統合失調症ということで通院療法を受けています。
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私の知っている、ある、統合失調症の例ですが・・・
ある女子高生の女の子-その娘は美人だった。彼女はある日、あるアイドル・グループの男性に
ファン・レターを送った。それ以降、彼女はそのアイドル・グループに知られる存在と思い込んだ。
街で車に乗っている、男性二人と目があった時、彼女はその二人が東京の芸能事務所の
スカウトと思いこんだ。これは本当の事例です。これが統合失調症の妄想です。実話、です。 私の知っている、ある,統合失調症の例ですが・・・
その女性は引きこもっていました。
ある日、となりの家に行って、あなたの家に盗聴器が仕掛けてあって、
私の家の会話を盗聴している、どうか家の中に入れて下さい。盗聴器があるはず、なんです。確認させて下さい、
と言い出した。その、女性はその後、精神病院に入院され、そこで、亡くなった。実話です。 僕は「念慮」に苦しんでいましたね
この聞こえる音がなんらかのメッセージを伝えてるように感じる、
この頭の中の会話が、現実に起こってるテレパシーであるように感じる、など。
まぁ昔のことです。 自分を変える必要があるというか
自分を愛し
自分を喜ばせ
自分を肯定する、受け入れる、信頼する
自分と一致する
必要がある 毎日散歩してて、自分が不審者に思われないか心配に思ってきたのだけれど(通り魔事件以降)
犬の散歩してたって、「こいつ犬の糞ちゃんと処理してるか?」などと見られてるかと思って散歩してる場合もあるかもしれないと重い
そういうのは「神経症」なんだと思い至った
通り魔事件があってちょっとナーバスになる。それもまた人間臭くていい。 働き盛りの男が平日の明るい時間に散歩してたら不審者に見られるでしょうね
平日のイオンモールに行ってご覧なさい
女と老人しかいないから うわべではないコミュニケーションを取る
より深い本音を伝え合うコミュニケーション 占いでは
一目おかれたいと思いすぎている
と出た
当たっていたと思う てらいなく、本心から
人を幸せにしたいとは何か
と問う Kindleアンリミテッドで
『すりへった心を満たして「最高の人間関係」でいられる本』を読む 相手を理解し、受け入れることが出来れば、
人間関係は画期的に変わります 人が生きていく上で、結果だけにフォーカスしないこと
恋愛にしても結果を問えば結婚するか、別れるかにこだわることになりますが、
大切なのは大切なのは相手と出会い、どう向き合ったか。
幸せな思い出があるならば、どういう結果を迎えたとしても無駄な経験ではないはずです トラウマを克服するためには一歩前へ踏み出し
今度は大丈夫だったと確信を得るよりほかに方法がありません 自信があれば「自分は自分、人は人」と割り切ることが出来ます 軸を持つことは物事の優先順位をハッキリさせることでもあります 統合失調症は進化していて、少し前までは「集団ストーカーの被害に遭っています」とか
「電磁波で攻撃されています」とかだったのに、
最近は「顔認証システムで街中どこに行っても監視されています!
私の顔が登録されているので、街を歩けません」とかになっていて、
統失も技術革新するんだなと思った。 自分を理解して欲しいという思いは捨て、相手を理解する
このことで、あなた自身がどれほど救われるかーーーーーやってみれば、分かります 人間関係で生じる問題の多くは、
あなたが「自分の常識の中にあるルールに従って欲しい」と
他者に対して多大な期待を寄せることが原因だと私は考えています あなたの心を頑なにしている価値観の正体は何なのかを分析し、
その部分を手放すことで人間関係のバランス感覚は自然に整います 同じレベルの人としか知り合うことが出来ないという「類友の法則」によって
人と人が引き合うというのは揺るぎのない宇宙の真理なのです 人を魅了する輝く笑顔は心が創り出すもの
本物の笑顔は、常に明るい未来を思い描き、ポジティブな発想に満ちあふれる人だけが備える宝石です
たとえ人がなんと評価しようと「自分の人生は素晴らしい」と信じることで潜在意識を働かせ、
人に笑顔というギフトを提供できる人になりましょう! 統合失調症患者は自分に可能な事と不可能な事の判断がつかない
統合失調症患者は大抵不器用で何をしても上手くできるようにならないのですが
一つの初歩的な事だけは少し得意になることができるのです
しかしその得意なことはすぐに己惚れにつながるのです
例えば少し資格習得の勉強ができるだけで自分は頭が良いと己惚れて
「私はそこそこ知能が高いですし
今から大学受験の勉強すれば国立医学部にも合格できるくらの知能が私にはある
だから私にとって私立大学卒の医師なんて私より格下でそんな医師は大した知能もってないです」
ということを本気で思っているのです
そんなの統合失 調症患者の大学受験なんて
ただ英単語と熟語の暗記をやる程度の芸しかないだろうと思います
そしてその勉強の仕方では偏差値55以上の大学には合格できないということが理解できないのだろうと思います
例えば 精神障碍者当事者交流会に参加した43歳くらいの統合失調 症の男性で
「仕事するとしたら薬剤師なんていいですよね 私も資格取ってやってみたい」
と言っているのですが
本人は医学部と言わないで薬剤師と言うところに謙虚さが滲みでてるだろうと謙遜しているつもりなのです
統合 失調症患者は自分に可能な事と不可能な事の判断がつかないのです
担当医はいつも顔色がいい
白衣を着てなければただのちびデブ 新元号の初め、ひとつの国が壊れた。
経済的危機により完全失業率15%、失業者1,000万人を突破。親兄弟を頼れない世界にニートは暴走し、通り魔や家庭崩壊が各地で発生。
精神障害者は増加の一途をたどり、精神科外来患者数は80万人。
モンスターペイシェントによる職員の殉職者は1,200人を突破した。
キチガイを恐れた健常者たちは、やがてある法案を可決し、施行する。
それが、障害者福祉改革法、通称「キチガイBR法」だ。
誰もが恐れる「死」を利用して、恐怖による支配によって健常者の威厳を取り戻す目的で施行されたこの法律は、
年に一度、選ばれた作業所の利用者に、コンピュータ管理された脱出不可能な無人島で、制限時間の3日の間に最後の一人になるまで殺し合いを強いるという法律である。
今回キチガイBR法に選ばれたのは、富山県某悪徳事業所のキチガイたちだった。
施設外就労のためにバスに乗ったはずが催眠ガスで眠らされ、無人島に連れてこられたキチガイ利用者達に主査の指導の下、食料と武器がそれぞれに渡されゲームが開始。
極限状態に追い込まれたキチガイたちは、様々な行動に出る。昨日までの友人を殺害する者、諦めて目障りな発達ガイジの死を選ぶ者、力を合わせて事態を回避しようとする者。
自分から志願してゲームに参加するサイコパス利用者に殺戮される者……。
そんな中、利用者のひとりである「孤高の堕天使」は、同じ精神病棟で育った地方公務員「セイビア」がほのかな想いを寄せる美人サビ管を守るため、武器を取ることを決意。当て馬としてゲームに参加した「鳳凰星座の一輝」と共に島から脱出しようとする。 今日はマジックミラー号でオナニーした以外これといった成果はありませんでした 今日は定価で買ったユニクロTシャツを返品しました
その後同じTシャツをセール価格で購入しました
約400円臨時収入です
そのお金でガリガリ君を五本買って一気に食べました
帰りの電車で強い腹痛を感じました
途中の駅で飛び降りてトイレに駆け込みました
3人並んでました
必死で耐えました
必死で耐えました
必死で耐えました
ダメでした 社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。
今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。
近代となって逸脱者への対応はより巧妙になりました。逸脱した者は排除されるのでなく、おもてむき、社会へ回復することになります。
社会は逸脱者を自己のうちに回収することで、逸脱者を無害なものとします。社会は逸脱者を「更生」・「治療」と称しつつ自分の管理下に集めるのです。
社会はもはや逸脱者から脅かされることもなければ、そこから学ぶこともありません。こうして社会にとって危険な逸脱者(犯罪者と精神病患者など)は、
排除されるのではなく、社会の内に、しかしその周辺に集められ、包み込まれて無害なものとされるのです。社会はその外部をみずからの内にとりこんだのです。
刑法は犯罪者をその違法行為においてとらえますが、監獄の技術は囚人をその生活態度においてとらえます。
前者では違法性が問題とされますが、後者ではその非行生が問題とされます。刑法の建前では、監獄は犯罪者を更正させることになっています。
しかし実際には監獄はその特殊な環境によってむしろ「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性を持つ者として社会に循環させているのです。
それゆえ、監獄制度の真の意義は、違法行為を減らし、抑制することではなく、
社会の転覆や不安につながるような犯罪の可能性を「非行性」として管理し安全なものとして閉じ込めることにあるのです。
[それはちょうど、精神病院のありかたに似ています。精神病院はたてまえとしては精神病患者の治療をするためにあります。
しかし患者を閉じ込めることでかえって患者の社会への不適合を生み出してしまいます。
実際には精神病院は、社会不安を引き起こす者たちの閉じ込めと管理をしているというべきでしょう]。
https://shakaigaku.exblog.jp/21000984/
http://archive.is/GEFMi 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322) 「分裂病」という「状態」など存在しはしないのです。分裂病というレッテルが貼られることは一つの社会的事実であり、
この社会的事実とは一つの<政治的出来事>なのです。社会における市民的秩序のなかでおこっている、
この政治的出来事は、レッテルを貼られた人間の上に定義と結論を押しつけます。分裂病というレッテルを貼られた人間は、
彼に対して責任をもつべく法律的に是認され医学的に権能を与えられ道義的に義務づけられている他者の監督下におかれますが、
こういった一連の社会的行為を正当化しているのは、社会の指令なのです。レッテルを貼られた人間は、
家庭、家庭医、精神衛生関係官、精神科医、看護婦、ソーシャルワーカー、
そしてしばしば仲間の患者たちまで加わっての一致した連携(「共謀」)行為によって、
患者という役割のみならず、患者としての人生の道程を歩みはじめさせられるのです。
R.D.レイン『経験の政治学』(128ページ) 精神鑑定によって、どのようなタイプの対象が出現するのでしょうか?
精神鑑定は、裁判に介入する目的として、また、刑罰の目標としてどのようなタイプの対象を裁判官に提出するのでしょうか。
先ほど紹介したテクスト−他のテクストを紹介することもできます。
私は一九五五年から一九七四年にかけての精神鑑定書をひと揃い手に入れました。
精神鑑定によって出現し、犯罪に貼りつけられ、犯罪の裏地ないし分身となるような、
そうした対象といえば一体どのようなものなのかと言えば、
それは、「心理的未成熟」、「ほとんど構造化されてない人格」、「現実に対する不的確な判断」などといった、
それら一連のテクストの中に絶え間なく見いだすことのできる諸概念です。
実際私は、以下のような表現を見つけました。すなわち、「極度の情緒不安定」、「深刻な感情の混乱」、
あるいは、「補償」、「想像上の創作」、「倒錯的な戯れ」、「ヘロストラトス症」、「アルキビアデス症」、「ドン・ファン症」、「ボヴァリスム」などです。
要するに、精神鑑定は、犯罪の心理学的かつ倫理的な分身な構成を可能にする、ということです。
つまり、精神鑑定は、法典に明記されたものとしての違反行為をそれとして認めず、
その背後に、弟あるいは妹のようにそれに似ている分身を、もはや法律が定める違反行為としてではなく、
生理学的、心理学的、ないしは道徳的ないくつかの規則からの逸脱として、出現させるのです。
ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75) 18p.
>あるいは、「補償」、「想像上の創作」、「倒錯的な戯れ」、「ヘロストラトス症」、「アルキビアデス症」、「ドン・ファン症」、「ボヴァリスム」などです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています