理の揺れだけを描くのならできる。生きてはいるが物体 としての若く瑞々しい女体を介した、己の心との遣り取りだからね。 でも川端の真骨頂は、心の揺れを日本の風景の描写のなかに重ね合わせて 内面の奥深くある本人にも気づかない深層心理を多層的に浮かび上がらせる ところにあるんだよ。風景のなかに心が宿っているとはそういう意味だ。 自然は対象であって対象ではない。己を含み、また己のなかに自然を抱え込んでいる。 川端の描く日本の風景が美しく心に響いてくるのは、そうした理由だ。 三島の描く風景は心にではなく意識に響いてくる。一つ一つが重たく抽象的な言葉を ものを好むのもそのためだ。装飾をほどこした美文調につながってくるのも自然なことだ。 なぜなら意識のなかにしかない観念的な風景を描いているからだ。対象としての自然は その装飾の一部でしかないんだよ。 まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。 言われても気にはしないんだが、笑わせすぎて腹の筋肉を痛めたたりして 損害賠償の請求なんてことがあると困るから……。 >>101 >まあ、この辺りでやめておく。基地外だと言われてしまいそうなので(笑)。 やめるの遅すぎ。もう三行目くらいでお前はキチガイ認定されてるよw 三島の風景が抽象的であるのと同じく川端の「日本」も十分に抽象的。 現実にはどこにもない「雪国」に逃避してるだろ。 三島の感性が記号的であるというのは文体改造などからも 言える。 仮面の告白だから。 純文学にも大衆的なのと芸術至上主義的なものはあるだろう。 大衆的であることは芸術的には感じられないのは、芸術は 一般に美術的だからだ。 などと場当たりに分析してみるヒンツ >>101 確かに三島の背後には西欧的ブルジョア芸術が見えるね。 正に「鹿鳴館」的なるもの。或いは大正浪漫の名残か知らん。 公威君は祖母に宝塚文化で育てられたのな。そういう方面の 英才教育を受けてる。 >>101 大体、三島由紀夫は川端の真似なんて一つもしてない、影響もされてないしから、 三島文学と川端文学の風景描写を比べて語ること自体がナンセンス。ろくに読んでない証拠。 >>101 それから、三島の描く風景や海は、あんたが言ってような「日本の美」じゃないし、 別にそういうものを主題にしてないよ。あんたや、外人が勝手に勘違いしてるだけ。 >>101 三島が描く風景は具体的だよ。念入りに細かく描写してるし。そして、さらにそこに自身の観念も重ねて心を通わせてるんだよ。 三島の海の描写読んでないでしょ、あんたは。 三島文学も石原チンポ小説と一緒でパフォーマンスがキツくて 客観的な評価が難しいよ。 >>114 どっちの小説も読んでない単なる右翼嫌いなバカサヨ乙 『天人五衰』冒頭に海の描写がある。一見写実的な描写だが、 じつは単なる美文にすぎない。観念の表象だ。 若い頃の文学界の一座で撮った写真面白いよ。 真ん中に和服で真っ直ぐカメラを見据えている主役格の 川端は義経みたいな現代離れした風貌をしてる。 平家物語から転がり出て来たような感じ。 >>118 もともと、観念、阿頼耶識のつもりで書いてるのに、何をとんちんかんなことを言ってんだか。 部屋の真ん中で、 全裸で尻をおもいっきり振って白目剥いて奇声を上げ全身痙攣してオナラしたら、 うんちが全部出た。 全部だ! 畳に散らばったうんち、どうする? 人生の孤独にふと、涙をこぼすんだろ? 同情は不可能だな。 この人の作品はいっこうに意味がわからない。わからないけどなんとなく手を出してしまう。 まあ単純に自分の読解力っつーか読書不足なんだろうけど…。 ここの皆が川端作品を理解できるようになったきっかけってある? >>126 ドストエフスキーみたいな思想小説じゃないし、 読みたいならそれで良いんじゃねえの? 今日ぼくは齋藤智裕先生の「KAGEROW」を50冊 被災地に寄付してきた。 お伽噺のなかで犬が歌ひ茶碗が物語り草木や花が物を言ふやうに、芸術とは物言はぬものをして物言はしめる 腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はして おけばよい。そこへ芸術は手を出すに及ばぬ。それはそもそも芸術の領分ではなく、神が掌(つかさど)る所与の 世界の相(すがた)であるから。――しかし処女は物言はぬ。一凡人の平坦な生涯は物言はぬ。そこに宿つた 平凡な幸福は物言はぬ。ありふれた幸福な夫婦生活は物言はぬ。ありふれた恋人同志は物言はぬ。要するに 類型それ自体は決して物言はない。すぐれた芸術は類型それ自体をゑがかずして、しかもその背後にはもつとも あり来りの凡々たる類型が物言はしめられてゐることを注意すべきだ。幸福は類型的なるものの代表である。 それゆゑにこそわれわれは過去の芸術のなかに、喜劇と比べて量に於ても質に於てもはるかにすぐれた悲劇を 持つてゐる。してみればロマンティスムの象徴せんとするものは生れ生き恋し結婚し子をまうけ凡々たるノルマルな 生活それ自体に他ならないかもしれない。 三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より ――物言はぬものをして物言はしめる意慾は、自ら物言はぬものとなつては果されぬ。物言はぬもの、それが作品の 素材である。川端康成の生活にはこの素材の部分が全く欠如してゐる。書かれる自我はない。彼の書く手の周囲、 彼の書く存在の周囲に、物言はぬもの、即ち処女や恋人同志や夫婦や、踊子たちがむらがつた。彼らはやさしい 媚びるやうな目でこの詩人的作家をみつめてゐる。彼らは処女が「自ら歌へぬ」存在であることを誰よりも切なく 知悉してゐるこの不幸な作家をみつめてゐる。その限りで、彼らはお伽噺のなかの犬や茶碗に等しい。処女たちは、 踊子たちは禽獣であつた。ここに川端康成の孤独がはじまる。自己の中に存する物言はぬもの(即ち書かれるもの)と、 外界の物言はぬものたちとの、共感や友愛やはたまた馴れ合ひや共謀やは、彼の場合はじめからありえぬことだつた。 三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より (中略) 作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を知ることはまた一瞬の裡に その女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。作品が存在した故に作品の内容が内的体験となつて再び 生の実在に導き入れられるのではなく、生をして夢みさしめ数刻を第二の生のうちに生かしめたが為に芸術作品は 存在しはじめるのかもしれない。してみれば女が先づ在つて運命が存在しはじめるのではなく、われわれが生を 運命として感じ歌ひ描き夢みること、その行為の象徴として女が存在しはじめたのかもしれないのだ。その時 われわれが自らの自我の周囲におびただしい物言はぬ存在を――つまりはわれわれ自身の孤独の投影を―― 感じることは、やがて芸術の始源を通して芸術を見、一つの決定された作品としての運命を蝕知することだ。 少くともその瞬間、われわれは川端康成と共に、自己の存在が一つの作品に他ならないことを感じるであらう。 彼の文学を知る道も、この他にはないのである。 三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』について」より > > 川端さんは震災のとき、すぐに東京市内を歩き回り、つぶさに惨状を見ている。「私程地震の後を見て回った者は > 少ないだろう」と書いているくらいだ。…今東光氏をさそって芥川龍之介の家に見舞いにもいっている。 > 芥川氏とともに、吉原遊廓の池に、遊女の死体を見に行った。芥川氏はゆかたがけでヘルメットをかぶり、 > 熱心に見て歩いた。そのさかんな好奇心には、さすがの川端さんも驚かされたらしい… > http://www.tokyo-kurenaidan.com/kawabata-tokyo2.htm 処女も小鳥も犬も、自らは語り出さない、絶対に受身の存在の純粋さを帯びて現はれる。精神的交流によつて エロティシズムが減退するのは、多少とも会話が交されるとき、そこには主体が出現するからである。到達不可能な ものをたえず求めてゐるエロティシズムの論理が、対象の内面へ入つてゆくよりも、対象の肉体の肌のところで きつぱり止まらうと意志するのは面白いことだ。真のエロティシズムにとつては、内面よりも外面のはうが、 はるかに到達不可能なものであり、謎に充ちたものである。処女膜とは、かくてエロティシズムにとつては、 もつとも神秘的な「外面」の象徴であつて、それは決して女性の内面には属さない。 川端文学においては、かくて、もつともエロティックなものは処女であり、しかも眠つてゐて、言葉を発せず、 そこに一糸まとはず横たはつてゐながら、水平線のやうに永久に到達不可能な存在である。「眠れる美女」たちは、 かういふ欲求の論理的帰結なのだ。 三島由紀夫「解説(『日本の文学38川端康成集』)」より 氏ほど秘密を持たない精神に触れたことがないと私が言つても、おそらく誇張にはなるまいと思ふ。秘密とは何か? 一体、人間に重大な秘密なんてものがありうるのか? われわれに向つてすぐさまかう問ひかけてくるのが、 氏の精神なのである。これは破壊的な質問であるが、氏は決して論理を以て追究することはない。問ひかけただけで 相手が凍つてしまふことが確実であるとき、どうして論理が要るだらう。 氏自身はダリの画中の人物のやうに、風とほしのよい透明きはまる存在であるのに、私は氏に接してゐると、 氏が自分の外部世界のお気に入りの事物へ秘密を賦与してゆく精妙な手つきが見えるのであつた。そこで氏が 世間の目に半ば謎のやうにみえてゐる理由も判然とする。氏自身の精神には毫も秘密がないのに、氏は自ら与へた 秘密の事物に充ちた森に囲まれてゐるからだ。その森には禽獣が住んでゐる。美しい少女たちが眠つてゐる。 眠つてゐる存在が秘密であるとは、秘密は人間の外面にしかないといふ思想に拠つてゐる。その存在を揺り 起してはならない。 三島由紀夫「川端康成読本序説」より 揺り起せば、とたんに秘密は破れ、口をきく少女や口をきく禽獣は、たちまち凡庸な事物に堕するのだ。なぜなら そこから、心が覗けてしまふからだ。そして心には美も秘密もない。川端文学が、多くの日本の近代小説家が 陥つた心理主義の羂(わな)に、つひに落ちずにすんできたのには、こんな事情がある。――これは存在に対する 軽蔑だらうか? 軽蔑から生れた愛だらうか? それとも存在に対する礼儀正しさと賢明な節度だらうか? そこに保たれる情熱だらうか?……この二つの見方で、川端文学に対する見方はおそらく劃然と分れる。 前者の見方を固執すれば、氏の文学は反人間主義の文学で、厭世哲学の美的な画解きのやうに思はれてくる。 また後者の見方を敷衍すれば、「川端先生の小説つて素敵だわ」と言ふ若いセンチメンタルな女性読者の、 「清潔好き」の嗜好までも含めることになる。氏の文学の読者層の広汎なことは、かういふさまざまな誤解を ゆるすところにあるのであらう。それはそれでいいので、いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから 二流品である。 三島由紀夫「川端康成読本序説」より 私の考へでは、氏の文学の本質は、相反するかのやうにみえるこの二つの見方、二つの態度の、作品の中でだけ 可能になるやうな一致と綜合であらうと思ふ。もしわれわれが畏敬すべきものだけを美とみとめるなら、美の世界は どんなに貧弱になるだらう。のみならず、畏敬そのものに世間の既成の価値判断がまざつてゐるならば、美の世界は どんなに不純なものになるだらう。それならむしろ、やさしい軽蔑で接したはうが、美は素直にその裸の姿を あらはすだらう。しかし軽蔑が破壊に結びつき、美の存在の形へづかづかと土足で踏み込むやうなことをしたら、 この語らない美は瞬時にして崩壊するだらう。われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、 美を保ち、それから受ける快楽を保つ方法を知らないのである。こんなことは人間の自明の宿命であるが、現実の 世界では、盲目の人間たちがたえずこの宿命を無視し、宿命からしつぺ返しを喰はされてゐる。川端氏は作品の 中でだけ、この宿命そのものを平静に描いてみせるのである。 三島由紀夫「川端康成読本序説」より 川端さん、新年おめでたうございます。 毎年一月二日には、御年賀に上つて、賑やかな賀宴の末席に連なるのが例ですが、はじめて伺つてから、今年で もう十年になります。(中略) それは寒い日で、大塔宮裏のお宅までは、まだバスも通じてゐなかつたころと思ひます。廿一歳の私は、いろいろ 生意気なことを口走つたとおぼえてゐますが、内心はびくびくして、無言に堪へることができなかつたのでした。 失礼なことを申しますが、川端さんが黙つたまま、私をじろじろ見られるので、身のすくむ思ひでありました。 (中略) いつのお正月でしたか、あまり御酒を嗜(たしな)まれぬ川端さんが、子供のお客たちにまじつて、テレヴィジョン ばかり見てゐられたのを思ひ出します。テレヴィジョンの画面には、踊り子たちが、寒中、裸の脚をそろへて 上げて、右に左に顔を向けては踊つてゐました。 三島由紀夫「正月の平常心――川端康成氏へ」より 川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがつひに文体を持たぬ小説家であるといふのは、 私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。混沌と不安に対処して、 世界を整理し、区劃し、せまい造型の枠内へ持ち込んで来るためには、作家の道具とては文体しかない。 フロオベルの文体、スタンダールの文体、プルウストの文体、森鴎外の文体、小林秀雄の文体、……いくらでも 挙げられるが、文体とはさういふものである。 ところで、川端さんの傑作のやうに、完璧であつて、しかも世界解釈の意志を完全に放棄した芸術作品とは、 どういふものなのであるか? それは実に混沌をおそれない。不安をおそれない。しかしそのおそれげのなさは、 虚無の前に張られた一条の絹糸のおそれげのなさなのである。ギリシアの彫刻家が、不安と混沌をおそれて 大理石に託した造型意志とまさに対蹠的なもの、あの端正な大理石彫刻が全身で抗してゐる恐怖とまさに反対の ものである。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より (中略) 川端さんのかういふおそれげのなさ、自分を無力にすることによつて恐怖と不安を排除するといふ無手勝流の 生き方は、いつはじまつたのか? 思ふに、これはおそらく、孤児にひとしい生ひ立ちと、孤独な少年期と青年期の培つたものであらう。氏のやうに 極端に鋭敏な感受性を持つた少年が、その感受性のためにつまづかず傷つかずに成長するとは、ほとんど 信じられない奇蹟である。しかし文名の上りだした青年期には、氏が感受性の溌剌たる動きに自ら酔ひ、自ら それを享楽した時代もあつたことはたしかである。氏がきらひだと言つてをられる「化粧と口笛」のやうな作品では、 氏の鮮鋭な感受性はほとんど舞踊を踊り、稀な例であるが、感性がそのまま小説中の行為のごとき作用をしてゐる。 氏の感受性はそこで一つの力になつたのだが、この力は、そのまま大きな無力感でもあるやうな力だつた。何故なら 強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を自分の裡に受容しなければ ならなくなるからだ。これが氏の受難の形式だつた。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より しかしそのときもし、感受性が救ひを求めて、知力にすがらうとしたらどうだらう。知力は感受性に論理と 知的法則とを与へ、感受性が論理的に追ひつめられる極限まで連れて行き、つまり作者を地獄へ連れて行くのである。 やはり川端さんがきらひだと言はれてゐる小説「禽獣」で、作者がのぞいた地獄は正にこれである。「禽獣」は氏が、 もつとも知的なものに接近した極限の作品であり、それはあたかも同じやうな契機によつて書かれた横光利一の 「機械」と近似してをり、川端さんが爾後、決然と知的なものに身を背けて身を全うしたのと反対に、横光氏は、 地獄へ、知的迷妄へと沈んでゆくのである。 このとき、川端さんのうちに、人生における確信が生れたものと思はれる。(中略)情念が情念それ自体の、 感性が感性それ自体の、官能が官能それ自体の法則を保持し、それに止まるかぎり、破滅は決して訪れないといふ 確信である。虚無の前に張られた一条の絹糸は、地獄の嵐に吹きさらされても、決して切れないといふ確信である。 これがもし大理石彫刻なら倒壊するだらうが。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より かうして川端さんは、他人を放任する前に、自分を放任することが、人生の極意だと気づかれた。その代り 他人の世界の論理的法則が自分の中へしみ込んで来ないやうに警戒すること。しかしその外側では、他人の 世界の法則に楽々と附合つてゆくこと。……実際、快楽主義といふものは時には陰惨な外見を呈するものだが、 ワットオと共に、氏の芸術を快楽的な芸術だと云つても、それほど遠くはなからう。 (中略) ここまで言へば、冗く言ふ必要もないことだが、川端さんが文体をもたない小説家であるといふことは氏の 宿命であり、世界解釈の意志の欠如は、おそらくただの欠如ではなくて、氏自身が積極的に放棄したものなのである。 (中略) さういふ川端さんが、完全に孤独で、完全に懐疑的で、完全に人間を信じてゐないかといふことになると、それは 一個の暗黒伝説にすぎないことは、前にも述べたとほりである。氏の作品には実にたびたび、生命(いのち)に 対する讃仰があらはれ、巨母的小説家であつた岡本かの子に対する氏の傾倒は有名である。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より しかし川端さんにとつての生命とは、生命イコール官能なのである。この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、 氏の永い人気の一因でもあつたが、これについて中村真一郎氏が、私に面白い感想を語つたことがある。 「この間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。すごくエロティックなんだ。 川端さんの純文学の小説より、もつと生なエロティシズムなんだ。ああいふものを子供によませていいのかね。…」 (中略) 氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を 辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象 すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り 永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと 思はれる。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より ここで私は、作家と、その描く対象との間の、――書く主体と書かれる物との間の、――永遠の関係について 論じたい誘惑にかられるが、もう紙数が尽きた。 しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、それと反対の極の知的な ものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。生命は讃仰されるが、接触したが最後、 破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも 破壊されることなしに、太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。 戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の 美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より 川端康成の文章は、蒲団の中で惰眠を貪るような感覚がなんとなくする。 川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の 西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか といふ色合の差にすぎない。 (中略) 作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、 (永井)荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に 敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。ところで現実の投影の作品世界を清掃してゆくには、 雑然たる東西混淆の日本の現実、日本の不可思議な雑種文明そのものを批評して行かなければならない。 三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より (中略) 今の東京は、よかれあしかれ、明治以来の継木文化そのままの都市的表現であつて、東京のグロテスクは、 そのまま、われわれ知識人と称するものの内面のグロテスクの反映である。これに対立するものとして、荷風の 江戸のイメーヂがあり、久保田(万太郎)氏の古い東京のイメーヂがある。共に作家の批評の果てに結実した イメーヂであつて、現実とは断絶してゐる。たゞ荷風が「冷笑」その他の、あらはなエッセイの形でこの批評を 行つたのに対し、久保田氏は、作品だけで批評を行つたにすぎぬ。だから一見、久保田氏の作品は、批評的に 見えない。しかし舞台の上のわびしい朝顔の花一輪にも、批評が、すなはち西洋が結実してゐるのである。 悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。 西洋イコール批評と云つても差支へない。 三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より さて、日本の現実の、かかる文化的混乱状態の結果として、日本における芸術家の特異な運命がはじまる。 日本では、芸術家肌の作家ほど、極度に批評的にならねばならないのである。これは本当に困つたことで、 芸術創造の機能と批評の機能とは、本来、相反するものなのである。モオツァルトの音楽がどうして批評であらうか。 日本で何故かくも小説といふジャンルが隆盛を極めてゐるかを考へて、私は、その一つの理由に、小説がもつとも 批評的な芸術であるといふ理由を数へずにはゐられない。(中略) かくて、日本に生れた芸術家は、不断に日本の文明批評を強ひられ、この東西の混淆のうちから、自分の真の 風土と本能にふさはしいイメーヂをみつけ出し、それを的確に結実させた人のみが成功する。(中略) さて、私はやうやく、川端康成の問題に戻つて来られたやうである。 川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光(利一)氏よりも、批評家として上であつた。 氏の最も西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが 私の意見である。 三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より 二十代の新感覚派時代の氏の作品は、当時のモダニズムの社会的風潮のスケッチであり、それを独自な感覚で 裁断したものであつて、最もハイカラな文学だつたと云へよう。ただ氏の場合の特色は、自分の鋭敏な感覚を発見し、 それに依拠して、それ以外のものにたよらぬ潔癖のおかげで、作品世界の調和を成就したことである。(中略) 私がことさら、昭和八年、氏が三十五歳の年の「禽獣」を重要視するのは、それまで感覚だけにたよつて縦横に 裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形を、この作品で、はじめて氏が 直視してゐる、と感じるからである。氏は自分の作品世界を整理し、崩壊から救ふべく準備しはじめるが、 いふまでもなくこれは氏の批評的衝動である。 そのとき氏は、はじめて日本の風土の奥深くのがれて、そこで作品世界の調和を成就しよう、西欧的なものは 作品形成の技術乃至方法だけにとどめよう、と決意したらしく思はれる。そして昭和十年に、あの「雪国」が 書きはじめられる。 三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より 千羽鶴読んだけど面白いね。 続編が波千鳥でしょ。 最後インポになっちゃうの? 川端康成の雪国と谷崎潤一郎の蓼喰う虫 を比較しながら論じろっていうレポートの 課題出たんだけど 何書いたらいい?ヒントをちょうだい 二人の女性観の違いとかでいいんじゃね ありきたりかもしれんがw >>164 やっぱそれだよねー なんかいい資料ないかな? >>164 やっぱそれだよねー なんかいい資料ないかな? >>166 とりあえず、別冊新潮の川端特集借りてみたら? 返レス遅れてすまん 川端読んだことなかったけど、ブクオフでみずうみが105円だったので読んでみました。 うーん、なんかピンとこない感じがする ロリコンのストーカーっていう題材は面白いし、あの、いつのまにか回想シーンに入っていったり突然もどってきたりする あの場面転換の書き方はとっても面白いけど いまいち小説に入り込めたかと言うと、そうでもない。 こんな俺におすすめな、他の川端作品はありませんか? みずうみ読んでピンと来なかったら 川端を深追いするな。他の作家に変えよう。 >>170 そうなんですかね。 手法は面白いと思ったんですが、その先に入り込めない。 音楽で言えばドビュッシーみたいなもんですかね? 今はサドとフロイトを読んでますが、もうちょっと毛色の違うものも読みたいので、やっぱり川端ももうちょっと読んでみたい気はします。 次には何がおすすめですかね? みずうみは川端にしてはちょっとこった技巧的な手法があったけど、 川端は手法の面白さを味わう作家には非ず。 みずうみの技巧面より、 川端の孤独感に共鳴しないなら 他の作家にいくべき。 究極の作品は絶筆となった「たんぽぽ」 短編では「しぐれ」「反橋」「住吉」三部作。 これで別世界だったら、貴殿にとっては無縁の作家。 Bには向かない。 あたい、いま難儀なの 頭が働かなくて眠いの けど読まなきゃいけない本があるの でも読みたくない 泣けてくるわ! 筒井康隆の「文学部唯野教授のサブテクスト」を読んでたら、 坂口安吾「風博士」、牧野信一「ゼーロン」などと並べて、 川端康成「牛落し」が日本の短編小説ベスト5として挙げられていました。 検索しても出てこないし(過去スレで架空の作品ではとの指摘はあったが)、 念のため「掌の小説」のタイトルをざっとみたが見当たらなかった。 こんな作品は存在しないということ確定でいいのでしょうか。 >>176 この時代にググってでてこなければ、やはりないですよね。 なぜ「牛落し」なのかは詮索してもしょうがないか。 YES → 【ヒットした?】 ─ YES → なら聞くなよ。死ね。 / \ 【検索した?】 NO → なら、ねぇよ。死ね。 \ NO → 死ね。 まあ、幻の名作という可能性はあるからね。検索にもひっかからないようなw 「スイス政府民間防衛」より。新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」 第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」 第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」 第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」 第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」←今ここニダ 最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」 ★「冤罪であってもパソコン没収・罰金30万・言論と表現の自由なし」 史上最悪の悪法「人権侵害救済法案」1:50あたりから http://www.youtube.com/watch?v=Fhq_P11wxIY&feature=related 日本人のお金で生活保護貰う在日 (民主党・創価学会・日教組・電通・パチンコ等) を追い出さないとヤバイです 令状無しで人権擁護委員会(在日)が来てパソコン没収?ハァ? 民主(在日84%)と公明(創価学会)は 日本から出て行け! 日本文化を横取りしようとする韓国人は出て行けー キミはもっと勉強して出直してきたら? ロリコン癖のことも知らないの? 晩年に関わりのあった女の子のこととか… 弟子の伊藤整や中里恒子や澤野久雄の著作に少し手を入れて自分名義で出版したことも知らないの? 乙女の港ってやつを買った めちゃめちゃいいじゃん川端康成 945 :名無しさん@12周年:2011/10/12(水) 01:52:09.21 ID:VoTeE6IY0 マスコミが取材に来た時、フジテレビだけ禁止する!って言う人が出てきそう。 マスコミ会社のクセ、3.を出してる時点で終わってる。 そういえば、川端康成が、生前、マスコミが取材に来た時、「朝日新聞は出て行け!」って感じのことを言って激怒していたのを 子どもながらに覚えていた。 子どもの俺でも解ったもんな。 「ああ、三島由紀夫のことを悪く書いた朝日新聞のことが嫌いなんだな。」と。 これから、フジテレビ取材を拒否する連中が出て来ても、おかしくはない 【ウジTV】何が何でも論点をすげ替えて韓国批判にしたい日本のマスゴミ http://www.youtube.com/watch?v=-xYvC1jlLno&feature=related 爆弾発言!韓国大統領「北朝鮮の復興は日本に金を出させる」と YouTube http://www.youtube.com/watch?v=XDBQTtO0gYk&NR=1 川端康成の文学が官能的に!大人なのにどこか幼さを感じさせる裸体にクギヅケ!『スリーピング・ビューティー』のエミリー・ブラウニング http://www.cinematoday.jp/page/N0036160 >>189 他人が書いた著作は、生前の作品集にはまったく収録していませんね。 >>190 小谷野クンがアマゾンで指摘してるけど、そろそろ真実をきちんと後世に伝えた方がいい時期に来てるのではないかな? 尾崎紅葉や江戸川乱歩だって弟子の代作あるけど、だからと言って作家としての評価は揺るぎ無いものだもんね。 盗作と違って、代作は2者の了解の下に行われる相互的なもの。 「代作の文学史」をもし、栗原が書くとすれば、 「なぜ代作が行われたのか?」まで踏み込まなければならない。 それは必ず、作家論、作品論を伴う。 取り分け、川端や龍胆寺雄、尾崎翠、稲垣足穂らの若い頃は 代作は蔓延していたらしい。盗作の場合よりも代作の場合は 作家同士の関係性も重要になってくる。 小林の翻訳ということになってるのが大岡の代作だったという 話もある。 上手く書けば「盗作の文学史」よりも、はるかに売れること 間違いなしだw そのうちに小谷野がどこかの新書ででも出しそうな気がしてきたな(笑) 抒情歌での叙述トリックにはやられた まさか純文学で使ってくるとは >>200 あったけれど、今のソープランドのような場所ではない。 ちゃんとスチームバスがあって水着のような格好の女性がマッサージしてくれた。 確か昭和30年代後半ごろには銀座にもあったくらいだから。 似たような店は神田のあたりに残ってたような気がするが、俺は行ったことないからわからぬ。 「スリーピング ビューティー/禁断の悦び」はノーベル文学賞作家、川端康成の「眠れる美女」を原作に 「エンジェル ウォーズ」(11)でセーラー服姿を披露したエミリー・ブラウニングがヒロインを務める官能 ミステリー。全裸で眠る若い女たちの傍らに寄り添い、それぞれに思いを巡らす老人たちを描いたデカダンス 文学「眠れる美女」は、2005年にもドイツで同名映画化され話題となった。 夏の靴がなぜあんなに評価されているのかわからない、あの小説の意味がわかる人などいるのか? ■物件概要 事故物件の住所・所在地 神奈川県逗子市小坪5丁目23 発生年月日 1972年4月16日 不動産の種類 自殺 マンション ワケあり物件情報 重要事項説明書 小説家の男性(72)が、仕事部屋のマンションの一室でガス自殺 不動産情報・部屋番号 「逗子マリーナ」417号室 http://www.jikobukken.com/kanagawa_ken/zushi_shi/kotsubo_5_23a.shtml 川端康成 伊豆の踊子の映画で吉永小百合版と山口百恵版どちらを観ようか悩み中 個人的な顔の好みは山口百恵 でも評判良さげなのは吉永小百合版? エグいシーンもちゃんと描いてるのはどっち? 性的な描写をアイドルも場合厳しかしかったりするけど ところが、一番いいできは 美空ひばり版だったりする 既出であったら失敬ですが、 旧版の川端康成全集(新潮社全19巻)の目次、知っている方いたら教えて頂きたいのですが・・・ 面倒だったら何巻までが小説で…何巻までが随筆…という説明でも構いませんので。 川端康成のアンサンクロペディアの記事が的を得ていて笑えた 作品論でいいなら 伊豆の踊子論とかはないな。雪国とかなら人気あるだろ 話題】川端康成「初掲載」の雑誌発見 大正期、恩師の葬儀つづる 1 :おばさんと呼ばれた日φ ★:2012/02/19(日) 21:34:17.26 ID:???0 日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した小説家川端康成(1899〜1972)が、旧制中学時代に執筆した 文章を掲載した大正6(1917)年刊行の雑誌を、熊本市の尚絅大の宮崎尚子助教が19日までに見つけた。 川端は、初めて雑誌に掲載された自分の文章と紹介、川端文学の研究に役立つ貴重な資料といえそうだ。 見つかったのは、大阪市にあった出版社が発行した家庭雑誌「団欒」の大正6年3月号。大阪府立茨木中学の 恩師を追悼する「生徒の肩に柩を載せて 葬式の日、通夜の印象」と題した文章で、同中5年生だった川端が、 同級生とひつぎを担いだ葬儀などの模様を記した。 川端の文章って、なんだか落ち着く。心が静かになる。 それが川端を好きな理由の第一かもしれない。 ん十年ぶりに川端康成を読み返しているけど、やはり代表作は『雪国』だね。 川端康成が好きで、この作品を嫌いな人というのはちょっと想像しにくい。 また、この作品を好きな人は、川端康成のどの作品を読んでもある程度の満足感は得られると思う。 『雪国』は、川端康成好きの読者には非常にいいと思うけど、正直、初めて読む読者に紹介するには躊躇いがある。 『雪国』で菊勇ねえさんが見送られた場面で、島村の「男がね。五人もあったのかい。」というセリフがありますが、五人もとはどういうことでしょう?文章がよくわかりません。わかる方いますか? 関西系買春爺さん(ノーベル文学賞強請)の書き込みしかないの? >>226 無能盗作屋? はて……。 >>227 確かにそんなのがあったような……。その前の駒子の台詞で、いろんな人があったっていっていましたが、 なぜ、その次に島村が、“五人”っていったのか? 私も判りません。だれか教えてください。 「川端はかなり遅い時期まで、文学として小説に信用を置いていなかったのではないだろ うかと僕は思う。文学をやるなら小説ではないと思っていたのかもしれない。そして自分 が小説を書くとしたらこうという形ができたのが、「雪国」だったと思うんですよ。それに比 べると、近代の日本の小説家はあまりにも早く小説に乗り過ぎている。小説以前の迷いとか懐疑 が薄い。小説にリアリティを持たせたいという欲求にひっぱられ、小説を書く自分の精神を検討 しなかったところがある。なぜ世間が小説家にこうも甘かったか。たぶん口語文を使うパイロット として見られたんでしょうね。」 福田和也・坂本忠雄との鼎談「川端康成『雪国』―インヒューマンな近代の体現者―」(坂本忠雄『文学の器』扶桑社、2009年8月)所収 福田和也・坂本忠雄との鼎談「川端康成『雪国』―インヒューマンな近代の体現者―」より 古井 しかも、川端さんの文章というのは五七調にかからないんです。 荷風や谷崎はかかりますよ。川端さんはそれを拒んでいる。だから古典を 気楽に引いているのではなく、拒みながら何かを引いているんだ。 (中略) 福田 川端康成には、遂に文体がないと三島は書いていますが。 古井 それが、僕らが今まで話してきたことの証拠ですよ。文体を拒んだん だ。安易に文体をものしたくない。三島さんも明敏だね、鋭い。その言葉 は、三島としては褒め言葉だったと思いますね。 福田 文体にとらえ込まれて、三島は苦労したわけですから。 古井 本当ですよ。珍しく文体のない大家だと絶賛だったんじゃないかしら。 文体を拒んだのはよくわかる。僕も六十代半ばの作家として、恥ずかしい くらいなもんだ。小説の文体なんて、たかが五十年、百年ぐらいの約束事 でしょう。それを拒むくらいの精神があってもいいわけですね。漱石だっ て、無茶な文体よ。川端さんは、意識的に拒んでいる。それが、日本の美 学伝統を伝えるたおやかな作家ってことになるから、世間というのもなか なか悪いねえ(笑) 川端による都合受賞(菊池への依頼)から、この国は歪みだした観 1968ノーベル賞受賞 川端康成を囲んで 三島由紀夫,伊藤整 日本文学 http://www.youtube.com/watch?v=-SYpSFcXHZ0 貴重な映像 今日発売のサンデー毎日に! 川端康成の記事が! 没後40年 元主治医が今だから語る 「川端康成が愛した女性と死の真相」 花日記って文庫化されていますか? ググり方が悪いのかわからなくて。どなたか教えてください 雪国とか山の音とか 長編の一章を短編として別々の雑誌で発表するってかなり我がままなやり方だよね 川端が日本の文学界で大物になるのって作品でいうとどれぐらいからかね 「伊豆の踊子」のあと「禽獣」読んで吃驚した。 こんな計り知れない作家がいるものかと。 「山の音」の業の深さにはホトホトあきれてしまった。 米の日本軍慰安婦の碑撤去の署名【期日6/9】 http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1338202472/352 署名お願いします。このままだと 「日本人が韓国人を拉致して性奴隷にしていた」=真実になってしまいます。 必要なのはメールアドレスと名前だけで、 表示されるのはイニシャル名のみAkira.Sとかです。 >>239 次は 眠れる美女、片腕 最後に たんぽぽ ドンドン業は深く 山の奥の最後の方で息子の嫁が 息子と別れたら「どんなお世話でもさせていただけると思いますの」って義父に言うけど あれはどれぐらいまでのことを含ませてると思う? 某Q&Aサイトで義父の介護のことを言ってるというのが ベストアンサーになっていたのだが それは絶対に違うなと 川端さんの顔写真を見ると、何考えてるかわかんなくて怖いです! 頭のなかは チヨORチヨ似の女のことばかりwwww >>247 二週間経っても誰もレスしないから俺が答えてやる 知らん 茨木市立川端康成文学館(大阪府)が所蔵していた作家・川端康成(1899〜1972)の直筆原稿が未発表の小説であることがわかった。 短編「星を盗んだ父」。ハンガリーの作家モルナール・フェレンツ(1878〜1952)の戯曲で映画やミュージカルにもなった「リリオム」を翻案したものだ。原稿は、21日から文学館で展示される。 リリオムは、生まれてくる子のために盗みを企てて命を落とす。天国へ行くために善行をしようとして、天の星を盗み子に渡そうとする。 そんな原作を川端は、リリオムが子に会う最後の場面中心に構成し直した。題名も変え、子を思う父の親心を浮かび上がらせる。 『雪国』の駒子と葉子って姉妹? あと、雪国の最後に葉子って死んだの? どなたか解説お願いします。 川端康成の小説を幾つか読んだが、 よかったのは、伊豆の踊子の冒頭場面の描写だけだな。 眠れる美女とか、片腕なんか最低だ。 三島由紀夫とか、サイデンステッカーは 眠れる美女を絶賛したそうだが、こういう奴らが 虚妄の文學界を作り上げているんだな。 まあチュウボーには伊豆の踊子が良くお似合いって事だ 三島由紀夫は「みずうみ」が好きじゃなかったみたいだね 川端康成って晩年は、近所の小学生の女の子を追いかけ回す変態おじじだったと云う話は本当? >>56 三島としては、そうは書けないが、 川端という仮面をかぶれば、書けたんじゃないか? 523 : ヨーロッパヤマネコ(チベット自治区):2012/09/30(日) 00:48:26.21 ID:cngNbqOi0 ノーベル賞の話になってもなぜか出てこない川端康成の名前 アイツこそ本物のガイキチなのに ノーベル文学賞なのに、話題にならないなー 東京マスコミはコンプレックスありそうだし、仕方ないか 川端康成のことをまったく知らない俺がつい興味で手に取った短編集で 一番いいなと思ったのが「薔薇の幽霊」で、まったくどういうことかわからなかったのが「歴史」 過疎ってるのを幸いにチラ裏。 念願の、岸恵子の雪国を見た。原文では書いていないところを豊田監督 らしく補ってあり、分かり?易かった。駒子は岩下志麻の方が自分のイ メージに合う。襖や障子の開け閉めの所作の速さに関心した。花のあと の北川恵子の所作がイイという評価もあるが、古い映画はこういうとこ ろが違うと思った。本題からはずれる話でゴメン。 未発表作品が見つかったらしいね。 しかし半端無く過疎ってるな。 そういえば川端康成訳レイン版千一夜物語というのがあるけれど、本人が訳したの? それとも名前を貸しただけ? 翻訳は「小公女」とか名義貸しばかりだよ。 小説も全集に収録してないのは、弟子の中里恒子や澤野久雄が書いたヤツだったりなんかするわけだが、いちおうタブーということになってる。 小谷野クンが今度「川端康成伝」を出版するみたいだから、どれくらい肉薄できるか注目してる… 川端康成の若いころの写真、鎌倉の自宅窓辺で下を眺めている写真がいやに色気がある 眠れる美女のモデルの件もタブーじゃなかったっけ? 最晩年には静岡県?に少女の愛人?がいたとか… >『雪国』の駒子と葉子って姉妹? あと、雪国の最後に葉子って死んだの? どなたか解説お願いします。 私も初心者なのですが、 彼女らは単なる友人でしょう。あと葉子は失神をしただけで生きていると思いますよ。 島村は、火事のあとの日に東京に帰った。 また駒子、葉子、行男は 禅の修行者で、禅寺、温泉街の近くの尼寺?、で修行をしていたと言われている。 たぶん彼ら彼女らは禅修行の同志か何かだと思いますね。 そして駒子、葉子、行男は三角関係にあったのでしょうな。 川端康成の顔は俳優の故・加藤嘉に似てると思う。 加藤を色気があるという人もいたが、俺には良く分からんw 若いころは美青年だ。山田五十鈴と結婚してたくらいのモテ男だったんだけどな。 掌の小説の港に書いてある素人の女房って娼婦みたいなもんなの? この作品論文とか殆どなくて良くわからん いよいよ、小谷野敦「川端康成伝 双面の人」が配本されたな。 研究者や文壇からは無視されるんだろうか? いろいろ支障があるからね もう少し上手に書かないと… この人にとって全ては自分と関係ないところで起きる標本だからな。 雪国の駒子も葉子も鏡の中の存在。 どんなに彼女たちが狂おしく人を求め愛し体を売って苦しもうが。 自分は結婚しててそれをどうする気もないし。 だからこそ隔てられたところで眺めてどこまでも美しい。 自分も孤児で死ぬも生きるもどうでもいい、末期から見た世界だから、 自分にも他人にも薄情で構わない。 代表作は皆そんな話。 島村はひどい奴で、あの時代、妻がいても芸者を買う、浮気すること自体は悪いことでも何でもないけど、 金で遊んだその場かぎりの恋では面白くなくその気にさせようとしたのは、島村本人なんだよね。 期待持たせて、それを消さずにくすぶり続けて、いたぶる結婚詐欺。 もともと駒子と島村が出会った時は駒子も素人で本気になっては悪いから、芸者を呼んできてくれといいつつ、その芸者をほっぽりだして駒子を押し倒す。 それでその気にさせないのは無理があるが駒子が重荷になったら、私には妻があるからと突き放し追い詰める。 作中の駒子の突飛に見える行動もそういう立場に追いやられて、必死に救いの手を求める魂の叫びと考えればおかしくない。 行男が好きなんだか嫌いなんだか、あるいは昔から付き合ってる男をどうするんだか、不安定で支離滅裂に見えるが、島村へのアピールも含まれてると考えれば謎でも何でもない。 それに対して何もしないでいたぶって楽しんでいる。 そういう人間の苦しみが川端の言う自然だけど、それは人為的なもので、島村や川端に責任は四割以上ある。 島村は信用ならざる語り手で、自分が追い詰めてることしりながら、認めず嘘を突き通す。 その楽園も白い繭蔵も焼けて火に包まれる。その火は冒頭の葉子の鏡に灯された火のなれの果てだけど。 雪国の楽園の白も火に包まれるがその人間の苦しみを照らす天の川は、いつまでも美しいものとして残る。 人間を突き放す自然の美。美しい日本の私はそういう構造になっている。 川端はそういう作品の構造として信用ならざる語り手、嘘を前提とし、一見通じない話、 つながらないが、感覚的には納得できる話を積み重ねてきた。 そして川端の原稿自体が話が通じず支離滅裂でそれを編集者が手を入れて通じるようにし、 それを雑誌掲載させ、川端が再び手を入れて単行本にするとかが多かったらしい。 掌の小説みたいな短いもの除けば川端の小説の構成はでたらめで通じなかったら、人の手が入るがそれは川端を貶めるものではない。 何でこんなこと言うかと言うと読んだ感触で眠れる美女はまとまりすぎているんだよね。 あれは三島との共作だろう。 三島単独なら娘の一人が死んだところで終わらずそっからとんでもないことが起こるし、 かといって川端単独ではまとまりすぎて構成に破綻がなさすぎる。 川端の要素としては、雪国であった白と赤のないまぜが、ここでも冒頭の乳呑み児の白いミルクの香りとラストの赤いダリアの対比、 赤子と血を吐く母の生と死、白と赤の反転決定不能性。 これは三島と川端それぞれの要素の出た話なんだよね。 だから川端のまとまらない原稿を三島がまとめたのかなと。 娯楽小説、あるいは少女小説、また、文章読本みたいな注文仕事を、 老大家の、川端本人がやったとは誰も思わない。 逆にペンクラブ会長17年もやっててそんなの一々自分でやってたら驚きだ。 問題は晩年の、川端の文名を高めた純文学の諸作品にどこまで、 川端以外の手が入ったかで。 極説三島由紀夫の著者なんかは信用できないにしろ、 これだけ噂が出るのは何らかの手が入ってたのは可能性は高い。 編集者も認めてた可能性がある。 どんな創作も別にいろいろな人間の手が入るのは当たり前だし、 日記をリライトするもの、資料を提供してもらうもの、口述筆記、 女を書けないとか、不得意な分野を別人に書いてもらうもの、 物語は編集者だ何だ人に考えてもらうものとか、 昔から純文学も漫画と同じで、そういうふうに作られていた。 読んでみればたとえ手が入ってたとしても川端じゃなけりゃ書けない、 という要素も入っているから否定すべきことではないが。 川端が適当に書きなぐった作品をまとめられない川端に代わり、 別人がリライトした蓋然性はある。 スレの最初から、三島ファンらしい、ちょっとおかしいのが貼りついている件 あまりに過疎ってるので、みんなで最近読んだ川端作品の感想でもあげんかね? わしは「千羽鶴」 登場人物の妙に主体性のないところなんか王朝文学をほうふつとさせる 日本的な美というよりは日本的心性の闇の奥深さがおそろしいような感じだった それにしても未完成なのが残念 林家の女将 今回初めて言いますけど 川端先生が 藤圭子ちゃんのファンで会いたい、と言って来られて 会う予定の二日前に突然自殺なさったんです。 自殺前にコンナ呑気な事言っていた、というのは傍証としてオモロイのでは。 >>289 かなり興味深いレビューだね 何かすごく読んで見たくなったよ 角川文庫の改版雪国を表紙買いしてみたら中身がゆとり仕様になっててワロタ 日本人はそのうちひらがなしか読めなくなりそうw(皮肉) あと文字ちっさいのが好きだったのにでかくなってる でかい字は新潮で見慣れてるから読みたくないのに 反橋から隅田川の連作短編四つを読んだ 謡曲などの古典と語り手の過去の出来事を一見とりとめもなく混ぜて 結果、幽玄というしかない小世界を作り出す手つきは実に見事だと思う うまい作家というイメージがなかったので少し驚いた センス的には作家というより詩人なのかね 短ければ短いほどうまいような気がする 中学の時、旧制中学での川端の作文の成績は中くらいだったと校長が朝礼で言ってたのを思い出した 川端が子供の頃住んでた家が近くにあったので、そんな話しをしたのだと思うが、その話しのオチが思い出せない 高校のとき、現国の教師に川端康成の文章の感想を求められて、「観察が 鋭い人だと思います」と言ったら、「観察ではなく感受性です」と訂正 された。感受性の鋭い作家、直観にあふれた作家。 小学校だったら、ごんぎつね とかしろばんばぐらいじゃないですか? 「古都」の千重子たんの清純さにはぁはぁ。 千重子たんに「あんたあわてもんさかいな」とか言われてみたい。 真一くんは哀れだね。 普通に読んでいけば、突如登場した兄貴に幼馴染みを奪われw 作者は否定しているが。 川端康成がNHKラジオ第二で喋ってる 自分は怠け者 つってる みずうみ読んだ 変質者を主人公にして 人の心の闇や存在することの哀しみを描いた超名作だった ■ 通名の方々: 教師(教員、学校の先生)・大学教授・ノーベル賞受賞者・医師(医者)、看護師・法曹界(弁護士、検察官、裁判官)・内閣総理大臣・閣僚・ 事務次官、官僚・地方自治体の長(知事、市長、町長、村長、区長)・地方議員・公務員(国家、地方)・警察・消防・自衛隊・親方日の丸会社・ 経団連・経済同友会・日本銀行・公益法人・旧軍人・巣鴨プリズン・明治政府〜・ 焼き肉屋・定食屋・そば屋・うどん屋・お好み焼き屋・寿司屋・ラーメン屋・レストラン(フランス料理、イタリア料理、スペイン料理、和食・・)・ スーパー・コンビニ・デパート・八百屋・肉屋・魚屋・花屋・酒屋・靴屋・服屋・デザイナーズブランド・薬局・寺・喫茶店・パン屋・ケーキ屋・ 文房具屋・本屋・自転車屋・眼鏡屋・時計屋・スポーツ品店・楽器屋・床屋・美容室・不動産屋(大家)・消費者金融・映画館・パチンコ屋・カラオケ・ 競馬・囲碁・将棋・歌舞伎(古典芸能)・飲食店・性風俗・ホテル・塾・教室(スポーツ、音楽、ピアノ、バレエ、・・・)・予備校・ペットショップ・うなぎ屋・ 自動車教習所・印刷屋・専門学校・クリーニング屋・ ■ ■ 通名の方々: NHK・TBS(JNN、ニュースバード、NewsBird)・テレビ朝日(ANN)・日本テレビ(NEWS24、NNN24)・フジテレビ(FNN) 共同通信(Kyodo・47News)・時事通信 新聞(朝日新聞・毎日新聞・読売新聞・産経新聞・日本経済新聞・東京新聞・・・) ラジオ・出版社 芸能人・作詞家・作曲家・演奏家(ミュージシャン)・指揮者・作家・漫画家(アニメ)・ゲーム・映画監督・歌舞伎・美術、建築系・宇宙飛行士・ 勲章を持っている人・文化人、知識人・アナウンサー・記者(ジャーナリスト)・気象予報士・テレビに出てる人・本を出している人・雑誌の表紙・ アダルトビデオ(女優、男優、AV)・性風俗・ スポーツ選手(プロ野球、サッカー、テニス、ゴルフ、バレー、水泳、体操、柔道、スケート、相撲、ボクシング、プロレス、・・・) ヤクザ・暴力団・暴走族・部落(同和) ■ 創価コネで佐藤弘夫(創価学会)に媚びを売り アカポスを狙う吉川裕をよろしく!! 東北大学の院生だよ!! http://oshiete.goo.ne.jp/qa/716475.html (創価の見分け方) 週刊新潮はいつも真実が書いてあるっていうとファビョるのが創価 http://www.geocities.jp/myudash/new.html (裕チャンのブログ) べいべー!! 週刊誌に書かれてるのは全部嘘だぜ! のピレプーです。違いますか、違います。エジャナイカエジャナイカどーでもエジャナイカ〜。 お前は内容のある本でも読んでろ 手作りお弁当の作り方とか、いくらでもあるぞ なぜ自殺したのだろう そのへんのところを書いた評論あったよな なんて本だっけ忘れた 臼井吉見の小説『事故のてんまつ』(筑摩書房、1977年) あれは「展望」に載っていた頃の部落関係の記述を削除して単行本化。 『伊豆の踊子』と『雪国』と『眠れる美女』をたて続けに読んでみたけど、妙にあっさりとした文体だな よくノーベル文学賞獲れたなと思た 文体は誤魔化しがきくが、表現は誤魔化しがきかない 才能がない者ほど文体に逃れる 文体は生き物ではない。入れ物だ。表現は生きている 小説の生命力とは文体では生み出せない。表現に宿る作家の魂と感性だよ 生命のある小説とは時代を超えて生き続ける。何故なら生き物だから姿を変えられる 姿を変えられるとは、読む者の心を吸い取るからだ。読む者の心が小説の姿を変えさせている つまりは時代によって色褪せないということだ。わからねえだろうな するめイカと一緒だよ 文体で勝負してると国内では評価高くてもノーベル賞は難しい。 英訳で読まれるから。 べつに亡くなった人だし、本人が拒絶してるわけでもなし、プライバシーとかどうこうは関係ないと思うけどね。 川端康成という人間を見るための道具としてよりも一つの作品として読みたい。 川端康成の恋人への手紙公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025856671.html?t=1405554503811 文豪、川端康成の神奈川県の自宅で保管されていることが明らかになった川端が学生のころの恋人に宛てた手紙が、 16日から岡山市北区の岡山県立美術館で公開されています。 公開されたのは、当時、学生だった川端康成が伊藤初代という女性に宛てた手紙1通と、川端が初代から受け 取っていた手紙10通です。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025856671_m.jpg この手紙は川端が晩年まで暮らした神奈川県の自宅に保管されていることが7月、明らかになったもので、16日から この手紙が岡山市北区の岡山県立美術館で、初めて公開されています。 初代は川端の7歳年下の初恋の人といわれ、公開された手紙のうち川端の手紙は婚約した後に突然、連絡が 取れなくなった初代を心配する内容で、「恋しくって恋しくって早く會わないと僕は何も手につかない」など、 飾らない文章でつづられていて、何らかの理由で投函されずに手元に残っていたと考えられています。 一方、初代の手紙は、「いつまでも愛して下さいませ」などと、川端を慕う思いが切々とつづられていますが、その後、 「私にはある非常があるのです」と初代から婚約を破棄する内容となっています。 岡山県立美術館の廣瀬就久学芸員は、「川端の初期の作品を読み解く上での鍵ともいえる手紙だ。 川端の女性に対する思いを感じとってほしい」と話していました。この展示会は、8月24日まで開かれています。 07月17日 07時21分 2014/07/16「スーパー・N」: 動画 巨匠の目 川端康成と東山魁夷 ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/video.php?VNO=1485 ”巨匠の眼特別展”講演会 ( 8/ 3)【18時20分更新】ttp://www.ohk.co.jp/e/news/002.html 日本人初のノーベル文学賞作家川端康成の養女の夫川端香男里さんの講演会が岡山市で開かれました。 この講演会は岡山市の県立美術館で開かれている特別展、「巨匠の眼川端康成と東山魁夷」にあわせて 開かれたものです。講師の川端香男里さんは東京大学名誉教授で川端康成の養女政子さんの夫です。 川端康成の本の装丁を東山魁夷がしたことから2人の交流は始まり、約100通の往復書簡があることなどが紹介されました。 特別展では川端康成が婚約者の伊藤初代に送ろうとした未投函書簡も初めて公開されています。 この展覧会は今月24日まで岡山県立美術館で開かれています。 「川端康成と東山魁夷」作品朗読会 ( 8/10)【21時11分更新】ttp://www.ohk.co.jp/e/news/001.html ノーベル文学賞作家川端康成と日本画家・東山魁夷のエッセーなどを紹介する朗読会が岡山市の美術館で行われました。 朗読に臨んだのは俳優の真実一路さんなど3人です。 これは日本初公開の川端康成の書簡などが展示されている特別展「巨匠の眼川端康成と東山魁夷」 にあわせて行われたもので、川端康成の短編集や東山魁夷のエッセーが朗読されました。 日本を代表する文豪川端康成と日本画家・東山魁夷の交流は川端康成の本の装丁を東山魁夷が担当したのが きっかけで、集まった人たちは2人の巨匠の世界観に聞き入っていました。 特別展「巨匠の眼川端康成と東山魁夷」は岡山市の県立美術館で今月24日まで開かれていて、期間中に3回、 朗読会が行われます。 ★2ch勢いランキングサイトリスト★ ☆ +ニュース ・ 2NN ・ 2chTimes ☆ +ニュース板新着 ・ 2NN新着 ・ Headline BBY ・ Unker ☆ +ニュース板他 ・ Desktop2ch ・ 記者別一覧 ☆ 全板 ・ 全板縦断勢いランキング ・ スレッドランキング総合ランキング ☆ 実況込み ・ 2勢 ・ READ2CH ・ i-ikioi ※ 要サイト名検索 中学生以来、久しぶりに雪国を読んでみた 風景・情景描写の言葉数が多すぎてウザイと感じた 途中から風景描写は斜め読みして話の要点だけわかればいいや、みたいな読み方になってしまった。 この作品の一語一語をきちんと読み取る意味あるかな?やったら結構な労力が必要 >>338 基本的に向いてない。 会話の異様さに目が向かないようなら川端は向いてない。 作品によって何を重点的に描写するかは、無論変わってくるだろう。 何のために本を読むのか。 まあ、私は楽しむために読む。 雪国は10年くらいをかけて発表した作品をまとめたものだそうだ。 熟成モルトのようにゆっくりと時間をかけて味わいたいものだね。 川端の小品に「それを見た人達」がある。 一体何を見たんだろうねえ。 人達ってことは、何人もが一緒に見たんだろうか?それとも一人づつ順番に…? まあ、つまんない小説だよ、忘れてくれ(笑) 千羽鶴は茶道をたしなむ人の必読書かも(笑 官能的でエロい。 続編の構想があったらしいけれど、創作ノートが盗難にあって書けなかったらしい。 だから、未完の作品とも言えるわけだ。 川端康成は柳宿 エゴイストで優雅の星 三島由紀夫は亢宿 内向的なレジスタンスの星 この星は安壊の関係で、正反対であり惹かれあうが傷つけあいもする宿命 師弟関係だと皮を剥き合うようないい作用がある 三島と川端は星にもめぐり合わせを感じるのでした >>343 川端の自作追補コメントのようなものは信じない方がいいかと。 >>349 浅草紅団の続編の書き出しとか、雪国の後書きとか、 かなり怪しい。 作品の一部と考えるべきとまでは言わないけど、 けむに巻くつもりがあるのは確か。 終わらせるの苦手だから誤魔化してる可能性もある。 基本的に読書は楽しめればいいんで、事実はどうか、とかあまり気にならないな。 もっとも、 川端は、雜誌なんかに小分けにして作品を発表する、って形式を取っているものがある。 雪国は10年かけて発表した作品だ。だから、定本雪国は短編の寄せ集め。 みたいな事実は知っていると役にたつかも知れない。 でも、小説ってのは読み手をだまくらかしてナンボだろう。作り話なんだから。 また、少なくとも私は小説は心地好くだまされるために読むもんだと思っている。 書いているうちに構想が変化することだってあるだろうし…。 読み方はひとそれぞれだから、怪しむのも信じないのも、別に否定はしない。 楽しめてる?YESならそれで十分だろう。 波千鳥のラストはあれはあれでちゃんと締めてるような 栗本をある意味受け入れて乗り越えてゆく夫婦の姿って事で 川端は何冊か有名な作品を読んだが、おれの感性では理解できなかった。 ある意味天才的な小説家なんだろうな。 雪国のラストってあれ「葉子は駒子のドッペルゲンガーで二人にしか見えてない説」 を念頭にして読むと駒子が自死しようとして出来なかったという話なのかも 火事場で村人が「けが人はなかった」って言ってるのに葉子はその後落ちて来るし >>355 こういう個人名をわざわざ晒すのはやめたら?万一名誉毀損の訴訟を起こされて、 2chのサーバー管理者が協力すればIPから本人特定は可能かもしれないよ。 百人の冤罪者を出しても一人の真犯人も逃すな、が匿名掲示板だろ?w 「伊豆の踊子」(角川文庫) 川端康成 146位/528作品。日本語小説。 新潮文庫の方が売れているようだが、在庫がなかったので角川文庫の方で読んだ。 収録作がちがうようだ。角川文庫の収録作は以下。「伊豆の踊子」「青い海黒い海」 「驢馬に乗る妻」「禽獣」「慰霊歌」「むすめごころ」「二十歳」「父母」。 評価が難しい。花子などという女が出てきたり、ちょっと古びているのだが、 どうせ時代遅れの小説だろうとたかをくくっていたら、ひどくやられてしまった。 というのも、「伊豆の踊子」は全然面白くもない凡作であるが、それ以外の短編はどれも味があり、 かなり面白かったのである。ぼくは恋愛小説というものを読んだ覚えがなかったのだが、 川端康成の短編集「伊豆の踊子」角川文庫こそ、典型的恋愛小説集であると大推薦する。 ぜひ、お読みいただきたいが、新潮文庫はどうなっているんだろうか。 146位でも過小評価だとは思うが、いや、変態紳士といえば川端康成という公式はぼくの中でできあがっている。 自分が著述家でない場合、本というのは私でない誰かが書いたものである 本を読むというのは他人の述べることにとつおいつするという行為である だから読書するほどの者は謙虚でなければ読書にはならないのである 自分の思想なり表現方法なり知識なりに自信のある者は自分で著述すればよい 面白いのは著述家というのは大体が読書人、それも相当な読書人であることだ よく読む者はおのれの考えたことにどのような新しさ面白さがあるのかがわかるから あえてこれを書き著して世間に問うのである そうでなければ書かないまでで、自分の考えや書き方の陳腐さをしかと悟れぬ者は ただ恥をかくだけのことである 読むことを能くしない著述家、更に言えば取るに足りない著述家というのは よく読む者からみれば昔誰かが言っていたことを粗雑な仕方で再話しているにすぎない その点、川端康成の良いものというのは新しく、そして仕事が繊細である 第一級の著述家の書いたものというのは いっぺん読んだ切ではなかなかその良さというのは判らないように出来ているものである 代筆させていたってのが許せない。 別にノーベル賞をもらわなかったのならばまだいいが。 ちゃっかりもらって自殺。やっぱそうだったんだろうな。 ノーベル賞はいくら有名でも文学賞。 所詮日本語域内でしか、その評価の正誤を論ずるなんてことはできない。 大江でさえもらっているんだから、あんまり過大評価してもしょうがない。 代筆はどっかにも書いたけど、時代性を考えるんだな。 「伊豆の踊子」(新潮文庫) 川端康成 257位/543作品。日本語小説。 短編集「伊豆の踊子」を新潮文庫、角川文庫、岩波文庫の三種類を全部読んだ。 結果、角川文庫の「伊豆の踊子」がもっともよいと思われる。角川文庫で「伊豆の踊子」を 読まれることを期待する。 違うのかい? 確かなのは最新の全集で読むことだろ?(笑 雪国のモノクロ版映画の動画サイトとか知りませんか? 岸惠子のやつです。 川端は日本の自然や風土、伝統的な文化を題材として取り上げることが多い。 まあ、山川草木は万国共通だけれど、たとえば、竹を単なる植物として取り上げて記述 するのと、鞍馬の竹伐り会を取り上げるのでは、意味合いが異なるのはわかるだろう。 茶道、能、歌舞伎、などなど、さりげなく作品の中で語られている「日本」を読み、理解 するには、そうした背景を学んでおくとちょっとわかった気になるかもしれない。 俺は川端康成のキチガイなところが好きなんで 竹はどうでもいいなw まあ言ってることは分かるけど。 「眠れる美女」とか「みずうみ」とか「片腕」とかね。 「反橋」 三部作 みづうみ 片腕 たんぽぽ 白馬 このあたり最高! そうですね。ありがとうございます。 全て読みました。 あなたはどこにいらっしゃるのでしょうか これは代筆ってのを上げて欲しい。 それを外して読むから。 でもこの人の小説ってこの人以外に理解できる人って本当にいるのだろうか? 薬物中毒の人以外には解らん内容だろが。 >>375 自分の書いたものを読み直してみろ。恥ずかしくないなら文学は向いてないな(笑 そもそもwwwが多かったが(笑)ってのも散見された時代、 新基軸を求め、(笑 を使いはじめたのは俺だ。 最近、(笑 を使う奴がいるが、馬鹿なレスは俺ではない。 >378のような阿呆には見分けがつかないだろうがな。 ちなみに、本来、(笑 に「よくわからないが…」とか「逃げ」と言う、 軟弱な含意はないのであ〜る。 定義としては、単純にそのままの、笑い、微苦笑、苦笑、あざけり、と定義される。 また、wにダブルバイトを用いるのは邪道。控えめなシングルバイト表記こそが、 その本質なわけだ。 wや(笑 は言語学的に見ると、間投詞に分類するのが妥当と思われるのだが、 アルファベを用いるのは国語尊重の観点からは肯い難い。 かといって(笑)では文末の余韻を殺してしまううらみがある。と言って、括弧抜きでは 混同されやすい。やはり、(笑 を生み出した俺様の卓見に、ひれ伏すがよいだろう(笑 雪国を読んだけど、康成さんは遊び人でもあったのね? 遊び人どころではねーよ 強烈な色魔だぜ こないだ逮捕された芸人も足元にも及ばねーな 基本的に変態だと思う。 いきな遊び人タイプでは決して無い。 魔界住人だな。 元総理の竹下同様 川端って言語明瞭意味不明の典型だな。 日本語の美しさは認めるが内容はどうでもいい。 古都なんかは自分で睡眠薬中毒で何を書いたか皆目覚えていないときたもんだ。 この人は天才と気狂いの紙一重そのものだったってことで一件落着。 古都を実際に読んで見ればわかるけれど、支離滅裂な精神で完結したストーリーを 作れるわけがないだろう。 山本健吉が京都の風物詩、とか言ったせいで観光案内みたいな印象を持つ読者 ばかりみたいだけれど、たとえば植物の描写のちりばめ方を明確な想定なしに 考えられるかどうか、読んで見ればわかりそうなもの。 ちなみに、新聞と書物化された作品では、特に最初のほうが著しく異なっている。 あとがきに京言葉を直してもらったとあるけれど、内容自体に相当手が入っている。 違和感がないわけではなく、水木真一と竜助ってのは、兄弟の名づけ方としては おかしい。水木家との交際を考えると、竜助と主人公が初対面ってのも解せない 気がする。 まあ、いろいろあるけれど、古都は数多ある作品中でも上位を占める秀作。 自分と違う見解を持つ者を排除したい、ってのは馬鹿の持つ特性。 森本穣の「魔界の住人 川端康成」と 小谷野敦の「川端康成伝 双面の人」を 図書館で借りてきたんだが、読んだ人いる? 能書きはいらねーよ どう感じるかだけでいいんだよ。 川端は理解するものではない、宇宙人なんだよ 人間を、つきあったこともない人間を、理解できるはずがないだろう。 お前の妄想はひどいな。 理解を試みることができるのは、作品だけ。 まあ、お前にゃそっちもムリ。 川端康成を読み始めてから 小津安二郎の映画の良さがわかるようになった 。 そのどちらも、在りし日の日本の家庭や其処に生きる市井の人々がとても丁寧に描かれている。 >>389 >>390 川端の読者ってこんな馬鹿なのかよ…… 川端作品は支那では小規模ではあるがある程度取り上げられていて、 以前は川端研究会では、支那人による、ちょっと頓珍漢な研究発表も取り上げられて いた。まあ、日本人の水準にはほど遠かった。 支那は朝鮮同様、ウソ捏造の反日教育をしながら、一方でしっかり日本の研究も しているところは、やはり孫子の国。悪賢いことこの上ない。 チベットやウイグル、法輪功などに見せる残忍さを考えると、その乖離は理解できない けれど。 朝鮮はダメだね。日本排斥みたいな単純な忌避行為が政治外交レベルなんだから。 やはりトップの差だろうか。 雪国を読んだ 最初の汽車の窓に映る夕景色の場面を過ぎると結末近くの縮作りの場面になるまで どこかポルノ小説を読んでいるような気分であった この小説が人間の意識の重層性・心の歴史的重層性の表現たりえてることを理解するには 縮織りの場面まで待つ必要があった ここではじめて雪国の長く厳しい生活から生み出される縮織りと 貧しい大家族の一員として生をうけ、芸者として必死に生きる娘の生活とがはじめて一体となる印象だった 冬空にあってどこまでも透明で美しい天の川と、哀しくも透き通った声をした葉子の火災での死 それは駒子の純粋な生き方のひとつの死を象徴したのではないのか 結末の「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」という言葉は冬空のように純粋な駒子の悲痛な叫びではなかったのか >>399 俺はポルノ小説なんて読んだことねーからおまえのブッコいてる意味がわからん。 おまえは死んだほうがいい。くだらーねー下手くその文章をオナニーしやがって >>401 お前さんはポルノ小説も読んだことのないほど高尚かい。作品の出来不出来はべつとして「雪国」は立派な ポルノ文学、作家の創作意識からすればロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」以上にポルノじゃないか。 無為徒食で役立たず、最後には駒子の足手まといになる島村が金にまかせて娘の生真面目な感情をなぶりものにする時点 で、指の匂いを嗅いでいる時点でポルノが成立してんだよ。 ところが好事家は春画を芸術作品と呼び文学愛好家は谷崎や川端のポルノをポルノでないと言い張ることで お高くとまろうとする。まあどう主張しようが人の勝手だが、そんなに乙に澄ましたければ高尚なお説教でもしながら、 君は神父にでもなってホモるもよし、坊主になって後家の世話をするのもよしだ。 まず葉子は死んでない。 人生経験も軽薄な高校生が無理して精一杯背伸びして書いた感想文ってとこだな。 雪国は風景描写と言葉選びが上手いだけで、物語としては面白くない。 川端氏の良さは市井に生きる人々の情緒の機微にこそ現れる。 >>406 物語でカタルシスってんなら最近は子供向けのマンガあたりがいいんじゃないの?(笑 >>409 程度の低さが露見して憐れだから、もう川端スレには一生レスしない方がいいぞ 子供向けのマンガがいいっていうから、具体例を聞いてやってるのにバカ丸出しのレスしかできないなんて、救いようがないな。 それとも覚えたてのカタルシスって単語を使ってみたかっただけかな? けなしあいになっちゃったが どこを基点とするかで世の中一転しちゃう 理3に行ける連中からすればここで威張ってる奴なんて白痴同然 文章力が優れてるって?川端や谷崎並みにあればこんな処でくくずっていないでしょう 財力がある?ゆったりと女を囲えるやつがこの板にいるとも思えない つまり僕が屑なら君も屑というところだよ でないというなら、はよこの板卒業しろよ こいつ相手にしたらいけない類いの奴だったのか。 威勢よく煽ってくるから、よっぽど大層な反駁でもして楽しませてくれるのかと、僅かでも期待したのが間違いだった。 ある制度の理Vの立ち上げを昔したけど、当初のバラバラ感より 見事にうまくいっている層がある。 ただ文Vの方が歴史伝統は敷居は高い。だけど理三の文学者は歓迎。 たとえばミスの許されない世界で書いたものなんて受けるだろう。 白痴も難しい問題だが若い君らが思うより未来は明るい。 文学板でも「敷居が高い」 って使う人いるんだね。 誤用も時がて一般化することもあるけどね… デコンストラクションに文法破壊。若いころには対決やった。 ユングが文学について書いたものも面白かったよ。 河合先生よりは先に読むといい。 しかし実際問題として、川端文学愛読者がどんなマンガを読むのか気になる。 川端的なマンガがあれば読んでみたくもあります。 ちなみに自分は松本次郎や山本直樹、夢Qや乱歩繋がりで丸尾末広等が好き 「山の音」は確かにいいね、よく弾き込まれたバッハの無伴奏バイオリンやチェロといった趣 これと比べると「雪国」はパガニーニのコンチェルトかな 音楽で語るってのはなんかのセンスがあるんだろうな。俺にはまったくわからん(笑 みずうみあたりは十二音できゅぃぃんと歪んだ響きが合うのかな シェーンベルクの無調音楽《月に憑かれたピエロ》はどうだろう 《月に憑かれたピエロ》は3部構成で、おのおの7つの詩が含まれる。 第1部でピエロは愛と性、宗教を、第2部では暴力、罪、瀆神を、第3部ではピエロが過去にとりつかれてきたベルガモへの里帰りを歌っている。 第1部 月に酔う Mondestrunken コロンビーナ Colombine 伊達男 Der Dandy 蒼ざめた洗濯女 Eine blasse Wäscherin ショパンのワルツ Valse de Chopin 聖女 Madonna 病める月 Der kranke Mond 第2部 夜〈パッサカリア〉 Nacht (Passacaglia) ピエロへの祈り Gebet an Pierrot 強奪 Raub 赤いミサ Rote Messe 絞首台の歌 Galgenlied 打ち首 Enthauptung 十字架 Die Kreuze 第3部 望郷 Heimweh いやなこと Gemeinheit! パロディ Parodie 月のしみ Der Mondfleck セレナーデ Serenade 帰郷〈舟歌〉 Heimfahrt (Barcarole) (Journey Home) おお、いにしえの香りよ O alter Duft (O Old Perfume) シェーンベルクは、数秘術に凝っていたので、7音から成る動機を作品全体に適用し、一方で演奏者数は指揮者を含めて7名としている。 作品21に含まれる曲数が21であり、1912年に作曲を始めた日付が5月の12日であった。ほかに本作の鍵となる数字が3と13である。 各詩は13行から成るのに対して、各詩の第1行は3回登場し、あたかも第7行や第13行であるかのように繰り返される。 http://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=nDeDoe8iZl0 Ceron - Schoenberg Pierrot Lunaire (1. Teil) - YouTube ceron.jp > TOP > 動画 > YouTube - キャッシュ 登録日時 : 2011-12-10 23:12 | 掲載サイト : YouTube | キャッシュ [ 更新 ]. 6 コメント ... ございます。 "@HODGE_EGDOH: というわけで月蝕の時間にグッとくる音楽 →アルノルト・シェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》/Schoenberg Pierrot Lunaire. 「『山の家』の〈家〉と〈人〉」(川崎寿彦著「薔薇をして語らしめよ」から) ・・・菊子は、ほんらい、この世に生を受けるべきではない運命をになっていた。彼女の母が堕胎しようとして しくじった瞬間から、彼女には〈死〉のコードがはりついている。鉗子分娩で彼女の額につけられた傷跡は、だか ら、死の国の聖者の証し、聖痕であったろう。それが目につくと、信吾は「ふつと菊子が可愛くなる」のである。 その菊子が、自己の胎内にめばえた修一の子供を堕胎する。彼女はその母がかつて失敗したことを完遂し、死の 国の聖者の職責をはたしたのであった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ もし文学というものを〈生の文学〉と〈死の文学〉に分けることが許されるとすれば、川端文学はあきらかに後 者であろう。しかしながら死の国の理想の女たち――駒子や菊子――も、あやまって地上に生をうければ、地上の 女として成熟していくしかない運命が待ちうけている。そしてそれをじっと見つめる男――島村、そして信吾―― の、かなしみまなざしがある。 菊子が妊娠だとすると、修一の女に刺激された、菊子の成熟かもしれない。いやなことだが、これも人間かとい う思いが信吾にはあるので・・・・・ 「いやなことだが、これも人間か」という諦観は、川端文学の基調低音の一つであろう。 『雪国』では駒子の向こう側に葉子という永遠の処女を置くことによって、島村のかなしみはやわらげられた。駒子 は人間の男と交わった雪女うなのであろうし、それ相応の罰を地上でうける――つまり女として成熟し、やがて盛り を過ぎてゆく――のであろうが、葉子は霊と死の世界に踏みとどまった、駒子の分身霊(ドッペルゲンガー)だったのである。 『山の音』で葉子にあたるのは、だれか?いうまでもなく保子の姉である。名前さえ与えられず、永遠の死の国の 住人として、信吾のかなしみをさし招いている。菊子が女として成熟し、人間としても不可避な成長を、遅れなが らも遂げていくにつれて、信吾の諦観と渇仰のまなざしは信州の山奥の幼年と死の国に送られる。・・・・・鎌倉の 家は現実世界から打ち寄せる波に、絶えずさらされている。それは「これも人間か」という妥協的認識を、日常的に 要求する場所である。これにくらべ信州の〈奥宮〉には、現実世界の波は届かない。それは作品を一貫して、一度も 直接には描写されていない。 何読んだのか知らないが、自分の言葉で感想を書くんだよ。 どうせ全集から適当に拾って一冊にでっちあげたんだろうから、魅力ないな。 川端ものでは、むしろ現役作家とか著名人の読書家にしっかり書評してもらう、 みたいな企画のほうがいいんじゃないか?研究とは違った面白みがありそう。 新鮮だし、目の肥えた人間が川端をどう読んでいるのか、はちょっと興味がある。 物故した作家の作品はそういうことをやらないと、文化として殘せないように思う。 川端って歳を重ねるごとに良さが解る小説家だと思う。 小学生で川端好きな子がいたらおれはその子の弟子になりたいと思う。 いないだろうが で、結局、代筆じゃない作品は どれなんだろうかね? 全集に入ってりゃ、川端作ってのは短絡だろ。 なんでそんなに馬鹿なんだよ。 川端作品を耽読するようになって、小津映画の良さもわかるようになった。 季節の移ろいに心も揺らぎ、酒の旨さも少しわかるようになった。 そのことは却って己の孤独を、残酷なまでに鮮明に突き付け 取り戻せない時間への憧憬と悔恨を深めるばかりであった。 山の音を小津が撮ったらどんな風だったろうかなぁと夢想することがある 俺は京都好きだからか古都が好きかな。 双子の姉妹の刹那さがなんとも京都的といおうか。 これまで読んだ川端作品で好きな順 古都>山の音>雪国>千羽鶴>舞姫>片腕・眠れる美女・みづうみ・禽獣>伊豆の踊子>その他 大学時代から川端作品を読み始めて今三十代 年を重ねれば好きな作品もきっと変わっていくのだろう 中学か高校の読書感想文のために伊豆の踊り子読まされたが、良さが分からなかった。 そのあと眠れる美女読んでがっつりはまった。 >>455 天然か??? それとも気狂がいか??? 構うことない 大爆笑の長い歓楽を抜けると天国であった 今日は熱い もうすぐ名も知らぬ美少女の腰に、蛍を入れた籠をこっそり引っ掛ける季節だ なんとなく入った東京駅の川端康成展、結構よかったわ 何一つ読んだことはなかったが、なんか読んでみようと思った。太宰の嘆願書の巻物は本物なのかな? 坂口安吾からの書簡見てみたい 気になってググったら川端先生から坂口氏へ子犬をあげたのか 川端先生をノーベル賞に推薦したのも懐かしいことだ。 申し訳ない。さんざん語られているとは思うのですが、「雪国」冒頭の汽車の中での人物の位置関係が解せない。 教えて頂きたい。 「島村」と、「葉子」と「連れの男」の3者はそれぞれ、どこに座っているのか。 島村の視点で述べていくと、 まず、葉子は、島村の1つ前のブロックの向かい側に座っている。ここまでは分かる。 で、連れの男はどこに座っている(というか身を横たえている)のか? これが悩ましい。(続) ここで、登場順に3つの記述を見ていくと…、 (1)「娘は〜、前に横たわった男を一心に見下していた」 (2)「男は窓の方を枕にして、娘の横に折り曲げた足をあげていた」 (3)「島村の真横ではなく、一つ前の向かい側の座席だったから、横寝している男の顔は耳のあたりまでしか鏡に写らなかった」 とある。(続) (1)で「前に横たわった男」とあるので、そうか、男は「葉子の向かい」(つまり島村には背を向ける位置)に 座っているのだな、と思う。 しかし(2)で「娘の横に折り曲げた足をあげ」とあるので、いや、男と葉子は同列に並んでいるのだ、 と修正される。 で(3)で「(島村の)一つ前の向かい側の座席」とあるので、やはり男と葉子は同列にいると裏づけられる。 となると、(1)の「前に横たわった男」という記述が混乱のもとになっているのか。(続) さらに読み進めると「鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸あたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた」とある。 一瞬、やはり、葉子と男は向かい合っているのかと思うが、男は、葉子の真横で横たえていても、葉子の胸あたりを見ることは 可能であろう。それに、向かい合っていては、鏡に顔色が映らない。 ちなみに、岩下志麻版「雪国」では、葉子と男は向かい合っていた。 男は通路側を枕にして身を横たえていた。(続) 川端の言葉選びは、緩やかであるといえそうだ。 そもそもド冒頭場面。「娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした」。 これも「島村の一つ前のブロックのガラス窓」ということだろう。 「ひとつ前」といわず「前の」ですませてしまう。さすが文豪。 長々と失礼しました。解釈の間違いがあれば、教えて下さいませ! 行男=良寛=禅の指導者 葉子=貞心尼=行男が亡くなるまで彼から直に禅の指導を受けていた まわりから気違いと思われるほど浮き世ばなれしていたことから駒ちゃんより相当禅が進んでいた 駒子=東京から行男に日記を送り続けること、また都落ちしてからはとりとめのなく日記を書き続けたり 芸者として身を砕き彼に療養費を貢ぐなど自立的に禅を実践していた しかし数多の俗世に翻弄され、行男が亡くなった後も葉子より禅の遅れていた思いから終始彼女にいらいら のみならず自らの意気地が足りなかったことに彼女を行男との悲しい関係に巻きこんでしまった故の罪悪感 つまり葉子そのものが自罪の象徴であり権化と見て、彼女を忌み嫌うは気違い呼ばわり 島村=すべて上記の観察者 終いにはその鋭い観察眼と類い稀なる集中力から禅特有の美しさに自ら取り込まれ 悟りを開き、天の河という大自然との合一を体験する、まさに神霊トラベラー 雪国=もののあわれ+禅への美感 憂国の士であり活動家でもあった三島由紀夫や、 アナーキストの坂口安吾とも交遊する 川端康成自身の政治観って、どんなものだったんだろうかね。 戦後の現代的で個人主義な日本に対しては、損失感や失望感を覚えていたのか 舞姫だったか山の音では、戦前・戦中の方が家庭は平和だったというような記述もみられた。 エッセイでは過激な論調を見せる坂口安吾も、白痴では似たような表現があったような気がする。 たぶん川端は政治なぞ、どーでも良かったんと違うかね? 最初から、全く、信じてないと思う、政治は。 あれは個人的な恩返しであって、日本文学全集に入れさせない厳重な意見への罪滅ぼしでもあった 川端ワールドの理解って難易度高過ぎだろ? だから魅力があるのかも。日本語の言葉遊びが突出しているな。 三島もそうなんだろうけど。 川端は難しい言葉や表現は少なく、大衆文学寄りの作品が多いから読みやすい どの作品も特に女の人物像と、心象風景がとても丁寧に流麗に描かれている。 三島は語彙が豊かで、作品によっては難しい表現や独特の描写が取っ付き難いものもある。 川端さんはたしかにひらがな多くて平易そうだけど、漫然とななめよみしてるととたんにわからなくなる。無駄を削ぎに削いでるからかなあ 文庫になっている作品のどれが代筆かって知っているかい? 眠れる美女ってのは無しで。 この人の感性は代筆できるとはとても思えないのだが。 事実がある代筆本を知っている人がいるなら教えて欲しい。 眠れる美女は直筆原稿の写真が新潮の日本文学アルバムにあるから代筆ではないと思う あの頃の三島はメチャクチャ忙しかったから代筆なんてしてる余裕は無い、まあ原案とか構想なんかの一部分は手伝ったのかも知れないけど 少女向けの『乙女の港』は中里恒子が書いたのを川端が添削して川端作として出したと言われてる Kindleが手っ取り早いな。 新潮いいね。絶版ものがアップされてて 「女であること」新品の新潮文庫をネットで買ったら、 背(花ぎれ)が飛び出しているし、背表紙シワ寄ってるし最悪だ 分厚いから読んでるうちにバラけないか心配 女であること、なかなかボリュームがあるのでお盆休みに耽読&通読予定 みずうみを今読んでいる。 なんか面白いが、これって純文学か? 恥ずかしながら、24にして始めて雪国読んだんだけど、 冒頭から情景描写か凄まじくて驚いた さすが日本を代表する名作だと感じた >>101 かなりの遅レスだけど、全面的に同意する 三島のいう美ってどこかゴテゴテしたとってつけたような感じがして悪趣味に感じる 日本的な美を本質的に理解できないから、武士道なんかに走って切腹したんだと思う みずうみってなんか怖ろしい小説だな。 これが傑作とはわからん。 川端語録 怠け者ですからね まあ運がいいんでしょう。まあ拾いものみたいなもんですからね・・・ 西洋じゅう歩いてて穴にでも落っこったんじゃない? 構成力(こうしぇいりょく)は有りませんねえ まあしかし、僕のようなのが日本文学の代表だと思われるとこれは困るんですね、 それ困るな、一番 ドナルド キーンとの対話(『雪国』の冒頭の主語が曖昧。駒子が島村の部屋で 「帰るの」といったり、「帰らないわ」と言ったりする曖昧さについて) 曖昧さこそ日本的なんですよ。 曖昧さ。・・・余情とでも言うのかなあ。 曖昧であるからこそ逆に表情豊かに受け止められる力。 その可能性を私は信じたのです 『美しさと哀しみと』読んだ よかった うまく説明できないけど、この作品には特別な何かがある http://eiga.com/news/20160615/1/ いわば勝手に解釈した古都の続編だろう。パリでロケとか、何考えているんだか。 古都とは別物の映画。 映画そのものが面白ければ、それはそれで楽しめばいいんじゃないの。 そもそも、映画って時点で、文学作品とは別物なんだからね。 俳優についてあまり知らないけれど、所謂スターってのが最近はいない気がする。 うちのとなりのおねえちゃんみたいなのが多い。 記事では、モノにこだわっているって書いてあるけれど、 まずこだわるのは俳優の演技。 春には「古都」 夏には「みづうみ」 秋には「山の音」 冬には「舞姫」 マイナー至上主義でもないんだけど、「みづうみ」と「山の音」が個人的によかったですね 川端のウィキ、誰が書いたか知らないけれど、とってもよく書けていると思った。 ノーベル賞受賞のときの対象作品、雪國、古都、千羽鶴、は知っていたけれど、 水月、ほくろの手紙、は知らなかったな。 など、って書いてあるから、他にもあったかもしれないけど、どうだったんだろうね。 >>506 俺と好みが一緒で驚いた 川端自身ではあんまり褒めてないけど温泉宿っていう作品も好き 雪国もたまらん だが禽獣は三島が代筆でもしたんじゃないかってくらい響かない 川端作品ってみずうみでいえば女性のあとつけていくとか片腕でいえば一部分だけで愛するとか山の音とかもそうだけど内的には極端に積極的なのに外的にはかなり奥手っていう他者との関わりの上での異常なギャップありきだとおもう 禽獣は三島の代筆では絶対にない。 三島の作家論で三島がその小説を語っている以上はな。 別に三島じゃなくてもいいけど、 いかにもそっち系の人が好みそうな感じ 川端は、少なくとも、寡作とは言えないだろう。 量があるから、読者によってそれぞれへの感想や評価は、当然まちまちだが、 それでも、十指の指差すところ、と言うものはあるわけで、 その点では、古都>雪國なんだろうと思う。 しかし、代表作をひとつ、と言われると、雪國を、少なくとも考えざるを得ない。 雪國のサブテキスト的な書物として、「北越雪譜」 歌舞伎十八番や黒髮などの知識… と、知っていれば、なぜ川端がそう書いたのか、みたいな 周辺を嗅ぎ回る犬のような作業は、ある程度可能だろう。それをくだらないとは思っていない けれど、雪國を読むのは、なんというか、感性の資格、みたいなものがあると思う。 おそらくこれは、僥倖の支配する、本当に単なるある感性で、人間の優劣みたいな ものではないし、ハマる、と言うべきか、おたく、と言うか、まあちょっと表現はしにくいのだが、 それを持つ者にとっては、ある大きな感覚をよびさますものとして、雪國を捉えることができると思う。 それは作品に対する好悪とは、これまた違うと思うんだな。 雪国は冒頭さえ読めればあとは全部夜める 雪の冷えが下から迫ってくるとき鼻孔が冷たさを匂いと誤解するような冬の空気感まで伝わってくる 川端は戦後最後の大文豪。 俺が保証するぜ。 三島は軽い。その前の太宰はダサイ。 今の村上春樹もどうでもいい。 ボブ・ディランノーベル賞受賞おめでとう。 「ビートルズやボブ・ディランの歌詞にはたとえばラーキンやベッチマンの詩と並べて考えても よいものもみられる。・・・ポピュラー・カルチャーに対する偏見にとらわれない態度は、大衆 という文化的マイノリティからの新しい視点を導入して、新しい文学史を書かせるかもしれない。」 (川崎寿彦『イギリス文学史』(成美堂)より) ↑誰もそんなこと言ってないのだが… おまえ今後二度と絶対に来ないでくれないかな 空気読めない馬鹿は あまり下らないレスばかりしていると 夜枕元でサイコロを投げ続けるっぞ! 舞姫、初めて読んだけど傑作だなぁ。 社会的な背景を抑えて控えめに使ってるところが凄い。 新潮文庫の三島の解説がまた素晴らしい。 小説は好きじゃないけど批評家としての三島は最高。 >>525 どれだけ三島読んで好きじゃないとか云ってるんだ? 長編が読めないなら、先ずは短編でも読んでみろ 「憂國」は勿論のこと「橋づくし」とか最高だぞ 川端康成ノーベル賞受賞後の鼎談は何度見ても面白いな 遺作が無為徒食過ぎて、可哀想。双子の娼婦が痛々しい。これを読んで、綿矢金原は川端の打ち込んだ弾かと思った。娼婦じゃないけど 今、番組表見てて見つけたので一応書いとく 直前になってしまい役立たないだろうけど NHK総合 12月3日(土) 午前5時40分〜午前5時50分 「川端康成(作家)」 日本人初のノーベル文学賞を1968年に受賞。受賞決定直後のインタビューの他、 1961年放送の番組から61歳の時の貴重なインタビュー映像も紹介する。 川端康成は、常にインタビューの中で、自分は「怠け者」であり、川端文学は 「怠け者の文学」であると語る。どんな時も決して力むことなく自然体で 創作を続けた川端の姿勢を示す言葉であろう。剣道で言えば一番強いタイプで、 無構えの構えと、三島由紀夫が解説する。 以上 たまたま早起きして書き込み見たから見られた ありがとう しかし10分は短いな 小説の映画化、アニメ化、演劇化などはすべて、小説とは別物、と思って楽しまないと、 あそこが違う、などと些細なことが気になって、鑑賞に身が入らないから気をつけよう(笑 洋画は小説とは違った面白みを感じることがあるけれど、邦画で小説より興味深いと思うものはあまりない。 音楽かあ…。ちょっとピンとこないな。歌舞伎や能、三味線に長唄、都々逸とか(笑 雪國とか山の音は、どちらかと言うと、sound of silence指向かも。 ■川端康成について 三島「川端さんの文章は、ある場合は睡眠薬が助けてくれるというのもありますけどね(笑)。 でも、ジャンプするのがすごいんですよ。怖いようなジャンプをするんですよ。僕、ああいう文章、書けないな。怖くて」 >>543 この感覚を最も味わえる作品は何ですか? 眠剤食いながらトリップして描いていたのは「古都」だな 「名人」の川端は凄いな。 囲碁は全然解らない俺でも引き込まれた この人は作家でなければ 変質者として逮捕されてたな。 一度もアルバイトも勤め人も商売人もやったことないんだよね 純粋に純文学者として生きられたのはすごい おまえは一体全体何が言いたいんだ? こんなところで書くことは単純だ。基本は 1.読んだ本の題名 2.感想 中間小説的とか大衆文学作品 なんてことをお前が言うことに、何の意味があると言うのだ。 評論家の真似でもしているつもりか?! 雪国を読んだけれどつまらなかった、と言うほうがお前の二つのレスより遙かにマシだ。 眠れる美女を三読したが、やはりどこがいいのかわからなかった。 三島みてーな変態じゃないと共鳴できまい。 少なくとも女が読んで濡れましたなんて感想はねーだろ。 ぬれるのが好きならエロビデオにしとけ。それように書かれた娯楽小説もあるんだし。 わざわざわからんモンを3度も読む気がしれん(笑 最初の数ページ読んでがつん、とか、ぴーん、とかくるもんがなきゃ、ほかあたったほうがいい。 普通の男向き⇒雪國、古都、千羽鶴 短編好き⇒掌の小説 ちょっと変わってるものが好き⇒片腕 渋目好き⇒山の音 実験小説とか言われるもの⇒水晶幻想 ここでは有名どころ=名作と言われるもの、しか話題にならないけど、興味があったら全集。エグいのもあったりする。 それから、川端読むときには文章表現に着目して読むといい。 登場人物がなぜそういう行動をとるのか、ってのを考えるのも面白い。 雪國は今の形になるまでに10年かかってる。だから、いいところで切れていると思えるところは 時間の飛びがあるかもしれない。 古都はクスリ飮んで書いた新聞小説を、あとから手入れたもんだから、新聞とは最初の方はかなり違う。 でも、読んでできがいいと思うのは、やはり今のもの。 川端に関する評論は、長谷川泉や吉田精一ら、同時代を生きた諸氏のものが面白い。 最近じゃ、名前も知られていないだろうけど。 ちなみに、長谷川はビジネスマンと二足の草鞋をはいた人物、吉田は、サイデンスティッカが雪國の邦訳関連で 来日していたときに、昔のまともな東大で、彼を教えた人物。 日本語がロクに読めないんじゃ、川端読んでもつまらんだろうな。 川端はどれも読みやすい作品ばかりなのに さも難しい高尚な文学のように崇め奉るなんて愚の骨頂だな(笑 川端康成の作品で美術品が話の中に出てくる作品を教えてください。 千羽鶴は読みました。 昼間 bs プレミアムで山の音の映画やってたけど原作に違わぬ名作だな 菊子はもっと線が細くて信吾も背の小さいイメージを持ってたから 二人の堂々とした体躯に驚いた。いい映画だよね。 同じ成瀬の「乙女ごころ三人姉妹」(原作は川端の浅草の姉妹)もおすすめする。 川端が可愛がってた梅村龍子(元カジノフォーリーの踊子)が三女役で出演してる。 普通に入手できないもの書いてんじゃねーよ このヴァケが! 新潮から出てる文庫で、名人だけ買ってなかったから今ポチった あんまりこのスレでも名前挙がらないね >>588 奇遇だね 自分も2日前にポチってさっき届いた 今読んでるトーマス・マンと内田百闢ヌみ終わったら名人読んでみよう 雑居ビルだらけの薄汚い国からやってきたくせに ノーベル賞を受賞した時に「美しい日本の私」なんてタイトルでスピーチしたんだろw 欧米人は内心爆笑しただろうなw >>595 パリって朝鮮なみの糞尿の街だったってことを知らないみたいだな(笑 そういや、ヴェルサイユ宮殿って、便所がなかったらしいな(笑 なんでも舶来をありがたがる池沼にも困ったもんだ。 川端康成エキセントリックなんとかキング降臨!\(^o^)/ 虹いくたびを読了したがなんか?だった。 これ名作か?迷作か? どう思う。 あれだけボリュームがあると、中にはつまんないものがあるのもしょうがないだろう。 筆致自体が、これ川端なの?って思うものも、自分にとっては、多い。 まあ、全集に収録されているものは川端作品と認定されていると考えていいと思うけどね。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と 生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの 導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。 ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 専門家連中の一押しはなんと言っても雪国だけど、俺も一番好きなのは古都。 俺も古都が一番好きかも。 なにげに京都観光案内もしている。 なによりも川端節が満開でいい。 文章の力強さ、人間としての逞しさ、すべてにおいて一級品だね 「トンネル」は別世界への入り口 その例 臨死体験 雪国 伊豆の踊子 新潮文庫の川端康成って、何冊あるんだろう? アマゾンでチェックしたけど、品切れ本がまだまだあるような気がする。 あの紺色の表紙がいい。 >>609 「羊をめぐる冒険」はトンネルくぐったっけな? あれも似たようなもんだ >>618 それは世界の終わりとハードボイルドワンダーランドだよ >>583 あれはいいよなあ もっといいプリントが残ってればなあ 川端、ノーベル賞の前年も三島と共に最終選考の対象に http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180103-OYT1T50051.html 「優しく神秘的な詩的表現。礼儀正しい伝統、繊細なニュアンスの表現技術がある」 ノーベル文学賞の選考で川端の「古都」と競合したのは、三島の「午後の曳航」か >>626 年長の川端氏が優先されたらしいね でも内実は… >>627 キーンの推薦の言葉ってだけ 年功序列は 川端康成「古都」のP189です 「ただ、いちどだけでいい、会えるものなら、よそ目にも見たかったのだった。 苗子のみすぼらしい、小屋のような家は、今も、杉の村に荒れてある。 娘が一人でいられないからだ。長いこと、杉山に働く中年夫婦と、小学校に通う少女とが、住んでいる。 もちろん、家賃というほどのものはないし、取れるような家でもない。」 この「娘が一人でいられないからだ。」という文はどういう意味なのでしょうか? 川端康成ほとんど読んだことなかったが 小林秀雄の後の二十一章で古都について書いてあるの読んでから読むようになった 最近東山魁夷の京洛四季を手に入れて泣きそうになってる >>630 一人にさせておけないという意味 「〜からだ」の中の文の主格が少女になってる 変わった主格の置き方は川端の文体の一つの特徴でもある 改稿に伴う変化を研究した論文もあるくらい この例のように作家の川端がその場面で注目している女性を 小説の構造を無視して主格に置く傾向がある 有名なのが「雪国」の初稿 三人称小説なのに駒子の一人称小説になってる部分があった 話としてまとめると、誰でも飲み込めそうな話なんだよね。 あの世で起きた神の相談。 エバは、イナンナだった女性でモーゼに旧約聖書の作者になってもらうことをお願いして 自分はイシュタルとして身を潜める。 イシュタルは、マリアとイエスが親子だという話を広める為に イエスにメシアの役を務めるようお願いする。 イシュタルは、マリアや中国の妲己や天照大御神とグループを形成し、 お稲荷さんを始める。※お稲荷さんには重要な仕事があり、悟りを開く前の人間に対し、 誘惑を仕掛ける。また、人間の秘儀参入時の霊界の審査もお稲荷さん中心で開催される。 それが、稲穂を実らせる前の荷物という意味。 此処重要。重要なのに日本人は誰も字の意味を解いてない。 お稲荷さんとは悟りそうな人をそのまま進ませるかどうかを 判定してくれる存在。 現在の課題。 イエスが中心の世界だけれども、イエスはお稲荷さんに呼ばれてメシアになった人で メシアはお稲荷さんが引き連れている地縛霊に憑依を依頼し、輪廻を終えるカルマが 無くならないように働きかけ、霊界からの支配が継続するように見張っている。← この点を言及してほしい。 王路(引き寄せの法則) おまえらの力が必要だ! https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/atopi/1512118999/ 吉本隆明 「川端文学には作品の根本に揺れ動く浸透力があり、 それが作品世界を動かしていく。 浸透力とは対象である物や人にしみ通っていく力の事。 雪国にはドラマチックな起伏や葛藤はあまりない。 だから浸透力が動いているのを読み取れないと これほどつまらなく感じられる世界はない。 日本的な美や情緒しか残らなくなってしまう。 文体から浸透力が様々に表現されているのを感受すると 見事な作品に思われてくる。 なまめかしくてつやつやな文体の底に細かい網の目を 通っていくように対象の肌から内蔵に達するような 浸透力の動きが書かれている、」 キンドルで最近、川端康成の小説を読んでるけど、伊豆の踊子って完全に萌え小説だねw 14歳という年齢、踊り子が主人公と対面して、緊張してお茶こぼすところとか、寝姿を見られて正座して頭を下げるところとか、有名な全裸で手を振るシーンとか、 直球王道ストレートな萌え小説 踊り子に萌えられたら面白く、萌えられなかったらつまらないって作品なんだろね まあ、当時の文学なんて、いまのラノベみたいな扱いだったみたいだし でも、ここまでド直球の萌え小説を大正時代に書いたっていうのは、評価できる 14歳の少女に萌える小説を発表するなんて、けっこう恥ずかしかっただろうし 読んでるこっちも恥ずかしくなって、ついニヤニヤ照れ笑いしちゃった 先駆者は世間の偏見に晒されて、いつでも恥ずかしいものだ その恥ずかしさに耐えられたもののみ、先駆者の名誉を得られる ネットで書評を検索したら、「薫タソ萌え小説」みたいな意見もけっこう見られたし 萌えラノベ全盛の現代だからこそ、再評価できる作品なのかもしれない 文豪エロティカル/末國善己(編)を買って川端の「舞踊靴」を 読んだが、最後のピークの所が伏せ字になってるw だいたい想像できるから良いけど、後年修正しなかったんだろうか? 川端自殺?大江が書き換えとけよ。トリビュートして。日本の国立から 狭い地域で賞二つは評価できる。選考の方よろしく。子族は。 書きものが文学ではないのだが。書かないといけないんだよ。 対—他者 が文学に取り上げられているわけで、日本式の成功譚や自我を介さないこと。 文学なんて下の仕事だからテキストラクト、哲学文学の、構造を使用人の様にこき使われるいい時代を 過ごせるかどうか。 文学に取り上げられたり、引用されたりする目的でなく、たとえそうでもいいしね。ある部分は。 早く高い大きい仕事に届くように。文学は若さもあって危ういものですが、ウエルテルじゃないけど、 文の芸術、文芸分野も一見あまり進んではいないので、参加も機を見てOK。 文人漫画なんかで冊子をつくれば□のなかに高度なオオネタも批評評論議論ためて、 新しい文芸テクスチュアルが登場する日も近いでしょう。 ある人の世のなかに 読んでみたけれど最後まで読めず、物語がない。 文章は端正で綴りの見本みたいだった。ストリー無いは批判ではないでございます。 雪国ってキツネのはなしだろ。あれでノーベル賞だよ。キツネが。賞金でウハウハ。 >>636 スカスカ感想文で絶望したわw やっぱ文学的表現ブンブンするだけで 気持ちいい時代なのか... 岐阜市のハツヨゆかりの場所に行ってきた。 結婚の約束をした鍾秀館は地銀の研修所になっていたが、長良川の眺めは変わらず爽やかだった。 澄願寺(西方寺)はこじんまりした静かな寺だった。彼女が手荒れして塗った土壁はもうないようだ。 天満宮の境内を抜けて地元の図書館に寄った。エランのマダム(驚くほど美人)が岐阜で再婚し養女をとった関係でハツヨの写真や逸話が少し残っていた。 笑顔が愛らしく朗らかで優しい一方、情に狎れず冷たい面もあったらしい。川端のことは気味悪がっていたこともあったという。 少年の話題が一切ないからこのスレのノンケ率は100%だな 先日NHKのBSプレミアムで 伊豆の踊子の映画が放送されていました。 原作も読んでみたいと思いました。 >>651 吉本は川端文学というか、川端の文章の「質感」について語ってる訳で、 川端だけでなく、いわゆる日本的なものの曖昧さの本質に触れてる訳だ。 それは西洋の「構造」に対する日本の「質感」やアンビエンス「雰囲気」 と言いたいのではないか? それは大江健三郎の曖昧な日本の私にも通じる 吉本の言う艶、浸透力の「質感」は具体的には艶=ニスの浸透不可や、浸透性=無数の 微小な穴の存在を指してる。 内藤洋子・黒沢年男の『伊豆の踊り子』は、内藤洋子がガン飛ばしすぎ 自殺する少し前から自分にはあの世が見えるようになった 自分が次に行く場所があまりにも美しいので一日でも早くそちらへ行きたいと願うようになった それで死んだのです 国境 は、普段通りの川端だったらコッキョウと読ませるよなぁ。文章のリズムをめちゃくちゃ気にした作家だからなぁ >>660 そのうち「国内の小説なのになぜ国境なのか」と言う人が出て来て、注釈がつくようになるだろうね。 >>668 だろ、あれが川端の性格を表していて、なんと言うかな、ちょっと精神に問題ありだね 唐突な終わり方なんだけど、本人はそんな事は微塵も感じていないんだ >>668 >>669 あなたたちに読解力がないということはよく分かりました。カッコつけて純文学なんか読まないで、ライトノベルでも読んでればいいと思いますよ。 川端小説は内容含めて軽いのは確か ライトノベルの走りと言われればそうかもしれない >>673 もし川端が軽いとするなら軽いで良いんですけど、もっと深く読み込むことができていれば、そんな発言は出てこないと思いますよ。 >>673 軽いラノベの走りで草こういう読書に合わせる作家も大変だな 地の文で全部説明しない作家だから読者のレベルが低いとそう受け取られるんだよなぁ >>676 自らの狭くて浅い読書態度を省みずに、中途半端に攻撃的で的外れな批判をする人って一体何考えてるんでしょうね? 気に入らない、もしくは分かんないなら読まなくていいのに >>669 確かに後味悪いよな。 少女たちの清い心をああいう終わり方で表現されちゃうとね。 >>678 あの火事は一体何を表現していたと思うのか、ぜひ聞かせて貰いたいですね。 >>679 俺はあの火事には青春の火照りを感じたね。 そしてそれを気がちがう・自殺に帰結させ、またそこに美しくも冷たく光る人生の傍観者のような天の河を配したことに、俺は言いようのない後味の悪さを感じたね。 まあどう感じるかは人それぞれだろうね。 >>680 青春、という点には同意しかねますが、あの火事が葉子の熱情を端的に表している、というところは同意見ですね。でもまあやはりあそこの部分を読み解くためには葉子が一体どういう女なのか、というところを知っておく必要があると思いますね。 >>681 火事はその頬を火に照らされて葉子を抱く駒子の熱情でもあるんだな。 人だかりに遮られて若いふたりに近づけない中年の島村は天の河を見上げることしかできなかったんだな。 君はあのラストについてどう思うのよ?後味良いかい?ニダーちゃん。 >>682 お前、ほんとくそみたいな読解力してんな。コロコロコミック読んでろアホ 全集が旧字体なんてアホすぎるな 川端本人は漢字の弊害を自覚していた漢字廃止論者なのに 全集は原稿どおりでいいよ。 文庫は読みやすいように新かなで。漢字を開くことも可。 とは言うものの、岩波文庫の芥川竜之介はやりすぎ。 /\ , @ / .※ > )) ノ) ∧..∧ ゞ \__/ ノヘY!ヽ / iつ><) * ミ 〃 ` ,.・ 彡〈 丿y⊂}__) @、 o (___,,_,,___,,_) ∬ 彡※※※※ミ !匹 ミ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ ぶぅ〜!! / \ 何それ! / ボケー \ /バカヤロー \ #ひっこめー# l|||||||||||||| ∩,,∩ ∩,,∩ ∩,,∩ ミ∩ハ∩彡 (,# )(,,# ) # ,,) (# )(# ) コッキョウの長いトンネルを抜けると 雪国であった こう読んだ方が韻踏んでて好きだ。川端もそのつもりで描いたはずだ http://www.jiji.com/jc/article?k=2019010200388 川端康成「純粋な真の作家」=68年ノーベル文学賞、選考過程公表 2019年01月02日21時43分 【ストックホルム時事】「伊豆の踊子」「雪国」で知られる作家の川端康成(1899〜1972年)が 日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した1968年、選考過程で 「日本の文学界における純粋な真の作家」との評価を受けていたことが、 スウェーデン・アカデミーが時事通信の請求を受けて2日開示した資料で分かった。 同賞の選考経過は50年間非公開とされている。 (2019/01/02-21:43) 川端は笹川の幼馴染 笹川はこの時代既に国際的にも高い影響力を持っていた この辺りの事情が無ければ川端は絶対にノーベル賞取れなかったのに指摘してる人間は俺以外いないんだよな 物事の表面を眺めるだけじゃなく裏側を見透かす目を養わなきゃいかんよ 「山の音」を今読み進めている最中だが、小津安二郎の映画を見ているような感じ >>695 夫婦の絆、親子の関係、老いと死 万人に通じるテーマを見事に捉えているという点で、両者が国際的に評価されるのも納得。 一般書籍だって選択肢があるし、古本屋古書街も選び放題だぞ。東大作家だけでは。 >>696 ノーベル賞は当然 むしろ時間がかかり過ぎた ガキにはわからんよね、その点、小津映画とも共通点はあるな それと、微妙な国語力、繊細なものを感じる感性、極彩色の大音量の世界になれているものには分からんだろう 最近の中高年にも感性が鈍い人たちが多いようにも見えるが 既にテレビ世代だからね、尊敬に値する老人が本当に少ない。 雪国のどこがいいのか全く分からん 意味不明すぎるだろ クロースアップ現代+ 三島由紀夫×川端康成 ノーベル賞の光と影 2019年2月4日(月)午後10:00 https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4241/ >>704 たとえばマルケスのマコンドや フォークナーのヨクナパトーファのような秘境を設定して 西欧風の文明化に抗おうとしたが結局駄目でした、というお話です ただ散り際の美しさやはかなさが異国情緒あふれるものとして受けているわけです 中上の「路地」も似たようなものだけど 中上の場合は逆張りで「路地」の世界化を目指す 結局は聖性の凡俗化で物語自体が衰弱していくだけで終わったけど そう考えると川端の描いた滅亡美は捨てたものでもない 川端康成で 少女がお母さんに田んぼで引きずられて、「あたしは今度の亭主は大変な人だよ」みたいなセリフを顔を赤くして周りに言ってる的な描写がある作品があったと思うんですけどどの作品でしょうか しょうじき雪国を理解できるのはキチガイだけ 常人ではわからん >>636 の文体は団塊左翼お爺ちゃんがマネしてるんだな いいこと気付いたわ〜脳内思想家らしいw 50代板より 25 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2019/02/15(金) 14:34:12.11 ID:bhHsx/iE もう性器は飽きたんで最近は純白ビキニを持ってってはかして マンスジを付けてそれを写真に撮ったり存分に舐めたりして楽しんでる 最後に手で抜いてもらう まさに文学、至福の時だよ 若者には分からんかもしれんな https://i.imgur.com/UiEUQYM.jpg 国民皆学の低大。私学に対して。日本の土壌ではね。ペルシア帝国大とかパリ帝政下の帝大とは趣が違うだろう。 山の音は成瀬巳喜男監督、水木洋子脚本で1954年に映画化 キャストは原節子、山村聡、上原謙ら 親父を演じた山村聰は息子を演じた上原謙より1歳年下だった 45 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/05/15(水) 12:57:35.06 ID:BiJbwG4O なにが雪国だよ こんな気持ち悪い作品を書くヤツがノーベルとか笑える 他の作品もすべてキモい 作家自体もキモい あの人に会いたい「アンコール 川端康成」 NHK総合 6月15日(土)5時40分 529 吾輩は名無しである[sage] 2019/06/09(日) 22:28:37.32 ID:Jsl0uv8o 純文学?もう誰も買いませんから 表紙買いさせる為に ラノベ調表紙を被せろ被せろ! https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bun/1560077900/ 喜びも 悲しみも 過去のものなり 川端康成 こいつぁ キマッたね 美しい読書を たのんます 「虹いくたび」を読み終えたけど川端の文章って読みやすそうで読みづらい気がする 使っている言葉は平易だけどひとつひとつの描写や登場人物の言葉に 真意を測らないといけなくてスラスラと読ませてくれない なんと言うか硬いわけではないけど弾力があってなかなか噛みきれない食物みたいな感じ この人の文章読本は本人ではなく、違う人が代筆で書いたと聞きましたが本当ですか? 三島と伊藤整と話をしていて、 川端が「私の文章を英語で読んで わかるんですかね」というところが とても面白い。 youtubeの中にあった。 ノーベル賞を獲った直後だと思う。 >>732 三つに分かれているやつ? あれ受賞の一報受けてからスグだよね。 お金を貸してくれるまで睨んでたという逸話は本当ですか 眠れる美女のその先に少女達との「永遠と一瞬」が 無敵の人3.0 https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n3344fs/ 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 中学校までだとネットと国語辞典で十分 高校生なら、北越雪譜、歌舞伎十八番などを参考にする 大学生以上だと、学内紀要や市販の雪国関連の論文がある 感想文ネタなら、やっぱり自分で書かなきゃね。 わからなければ、わからないこと自体を書くのもありだと思う。 冒頭の、夜の底が白くなった、で受ける印象を書いたり。 石器時代に、川端研究会に出てみたことがあるんだけど、 学内の論文発表いたいなもんだった。 外国人も参加していて、あたたかく見守られている感じ(笑) ちょっとした文化の違いも体験できたり。 一度くらいはのぞいてみるのも一興。 【道に迷ったとき】『日本人のすごい名言』D川端康成「一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ。」 https://ddnavi.com/serial/575437/a/ 川端康成「一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ。」名言年齢:89歳 短編集『僕の標本室』(川端康成・著 新潮社)所収「一人の幸福」より ※名言が発表された年を「生まれた」年として、2019年現在何歳になるのかを示しています。 誰しも幸せに生きたいという願いを持っています。ただし、どういう状態をもって幸福と感じるかは人それぞれです。その人の幸福の基準、幸福観によって、似たような状況でも幸せと感じるか不幸と感じるかは変わるでしょう。 「一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば、自分の幸福なのだ」は、川端康成の短編小説「一人の幸福」に出てくる言葉です。 小説に出てくる「彼」は、決して成就しないとわかっている恋の相手である勝子に、不幸な境遇の弟がいることを知ります。そして、その弟を自分の力で救ってあげようと思い立ちます。この思いつきは彼を幸せな気持ちにしました。 それまで勝子に対する思いに悶々とし、悩み、思いつめていたけれど、急に迷いが晴れたようになります。勝子の弟たった一人でも幸福にできるのなら、それが自分の幸福になるのだと感じて嬉しくなるのです。 小説の中の言葉ですが、川端康成自身の実感でもあると思います。 川端は幼少期から多くの肉親の死に直面し、孤独と向き合ってきました。1歳で父を、2歳で母を亡くしただけでなく、14歳までに祖父母と姉、すべての肉親を亡くし天涯孤独となってしまいました。 「葬式の名人」という短編小説がありますが、主人公のモデルとなったのは川端自身です。 親戚や周囲の人に親切にはしてもらっても、すべてを受け入れてくれ、甘えられるような存在はいません。 母親的な愛は得難い、有難いものとして憧れの対象となっていきます。常に人の顔色をうかがい、心をオープンにできないことを川端は自ら「孤児根性」として蔑んでいました。 そんな川端の幸福観が表れているのが、「一生の間に一人の人間でも幸福にすることが出来れば自分の幸福なのだ」なのです。 ■「幸せになりたい」と考えるとキリがない 他人の幸福が自分の幸福なのですから、自分の快楽を追求するのとは違います。たとえば自分が経済的に成功するとか、自由なライフスタイルを実現するとか、多くの人に尊敬されることではありません。また、他人と比較することでもありません。 「あの人と比べれば自分はましだ」と考えて幸福を得ようとするのは、他人の不幸を自分の幸福とするようなものです。 そうではなくて、一生の間に、たった一人でもいいから誰かを幸福にする。「一生に一人でもいい」と考えればハードルが低いようにも思いますが、川端にとっての母親的な愛がそうであったように、普通だけれど実は難しい。有難いものでもあるのです。 教師なら、「先生のおかげで救われました」と言ってくれる生徒が一人でもいたら、教師冥利に尽きます。医者なら、患者さんを一人でも助けることができれば、医者になって良かったと思えるでしょう。どんな仕事でもそうです。 「あなたのおかげで本当に助かった」と心から喜んでくれる人がいたら、何物にも替えがたい喜びになります。 「幸せになりたい」と考えると、不足しているものに目がいってキリがない感じがしますが、「誰かを幸せにしよう」と考えれば実現のとっかかりも見つけやすいのではないでしょうか。 川端の小説「一人の幸福」に出てきた「彼」のように、迷いが晴れ、嬉しい気持ちで満たされるかもしれません。 それにしても、川端の小説を読むとその日本語の美しさに惚れ惚れします。私は20歳の頃、『山の音』という小説にはまりました。これに出てくる菊子という女性の話し言葉の美しさに心を打たれ、恋をしてしまったほどです。 そして、いつか娘が生まれたら菊子と名付けようと決めていました。結局、女の子は生まれませんでしたが。 『山の音』『雪国』なども、その日本語の美しさも味わいながらぜひ読んでほしいと思います。 かわばたやすなり●小説家、文芸評論家。1899生-1972没。東京帝国大学在学中に菊池寛に認められ文壇に出る。横光利一らと『文藝時代』を創刊し、新感覚派の作家として注目を集めた。代表作に『伊豆の踊子』『雪国』など。1968年ノーベル文学賞受賞。 川端康成の借金スキルは「天才」レベルだった…!/『文豪どうかしてる逸話集』G https://ddnavi.com/serial/576094/a/3/ 欲しいものはなんとしてでも手に入れる川端康成。 川端康成はいつもツケで飲み歩き、ツケがきかなくなると、編集者や作家仲間を呼び出して払わせていた。 そもそも川端は、最初から「金は天下の回りもの」という考え方で、「ある時は払い、ない時は払わなくてよい」とはっきりしていた。ある人が「銀座のバーの勘定は高い」と言うと「高かったら、払わなきゃいいじゃないですか」とキッパリと言ったそう。 欲しいものがあると、それがどんなに高額なものであろうと、お金を持っている人に借りるかツケにして踏み倒したという川端。 ある日突然、文藝春秋の編集部に現れた川端は、当時の社長に「金庫にいくらありますか?」と聞き、「え? 300万くらいは……」と社長が答えると「欲しい壺がある」と言って全額持って行ってしまう。 川端はその当時、文藝春秋から本も出していないし、寄稿もしていない。そんな川端に300万円(現在の価値に換算すると約2000万円)を貸してしまうのもどうかしてるけど、借りる方も借りる方である。 ちなみにこの時の借金は、文藝春秋の社長が代わった時にうやむやになってしまう。まさに、「天才」と呼ばざるをえない借金スキルの高さである。 また、『伊豆の踊子』を執筆する際に伊豆・湯ケ島の「湯本荘」にしばらくの間滞在した川端だったが、この時の宿代数カ月分も1円も払わなかった。 ノーベル文学賞の受賞が決まった時には、7000万円もする富岡鉄斎の屛風(びょうぶ)をはじめ、合計で約1億円もの美術品を買い漁り「ノーベル賞の賞金で払うから大丈夫」と言っていた川端だったが、ノーベル文学賞の賞金は2000万円だった。 川端が自殺したあとには、集めた国宝、重要文化財など、約200点を超える美術品が残されていたが、方々に借金やツケも残されていた。 (出典) 梶山季之『借金の天才 川端康成の金銭感覚』 川端は確かに文章がうまい、かつ美しい文章を書く、小説家でもうまい文章が書ける人はそういないからね 部分的にいい文章は書けても全体通してというのはほとんどいない 三島もうまい方だが川端には及ばない 美しいというのはひとえに情景描写の部分に掛かってくるのだが、川端はこれが極めてうまい また情景描写は多すぎても少なすぎてもいけない、絶妙のバランスというものがある、川端にはそれがある 昭和15年に川端が「戦争にさえ文学は必要であつた。戦争以上に困難な明日の生活のために文運の隆盛を祈らう。」って書いてたけど、 今読むと、もうすぐまた戦争始まるよーって教えてあげたくなる 川端康成原作の映画で私が好きなもの 一位『女のみづうみ』(吉田喜重) 二位『眠れる美女』(吉村公三郎) 三位『女であること』(川島雄三) 川端さんの書いたものって読めば読むほどいいよね 短い文にたくさん詰まっていながら難しい言葉を使ってない 氏は天才じゃないが天職を得た人、というのが自分の評価 >>748 川端は新しい器造りの作家だからな。 何を入れるかは二の次の問題で、少し物足りない。 谷崎は骨董の器に、中身もうまいことそれらしい ものを誂えてくる。 三島はマイセンとかガラス器しか持たないくせに、 無理矢理、和のものを入れようとして割れたw あの時代、単純な文章を難しく書く傾向があったのに こいつはいい感じだ 一生に一度も出会わないような形容詞の羅列を良しとした奴とは大違い 誰にもかれにも、同じ時間が流れていると思うのはまちがいだ このセリフっていつ頃のものかどなたかわかりますか? 晩年じゃないことがわかるなら悩みも消えるのですが ◇◆◇ 創価学会と韓国 ◇◆◇ 創価学会には在日韓国人の信者が多い。近年、創価学会は海外布教に力を入れているが、 日本以外で最も多くの信者がいる国も韓国である。そのため、韓国には気を遣ってきた。 創価学会の福岡研修道場にある「韓日友好の碑」には、日本を「小国」とし韓国を「師 恩の国」と述べる池田大作名誉会長の詩が刻まれている。また、日本と韓国の創価学会 の代表者が出席した「韓日友好代表者会議」で、池田は以下のようなスピーチを行った。 > 韓国は、日本にとって「文化大恩」の「兄の国」である。「師匠の国」なのであ > る。その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった。ゆえに私は、永遠 > に貴国に罪滅ぼしをしていく決心である。最大限の礼をもって、永遠に貴国と友情 > を結び、貴国の発展に尽くしていく決心である。(『聖教新聞』2000年5月22日付) 創価学会は言葉で韓国に媚びへつらうだけでなく、公明党を通じて在日参政権の実現を 目指しており、日本人信者に対しても、韓国を「兄の国」として敬うよう洗脳している。 公園にて風の悪戯でシャツがめくれ上がり恥ずかしがる性格の良さそうな女の子 ttps://imgc.eroyakuba.com/wp-content/uploads/2016/02/s_busu_028-480x640.jpg 古都読んだけど続き気になるー 当時の読者達からは続編要望の声とか多かったんじゃないのかなと思える 設定的に昔の少女漫画の元祖だったのかと思えるストーリー 姉妹の片割れが求婚者を拒絶する理由は自分はお嬢さんの身代わりだからと悟ってるのが理由だけど 小説読んでたら求婚者も憧れてたお嬢さんへの想いが昇華していってあらためて片割れの方に心引かれてるフラグ満載だし お嬢さんは兄弟のどちらを選ぶのかも気になる だけど気になる時点で筆を置いたのは将来どうなるから読者の予測に任せるて事なのだろうか とっととオメコしたらんかい!とか思ってはいけませんねw 明治天平昭和の小説ですから 上も下もないのかも知れないけど、でももしそれを付けるなら日本文学の頂上は川端康成だな ずばり、川端康成の一番の代表作といえば世間一般的に「雪国」「伊豆の踊子」どっちなんですか? 文学の研究って自然科学や数学にくらべて玉石混交が多そうだけど、 「川端文学への視界」川端文学研究会編(教育出版センター発行) ってのが、ざっと見るだけでも流れがわかる。 冊数がかなり多いけどね。 研究動向などもあって、川端とほぼ同時代に生きた研究者たちの考え方がわかるかも。 自分が探したときは神保町にはなくて、早稲田のあそこ(笑 で見つけた。 川端さんがラノベの隆盛を見たらなんと言うか、とっても興味がある。 結構ミーハーでエロも好き、金使いも破天荒な人間だったようだから、案外参入 したかも。女性作家に代筆(これは現代と価値観が違うので注意)させたくらいだから 無論のこと、ありうる。 >>766 「こっきょう」なのか「くにざかい」なのか 川端が昼間っから睡眠薬大量に飲んでラリってたみたいだね・・・かなりノイローゼ状態だったんだな 川端康成ってヤングケアラーだったのかな 学生時代にお祖父さんを介護する描写があったような… 川端と三島は 遊戯を楽しむように、とりかえばやに 双方が入れ替わり著作をしていたような気がする。 くにざかいの長いトンネルを抜けると雪国であった 川端は「くにざかい」のつもりだったけれど、そう読む人は少ない どちらで読むかは読者の自由に任せられている みずうみ読んだけど雪国とか古都みたいなの期待してたらアレ?って感じ 後半流し読みしちった 日本における踊り子ってどんな職業だったんどすか(´・ω・`)? hしてたの? 他におすすめあります? 川端以外でもいいですが、切ない感じの メロスくんはこんなところで油売ってないで早くセリヌンティウス助けにお行き メロスは勝手に友達を人質に預けたりして、自己中すぎる さすが1回人殺してる太宰だけある 川端康成は定年後の老人の余生の暇つぶし程度としてなら存在価値を認める事ができる。世界文学的にはほとんど無価値と言っていいのでは?ハイコンテクストすぎる古典的日本文化の特性に最大限寄っている作風を極めた、だから何?全人類的に示唆のあるものを何か描いているのか? 全人類的に示唆のある世界文学をまず教えてもらおうじゃないか 村上春樹とかか? 川端康成って163センチの三島と並んで写ってる写真とか見るとほぼ同じ背丈だから 川端も明治生まれの世代の割には結構長身何だな。俺の中で川端ってかなり華奢で小柄なイメージだった。 川端の雪国って下品なエロ小説だと思うけどなあ 書き出しだけうまいというか独特で 有名になっただけだと思う この人の偉大なとことは痩せていることかな、 痩せた偉人というのは非常に珍しい、 痩せたノーベル賞受賞者は1パーセントくらいしかいないんじゃないか 国内の受賞者もほとんどデブだし 小説家というのもほとんどデブだ、 太宰は普通かな、文壇の人たちがあまりにデブばかりなので、 たまにデブでないくらいの人でも痩せた印象になってしまう、三島もそうだ >>782 お前は最新パソコンの取説でも読んどけ! >>786 お前歌舞伎見に行ったことある? 雪国はエロってのは正しいが、下品? 教養を身につけろよ 伊豆の踊り子は、孤児根性の主人公と死んだ赤子が対応してるってことでいいのかな?お互いを補完しあってるということかな 踊り子一行は水で、冒頭で雨に打たれ、山を下り、海へ出るってことなんだろな 東雅夫の幻想文学講義にあったけど、雪国の登場人物はお化けだとか 14歳のかおるちゃんを混浴で裸にして 可愛い乳房から恥ずかしい所までじっくり眺めたい 虹いくたびで大人になった麻子が父親と一緒に風呂に入る場面には驚愕しました 没後50年だから、新潮文庫が三島の時のように カバーや解説を新しくしている 『古都』の綿矢りさはイマイチだった え〜踊子さんの身体には手を触れないで下さい〜〜〜w 少年愛とBLは別物だと思うんだけど売るためには仕方ないんだろうなあ 他の古典作品とかでも 女性蔑視に基づいたホモソーシャルな関係を 女の学者が読書に媚び売ってBL!キャッキャ!と解説書いてる時代ですから >>811 こういう特殊な短篇集はすぐ絶版になって入手困難になりやすい だから早速買ったよ >>811 かなり売れていて、増刷決定らしい 川端ブームか 山の音 とかもちょっとヤバイだろと。H小説でよくあるパターンというか。 千羽鶴もヤバいよな 父とその息子を喰っちゃう女の話だし 女であること さかゑ 美しさと哀しみと けい子 このあたりもヤバい 「菊治ははじめて女を知ったように思い、また男を知ったように思った」 これって実父のことかな? もしそうなら父親の愛人を介して実父と近親相姦したという妄想?? まあ川端は同性愛者だったらしいからそうなんだろうけど 雪国も冒頭の指でどうこう言うとこでエロさが凄いと思った記憶 俺は昔の文豪のジャンキーエピソード大好きだ何だな。とくに川端康成は深夜にハイミナール 大量に飲んでラリってたり昼間ったから眠剤飲んでラリってたりこういうエピソード話 超大好き!俺も学生の頃はマイスリー、ハルシオンでラリってた今は耐性付いてしまいラリらなく なっちまったけど(ノД`)・゜・。あともっと凄いのは中島らも!俺もらも先生のマネして 咳止め薬大量に飲んだけど何ともならなかった事がある・・・(ノД`)・゜・。 川端康成異相短篇集 ・心中 ・白い満月 ・地獄 ・故郷 ・離合 ・冬の曲 ・朝雲 ・死体紹介人 ・蛇 ・犬 ・赤い喪服 ・毛眼鏡の歌 ・弓浦市 ・めずらしい人 ・無言 ・たまゆら ・感情 ・二黒 ・眠り薬 令和4年8月頃を予定しておりました第2回川端康成青春文学賞の発表及び表彰式の 実施時期について、応募作品の選考作業や調整作業の進捗が遅れており、 令和4年の冬以降に延期させていただきます。 ご応募いただきました皆さまには、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません。 時期が確定しましたら、このページにてご報告いたします。 なんだそりゃ。 選考作業はともかく、調整作業ってなんだよ。 オレの傑作を落とす調整すんなよ! 川端康成のスレってあったのね ポツポツ読んでみようかな 掌の小説に入っている心中 これは不気味という範囲に収まらない こりゃもうキモチ悪いと言っていい 弓浦市 夕陽が溜っている浦の裏 記憶というのは残照であり 残照とは傍観者に浴びせられた血だ バッタと鈴虫 紅提燈に刻み抜かれた名前 不二夫はわかる 左右対称だもの でもキヨ子はなあ 子のつく子、いなくなったよなあ 掌より長い短編だと 母の初戀 故人の園 が好きです 野分の長いトンネルを抜けると秋であった。わんこの息が白くなった。 伊藤初代の三男がNHKに出てたな 「非常」についてTVでは語らなかったけど どういうことがあったか聞いて知ってるらしい 今さらだけど雪国の冒頭さ 「高架橋を抜けたら雲の隙間に青が覗いた」 の方が良かったと思ってる。 『東京の人』読了 だらだら長いメロドラマだが戦後の都会人の孤独を描いたという文芸味はある 新聞小説として読者を楽しませたい意気込みは感じた いつか映画も観てみたい 短編には面白いのが多いが、 とにかく文章が読みにくい。 >>836 西河は多くの映画を撮っておりとても追いかけきれず未見であるが、出来はどうなのであろう? 山口百恵・三浦友和シリーズが面白くなかったので観ることを躊躇ってしまう >>838 西河は本当に「映画屋」 監督としての作品性ではなく出演者の名前で客を呼んでいた人だからなあ 当時の東京の風景とか、月丘夢路や左幸子に興味があるなら 観ておいても損はないのでは 川端自身は『東京の人』をただのメロドラマではなく 文芸映画に仕立てた監督の力量をほめていたね もともと自作の舞台化・映画化などには一切注文をつけない人だったそうだが >>839 左幸子はとてもいい女優だな、特に『軍旗はためく下に』とか。まあ西河で見るのはもう少し後かな。それよりも『遠い一本の道』が未見なのでこっちを先に見なくては >>839 今では死語だが「文芸映画」というジャンルがあったね。川端をはじめとして多くの文芸小説が映画化された。もちろんその中には傑作も駄作もある。いまは原作として使われるねはもっぱら漫画か、小説はあってもラノベばかりになってしまった。まあそれでどうという事ではないのだが 私が翻訳したある日本の学術書も過激な主張はないにもかかわらず、なんだかの理由で出版することができませんでした。しかし川端康成の文学は、「世離れ」をしています。 日本の大正から昭和にかけての、戦争がない平和な期間を舞台にしているものが多い。作品の多くが反体制運動や戦争をテーマにしていないので、検閲に通りやすいのです。 さらに、こうした規制による不自由な社会で、人々は川端文学の美しく詩的な情景描写に「癒し」を求めはじめています。 元々、中国では川端康成の類まれな表現力について評価が高く、2012年ノーベル文学賞を受賞した作家の莫言さんも『雪国』の美しい描写に大きな影響を受けたと公言していました。 そして書き上げたのが後に、映画にもなった小説『白い犬とブランコ』でした。1999年の秋、莫言さんははじめて日本を訪れてきた時に、 川端康成が執筆した宿に泊まりたいと言いました。私は彼を伊豆の天城湯ケ島温泉の旅館までご案内いたしました。とても喜んでいました。 現在の中国は、例えば、軍のスローガンをネタにしただけで、コメディアンに二億円の罰金が課されるなど、小説よりも現実社会のほうがもっとも魔術的で、 エキサイティングな出来事が次々と起こるような社会です。残念ながら、小説がそのような現実の刺激には勝てないのです。 そのため、人々は文学に物語の筋立てというよりむしろ、川端文学のように心を豊かにし、生活に潤いを与えるような美しい言葉を求めています。 彼らは文学をまるで「癒しグッズ」のように消費するということで、日々の不満や生きづらさを解消しようとしているのです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる