【翳りの歴史のために】蓮實重彦2【仮死の祭典】
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(前スレより)
30 吾輩は名無しである[] 2019/09/02(月) 17:28:31.98 ID:Tfexl+f8
中曽根より長生きしてほしいと思う。
昭和の妖怪、中曽根康弘、享年101、2019年(令和元年)11月29日没。
他方、マノエル・ド・オリヴェイラ、享年106、105歳で『 レステルの老人』撮ってるからね
蓮實重彦、御年84歳、もう二回り生きて、中曽根はもちろんオリヴェイラ越えして欲しい ハスミ)たけし「さん」と言うとちょっと距離ができるんですね
タケシ)………タケちゃんで………w 個人的には映画に関してははいろいろ面白い映画教えてもらったなと思うけど小説の趣味は全然合わない
蓮實はテマティスムとかあんな下らない方法本気で面白いと思ってるのが不思議 テマティスムはリシャールさんに倣ってのことでしょ
ワイにもこれくらいできまっせ&日本人も印象批評からの脱出を!っていう
小説好きが昂じてというより批評のための批評に見えますな 蓮實重彦にハマったきっかけは
ウエイン町山の『映画の見方』シリーズのニューシネマに共感たっぷりな感じが受け入れられずにいたとき
ハスミの『映画の神話学』を読んだことだな
『俺たちに明日はない』よりは、その元ネタであろう『夜の人々』や『暗黒街の弾痕』の方がずっといい
『カッコーの巣の上で』より『ショック集団』の方がよほど切実だ
みたいなこと言ってて、実際VHSで見たら本当に良くて、爾来どんどんハスミにハマっていった
ニューシネマ見たくらいで古い映画結構見てるぜ!(恥)と思ってた自分が
粉々にされた経験でもあったw
(悪く言っちゃったけどウエインの本にも色々教わってる) >>9
ハスミンに、というより、映画にいい出会いかたしてるじゃん ハスミンてパブリック・イメージと違ってウブな人だからさ(パブリック・イメージもそうかもしれないが)
映画に対しては作家=作品に対する「憧れ=嫉妬=愛」がいい方に働くんじゃないかな
小説家に対してはそんなに思い入れはないと思う
この人ほんとに藤枝静男とか後藤明生が好きなんだろうか?ほんとは馬鹿にしてるんじゃなかろうか?と思うもの
対して映画作家に対してはさ、ゴダールと友だちになれたら死んでもいいと思ってるんじゃないの エリセからメールが何年間だか来なかったことを嬉々として自慢したり(返信が来たことが嬉しい)、厚田雄春にインタヴューする時のキャピキャピ振りとか、山田宏一に対する崇拝に近い感情(トリュフォーやカイエの同人と友だちなのが羨ましい)とか おれが蓮實ちゃんを信用できるのは江藤淳に敬意を表してるとこ。
江藤は晩年に右翼というか保守というか変な感じになってたが、若い頃のキレキレの論文はやっぱり並大抵の人ではないのである。 右翼や保守=変な感じというその発想が意味不明だが、書いてあることは同意 >>9
俺も昔はそういうハスミンの批評に影響受けてたけど、映画じゃないけど作り手側に回ってからは、〇〇より××の方が上!みたいな論調だと何も作れねーわと思うようになった
漫画は手塚治虫だけでいい!みたいな感じじゃん、ハスミンが言うてることって 蓮實はヌーヴェルバーグなら何でも好きってわけじゃないよね。
正直、トリュフォーの映画をそれほど好きじゃなさそう。「恋のエチュード」は傑作と言ってもいい、なんて言ってるけど、その言い方!
特に後期の作品は全然ダメって感じ。
トリュフォーはやっぱ「フランス映画のある種の傾向」をはじめとする批評家として大好きなんだろうね。
あと、シャブロルは好きか。 >>10
ありがとう
結果的にそうなのかな
蓮實重彦はいろんな顔があってゴダールや小津の人では勿論あるけど
9に書いた経験からか、とりわけオレにとってはハリウッドの人でもある
だからスレタイに『ハリウッド映画史講義』の副題「翳りの歴史のために」を入れてみた
>>15
そうも読めるのかな
ハスミは「映画」という抽象と戯れず、個別具体的に作品と向き合っていく人に見えるけど
だから『ALWAYS 三丁目の夕日』を見て泣いちゃうわけで おれが思うに、GOATに近づくためには恋愛映画の傑作が撮れないと駄目
ゴダールは恋愛映画の傑作をたくさん作ったし、ホウ・シャオシェンは恋恋風塵があるし、エドワード・ヤンは牯嶺街があるし、ブレッソンはスリなんかがある
日本映画の恋愛映画の超傑作は秋津温泉ぐらいしかないんじゃなかろうか
あとシェイディー・グローヴも若手にしては頑張ってるな
黒沢清は、いかんせん恋愛映画は無理だろう
アメリカ人は頭トウモロコシだからギャング映画とホラー映画しか作れないから駄目だありゃ 恋愛映画は傑作を作るのがもともと難しいうえに、こんな時代だからさらにどんどんと難しくなっていってる かっこつけて「俺恋愛映画は苦手だから見ないんだよね」とか抜かすDQN男と先入観で「恋愛映画は好きじゃないですよね?」とか言ってくるセンスないオンナは逝ってヨシ しかも秋津温泉てアヴァンギャルドを作りたい吉田喜重が岡田茉莉子にプッシュされていやいや作ったリアリズム作品だからね ここは文学板であるにもかかわらず、映画評論家としての蓮実重彦の話ばかりだが、
文芸評論家、思想家、フランス文学者、小説家、としての同先生についてのレスはないのですか。 よーしそれじゃあモードを切り換えるから何日か待って
文学についてなんかずいぶん考えてないもんなー おれ、悪い癖で本がかさばってくると魔が差して処分しちゃうんだよなー。「表層批評宣言」には影響受けたよなんて言いたくても読んだのは遥か昔だし、手元にもうないし。
図書館で借りてた時代もあるし。 文学とは関係ないのだが、1980年代、蓮実重彦本人でなく、その教え子たちのうち喫煙者は、
ほとんどがゴロワーズを喫っていたと思う。それゆえ、連中がいるところには、ゴロワーズの独特のきついにおいが漂っていた、
のであった。その時期、日仏会館などで映画を視たことがあるような人なら、
そうそう、とうなずくところであろう。
なんで、ジタンやらでなく、ゴロワーズなのかということは、理由がようやくさっきわかった。
どうやら、サルトルが喫っていたから、ということなのだろう。
わたくしとしては、ゴロワーズのにおいと彼らの交わす会話のはしばしが相まって、猛烈に胸糞悪い気分を覚えたものであった。 サルトルを嫌いって言う人いないんだよね。蓮實は「大戦間の人」と言って、輝いてた時期があったことを表明してるし、浅田彰も「存在と無のサルトル」と言ってるし、中沢新一も「人は誰もが実存主義者なのである」みたいなこと書いてたし、全否定してる人がいない。 おれは最終的にジタンとゴロワーズに行きついて、決められないから1か月に両方を2カートンずつ買ってた
ゴダールゴダールってしつこくて悪いけど、奴が吸ってた煙草にしたかったんだけど、調べても出てこなかった
禁煙に成功して止めた そのころゴロワーズを喫っていたその連中は、おそらく時流に合わせて禁煙したことだろう。
すくなくとも一人が禁煙したことは、一応友人だったので、知っている。
蓮実重彦本人は、まだ喫っているのだろうか、それとも禁煙したのだろうか。
ちなみにわたくしはまだタバコを喫っている。一日ひと箱程度。
ただし、マルボロである。ゴロワーズは、いまだかつて一度も喫ったことがない。 日仏学館って、うちの姉ちゃんがフランス語習ってたな。なんかフランス語習ってない人が行くのも気が引けるから、おれは行ったことない。 漱石のことをやけにディスるよね。
「漱石のように退屈」とか「今の時代に猫を読んで面白いなんて感じるやつは馬鹿でしょ」とか マルボロって辛いでしょ
一時喫ってたけど頭痛くなるからやめた
ジタンとゴロワーズはもっとマイルドだよ
まいうー 長嶋茂雄
多趣味であり、立教大学4年の時には淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。
そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などをあげた。
特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。
なお、映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ。性分にあわない」と語っていた。 ジタンはよりマイルド
日仏学院は1回しか行ったことないな
ストローブ・エ・ユイレのエンペドクレスの死を見たような気がする
わけわかめだったけど「これが「ショット」というやつなのか」と思った記憶がある 「アウトコースの低めにくる球と同じで苦手」って、どんな例えかたしとんねんw >>38
ネタでしょ?
ミスターが抵抗見たとかありえないわ 日仏学院、アテネ・フランセにはちょこちょこ映画見に行った
日仏学院はロメール『緑の光線』を見た
アテネは部屋は明るいしとても映画見る場所じゃなかった
自意識過剰で気難しそうなチケットもぎり兄さんがいてキモかったなw
映画美の生徒がバイトでもしてるのかね
(シネマ・ヴェーラのもぎりの坊主の兄さんもキツかったけどw) >>41
それ偏見だから。
土方がフーコー読むことだってあるでしょ。 漱石の文章から、英語に備わる選別と排除の体系を読み取ったりして、
我々は倫敦党を訪れねばならぬ、、みたいに言って漱石評価してなかったっけ?
小説の評価は低かったのかな サルトルは大きいんだね
安藤優子が石原慎太郎をインタビューしたとき
いろいろ複雑な話をしてくれたのに、安藤がサルトルを知らないとわかるや
サルトルも知らずにオレの話に頷いてたのかよ、と急に怒りはじめたなんてエピソードあった
蓮實先生はバルトを知らない生徒なんて泣かせろと檄を飛ばしてたなw キリンジ - アルカディア
サルトル「存在と無」は↑の音楽ビデオにも出てきます。
よろしければご感想を。 ハスミンはサルトルのフローベール論家の馬鹿息子の共同訳者の一人だけど、けっこう馬鹿にした発言もあるよ
構造主義はサルトルに対するアンチだったわけで、それと較べるとサルトルは古い的な ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい
ほらジャン・ギャバンがシネマの中で吸ってるやつさ ドゥルーズ・フーコー・デリダ誰一人としてサルトル揶揄してないよ >>19
自己レスすまそ
接吻もあるな
あれはかなりスリの影響受けてる 蓮實が
千代田区まで吸殻を捨てに行ってたのは2002年か でもハスミンってレヴィ=ストロースとか全然じゃん
本人の世代的にもポストの人だし
構造主義って言ってもせいぜいバルトくらいでしょ 筒井康隆との対談で、蓮實は「大江さんが作家として一番偉いと思っている」と述べた ごく初期にフーコー・ドゥルーズ・デリダ?つー本を書いてて日本人としてはポスト構造主義に手をつけたのはものすごく早い
いちばん影響を受けて言及が多いのはドゥルーズじゃないかな
でも千葉雅也とかの世代からしたらハスミンのドゥルーズ解釈はいささか古いでしょ
本質的にはバルトの人 >>56
それよりだいぶ前に批評あるいは仮死の祭典があるじゃん
國分ならまだしも千葉がそんなに新しいとは思わんな 蓮実重彦のドゥルーズ理解が正確。
国分、千葉世代は、マルクス主義がまるでわからないから(それゆえマルクス主義者ドゥルーズという最も肝心な面を隠蔽したがる)、
じっさいには全然わかっていない。 ポスト構造主義といわれる思潮というのは、ざっくりいえば新左翼主義思想の一種なのですが、
あるころから、イメージダウンになるのを恐れてか、
日本のドゥルージアンなどは、とにかくその辺の、かつてゴロワーズ喫っていたような人たちの間では常識だったことを、
なかったようなことにして隠したがるのです。 >>58
そうだけど78年でフーコー・ドゥルーズ・デリダなんちゅうタイトルの本を出す先見性がすごいから例えとして出した >>61
宮川淳や豊崎光一がその前にガンガン紹介してたじゃん だいたい、いまどきの社民リベラルみたいなことをいう「知識人」が、
フーコーだのドゥルーズだのと持ち出すのは、
単にフランス語しか技能がなく、漫画、アニメなどのほかは、
哲学思想関係の本の知識くらいしかないから、
必然的にネタ不足であるゆえ、ということにすぎない。 いまどきの日本フランス現代思想家の先生方も、
イメージ戦略を中途半端なところでやめないで、
ドゥルーズはじつは嫌煙家で、フーコーはじつはホモフォビアだった、
というようなところまでいけば、Qアノン並み、とまではいかなくとも、
すこしは面白いかもしれない。 >>64
どういうこと?そんなんみんな知ってるでしょ
ただドゥルーズは元々は愛煙家でしょ? >>62
批評あるいはに納められた諸論考が発表され始めたのが72、3年だから年齢的にも同世代だしほぼ同時くらいかな 完全に空目したわ
フーコーはじつはホモフォビアも意味分からんな?そうなん? >>66
うんだからそんな先見性ってほどのことじゃないよ
フランスではとっくに大ウケしてたもんを輸入しただけだし >>68
でも一応アカデミズムの場に身を置いた若手研究者だったんだし、当時の保守的な(大)先輩からはゲテモノ扱いされかねない危険を冒して、下手したら学者として抹殺されるかもしれないしそれなりの賭けだったのでは >>69
なんで抹殺?豊崎なんか75年にはすでに教授職ついてたぞ?
78年には蓮實自身読売文学賞獲ってるけどその時の後ろ盾は中村光夫でしょ 五月革命が68年。三島由紀夫対東大全共闘が69年。
「三島由紀夫対東大全共闘」のなかで、日本ドゥルージアンのはしりみたいなのが、
三島由紀夫とやり合うところがあるから、そこを読めば当時の雰囲気がわかるのではないですか。 >>71
で>>64はお前なりの冗談だったのかね?
ぜんぜん面白くなかったんだが
あんなにつまらんなら今のままの方がマシだわ あとドゥルーズ自身は革命なんか全く煽ってないぞ
勘違いしないようにな 作家の大岡昇平が誰かとの対談で
「浅田君のような若いドゥルージアンが」云々と語ってたことあったからおフランス族の中では有名な存在だったんだろうな >>70
君若いでしょ
当時の時代風潮を知らないんだね
ニューアカに対する逆風もあったのよ
浅田彰は干されて京大の教授になれなかったとか >>75
あなた様はおいくつで?浅田が教授職諦めたのなんか2000年代入ってからだろwしかもニューアカに対する逆風なんて理由じゃねーよwなんか勘違いしてねー? ご承知の方も多いと思うが、ドゥルーズはディディエ・エリボンの質問に答えて、こう語ったという、「マルクスは間違っていた
などという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)次の著作は『マルクスの偉大
さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう」。これは、1995年11月15日(ドゥルースが自死したのは同年同月4日)付けの『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥー
ル』に掲載されたインタビューからの引用であり、インタビューの抄訳は、『批評空間』第II期9号(1996年4月発行)に掲載されている。もともとは1994年に行われたインタビューだそうだ。
またドゥルーズへの追悼文の中で、デリダはこう述べている、「三年前、最悪の時期に、私がマルクスについて書いていたとき、彼もまたマルクスについて書こうとしていることを知って、ややほっとしたものです」。1995年11月7日付『リベラシオン』紙。邦訳掲載誌は『現代思想』1996年1月号:緊急特集=ジル・ドゥ
ルーズ。
これらの証言を聞くと、たとえ完成稿ではないにせよ、ドゥルーズの『マルクスの偉大さ』は草稿が残っているのではと推察できる。アントニオ・ネグリからはさらに決定的な証言がある、 80年代のアカデミズムにおける「ニューアカ排除」に関しては、東大の中沢新一事件について、蓮実重彦本人が言っていることだ。
「闘争のエチカ」(柄谷との対談集) 日本の二大名門出版社である新潮社は赤の誘惑(07)まで、講談社は映画時評(12)までハスミンの本を出さかったりね
現在まで数えてもこの両社から出した本はたった4冊だよ(近年の文庫化除く) >>77
諦めたんじゃなくて京大を辞めたのが2000年代だろ
諦めたのはそのずっと前から、助手と助教授のまま何十年も干されてる時だよ 浅田彰はけっこう歯に衣着せぬ物の言い方するからね。
「マルクス経済学者を名乗るなら最低でもスティードマン、ローマー、置塩、森嶋くらいは読んで下さいと乞い願わずにはいられない(笑)」
みたいなことを平気で言うからね。
そりゃ敵作るわw まあ大人の世界はいろいろあるのよ
おこちゃまにはわからない >>80
それまでに連載してなかっただけでしょw
一般的に言って出版社とではなく、編集者との繋がりが大きい
しかも80年代90年代は映画の仕事にほぼ費やしており
そもそも学長になってからは批評家としての筆を絶ってたわけだし
変な勘繰りしてるねキミ >>83
コテハンの底の浅さが見えてよかったわw乙w 「千のプラトー」はマルクス主義に貫かれた本です(ドゥルーズ)
わたしはマルクス主義者である、と自分で言っているんですよ。 >>82
でも経済学者としての論文ほぼ残してませんやん
実はほぼそれだけでしょ教授になれなかった理由って
論文ありきで色々勘ぐるならともかくね だって普通に考えて浅田彰みたいな天才が助手/助教授で浅田より年下のボンクラが教授になるとか、東大総長の器の浅田が京都なんとか大のトップに都落ちするとかあり得ないでしょ 80年代の東大の「ニューアカ排除」については、
西部進のほうがむしろ詳細なことを書いているのです。
何しろ事件のあおりで辞任したくらいですから。
また、それについては、舛添元都知事も、すこし書いていたのですよ。 デリダも後期にマルクスの亡霊たち?をはじめ何冊か書いてるなー 「逃げ恥」のヒラマサさんは京大卒というキャラ設定らしいがまさか浅田がモデル? 柄谷行人の本をたくさん出した講談社はともかく、ほとんどニューアカ系統の本を出さなかった(現在にいたるまで)新潮社はホント保守的だわ
今はすっかり右翼出版社になっちゃったし >>91
書いてるなーって亡霊たちはマルクス「主義」者批判の本じゃんw
テキトーだなあw 賞を獲ったって言ってもそんなんある先輩とかある派閥からしたら妬みの対象にしかならないし
近年で言っても、東が東大を辞めたり、千葉雅也が地方に飛ばされたり、スター学者はいろいろつらいのよ
男はつらいよならぬスターはつらいよだな
千葉は修行が終わったら東大に戻れるかもしれんけど(ハスミンは戻れた)。協調性がないから無理か
ハスミンて論壇ではポレミークだったけど学内ではおそらく気くばりの人で協調性を発揮してたんだろう 妄想始まったでおい
この人よく知らんけど元からそうなのかな >>94
デリダの本=脱構築って全部批判的読解でしょ
批判しつつ可能性を取り出すのが脱構築でしょ >>96
80年代までの空気を知らない君にはわからないよ
均質化されて闇がないことにされてる世界しか知らないんじゃ
というかこの子ほかのレス見たらあんま頭の良くない子だった
相手にして荒らしてさーせん >>97
つまり当然マルクス主義2.0のようなものになるから
少なくともネグリのような人とは対立するわな
>>98
ま、>>85で君にはもう見切りつけてるからどうでもいいけどw
妄想披瀝のための独り言がんばって
ぱっと見、偏った知識しかないアラフォー世代の老害だなとしか ところで
見るレッスン 映画史特別講義 (光文社新書)は読んだ?
新書、それもミーでハーな光文社からの出版 まあまあ、ケンカはやめなはれ
このスレにたむろしてるやつは
目クソ鼻クソですわ
むろんワイも含めてやで >>100
読んでないなー
面白いの?
群像かなんかで連載してた「ショット」がどうとかってやつは本になったら読みたいけど いわゆる当時の共産党的な「マルクス主義」というのは、
ほとんどイコール「スターリン主義」なのですよ。
そして、「西側」の共産党の中でも、
フランス共産党は、とくにスターリン主義的だったのです。
で、立ち位置はそれぞれ違うにしても、ポスト構造主義の思想家といわれる人たちは、
共産党ではないがマルクスだ、というようなことでは、だいたい共通していたのです。
アルチュセールみたいにずっと共産党員ではあったがマオイズムに近い人(これはかつてのゴダールに近い)、
フーコーみたいに共産党をやめた人、デリダは、本人は共産党をやめたが妻は党幹部ではなかったかな(これは記憶が確かではない)
ドゥルーズは、一回も入党したことが無い、とか、それぞれではあるのですけれどね。 『存在と無』に続く哲学的主著『弁証法的理性批判』は、実存主義(あるいは現象学的存在論)をマルクス主義の内部に包摂することによって、史的唯物論の再構成を目指したものだった。
なぜ、そのような作業が必要だとサルトルは考えたのか。『弁証法的理性批判』序説の『方法の問題』によれば、ソ連をはじめとする共産党の指導者たちが、マルクス主義理論を教条化することによって、それにあわない現実を切り捨てていったからである。「彼らは教条を経験の力の及ばぬところに置いた。理論と実践の分離はその結果として、実践を無原則な経験主義に変え、理論を純粋で凝結した“知”に変えてしまうことになった」(『方法の問題』人文書院 30頁)
『批判』においてサルトルが行おうとしたことは、実践弁証法によって史的唯物論を再構成し、「発見学」<euristique>としての本来のマルクス主義を基礎づけなおすことだったのである。
Wikipedia「サルトル」から 光文社は極端な寡作の大西巨人を生涯養ったから馬鹿にできない
講談社と埴谷雄高の場合も同じ
ハスミンはたぶん死霊は嫌いだろうな
作品的にもそうだし、金魚のフンの渡部直己が罵倒してるから
あやつは真似っ子しいでハスミンが評価するものは貶さないし、貶すものは褒めない→青山も同じ ある意味、晩年の江藤淳と新潮社も同じ
ゲスな話だからスルー推奨だけど、噂の真相?だかが書いてた電車で痴○したって本当なんだろーか おれは死霊けっこう好き
全部は読んでないけど
ヒロインの娘可愛いよな
あれは日本における萌え系美少女のはしりだと思う クルー(たけし軍団)から脱退した玉袋は干す
つーか追い込みを掛ける
それがおれら(クルー)の遣り方
Cord Of The Streets(ストリートの掟) ヒロインは全く萌え系じゃねえだろw
病院に来てた姉妹の方ならまだしも
第一章しか読んでねーんじゃねえのw
関わりたくねーけど独り言で平然と誤情報をバラ撒くのやめてほしいわw >>110
最初に与志と逢った時に一目惚れして失神するだろ
あれでもう完璧なんだよ
三島の憂国の玄関開けたら2秒でファックと並ぶ名シーンだな
あれだけで世界文学に残る
あと白いワンピースかなんか着てるのもポイント高い
映画化してくんねーかな 萌えでもなんでもねーwザ・昭和じゃんw
ま、いいや、もう… もしかしてアンデルセンの即興詩人のララちゃんにも萌えないのか?
ありえないわ...... 大西巨人で光文社と言えば
「日本掌編小説秀作選」上・下巻
光文社文庫
がお薦めです。 >>115
絶対に神聖喜劇でよくね?まーそれも中学生に薦めるなら悪くないけど ディケンズのデイヴィッド・コッパーフィールドのアグニスにゃんに萌えないとか信じられないへんわ...... 新書は、ベースは『ハリウッド映画史講義』だね
ハスミンが『ハリウッド映画史講義』で
大作やヒット作ではなく、むしろB級映画(低予算、短い上映時間)にハリウッドの核心を見たように
上映時間の短い映画を多数見て、自分だけの映画の基準を見つけよ、と煽ってる
さらに関心がない映画ジャンルにも関心を向けよ、ジャンルを横断せよ、と『われわれはどんな時代を生きているか』の雰囲気も加わり
鬼滅や進撃を介して世評も少々って感じ
光文社、大西巨人の面倒みてたのか、懐深いのね 蓮實は『死霊』を批判した
俺は『死霊』を戦後日本文学のベストだと考える 埴谷雄高の死霊は女が描けてないのが惜しいところ、と言うたのは吉本隆明。この二人は後に決定的な仲違いするんや。物書きにケンカはつきものやな。 >>121
そこはどうなんだろね
吉本の基準からするとそりゃそうなんだろうけど微妙なところだね
死霊後半は女の小説だからな >>117
いやいや、そんなもん当たり前ですやん!「神聖喜劇」が一番なんてことをわざわざ繰返し書くことでもないのでワイは掌編を担当したんや。 >>121
女にモテない吉本がエラそうに
埴谷は女にモテまくったが、小説では女はさほど重きを置かれていない >>123
でも人は易きに流れやすいものだからw
何回くり返されても読めないやつもいるわけだしw 大西作品で萌えつーと
神聖喜劇には出てこないな
地獄変相奏鳴曲かなんかに入ってる短篇の主人公が二股かけてる自殺するほうじゃなくて嫁になるほうだな ノルウェイで萌えるのは絶対に直子のほうだな
親友の元カノ(つまりある意味寝盗られ要素ある)でメンヘラ美少女とか最高やん
ネアカの緑(こいつもヤリマン)逝ってヨシ!
と、子供の頃からずっと思ってたんだが、大人になって世間では緑派が主流派と知って衝撃を受けた ハスミンも
昔はフォードの『幌馬車』を例に出しつつ「90分以内」の上質なB級なんて言ってたけど
新書ではさすがに「2時間以内」と言ってる、ソフィア・コッポラだって90分越えるしね >>128
それはほとんど転向ですやん
そこは90分以内と言い張ってほしかったね あそうだ、講談社は大西巨人の本も出したり群像に短篇掲載したりバックアップしてたな バッド・ベティカーは嘘のように77分の映画が何本もある、とかいってなかったっけ?w >>130
現在2時間で撮られてる映画は本来90分に収まるべき映画だと言いたげではあったけど
スピルバーグのようなアクションシーンは上映時間は伸びるが質を低下させはしない、とも言ってて
転向になるのかな
『HiGH&LOW』も見て評論して欲しいなと思った 中上作品の萌えかあ
土方の女房(バシタ)みたいなのばっかであんま出てこないな
千年に出てくる修験道?みたいなのやってて春をひさいでるのとか奇蹟のタイチがさらってきて情婦にする白痴みたいなのとか >>133
だって悪いけど90分以内に何の根拠もないでしょ
かつてその長さの傑作が多くあったってだけで
蓮實が90分ですよっていうからはあそうなんですねと神妙な顔して聞いてたわけでw
じゃあ最後まで言いきってよってなるよね
なんだったんだあの神妙な顔して聞いてた時間はって そろそろメンヘラ系が好きなのがバレてきてるな
今惚れてるのもメンヘラだし >>129
フットワーク軽いし元気も元気、ネトフリやU-NEXTもどんどん見ろって言ってる
オリヴェイラの106歳超えあるなw アンリ・ラングロワも
「評判のいい映画だけを見てるようじゃ見る目は養えない」
って言ってたらしい。 >>136
ジョン・フォード自身が『幌馬車』がお気に入りで
上映時間もこのくらい(85分)がちょうどいいと言ってたのがベース
ハスミンは『勝手にしやがれ』を紹介するときも
ジョン・フォードの理想より10分ほど長い映画、とふざけて紹介してたくらいだけど
そんなに90分原理主義的に言ってることあった?
映画には90分タイプと180分(?)タイプがあるってのは映画評論でいわれてて
別段蓮實オリジナルではない 作家の小林信彦が
「古い映画を見ていると話の運びが実に段取りがいい。○○から○○までの時間がわずか○分で語られる(むろん意訳です)」
みたいなこと書いてたけど、たしかに昔の映画は編集の妙というか、だらだらとした描写がなくてテンポがいいと思う。 >>141
原理主義的には言ってないかもしれんが頻繁に言ってきたとは思うぞ
特にその二つに限らず120分も150分も240分もあるんじゃね?
勝手にしやがれは90分ちょうどでしょたしか
89分だっけ?違ったかな? お詫び。
國分功一郎さんが、マルクス及びマルクス主義をたいへんに勉強していることを知らないで、
20年近く前の同氏のイメージでもって、おかしなことを書いてしまった。
おわびします。 千葉雅也さんについても、似たような不勉強による誤解に基づくレスをしてしまいました。
こちらもお詫びします。 半日かけたギャグやなw
言いたい放題言って最後に謝る
ええやん♪ >>143
だから蓮實重彦オリジナルではないからね >>148
うんだけど「90分」を日本であえて啓蒙したのは蓮實でしょ
30分あるいは60分単位なんて所詮フォーマットに過ぎないわけだし よかよか
5ちゃんの恥はかき捨てじゃ
そんくらい國分氏も千葉氏も有名税じゃ
訂正してるのはなおよか >>148
つか、オリジナルかどうかって
そんなに大切?
蓮實っちも自分の考えをさらっと言っただけで別に「おれのオリジナルの理論を聞いてくれ」なんてイキって鼻息荒く発言したわけじゃないと思うで。 >>149
うんだけど「所詮〇〇」「たかが〇〇」なんてのは遅れて生まれてきた人間の戯言でしょ
なんだか自分ならもっと凄いことができたんだと言わんばかりでちょっと恥ずかしい >>151
同じことを言ったつもりだったけど
上手く言えず申し訳ない >>152
なんで急にキレてんの?w
時間配分について遅れて生まれたも凄いもクソもなくね?w
元々単なる様式じゃんw
ホントに何らかのメカニズムでもあるならどうぞ好きなだけ言ってくだせえよ
変なやつwwww >>93
あー肝心な存在論的出してたか
おみそれしやした >>155
そもそもフーコー出しまくってるからねえ >>95
自己レスすまそ
>学内では(略)気くばりの人で協調性を発揮してたんだろう
これに近い証言があったような
ソースなし 「蓮實 90分 映画」と検索しただけでももろもろの発言が出てくる
アホのふりさえできれば5秒で済むことや
「90分」ってのは90分前後の数々の名作を踏まえての
蓮實個人の感覚的にして便宜的な指標でしかなかった
もちろん80分前後、100分前後の名作もあると分かりきっているのに
指標として持ち出すのはいつも「90分」
これは「所詮」一映画批評家が映画作家や観客の啓蒙のためにはじき出した指標に過ぎない
ttps://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2019/04/25/232423
↑のブログによると黒沢清が100分を超える映画を撮ったとき蓮實に謝ったという
蓮實は「別にぼくに謝らなくてもいいんですが」と言ったというが、当然謝らなくていい
ここで謝ってしまうというのはこの「90分」という指標が機能していたという一つの例証よ まあ呆けジジイなんで勘弁してくれ
最近はすっかり認知機能が衰えてきとるんじゃ 闘争のエチカで柄谷が神聖喜劇褒めたら蓮實は読んでないって言ってたじゃん
それでも批評家やっていけるんだから蓮實のヲタク的な煽りを気にする必要はない >>161
あったね
でもあれ80年代半ばの対談でしょ、刊行は80年代後半だったと思うけど
もう読んでるかもしれないよ
柄谷だって読んだばかりというテンションじゃなかったっけ? たぶん好みじゃないかな
その後も全く言及してない
舎弟の絓秀実と渡部直己は大西巨人信者だけど 大西巨人のエクリテュールはハスミンの好みからすると明晰に文節化されすぎてる
というか、文節化の鬼みたいな人だから
ハスミンはもっと混沌としたエクリテュールが好きだから 神聖喜劇がカッパノベルスで刊行開始は78年から
闘争のエチカは88年
10年くらい経ってるよ たしかに蓮實がいわゆる「近代文学」世代で評価してるのって藤枝静男だけだよね
他はなんかトラウマでもあるのかってくらい触れたがらないな
映画と同じで好みといえばそうなんでしょうな まあでも伯爵夫人と神聖喜劇と上で挙げられてた死霊と並べたら
伯爵夫人が3段くらい落ちるよね >>164
大岡昇平褒めてるじゃん
ボヴァリー夫人も混沌とした文章じゃない
俺は両方とも好きでもないけど 別に本当は肯定するか否定するかに関わらず神聖喜劇も読まずに日本文学語るのかなんて蓮實的なケチのつけ方する気はこれっぽっちもないけどねw
別にそれで蓮實の批評の価値が落ちるとも思いませんしw 逆に柄谷行人は明晰なエクリテュールが好みだからどハマりしたんじゃないかと >>170
そうなると蓮實は特に後期柄谷もあんま読んでないってことになりそうだけど
知り合いだから無理して読んだかな…?
柄谷も蓮實読んでなさそうだけどねw 柄谷はたぶん絓か渡部のどちらかに教えてもらってあとから発見したのでないかな
※独自研究 >>172
あの二人は強敵(とも)として認め合ってるだろうけど両人とも相手の仕事には突っ込みたいところはかかえてるだろうね
これに吉本と江藤を加えてもいい 大西巨人のリゴリズムもはっきり言ってあんま好きじゃない
探究までの柄谷行人がいいなってとこは頭が良けりゃなんでもいいじゃんて感じなところw 柄谷は内心蓮實の仕事なんて屁とも思ってないでしょ
対談とかだとお付き合いで適当に合わせてるけど 蓮実重彦と吉本隆明を強敵(とも)というのならばわかるが、
ワンランク下の柄谷行人なんかを強敵(とも)というのは間違いだ。 たぶんどちらかが亡くなれば残ったほうは強敵(とも)だったと思うのでは
ゴダールの「フランソワ...」みたいなもんだな
失ってからじゃないと気づかない想いもある
↑
かなりクサい 批評家が、なにか「理論」ぽいことを書けば、レベルが高いと思うというのは、
おこちゃまの錯覚に過ぎない。
たとえば、四方田犬彦は、スーザン・ソンタグの亡くなった時に、
彼女が同時代の女性知識人たちと比べて卓越していた点は、(クリステヴァなどと違って)理論を提示しようとはしなかったこと、
といったものである。 >>175
大西巨人はリゴリズムを追求し過ぎてそれがヒューモアに反転してて、で、たぶん書いてる本人は大真面目で笑いを取ろうとしてないんじゃないかというところが笑いを誘うと評価されてるんだけど、リゴリズムがもともと好きじゃない人が苦手にするのはわかりますよ 蓮實は柄谷の探究T・Uは物凄く評価してる
柄谷は蓮實の著作はさっぱり興味ないのはわかるw まあでもあのしつこくて几帳面すぎる説明は笑いがどうとかよりもこっちも真面目に読んじゃって十分面白い 内省〜探究の頃の柄谷ってデリダ、ド・マンら脱構築派に近づいてたけど手つきはフーコーっぽかった気がする、剛腕というかね 「隠喩としての建築」から後ははしょうもないね。「探求」はゴミ。「カントとマルクス」でいいのは序文だけ。
「世界史の構造」なんてほとんどギャグとしか思えない。 私たちが天皇制から逃れられないのは
「評価眼が優れている人が一番偉い」という価値観が骨の髄まで染み付いており、
その頂点にいるのが天皇だからである。 蓮實の『戦闘の光景--柄谷行人「探究」1,2を読む』って俺は未読なんだけど単行本に入ってるんだっけ? 「世界史の構造」を読むのだったら、
むかしの「幻想としての経済」(栗本慎一郎)を読むほうがずっといいだろう。 最近の柄谷はあんま興味なくて読んだり読まなかったりだけど哲学の起源は面白かった
真面目な研究者からしたら物凄く胡散臭い本なんだろうなあとは思うけど昔の柄谷っぽさが突然復活したみたいで面白いw 柄谷の家にダイ・ハードのビデオがあったという東の証言
意外すぎて笑った
家族のだろうか
そういうファンシーな生活臭出さない男だもんなあ >>189
それしょっちゅう言われてるけど家族のでしょw
家庭持ってないやつくらいでしょ、そんなの伝説みたいに言い続けてんの 「ダイ・ハード」は傑作じゃあないですか。
「グレース・ケリーと手を携えて去っていくジョン。ゥエインというわけにはいかない」といわれて、
「ばか、ゲーリー・クーパーだ」という名セリフもあるし。
しかし、ブルース・ウィリス出演作ならば、
テレビシリーズの「こちらブルームーン探偵社」(意外と知られていないがメタフィクションの要素が多い)のほうが
もっと好きだけれども(ただし、シビル・シェパードが主演だから、ということがある)。 >>190
おれは自分のだと思うね
隠してるけどそういうかわいい面があると見た ブルームーン懐かしいな
そうかあれブルース・ウィリスだった言われて思い出した
ウィリスはパルプみたいなインディ系(?)の作品とかシャマランの作品にも出てたりダイ・ハード1みたいなメジャー系の傑作にも出てたりあの時期はアメリカの役所広司(の一時期)みたいな活躍だった 参考
Hans: This time John Wayne does not ride off into the sunset with Grace Kelly.
John: That was Gary Cooper , asshole! 小説や映画ならストーリーや作者の思想、野球だったら勝敗つまり意味から逃れたい蓮實としてはテマティックな批評は自身の志向に合致した福音だったんだろうな
しかし所詮意味に対する無意味な戯れであって芸は達者でもそこが蓮實の圧倒的なつまらなさなんだよな
意味ー無意味というベルギーの閉域からジャンプすることがない >>141
180ではなく140、いわゆる90分と140分の戦いな
人間の集中力は20分しか持たないから
15分ごとに刺激を与えていくブロックバスター映画とは違う
映画ならではのタイム感、その目安が90分 「ある娼婦の回想」のファニーちゃんに萌えないとか人としてありえませんな
人でなしですわ ジェイン・オースティンは意外と萌えキャラは出てこない
勝気なビャッチが多い
強いて言うならマンスフィールド・パークのファニーちゃんか 存在論的が手元にないんで新潮社は文庫にしてくれんかのう
バードカヴァーを買うのはめんどくさい あれかな、作者が文庫化を拒否ってるというやつか
ちがうか、もともと新潮社は学術書を文庫にしないのもあるか とてつもなく昔から思ってて、リアルでもネットでも誰にも言ったことないんだけども、文庫って一定期間ページを開いてないのとかページを切っても放置しておくと小口がガビガビになるやん?
本屋で売ってるのもガビガビなのが多いし
あれは買う気にならなくて増刷を待つんだけど何年も掛かるとか増刷される前に品切れになるとか
あれなんとかならない?
2021年なんだからいい加減改良しようよ 本屋はまずちゃんと掃除をしてホコリをなくしてこまめにページを開けろと
不良品を売ってるのと同じだろ
↑
これをしても改善されるか不明 でもページを開けろっつってもあんまべたべたしょっちゅう店員が触るのも気持ち悪いしな
難しい問題だわ >>208
電子書籍のがストレスないよなー
汚れないし劣化しないし 昔から愛読してるフランス書院の文庫が3冊あってそれはキンドル?で買ってみたんだけどいい感じだ お前らフランス文学語るんなら綺羅光のエクリテュールに耽溺できるセンスがないと話にならないからな? 実は初めてたけし映画を包摂的に論じて北野武論のエポックとなったのは阿部嘉昭の北野武VSビートたけしなんだよね
これは94年に出版されてて、その男と3-4からソナチネまでの三部作を論じてて大体その後のたけしを論じる際の論旨はここで提出されている アンゴラ村長が熱烈な殿ファンで大学の卒論が「映画監督北野武とコメディアンビートたけしについて」だったつーね
でもさ、もともと松本に気に入られてたのに、殿ファンだとかカミングアウトするから松本(吉本帝国)が気分を害して干されちゃったんじゃねーの
ウチ(オフィス北野 現TAP)は力ないし 蓮實と澁澤って
絶対気が合わないよね。
蓮實の文章読んだ後に渋沢読んだら
「読みやすっ!」ってなるけどな。
澁澤龍彦の大好きな10篇
サド『悪徳の栄え』
メリメ『イールのヴィーナス』
フローベール『聖アントワヌの誘惑』
リラダン『未来のイヴ』
シュオッブ『架空の伝奇』
ロラン『仮面物語』
ジャリ『超男性』
ルーセル『ロクス・ソルス』
アポリネール『月の王』
マンディアルグ『大理石』 >>218
面白いのは蓮實が好きな小説は読みやすいけど
澁澤の好きな小説はちょい読みにくいっていうね
逆転現象起きてるねw 「マゾッホとサド」が出てから、
渋沢のサディズム・マゾヒズムについての理解が変わったのかどうか、
いままで気にしたことがなかったのだが、いま急に気になった。
渋沢、三島のSM理解(ふるくは江戸川乱歩も)というのは、前期フロイトのSの内向化がМ、後期フロイトのМの外向化がS、
というクライン、ラカン、あるいは、ルネ・ジラールなど、そして柄谷あたりも踏襲していたものだったと思うが、「マゾッホとサド」は、SとМを切り離した、
蓮実本人の言葉だと「無関係」としたところが新味だった。
ところで、「О嬢の物語」の渋沢の訳文は、日本文として最高のものの一つだと思う。 渋沢→三島的なサド侯爵の乱行に「無垢」を見出すような観点、
いわば疎外論的観点、それを解体した蓮実重彦と前期柄谷行人の功績は大きい。
(なお、中後期の柄谷は、上述のように、「攻撃欲動」云々の理論を取り込んだせいで、逆戻りしたようなところがある) ゴダールは早く社会主義にハマったときの自分の映画のせいで何百、何千という若者たちの人生を壊したことを謝罪すべきだ 蓮実重彦が、東大総長時代に、ジジェクもどきの安易な精神分析的映画評論が
「鬼の居ぬ間に」的に日本でも流行ったが、
同先生が論壇に復帰して以降はなりをひそめた。
やはり、そのような「怖い人」としての存在感は貴重なものである。 >>223
確かに「怖い人」は必要なんだよ。
時代小説の傑作「吉原御免状」で有名な作家の隆慶一郎なんか小林秀雄が生きてる間は書けなかったから60歳で作家デビューしたなんて話もあるんだから。 >>223-224
>>85で書いたことを裏書きしてくれるレスだ >>225
隆慶一郎の話は噂話とかじゃないからな。
自分の知らなかったことを全部ガセネタ扱いする今どきの若者こわいわ >>159の「黒沢清が100分を超える映画を撮ったとき蓮實に謝ったという」と同質の話だね
天皇にビクビクすることで被虐的快感を得ている人たち >>227
そんなつまんないこと言う前におれがあたかもいいかげんな妄想ゴシップを語ったかのようにほざいた無礼を謝れよw >>202
文庫で出してくれたら3冊買うっての!
ジャンジャン! 宇佐見りんちゃんこのやろ!
コー○ン舐めさせろ!
印税でロレックスサブマリーナデイト買ってくれ! >>226
俺は信じるけど>>225はアンカミスじゃないかな
>>85書いたの俺だしあんたコテハンじゃないし 「信じる」とかじゃないんだよなー。
作家本人の言ったことなんだから >>232
俺の言い方なんてなんでもよくね?w
そういうときはあんたのほうから出典示す方が話は早い
とにかく>>225の人が言ってる一文は俺が書いた>>85とはおそらく関係ないよって伝えたかっただけ
あとは勝手にやってw まー、どうでもいいわ。
バカのくせにおれに話しかけるなw 電波系の基地ガイって
実際会ったら気弱な童貞だったりする。
ネット番長、ゴクロウサンw >>234
昨日俺にコケにされて悔しかった人の自演かなんかか?w
>>225と>>227もID違うやつなのに同一視してるし
ただの頭のおかしい人ならキモいだけなんでもうスルーするよw IDが違う別人であっても
おれに言ってきてることなら
レスしても問題なくね? 隆慶一郎は父ちゃんが好きだったから全部家にあったな
吉原御免状はヒロインがロリで10歳(?)とかそこらで主人公と結ばれるんだよな
あれは犯罪だわ >>237
急にしどろもどろだなw
別人に>>228みたいにいきなり謝れって言うのお前?w
ただの迷惑系の当たり屋じゃん
ま、キモいからもういいやw そもそも
たかだかアンカーミスだぞ
そんな鬼の首取ったようなデカイ態度でそれを指摘するかね、ふつう?
おれだったら
「あ、この人アンカーミスしてる」
くらいですませるけどな。
なぜなら、それはミスだから。
おれは1ミリオンも傷つかないから。 「男たちの挽歌」シリーズは今更たいして見たくないけど「おホモたちの挽歌」シリーズは見てーな
殿撮ってくんねーかな おれはJaneStyleというアプリ使ってんだよ。自分に何かレスがきたらピンクに色がついたレスがきてるわけ。
それ見て反応してるだけだから
IDがどうのとか気にしてねえんだよ >>240
アンカミスしたのお前なの?つまり>>225はお前の自演なんじゃんw
俺は225の人や>>227の人が変な奴にキレられてて気の毒だなと思ったから指摘しただけだよ
225が不注意なだけだとしてもね
>>85書いた俺からしたら225が誤記のせいでキレられてるって思うでしょ
お前が悔しすぎて俺にかまってほしかったのはもう十分伝わった
でもキモいからもう絡まないでね
ミリオンでもミリでもどっちでもキモいよw マツコ・デラックス率いるシンジゲートに属するスナイパー氷川きよし見たい
IKKOが対立する組織の首領
ヒロインは槇原敬之 音楽は全編レイクォンのOnly Built 4 Cuban Linx...でいいよ ↓の二つの批評は優れており面白い。ただし、蓮實およびそのファンに対するアンチの立場から書かれている。せれでも、ぜひ読んだほうが良い。
survival as heritage: 蓮實重彦について2
https://survival-as-heritage.blogspot.com/2013/09/2.html
2013/09/02 · 精神分析で言われる転移の局面は映画批評のみならず批評ではしばしば生じることなんですが、蓮實圏域では特徴的な現れ方をしていたわけです。 経験・記述の話を踏まえると、よく言われる「作品内在的である・ではない」承認は、その上記の賦活形式の話なんだろうと思うわけです。
蓮實重彦の功罪とは「演劇」を論じなかったことである。 – 新 ...
school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/...
2017/12/18 · 1.蓮實重彦の功罪 蓮實重彦を知らない批評家はモグリだ。と言われているのかどうか知らないが、その言説の影響力は絶大なものであったことが、例えば木下千花の「読者であれ学生であれ、少なくとも映画を見る経験そのものに関して、このように強い内面化を伴う影響力を行使した映画批評 主人公(氷川きよし)の敵役となるライヴァル組織の寡黙な殺し屋はペット・ショップ・ボーイズのクリス・ロウで(作中一言も言葉を発しない)
氷川が立ち寄る牛丼屋のシーンでは千葉雅也がカメオ出演
壁にはミシェル・フーコーの肖像写真とブエノスアイレスのポスター >225の
>85は>185の間違い
>85さんごめんなさい
変な表記になっているのは>>だとエラーがでるため 町山智浩なんかより
樋口尚文のほうが遥かに映画を見る目があると思ってるのはおれだけ?
樋口が大昔に書いた
「ポスト・ヌーヴェルバーグ」という本は才能の塊だった。
最近では「秋吉久美子 調書」というのを出してる。 最近では菊地成孔じゃないの?
チラッと見ただけだけと、遅れてきたハスミンフォロワーの趣きがある 菊地は蓮實より平岡正明とかそっち寄りじゃないかな、文体的に 美輪先生は悪の総元締めの民心党の幹事長
カルーセルはヒロイン(槇原敬之)が働くオカマバーのママ >>255
ハスミンの影響受けてるかわからないけどw でもストリート系クライム映画に政治家が出てくるとつまらないから美輪先生はほかの役でお出ましいただきたいな 学生8ミリ作家でもあった樋口尚文は90年代に「転向」した。
若い頃の文章はいかにも蓮實の影響下にあるような(確か早稲田なので直系ではない)生意気なもので、藤田敏八や大島渚に関しての文章は冴えていた。
「球体」と「破片」というキーワードには安易さも感じたが、それは当時から本人も認めていた。
貶し方も作り手を怒らせるに違いない断定的なものだった(例えば十階のモスキートなど、崔洋一が読んだら確実に殴られる)。
80年代末あるいは90年代初頭に出た「映画の復讐」辺りを読むと、そういった要素は陰を潜め、小馬鹿にしていたはずの大林らに対する評価はガラッと変わっていた。 誰かの文章で、蓮實があまり評価しなかった作家たち(大林、喜八、市川崑、実相寺…)に影響された現代日本の監督たち(典型的なのは庵野)
なんてのがあったが、転向後の樋口尚文の文章はそこら辺の出現に先駆けていたような気がする。 大林って編集のテンポが速杉になってから(それがまったくセンスがない)駄目駄目ですな
市川崑のやたらチカチカした繋ぎもまったくセンスがなくて同類 スラヴォイ・ジジェクといえば
「イデオロギーの崇高な対象」というラカン論の文庫本を持ってる。
たぶんまだ家にある。
あった。この本の後ろにある大澤真幸の解説を先に読んでみると、
「本書の第二部の3、[汝何を欲するか]の章を読むといい。そこは「ラカン何を欲するか」の章だと言ってもいいくらいだ」
と書いてあったのでそこだけ読んだ記憶がある。
全部明晰に理解したけど解説は他のエロい人に聞いてくれ。 >>249
レイザーラモンRGには、カリートの道のBDを渡して、「これのショーン・ペンを参考にしてくれ」と伝えるしかない ちぇっ、また、あぼーんされた。
基準がまったくわからん。
べつにお●んことか書いたわけでもないのに! 主人公(氷川)のメンターであり、伝説的な殺し屋がダイアナ・エクストラバガンザ(今は病床に伏せっている) >>265
ヂェーンだったら、セーフモード(自動あぼーん)解除しといたほうがいいっすよ 岡本喜八のあの独特なノリ、テンポも見てると恥ずかしくって駄目だ
ダイマーイト、ドンドン!!!とかやられると赤面してしまう >>7
蓮實は文学方面は2流だと思うけど、映画批評に関しては本邦では一流だと思うよ そういや今ほとんど本持ってないんだけどジジェクのその文庫持ってる >>16
蓮實は批評家としてはジャン・ドゥーシェが好きそうだよな >>260
蓮實の影響下にある?
そうかな?
当時はまったくそう思わなかったよ。まあ、若書きの論文だから多少は何かしらの真似になってたかもしれないけど、何しろ扱ってる作品が蓮實とはかぶってないからね。
言ってることに借り物のパッチワーク的な臭みはなかったけど。
実はポスヌー以降は読んでないから転向したとかはまったく知らんかった。よく読んでるね。 蓮實重彦のオールタイムベスト10
『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン、82)
『捜索者』(ジョン・フォード、56)
『エル』(ブニュエル、52)
『ヴァニナ・ヴァニーニ』(ロッセリーニ、61)
『黄金の馬車』(ルノワール、52)
『イワン雷帝』(エイゼンシュテイン、44)
『東京物語』(小津、53)
『飾窓の女』(ラング、44)
『めまい』(ヒッチコック、58)
『西鶴一代女』(溝口、52) おれことダンカンもスニッチ(密告屋)の役でチラッと出てくる >>275
そんな人、知らんかった。
Amazonで早速注文しとくわ >>277
このなかで「えっ!」って思ったのは
「ラルジャン」
「ヴァニナ・ヴァニーナ」
「飾り窓の女」
の三つですかね 樋口尚文は筑紫哲也の「若者たちの神々」の二番煎じ企画「新人類」でも取材(他には中森明夫、藤原ヒロシら)されていた。
発言内容や出てくる固有名詞などから、蓮實批評以降の若手という感じは明らかだった。 藤田敏八映画の最高の場面は「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」のクライマックス。
ヘリで団地の上をふらふらの辺りは蛇足。
蓮實は岡本喜八についてあまり言及してないが「結婚のすべて」を観た時は驚いたと語っている。
これは蓮實が批判する「キャロルリードの影響で日本の若手たちがみな細かいカットを割りテンポを出した(つもりの)」系統だが
40分ぐらいの上映時間なので観てられるということか?それとも学生時代に観た時の感想だからなのかも。
岡本喜八全てが苦手ではないけど、川島雄三「しとやかな獣」のロカビリーと念仏(記憶違いかも)を組み合わせた場面の野暮ったさに近いものを感じる。
「ああ爆弾」「殺人狂時代」など、話だけ聞くとわりかし面白そうなのに実際観てみると… >>262
黒沢清の10分の1ほどもセンスがあればこんな馬鹿なことにはならない 80年代の黒沢清は本当に地味な存在で
「なんだこりゃ?わけわからん」という否定的な騒ぎにさえならず(にっかつ内ではともかく)
80年代デビューのスター監督たちに比べて認知度でははるかに遅れをとっていた。
ただ、一部の批評家が書いた単行本(リアルタイムでの評価)が今もわりと残っているせいで、当時から(少なくとも映画メディアからは)前途ある若手のように見做されていたと誤解する者もいるだろう。
あの時代は各分野で目新しそうな存在が次々と注目され祭り上げられていたのに、そういう華やかな?世界とは縁がなかった。 90年代に突入しても、例えばキネマ旬報の読者投稿欄にはこんな事が書かれていた。
「日本映画期待の星は周防、北野、阪本と松岡で(中略)
黒沢清はいつもアメリカ映画とか言ってはいるがその内容はアメリカ映画とは程遠いもので…」 黒沢清は初期は大したことないですからな
本物の作家として現れたのは97年
後輩の青山より1年遅い
その間何があったかというと、十字路で悪魔と出逢って魂を売り失踪、そして戻ってきたロバート・ジョンソン伝説と同じ黒沢清伝説なんですよ
今も謎とされている 主人公(氷川)のマンションの書棚には三島由紀夫全集が並べられてらいるのがチラッと写り込む マツコ・デラックスの恋人役でリル・ナズ ・ベイビー 綿矢りさは『蹴りたい背中2 食べたい最中』と『蹴りたい背中3 ヤりたい田中』を書いてトリトロジーを完成させないとだめだっての! ベルギー・コネクション(浅田彰)
日本野球浪漫派(柄谷行人) >>262
本人もアホな客もあれがスタイリッシュだと思ってるんだろうなあ
可哀想 >>285
本人も書いていたけどCUREの逆輸入でブレイクしたんでしょ 美輪先生は主人公(氷川)が育った教会の神父にしよう 久しぶりに来たんだが、昔いたバルダミュとかいうコテハンは消えたのか?
かわりに新たなクソコテが跋扈しているが >>285
役所広司「黒沢監督の噂は聞いていた。すごい若手の監督がいると業界内で評判だった。キュアでご一緒できてよかった」 >>271
日本のいちばん長い日とかは面白い
カット割も素晴らしい 青山真治も「黒沢清が天才である事を一度も疑った事がない」って公言してるよ。彼は立教に通ってた頃に黒沢清の映画を当然見てるだろうから、その頃からだよな。 皆さん的には、是枝監督はどうなのですか。
怒られるかもしれないけれど、わたしとしては、「ダゲレオタイプの女」はつまらなかったが、
同じフランスが舞台でフランス人の俳優(ホークはアメリカ人だが)をつかっている、
「真実 La vérité」は、とりたててどこがるどう素晴らしいというわけではなくとも、
わりとおもしろかった。また見たい気がする。しかし、だらだらしていたので、上映時間が90分ならなおよかったと思う。 是枝はかなり黒沢清の影響受けてるな
例えば、なんか写してすぐにパッと切り替えて映さなくしたりする技術とかは参考にしてる
三度目の殺人で福山が地面をホジホジするところのフェティシズムとかその地面から出てくる鳥の死骸を映さないとか かといってそんなとんでもない傑作を撮れる人ではないな
よくもわるくもフツー 「イデオロギーの崇高な対象」の文庫版の感想で、
ひじょうに言い得ている優れたものがあったので、
参考までに引用しておく。
井蛙
ポスト構造主義者たちは、テクストとその解釈を同一の地平線上に置き、あらゆるテクストをそれ自身の解釈を含んだ無限の連続体に置き換える。このような主張においては、すべての玉石混淆たる読解が審美的な次元に平準化されてしまう(そしてこの操作の裏には、ポスト構造主義者たちによる〈メタ言語〉の専横が隠匿されている、というのがジジェクの批判である)。一方ラカンによれば、テクストはそれ自身の不可能性を結晶化した対象の現前によって、その同一性を「遡及的に」担保されるのである。この対象こそがシニフィアンとしての男根なのだが
(以下略) 黒沢清は本人はまったくフェティシスト的人間ではないんだろうが、作る映像はフェティシュとして鑑賞できてしまうのが面白い
あるいは意外とフェティシストなのか ところで、脈打つダンカンさんの映画原案のキャスティングの統一性とその配置は見事です。 ハスミンは監督小津安二郎に「舐めること」「掘ること」「しゃぶること」の3章を追加して二度目の増補改訂版を出さないとだめ >>290
リル・ナズ ・ベイビーじゃないやリル・ナズ ・X
似たような名前のラッパーが多いから間違ってしまった >>308
斜視、もとい蓮實の論法は
ともすれば名前負けならぬ
主題負けしたサムいものに
なりがち。
蓮實エピゴーネンあるある言いたい >>310
まあ批評あるいは皮被りの祭典ですからな 蓮實重彦の伝説のデビュー作『批評あるいは仮性包茎の祭典』 ダンカンとかってやつは頭おかしいのか?
延々とレスしてやがる 基本過疎だし、いいじゃないか
詳しい人のようだし
否定したいなら、内容で否定してあげて レイザーラモンRGを起用してるのは、時節柄ポリコレに配慮してヘテロの主要キャストを1人入れないといけないのと、プロデューサーと脚本家による「絶対にこの役はレイザーラモンRGさんにしかできない」っていう強い意向があるからだよね >>314
詳しくはないです!
78%くらいはテキトーです! 最近の若者は海外文学を読まないらしいね。道理でつまらない芸人がちやほやされるわけだ。
見栄を張ることの愉しさを知らないんだな。おれなんか若い頃はわかりもしない難解な本を買ったり読んだりすることが無上の悦びだったけどな。
本棚を眺めてうっとりするんだ。
理科系から文系までジャンル横断的にいろいろあることがこだわり。
文系ばっかりとか死ぬほどダサいからね。 さておれの自伝七部作、『ダンカン自身によるダンカン試論序説I 破』、『同II 死の理論』、『III 無言劇』、『同IV 鏡と鏡』、『V 暴力の虹』、 『VI ニルヴァーナ』、『VII Takeshigundan Forever 』の第一回配本として『IV』の刊行が近づいて参りましたが
ネットや書店等でのご予約お願いします 浦和レッズの槙野智章がIKKOの運転手役で
主人公(氷川)の弟役が羽生結弦
ともに教会の孤児院で育ち、氷川が黒社会で得た金で大学に通いフィギュアスケート部に所属している
弟の練習風景を人知れず見つめる氷川
かすかに流れるクイーンの曲
(弟は兄が黒社会の人間であることを知らない) 真面目であり不真面目、ホットでありクールを奇跡的なバランスで体現するゴダールやフランシス・ベーコンやセックス・ピストルズと比べるとロブ=グリエや蓮實はクール一辺倒なんだよな
もちろんあれはゴダールやロットンみたいな天才にしか許されない立ち居振る舞いなんだけどね 氷川のマンションの階下の部屋で暮らす夫婦役に阿川佐和子と檀ふみ 蓮実を読むと何かを鑑賞させたくなる文章を書くのが上手くなる
それだけ >>248
カメオ出演といっても、主人公(氷川)と千葉雅也による、女と男のいる舗道のアンナ・カリーナとブリス・パランを彷彿とさせる、8分50秒にも及ぶ晦渋で詩的な哲学的対話がある@牛丼屋 主人公(氷川)とヒロイン(槇原敬之)の出逢いは、氷川が図書館で丹生谷貴志の光の国 あるいはvoyage en vainを手にとったところ、槇原が「あ、それ…」と話しかけることから始まる 蓮實の太鼓持ちだったのに離反し、デマをばら撒いてでも蓮實を叩いていたのは四方田。
無名時代の蓮實に積極的に書かせ「スター文化人」への道を歩ませるきっかけを作った一人だが、晩年は蓮實の悪口を書いていた自称スーパーエディター。
山田宏一とも(蓮實はそれを望んでなさそうだが)長きにわたり絶縁状態?
伊丹十三。
小林信彦とも、互いの文章に親しみのある感じで名前を出していた頃はあったが、いつの頃からかパッタリと言及が途絶えた。
おすぎも「蓮實重彦さん」と慕うような感じで語っていた時期はあった。リュミエールにはおすぎの原稿も掲載されている。
ネットで読んだ記事だが、ソンタグに本人がすごく気にしている事を言ってしまい「しくじった」経験有り。
それからずっと後に、それとは無関係な対談で「それじゃあソンタグもさぞかし困ってるでしょう」という相手の発言に対して「だって彼女はバカだもん」 ソンダクとの対談で、美人だと持ち上げたら、そういうの勘弁してくれ(ウンザリ)的に対応された奴ねw サウナの一室で凄まじい銃撃シーンあり(氷川は一汗流す時にも銃を手放さない) >>332
ハッテン場(ストイックな氷川はハッテン場では出逢いを求めていない) 文学界の特集「私の出会った文豪たち」の金井美恵子の文章は面白かった。
若い頃のこの手の内容のエッセイでは非モテ女の屈折したモテアピールみたいなものをたびたび感じたものだが… 淀川「とりあえずサウナに行きましょう」
シュワ「…………」 2017年に出たハスミン特集のユリイカ欲しい
来月の給料で買うべ 淀川長治Wikipediaの、片腕の少年ファンに対する非礼を悔恨するエピソードって実話なのかね?
「愚かなる妻」にこんなエピソードあったはず。 浅田彰が「僕は映画にしか興味ない人間ではないのでw」とか言ってたけど、これって蓮實への当て付けかな? 蓮實重彦は、原節子追悼文で、「新しき土」についてほとんど触れなかった。
しかし、四方田犬彦のほうは、「後日彼女は西洋人風の体躯と容貌をもった女優として日本で神話化されるが、ここではオリエンタリストとしてのファンクの夢を十全にかなえてくれる『典型的日本女性』として出現した。
日本人はその後も、彼女をめぐるこの映像の矛盾につきあわされることになった。
ともあれ原節子はファシストの美少女として、三〇年代後半から戦時中にかけて大きな活躍をした」(四方田犬彦『日本映画史110年』集英社新書 2014年p.97f)
といったことを書く。
どっちがいいか、というのは、なかなか難しい問題である。
なお、ファンク監督は、女優時代のレニ・リーフェンシタールの初主演作も監督しているということを、
今日知った。 ニブヤの文章は面白かった(ショーケン特集でも)けど、90年代に映画芸術に寄稿したやつの方がわかりやすい。 現状ファシストの美少女原節子は消されてるようなもんでしょ
戦中期の原節子の映画なんてほとんど見る機会もないし・・・ >どっちがいいか、というのは、なかなか難しい問題である。
そういう問題設定をするのがおかしい 李香蘭のほうは、原節子と違って、「逃れられない立場」だったので、
気の毒といえば気の毒だ。 >>335
野坂昭如「文壇」で描かれた金井は典型的なメンヘラだった ヤスケンは「海外文学の文庫ベスト100」とか「ミステリーベスト100」とか「西部劇ベスト50」とかやたらとベストなんとかの記事を作る人という印象
あと金に汚くて自分が持ってた作家の原稿を売っ払ったとか 原節子の映画「新しき土」(1937)
↑で検索すれば、いくらも動画が出てきます。 原節子は小津に惚れてたから死後行かず後家の世捨て人になったとか神話があるけど、実際は小津も小津作品も嫌ってて、もっと進歩的な女性像を演じたがってたとかいう記事を読んだことあるな
話半分に受け止めたけど 四方田は「小津と土本を共に肯定するなんて態度はもはや許されない」と語っていたが
「エドワードヤン(この頃の日本での呼び名はヤンドゥチャンだったっけ?)を捨て侯孝賢を取り、ヘルツォークを捨ててヴェンダースを取る排除と選別の論理に傾いた」
(と四方田が言う)蓮實を批判していたのはどこのだれお?
「今はもうそういう時代ではない」というのは政治発言にヒートするTwitterおじさん(おばさん)の陥る道ではないのか? 金井美恵子の本なんて
一冊も読んでなくても
何の悔いもない作家
と言いながら
「兎」と「映画 柔らかい肌」を
うっかり読んでしまったことは
墓場まで持っていきたかった秘密 ソンタグは、高慢ちきで有名だったそうで、対談相手には嫌われるタイプでしょう
山口昌夫などは、20世紀の知的冒険者たちに収録予定だった彼女との対談を、
頭にきてボツにしてしまったということがあります。
批評空間に掲載された柄谷、浅田との鼎談も、いかにも「愛想ないなー」というものです。
しかし、松岡正剛には感じが良かったようだから、全部が全部ではなく、人を見る、ということなのでしょうか。 エドワードワンを捨て
というのはまんざら四方田デマでもなく、恐怖分子の頃は否定こそしてないが「推し」でもなかったとフォローしておく。
カサヴェテスや初期イーストウッドに対しても、アルトマンあたりと並列し「現在のハリウッドでは比較的まともな」作家として語っていたが
アルドリッチ、フライシャー、シーゲル、フラーらよりは落ちるというニュアンス。
ペキンパーはみんな褒めるけど、スローモーション問題などとは別に蓮實はペキンパーの弱さ(それにこそ惹かれる者がいる事は認める)を指摘。 ソンタグって
本だけ読んでたら桁違いに頭いいし、「世の中、1番さえ押さえておけばそれ以下は読まなくてかまわない説」をとる人間のおれからすると蓮實なんか読まないんだけど、そうもいかんわな。 カーヴァーやリチャードTヘフロンなどを
通俗娯楽の醍醐味とかB級アクションの面白さなんて(誰でも言える事を)言わずにきっちり評価できるのはやっぱりすごい。
「処女の生き血」の演出が古典的と言ったのは蓮實だったか黒沢清だったか忘れたが
こういう(穿っているようでそうではない)見方を忘れると悪い意味で映画秘宝みたくなってしまう。 ペキンパーの弱さか
マイケル・マンを高く評価してるのはペキンパーの後継者としてかと思ったけど >>361
YouTubeの古いコント番組を観てると、芸人達が意外と演劇の素養があることに驚くが、そういう感じか 追いかけてるなー、みんな。
映画や映画人にまつわるエトセトラを細かくチェックしてますね。
よく考えたら、おれなんか最近は本屋にすらまともに立ち寄ってないからついていけん。 蓮實重彦と四方田犬彦の原節子についての批評態度の違いは、
極端なテクスト論的な立場に立つか、
作品制作の背景、表現者の置かれた歴史的状況、等を無視できないとするかの違いですから、
案外大きい問題だと思いますけれどね。 福田和也のような、ひとつの対象にそれぞれ矛盾する基準を導入して叩いたり持ち上げたりするような芸当ならビートたけしにでも出来るけど
それをやるかやらないかは倫理にかかわる。
福田やたけしみたいなやり方は清濁合わせ吞む複雑怪奇(チャランポランなようで知的で人間味豊かな?)な人間のように見せかけやすいし、いったんそこにハマると非常にラクだけど、それをやっちゃおしまいという考え方もある。 ソンタグなどは、「反解釈」のころはテクスト論的だったものが、
「土星のしるしの下で」のころになると、「ファシズムの魅力」というリーフェンシタール論に顕著だけれども、歴史的状況重視に変わったものです。 ダンカンさんよ、サウナのマスターは、三浦友和にしてください。 >>366
> ひとつの対象にそれぞれ矛盾する基準を導入して叩いたり持ち上げたりする
それが普通の健全なありかたじゃないか
そういうのを嫌う潔癖さは異常 >>369
マツケンは最後のクライマックスがマツケンのライヴ会場での銃撃シーンという重要な役所で起用したいですね
ライヴ→ドンパチの流れで
サウナのマスターは日景忠男に打診したかったんだけども、亡くなってた 金井美恵子は永遠のヴァージンでしょ
原節子より、金井
パンフレットに寄稿してもらうつもり 日常の言動が本人の意識を越えて矛盾に満ちているのは当たり前だと思うし、そんな事を責め立てているわけではない。 おれさ、NHKの受信料が高いなーと思う理由の一つが地上波とBSで四つもチャンネルあるわりには映画の放送がいつも特定の作品に偏ってるよな。
受信料で賄ってるならもっといろんな映画をかけてほしいよ。 金井美恵子に加藤泰から映画出演の依頼があった時の話も面白かった。
つげ義春とか楳図かずおの話も。 フレッド・アステアって、今でこそ神のように讃えられてるけどリアルタイムで見てた世代からしたら
「どれも似たようなストーリー。あんなヘチマみたいな顔でいい男ぶった役柄やるとか超笑えるんですけど」
みたいに云われてたらしいよ。 >>374
じゃあ何が言いたいの
福田和也やビートたけしが駄目って言いたいだけにしか見えない アステアは蓮實の「僕はちょっと苦手だけどやっぱり凄い」枠。
桃井かおりを「世界で最もタイトスカートを履きこなすのが下手な女優」と書いてた。 たけしは福田との対談で「今どきの若い奴らなんてみんな死んでしまえばいい」
無頼とかコワモテが売りの相手だと気負うのか知らないが、たけしと対談した花村萬月は
「なんかホントの喧嘩のやり方とかを一生懸命に語ってたよ」 ジミー・ギャグニーに対してもそんなこと言ってた
他方、エドワードGロビンソンのことは、はっきり贔屓してた アステアの映画一時期まとめて見てそれなりにハッピーな気分になったけどどれがどれだったかさっぱり覚えてないグチャグチャw >>381
最後の発言はどっちが言ってるの?
花村なら、花村が自分を大きく見せている感じだな 湯上りたまご肌と言われた桃井がよ?
が代表作
あと鬼塚球磨子 「俺は田舎のプレスリー」の勝野洋を
「真夜中のカーボーイ」のジョンボイトに匹敵するほど素晴らしいと絶賛。
自分が置かれている状況(映画の内容にあらず)を余裕を持って把握出来ず、かと言って責任を放棄する事も出来ないでいる青年の微妙な表情に惹かれる性質があるのではないか?
若い頃の郷ひろみに関しても。 花村なんてつまらんハッタリ作家にさえ脅威を抱き、リアルな喧嘩を知るオイラをアピールしたのがたけし。 三島由紀夫の晩年の表面に現れた行動は、ラディカリストのものであって、
それは保守とは正反対なのですよ。
内心でどうだったかは、他人の事なんだし、死んだ人のことですから、
詮索してもはじまらない。 渋谷陽一相手に武勇伝。
「おいら普段は他人よりかなり我慢強い方だと思うんだけど、いったんキレるとわけわかんなくなっちゃう。気がついたら血塗れのヤクザ4人を引きずって歩いてた事がある」
「FRIDAY編集部員はオイラひとりで全員ノックアウトした。やつらタッパはあるけど喧嘩の経験はないみたいで」 男の喧嘩自慢は女の厚化粧みたいなもの哀しさはあるね。
軽々しく笑っちゃいけない。 FRIDAY編集部員の談話
「たけし軍団に羽交い締めにされて、そのままビートたけしに殴られた」
しかし、キドカラー大道の回想(たけし史観にせよ)はまた違っているので真相は闇の中。
殴り込み事件からまもなく、編集部から自殺者が出ているのも不可解。 エダマミーは何するかわからず危険だからここに呼ぶな
というのは後付けの作り話。
当時は感動エピソードとして語られた「お前らをドカタしてでも食わせてやるから」というのは事実かもしれないが
「どうせ執行猶予つくからさ」と言った(これが真実とは限らないが)というのは当時は一切語られなかった。 矛盾した証言があることを以て真相は闇の中というならば実証史学の史料批判など無用であろう ディスコサウンド
ディスコサウンド
中山ディスコサウンド しかし、ビートたけしという他愛もない漫才師がずいぶんエラクなったもんだよな。日本人が簡単にひれ伏す謎の価値観「世界に認められた」監督になるとはね いっそ憲法改正して、大統領制にして、ビートたけしさんを大統領にしたいものです。
そのとき、我が国は、つい先日までトランプという方を大統領に戴いていた宗主国アメリカを超える。 たけしって、ヘッタクソな小説書いて「書いてみるとスラスラ書けるもんだな」みたいなこと言って本気で直木賞期待してるアホ。
まあ、直木賞くらいならとれなくもないか。他も大したことないし。 >>372
マツケンにはロッキー4 炎の友情のジェイムズ・ブラウンとボディガードのホイットニー・ヒューストンとストリート・オブ・ファイヤーのダイアン・レインを参考にしてもらう
ちなみに氷川には同じくストリート・オブ・ファイヤーのマイケル・パレとヒストリー・オブ・バイオレンスのヴィゴ・モーテンセンとタイガーマスク(アニメ版)の伊達直人を 天皇だったら、皇室典範の改正だけですむかもしれないから、
そうして、ビートたけしさんを天皇に戴くという選択肢もある。
蓮実重彦先生は、その暁には、侍従長になっていただく。ということで。 そしてむろん、マツケンにはデッドゾーンのマーティン・シーン演じるグレッグ・スティルソンとタクシードライバーの
パランタイン上院議員、氷川にはカリートの道のアル・パチーノ演じるカリート・ブリガンテを念頭においてもらわなければならない 初春や
餅で押し出す
二年糞
ビートたけしのオールナイトニッポン!!
たけちゃんバウバウ 本を一冊書き上げるということは考え方一つで簡単でもあるし、難しくもある。文字で四角いところに端から文字を埋めていく。アホでもできる。ただ、値段に見合うだけのものがなかなかないから大抵のものは通りすぎるのみ。 殿は文才だけはないなあ
というか全部ゴーストだと思ってた
あんな忙しい人が文章を書く時間があるのかな
名前忘れたけど公式のゴーストいたでしょ
口述筆記を文字起こしするという触れ込みの 「相手にしない」なんていうと敵前逃亡のように聞こえるだろうけど
ライフ イズ ベリー ショートなんですよ。しょうもないこと言って絡んでくる連中をいちいち相手にしてたら光陰矢のごとし、あっという間に死の床に横たわる時が来てしまう。 日本国民で先祖に天皇がいない人は、おそらく10パーセントもいない。
そういうわけで、日本国憲法第2条を改正しなくとも、皇室典範さえ改正すれば、
ほぼ誰でも皇位継承者になれるといえる。 >>378や>>396は「紋切り型」「凡庸」の見本 >>408
バカはたいてい一行だけ書いて逃げる「ピンポンダッシュの法則」w
それ以上書くと馬鹿がバレちゃうからだろw まあそもそも天皇制は中国の皇帝制度を規範としている以上は禅譲のシステムも内包してないといけない訳で理論的には誰でも天皇になれるんじゃないですかね
知らんけど かといって別にこの1000年の歴史で「この人に天皇をやってもらわないと困る」という人もとくにいなかったわけで今の皇統で全然いいんじゃないすか
知らんけど テレビで中坊みたいなやつが床屋政談してるなと思ったら驚いたことに大学の教師だというじゃないか!
日本、大学多過ぎだろ!
旧帝大以外は全部つぶせよ。 このスレの話題としては、相応しくないかもしれないが、
蓮實天皇云々という方もいらっしゃったので、いうと、
天皇に国事行為に係わる拒否権が無いというのは学説に過ぎない。
つまり、合衆国大統領は自分で自分を恩赦できないとか、あるいは、前大統領は弾劾の対象にならない、
とかというのとおなじように法解釈に過ぎないわけである。
そういうわけで、コロナ禍が終われば、財政規律の引き締めがはじまるので、
つぎにくるのが大規模増税であるのは必定である。
そうすると、消費税率が20パーセント以上に引き上げられる、なんてのも予想できるわけです。
そのときに、天皇に拒否権を行使していただくよう請願することは、べつに可能なわけです。 >>409
でもその通りでしょ
川島なお美の話題でお笑いマンガ道場ネタを出してくるのと同じ脳ミソ 日本最強のガチホモ集団である旧I軍団のタチひろしとねこ正輝をどこで起用するかだな
今日は寝て明日考えよう 00年代の傑作アクション、バッドボーイズ2に言及していない時点でハスミンはオワコンだよ
作り手に与えた影響は凄まじい
ベイはトランスフォーマーもよかった
ゴダールへの目配せもあったし >>417
○○はバカというだけで○○より上に立った気になる。なんだ、それ。
そんなガキの口ゲンカみたいことは12歳までに卒業しろよ。
まして出してくる例えがクソつまんねえこと山の如し。
頼むからもっと笑える例えしてくれ。おれは理性的な人間だからどんなに悪態ついてくるやつが言ったことでも面白かったら素直に笑うよ。
だけどおまえにはまったくセンスのかけらもねえわ。 皆さんはこういう感覚ないですか?
何かに没頭してるとふいに襲ってくる「おれは一体なにやってんだろ?」と急に魔法が解けたように醒めてシラケてくる。
おれは最近までこの感覚は誰でもあるものと思ってたんですが、病的に自己愛が強い人やIQが低い人にはこれがまったくないらしいんですな。 Fラン大学にはそれに見あった
Fラン教授が勤めてるわけでどっちもゴミなんだよ 完成度の低いアプリ作る奴って何がしたいんだろ?
変に欲張らないで確実に使える、確実に動くものだけを出してくれよ。 コスミック出版の新作DVDが2月9日に出るね。
今回はフランスのフィルムノワール? 価値判断は私たちが本来務めるべきことがら、すなわち好奇心と認識にとって有害である。
ジョン・ケージ 実は村川は生きていた!という『ソナチネ2 地獄のゲバゲバやくざ』とおれ(ダンカン)と水道橋博士のバディ・ムーヴィー『シン・3-4X10月 総ての愛しきチ・ン・ピ・ラたちへ』見たい 文学スレッドなのに映画の話題ばかりでゲンナリ
蓮實は最近ではオーストリアの作家ベルンハルトを推している 文学の話かー
それじゃあ根所鷹四は生きていた!という『万延元年のフットボール2 帰京編』だな >>422
Fラン行ったことないからそのたとえが理解できんわ
Fラン君ごめんねごめんねー >>429
行ったことないからわからない?
それって、謙虚な態度というよりもただの犬的な世界観だぞ。
ためしにビルから飛び降りてみたら?w >>425
Fラン君ってよりbotに従う無能AIのbot君
John Cage bot
@jcbotjp
価値判断は私たちが本来務めるべきことがら、すなわち好奇心と認識にとって有害である。
午前8:40 · 2021年1月26日·twittbot.net >>432
まるで引用を盗作扱いするバカwww
本からの引用はよくてbotからはダメって、それ誰ルール? もうおまえとは関わらない
バイビー!ジャンジャン!
(ちなみにこれ、たけしからの「盗作」だよwww) ここまで完全におれの連勝街道だな。
それでもまだ言い返してくるなんて!
子供のケンカは泣いてからが強いってやつかwww >>425
botの2分後に即書き込んでて草
認識も好奇心も不足してるなw 「寝盗られ小説」としての万延元年のフットボール
大江の作品には、(実際に寝盗られる寝盗られないに関わらず)常に「寝盗られの予兆」がある
マゾヒストとしての大江 ところでダンカンくん、今話題になってる映画秘宝公式の件についてどう思うよ? 花村萬月?って1冊しか読んだことないんだけど悪い意味で初期の中上を真に受けちゃったような、やたら精液とかシトゴロピが出てくるのを書く人でしょ(本気で自分はセリーヌとかジュネの影響を受けた作家だと信じ込んでる) >>439
Twitterでチラッと見たんすけど盛り上がってますね
詳しくはよくわかってないっす ベルンハルトという人は、ウィトゲンシュタインやらカントやらと、
ずいぶん理屈っぽい小説を書く人のようですね。
蓮實先生もそういうのをほめるというのは、ちょっとヤキがまわったのではないか。
「ゲルマニウムの夜」は、文芸誌に載る前に、ホモ系の雑誌に違う題名で載った作品に
少々変更を加えたくらいのものだったと思う。
出来の良しあしはともかく、
純文学界のいい加減さがわかる事例的な作品ではあるだろう。 「ゲルマニウムの夜」は、尻の穴のことを「稲垣足穂的場所」とかと書いてみたりするような、
わざとらしく衒ったところがあって、わたくしとしては、あまり好きではない。 芥川賞同時受賞の藤沢周の「ブエノスアイレス午前零時」のほうは好きですね。 そっくりさんのYOSHIKIとマリリン・マンソンと布袋寅泰でバンド組んでほしいよな
「ジ・ウマヅラーズ」 菜々緒 Vo. Ba.
YOSHIKI Dr.
布袋寅泰 Gu.
マリリン・マンソン Vo.
のツイン・ヴォーカルで スヌープ・ドッグ Vo.
も加入
トリプル・ヴォーカル というか
ToshI Vo.
を忘れたらいかんだろ
クアドラプル・ヴォーカルで 中上の小説の題名の恥ずかしさ
百年の孤独のモジリの千年の愉楽
重力の虹のモジリの重力の都
ル・クレジオ大洪水のまんまイタダキの大洪水
モラヴィア軽蔑の同じくまんまイタダキの軽蔑
など 中上それは柄谷の真似なのです。
「反文学論」 ソンタグ「反解釈」
「意味という病・
隠喩としての建築」 ソンタグ「隠喩としての病」
「探求」 ウィトゲンシュタイン「哲学探究」
など 「哲学の起源」を忘れてました。
これはオルテガそのまま。 ホセ・オルテガ・イ・ガセットを巡っては、柄谷行人には面白い話がある。
学生時代、西部進がオルテガの名前を出したら、誰だそれはプロレスラーか(ジェス・オルテガ)、
と柄谷がいったというものだ。 「面白い話なんだけど…」と前置きするのは絶対ダメ
お笑いの鉄則 小籔千豊に本職である太鼓叩いてもらってYOSHIKIはベースにまわってもらう いくら日本の評論家が評価しようとも千年の愉楽なんてタイトルの本を本気(と書いてマジと読む)になって読みたくないよな 中上の作品では奇蹟は例外的に好きな作品なんだけどジャッキーの『奇蹟/ミラクル』を連想してしまうんだよなあ
同年発表?かな ベルンハルトの小説って映画化したらハスミンが一番嫌いそうな内容だろ 千年の愉楽 英訳 A Thousand Years of Pleasure
A Thousand Pleasureというのは、
むかしむかしのアメリカのエロチックサスペンス映画やポルノ映画にあるようだ。
検索してみてください。 快楽の千年なんですな
百年の孤独のスペイン語原題も英訳題も孤独の百年なんで、百年の孤独は(意図的な)誤訳です A Thousand Pleasures
サスペンス映画は↑
Street of a Thousand Pleasures
ポルノ映画のほうは↑ >>467
One Hundred Years of Solitude ( Cien años de soledad)
みたらば、たしかにそうでした。 「ミニシアター」で相次ぐパワハラ問題、一体何が起きているのか | News
https://diamond.jp/articles/-/259176
映画愛・・・嫌な言葉だ
そう言えば柄谷行人は「われわれのために映画があるのではない映画のためにわれわれはあるのだ」って言葉に激怒したとか言ってたな 「やりがい搾取」というのは、
ミニシアターに限定されず、映画界全体にありそうです。
ばかばかしいのは、政策委員会側のテレビ会社や広告代理店などの正社員は高い給料をもらっているのに、
現場の「スタッフさん」は、ひじょうに安い賃金で働いており、
しかも立場も不安定な状況に置かれている、ということでしょう。
しかし、シネフィル映画批評では、産業構造論的な観点がおよそ無いので、
そういうことが問題視もされないというところがある。
もっといえば、労働環境にサークル活動的な雰囲気のある文化産業には、
ほとんどの場合「やりがい搾取」がありそうだといえましょうか。 侯孝賢の非情城市が政治の話なんだけど
ハスミンがひたすらその文脈はオミットしてシネフィル仕草に終始したのを
柄谷行人が怒ってなかったっけ 蓮實重彦は、映画評論ではその種の問題に触れなくとも、
インタビューアーや対談相手がきけば答えますよ。
前に高学歴(ポスドクやら)ワープア問題がひどかったときにも、
それなりのことを言いましたから。 非情城市は、裕仁天皇の玉音放送を台湾で聞くことから始まる映画だよね
それ系の話題とワープアの問題は何か関係あるの? 「非情城市」を見ていないし、蓮實重彦のその評論も読んでいないので、
なんともぃえない。
私がいったのは、蓮實という知識人は、いろいろ偏ったところはあるにしても、
それほど不人情でもないのではないか、ということ。 そもそも物語と小説とか物語批判とか言ってるのに映画が全く不問に付されるのは原理的におかしい
小説以上に映画なんて馬鹿なもんなんだからそこまで真剣に考えるのは野暮ってもんで馬鹿馬鹿しいから娯楽として楽しみましょって姿勢なのかもしれませんがw 蓮實重彦本人は、とくに非政治的なんじゃなくて、
芸術を政治に従属させるのがいやなだけなんで、
それほど問題はないのですよ。
しかし、蓮實信者みたいな人に問題のある人がいるのです。
たとえば、イーストウッドという人は、共和党員であり、
スミス&ウエッソンの広告塔みたいな時期があった人で、
米軍の全面協力を得て何本か監督主演映画を作っており、
レーガン大統領のお気に入りであった。
レーガンの真似をして、チンパンジーならぬオランウータンを飼っている人物も演じている。
昨年、全米ライフル協会が顕彰しようとした際には辞退したそうだけれども、
長年プロガンとして知られた人であった。ヘイトスピーチに当たる言動にしても、映画のセリフとしてだけでなく、
実生活でも、確信犯的に行うという、まるで石原慎太郎みたいなことろもある。
そういう人が、何年か前の蓮實スレでは、平和主義者だとか、銃規制積極派だとかいうことになっていたので、
わたしがそんな馬鹿なことないでしょう、といったところ、信者さん方から総攻撃された、
ということがあるのですよ。そうした、教祖の意向を過剰忖度する狂信者めいた人がいるのが問題でしょう。
。 イーストウッドは反トランプ主義、みたいな評は、
ぎゃくに、イメージダウンをおそれるあまり、映画を政治に従属させることになる。 なお、イーストウッドは、ポリティカルコレクトネス的な風潮を嫌っているだけで、
とくに人種差別主義的というわけではない。 ポリティカル・コネクトネスは偽善的だから、心ある人は疑いの目を向ける 政治性と審美性を分けるって難しいね
普段ユーモラスたっぷりなポーリンケイルやマイケルムーアも
イーストウッド評になると硬直的
ハスミンも
侯孝賢の『非情城市』やソクーロフの『太陽』には多くを語らずよね イーストウッドは
アメリカン・リベラルの「世界の警察としてのアメリカ」に対して
草の根保守のミリシアなわけでしょ
平和主義者ではなく
国外で戦争やるなら国内のケアをしろという
右翼的反戦の人
トランプのお手本でしょ 大島渚について
柄谷 たびたび名前を出してバカにする。
金井 なんやかんやで名前を出すときは必ずバカにしてる。
蓮實 政治色を払拭してからの本人に接近。
たけし よくバカにしてる「海外の賞が欲しくてたまらない(とたけしが決めつける)日本の映画人」の最も露骨な例であるはずの大島にはなぜか肯定的。
…と言うより、たけしは「オイラ、賞なんて欲しくはないしどうでもいい」「そういうのは、ちょんまげ着けてフンドシ穿いて授賞式に出るための前フリとして…」
としつこくアピールしてるが、実際には大島渚以上に海外での受賞にはがっついていた。 それを、日本の芸能事務所社長なんてものよりは世界的映画人として扱われる事に満足感を得ていたであろう(?)森の方針に付き合わされてるオイラ
という感じを匂わせながらボソボソ語るたけしは、常に自分だけが大事なんだろう。 お笑い雑誌でひょうきん族のゲーハーなんとかが高田文夫に
「そこいくとたけしさんは、お笑いがダメになったら映画監督したり…」
と言ったが、高田は特に訂正するわけでも怒るわけでもなく対談はスムーズに展開し アカデミーを蹴った宮崎駿をビートたけしが腐すわけだね アレックスコックスがイーストウッドを「あれは悪い奴だ」みたいなことを言ってた。
単に嫌いというのとはまた違うのだろうけど。
「俺を左翼と呼ぶ奴はいるが、おそらくジョンミリアスのような存在とは話が合うと思う」 たけしも松本も宮崎駿を嫌う。
たけしは大林作品も合わないと言う。
それは映画的にどうのという話ではないと思う。
無垢な美少女がいて彼女は神秘的で穢れを知らず…
とか言うのが嘘くさく思えるんだろう。
そういうのが本当にいれば良いけれど、そんなものはいないよと。 だが、たけしの女性観やたけし映画の女性像はどうかと訊かれたら、貧しいとしか言いようがない。 石原慎太郎なんか典型的だが、わざと不穏当な発言をして周囲を混乱させ目をシパシパさせながらニヤニヤしてみせるのは己れの「ヤンチャ」ぶりを誇示出来て気持ちいいのかもしれないが、醜いオッサン(ジジイ)だよ。 1975年.、ソ連は、SS-20ミサイルを東ヨーロッパに配備した。
これに対抗して、NATOが、1983年から最大464基までの地上発射型の巡航ミサイル(GLCM)
および108基のパーシングII弾道ミサイルをヨーロッパに配備する計画を発表したところ、
世界規模で反核運動が巻き起こった。
反核運動には、日本文壇・論壇の主流派も賛成していたと記憶している。
そのとき吉本隆明は、ソ連の戦術核配備については何も文句を言わなかった日本の「平和勢力」が、
アメリカのほうに対してだけぎゃーぎゃーいうのはおかしい、というようなことを言って批判した。
いまでは信じられないかもしれないが、柄谷行人は、この吉本の主張を支持したものである。
当時のこの件に関する蓮實重彦の発言を(または、なにか発言したかどうかも)おぼえていないが、
なにか言ったとすれば、「平和勢力」寄りではなく、吉本寄りのことだったのは、おそらく間違いないと思う。 >>496
> いまでは信じられないかもしれないが
その感覚の方がむしろわからない >>473
>シネフィル映画批評では、産業構造論的な観点がおよそ無いので、
>そういうことが問題視もされない
大昔の60年代の佐藤忠男編集長時代の『映画評論』では「撮影所労働の現実」について
触れたりもしていた様だし、70年代には大和屋竺も「低予算・低報酬のロマンポルノ
を制作しつつ一方で大作『戦争と人間』で無駄金を浪費する日共系労組主導経営下の日活」
を批判したりもしているんだけど、そういう問題提起は結局は何時も尻すぼみになってしまい
盛り上がらないんだよね。
竹中労の様な無頼気取りのオッチョコチョイも結局は「労組がうるさくて夕方の定時に終わ
ってしまうような撮影現場には熱もない」みたいな言い方になってしまう。
本当はその方が普通であるべきなんだけど。
例えば舛田利雄あたりもキャリアの後年には夕方には終わっていたらしく、それで映画版
『必殺』を撮って殺オタに酷評されたりもしてしまうわけだが、あくまで舛田としては
「オレはあくまで依頼があったから仕事をしただけだし、そら工藤栄一や深作欣二は
予算スケジュール超過・深夜残も厭わずだろうがそんなのは所詮は体を壊すだけなんだ」
程度が本音だっただろうなと。
ちなみに若松孝二も「映画志望の若者をタダ同然で酷使した」とされるが、但し撮影現場だけは
「オレは他の日本の監督みたいに連日夜中までやって夕飯代もタク送代もどんどん使って、
なんて大嫌いなんだ。だいたい時間とカネの無駄なんだよ」と早撮りで早く終わっていたようだ。
なお同じピンク出身だと和泉聖治なども夕方には終わる監督らしい。
、、日本の映画TV制作の現場酷使は異様だよ。何が救われないって素人時代は「そこまでは
オレは出来ない」と醒めて見ていた人も現場に「適応」するほど「深夜残や徹夜ぐらい
なんだ、その程度に驚いているから素人さんは駄目なんだ」調になっていくからね。
個人的には現場の人が結局はそれで受け入れちゃってる以上、どうにもならないと諦観している(´・ω・`) 2014年04月20日
吉本隆明「情況への発言(一九八九年二月) 《エチカの闘争》」
http://makorin.blog.jp/archives/52008342.html
蓮實重彦、柄谷行人に浅田彰を加えれば、まさに知的スノッブの三バカだよ。
おれは文学者の反核に蓮實や柄谷が異論を称えたとき、まだ日本の閉じられた文学の世界も捨てたものじゃないなとおもっていた。
蓮實や柄谷の文学青年的、哲学青年的な資質が、科学も数学も技術も、ほんとのところわからないからだ。
だが蓮實や柄谷に本番のボクシングなど何もないから、シャドウ・ボクシングが「天使」だなどとおもい込んでるんだ。
だが蓮實や柄谷が凡庸あつかいしている若い批評家のどれをとってきても、この二人よりはきちっと手仕事をしている。
ひとつはいやしくも「他者」たるものをホン訳したりしようとおもえるほどの文学者や哲学者は、
蓮實や柄谷のような純粋気取りの文学青年や哲学青年ではなく、現実の政治現象や社会現象いついて、また文学や哲学について、
つまり本番のボクシングについて、きちっと大胆率直にいえてる奴ということだ。
蓮實の頭のなかにあるのは大衆(つまり消費としての労働者)が、大部分下層意識をもち、
生産としての労働者が、市民社会の最下層からもはじき出され、市民社会がきちっとした輪郭をもち、
中・上流階級が蓮實や柄谷好みのエリート意識とエリート的教養をもっていた時期の体制・反体制の概念や左翼の概念だ。
おれたちは世界の誰かがいったことでなければテキストにないから不安で、
何もいえない柄谷や蓮實や浅田のような凡庸な秀才とはちがう鈍才だ。
だいいちテキストだけ読んでそれをつなぎあわせ、「内部」の誰よりもさきに「外部」のテキストを独占して、
もっともらしく「外部」のあとを追いかけるだけで、まだ「内部」をだませるとおもっている柄谷や蓮實などにくらべたら、
「戸外」の日光の匂いと資金集めに汗だくになっている行動的な姿が想像されて梅原猛や今西錦司のほうがいいよ。
柄谷などは読んでもいないだろう。読まないであることないことでっちあげてくさすのが政治的スターリニズムだとすれば、
柄谷や蓮實や浅田のやっているのは知のスターリニズムなんだ。 あとミニシアターはあんなもの、もう無くなっても構わんでしょ。
昔からそういう業界だったよ、あそこ。
あんなもんに幻想を持っていた「良心的」「リベラル」な人の方に自分は絶望している。
映画界なんか関わってもロクなことはない。ワナビーのシネフィルごっこも一線を越えない
うちは楽しいがね、、、いや初めから映画オタごっこなんかやるべきじゃないんだ、
自分はもう間に合わないけど\(^o^)/オワタ
蓮實重彦が最期まで「大学貴族、文壇貴族」を通したのも映画界の生臭さを本当は知って
いてそこには見て見ぬフリを決め込んだからだよ。 473の訂正
×産業構造論的な観点がおよそ無いので
〇産業組織論的な観点がおよそ無いので >>498>>500
ひじょうに重みのあるレスで、その内容に感銘を受けた。 たけしがハリウッドは組合がうるさくて時間通りに終わってみんな帰っちゃうってボヤいてたっけ
ミニシアターや渡部直己がハラスメントで告発されたのは日本にとっては良きことです
映画や文学を個人的に愛するのはどうぞご勝手にだけど愛なんて言葉はろくでもない結果しか生まないことはっきりさせた若い子たちは偉いと思うな >>493
無垢で神聖な美少女が本当にいればいいけど現実の女なんて酷いもんじゃないかと苛立つところがたけしの弱いとこでしょw dollsの菅野美穂、松原智恵子は、無垢と狂気が一体になってる女たちだった >>497
現在、日本国憲法は日本人の無意識が発動して守られただの言ってる
もはや岩波文化人どころか電波系護憲の柄谷行人が
昔は反米親中ソ的なポジショントークせず、中ソに対しても批判してたってのは
今では信じられないけどね 昔たけしの本パラパラと読んだら綺麗なネーチャンもセックスするし糞もするじゃねーかとか当たり前過ぎることわざわざ言っててね
無垢で神聖な美少女をまんま表象してしまうこともアホらしいが何処かに本当にいたら願望することもアホらしい
その裏返しで性欲や我欲と汚れに満ちた当たり前の女(それはわれわれ男自身の姿でもある)を殊更貶めすのもアホらしい
ロマン主義の表裏というか極々等身大の当たり前の女あるいは人間をどこかで認められないってこと >>486
政治的に正しい作品が作品として優れてるってわけでは当然無いから本当に難しい問題ではあるんだけどね
蓮實さんみたいに政治性を完全オミットした批評は70年代、80年代の政治のエアポケット時代にそれなりに意味はあったとは思うけど・・・
しかし例えば言葉は物質だ空気の振動だという唯物論は正しいし大前提ではあってもそれで言葉の問題は解決したなんて言ったら馬鹿みたいな話でしょ
蓮實さんも魂の唯物論的な擁護なんて言ったけどアホかって話で・・・ 悲情城市はホウ・シャオシェンの作品の中で一番不出来な作品なんでハスミンとしては言及したくなかったんであろうと擁護できるかと思います
ホウ・シャオシェンの本領は悲情城市のような叙事的(政治的)な作品ではなく叙情的(非政治的)な作品ですからね おれがたけしを嫌いなのは、この男、とにかく一から十まですべての物や事を茶化してばっかり。じゃあ、最終的におまえの立ち位置はどこなんだよと言いたくなる。
あらゆる責任から逃げてるヘタレ。 たけしの精通談話。
縁日の夜、木に登っていたたけしは浴衣姿の同級生の女子の髪の分け目を俯瞰しているうちに股間が強張っていき、跨っていた太い木の枝によって第二次性潮を迎えたという。
たけしの虚言癖や、どこかで読んだような展開の不自然さも含めて、これもビートたけし物語として認めよう。 たけしは他人を茶化したり嘲笑ったりするが
本人は努力家風に見せようとしたり、自己演出抜きにしても鈍臭い一所懸命さを感じさせる(日頃からマメにアピールしてる不真面目なイメージとの落差がそれを増幅させる)事が多く
それを笑う者は許さないという雰囲気を作る。
茶化しや嘲笑や悪口よりもそこがイヤだ。 「決して能弁ではなく優等生でもない存在だが、そんな男の真剣さを笑う者はどうかしてる」
と言わんばかりの空気を生む反面
いかにもパッとしない舐めてもいいような存在の事は指を指してみんなとゲラゲラ笑う印象があるが
みんなのいないところではそいつをフォローする(うまく言いくるめていざとなった時にイジメの張本人でないというアリバイを作っておく)感じ。 そんなみんな殿が嫌いなら今度殿のフェラーリのダッシュボードに細川ふみえの写真置いておくかな 細川ふみえを一昨年だったか激辛料理を食べる番組で久々に見た
完食してた ダンカン、フェラーリ回せ、このヤロー
昨日はお休みでしたか? そういえばたけしの愛人との逢瀬のスケジュールはすべて弟子が管理していたと聞いたが、こういうのをマスコミに一切叩かれなかったんだからアンジャシュ渡部の叩かれように比べてズルいな。 陰茎露出フィーバー期のたけしは
加藤治子から「そんなに(仮性包茎を)気になさっているのなら手術なさったら?」
と言われたり、目上の女性からは可愛がられる(本人も無口で無抵抗)タイプだったんだろう。
金井美恵子も中上のオバアサンっぽさをたびたび指摘しているが、その幼稚さと愛嬌に呆れつつ「男にはすごくモテる」と。 吉本ばななの証言によると吉本隆明は「俺はこいつは他人に思えないというのはあまりないんだが、ビートたけしだけは他人に思えない」と言っていたそうな(宇多田ヒカルの歌詞本に寄せた文章で) あったんで書き写すか
私の父であるところの吉本隆明さんが生前よく言っていた。「自分のことをあまり誰に似ているというふうに思うことはないんだが、唯一なんとなく他人とは思えない気がするのはビートたけしだ」
私は首をひねった。そんなに似てるだろうか? あれほどモテそうにないし、軍団もいないようだし、映画も撮ってないし、「コマネチ!」とも言ってないし!
でも、急にわかるようになった。私がヒカルさんを見るときいつでも「きっと父が自分をビートたけしさんに似ていると思い、他人とは思えないという気持ちは、まさにこの気持ちだったんだ!」と思うからである。
若い時期から大きく売れてしまい(私とは桁が違うけど)、……(以下略)……
──吉本ばなな「同じ悲しい夢を見ている、世界でたった一人の人」(『宇多田ヒカルの言葉』2017年 所収) 変なベタなツッコミ受けないように予防線張るの上手いからねえ
パクリばかりでも引用って言っとくようなもんで
真面目そうな顔してパクると叩かれるw 中上の小説は何回も何回もしてほしいとかひとりごちたりとかたかだかB民が高貴な澱んだ血とか男と女は五分と五分とか若衆宿とかいちいち恥ずかしい 渡部直己が「中上は女を知らない。「何回も何回もしてほしい」なんて言う女はいないですよ」とか言ってたけどレイピスト(?)のお前に言われたくないって話だよねえ 若衆宿でまさぐりおうた仲だっけ?
逆に面白いかもしれない そういやおれも軍団でまさぐりおうた仲だ
吉武このやろケツ貸せばかやろ 渡部直己は吉本隆明を「「ル・サンチマン」てwww」と嘲笑したからバチが当たったんですな フーコーによれば「マルクスはたとえば,
工場において雇用主が行使する事実上の権力が,
社会のそれ以外の場所に存在していた法律的な
権力〔主権〕に比べて,特殊的であると同時に
相対的に自律性をもっており,いわば不可侵で
あるという性格を非常に強調している」のであ
り,マルクスは「これらの小さな権力地域が―
―所有地,奴隷,工場,また軍隊として――初
めからもともと存在すると考え,そこから発し
て国家の大きな装置がいかにして少しずつ形成
されえたのかを示した」とされる(Foucault 1981
b,186)。『資本論』は,国家権力に還元され
えないようなミクロな権力分析として読むこと
ができると,フーコーは主張している。
(桑野弘隆「フーコーは、マルクスに出会ったか?)
「所有地,奴隷,工場,また軍隊」というのは、
換言すれば労働の「組織のされ方」「現場」ですから、
当然、映画撮影所やミニシアターも含まれることでしょう。 大企業にしろ中小零細にしろ内部は民主主義では無いからね
国家が定めた法以外は企業内部の良識に委ねられてるに過ぎない わが国の司法では、
裁判官の法令無視は当たり前なんだが(司法板をちょっと覗けばわかるが、
自由心証主義、というゾーンにすべて落とし込んでしまって、
本来はしないわけにはいかない法令の適用についての判断自体をしないというようことがまかり通っている)
労働問題がらみだと特にそれがひどくて裁判所はあたかも
「無法地帯」の様相を呈するとさえいえる。
そういうことがあるので、ミニシアターの事件のようなことが、どうにかなるためには、
批評を含むジャーナリズムによる世論形成をつうじての
裁判所への「圧力」が必要であろう。 そうだねでもミニシアター問題はまだわりかし大々的に報じられて恵まれてるほうかもね
そういえば浅田彰が高校時代体育会以上に演劇部と生徒会が大嫌いだったって言ってたなw
映画界や文壇や演劇界のが文化の美名の元にもっとタチが悪いかもしれない
小林秀雄のパワハラだって酷いもんだし >>526
中上のいう「高貴」には、近代社会階層的な含意は無いのですよ。
たとえば、今村監督作品「神々の深き欲望」は、南の離島の「土人」の家族の話であるが、
それに「神性」を観ている。
中上の「高貴な澱んだ血」にしても似たもので、神代の濫悪とか神々の放埓とかを受け継いでいる、
といった含意があるのではないでしょうか。
いうなれば、ニーチェ「悲劇の誕生」のいう「ディオニュソス的」の日本風の表現を意図したものでしょう。
それが安直に「神話的」「物語的」ということで、
蓮實「物語から遠く離れて」では、批判の対象になったということでしょう。 ↑訂正
×「物語から遠く離れて」
〇「小説から遠く離れて」 物語批判は日本文学にとってマイナスだった
むしろ「物語構築術」を書く方が遥かに難しく大事なことだった
「映画術 ヒッチコック」を翻訳しながら「物語術」をかけなかった
映画の世界では「ハリウッド脚本術」他技術論が蓄積されているのにね 蓮實は「今村昌平は神々〜から駄目になった」と語る。
これはヘルツォークの辺境志向とも通じる問題で、過酷なロケ地が撮影に強いる制限(物資的問題より、自在なカメラポジションの困難)が作品の豊かさに結びついていないのと
スタジオなどではない「本物」(もしくはそれに近い)の場所で撮ったというアリバイが演出を自堕落にさせる傾向(ロッセリーニやキアロスタミなどとは似て異なる)を指摘。
今村はカメラポジションなど興味はなく適当な位置に据えて撮影していたという(ラルジャンやノスタルジアを差し置いて楢山が受賞した時も新宿の雀荘にいた)
。 抵抗しても従順であっても(倒錯的に信じたフリをしてみても)物語からは逃れられない。
発狂したとしても、その狂人なりの物語に捉われる(むしろ狂人こそ特定の物語に固執する存在?)。
物語の罠を自覚する事が何かの足しになるかどうかはわからない(無自覚な方がなにかと「強い」場合も多い)し、その行為さえも物語に捉われている証しである事に変わりはないが…
というのが前提ではないのか。 アンゲロプロス監督作品「旅芸人の記録」なんかは、蓮實重彦はどう評価しているのか、
誰か教えてください。
「旅芸人〜」も、アガメムノン、エレクトラ、もろに神話、ギリシア悲劇だが。
アガメムノンは、ブラピの「トロイ」にも出てくるくらいです。 >>510
言葉が物質でただの空気の振動の唯物論が正しいって正気か?
頭おかしいな 「旅芸人」は評価してたが、蓮實系統だけではなく好評だったので何を言ってたかは覚えてない。
蓮實が最も執着してたのは「狩人(たち)」。
「アレクサンダー大王」論は、作品に対して否定的ともとれる面白い文章。
女優が撮れないとか批判的なことも言ってる。
インタビューの名手を自負する蓮實が、二度インタビューしたのにいずれもアクメに持ち込めなかったと語る相手もアンゲロプロス。 同世代で、小津や溝口やハリウッドミュージカルなどを好む共通点もあって今まで知り合いでなかった事が不思議に思われるほど
と親しみを込めて語ってもいた。 「ユリシーズの瞳」は(むかしビデオを途中までしか見なかった)、
神話+宝(フィルム)探し、という蓮實重彦が批判すべきものだと思うのだが。 小説と映画は違う。
文字の連なりに過ぎない(文字以外の要素を導入する例外もある)小説に比べ、映像は人間では把握しきれない余剰に満ちている。
映画につきもののご都合主義はオーライで、それを隠蔽しようとする仕草には手厳しいのが蓮實。 「菊次郎とさき」たけし役のダンカンが一等賞でかまわない。
このドラマはチラッと見ただけだが、これからもたけし役はダンカンに限定すべきだと思った。 結局はヴァン=ナイとダンカンが二人一役でたけしを演じる他ない。
のび太とジャイアンのように個性を振り分けるのではなく、ただひたすら二人一役の根拠の無さに耐えきってもらう。
それで歴史という名の虚構に狂いが生じたとしても。 あの天才タレント蛭子能収でさえ、バカに出来る後輩(しかし精神病棟ではヒーロー的な存在だった)に対してはマッチョな兄気分を気取っていたという。
たけしが「ああいう人がいちばん怖い」というのは保身や社交辞令だけではないだろう。 宅八郎に目にかけていたのも、彼が本格的にタレントになろうとしており「窮鼠猫を噛む」スタンスを振るったならさぞかし怖い存在だと無駄な深読みをしていたのかもしれない。
そういった面白み(真摯さと滑稽さ)がたけしから失われたのはいつ頃ぐらいからなのだろう? まるでビートたけしスレのようですが、
どういうわけでそうなるのでしょうか。 宅八郎と接点があったの知らなかった
タケシストのおいらが とにかくおれたち文学と映画を愛する少年/青年/中年/壮年/老年たちにとって金井美恵子は永遠のミューズなんで あと、「オウムを倒した女」「日本のジャンヌ・ダルク」こと江川紹子ね
ダレノガレ明美主演で半生を映画化してほしい
主題歌はレッチリで 蓮實の「思想」は野球論に端的に現れてるよな
スポーツはゲームを通じて勝ち負けという出来事を招来する
しかし勝負は珍プレー好プレーを誘発するためのとりあえずの口実に過ぎず本気で勝ち負けを競う奴や気にする奴は馬鹿だ
勝ち負けだの脚本だの物語だの思想だの人間的な営みは全て美を誘発するためのとりあえずの口実に過ぎず愚かな人間的営みを否定し美に浸っていればよろしい すると、物語は口実としてあってよいのだから、
物語批判というものも、特に必要なかったことになるが、
蓮實重彦はそれを行っていた。
「物語批判」というのは凡そ狭義の文学性のある対象に限定的なもので、
ロラン・バルトではもっと対象を広くとって「神話作用」の批判、
フーコーでは「言説の政治」というような形をとる。
「脱構築」も含めて、これらは、むかしふうにいえば、
イデオロギー批判ということになる。フレデリック・ジェイムソンなどは、はっきりそのように言っていたし、
柄谷行人もジェイムソンとほぼおなじ考え方をしていた。 「小説から遠く離れて」はあえてやってみた感が強いけど徹底的に形式主義的な物語論、小説論だから自身の仕事から大きく外れることはないだろうってところでしょう
しかし蓮實の批評は本当は小説か物語か私小説か自然主義かとか関係ないはずなんだけどな 「法の力」
デリダの「政治哲学」。「脱構築は正義である」の宣言のもとで、
法/権利を越えた正義の観点からナチスによる「最終解決」に極まる法の暴力を批判。
またハイデガーやベンヤミンの「破壊」のもつ問題点を抉り出し、
それらと脱構築との差異を明確に論じたデリダ近年の主著。
上記引用にあるように、脱構築などは、対象領域を文学や哲学にとどめず、
「法権利」の領域に踏み込むところまで行ったものだが、
蓮實「物語批判」は、このスレでもそういう意見があるように、
人によっては、狭い意味の「美学化」のほうに「退行」した、
と思うようなものになった。 >>569
蓮實氏も若い頃は60年安保のデモに行っていたりもしていたそうで(年譜には樺美智子の
死を知った際はショックだったと)、たぶんそうした葛藤の季節を経て日本で政治を語り
動く事に絶望してしまったのだろう。
蓮實も日本の中では英仏二か国語できたりの「エリート」ではあるのだが(蓮實は東大駒場の
仏語講師としては厳格な人だったという)、だが所詮はたかが大学人ふぜいが何も為し得ない
事にも気づいてしまい、だが一方で東大総長に成り上がったりと世俗の欲も捨てきれず、
「偉大なる暗闇」にも成り切れないただのディレッタントでスノッブなだけの人になってしまった。
所詮は蓮實重彦的「美学」批評は何も語ってはいないからね。
「同じスコット兄弟でもリドリーは駄目、トニーは素晴らしい」と説かれても、まあ確かに
「トニー・スコットも別に悪くない」と啓蒙されはするのだが、だがそこでわざわざリドリーの
方を腐す必要もないのではと、、
蓮實一派の映画談義は確かに参考にはなるんだよ。色々と蒙を啓かれはする。
でもそこでスノッブな格付けゲームを始められるとせっかく啓いた「眼」がまた閉じて
いってしまう事になる。結局はスノッブなギルド知に閉じ込められてしまう。
本当、日本で「知性」を貫徹する事って難しいのだなあとは思う、、所詮はみんなただの
俗物になってしまう。そしてみな結局は「保守」に堕落していくのさ、、、 自分は蓮實の信者だよ
蓮實に映画の見方を教えて貰ったし、いい映画もたくさん教えて貰った
蓮實を知らなければ知ることもなかっただろうという映画たくさんあるし リドリーサゲは
英国王室からナイトの爵位を授かったとかスクリーン外のエピソードを嫌ってサゲた感あるよな
トニーは商業主義の監督に見られてて実際そうでもあるがそれだけではない監督としてアゲる必要はあった
遺作のアンストッパブルが蓮實重彦のよく言うB級感たっぷりで、これからまだまだ見たかった監督だった
トニースコット68歳で若いのにと思ってしまうくらい映画監督は高齢者多いけど
相米慎二は53歳だもん、相当ショックだったろうね >>570
本当か知らんけど村上春樹みたいじゃないですかw >>566
つまり今のユーチューバーみたいなもんだな
よかったな待ち望んでいた時代が到来して >>570
だとしたらその「知性」ってもんが西洋からの借り物でしかないんだろうな
そんなもんこの国の地政学に合わんのでしょ >>527
しかもそういう女もいるしねえ
いかにもそいつらしい決め打ちの断定ハラスメントだなw >>576
典型的なヲタクの美学でしょ
だから80年代の一億総中流、大衆消費社会に見事にフィットしたんだよ >>579
結果的にはそうなるね
>>566なんかは蓮實が通訳したフーコーの発言にもぴったりあてはまる
フーコーは自らの分析のための方法に対する留保を持ち、その限界も知っていただろうけど、蓮實と彼の影響下にある軍勢は美学一本槍で令和まで来てしまったようだ 勝ち負けに対して本気になる者がいてこそ
本気じゃないように見える江川や落合が光って見えたわけで
みんながスポーツのルールや勝ち負けなど無意味だと本気で思ってしまったら素晴らしい瞬間なんてお目にかかれない。
映画にしても、蓮實はいわゆる実験映画にはあまり興味がないと公言しており
ストーリーなり何なりで最低限の体裁を取り繕わなければならない「商業映画」の方にどうしても肩入れしてしまうと言う。 >>581
分をわきまえた闘争はストリートファイトはおろか総合格闘技ですらないプロレス、それも小団体のそれだろう、闘争のスタイルための闘争であり、マニアにウケることを喜びとする
客席にはバカボン勢揃い 蓮實信者は球場で勝負の行方に一喜一憂してる観客を軽蔑して途方もない珍プレー好プレーを退屈に耐えながら待ってるんでしょw 『ミシェル・フーコー思考集成VIII
「精神のない世界の精神」(高桑和巳訳)』
「この革命的出来事[ホメイニのイラン革命]を特徴づけるものとして、それが、まったく集団的な一個の意志を出現させたということがあります
――そのような機会にめぐりあった民族は歴史を見ても稀です。集団的意志というのは、
法学者や哲学者が制度などを分析したり正当化したりしようとするときに用いる政治的な神話であって、
つまりは理論的な道具です。「集団的意志」には実際にお目にかかったことはないし、私は個人的には、集団的意志というのは神や魂と同じで、
出会ったりするものでは決してないと考えていました。同意してくださるかどうかわかりませんが、
私たちはテヘランで、イラン全土で、一個の民衆の集団的意志に出会ったのです。
……この集団的意志に、人々はある対象を、ある一つきりの標的を与えた。つまりシャーの出国です。」(p. 28)
「人は、マルクスと民衆の阿片という語を相変わらず引用しています。ところで、この一節の直前にある文章は引用されることがありませんが、
そこには、宗教は精神のない世界の精神だ、とあるのです。いわば、イスラームは一九七八年には民衆の阿片ではなかったのです。
それが精神のない世界の精神だったからです。」(p. 32)
「宗教的な苦しみは、一つには現実の苦しさの表現であり、一つには現実の苦しみに対する抗議である」
「宗教は悩めるもののため息であり、心無き世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。
それは民衆のアヘンである」
(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」) 蓮實 プロレス、格闘技、サーカス、闘牛、マラソンなどが嫌い。サッカー、野球、テニスなどが好き。
金井 エアロビ、シンクロ、フィギュアなどが嫌い。サッカー好き。WWEは一度観戦したが嫌いではない。 フーコー イラン革命
↑で検索してもらえば、いろいろ出てくる。
それをざっと読めばわかるように、フーコーのイラン革命についての論説は、
欧米のリベラル派に人気のあるような今日のイランの人権活動家・女性活動家、
あるいは、国際映画祭で賞をもらうようなイラン人の映画監督などからは
顰蹙をかいそうなものである。
蓮實重彦は、フーコーのような「間違い」はおかさない人ではある。 蓮實先生は麻雀とかギャンブルやコンピューターの野球ゲームやサッカーゲームはお嫌いだろうなあw >>586
こんな一個人のただの趣味さえも深読みするやつがいるからおかしなことになるんだろうな >>587
おかさないじゃなくてついにおかせなかった人でしょ
驚くほどドメスティックな人だともいえる そりゃ同時多発テロに言及しても飛行機内部の映像が無いから映画的でないとかメルトダウンは映画は描かなかったとかそんなことしか言わないんだから
まさに人間的営みを軽蔑して全部話を美学に持ってくんだから間違えるも糞もない 映画におけるメルトダウン。
スポンティニアスコンバッションはリアルタイムでは黒沢清と高橋洋と三留まゆみ(年間ベストワン)が絶賛していた。
絶望的悲劇が最終的には物言わぬメロドラマに至る。 ちなみに、イラン・イスラーム革命当時、イランの進歩派の多くは、↓の人に期待していた。
バニサドル初代大統領
暫定外相時代にイランアメリカ大使館人質事件でアメリカ政府との仲介役を行ったことが保守派の反発を買い、
「我が息子」と呼ぶほど親密だったホメイニーすらもバニーサドルを糾弾するようになってしまう。
バニーサドル自身はホメイニーに独裁者にならないように手紙を送り警告などするが、
結局1981年6月21日に議会により弾劾決議が可決され翌6月22日にそれを受諾。
ラジャーイーが大統領に就任する。バニーサドルは国外に脱出し、フランスのパリで亡命生活を始めた。
2019年に至るまで、記事の執筆などでイランの現体制を批判する活動を続けている。
(Wikiから) >>591
それはぎゃくに政治的な発言ではないか。
また、9・11事件の当時、「テロリスト」たちやアルカイダやタリバンを
著名な知識人が、あからさまには非難しないというのは、
かなり根性の要ることでもありす。 当時テロリスト非難の論調なんてあったっけ?
ほぼなかったような気がするけど 事件当時、「テロリスト」に対する非難は、轟々だったのではないか。 『アルゴ』の世界だね
ベン・アフレックは評価してるんだっけ?
『ザ・タウン』はマイケル・マン『ヒート』の系譜の小品でなかなか良かった いや映画的だという第一声に対する蓮實流の抵抗(w)が「映画的でない」だったんでしょ
第一声はどいつもこいつも「スペクタクル」だというもんだった ハンチントンやフクヤマにはオコだったよね
911後にフクヤマが読売新聞でインビュー受けてるのは虫唾が走ったな
コジェーブの二番煎じが、「ほら見たことか!ボクの言った通り」みたいな対応してたから >>600
すばらしいw
蓮實の人柄が最大限に表れているんじゃないか
嫌いにはなれない わたしも、その広告は、しゃれでなく、本当に好きだね。 まるでハリウッド映画みたいだと言う者は大勢いたのにランボー3の話を誰もしないのは何故なんだと >>537
高貴と近代とはそりゃ関係ないだろw
君と蓮實には物語の意味が分かってない。
物語とは、絵解きできるものであって、
モノフォニックである。説話も同様。
中上の「奇蹟」はポリフォニックである。
これは絵解きできないもので、物語では
ない。 吉本隆明であれば当時「存在倫理」とか言ってたみたいね
それに比べると「映画的/非映画的」という議論は土台からしてあまりにも幼稚だし、だが今のSNS文化を先取りしてもいるようだ
蓮實は決して特権的な存在ではなく、一時代の表象的な人物だったとさえ言えるのかもしれない 「奇蹟」はいいと思う。
それと、蓮實重彦が説話的・物語的だとして評価しなかった中上作品は、
「千年の愉楽」ではなく、「異族」だった。
そして、「小説から遠く離れて」で触れていたのは、
「枯木灘」で、これはむしろほめていた。
なお、「異族」は別の本で批判していたはずだ。
以上のように、記憶違いがありました。 バフチン→クリステヴァの「ポリフォ二―」には、蓮實重彦も当然目配りはあるでしょう。
中上は、クリステヴァを好きなころがあって、そのときは、けっこう影響を受けていた。
クリステヴァは、「サンボリック・セミオティツク」の構造論を唱えており、
それは日本のヘルメスグループの「中心と周縁」の構造論とほぼおなじもので、
ニーチェの「アポロ的・ディオニュソス的」の単なる言い換えみたいなものでした。 ≫高貴と近代とはそりゃ関係ないだろw
三島由紀夫あたりは、近代天皇に対しても「高貴」などというだろう。 "中上健次 松阪牛っていうのがあるんです。
松坂牛の、あのすき焼きに使う薄切りにした霜降り肉のところ[・・・]あの松坂牛そのものが日本文化です。
[・・・]なかなかフランスとかアメリカには松阪牛みたいな、あんな芸術品はないですよ。
というのは、あの肉をつくるために、人は気違いじみた情熱をかけながら子牛のときからビールを飲ませるんですよね。
ストレスがたまらないように毛にブラッシングして、なめるように可愛がる。
そうやってものすごく丁寧に育てて、本当にあれは文化的なものなんです。
カフェに行ってエスプレッソを飲むのにカフェ道なんてフランスにはないけど、日本ではお茶を飲むために茶道がある。
牛肉を食べるのに牛を育てる作法まで考え出しているんですから。
あの松阪牛は、文化的で、味としては本当に最高のものなんだけれども、ところが、ここで実際に牛の立場で考えてみるとですね、あの牛は完全に病気なんですよ。
[・・・]僕は、それが日本だと思うんですよ。
皆さん方はジャパネスクとかいって、フランスの人はいいことだと思っているかもしれないけれども、そういうぐあいに文化的に病んだところが日本であってね。その病んでいることは、同時にうまいことでもあるんですよね。
病んだ日本、それは決して悪いものじゃないじゃないですか。
デリダ [・・・]フランスにはフォアグラがある。
無理やり餌を食わされて過度に肥大したガチョウ。
これはいってみれば、松坂牛と全く同様の役割を持つ文化です。 「地の果て、至上の時」批判がピンと来る。
「異族」なんて誰が読んだって駄目だと思うけど。
北回帰線だったか、中上のマンガ原作を大塚英志が批判していたけど、それも正しい。
蓮實は中上を「負のゴダール」と言ってたが、好奇心旺盛で俗っけもかなりあるがあれこれやってみても得意分野が狭すぎて、そのおかげでかろうじて開花した才能ではないか?
そこそこに面白い読み物と気合いのは入った本格的小説を器用に書き分け出来たり、テレビタレントとか映画製作なんかで華やか(軽薄)に成功できるような人生だったら本人は有意義だったかもしれないが… 中上健次 フォアグラと松阪牛の違いというのは、こういうことなんです。
フォアグラの場合は肝臓ですよね。
肝臓という存在や機能を考えてみれば、あるものを排除するという思想が出てくるんですよ。
これはまたフォアグラ、つまりフランスいやヨーロッパにあまた存在する思想だと考えていけば非常に怖いことだと思うんです。
つまり、独を排除する、解毒してしまう。アブジェクション、要するにきたないもの、けがれたものをいつも排除しようとするものが出てくる可能性がある。
ただあのフォアグラそのものは、排除、解毒を強制され続け肥大化し、痛み、疲弊して再生不能の一歩手前の痛々しい美味しさですね。
松阪牛の場合は、それ自体が毒なんですね。
霜降りの脂肪の中に何が入っているか分かったもんじゃない。
もう脂肪と肉がグジャグジャになっちゃってるんだから。
だから共に美味である事は確かですが、中心と周縁という単色に還元できないところがあるんです。単色じゃないんです。
肝臓の細胞だけですと、肝臓はさっきデリダさんの言われた幾つかの周縁んの機能をさせられてしまいますが、ところが、肉と脂が健康、不健康がグジャグジャになっているんですからね。
デリダ いまの話は中上健次の弁証法とレトリックのしくみを知るには、おあつらえむきの見本だと思う。
中上はまたしても最悪のものを最良のものに仕立てあげようとしているじゃないですか。
ガチョウに比べて、人為的にダメにされ、有害になった牛肉の方がましだというのだから。
これは私たちにとっては周知の論理ですね。中上はアブジェクション(おぞましさ)を変換したうえで階層秩序の頂点に据えようというのですから。早い話、最下位のアブジェクションが最高点に移動するわけですから、アブジェクションのアウフヘーブングか止揚かの昇華作用の一類型といえます。”
ジャック・デリダ、中上健次 『戯れということ −ジャック・デリダvs中上健次−』 デリダの批判する[中上はアブジェクション(おぞましさ)を
変換したうえで階層秩序の頂点に据えようというのです]
というようなクリステヴァ・中上のような考え方が、
蓮實のいう「物語」の一つなのです。 しかし、改めて読み返して気づいたが、
中上は、松阪牛はリゾーム的で、フオグラはツリー的、
というようなドゥルーズ・ガタリの線で言っているのを、
デリダが誤解しているようなところもありますね。 宅八郎を誘って会食しただけで
「ビートたけし、宅八郎とホモ関係の噂」
と噂の眞相の一行情報(信憑性に欠ける)に書かれていた。
この雑誌はダンカンとバター犬の事も(ついでに言えばオフィス北野の成り立ちも)ほぼリアルタイムで記事にしていたが、実はダンカンもバターもわりとそっちのけ。不穏な人死にが出たって単独では記事として弱いと判断したのだろう。
結局たけし批判でまとめたいらしく、問題の深刻さより「たけしの監督不行届き」という結論で締めくくられた。 ダンカンの父親の葬儀で死体を使って悪ふざけし過ぎて、「それが原因であいつはおかしくなった。だからオイラは何も言えない」とたけしは反省してみせる。
ダンカンなどどうでも良いが、無関係な者から見れば、深見やさきが死んだ時のたけしの涙はなんなんだ?となるだろう。
お笑い好きでたけし原理主義のロキノンライター(つまり素朴な人)がたけしに対する疑問を書いた文章を思い出す。 613の補足
おそらく、中上がアブジェクションとかというから、フランス人であるデリダは誤解したのですね。 宇野が伝説のエラー(正確にはエラー以降の他人の煩わしさ)について苦々しく語る言葉はかなり重かった。 >>605
自分より遥かに優れた人が身近にいてそのコンプレックスで雑魚狩りをする人の典型ではないか。 蓮実は>>609と>>611を踏まえたさくらんぼの誉め方をしてるのね
関係ないけど「實」は旧字で書いて「彥」は新字体で書いてる奴はすごく恥ずかしい >>610
≫そこそこに面白い読み物と気合いのは入った本格的小説を器用に書き分け出来たり、
≫テレビタレントとか映画製作なんかで華やか(軽薄)に成功できるような人生
ところで、日本ではだれが↑のような人なのですか。 中上のエピソード聞いてると、
福田和也がなんで中上を嫌ったのか、よくわからないね、むしろ好きそうなのに
さくらんぼ広告は、311後に、文藝春秋で、山形のさくらんぼを誉めた広告だからね
放射脳になってたプロトタイプな左翼に抵抗してる
彦も旧字だったんだな、名前間違えられるの嫌いと言ってたから注意しないとだなw >>566
ふざけるには真剣さが、真剣であるためには遊びが必要な人間の性分を「生真面目な戯れ」と西部邁が言ってたな
西部邁はポストモダンな人だったな 福田は中上を嫌ったというか、すべて見切っていて見下してる感じを出そうとしていた。
福田が褒めているものでこれは凄いと思った事がない。 福田はプレイグスやグレート3を評価していたし
それらを愛好する自分の学生のセンスの良さを讃えていたけど
ロックになるとなんで中庸(ほぼ凡庸、もしくは優等生)なんだ? >>600の誌面は>>629の雑誌だと思うよ
しかし9年前にはこんなニュースになるほどのネームバリューあったんだね
今でもこれくらいの影響力あるのかな 福田の中上嫌いはポジショントークだ、きっと
福田の推しだと、村上龍『テニスボーイの憂鬱』に笑い、ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記 』に感動した >>633
福田のゼミ生でAV女優になった人がいて、雑誌で福田と対談していたが、ただの元教え子と教師の会話だった。
福田は普通の人なんだよ。 映画批評家の仕事の一つが批評と創作だよな
蓮實はヌーヴェルヴァーグの批評家と違って自ら創作はしてないけど教え子が映画監督に何人かなってる
あと外国の映画情報の翻訳と紹介、失われた映画の創作
でもこれ映画批評家名乗って出来てる人ほとんどいないんだよな
素人のちょっと知識加えた程度の人が名乗ってばかりだし 村上春樹の小説はさして小説として評価する気にはならんが次何書くのかなという好奇心はいつもある
ウエルベックは小説自体も好きだなあ 蓮←これも旧字
点が二つ
ハスミストなら知ってないとダメダメ(by 明石家さんま師匠) 結局旧字体が存在しない「重」以外は三字とも旧字であるという 蓮実伝説の一つ「宛名が正しい字でない郵便物は読まずに捨てる」は日本の法律が杓子定規に出来ているから成り立つ さっきたまたま映画芸術の2020年間ベスト立ち読みしたらスパイの妻ベストぶっちぎりの最下位、ワーストぶっちぎりのワーストだった 柄谷の「批評とポストモダン」あたりからの批判的論調には、
フーコーの「権力には中心が無い」式のマイクロポリティクス重視路線だと、
議会やらの国家権力に関わる問題が、おざなりにされることがままあるので、
考え直さなければならない、というものがあった。
そして、大事なことは、法律で決めるよう議会に働きかける、というような従来的な政治活動方針が肝心、
といったことも述べた。
フレドリック・ジェイムソンは、そのずっと前から、官僚機構が中心に居て牛耳っているフランスとは違い、
フーコー式の「権力には中心が無い」式の政治活動など、
アメリカではさしたるインパクトを持たない、
なぜなら、アメリカの政治活動の伝統がもともとそういうものだから、
といったことを述べていた。
それは一理あるにしても、しかし、今になってみれば、大枠ではフーコーが正しかった、と私は思う。
なぜなら、議会、政府、裁判所、こういった「中心」的なものにしても、
その中で行われていることは、じつはマイクロポリティクスだからだ。
昨年の秋からの日米のニュースを見ていると、つくづくそういう感じがする。
たとえば、一昨日レスした日本の司法における法令無視にしても、そうさせるのは、
裁判所という「閉域」におけるミクロの権力の作用なのである。
ゆえに、目的としていた法令が「中心」によって定められても、実際には、すぐに換骨奪胎されザル法になってしまう社会では、
やはり、「権力に中心はない」という前提で物を言い、活動しなければ、思うような結果はえられないだろう。 蓮實重彦は映画評論家であって文学の世界では影響力は小さい
あるとすれば純文学文壇という狭い世界
多分初期の川崎長太郎論などの私小説を論じたものに蓮實の批評的業績は限定されるのではないかな >>645
軍事を抜きにして「権力に中心はない」とか語るのは馬鹿げている。 外交、そして軍事のほうももっぱら、、対外国のものだから、
国家の「権力に中心はある」と認識しやすいのです。
ヘーゲル的には、対他存在が主体である、という言い方になるでしょう。 ところで、ミニシアターの「やりがい搾取」事件の原告の皆さん及びその代理人の弁護士さんは、
蓮実重彦に、原告側証人になってくれるよう要請してみたらいいのではないかと思うものだ。
もしも受けてくれるようなら、一般論領域に限っては権威中の権威である証人だから、
やはり重みがある。 >>636
新左翼、蓮實重彥
字に注意してみましたw 蓮實はまたコロナ禍については愚にもつかないこと言うんだろうなあ
映画がどうしたとかどうでもいいし そうそう文壇の蓮實の影響力は小さい 映画批評家としての影響力のほうがでかい 軽んじられたり敵視されたり蔑視されたりするのが常の批評家が、一般人から現場の人間に至るまで悪とも言えるほどの影響力を持った例なんて蓮實重彦以外に知らない。 インテリの世界でハリウッド映画大好きで軽んじられた経験があの執拗な香具師紛いの手練手管で趣味の共同体を作る原動力になったのかもしれぬ 浪人時代の野村克也を貶したのが失敗だったな。
評論家で終わらずに指導者として実績と教え子を遺してしまった。 蓮實スレの人はコーマックマッカーシーはどういう評価?
ハスミンはフォークナー好きだからマッカーシーも好きなのかな コーエン兄弟そんな好きじゃないけどノーカントリー(とトゥルグリ)はよかった ただ、やっぱりコーエン兄弟は「ショット」が撮れない監督だなとは感じた 507さんの言い得ているレス
≫もはや岩波文化人どころか電波系護憲の柄谷行人
それは日本ポストモダニズムの旗手であった柄谷行人にして、いつのころからか、
法的権力モデル=法や主権を中心に法的概念で形成された古典的モデル。
資本の戦争政策としての経済学=軍隊と戦争が、政治的な権力組織と資本の経済サイクルを統合する。
このむかしながらの単純素朴な考え方にすっかり戻っちゃった結果であろう。
蓮実重彦には、老いてもなお、そうはならない賢明さがある。 ハスミが何かの話題で戦後化することが大事と言ってたよね、何でだっけ?
ミニシアター系映画館のヤラカシ問題は、労働環境が戦後化してない、戦前戦中のノリなことが問題なんでしょ >>661
法と経済と軍事は一体だもんね
アメリカを見れば誰にでもわかる ハスミン、フォークナー好きだっけか
好みじゃないような気がするんだが
ハスミンの好みからすると実験実験してるような(むろん実験のみに淫した空疎な作品ではないとしても) アメリカのユートピア 二重権力と国民皆兵制 - フレドリック・ジェイムソン/ほか著 柄谷行人/ほか著 スラヴォイ・ジジェク/ほか著 スラヴォイ・ジジェク/編 田尻芳樹/訳 小澤央/訳
ジェイムソンは、↑の本で、アメリカの連邦制を超える可能性=ユートピアを軍隊に見る。州権によって制限されない労働・医療・教育などのネットワークは国民皆兵制によってしか担保できない、と主張しているのだそうだ。
それを受けて、柄谷のほうは、アメリカがジェイムソンのいうような国民皆兵制をとるようになり、日本が憲法九条を遵守していれば、世界革命がおこる、と言っているそうである。
本を読んでいないので、どういう論理展開なのかは知らないが、なにやら両先生ともに、いよいよいっちゃっているような気はする。
蓮實重彦は、ぜんぜんもうろくしていないだけでも、やはりすごいことだ。 蓮實がフォークナーに言及している文章を読んだことはない
クロード・シモンなら目茶苦茶褒めていたがね 蓮實の批評を表現に変えるともの凄いつまんないだろ
結局フローベールやモーパッサンのリアリズム形式に描写が多用されてる小説で別にいいじゃんと
本人が小説書くとヌーヴォーロマンもどきになるのはご愛敬だが
自然主義ープルーストーヌーヴォーロマンの線しか本当は興味無いんだろうな
ドストエフスキーとジョイスとベケットは完全無視だし ゴダールなんて毛沢東から何から意味に満ちてて実験の極地で蓮實とはある意味対極の存在だけど全部骨抜きにして批評してしまう
ロブ=グリエの全く無意味な映画(あれはあれで好きですけどねw)じゃないんだからさあと 単に興味がないのか意味に対する徹底的な悪意と憎悪なのかが蓮實の場合分かりにくいんだよなあ フォークナーとかジョイス、ベケットはともかく、ドストエフスキーってあれ大衆小説ですからね
昔日本で言ったところの中間小説
主人公が人殺ししたり娼婦と恋愛したり四兄弟が出てきたり丁々発止の議論したりやたらと神が出てきたりテンコ盛りの通俗大浪漫活劇
中学生が感動してしまうたぐいの小説で大人がまじになるような代物ではない ○○が出てくるから大衆小説という発想は蔑むべき紋切り型 その意味では小説なんて全部通俗なものなんで何の問題もありません ハスミンは自然主義にはなんの興味もないでしょ
ハスミン的にはフローベールは単なる自然主義/写実主義の作家ではない
モーパッサンやゾラにエクリチュールの問題意識があったか疑問だし ドストエフスキー作品は、後のどぎつい系の大衆小説に多大な影響を与えたとはいえるが、
大衆小説だから批評の対象にはならない、
というように軽く扱ってよいものではないでしょう。
蓮實重彦は、決闘、かたき討ち、娼婦的な女、山賊、闘牛
などなどてんこ盛りの活劇の作家メリメだった論じていますよ。 そういえば、世界文学全集の類だと、
メリメはフローベールと同じ巻に所収のケースが多いように思う。
だから蓮実重彦は、もしかして子供のころに一緒に読んだのかもしれない。 ↑では主にドストエフスキーの物語内容的な部分を批判したけども、物語形式なんてどうでもいいとしても、ドストエフスキーにはエクリテュールの意識があったかどうかですね
ロシア語が読めるわけではないからそれは自分にはわからない
フランス語も読めないからフローベールにはエクリテュールの意識があったと言われても実感としてはわからない
これは翻訳ではわからなくて、原文で読める人にしかわからない たぶん蓮實重彦は、さすがにロシア語はできないから、
ドストエフスキーを論じていないだけではないですか。
英仏伊は論文を書けるくらいできて、独西も読めるでしょう。
つまり原文で読めるものは論じているわけですよ。 何もないところで言語をこねまわして惨憺たるエクリテュールを生み出すという点では藤枝静男とか後藤明生が好きなハスミンはベケットは好きそうなんだけどな
極限にまでいってしまう極端さがあると駄目なのか
中庸にとどまらないと メリメのコロンバは江戸時代に置き換えて仇討ち物の映画を誰かに撮ってほしい(生きてたら黒澤明)
二発で二人(=二太刀で二人)のシーンは椿三十郎の三船と仲代の決闘シーンに匹敵する名シーンになる
フランス文学きっての名ヒロイン、コロンバちゃん(切れ者なので萌えキャラではない)も出てくるし コロンバは、江戸時代ではなく、明治にしたほうが面白いのではないですか。
英国人の大佐父娘は、お雇い外国人紳士の親子、
コロンバの兄は、文明開化に順応して近代人になろうとしている洋行帰りの日本人、
コロンバは、その近代人になりたがっている兄に、
封建遺制的な仇討をいやおうなくなさしめようとする昔ながらの日本女性。
このほうがコロンバの(普通に読めば)魅力であるところの後進地域コルシカの野卑な美しさを文明人の目から描く、
という原作の趣旨に適うでしょう。 でも、ダンカンさんが、わたしとおなじく、カルメンよりもコロンバが好きなようで、うれしいですね。 ゴダール監督は、カルメンに憑かれてますよね。
「気狂いピエロ」は、ほぼカルメンだし、
「カルメンという名の女」もつくっている。 >>667
そもそもの守備範囲が狭いんだよな
大して読んですらいないんじゃないの?
特定の作家にしてもだいたい1、2作にしか触れないし >>680
完璧です!
>>681
圧倒的に、コロンバですね
カルメンも好きですけど たしかにいまや文学なんてオワコンだからなあ
ゲームくらい語れないとな エクリチュールの意識ってどういう意味で言ってるの? 645訂正
×換骨奪胎され
〇骨抜きにされ
お恥ずかしい書き間違いをしました。 中村光夫が安易でナルシシスティック私語りとしての私小説を批判するためにフローベールやモーパッサンの私を捨象した作り物の世界である自然主義を持ってきたのは分かる
蓮實がそのような意味での自然主義にまるで興味ないのも分かります 蓮實重彥はフローベールの小説を翻訳している
手許にある1975年出版の講談社世界文学全集第37巻はフローベールで、
中村光夫訳の『ボヴァリー夫人』蓮實重彥訳『三つの物語』『十一月』が収録されている >>690
でもシステマティックな構築ってだけなら大多数の欲望にしたがって言論や商品が配分されるネットの方が今やはるかに文学より面白いってことになっちゃうよね、それだと文学は全くリアルに追いつけない
特殊な私語りの方が消費されるだけにしてもまだしも面白いってのが現状では 蓮實の批評は蓮實なりの「何についても書かれていない書物」の実践なのかもしれない
そのためにテマティスムや構造主義的物語批評が動員され内容や意味、勝負ごとは周到に回避されただ美(蓮實の言葉で言えば荒唐無稽な記号ですか)にのみ耽り続ける
しかし「何についても書かれていない書物」に僕は拘る気は全くないけど「何についても書かれていない書物」ってそんなものあるいはそんな程度のものなのかって気がしますが 中村光夫がフローベールやモーパッサンを掲げて私小説批判に乗り出した30年代って西洋では日本の私小説みたいな安直なものでは無いにしろジョイス、カフカ、プルースト、セリーヌ、ジュネとか作者と小説の主人公がシンクロするようなあるいはそのまんまみたいな自伝的要素を含んだ小説が隆盛してるんだよね
中村光夫はその辺どう思ってたのか?
あとフローベール以上に見事に「私」を捨象した小説ってドストエフスキーですよねってのがバフチンのドストエフスキー論ポリフォニー論 蓮實の本は「作品」としては面白いんだけど
研究とは言えないものがほとんどだな
一番面白いのは「反=日本語論」かな
エッセイだと思うが 蓮実重彦は、学術論文よりも文芸批評のほうを「上」においているととれる発言を時折していた。
「論文は誰でも書けるが、批評は誰でも書けるわけではない」といったようなことである。
蓮実の書いた本を、「研究」ではないが「作品」として面白いというのは、
おそらく最大の誉め言葉だ。 >>697
馬鹿にしてるんだよ。誉めてるんじゃない。 >>698
馬鹿にしたつもりで褒めてしまったわけだ。 >>699
逆。誉めてるつもりで馬鹿にしてしまっている。 学術論文でも面白ければ批評性があるってことになるし文芸批評でもつまらなければただのゴミってことでどっちでもいいんですよw
文章の問題もあるけど名文でくだらないこと書いてもしょうがないしそれなら文章がいまいちでも頭が良すぎたらいいかなあ 菊地成孔がツイで発狂してるけどなんなんだ
町山氏絡みみたいだけど 発狂か?相手の土俵に入って普段通りの発言してるだけでしょ
町山もいつもの町山
菊地に同情するわ >>669にある
「単に興味がないのか意味に対する徹底的な悪意と憎悪なのか」
はどうでもよくないのね 1961年の公開と同時に世界に衝撃を与え、同年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した伝説の映画『去年マリエンバートで』。
現在まで“最も難解な映画”“最も解釈がなされた映画”などと語り継がれてきたこの作品が、オリジナル衣装を提供したシャネルの主導により、高精細4Kデジタル・リマスタリングが実現。昨年、再びヴェネツィア国際映画祭にて上映され、その完成度の高さにスタンディングオベーションが巻き起こった。
「去年マリエンバードで」4K版への賛辞
蓮實重彦のコメント
そこでは誰もがフランス語など喋っているが、マリエンバートとは国籍不明の土地だ。正装している男女も、それがいつのこととはまるで推察させない。
これは、どこでもない時代のどこでもない場所で演じられる、意味を欠いた必死の演技なのだ。その裸のフィクションのつきぬ魅力を満喫しよう。 金井美恵子のコメント
シャネルとレネの優雅なコラボレーションの背後で、ロブ=グリエのイメージは、見る者と読む者がいるかぎり、たとえばスペインの若い映画作家ホセ・ルイス=ゲリンの『シルビアのいる街へ』に反響し、世紀と空間を越えてネルヴァルの夢の速度に追いつき複数の不滅の女たちに出あう。かつて、カフカが滞在した保養地、あの、マリエンバートで―
菊地成孔のコメント
美しすぎる記憶の錯綜、迷宮としての美しいホテル、絶え間ないオルガンの美しい不協和音、美しいシャネルの服と美しいモノクロ撮影、美しい俳優と女優に、美しいほど難解な原作小説。あらゆる美しさの贅を尽くして出来上がった、世界そのもののような、誰にも指一本触れられない厳格な存在性。
そして、4Kデジタルリマスタリングで蘇ったのは、驚くべきことに、シャネル・ムーヴィーとさえ言える、映画史上最も贅沢な、二度と作られることのないオートクチュールの広告動画。
千葉雅也のコメント
これこそが倒錯の映画。出口なき時間と空間の迷宮に閉じ込められて空回りを続ける欲望の劇。
映画としても文学としても今なお先鋭的な、いや現在の目で観るからこそいっそう先鋭的な歴史的名作だ。 平野啓一郎のコメント
実験的な映画と言っても、貧乏臭さとは対極的で、全篇に亘る豪奢なエレガンスが見る者を魅了する。過去と現在、夢想と現実、無意味と意味の狭間を漂うミステリアスな官能性。
シャネルの衣装を完璧に着こなすデルフィーヌ・セイリグの美しさよ!
町山広美のコメント
レネ晩年の作もロブ=グリエの監督作も過去になった未来にいて、再びこの迷宮へ入城する。
38歳の2人のアランの夢想を、女は高笑いで聞き、真顔で睨み返すべきだろう。
彼らは願う。永遠の!未然の恋を!
滝本誠のコメント
衣裳の暗い記憶、衣裳の過去の呪縛。
ココ・シャネルによって、『去年マリエンバートで』は、痛みを封じ込めた<シネマ・マネキン>として永遠化された!男たちは仕えただけである。 リトル・ブラック・ドレスが人気を博した理由の一部はそれが導入されたタイミングであったかもしれない。1930年代は世界恐慌の時代であり、女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていた。シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した[76][37]:47。シャネルは昼用にウールかシェニールのリトル・ブラック・ドレス、そして夜用にサテン、クレープまたはベルベットのリトル・ブラック・ドレスを作るようになった(wiki「ココ・シャネル」から) 「去年マリエンバードで」では、主役は誂えを着ていたが、脇はプレタポルテを着ていただろう。
宮殿という貴族文化の遺物のなかで、「高級」とはいえ既製服を着ている女どもがたむろしているというのは、いまでは、大衆消費社会に過剰に適応したプリンセス、ダイアナ、キャサリン、メーガンなどをみればわかるように普通であるが、本来はミスマッチなものだろう。なにしろ、「シャネルは裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」できるようにしたと自慢した」デザイナー本人がこのように言っているのである。
金井「優雅なコラボレーション」
平野「実験的な映画と言っても、貧乏臭さとは対極的で、全篇に亘る豪奢なエレガンス」
↑は、キャバ嬢などもうんうんとうなずきそうな感想。
菊池「シャネル・ムーヴィーとさえ言える、映画史上最も贅沢な、二度と作られることのないオートクチュールの広告動画」
滝本「ココ・シャネルによって、『去年マリエンバートで』は、痛みを封じ込めた<シネマ・マネキン>として永遠化された」
↑は、「抵抗」なのか、あえてひねっている。
蓮実、千葉、町山はファッションについて、まるで言及しておらず、エレガンスやら優雅やらという言葉を遣うつもりもなかったようだ。 なお、上記で引用しなかった数名の方の評も、ファッションには言及していない。 こん中で快楽を感じられるのは金井、菊地だな
蓮實は「凡庸」すぎる 平野はつまらないなぁw
菊地、Twitterで町山に、シーライオニングというか、しっかり殴り返しててよかった
町山の反応が、菊池のTwitter分析通りなの笑った マリエンバートはロブ=グリエのこんな感じで撮ってほしいみたいな
構想説明小説?!があるよな。
「アンチロマン」という反小説を集めた文学全集の中の一冊。 あらゆる終りのあと永遠の黄昏の中にたたずむ(浅田彰) 皆さんとしては、上記の評者の中の、
あたかも「シャネルの作品」というような感想はどうです?。
あえていえば、作家主義的には、ココ・シャネル作、ということ。
わたしとしては、ロケ地の宮殿ロ内で、リトル・ブラック・ドレスを着た、シャネルのいう「裕福ではない人々が「億万長者のように闊歩」している様子が、
「神話作用」分析的には、見どころだと思うのですが。 たとえば、「ダウントンアビー」のようなテレビシリーズやその映画版では、大貴族の屋敷では、
貴族階級や大ブルジョワジーの女たちを演じる女優は、既製服は着ていません。
「去年マリエンバードで」の女たちは、「優雅」「エレガンス」というよりは、
ヨーロッパお城巡りツアーの観光客のホステスのような身なりで、
むしろ「庶民的」なのではないですか。 ちなみに、昨年経営破綻したダーバンのむかしのCMでは、
アラン・ドロンが、 C'est l'elegance de l'homme moderne
といったものです。
チャールズ・ブロンソンの「マンダム」の大成功に気をよくした広告代理店が、
↑の様な宣伝を仕掛けたというものだったと記憶しています。 オードリー・ヘプバーンの黒いジバンシィドレス(英語: The black Givenchy dress of Audrey Hepburn)は、ユベール・ド・ジバンシィによってデザインされたリトル・ブラック・ドレスであり、1961年に公開されたロマンティック・コメディ映画『ティファニーで朝食を』にて
オードリー・ヘプバーンが着用した。(wikiから)
同じ年に公開された「ティファ二―で朝食を」では、
リッチマンと結婚して成り上がりたい売春婦が、
こちらはシャネルではなくジバンシーのリトル・ブラック・ドレスを着ている。 国籍不明の土地で
ココ・シャネルの既製服を着てフランス語を話す男女を
<シネマ・マネキン>として眺める倒錯を楽しめる
広告動画ということでよろしいですか? アラン・レネ「ヒロシマ、モナム―ル」は傑作
アラン・ロブ−グリエ「嫉妬」も傑作
しかし、両者が組んだ「去年マリエンバートで」は駄作 蓮實や柄谷を幾ら批判しても、蓮實や柄谷のファンは無くならない。
こいつらは殺すしかない。 711,718の訂正
シャネルがプレタポルテの生産を始めたのは1978年でありました。
そういうことで、上記で、「既製服」としたところは、
「安価で素朴なドレス」と訂正します。 貧乏人は蓮實の真似するな
田舎者の定義は蓮實に幻惑される者 ショットについての連載(インタビュー)面白かった。 ≫日本的スノビズムの法王
これは、否定的評価でありながら、どうじに、なにかしら敬意も感じさせて、たいへんよい。 ≫意味を欠いた必死の演技
「去年マリエンバードで」4K版への賛辞で、
演技について言及していたのが、蓮実重彦だけなのを見落としてはいけないですよ。
シネフィル作家主義批評からは(おそらく)遠くにある内容の賛辞を送っているのが、
日本におけるその批評スタイルの「教祖」なのです。 世界の謎を解き明かすオイディプスたらんとする作者(大江健三郎、中上健次、ゴダールその他諸々)をまるで人間的内容を欠いたロブ=グリエであるかのように論じる蓮實重彦がロブ=グリエ本人の作品を前にすると無意味としての内容に触れざるを得なかったのかしらん ≫“最も難解な映画”“最も解釈がなされた映画”などと語り継がれてきたこの作品
↑の様なことがあるから、初心者向けに解釈等の必要なんかありませんよ、
と一言申した、ということではないですか。
また、レネ、ロブ₌グリエ、そして、製作者側がもっとも言ってほしかっただろうシャネル、
これらの名を言っていないのは、それが、フッションブランドの販促用の社会的機能しか担わないのが想定できたからではないでしょうか。 [この作品のオマージュはシャネルが衣装を担当したといわれる映画
「去年マリエンバートで L'Année dernière à Marienbad」だという。]
(記事 シャネルのファッションショー 2011年春夏コレクション)
4K版製作の前に、↑の様な事もあったようだし。 あるいは、ご期待に反してシャネルの名を出しませんが、しかし、ほかの名も出しません、
ということですかね。 さあ服とかあんま興味無いんでないの?w
こん時見に行ったけど俺も普段はギャルソン着るくらいで服なんてほとんど無知だからあーシャネルだったっけってなもんでw 蓮実重彦は、お年寄りとしては、ファッションブランドについての知識が、
かなりあるほうでしょう。 てか、『ヒロシマ・モナムール』て
なめてんのかと
『二十四時間の情事』は、『二十四時間の情事』、でしょう 『ピエロ・ル・フ』とか、ふざけんなよ、と
『気狂いピエロ』は、『気狂いピエロ』で、しょうと モードとは「定期的に現れる新作の集団的模倣」
モードとは、「健康であり、道徳であって、流行遅れとは病い、もしくは堕落」でモードとは、「権力である」
(以上、ロラン・バルト「モードの体系」から)
いうまでもなく、バルトのいう「モード」は、服装のモードのことです。
蓮実重彦は、「去年マリエンバードで」4K版への賛辞で、
その衣装について、「正装」という、この際「モード」とは
関係のない言葉しか使っていない。
「正装」ならば、服装と階級との不可分な関係が失われ、
「おしゃれ「」が万民のものになり、今日的な「モード」が誕生する
その前からあるのです。
また、いまだに「モードの中心」という幻想を世界の人々に抱かせる
「フランス」についても、「フランス語などしゃべっているが、どこでもない」というようにして、的をずらしています。 やっぱり蓮実の言葉は東大話法という認識でよいみたいだ 蓮實に関する豆知識
ミステリーやSFはあまり好きじゃない。 たけしさんは「殿」と呼び、
ハスミンは「御前(ごぜん)」と呼びたい 野暮な事をオシャレな感じで観せるのがゴダール作品。
いわゆるおフレンチなオシャレとは意味合いが違う、地に足がついていてなおかつ粋な映画を撮るのがジャックベッケル。
金井美恵子は「友だちの家はどこ?」のラストについて「今よく言われる意味でのオシャレな感じではなくて、オシャレ」と発言。 ロブ=グリエ自身の監督作は去年マリエンバードでの華麗にして甘美な空虚な戯れというよりチープでいかがわしいお遊び感が強い 真のシネフィルは固有名詞にこだわらない。
と、遠山純生。 遠山氏の論建ては知らないが、
いつのころからか、シネフィル作家主義というものは、
固有名詞を特権化させる=「ブランド名」を成立させる、
という、もっぱら消費社会のもとめる働きに終始するものになったのは確かである。 蓮實氏の批評自体は好きじゃないが蓮實氏の目利きとしての能力には一目置いております
拳銃魔とか犯罪王ディリンジャーとか蓮實氏が推してなければ多分見ておりますまい
最近は蓮實推しじゃないような映画ばかり見ておりまするが
蓮實信者は馬鹿のくせに蓮實氏の口真似と知識量のみで偉そうにするヲタ気質が嫌いデス 元はよくいるハスミ虫だったかもしれない遠山や元「アップル通信」編集長や吉田ナントカらの仕事の方が読み応えがある事は確か。
「蓮實重彦は良いけどそれに影響受けてる奴らはぜんぶだめ」と斬り捨てた中原昌也みたいなスタンス「だけ」なら誰でも模倣できるけど
そう言えばカッコがつくと思ってる奴はもっとダメ。 >>756
お前は人生で何もやりとげられず必ず後悔して死ぬ お前は宇宙で死ぬ
このセリフ、英語だとどういう表現だったのか? You're gonna die up there. >>753
≫真のシネフィルは固有名詞にこだわらない。
遠山氏は、↑をどういう文脈で述べたのでしょうか。
興味があるので、簡単にでよいので、教えてください。 ヘッジファンドの損失2兆円、SNSが株式市場で起こした「革命」
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00137/020100013/
米株式市場で個人投資家、そしてSNSの影響が見過ごせなくなっている。コロナ禍で台頭したこの2つの勢力によって、株式のプロであるウォール街のヘッジファンドが多額の損失を被った。
一方、今回の混乱によって、株式の民主化をうたった米ロビンフッド・ファイナンシャルが本当に弱者の味方なのかという議論が巻き起こっている。 ナイトストライカー
サンダーセプター
スペースハリアー
それぞれの違いを論じよ。 >>724
馬鹿か?
不滅の女もマリエンも傑作だよ馬鹿 蓮実重彦本人は、子供のころにみた映画が芯から好きなようであるが、
蓮実ファンの人たちは、子供のころにみた映画よりも、
長じてからみた映画が好きなようである。
このスレッドの蓮実ファンの方々は、いちばん年かさの方でも、あきらかに戦後生まれであろうから、
ここで話題に上りやすい映画の多くを、公開時に映画館でみることは、不可能であるか、
そうでなくとも、難しいはずなので、そのように推察されるのである。
これはあるいは、映画よりも、むしろ映画批評のほうが好きなのではないか、
と思わせられる傾向ではないか。
そうしたことは、本来の蓮実重彦の考え方とは、乖離した鑑賞の在り方だとはいえないか。
なお、私などは、小学校低学年のころにみた「燃えよドラゴン」とか、
もうすこしあとの「タクシードライバー」とかが、いまだに最も好きで、いつみても感動するのである。
長じてからみたゴダール監督作品(ちなみに、そのうち数本は四方田犬彦のライブ解説つきでみた)
などは、「いつみても感動する」というほどの思いはない。 >>768
淀川長治は生育環境によってマセガキになってしまった口だが、蓮実はどうなの? 本人の言葉のはじばしから、子供のころ観た映画が好きだ、
というのはわかるような気がしますね。
四方田犬彦の言によれば、蓮実重彦は子供のころに好きだった映画に思い入れがあるだけ、だそうです
蓮実重彦の文章に、小さいころ映画館にはだれそれによく連れていかれた、などというものが、
あるのかもしれないが、私は読んだことがない。 わたしにとっては、「去年マリエンバードで」にしても、
「ジャッカルの日」のマダム・モンペリエの人が主役をやっていたのか、
ということで、逆ではないのです。 蓮實の罪深いところはこいつがバカンス呼ばわりした監督の作品を信者が「バカの作品」という無意識のバイアスがかかった状態で見てしまう可能性、これがこわい。
たとえば蓮實が小馬鹿にしがちなアメリカンニューシネマとかウディ・アレンとかアラビアのロレンス。
アメリカンニューシネマについては実際は「玉石混淆」と言ってる。全部ダメなんて言ってない。 毒舌批評家全般に言える話だけど、それを叩くと、毒舌を吐くな、という良くない方向に行く べつに個人的な思い入れについて言っているのではなく、
1960年代生まれの者の子供のころに見た映画、ということだと、スコセッシ監督の名は挙がるが、
ゴダール監督の名は挙がらないし、
世代的には、映画館における鑑賞の順番が、
「ジャッカル」→「マリエンバード」となるのが自然、ということを言っているのですよ。 昨日もケーブルTVで、「真昼の決闘」をみたものであるが、
わたしは、そのジンネマン監督作品にしても「ジャッカルの日」のほうを先に見ている。
なお、「真昼の決闘」のほうは、映画館でみたこともないのである。 蓮實はゴダールとマキノ雅弘を同時に肯定することが課題だと言っていた
マキノの項にはフォードでもイーストウッドでもなんでも代入可能だろう
本人は明らかに矛盾なんだけどと言ってる
あまり実験的、前衛的なものを好まない蓮實もゴダールだけはさすがに無視出来ないのだろう
小説だとジョイス、ベケット、ソレルスとかは完全無視で近代リアリズム小説でいいじゃないって感じだが
つまりフローベールも言語の問題ではないんだろうな >>772
ハスミが褒めてるニューシネマって
続・激突、ミーン・ストリート、、以外だとどんなのあります? 狭義の意味でのニューシネマなら
イージーライダー(絶賛ではなかったと思うが)
断絶(これも「結局はあちら側の映画」と言いつつ評価)
他のヘルマン作品は褒めていた。
ポロンスキーやクレイマークレイマーの監督の西部劇もニューシネマ?
真夜中のカーボーイは褒めてないが、最後のジョンボイトの顔は絶賛。
あとは忘れた。 「あちら側」というのは、映画より同時代の風俗現象におもねったスタンスという意味ではないかと思う。 ゴダール監督作品は、「実験的」「前衛的」なのでしょうか。 むしろ現代(当時)の映画で最も反動的とも言える存在となってしまったのがゴダール作品
とか
中庸なのがゴダール(これは本人も語っている)なのだ
とか
その時々で変わる。 ≫蓮實はゴダールとマキノ雅弘を同時に肯定することが課題
むかしの蓮實映画評論は、↑のような言い回しをしたがるのが、欠点であり、
くだらないところだったと思う。それをマネする人が、かつて少なからずいたことには、
やや辟易したものだ。
両方とも、おもしろかった、などと感じたなら、
すなわち、「肯定」したことになるだろう。
たとえば、ドゥルーズの「シネマ」を引き合いに出して、
反弁証法的に、「映画の画面には否定が無い」というような場合には、
哲学論的な意味合いがあにしても、特段とそういうのでないかぎりは、
なにも、映画は弁証法的に鑑賞すべし、というものでもないのだから、
肯定も否定も、好き嫌いのほかの意味はないでしょう。 ただし、蓮實世代の人は、ついついヘーゲル哲学をイメージしてしまうということで、
「否定」という言葉自体に抵抗感を持つ傾向があったので、
そのぎゃくに「肯定」という言葉を何となく遣いがったということもある。
だから、心情的にはわからないでもない。 ×ついついヘーゲル哲学
〇ついついヘーゲル哲学および西田哲学 >>782
ありがとう
ハスミのニューシネマ批判は、
ニューシネマのやや内向きなストーリーやスローモーションの多用に対してもあるけど
ニューシネマが別段ニューじゃないってツッコミを入れたかったのがメインなのかな
元ネタは知ってるぜって感じで
ニューシネマの元ネタになってる映画を日本で見ることはなかなかできず
ハスミもフランス留学時代にシネマテーク・フランセーズで見たのだろうから ホークスがペキンパーを嫌っていたけど、蓮實は常に説話の経済効率や簡潔さにこだわっているわけでもなく
無駄と思えるカットを並べていくうちに醸し出される何かを認めてはいた(そうでなくてはヴェンダースなんて評価できない)。
「唐突な」死によるバッドエンドを勿体つけた語りで衝撃的に見せかける事に対して新しさより退化を感じていたのだろう。 ヘーゲル哲学を知ってたら「否定」という言葉自体に抵抗感を持たないと思うが 「60年代アメリカ映画」という本の前書きでは
表紙にはNew cinemaと書いてあるけどこの本はいわゆるアメリカンニューシネマとは無関係である
とわざわざ断っていた。
この時期のアメリカ映画は他の国に比べてどっちつかずでモヤっとしているという意味の言葉も。
しかしそれでも、アルドリッチやシーゲルやフライシャーやフラーなど蓮實ファンお馴染みの娯楽監督作品群が(敢えて?)語られていないのに幅広くて豊かだと思わせる。
黒沢清のサンダンス滞在記には、アーサーヒラーについての印象(人物、作品)がまるで変わったとか色々面白い事が書いてある。ヒラーだけでなく出てくる人物たちのキャラクターがそれぞれ鮮明。 上島、遠山による本かな
大御所については禁欲してニコラス・レイやジョゼフ・ロージーを介してハリウッド史を描いてた
ハスミの『ハリウッド映画史講義』へのオマージュかな
読んでみる ドゥルーズ哲学には「否定」がない、というのが普通の理解である。
これは反ヘーゲル、反弁証法的立場である。、
蓮実重彦は、そゥした考え方に共感を持っている。
ただし、ドゥルーズにかぎらずポスト構造主義は、
超越論的主体にあたるものをメタレベルにおいやっただけで、
じっさいには、否定性を確保しつつ、それをたんに隠蔽しているだけという批判もある。 蓮實重彦ってほぼ名前しか知らんけど最近読んだジョナス・メカスの映画日記
ニューアメリカンシネマの起源と云う本が良かった。
蓮實重彦の著作でこういうのありますか? また、浅田彰は、否定が無い、を換言して、
ドゥルーズ哲学には、他者が無い、すなわち、独我論の一種、というようなことを言っており、
それについて、蓮実は「(浅田さんの)見事な整理」と評している。
(批評空間柄谷編著「シンポジウム3」) 付言すると、ヘーゲルの場合は、たんなる肯定というのはなく、
否定の否定というふうになるのですよ。
ドゥルーズの場合は、徹底した反ヘーゲル主義ですから、
はなから否定性というもの自体を拒否しているので、
否定の否定が肯定というふうにはならないのです。 井蛙
ポスト構造主義者たちは、テクストとその解釈を同一の地平線上に置き、
あらゆるテクストをそれ自身の解釈を含んだ無限の連続体に置き換える。
このような主張においては、すべての玉石混淆たる読解が審美的な次元に平準化されてしまう
(そしてこの操作の裏には、ポスト構造主義者たちによる〈メタ言語〉の専横が隠匿されている、
というのがジジェクの批判である)。
ドゥルーズ哲学には自己もなければ他者もない、という蓮實的理解に対する「テクスト論」に係る批判としては、
ジジェクの「この操作の裏には、ポスト構造主義者たちによる〈メタ言語〉の専横が隠匿されている」
こういうのが典型でしょうね。ドゥルーズが成立平面とかという風に呼ぶものとして、
超越論的主体に当たるものは、実はひそかに確保されている、ということです。
上記の浅田の整理は、基本的にジジェクと同じ構図でもって、対象領域を存在論全体に広げて言っていたものだということ。 フランス型知識人は常識に担保されたことしか言えない、ということ。
常識に担保された新奇で過激な発言。 「美的判断は主観的であるが普遍的である」
(カント『判断力批判』)
蓮実重彦の根っこにあるのは、↑です。
その思想的な根っこは、ハイデガー、ドゥルーズなどと共通している。
はたからは、「美学主義」に後退している、という風に見えることも多々あるが、
本人的には後退しているつもりはないのです。
ドゥルーズよりはむしろ、ハイデガーが戦後には詩の研究ばかりしていたのと
非常に似ているように思う。 偉い人の好みを知って自分もそれに合わせるミーハーな行いもそれなりに理にかなっているわけだ。 【彼(ドゥルーズ)が好んでいたたとえ話で言えば、彼は蜘蛛であり、光と音がその蜘蛛の糸を震わせていたのだ。
この蜘蛛にとって光と音は糸の振動それ自体であり、糸の振動がその外にある光と音を知らせるのではない。
「眼がスクリーンになるとき」というこの本の名前のもうひとつの片割れは、映画の観客が蜘蛛になり、
映画がもはやイメージの向こうにある何かを知らせるものではなくなる状況を指し示している】
(福尾匠)
↑は、ひじょうに上手く説明している。福尾氏が言い表していることを端的にいうと、
自他の別がない「マシニック」ということである。
ヘーゲルでは通常の理解ではそうはならない。
自他未分の「眼がスクリーンになっている」状態は、否定され、眼(自)とスクリーン(他)は対立(矛盾)したものとして現れる。
その対立が止揚され(否定の否定)メタレベルの包括的な自己へ還帰し対立(矛盾)のない状態になる。
これを教科書的にいえば、「正反合」ということになる。なお、この一連の過程が「時間発展」である。
こちらは、ドゥルーズとしては、弁証法的「メカニック」というべきものであって
彼としては受け入れがたい。 蜘蛛がどうやって巣を張るのかを知っていれば、その例えはむしろヘーゲルの主張を補強するものだ。 804さんのいうとおりで、
ヘーゲル哲学を哲学的に批判しても勝ち目はないとわたしも思う。
だから、ハイデガーのスタンスが一番いい。ハイデガーは、「ヘーゲル哲学は哲学の完成」だと言っている。
そのうえで、ハイデガーは、「哲学とは違う思考」というものを自分は求めるのだ、
といったこと述べている(シュピーゲルに掲載のインタビュー)。しかし、彼は、その「哲学とは違う思考」というものがどういうものなのか、
何も語らなかった。 >>805
あなたは卑劣な人間だとわかった
以後「わたし」と「ですよ」をNGにする 思考すること、ないし思考の発生に関するドゥルーズの議論は、それでもなおハイデガ ーの探究に寄り添う仕方で端緒を開いている。『差異と反復』の第三章で、ドゥルーズは 『思惟とは何の謂いか〔何が思索を命ずるか〕』の冒頭を参照しつつ、そこにみられるハ イデガーの問題提起―私たちはいまだ思考していないのだから、思考することを学ばな ければならない―を共有する。ただし、私たち〔人間〕に「思考せしめる」(donne à penser, zu denken gibt)ものを贈与(don, Gabe)と捉えるハイデガーに対し、ドゥルーズはそこに 暴力(violence)をみてとる。ドゥルーズによれば、ハイデガーが贈与というメタファーに 固執するのは「存在に関する前存在論的な暗黙の了解」としての「〈同じもの〉の優位」に 根ざした「ひとつの欲望、あるいはひとつの φῐλία、思考と思考されるべきものとのアナ ロジー、より適切にはそれらの相同性(homologie)といったテーマ」を保持しているから である(DR188, n.1)。しかもそこには、理性的な生き物としての人間への期待さえ透けている。
(ハイデガーとドゥルーズ/ガタリの近さと遠さ ―相依相属性をめぐって― 増田 靖彦) サド=マゾヒズムの単位に対する批判は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが『マゾッホとサド』で 明らかにしているものである。この著書は、主にマゾヒズムの内実について思想的に検討するが、同時に サド=マゾヒズムの単位に対する批判、すなわちサディズムとマゾヒズムの本質的な差異に基づく独立性 を主張する。
(マゾヒズムとサディズムの暴力性 ̶バタイユにおけるその解決 宮澤由歌) >>768
映画美学校と藝大に行ったとき、幼少期の映像体験を一番大切にしろと言われたわ
だから俺もゴダールやら小津やらよりもスターウォーズとウルトラマンとガンダムが好きだよ 蓮實重彦と川上未映子の随分前の対談をたまたま読んだ
相変わらずというかこれから小説を書こうという人があれを真に受ける人は少ないと思いたい蓮實信者くらいだろうけど
何かについて書くことは周到に回避されてるんだね
世界について現代について人間について日本について愛について小説というツールで思考することを考えろと坂口安吾みたいな古風なこと言いたくなるw
技術や技法のみ学んで精神を学ばないのはダメだと中村光夫みたいなこと言いたくなるなw
ゴダールやベケットやピンチョンみたいな天才の真似なんて無理としてもロブ=グリエみたいな奴は1人だけでいいしいかに書くかだけじゃなく何を書くかを考えろと言いたいw このスレのラヴェルは際限なく下がっていくなあ
書き込む気が失せるわ 反復強迫をもたらすのは、人間のもつ「死の欲動」だ。それは生物(有機 体)が無機質に戻ろうとする欲動で、それが外に向けられるとき攻撃欲動とな る。それが何らかの契機を経て内に向かうことによって形成されるのが「超自 我」である。自立的、自己規制的な検閲だ。超自我は個人よりも集団(共同体) のほうに顕著にあらわれる。文化とは集団における超自我だと考えた。現実原 則や社会規範によっては攻撃欲動を抑えることはできないから戦争が生じる。 攻撃欲動を抑えることができるのは他ならぬ攻撃欲動だ。それが内に向けられ て超自我=文化を形成することによって自らを抑えるのだ。
3 天皇制と戦争放棄 憲法九条を、意識ではなく無意識の問題として、一種の「超自我」として見 るべきだ。それは、「文化」の問題で、九条が意識的な反省によって成立するも のではないことを意味する。
(柄谷行人著『憲法の無意識』の江ア民二による要約から) 主にフロイトの批判的読解に基づき、マゾッホをサドと対比させて論じた、やや難解で思弁的な作家論。精神分析の知識がある程度ないと着いていくのは困難であろう。
ドゥルーズは本書で、サディズムとマゾヒズムの対称関係という通念を批判し、両者は本質的に異なるものだと主張する。
ドゥルーズによれば、サディズムは否定、論証的理性や観念の支配、制度的専有といったものに関わり、マゾヒズムは否認、宙吊り的な未決定性、想像力による理想の具現化(フェティシズム)、契約関係といったものに関わる、ということのようである。
法を無化し超克しようとするサド的イロニーと、法を厳密に遵守することによって嘲弄・挑発するマゾッホ的ユーモア、という対比の説明はなかなか面白い。
(ランドル環。ドゥルーズ著・蓮實訳「マゾッホとサド」についての書評) ↑の二つの引用を読めば、日本のドゥルージアンが、柄谷護憲論を無批判に支持するようなことのが、
いかに無定見なことかわかるはずだ。 なんかもう疲れるわ
象徴主義とかヌーヴォー・ロマンとかヌーヴェル・ヴァーグとかポスト構造主義とかニューアカとか全部無駄だったんだな
世界には相変わらずアホしかいない
結局小説にしても映画にしても「安心したい」奴ばっか
決して自己を揺り動かされるような体験は求めてないし好きだとか教訓を得たいとか納得したいとか理解したいとか子供の頃の体験を肯定して欲しいだとか分かり易く意味を説明して欲しいだとかそういうもの求めてる 感動したいのか?
分かり易く意味を説明して欲しいのか?
形式ではなく意味を求めるのか?
相田みつをでも読んでラッセンを壁に飾ってアニメでも見てればいいんじゃね そういう奴が地球上で生きてても、おれに関わらなければ別にいいが、神聖なるハスミンのスレにツラ出すなや おれは子供の頃に見たガキ向けの映像作品やら漫画よりゴダールとかとかベルトルッチとかヴェンダースとかカラックスのほうが好きだぜ スコセッシは、タクシードライバー以外は駄作だな(ミーン・ストリートはよく覚えてないから保留)
ギャング映画しか撮れないオッサンだよ
で、タクシドライバーのどこがまだ見れるかというと、退廃的だからだよね
で、その退廃的なのがどこが由来かというと脚本のポール・シュレイダーでしょ
スコセッシのほかの作品は最初期のドアをノックするのは誰?とか以外は退廃的なムードはほとんど見られなくてマッチョだから
タクシードライバーも身体を鍛えるけどあそこのデ・ニーロは細マッチョ
スコセッシのほかの作品は細マッチョではなくオラオラ系のガチマッチョ
しかしタクシードライバーのあの取ってつけたかのようなハッピー・エンドはいかがなものか
あそこで死んだとこで終わってれば真の傑作たり得たのに 道徳的マゾヒズムの無意識性ということは、あるヒントを与える。われわれは「無意識的罪悪感」という言い方は、権威から罰せられたいという欲求だとした。父親に撲たれたいという空想的な願望が、父親と受動的な性愛関係を結びたいという別の願望と似ていて、この願望の退行的歪曲にすぎないことを知るのである。良心と道徳とは、エディプス・コンプレックスの克服、その非性愛化によって生じたものである。
(フロイト「マゾヒズムの経済論的問題」の北川清一郎による要約から) タクシードライバーは、音楽、主演女優二人、特にこれが良いんですね。
あれをハッピーエンディングというのはどんなものか。
含みがありますからね。その「含み」のゆえか、レーガン大統領暗殺未遂事件まで引き起こしているわけで。 デ・ニーロもトラヴィス・ビックルを超えられないけどスコセッシもタクシードライバーを超えられなかったんだなあ タクシードライバーは、わりとポストモダン的な映画でもある。
ヴィジランティズムの肯ような面は、「狼よさらば」
マグナム44遣うところなどは「ダーティーハリー」、とか、
そういうネタがすぐわかるようになっている。
ちなみに、トラビスが使用する拳銃は、マグナム44がハリー、ワルサーPPKがボンド、
コルトのリバルバーがブリットなど、
コルトのオートは、これは長年ネタが分からなかったのだが、最近「野良犬」で三船が盗まれるものと同じだ、
ということを知った。
また、トラビスは、今日のトランピストの先駆みたいなところもある。
こういうふうに、いろいろ探れるところもある。 ≫あそこで死んだとこで終わってれば真の傑作たり得たのに
死んだら、三島由紀夫作品か、梶原一騎作品、
要するに日本の劇画みたいになってしまいますね。 最後にベッツィーがトラビスと話したくてタクシーに乗ってきたのに、
クールにふるまうところがいいんですよ。
しかし、別れ際の言葉が「So long」と軽くて、含みがある。 「タクシードライバー」より「アリスの恋」「レイジング・ブル」の方が上出来 それと、劇映画の場合はふつう、画面に映っているのは、
俳優であって、監督ではない(イーストウッドみたいなスター兼巨匠を除く)。
劇映画の観客というのは、もっぱら俳優をみるのであって、監督をみるのではない。
また、音楽などを聴くのであって、監督がしゃべるのを聞くわけではない。
わたしは、けっこういい歳になるまで、監督は誰それ、
などということをきにして映画をみるという習慣が無かった。
監督の名を意識した最初は、たぶん「地獄の黙示録」と「旅芸人の記録」あたりではないかな。 誰それ監督作品が好きだ、というのは、
この服が好きだ、というときに、着心地や柄・デザインなどよりも、
ブランドイメージが好きだ、というのに近い。
そういうことだと、「マリエンバード」4K版への賛辞の多くのように、
レネやロブ₌グリエは、シャネルに名前負けする。
シャネルは、人類文明への影響度ということなら、エジソンやヘンリー・フォードなんかと同等で、
20世紀の「偉人」クラスだから、当然そうなるのです。 >誰それ監督作品が好きだ、というのは、
>この服が好きだ、というときに、着心地や柄・デザインなどよりも、
>ブランドイメージが好きだ、というのに近い。
そうですか?
作家個人とその作家特有のテクニックとスタンスは直結してると思いますけどね
そうじゃなきゃ誰もゴダールやらヴェンダースやらアンゲロプロスは見ない
山田洋次も伊丹十三も宮崎駿も固定客は彼ら固有の文体を見てますよ フォードにしてもホークスにしても小津にしても溝口にしてもそう 小説や絵画のような、通常はほぼ独力で制作するのと違って、
映画の場合は集団で制作しますからね。
作品に個性が出る、とはいっても、監督の個性だけが出るわけではない。
一般的な観客の場合は、まず俳優の個性に注目するでしょうし、あとは、原作者の個性に注目する人やら、
色々いるのではないですか。 映画監督がイコール「作家」だというのは、トリフォーあたりが言い出して、
それが一部で前提的なものになっているというだけのことでしょう。 さっきTVで「動乱」をみていた。
似たような「戦前の日本の悲哀」をテーマにした映画に「203高地」というのがあった。
「気狂いピエロ」のなかで、サミュエル・フラーが、
「映画は戦争だ」という。「戦争は映画だ」と逆にすれば、
203高地の激戦の日本側監督=作家は、乃木大将、プロデューサーは、伊藤博文や山縣有朋などの元老、
日本側映画会社社長は明治天皇、で、
戦死者たちを含む兵隊は、派遣を含むスタッフさんたちということになるのではないか。 スタッフなんてコロコロ入れ替わるんだから文体に対する影響なんてない──ほぼゼロ──ですよ
撮影監督が若干ある程度
作家の固定客はまず文体で見ます
役者だのなんだのは後づけもしくは無意識──自分が文体のファンであることすら意識化できない──なだけです
そもそも山田洋次が固有の文体を持ってなければ渥美清は客を呼べるスターになれないんだから文体が先です
このスレのひとっていちいち前提的なことにイチャモンをつける人が多いけどそういう人たちがハスミンスレにいる理由がわからない
何もわかってないんじゃないの?
バカは来んなっての!
ジャンジャン! 高倉健は、黒沢監督が三船さんを世界的にしたのではなく、
三船さんが黒沢監督を「世界のクロサワ」にしたのだ、といった。
おなじように、名優渥美清が山田監督を巨匠にしたのだ、
といえるかもしれない。 すぐそうやって現実と結びつけて意味を求めようとする
そういうのはインチキ臭い社会学の領域であって映画にはなんの関係もない
映画は現実やら社会やら歴史やらのアナロジーではない
教訓やら道徳を得たいなら映画なんか見ずに宗教とか自己啓発セミナーに行ってくれ 深作欣二監督の遺作バトル・ロワイアルは、日本映画史上最高傑作だと思うけど、蓮実先生はちゃんと評価できてる? >>837
はっきり言っておきますが、三船が黒澤を「世界のクロサワ」にしたのではなく黒澤が自分で「世界のクロサワ」になったのです
三船を「世界の(?)ミフネ」にしたのも黒澤であって三船自身ではない
そうじゃないと思いたいなら、アンタいかれてますな
いちいち人のインタヴューなんか真に受けてんじゃないよ きのうトニー・スコット監督の「スパイゲーム」を観たのですが(公開時の映画館でも見ている)、わたしなんかは、この映画を、子供のころに見て大好きだったシドニー・ポラック監督の「コンドル」(後に原作の和訳も読んでいる)の四半世紀後という感じでみてしまうんですよ。ようするに、おなじCIAものということで、ロバート・レッドフォードを中心にみてしまうんですね。 タクシードライバーの元ネタは、ど根性物語・銭の踊り?
レナード・シュレイダーが日本滞在中にたまたまテレビで見た勝新太郎の映画の話を弟のポールにしたのがきっかけ、という話を聞いたことがあるけど
銭の踊りを見てないので何とも言えないw アホが多いからめっちゃナイーヴな──つまりアホな──説明に費やしてる 山田洋次とか宮崎駿とか伊丹十三とか庵野秀明とかは日本の大衆にウケる文体があるんだなあ
大衆の現像というかかつて浅田彰が呼んだ「土人」に大向こうウケする何かが さてそろそろ大好評を頂いている「おホモたちの挽歌」シリーズの続きを執筆しますか 「大衆の原像」は、吉本隆明が言ったものです。
それを浅田彰が引用したのです。 その「大衆の原像」は今こそ重要な概念
なのにちゃんと理解してる人はいないよな
浅田もその例にもれない
吉本が平明なことばで説明してるのに >>844
浅い考察だな
大衆に受けてるわけじゃない
大衆は流行りものに乗りたいだけ
流行らせる人間に受けてるものが流行ってるんだよ
このインフルエンサー向けなのが、宮崎駿や庵野秀明ってこと 大衆向けとかいう考えの根底には、大衆が自ら求めるものを探し出してるような誤解があるが、全然違うから
大衆に自主性なんかまるでない
流行らせることができる人間が重要
このインフルエンサーを分析する方が大衆文化に対する理解が深まる 吉本みたいな自分よりアホが書いたものなんか読めるか 吉本の本なんか読んでないお里の人間を想像してみりゃ、いかに自分の発言がバカ丸出しかわかるはずなのにな 何故いきなり道徳や意味になるのだろうか
ゴダールやストローヴ=ユイレが映画を通して思考したことは愚かな道徳や意味に過ぎず我々は文体、形式だけだけ見てればいいと言うのだろうか?
カフカやジョイスやベケットやピンチョンや大江も然り? よくさー
「まるでゴダールなど存在しなかったかのように映画を撮る」みたいな言い方あるじゃん?
あれ、超うざいなw >>855
足りない頭で「想像」とか
そういう図々しいことをよくも言えるものだと
悪い意味で感心するよ
だからお里が知れるというのだよ
そしてバカ丸出しなのは君だということを
決して忘れるな
そうでないと周りのものが迷惑するからだ
だいたいこっちは「じゃあね」つって
これ以上話さないつもりでいたのに
未練がましく2レスもするような輩だから
もうレスすんなつってもバカだから理解
できねえんだろう
情けないことだ インフルエンサーとかw
男はつらいよとかマルサの女とかラピュタとかトトロとかもののけ姫(初出時)とかエバンゲリオン(初出時)とかの時代にインフルエンサーなんかいねーよw
ネットがねーんだからw
全ての時代にネットがあったかのような思考しかできないネット脳のガキンチョは引っ込んでろw >>856
まず形式が最優先
意味はそのあと
形式が面白くない作品の意味など無価値だ
ゴダールとストローブ・エ・ユイレは形式「も」面白い作家の代表格だろ カフカなどという三流作家はともかく、ジョイス、ベケット、ピンチョン、大江はまず形式からしてしっかりいているのである インフルエンサーとか関係ねいよ
大衆は自らの意思に於いて選択する主体なのである
そのことを見ずしてファシズム批判はない
集団心理に責任を転嫁するのは誤ちである ドイツ国民は自らの意思でヒトラーとナチスを選択したのである
すべてはここを押さえておかねばならない このスレでまかり通っている通俗的な分析は社会学という通俗的な学問の領域であって哲学や映画とは無関係である
社会学とは何よりも意味を最優先として形式を不問に付す
通俗的な学問にほかならない
哲学と映画はもっと非効率的/非経済的で無駄なもの=不純物を孕んだものなのである × 哲学と映画はもっと非効率的/非経済的で無駄なもの=不純物を孕んだものなのである
○哲学と文学と映画はもっと非効率的/非経済的で無駄なもの=不純物を孕んだものなのである (アホ諸君は)(おれから)学べよ、盗めよ by ビートきよし師匠 メモれ! テプれ! コピれ!
スマホれ! タブレットれ! PS5れ! 山田洋次とか伊丹十三とか宮崎駿とかアンノなんとか?とかの本質的にファシズム的な作品がウケてしまう土壌は日本にあり極めて憂慮すべきである 内容と様式をくらべれば、主題と形式をくらべれば、様式や形式のほうがずっと重要であることなど、わかりきっている。
それなのに、文学批評や芸術批評や文化批評の大半は様式や形式、すなわちスタイルというものを語るスタイルをもってこなかった。(中略)
スーザン・ソンタグが30歳そこそこで気がついたことは、スタイルこそがラディカルな意志をもっているということだった。
これは世の批評の怠慢がいかにひどい体たらくだったかということを告げるとともに、一人の才女が何かの理由で一挙に気がついたことが、
どれだけ世の中の新たな芸術感覚や表現感覚にとって慈雨のような潤いに満ちているかを告げた。
(松岡正剛「千夜千冊スーザン・ソンタグ) 吉本隆明「アフリカ的段階」は、英訳されなかったことが悔やまれる本田ではないか。
ブラックパンサー党は、かつてはマルクスに依拠した活動方針をとっていたが、
あるころから「マルクスの思想にはアフリカ文明を考察する観点が無い」ということで、 ↑の続き
マルクス離れを起こし、今日に至っている。
「アフリカ的段階」がアメリカで読まれていれば、
黒人運動に結構な影響を与えた可能性がある。
現在のようなポリティカルコレクトネス一辺倒ではない、
70年代の労働者・農民運動としての黒人運動を踏襲する形がありえたかもしれない。 872の訂正
×ブラックパンサー党は
〇たとえばブラックパンサー党などは ≫浅田浅田彰が呼んだ「土人」に大向こうウケ
日本が吉本隆明のいう「ハイイメージ段階」にさしかかっているとすれば、
「アフリカ的段階」のいわば「土人」の文明が、テクノロジズムによって
「ハイイメージ段階」において回復(復興)されるというかのような
吉本的アフロフュ―チャリズムには説得力があったと言えないか。
はたして映画だと「ブラックパンサー」みたいなかんじになるでしょうか?
ちなみに「ブラックパンサー」は、最近では、アメリカ人の選ぶ
映画史上の傑作20とか30とかに入っているケースが多い。 なお柄谷・浅田が、昭和天皇崩御の際に
皇宮前広場で拝跪している日本人について遣った「土人」という言葉は、
三島由紀夫「北一輝論」にある
「北は、天皇について、土人の酋長くらいのものとしか考えていなかった」といったような
文章(北一輝本人がそう言ったかどうかは不明)の孫引き?です。 三島が土人という言葉を使ってたのを浅田も真似たみたいなキテレツなこじつけには驚いた。「土人」という言葉はいつから三島の専売特許になったんですか?www 中上が、柄谷との対談(「歴史の終わりを超えて」所収)で、
柄谷・浅田が昭和天皇崩御の際に「土人」という言葉を使ったことに
文句を言ったのです。
それにたいして、柄谷が「土人というのは、北一輝が言ったことなんだよ」
と言ったということがあるのですよ。
しかし、柄谷が北の本を読んだとは思えないので、三島の「北一輝論」の受け売りだろう、
と考えるわけです(当時柄谷は三島の著書を読み返していた)。 訂正、
「歴史の終わりを超えて」に所収の対談は、柄谷・浅田のもの
柄谷・中上の対談は、「ダイアローグ3」に所収だったと思う・ インフルエンサーという言葉と、それに相応する存在の区別もつかないバカが蓮実を語ってるとか、さすがに蓮実も気の毒だな こんなこといいながら何レスも書き込むアホ
811 脈打つダンカン ◆RoWesEnmGs [sage] 2021/02/05(金) 20:55:04.35 ID:9wvW6QUS
このスレのラヴェルは際限なく下がっていくなあ
書き込む気が失せるわ 吉本も浅田も柄谷も蓮實や西部邁以下なんだから語るだけ時間の無駄
アホだらけなスレだなほんと 宮台に毛が生えた程度の浅田や柄谷を論じるこのスレの教養の低さには反吐が出るな ちよっと考えたらわかること。
蓮實がそんなにすごいなら
欧米で著書が翻訳されまくってるはずだろ?
韓国じゃなく欧米な せめて小林秀雄や福田恆存、岡潔くらい語れる知的教養を身につけたまえ 知ってる名前を全部言ってみる大会が始まったかwww お客様の中に
浅田彰が登場する前から
ドゥルーズやデリダを読んでた方は
いらっしゃいますか?w ドゥルーズはキャッチーだからウサン臭い
造語みたいなものを多用するコピーライターみたいな奴だな
同語反復みたいなんでウジウジやってるデリダのほうが面白いし信用できる デコンストリュクスィヨンは、キャッチーなつもりはなく、ハイデガーのDestruktionの訳語として消極的に、なんの気なしに使い始めたら、アメリカでウケたから自分の看板みたいにしたんだろう
知らんけど >>881
>インフルエンサーという言葉と、それに相応する存在
なら、男はつらいよとマルサの女とラピュタとトトロともののけ姫(初出時)とエバンゲリオン(初出時)の時代の「インフルエンサー(中略)に相応する存在」を具体的に説明してみせろよ
固有名等を挙げてな
できないんだったら無意味なハッタリをぶっこくんじゃねえっての CUREのBDと蛇と蜘蛛とニンゲンのDVD買っちゃったよ
BDレコーダー/プレーヤー持ってないのにw >>892
インフルエンサーは一般人に紛れてるのだから、個人名なんて特定できるわけない 宮崎駿だって最初に持ち上げたアニメマニアがいるが、そいつは当然一般人だ 2回目の特別定額給付金出たらレコーダー買うか
それとも来冬にノースのバルトロライトジャケット買うか 一般人の中から同時多発的にインフルエンサーが発生し、そこから中心に大衆に広がっていく >>897
おれはアニメマニアでは全然なかったしおれ自身インフルエンサーでは当然なかったけどテレビでコナン見てたしアニメージュでナウシカ見かけたことあったし映画館でナウシカもラピュタもリアルタイムで見た
当然インフルエンサーなんていなかったし知らんそんな奴は
宮崎は初期から商業的にメディアの波に乗ってた
インフルエンサーが波を作るのではなく、(当時は)メディアが波を作ってた >>900
マスメディアが宮崎駿を取り上げる過程を想像してみろよ池沼 >>901
お前が世の中の仕組みを理解せずに踊らされてるアホな典型的な大衆ってだけ 他人が言ってたことをどっかで聞きかじって、それをさも自分が考え出したみたいに思い込む典型的なアホな大衆 小津のお正月映画って動員はどんなもんだったんだろ
ジョン・フォードも封切り当時はただのハリウッドの娯楽西部劇の巨匠でしょ いつものオコチャマくんか
君はいっつもズレてるなあ
ゆとり教育って哀しいね
ま、図書館に足繁く通いなさい、ぐらいしか云えない 世界にピカソの絵の良さを
本当に本当に本当にわかってるやつは何人くらいいるんだろうな? 本から学ぶやつはアホ
まともな知性があれば経験から学べる フィルムノワールとかスクリューボールコメディとかハリウッド映画好きだけどやっぱり娯楽映画として見てるな
ホークスが特に好きだけどあまり監督はもはやそんなに関係なく
日本の娯楽映画も戦前戦後を問わず見るし面白いし時折ハッとする場面もあるけどね
しかしそれは文学でいうとフォークナーを読む感じじゃなくチャンドラーを楽しみとして読む感じに近い
逆にゴダールはやはり同じようには見れない
シネフィルは同じものとして見るんだろうけどね 宮崎に明らかに固有の文体があったからメディアの波に乗れたんだよ
インフルエンサーなんちゅうのが当時あったら都市伝説かオカルトのたぐいだな
ネットが存在する今ならいざ知らず
つーかインフルエンサーがどうとか下らなすぎる
「インフルエンサー」なんて恥ずかしい単語を真顔で口にする人初めて見た
そんなこっ恥ずかしい人実際にいるんだ
リュウチェル?とか吉本芸人?とかキム・カーダシアン?とかのSNS見過ぎだろw >>910
頭悪いなお前
インフルエンサー=有名人って発想しかできないのか?
単なる友達だって、そいつから影響受けるなら、その友達はお前にとってインフルエンサーなんだよ フォードとホークスは別格ですわ
あえて陳腐な言葉で云うなら、神 蓮實重彦の信者ってこんなにアホばかりなんですかね?標準的なコミュニケーション能力さえ持たず
頭が悪い癖に気取った白痴ばかりで驚愕。結構いい年いった風俗が趣味のこじらせ中高年男性が多いんだろなぁ。 「絵画の理解」ということになると、
なにかとピカソが持ちだされるということ自体が理解できない。
別に悪いとも思わないが、ただ当時の「先鋭的」な絵画としては、
あか抜けないところのある作品群である。
マチスの作品群と見比べれば、その垢ぬけなさがわかると思う。
いわば民芸品みたいなところがある。
また、私はニューペインティング世代なのもあってか、
ピカソの絵画から、
なにかしら「理解しがたい」というような感じを受けたことが全然なく、
むしろ平凡さしかかんじない。
かたや、マチスの絵画も同様に平凡さをかんじるものだが、
どうじに「センスいいな」とも思う。 そんならそれを「インフルエンサー」って言う必要ねーわな
友だちでいい
友だちのこと「インフルエンサー」なんて馬鹿にしたような言い方したら友だちに失礼だろw
ウケ狙って言うのか?
とにかく馬鹿馬鹿しいから「インフルエンサー」談義はそのへんにしろっての!
お前、つまんないよ
ジャンジャン! >>918
頭悪いなお前
インフルエンサーって概念の中に、有名人だの友達だのマニアだのの外延が存在するんだろ 機能が同じだからインフルエンサーって概念でまとめてるだけ お前乃木坂なんとかのファンなのか?
「インフルエンサー」ってその時の流行語をネタに歌詞を書くことがウリの秋元康がネタにするような恥ずかしい言葉だぞ
「セーラー服を脱がさないで」とかと同義語な
これ、普通の感覚があれば常識な 知らねーけどおニャン子?とかエーケービー?とかなんとか坂57?とかの曲のタイトル検索してみ もういいわ
インフルエンサーの話は飽きた
このコの相手は常にとてつもない徒労感あるわw
おれって優しいからいつもある程度付き合ってあげちゃうんだよなw インフルエンサーというのは、感化力が強い人、というほどの意味だから、
それはむかしからいるでしょう。
大はトランプ前大統領から、小は幼稚園のませた子まで、
どれもインフルエンサーには違いない。 蓮實批評のいいところはアイドル映画だろうがなんだろうが属性は関係ないとこなのに おれはパンツの穴の1作目もタンタンタヌキ?もコータローまかり通る?も映画館で見た漢だぞw
お前らとは “格” が違うんだよw 話はずれるのですが、
宮崎アニメをアメリカの映画関係者がほめたのは、
陰謀なんではないかと思うことがある。
日本人に手描きアニメに固執させて、CGアニメへの移行を遅れさせるため、
ディズニーあたりの仕組んだことではないのか、とつい疑ってしまうのだ。
CGアニメ技術は、むかしは日本のほうがアメリカよりも進んでいたところあったはずだ。
それが、いつの間にか、はるかに水をあけられている。
アニメならば、人種的に不利ということがないので、技術的に勝っていれば、
いくらかは国産がアメリカ製に太刀打ちできたかもしれないのに、
残念である。 「俺は田舎のプレスリー」評なんて、蓮實重彦にしか書けない。
山田洋次系統のダメさ加減と、「画面の映画」としての素晴らしさを共に具体的に語っている。
でもこういうのばっか書いてたら一部の映画ファンからは好かれてもマイナーどまりだっただろう。
森崎東「釣りバカ日誌S」は恥ずかしくてキツい部分(出演してはいないけど前半が吉岡秀隆的)と無自覚な活劇性を併せ持つ厄介な(面白い)作品だが
ビートたけしの「菊次郎」や「龍三」にこんな(あれこれハズしても固有のパワーで巻き返す)魅力は無い。 宮崎駿もしょーもないけど、アメリカのアニメはもっと駄目だ
ヒーロー物もあかん
古い人間と言われるかもしれないが、これが正直な感想
どうも、馬鹿馬鹿しくってまともに見れない 森崎東の初期の青春物は渥美清はなかなか面白いけど見ててやっぱキツかったなw
ヒモ天国は最高に面白かったけどw 浅田彰じゃないけど、アニメは押井守で “ギリ”
アンノ?はエバンゲリオン?に納得のいくオチ(結末)をつけられたら、評価の土俵に乗せてもいいけど、25年ぐらいやってても、思いつかないんだから、ムリだろう 鈴木則文の受け止め方にしても、中原昌也や柳下や中野貴男や山根らよりは蓮實の方がずっと上で
年間ベスト1にした作品にせよトラック野郎シリーズ(クライマックスになると弛緩)にせよ吼えろ鉄拳の扱いにせよ、変に持ち上げたりせずに納得いく評価をしている。
桂千穂「ほとんどの優れた監督には必ず女々しいところがあるけれど、則文さんは男らしい人だった」
澤井「助監督についていて最初は、凡庸なカットを平気で積み重ねているのにオッケー最高と言ってるのに呆れていましたが
だんだんこの人はすごい人なのではないかと思い直しました」 コータローまかり通るの原作漫画ははるか遠い昔読んでたことがあったんだけど、舞台の高校の敷地がとてつもなく広い、という設定が面白かった 喜劇特出しヒモ天国の芹明香は山中貞雄の丹下左膳に匹敵する。
本人はいつものままなのに爆笑させるという意味で。 たぶん今度のエバンゲリオン?の映画も、オチ(結末)丸投げで、10年後ぐらいにリブート作品を作るんだろう
で、それのオチも......(r
以下延々ループ なんかホークスの赤ちゃん教育なみにしつこい映画でねw コータローの原作、扉絵でやたら作者自身のロックバンド(5¢)の宣伝してた事ぐらいしか覚えてない。
当時のマンガでは作者が好きなアイドルだのロックミュージシャンだのをしつこくアピールする行為がよくあった(鴨川つばめ江口寿史秋本治小林よしのり…)けど、本人のバンドってところが図々しいというか微笑ましいというか。 ヒーロー物はバートンのバットマン2作が “ギリ” だな
ダークナイトになるとかなりしょーもない
ライミはハスミヤンは嫌いになれない監督だからスパイダーマンはそこそこだけど
おれ実はジョーカー見てねーんだわw コンイチカワ的なタイポグラフィーや岡本喜八的なカット繋ぎもあったけど
ファイヤーフォックスとかキャプラとか >>940
ファイブスター物語?の人とかバスタード?の人とか喜国雅彦?とかのメタラー系の人は今でもそういうのやってますね ダークナイトはコンイチカワの映画みたい
見づらいアングルと照明のコマを高速で繋いでて何が映ってるのかさっぱりわからん 神代辰巳は赫い髪の女が傑作と言われるけど好きじゃないな
神代の作風にあの脚本は合わない エルガイムのヘビーメタルはカッコ良いと思ったけど、永野護のマンガはきちんと読めない。
プログレ知るより前にアトールやアシュラテンプル(ペル)などの名前を知らされた思い出がある。
バスタードはモテないデブのオタクがマンガ内でデイブリーロス気取りしてるような感じにまったく乗れず。 憂歌団の主題歌が合いすぎてるのがダメという青山真治に珍しく同意。
土木作業場面の撮り方もカサヴェテスに劣る。
武田一成の「おんなの花道・濡れた海峡」は大した作品じゃないかもわからんがもう一度観てみたい。
野糞シーンのあるロードムービーとしてヴェンダースと並び、いちおう原作は田中小実昌。 エルガイムを漫画にしたやつ最初のほう読んでました
ちらりとウィキ見たらまだ連載してるんすね
バスタードも昔読んでたなあ
つか(谷崎を大(おお)谷崎と呼んだ中上に習って呼ぶなら)大富野翁(おおとみのおう)は癌駄無のラインよりザブングル〜ダンバイン〜エルガイムの三部作のラインが素晴らしい 70年代の泥臭くも白けた作風で神代は生きる
赫い髪の女は単につまんない映画に思えた
女たち猥歌になるとやっぱり神代はいいなあとなるw こち亀は全く認めない派だけど唯一台風かなんかのエピソードの回は素晴らしい
次点で部長の家でのお正月かなんかの回かな
あとは駄目 さすらいはモロにウンモひり出してるとこ──ウンモそれ自体──が映ってる珍しい映画 ザブングルは当時は笑ってたティンプのギャグがかなり寒いのと
エルチの「無意味(本当は意味で満ちている)なエロ」場面の多さ。
ダンバインはバッテン顎のまま進むのがすごい。世界観が台無しとも評されたビルバイン(内田吐夢版「武蔵」の高倉健のようなカラーリング)も好きだった。 映画ではないしこれを仮にAVとみなしたらどうでもいいことだが
「さむくないかい」の脱糞はフェイクではなくリアルでした。
スカトロジックな描写を好む森崎東でさえ「ニワトリはハダシだ!」の脱糞シーンはフェイク。 >>954
そこまで憶えてるのがすごいっすよw
おれは中身はほとんど忘れたなあ ≫(谷崎を大(おお)谷崎と呼んだ中上に習って呼ぶなら)
谷崎潤一郎,谷崎精二兄弟について、
潤一郎のほうを大谷崎ということはむかしからありました。
たとえば三島由紀夫もそのように呼んでいます。 「朝までたけし軍団」の冒頭で、いきなりカメラの前に飛び出し下に新聞紙を敷いてウンコ座りしたビートたけしはもちろん脱糞することなどなく
どうせやらないのなら過激ぶってそんな真似するなよと思わせた。 >>957
そうなんですね
中上は谷崎に私淑してるところ大だったのはよく知られてますが、呼び方はそういう伝統に習っていたかもですね エルガイムはデフォヒロイン?のアムが、黒髪ストレートロングなのにまるでヤンキーの彼女みたいで
しかも初回の作画が悪ノリ(ハートのノドチンコ?)しており
ガキの頃にいけすかなかった存在は改めて見ても印象が変わらないのだなと思った。
各話のラストで、次にこいつが出てきますよ的な予告はゲーム的で好きだった。 ビートたけしは雑誌の企画で「とんでも戦士ムテキング」批評を強いられ
「感覚が古臭い」と叩き斬った。
80年代タツノコの「ズレ」などありがたいと思ったことはない(しかしウラシマンのエンディングテーマは当時からノスタルジーに訴求していた)が、今やそれも我が血肉と化しているのかもしれない。 三部作は今でももしレンタル屋にあったら全部見たいなとたまに思うもんなあ
じっさいの気力と体力を考えたらやらないけど 大まかにはダイオージャなどと変わらない。
しかし、ダイオージャより面白い。 815脈打つダンカン ◆RoWesEnmGs 2021/02/05(金) 21:05:03.52ID:9wvW6QUS
なんかもう疲れるわ
象徴主義とかヌーヴォー・ロマンとかヌーヴェル・ヴァーグとかポスト構造主義とかニューアカとか全部無駄だったんだな
世界には相変わらずアホしかいない
↑のようなことを言っていたのに、それがどういうわけで、
TVタレントとマンガ・アニメの話ばかりするようになるのですか。 タツノコというと、変な人に映画化されてけがされたけど、キャシャーンは深甚な実存主義作品
真の美少女タイムボカンの淳子ちゃん、ガッチャマンの白鳥のジュンは美少女絵の先駆的かつ完成とも言える、後世に多大な影響を与えた重要な造形 浅田彰が「白痴の天国」という状態そのものではないですか。 >>964
総ては等しく芸術だからです
ジャンルに貴賤なし
駄目なマンガもあれば、素晴らしいマンガもあるのです それならばガンダムが好きだという人がいてもいいでしょう。
しかし、ダンカンさんは、その人をアホよばわりしたでしょう。 >>968
そうでした?
三部作も好きですけどガンダムもそれなりに好きですよ
ただあまりにも世間が──いまだに──ガンダムガンダムなので少々ウンザリしてるだけです ガンダムの話もうんざりするだろうけれど、
それならばビートたけしの話にもうんざりする人が多いのではないですか。
その他大勢のTVタレントの話にしてもうんざりするでしょう。 ハスミストならお笑いも形式で論じないと筋が立たないw まあ漫画とかアニメの話は不快に思う人もいるだろうからほどほどにしときますけども たけしコノヤロ
お前のせいで怒られちゃったじゃねえかバカヤロ
お嬢(井子ちゃん)を嫁にくれっての! マンガだから、アニメだから、不快ということはないですよ。
固有名詞や題名を羅列するだけで寸評が無ければ、
それを鑑賞していない人は何も言えないし、
鑑賞していたとしても、そうそう、か、ちがうちがう、か、
そういうことしかいえないでしょう。 蓮実スレなので、蓮実重彦の著書、訳書、対談等、
こういうものについての予備知識があるのは当然かもしれないが、
「お笑い」テレビタレントについて知らないのはふつうなのではないですか。
ちなみに、わたしなどは、地上波はわざわざ映らないようにしていますから、
今どういう番組をやっているのかも知りません。 おれも最近はテレヴィ(by 大江健三郎)はあんまし見ないですけどね
大河とモヤさまと全米TOP40だけですね ぶっちゃけハスミン自身はそこまでハードコアに形式を重んじる人ではない
それはジョイスやフォークナーやナボコフやベケットやピンチョンやソレルスに一顧だにしないことからも伺える かくいう脈打つダンカンことおれは、ハスミンの発展的/批判的継承者としてはるかにハードコアで原理主義的な形式主義者なのである ダンカンスレ立てお疲れバカヤロー
スレ立て、つい先日したつもりが半月経ってのか 蓮實は映画バカを装っているが
カミオカンデで有名な物理学者の
小柴先生と対談するなど人脈は多岐に渡る 浅田彰と福田和也が蓮實に冷笑的なのはわからんでもない
柄谷行人が福田を小説を読める批評家と認めるのも暗に蓮實をおちょくってるのかもしれない 丹生谷貴志が蓮實の批評は読むことの倒錯であって自分は作家が書く場を考えたいみたいなこと言ってたけどやっぱりあれは倒錯的な読みであり観賞なんだよな Wiki「ガダマー」から
『真理と方法』の第二部で、ガダマーはそれまでの解釈学に代わる新しい「哲学的解釈学」をうち立てた。ロマン主義的・歴史主義的な解釈学は、
テクストないし歴史的出来事をその時代から理解すべきだという歴史的意識の要求に従って、形式的な解釈学的循環をテクストや歴史に適用し、
理解する者の歴史性を否定してしまった。しかし、ハイデガーによれば、理解(了解)は有限な人間存在の存在様式として、それ自身歴史的なのである。
人文科学での理解、過去から伝承されたテクストの理解は、ロマン主義的・歴史主義的解釈学が考えていたように、現在と現在に由来する先入見を排して、
時代を飛び越えて、成立時のテクストとかその著者の心情とかを再構成することではない。
理解は過去が現在に媒介(橋渡し)される出来事、過去から伝わったテクストの意味への参与である。 理解が媒介・参与である以上、テクストの内容を現在に生かす適用は、理解においていつもすでに起きていると考えなければならない。
テクストそのものの意味を捉えたあとで、それをあとから自らの状況に適用するのではないのである。
この理解をガダマーはまた、プラトンの問答術に従って、問いと答えの弁証法としても記述した。
まず、過去から伝承されたテクストが解釈者に語りかけ、問いかける。テクストの内容の真実性に動かされ、
解釈者にとって自明で無意識であったもの(先入見)が自明性を失う。これによってはじめて、解釈者は、自らの先入見を吟味し、
テクストに問いを立てるようになる。 「魂の唯物論的な擁護のために」の中の浅田彰との対話で、
蓮実重彦は、自らの「読み」は、テクスト論的なものだと考えられているが、
じっさいには、解釈学的なものだ、といったことを述べていたと思う。
その「解釈学」というのは、上記引用の「ロマン主義的・歴史主義的」解釈学ではなく、
ガダマーのそれに近いものだろう。 『差異と反復』の第三章で、ドゥルーズは 『思惟とは何の謂いか〔何が思索を命ずるか〕』の冒頭を参照しつつ、そこにみられるハ イデガーの問題提起―私たちはいまだ思考していないのだから、思考することを学ばな ければならない―を共有する。ただし、私たち〔人間〕に「思考せしめる」(donne à penser, zu denken gibt)ものを贈与(don, Gabe)と捉えるハイデガーに対し、ドゥルーズはそこに 暴力(violence)をみてとる。ドゥルーズによれば、ハイデガーが贈与というメタファーに 固執するのは「存在に関する前存在論的な暗黙の了解」としての「〈同じもの〉の優位」に 根ざした「ひとつの欲望、あるいはひとつの φῐλία、思考と思考されるべきものとのアナ ロジー、より適切にはそれらの相同性(homologie)といったテーマ」を保持しているから である(DR188, n.1)。しかもそこには、理性的な生き物としての人間への期待さえ透けている。
(ハイデガーとドゥルーズ/ガタリの近さと遠さ ―相依相属性をめぐって― 増田 靖彦)
しかし、それは↑でドゥルーズが批判したような、ハイデガー的な「思考と思考されるべきものとのアナ ロジー、より適切にはそれらの相同性」
換言すれば、ガダマーそしてその元のハイデガーが依拠していたであろうカント哲学の「想像力とカテゴリーの『相同性』」を前提にしたもので、
それはドゥルーズのみならずデリダもいうように、
「原暴力」を隠蔽したものだということになるのではないか。
蓮実「倒錯」批評の「限界」というのは、そこなんではないですか。 映画をみる、ということに関して、その「暴力性」についていえば、
映画をみることができる共同存在性が前提にされた解釈学であって、
たとえば未開人や乳幼児や生まれつき全盲の人が視力回復手術後に包帯を解いて
はじめて映画をみるときの「暴力性」というものは、 つづき
考慮されていない。
ちなみに、私の母は、小さいころにマンガを読む習慣が無かったせいか、
漫画が読めない。絵と字がばらばらで読めないのだそうだ。
しかし、母よりも年上の伯母は、若いころ手塚治虫の担当編集者だったくらいなので、
とうぜんマンガが読める。 991訂正
×「想像力とカテゴリーの『相同性』」
〇「想像力の図式機能とカテゴリーの『相同性』」 まあ自分もハリウッド映画見る時は似たようなもんです
娯楽としてストーリーにハラハラドキドキしつつ監督の技芸を楽しみ女優の存在自体を楽しむ場合もある
俺は観賞しないけど落語家の芸や技術を楽しむようなもんですかねまさに形式主義!
現役の作家でいうとピンチョンやウエルベックが次は何を書くんだろうみたいな興味はありません
蓮實の批評はアホみたいなハリウッド映画をいかに擁護するかという戦術かもしれませんね このスレッドは1000を超えました。
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