【俳句】プレバトのお題で一句詠みましょう 9
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お題をキャプチャーしてくださる方に感謝!どうもありがとうございます フランスの社会学者 P.ブルデューによって提起された概念。
支配関係の根底にある暴力を婉曲化することを目的とする権力作用を意味している。そのため象徴暴力とも呼ばれる。
その機能は支配者側の特定の恣意的な価値の強制,現実の力関係の隠蔽,現存秩序の正統性表象の3つに分類される。
この概念は教育や文化の自律性という幻想を解体し,それらの領域に隠された意味の押しつけという不可視の権力行使を明らかにする。
価値観の優劣そのものが支配関係の婉曲化された表現にすぎないとする象徴権力の分析は,文化の政治性を読解する視点を提供している。 このロゴスを自己へと現前せしめる声=音声言語は「意識の始源性」と一致するとみなしてきた (音声中心主義 phonocentrisme) 。
デリダは,ロゴスと声の特権が前提として疑わなかった一切の根源性を抹消し,
近代哲学において堅持されてきた認識と対象,思惟と存在の一致への確信のイデオロギー性を暴露し,
このロゴス=音声中心主義の持つ現前性の思考に向けて, 「ぼけ」や「認知症」を俳句に詠みました。
この俳句で 認知症が進行していることを 表現できたでしょうか?
「君の名も 思い出せずに 夜寒かな」 俳句を絶対に作らせない という趣旨の本としか思えない。腐すこと腐すこと全編その姿勢。本代1円だったのでどうしてなのかと思ったがこれでは人気が出なくて当たり前。 カンナはいつも「燃え」、「一つ」だけ枝に残った柿はきまって「夕陽」に照らされ、妻は「若く」、母は「小さい」
――だれでも初めて俳句に手を出すとまず口をついて出てくるのが、こうしたきまり文句。 481名前はいらない2018/04/17(火) 10:08:55.00ID:sa5GClY7>>483
体内の闇を持ち上げ蟇なけり
483名前はいらない2018/04/17(火) 11:11:18.83ID:LNFNSQCi
>>481
いいですね。かっこいいです。
中二病かw レス4つ 痴呆の模様に並び居る
俳句でなくて漫談ですw いや、俳句でも漫談でもないよ
一言で言うと? ババアのファンw 当季雑詠でいいとおもう。
ところでツツジとサツキの違いってわかるか、それとツツジを
漢字で書けるか、「躑躅」がツツジなんだとシュールすぎるな。
たしか漢字検定1級の問題だった。 レス4つの文字たちの羅列を「模様」と表現したことで、「レス4つ」という言葉がどうしても句の頭で宣言してしまう卑近さ軽薄さをグッと引き締めて、なかなかどうして句全体にアンヴィバレントな現代的雰囲気を持ち込んでいる。
しかも荒らしに対して当意即妙に詠んでいる点でも好評価。 居り、じゃなくて、居る、としたのも
風雅の余韻へと安易に流れない、朴訥とした不気味さを描けている。
自由律に時々見られる感じ。廊下の奥に戦争が〜の句を思い出させる不気味な後味。
ただ、この流れの中では散文由来の終止形かと思われてしまいかねないのが惜しい。
平仮名じゃなく漢字にしたのはその誤解を避けるためか。 >>499
金子兜太氏も最後は認知症を患っていたらしい。
でも、コミュニケーション能力はよかったのだと。
認知症の人は、人の名前を思い出せないと考えられなくなる。 >認知症の人は、人の名前を思い出せないと考えられなくなる。
まぁ程度なんて動き続けるもので千差万別だから思い出せない時と思い出せる境の人もいるわけだけど
でもこの句はさすがに駄目だね
その辺のことまで自分の心を浸らせて行って詩を掴んでいるのとは明らかに違うし
安っぽい漫画やドラマ書き写したような句 言葉は自己言及できない。
クレタ人曰く”すべてのクレタ人は嘘つきだ”
だから、花鳥諷詠にしましょう。 >>515
ちなみに、思い出せるときの自分は、思い出せないときの自分を
思い出せない。
ね、おかしな文章になるでしょ。
(私は認知症ではないが)と認識している人は、どうあがいても
認知症のひとを逆なですることしかできない。
人の認知能力は限定的(俺ってなんにもわかってないな)と素直に認めて
読めば、いい句になるよ。たぶん
兜太氏の遺作はよかった。 516よ自分の尺度で判断すればいいだけだよ。
皆、自分の尺度で言いたいことを言っているんだから。
書き込みの前文を揶揄しているともとれるし、それとはちがった句
ともとれるかもしれない。
しかし麻生財務大臣のヒョットコ顔にはうんざりするね。 君の名も 思い出せずに 夜寒かな
「夜寒」は秋の季語だから春の季語で作るとまた違うかも
君の名も思い出せずに春の雲 >>518
おかしな文章のなかに真理がないなんて誰が決めたの >>520
ヒント
「君」っていう輪郭でその句の主体を取り巻く世界から何かを切り出してくることに
もう少し躊躇いを持て
なんのためらいもなく言葉を決め打ちし過ぎなんだよ
多分理解できてないと思うから念のため付け加えるけど、「君」を使うのはおかしいという意味ではないよ?
ただ、句を切り出す前にもう少し踏み止まれたら世界が変わる瞬間に立ち会える
良い句は自然と出てくる >>518
限定的であることを認めて〜ってのはその通り >>522
"句を切り出す前にもう少し踏み止まれたら世界が変わる瞬間に立ち会える "
すなわち、把握の仕方が変わる。= 句の俳しかた、俳句が変わる。
俳句の醍醐味かな。
しかし、他人は批判、せいぜい指摘の形でしか、伝えることができないだよね。 俳句は神経科のカウンセリングではない。
柏餅はやはりこしあんがつぶあんより人気がある。 >>524
非難ではない意味での批判という言葉の意味と、その意味での批判、指摘をちゃんと味わってほしいよね
かったるいとか反抗期の中学生みたいなこと言ってないで 批判でなく厭味、指摘でなくあら捜し
そんなの味わえといわれてもこまる。お腹をこわしちゃうよ。 >>524
かと言って、娯楽ではない。ましてお菓子でもない。
疲れた体や頭は、甘いお菓子を欲するが、
お菓子だけでは、体に良くない。
いずれにせよ。こしあん、つぶあんではこしあんの方が良い
などの議論はお菓子屋でなければどうでもよい。
アナロジー(類推)使うと、多少ましかな。
まあ、お菓子が欲しいばかりの人には”御託”には変わりないけど。 529あなたの話しは退屈。バカ中学生にはつかみが大切。
信長のいちごのパンツ本能寺
1582年だったんだ。 いかん。煮詰まった。
でもいい俳句作りたいだよね。
己の世界を変える、新しい把握。
古池や蛙飛び込む池の音 −−芭蕉
古庭に鶯啼きぬひもすがら −−蕪村
下の句は蕪村としての第1作で、
上の芭蕉の句を意識して、かつ新しい句境を示したかったそうだ。
で、
菜の花や月は東に日は西に
春の海ひねもすのたりのたりかな
芭蕉と蕪村は妻子もいたし、定職があったからね。 訂正
芭蕉と違って蕪村は妻子もいたし、定職もあった。 >>529
そうそう。俺も書いてて眠たくなってきた。w
俳句はもとは発句。
つかんでなんぼ、でも間違いでもない。 で、凡人たるもの脈絡関係なく最後は汚していかなければ。
波打際、砂文字消せり四月尽 三月尽(弥生尽)
四月尽
には「春が去ってゆく(名残を惜しむ)思い」
砂文字を消した思いは何の思いか?
春が去ってゆく思いとは違うような・・・ 534 波打際、砂文字消せり四月尽
おお、いいね。ここの板を浄化してくれる。アホの仲間にはいっちゃダメと言っている。
浪打の砂文消ゆる四月尽 浪打の砂文消ゆる四月尽
は「字」が抜けてた
浪打の砂文字消ゆる四月尽
二月尽、三月尽ではというご意見がありますが四月尽がやはりいい。
春は憂いの季節なんだよね。しきりと初恋の人を想う季節なんだよ。 おっと、春の憂いはまた恋の始まる季節だ。
浪打際に今年も彼氏、彼女の名前を書きに行こう。
陶片に残る文様春の潮 人間が出来ているっていうけど、もう出来上がっちゃってるね 暦の表し方は、混乱はあろうが、
弥生 = 旧三月 ほぼ 新暦四月
と解している。
よって四月尽は、いまの暦で四月の終わり、春も終わり(を惜しむ)の意味で使った。
四月、夢やチボーをもって入社入学した人たちも、そろそろ現実を意識しない
といけない頃。波打ち際の文字はほっといても自然と消えるが、あえて”消せり”
と表現して、自ら消して次のステップを進もうとした気持ちを表した。
最初、”波打ちの”だったが、これだと波が消したことなる。”消せり”としたことで、
”波打際”とした。
俳句が連歌の発句(これから、この句につづけ!)が元なのを考えれば、
上五の字余りは許せるというのも理解できる。中七、下五と調えれば、
後につづく者はやりやすくなる。
536さんの読みも悪くないよ。ほぼ正解w。 なんかマジで昭和軽薄体じみてきて読むのキツい…
ジジイ、明日から書き込むのは一日一レスまでな。で、俳句だけな。 542は自分のチンボコの皮を剥いていればそれで良し。
チョロチョロしない。 おはようございます。
次回のお題は『春の動物園』です。 体の中の暗闇を持ち上げるように動いて蟇が鳴いた、
っていう三流の散文を575に成形してるだけなんだよなあ…
その甘さに気づけるようになってほしい あのね、今日はおじいちゃんはニューヨークへ行ってるからここには来ないよ。 やっとお題でましたね。
「春の動物園」
わあ、たのしそう!、なんていうのは親の子供に対する幻想。
もっとシュール(見かけの現実より現実的)なはず。
檻の中に我を眺むる夫婦かな シュールというのは、よくわからない取り合わせ
ということではない。
子供は無邪気だなあ、実は計算づく → シュール
人に役に立つことをしたいです。俺の自己満足のためにね。 → シュール
本当はわかっているけれど、気づかないふりをしていたことに
気づかされるのは、不気味だ。 東国原英夫
春深し・・・
春ふかし麒麟の鼻に蜜の香や・・・なわけないか。 一字余ったら「や」入れとけばいいや〜と思ってない?
二字余ったら「かな」入れとけばいいや〜と思ってない?
駄目だからね?そういうの >>556
そうですね。安直でした。
檻の中の我を眺むる夫婦あり 557 檻の中の我を眺むる夫婦あり
囚われの身を自分たちに重ねあわせた感慨を言いたければ
檻の中に我が身をおもう夫婦かな
しかし、季語がない。
以前私が作ったのは冬の季語で
息白し檻の内そと真向かわず
多摩動物園の冬の雨の日、豹の檻の前、豹と目をあわすことなく獣の荒い息
だけが記憶に残った。
今回は春の動物園だから、557さんも春の季語はいれないとね。
否否>>557
あんたのことやない。
>>555わてのことや。
春ふかし麒麟の舌に蜜の味・・・桜の花を噛んじゃんだめよん。 >>554
ええ加減な知識で無茶苦茶
象徴・想像・現実的なものが分かってない
欲動・欲求・欲望の発達段階も分かっていない
二物衝撃・モンタージュ・デペイズマンも分かってない まぁそのものズバリ春の季語が入らなくちゃいけないというわけでもないだろうけどね。
その頃の動物園を確かに句の出発点とか通過点とか到達点にしてたり、全体に香らせてれば。
季語原理主義者から言わせれば絶対なきゃダメだろうけどw
ただし、題として「春の」と言われてるからには、必ずそれに応えなきゃね。もうそこはゲームとして、腕を見せてやろうとする心意気の領域。 >檻の中の我を眺むる夫婦あり
これ、動物側から人間の夫婦を見てんの?
それとも動物のツガイが檻を挟んで自分を見てんの? 空のうえ象とパンダと春の雲
春眠しあくび重ねるカバの口
囀りは空の果てへと絶え間なく >>564
動物園の動物は、大切にされ餌にも困らないが、自由がない。
好きな餌を、最高の伴侶を勝ち取る自由がない。すべてあてがわれたものだ。
人間の夫婦が我を見ている。人間だから自由に食物を選べ、伴侶を選ぶのも
自由意志のはずだ。
だが、本当にそうなのか。笑ってみているが、本当に・・・。
春の季語いれないとね。 檻の中の我を眺むる・・・だから
動物側から人間の夫婦を見てるのよん。
だけど季語が無いっていってるの。
季語を入れてみましょう。
檻のなか我を眺むる春隣 失礼春隣は冬だった。・・・
檻のなか我を眺むる花の客 >>566
ふーん。そんな感じのこと感じて詠んだんだ。
わが檻も惑う四つ脚 ヒトのつがい ま、自分だったらこのくらい飛ぶ。
読む側に高い鑑賞能力にあることを願って、自分は最大限、その掴んだ詠むべきことに誠実に詩を成すだけ。神様の前で饗するために詠んでるだけだから。たとえ万人が理解できなくても何の問題もない。
基本的に歌人だっていうアイデンティティで、俳句は一日平均一つくらいしか作らないから、ここの人たちとは違って専門的なことはあんまり分からないけどね。 あ、だめだ。
春の、ってお題なんだ。
じゃあ推敲で迷った言葉のうちの一つを入れ替えて
わが檻も溶かす〜
か?…違うかも。
やっぱり春の雰囲気が足りない?
でも「つがい」の時点で春っちゃあ春なんだけど。
ここでさっき書いたゲーム的な精神がはたらいて、もっと分かりやすくミッション達成したいなという思いが頭をもたげてくる。
でも美的観点からいえば〜…ってんで、二つの間で引き裂かれるわけよ。
とりあえず、このくらいのレベルの迷いはせめて経験しながら俳句作れよってこった。遊びや爺の自慰じゃねぇんだぞコラ。 いずれにしても「惑う」は俗っぽ過ぎるだな。擬人法のクサさ。作者の意図を散文で読んだせいで、なんか悪い癖が出た。
作って数分後のいま読み返してさえそう思うんだから、明日明後日思い返したらまだまだ改作の余地はあるだろうな。 モニタリングの原西ゴリラの立場で詠んだんだね。
神様もいろいろいるからね。信仰の自由あるものね。 「蕩(と(ろ))かす」だと人間の男女の関係のことを中心に詠ってるだけの歌って思われちゃうし。
…じゃあ「融かす」か。
もしかして。
抜本的に改作せず、部分的な推敲にとどめるとしたらの話だけど。
モニタリングって、番組のこと?見たことない。原西ゴリラってなに。フジワラの人がそういうキャラとかやってんの? わが檻を融かす四つ脚 ヒトのつがい
で一旦ひとまず置いて明日まで寝かす。
「我が」にしなかったのは、漢字だと余りに動物側の眼差しが人間的理性に重なり過ぎるから。作者の感覚は違うかもしれないけど、そんな人間中心的な捉え方をするのはちょっと自分としては違ってたから。
「を」に替えた。「も」だと、熱々カップル()のイメージが出かねない。あと「を」って助詞のその意味と、多分その音が、動物がその佇む人間二人に出会った感じと、その時走る、救いのような、あるいは別種の牢獄に出逢って統合されただけのような感覚を描ける。
あとは表記的なこだわりが主で特に書くまでもなく分かることでしょう。
明日になったらまた全然違う句で元の作者の意図を表現しようとしてるかもね。
もはや一般的な添削ではなく、作者のその感じを自分だったら例えばどう表現するか、ってことになってるけど、
ありがたく読んで思考回路味わえよ。 あまりにも高尚すぎて淳子にはよくわからない。純子でんなく淳子よ。人違いしないでね。
淳子の好きな動物園句は
柔らかく女豹がふみて岩灼くる 富安風生 (夏の季、 灼く)
爛々と虎の眼に降る落葉 富澤赤黄男 (冬の季、 落葉)
女豹の目が眩みそうなしなやかさ、
虎の哀れさの中の威厳
どちらも目の前の現実であり現実が理想の一瞬に象徴化されている。
流転してゆく季語の力の働きを侮ってはだめだね。 https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20180419-00000043-ann-soci
こういう幼児が物を飲み込む類の事件は商品停止の可能性が出てくるからやめてもらいたい
他の人間が迷惑するんだよ
子供つくったんなら、そういう小さい物は子供の手が届かないところに置いとけよ
「商品停止しちゃった〜🌸」とか言って他人事でよ、取り返しのつかねーことになんだ
バカな主婦の自己中心的な思い上がりやルンルン気分が人様の迷惑に発展するってことがあるってこと言ってんだよ
幼児教育はよく勉強しとけよ
改良しなかったらそういう育児に関する法律を立法するから気を付けとけよ
てめえ勝手な思い込みや軽率な行動のせいで人様に迷惑がかかってんだよ
なにもこの件だけじゃねんだよ
1幼児が物を飲み込む
2自動車走行中に幼児が駆け込んできた
3子供が騒いでうるさい
4子供が大人に蹴りを入れズボンが汚れた
他
→母親が全く注意しない、あるいは、「だめでちょ〜」程度の慰みで厳しくしつけねえ なめてんのかこらあ!
あんまりそういうママに対し依怙贔屓が多くて当の本人はお花畑だからイラつくんだよ あんま調子のってんじゃねえよお前らbloodthirsty Wolfがうろつくことになるぜ パンダの毛むしりて作るカラスの巣
猛獣の遠吠え聞こゆ牡丹園
ゾウのハナコパンダグッズと並んでる 「むしりて」…。あり得るけど、これは文語使い慣れてない感じあるなぁ。
主語がカラスなわけだけど、詩だとしたってちょっとちぐはぐになってるよね。そこが落ち着かない。下手さとして映る。
写実的な方針でいくならそれはそれでいいだろうから、それならもうちょっと対象に迫ってほしい。世界の中心はその巣だって言い切るくらいの瞬間を切り取ってほしい。そのためにはあなた自身が対象の中で窒息して死ね。苦しいけどその先にちっぽけな自我が消えた世界がある。
「牡丹園」の語がどこか素描的で迫ってくるものに乏しい。上の五七と上手く噛み合わさって世界を拡げる五音として成功しているかというと、疑問。鳴き声と牡丹園のことを詠むならそれで全然いいから、全体を見直して別の詠み方をしてみては。
パンダグッズって言葉が出てくるなら、わざわざ「ゾウの」って言う必要ないかもね。これだけじゃ読む側には分からないけど、「並んでる」という軽めの言い方が、単に字数合わせのものでなく自らの選び取った表現でありますように。 んー…でも「牡丹園」って言葉が自分の中であんまりちゃんとリアルな重みを持ってないだけなのかもしれない…。
もしくは、俳句ってこのくらいラフにイメージを置くくらいが乙なのかもしれない…。
どう思う?
考えといてください。今は分からないです。 そんなこんなでEテレ見てたらがらぴこプーで「五七五あそび」なるものをやってた。
がらぴこが中七の鬼で笑ったw 基本的なことを強調するためのくだりだったんだろうけど。
でもまあまあ良い感じの五七五だったよ。どのキャラが詠んだものも。
子どもの俳句は良いね。
こないだ見かけて今も覚えてる句。
【ありました つつじいっぱい 根津神社】
【つつじをね もすこしはやく みたかった】
子供の句ってことでフィルターかかってんのかなと自分でも思ったけど、
大人が詠んだ句として見ても、不思議と悪くない。なんか素朴で外連味の無さが魅力的。
ここの人にもプレバト()の句を作ってる作家たちにもプロ廃人にも一度自らを振り返る機会としてほしいものでありますでございますなぁ。 >>579
どうもありがとうございます。
正直むずかしいです。
ハナコさんのは季語もないし俳句ではないのですけど
平和と友好のシンボルであるパンダのグッズと共にゾウのハナコさんのグッズも売られてる。
決して忘れてはいけない大切なことなんだと思いました。 感覚的な能書き 観念的なご託宣
読みにくいからうろうろするなよ そんなことはないと思うよ。
つつじをね もすこしはやく みたかった
の子供の俳句情報を提示してくれていていい人だよ。
あなたとね もすこしはやく あってたら
とリズムが似ているね。タイミングを逃した悔しさだ。タイミングをゲットするには
こうゆう句があった。
三日月の頃より待ちし今宵かな 一茶 >>569
興味深い指摘をありがとう。
檻の中の我を眺むる夫婦ありの作者です。IDは一晩たつと変わるので念のため。
檻の中の我が、檻の外の人間夫婦をみている。
”〜の中の”は”我を”にかかります。と文法の曖昧なところだけ示して、
作者の意図は余分だったかな、と一晩たっておもう。
最小限の表現にとどめ、あとは読み手それぞれの読みにまかせる、のが
俳句の一番のよいところかな。
もちろん、”私”も昨日の自作句を見て、新たな読み(発見)があることも
あるし。
夏井先生いわく、自分が選んだことばは、自分(の意図)を超えることはないが、
季語はときに、自分の意図以上のことを表現できるので素晴らしい、だそうだ。
これは、俳句に季語が必要な一つの理由ね。
わが檻を融かす四つ脚 ヒトのつがい
作者さんも意識している通り、この句は短歌の形式まで延ばせば、
一首になりそうだ。単に下句(七七)を足すだけでは、ごつごつ
してしまいそうでもあるし、俳句としては、読み手は読みに入りにくい。
批判している訳じゃなくて、俳句と短歌の在り方の違いや句を詠む、歌を詠む
意義の違いに発見があって、面白かった、と伝えたい。 >>576
淳子おじさん、こんにちわ。
この中では、
爛々と虎の眼に降る落葉
が一番いいわ。 二本脚であるヒトが二人一組で檻の向こうにいるから"四つ脚"なのだなぁ
自由とは如何に…という思いその一点において動物と人間の境界が春に溶けだすから檻は"融けるのだなぁ >>588
そっか、四つ脚 = 獣 かと思った。
掛けたところもあるのだろうが、俳句ではあまり聞かない。
理由は、読みに入りにくいからだと思う。
読み手が掛詞の読み(ノリと言ってもいいか?)に慣れれば、
強力な表現手段になりうるのかもいれないが。
檻の下に覗く四つ脚はヒトのつがいか
鳥脚食べつつ、妻と語らふ
短歌って五七五七七を俳句ほど気にしていないように
感じるけど、どうなの?
スレ違いかもしれないが、有意義なら進めたい。 俳句のほうにやたら字数にこだわり過ぎる人が多いってだけじゃない?
わたしは中七の鬼ですから!とか馬鹿かと思って見てるわ。とっとと死ねよ、って。
でも今日ちょうど同じ着想を俳句と短歌の両方で作って比べたり色々して思ったんだけど、
短歌のほうが俳句より若干フレーズの息が長く詠み得る分だけ、五七五七七の上に乗って詠んでも言葉のリズムの刻み方が多様になって字数が伸び縮みする可能性高くなるんじゃないか。
でも反対に俳句は短いから音数ぶっ壊してぶん投げても割と最後まではついて行ける感じがある。
短歌は比較的長いから、しっくりくるリズムじゃないと、ましてや攻めた音数の順序で来られると疲れちゃうかもしんないとも思う。
ん。でも「反対に〜」じゃないな。別に二つは矛盾しないから。
とりあえず、自由律俳句ってのは有名だけど自由律短歌なるものは聞かないのは、その辺の本質的な理由が絡んでると思う。 >>590
”〜対して”ぐらいかw。
自由律短歌は聞かない。か、なるほどです。
>>585
三日月の頃より待ちし今宵かな
いい句ですね。一茶の人生を考えると、シュールのシュールはまた表(の凡)。
では、一句
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