【翳りの歴史のために】蓮實重彦2【仮死の祭典】
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>>897
おれはアニメマニアでは全然なかったしおれ自身インフルエンサーでは当然なかったけどテレビでコナン見てたしアニメージュでナウシカ見かけたことあったし映画館でナウシカもラピュタもリアルタイムで見た
当然インフルエンサーなんていなかったし知らんそんな奴は
宮崎は初期から商業的にメディアの波に乗ってた
インフルエンサーが波を作るのではなく、(当時は)メディアが波を作ってた >>900
マスメディアが宮崎駿を取り上げる過程を想像してみろよ池沼 >>901
お前が世の中の仕組みを理解せずに踊らされてるアホな典型的な大衆ってだけ 他人が言ってたことをどっかで聞きかじって、それをさも自分が考え出したみたいに思い込む典型的なアホな大衆 小津のお正月映画って動員はどんなもんだったんだろ
ジョン・フォードも封切り当時はただのハリウッドの娯楽西部劇の巨匠でしょ いつものオコチャマくんか
君はいっつもズレてるなあ
ゆとり教育って哀しいね
ま、図書館に足繁く通いなさい、ぐらいしか云えない 世界にピカソの絵の良さを
本当に本当に本当にわかってるやつは何人くらいいるんだろうな? 本から学ぶやつはアホ
まともな知性があれば経験から学べる フィルムノワールとかスクリューボールコメディとかハリウッド映画好きだけどやっぱり娯楽映画として見てるな
ホークスが特に好きだけどあまり監督はもはやそんなに関係なく
日本の娯楽映画も戦前戦後を問わず見るし面白いし時折ハッとする場面もあるけどね
しかしそれは文学でいうとフォークナーを読む感じじゃなくチャンドラーを楽しみとして読む感じに近い
逆にゴダールはやはり同じようには見れない
シネフィルは同じものとして見るんだろうけどね 宮崎に明らかに固有の文体があったからメディアの波に乗れたんだよ
インフルエンサーなんちゅうのが当時あったら都市伝説かオカルトのたぐいだな
ネットが存在する今ならいざ知らず
つーかインフルエンサーがどうとか下らなすぎる
「インフルエンサー」なんて恥ずかしい単語を真顔で口にする人初めて見た
そんなこっ恥ずかしい人実際にいるんだ
リュウチェル?とか吉本芸人?とかキム・カーダシアン?とかのSNS見過ぎだろw >>910
頭悪いなお前
インフルエンサー=有名人って発想しかできないのか?
単なる友達だって、そいつから影響受けるなら、その友達はお前にとってインフルエンサーなんだよ フォードとホークスは別格ですわ
あえて陳腐な言葉で云うなら、神 蓮實重彦の信者ってこんなにアホばかりなんですかね?標準的なコミュニケーション能力さえ持たず
頭が悪い癖に気取った白痴ばかりで驚愕。結構いい年いった風俗が趣味のこじらせ中高年男性が多いんだろなぁ。 「絵画の理解」ということになると、
なにかとピカソが持ちだされるということ自体が理解できない。
別に悪いとも思わないが、ただ当時の「先鋭的」な絵画としては、
あか抜けないところのある作品群である。
マチスの作品群と見比べれば、その垢ぬけなさがわかると思う。
いわば民芸品みたいなところがある。
また、私はニューペインティング世代なのもあってか、
ピカソの絵画から、
なにかしら「理解しがたい」というような感じを受けたことが全然なく、
むしろ平凡さしかかんじない。
かたや、マチスの絵画も同様に平凡さをかんじるものだが、
どうじに「センスいいな」とも思う。 そんならそれを「インフルエンサー」って言う必要ねーわな
友だちでいい
友だちのこと「インフルエンサー」なんて馬鹿にしたような言い方したら友だちに失礼だろw
ウケ狙って言うのか?
とにかく馬鹿馬鹿しいから「インフルエンサー」談義はそのへんにしろっての!
お前、つまんないよ
ジャンジャン! >>918
頭悪いなお前
インフルエンサーって概念の中に、有名人だの友達だのマニアだのの外延が存在するんだろ 機能が同じだからインフルエンサーって概念でまとめてるだけ お前乃木坂なんとかのファンなのか?
「インフルエンサー」ってその時の流行語をネタに歌詞を書くことがウリの秋元康がネタにするような恥ずかしい言葉だぞ
「セーラー服を脱がさないで」とかと同義語な
これ、普通の感覚があれば常識な 知らねーけどおニャン子?とかエーケービー?とかなんとか坂57?とかの曲のタイトル検索してみ もういいわ
インフルエンサーの話は飽きた
このコの相手は常にとてつもない徒労感あるわw
おれって優しいからいつもある程度付き合ってあげちゃうんだよなw インフルエンサーというのは、感化力が強い人、というほどの意味だから、
それはむかしからいるでしょう。
大はトランプ前大統領から、小は幼稚園のませた子まで、
どれもインフルエンサーには違いない。 蓮實批評のいいところはアイドル映画だろうがなんだろうが属性は関係ないとこなのに おれはパンツの穴の1作目もタンタンタヌキ?もコータローまかり通る?も映画館で見た漢だぞw
お前らとは “格” が違うんだよw 話はずれるのですが、
宮崎アニメをアメリカの映画関係者がほめたのは、
陰謀なんではないかと思うことがある。
日本人に手描きアニメに固執させて、CGアニメへの移行を遅れさせるため、
ディズニーあたりの仕組んだことではないのか、とつい疑ってしまうのだ。
CGアニメ技術は、むかしは日本のほうがアメリカよりも進んでいたところあったはずだ。
それが、いつの間にか、はるかに水をあけられている。
アニメならば、人種的に不利ということがないので、技術的に勝っていれば、
いくらかは国産がアメリカ製に太刀打ちできたかもしれないのに、
残念である。 「俺は田舎のプレスリー」評なんて、蓮實重彦にしか書けない。
山田洋次系統のダメさ加減と、「画面の映画」としての素晴らしさを共に具体的に語っている。
でもこういうのばっか書いてたら一部の映画ファンからは好かれてもマイナーどまりだっただろう。
森崎東「釣りバカ日誌S」は恥ずかしくてキツい部分(出演してはいないけど前半が吉岡秀隆的)と無自覚な活劇性を併せ持つ厄介な(面白い)作品だが
ビートたけしの「菊次郎」や「龍三」にこんな(あれこれハズしても固有のパワーで巻き返す)魅力は無い。 宮崎駿もしょーもないけど、アメリカのアニメはもっと駄目だ
ヒーロー物もあかん
古い人間と言われるかもしれないが、これが正直な感想
どうも、馬鹿馬鹿しくってまともに見れない 森崎東の初期の青春物は渥美清はなかなか面白いけど見ててやっぱキツかったなw
ヒモ天国は最高に面白かったけどw 浅田彰じゃないけど、アニメは押井守で “ギリ”
アンノ?はエバンゲリオン?に納得のいくオチ(結末)をつけられたら、評価の土俵に乗せてもいいけど、25年ぐらいやってても、思いつかないんだから、ムリだろう 鈴木則文の受け止め方にしても、中原昌也や柳下や中野貴男や山根らよりは蓮實の方がずっと上で
年間ベスト1にした作品にせよトラック野郎シリーズ(クライマックスになると弛緩)にせよ吼えろ鉄拳の扱いにせよ、変に持ち上げたりせずに納得いく評価をしている。
桂千穂「ほとんどの優れた監督には必ず女々しいところがあるけれど、則文さんは男らしい人だった」
澤井「助監督についていて最初は、凡庸なカットを平気で積み重ねているのにオッケー最高と言ってるのに呆れていましたが
だんだんこの人はすごい人なのではないかと思い直しました」 コータローまかり通るの原作漫画ははるか遠い昔読んでたことがあったんだけど、舞台の高校の敷地がとてつもなく広い、という設定が面白かった 喜劇特出しヒモ天国の芹明香は山中貞雄の丹下左膳に匹敵する。
本人はいつものままなのに爆笑させるという意味で。 たぶん今度のエバンゲリオン?の映画も、オチ(結末)丸投げで、10年後ぐらいにリブート作品を作るんだろう
で、それのオチも......(r
以下延々ループ なんかホークスの赤ちゃん教育なみにしつこい映画でねw コータローの原作、扉絵でやたら作者自身のロックバンド(5¢)の宣伝してた事ぐらいしか覚えてない。
当時のマンガでは作者が好きなアイドルだのロックミュージシャンだのをしつこくアピールする行為がよくあった(鴨川つばめ江口寿史秋本治小林よしのり…)けど、本人のバンドってところが図々しいというか微笑ましいというか。 ヒーロー物はバートンのバットマン2作が “ギリ” だな
ダークナイトになるとかなりしょーもない
ライミはハスミヤンは嫌いになれない監督だからスパイダーマンはそこそこだけど
おれ実はジョーカー見てねーんだわw コンイチカワ的なタイポグラフィーや岡本喜八的なカット繋ぎもあったけど
ファイヤーフォックスとかキャプラとか >>940
ファイブスター物語?の人とかバスタード?の人とか喜国雅彦?とかのメタラー系の人は今でもそういうのやってますね ダークナイトはコンイチカワの映画みたい
見づらいアングルと照明のコマを高速で繋いでて何が映ってるのかさっぱりわからん 神代辰巳は赫い髪の女が傑作と言われるけど好きじゃないな
神代の作風にあの脚本は合わない エルガイムのヘビーメタルはカッコ良いと思ったけど、永野護のマンガはきちんと読めない。
プログレ知るより前にアトールやアシュラテンプル(ペル)などの名前を知らされた思い出がある。
バスタードはモテないデブのオタクがマンガ内でデイブリーロス気取りしてるような感じにまったく乗れず。 憂歌団の主題歌が合いすぎてるのがダメという青山真治に珍しく同意。
土木作業場面の撮り方もカサヴェテスに劣る。
武田一成の「おんなの花道・濡れた海峡」は大した作品じゃないかもわからんがもう一度観てみたい。
野糞シーンのあるロードムービーとしてヴェンダースと並び、いちおう原作は田中小実昌。 エルガイムを漫画にしたやつ最初のほう読んでました
ちらりとウィキ見たらまだ連載してるんすね
バスタードも昔読んでたなあ
つか(谷崎を大(おお)谷崎と呼んだ中上に習って呼ぶなら)大富野翁(おおとみのおう)は癌駄無のラインよりザブングル〜ダンバイン〜エルガイムの三部作のラインが素晴らしい 70年代の泥臭くも白けた作風で神代は生きる
赫い髪の女は単につまんない映画に思えた
女たち猥歌になるとやっぱり神代はいいなあとなるw こち亀は全く認めない派だけど唯一台風かなんかのエピソードの回は素晴らしい
次点で部長の家でのお正月かなんかの回かな
あとは駄目 さすらいはモロにウンモひり出してるとこ──ウンモそれ自体──が映ってる珍しい映画 ザブングルは当時は笑ってたティンプのギャグがかなり寒いのと
エルチの「無意味(本当は意味で満ちている)なエロ」場面の多さ。
ダンバインはバッテン顎のまま進むのがすごい。世界観が台無しとも評されたビルバイン(内田吐夢版「武蔵」の高倉健のようなカラーリング)も好きだった。 映画ではないしこれを仮にAVとみなしたらどうでもいいことだが
「さむくないかい」の脱糞はフェイクではなくリアルでした。
スカトロジックな描写を好む森崎東でさえ「ニワトリはハダシだ!」の脱糞シーンはフェイク。 >>954
そこまで憶えてるのがすごいっすよw
おれは中身はほとんど忘れたなあ ≫(谷崎を大(おお)谷崎と呼んだ中上に習って呼ぶなら)
谷崎潤一郎,谷崎精二兄弟について、
潤一郎のほうを大谷崎ということはむかしからありました。
たとえば三島由紀夫もそのように呼んでいます。 「朝までたけし軍団」の冒頭で、いきなりカメラの前に飛び出し下に新聞紙を敷いてウンコ座りしたビートたけしはもちろん脱糞することなどなく
どうせやらないのなら過激ぶってそんな真似するなよと思わせた。 >>957
そうなんですね
中上は谷崎に私淑してるところ大だったのはよく知られてますが、呼び方はそういう伝統に習っていたかもですね エルガイムはデフォヒロイン?のアムが、黒髪ストレートロングなのにまるでヤンキーの彼女みたいで
しかも初回の作画が悪ノリ(ハートのノドチンコ?)しており
ガキの頃にいけすかなかった存在は改めて見ても印象が変わらないのだなと思った。
各話のラストで、次にこいつが出てきますよ的な予告はゲーム的で好きだった。 ビートたけしは雑誌の企画で「とんでも戦士ムテキング」批評を強いられ
「感覚が古臭い」と叩き斬った。
80年代タツノコの「ズレ」などありがたいと思ったことはない(しかしウラシマンのエンディングテーマは当時からノスタルジーに訴求していた)が、今やそれも我が血肉と化しているのかもしれない。 三部作は今でももしレンタル屋にあったら全部見たいなとたまに思うもんなあ
じっさいの気力と体力を考えたらやらないけど 大まかにはダイオージャなどと変わらない。
しかし、ダイオージャより面白い。 815脈打つダンカン ◆RoWesEnmGs 2021/02/05(金) 21:05:03.52ID:9wvW6QUS
なんかもう疲れるわ
象徴主義とかヌーヴォー・ロマンとかヌーヴェル・ヴァーグとかポスト構造主義とかニューアカとか全部無駄だったんだな
世界には相変わらずアホしかいない
↑のようなことを言っていたのに、それがどういうわけで、
TVタレントとマンガ・アニメの話ばかりするようになるのですか。 タツノコというと、変な人に映画化されてけがされたけど、キャシャーンは深甚な実存主義作品
真の美少女タイムボカンの淳子ちゃん、ガッチャマンの白鳥のジュンは美少女絵の先駆的かつ完成とも言える、後世に多大な影響を与えた重要な造形 浅田彰が「白痴の天国」という状態そのものではないですか。 >>964
総ては等しく芸術だからです
ジャンルに貴賤なし
駄目なマンガもあれば、素晴らしいマンガもあるのです それならばガンダムが好きだという人がいてもいいでしょう。
しかし、ダンカンさんは、その人をアホよばわりしたでしょう。 >>968
そうでした?
三部作も好きですけどガンダムもそれなりに好きですよ
ただあまりにも世間が──いまだに──ガンダムガンダムなので少々ウンザリしてるだけです ガンダムの話もうんざりするだろうけれど、
それならばビートたけしの話にもうんざりする人が多いのではないですか。
その他大勢のTVタレントの話にしてもうんざりするでしょう。 ハスミストならお笑いも形式で論じないと筋が立たないw まあ漫画とかアニメの話は不快に思う人もいるだろうからほどほどにしときますけども たけしコノヤロ
お前のせいで怒られちゃったじゃねえかバカヤロ
お嬢(井子ちゃん)を嫁にくれっての! マンガだから、アニメだから、不快ということはないですよ。
固有名詞や題名を羅列するだけで寸評が無ければ、
それを鑑賞していない人は何も言えないし、
鑑賞していたとしても、そうそう、か、ちがうちがう、か、
そういうことしかいえないでしょう。 蓮実スレなので、蓮実重彦の著書、訳書、対談等、
こういうものについての予備知識があるのは当然かもしれないが、
「お笑い」テレビタレントについて知らないのはふつうなのではないですか。
ちなみに、わたしなどは、地上波はわざわざ映らないようにしていますから、
今どういう番組をやっているのかも知りません。 おれも最近はテレヴィ(by 大江健三郎)はあんまし見ないですけどね
大河とモヤさまと全米TOP40だけですね ぶっちゃけハスミン自身はそこまでハードコアに形式を重んじる人ではない
それはジョイスやフォークナーやナボコフやベケットやピンチョンやソレルスに一顧だにしないことからも伺える かくいう脈打つダンカンことおれは、ハスミンの発展的/批判的継承者としてはるかにハードコアで原理主義的な形式主義者なのである ダンカンスレ立てお疲れバカヤロー
スレ立て、つい先日したつもりが半月経ってのか 蓮實は映画バカを装っているが
カミオカンデで有名な物理学者の
小柴先生と対談するなど人脈は多岐に渡る 浅田彰と福田和也が蓮實に冷笑的なのはわからんでもない
柄谷行人が福田を小説を読める批評家と認めるのも暗に蓮實をおちょくってるのかもしれない 丹生谷貴志が蓮實の批評は読むことの倒錯であって自分は作家が書く場を考えたいみたいなこと言ってたけどやっぱりあれは倒錯的な読みであり観賞なんだよな Wiki「ガダマー」から
『真理と方法』の第二部で、ガダマーはそれまでの解釈学に代わる新しい「哲学的解釈学」をうち立てた。ロマン主義的・歴史主義的な解釈学は、
テクストないし歴史的出来事をその時代から理解すべきだという歴史的意識の要求に従って、形式的な解釈学的循環をテクストや歴史に適用し、
理解する者の歴史性を否定してしまった。しかし、ハイデガーによれば、理解(了解)は有限な人間存在の存在様式として、それ自身歴史的なのである。
人文科学での理解、過去から伝承されたテクストの理解は、ロマン主義的・歴史主義的解釈学が考えていたように、現在と現在に由来する先入見を排して、
時代を飛び越えて、成立時のテクストとかその著者の心情とかを再構成することではない。
理解は過去が現在に媒介(橋渡し)される出来事、過去から伝わったテクストの意味への参与である。 理解が媒介・参与である以上、テクストの内容を現在に生かす適用は、理解においていつもすでに起きていると考えなければならない。
テクストそのものの意味を捉えたあとで、それをあとから自らの状況に適用するのではないのである。
この理解をガダマーはまた、プラトンの問答術に従って、問いと答えの弁証法としても記述した。
まず、過去から伝承されたテクストが解釈者に語りかけ、問いかける。テクストの内容の真実性に動かされ、
解釈者にとって自明で無意識であったもの(先入見)が自明性を失う。これによってはじめて、解釈者は、自らの先入見を吟味し、
テクストに問いを立てるようになる。 「魂の唯物論的な擁護のために」の中の浅田彰との対話で、
蓮実重彦は、自らの「読み」は、テクスト論的なものだと考えられているが、
じっさいには、解釈学的なものだ、といったことを述べていたと思う。
その「解釈学」というのは、上記引用の「ロマン主義的・歴史主義的」解釈学ではなく、
ガダマーのそれに近いものだろう。 『差異と反復』の第三章で、ドゥルーズは 『思惟とは何の謂いか〔何が思索を命ずるか〕』の冒頭を参照しつつ、そこにみられるハ イデガーの問題提起―私たちはいまだ思考していないのだから、思考することを学ばな ければならない―を共有する。ただし、私たち〔人間〕に「思考せしめる」(donne à penser, zu denken gibt)ものを贈与(don, Gabe)と捉えるハイデガーに対し、ドゥルーズはそこに 暴力(violence)をみてとる。ドゥルーズによれば、ハイデガーが贈与というメタファーに 固執するのは「存在に関する前存在論的な暗黙の了解」としての「〈同じもの〉の優位」に 根ざした「ひとつの欲望、あるいはひとつの φῐλία、思考と思考されるべきものとのアナ ロジー、より適切にはそれらの相同性(homologie)といったテーマ」を保持しているから である(DR188, n.1)。しかもそこには、理性的な生き物としての人間への期待さえ透けている。
(ハイデガーとドゥルーズ/ガタリの近さと遠さ ―相依相属性をめぐって― 増田 靖彦)
しかし、それは↑でドゥルーズが批判したような、ハイデガー的な「思考と思考されるべきものとのアナ ロジー、より適切にはそれらの相同性」
換言すれば、ガダマーそしてその元のハイデガーが依拠していたであろうカント哲学の「想像力とカテゴリーの『相同性』」を前提にしたもので、
それはドゥルーズのみならずデリダもいうように、
「原暴力」を隠蔽したものだということになるのではないか。
蓮実「倒錯」批評の「限界」というのは、そこなんではないですか。 映画をみる、ということに関して、その「暴力性」についていえば、
映画をみることができる共同存在性が前提にされた解釈学であって、
たとえば未開人や乳幼児や生まれつき全盲の人が視力回復手術後に包帯を解いて
はじめて映画をみるときの「暴力性」というものは、 つづき
考慮されていない。
ちなみに、私の母は、小さいころにマンガを読む習慣が無かったせいか、
漫画が読めない。絵と字がばらばらで読めないのだそうだ。
しかし、母よりも年上の伯母は、若いころ手塚治虫の担当編集者だったくらいなので、
とうぜんマンガが読める。 991訂正
×「想像力とカテゴリーの『相同性』」
〇「想像力の図式機能とカテゴリーの『相同性』」 まあ自分もハリウッド映画見る時は似たようなもんです
娯楽としてストーリーにハラハラドキドキしつつ監督の技芸を楽しみ女優の存在自体を楽しむ場合もある
俺は観賞しないけど落語家の芸や技術を楽しむようなもんですかねまさに形式主義!
現役の作家でいうとピンチョンやウエルベックが次は何を書くんだろうみたいな興味はありません
蓮實の批評はアホみたいなハリウッド映画をいかに擁護するかという戦術かもしれませんね レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。