第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
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1917. 9. 22
潜水艦 UB 32 の撃沈
ゼーブルッヘを基地とするドイツ潜水艦 UB 32(艦長ハンス・フォン・ディットフルト大尉)
はこの日英仏海峡にむけて出撃したが、 港を出てしばらくしたところでイギリス海軍
航空隊のカーティスH-12「ラージ・アメリカ」型飛行艇(メイガー少尉・ラスク少尉のペア)
に発見された。
UB 32 はただちに急速潜航を試みたが、司令塔が潜没する前にカーティス機は230
ポンド爆弾2発を投下し、爆弾は2発とも司令塔直後の船体に命中炸裂した。
UB 32 はそのまま沈没し、水面に大量の破片と燃料油が浮かび上がった。脱出者は
いなかった。イギリス軍は公式にこれを「撃沈」と認定した。
この戦闘は、世界初の航空機による航行中の潜水艦の撃沈事例であるとともに、
世界初の航空機による航行中の戦闘艦艇の撃沈であった。 >>565
「報復裁判」など思われてかえって有罪者に箔をつける結果になるんじゃないのかな? というか、WW1後のドイツってWW2後のドイツや日本みたいに連合国に全土を占領された訳じゃないから裁判なんて出来ないと思うんだが 日本も戦闘中には全土を占領されて無いだろ
関係ないな >>580
東京裁判された時には全土占領されてるじゃん
現実問題として戦犯を罰するなら、それに反対する勢力を力で押さえつける必要があるだろ
ワイマール共和国にそんな力無いし、英仏の連合国にも占領して押さえつける力なんかないだろう
アメリカは孤立主義でドイツの占領なんかに協力する意思なんかない >>581
休戦後なら連合国には全土占領する力あるよ
そもそもドイツが国家として破綻しかけてるし 1917. 9. 23
ヴェルナー・フォス戦死
大撃墜王リヒトホーフェンのライバルかつ親友として名高い撃墜王ヴェルナー・フォス
少尉は、リヒトホーフェンの率いるJG1戦闘航空団に属するヤーシュタ10航空隊長と
して西部戦線の空で戦っていた。
この日までに、61機撃墜のリヒトホーフェンに次ぎ、47機撃墜のフォスはドイツ軍
第二の撃墜王となっていた。
この日の朝、彼は愛機のフォッカーDrI三葉機を駆り、鮮やかにイギリス軍の高速
軽爆D.H.4を撃墜した。
夕方になって、イギリス編隊がベルギー西部、イープル北方の戦線を越えたとの
報告を受けたフォスは、部下6機を率いて再び空へ上がった。
しかし列機は鈍重なプファルツD.III戦闘機で、先行するフォスは単機でイギリス
編隊に突入することになってしまった。
フォスが突入したのはイギリス軍のエリート航空隊、第56スコードロンの猛者たちの
中であった。しかもイギリス機は最新鋭のS.E.5a戦闘機が7機。指揮官はジェイムズ・
マッカデン少佐(13機撃墜)である。
圧倒的な不利の中で、フォスは鮮やかな戦技でイギリス編隊の全機に命中弾を
与えた。しかし10分間のめまぐるしい格闘戦の末、アーサー・リス・デイヴィッズ少尉
(18機撃墜)の連射がフォス機を捉えた。
フォス機はエンジンを破壊され、さらに一連射を浴びると、地表めがけてまっすぐに
落ちて行った。
墜落したフォス機はバラバラになり、フォス少尉は戦死した。
マッカデン少佐は、のちにフォス少尉を評して「私が見た中で最も勇敢なドイツの
パイロットであった」と称賛した。
リス・デイヴィッズ少尉は10月27日に撃墜され、戦死した。 WWIのヴェルサイユ条約の失敗の一つはドイツ参謀本部に対する戦犯法廷をしなかったことだからな >>584
その失敗があったからWWIIでは「平和に対する罪」を定義して、国内法では免責される軍事官僚も訴追出来たわけで。
ヴェルサイユ時点ではモルトケやルーデンドルフを訴追する法的根拠が無い。 >>585
条約内に戦勝国が指定する軍人・指導者・君主の引き渡しと彼らへの国際戦犯法廷を入れたら当時でも可能だけど
それをした場合、「戦争負けたら指導者や君主・軍人は極刑」という前例ができてしまうから
欧州諸国は自分たちにも適用される叶性能ある悪しき前例を作るのを恐れたというのはある アメリカは国土が広すぎるから負けても講和で済むしな
欧州だと全面占領で政府首班全員逮捕虐殺ってなちすがげんじつにやったことだし >>585
あんな過酷な賠償とるなら
ヴィルヘルム2世とルーデンドルフとヒンデンブルクの首は差し出すべきだったと思うの
どうにもヴェルサイユ条約は中途半端すぎる、まあ白人国家だから変なところで手心加えたんだろうけど
これが有色人種国家ならドイツ亡国の領土分割が来てるはずなのに 別に過酷な賠償じゃないだろ
プロパガンダにのせられすぎ >>588
日英とは比べ物にならない広い海に守られた広大な領土、しかも資源たっぷり・・・ >>589
首を差し出すってヴィルヘルム2世はオランダに亡命してオランダが引き渡しを拒否してた状態なので
ドイツが首を差し出す事なんか出来ないんだけどな そもそも国民が開戦に罪悪感を持たずに敗者ゆえの被害者と思っていて
「背後の一突き」論などが通用している状況で戦犯を裁いたら
戦勝国の報復と思われ処刑者・服役者は英雄・象徴として崇められて
かえって政治に影響を及ぼしてくるんじゃないのかな? >>593
徹底的にやらなかったことがいけなかったって話
中途半端だったから下野した軍人が左右問わず怪しい運動に手を突っ込んだ結果
ナチスとWWIIに至ったわけで そこまで考えると世界史の教科書ってWWIIに至る経緯を全然説明できてないなあ 第二次大戦の連合国側はみんな、「男は皆殺し、女子供は奴隷にすべきだった」が本音だろな 軍人が統帥権と皇帝の権威を嵩にきて好き勝手してたから
ベルリンの政府議会が反乱起こして補給が止まって軍が崩壊したのがWWIの結末だしなあ WWIIのドイツ分割みたいに一度ドイツ・オーストリアという国を消滅させて
英米仏伊の保護領植民地みたいな形にしてれば
二度とこういうことはしないで置こうって事にはなったとは思う
ドイツ軍人や難民が共産・愛国ゲリラ化してテロがえらいことになったかも知らんが 結果論だけでそんな事言っても歴史的には突飛過ぎるからありえないとしか言えない WW2があってさらにそれに勝ったからこそ言える事だからなあ
ナチスがポーランドに侵攻するまでは英仏は宥和政策をとってた訳でそもそも占領するほどの気力が残ってないくらい
英仏も消耗してたのが現実だろ >>597
いやだから、半ば保身目的で政治運動に手を出していたドイツの旧軍人たち、背後の一突き論を真に受けてWW1の再戦を熱望していたヒトラー
ナショナリズムと恐慌だけじゃあ記述不足だなと思ってね・・・
他にも記述不足の点だらけ?その通りだねすいません。 >>601
ポーランド侵攻でもまだ本気は出してない。本気出すのはフランス侵攻以降 >>601
ヴェルサイユ講和会議のじてんでドイツ軍の指揮系統と参謀本部は崩壊して
継戦は不可能になってる
英仏が講和打ち切って攻め込めばドイツは終わり
まあアメリカが首を振るかって話になるんだけどな ただの休戦じゃなくてベルリン政府側の革命+スパ大本営崩壊将校逃亡+カイザー亡命だからな
もう国家の体をなしてない 思えばドイツ第二帝国の崩壊って社会主義的独裁政治・先軍政治の失敗の先駆けでもあるよなあ
なぜ人類は失敗から学べなかったのか >>606
人類といってもなあ…普通の文明国には議会があって、文民統制がスタンダードなんだが。
と思って考えてみたら、「普通の文明国」の最低ラインはどの辺だろう?
ギリシャ辺りがボーダーで、韓国やフィリピンはアウトかな?
政権交替で前政権首班が逮捕されるのは様な環境は、強権政治の温床だろう。 >>604
ドイツ占領は無理、戦犯を裁くのも無理なら、少なくともバイエルン、出来れば南ドイツ連邦4ヶ国の独立と合邦・再統一禁止をヴェルサイユ講話条約に盛り込めないかな。
バイエルンは元々ドイツ帝国の中でも独立性が高かった上、何の偶然かアイツが居るw 1917. 9. 28
第二次ラマディの戦闘
7月にイギリス・インド軍が攻撃して撃退された、ユーフラテス川上流のラマディの町
周辺には、オスマン軍が集結して、イギリス占領下のバグダード周辺を脅かしていた。
また、前年のルーマニア占領によってドイツとトルコの間の交通が極めて容易に
なったことで、メソポタミア戦線にはファルケンハイン将軍率いるドイツ軍が登場しようと
しており、イギリス軍は早期にユーフラテス川戦線を押し上げる必要に迫られた。
イギリス軍は新たな攻勢作戦のために歩兵1個師団と騎兵1個旅団を用意した。
作戦は、前回行った川岸に沿った攻撃ではなく、岸から左に迂回して町を南から攻撃し、
さらに騎兵旅団は町の西の道路を遮断して退路を断つ、というものだった。 オスマン軍は町の周囲に陣地を築いてイギリス軍を待ち構えていたが、イギリス軍の
陽動に引っかかり、イギリス騎兵部隊の迂回と退路遮断に対する備えを怠っていた。
イギリス軍は9月27日の夜に町の近くに到着し、各部隊は迂回行動を開始した。
今回の前進には大規模な自動車による補給部隊が同行し、大量の水を運んで、
前進する部隊を暑熱と渇きから守った。
28日の昼にはイギリス軍は防御陣地に到達し、激しい攻防戦が行われた。次第に
オスマン軍は劣勢となり、29日未明には西へ撤退を始めたが、すでにその道は
イギリス軍騎兵部隊に封じられていた。
動揺するオスマン軍陣地に対し、イギリス軍は強襲を行い、多大な損害を蒙りながら
オスマン軍砲兵陣地を占領した。
これを見たオスマン軍部隊の多くは降伏し、わずかな兵はユーフラテス川を泳いで
逃げた。
ラマディの町の補給拠点はイギリス軍の占領するところとなり、バグダードに対する
脅威は除かれた。また、この勝利により、イギリス軍は周辺諸部族の信用を得る
ところとなった。
ファルケンハインはこれを見てバグダード地方への攻勢をあきらめ、ドイツ派遣軍の
主力をパレスティナへ送ることを決定した。 >>609
ただバイエルンは賠償領土としてフランスが欲しがっててそれをバイエルンが警戒してる
って問題もあって講和で切り取ることは無理だと思う 領土を切り取るどころか連合国側にはオーストリアをドイツと併合させるという案まであったそうな >>613
それは妥当な案でしょう?
諸民族が分離してドイツ人地域だけになったオーストリアは
民族自決に基づいてドイツとの合邦を望んでいた。
それを連合国が、「戦争に負けて国が大きくなるのはおかしい」と
いうことで許さなかったわけだから、オーストリア国内には
ナチスによる併合までずっと不満がたまっていたんだから。 1917. 9
潜水艦戦の様相
大西洋護衛船団システムはほぼ完成に近づいた。往路復路とも船団に組まれた
通商路を前に、Uボートは容易な獲物を失ってしまった。
この月の船舶損失はついに35万トンとなり、無制限潜水艦戦開始以前の水準に
まで低下した。護送船団の勝利である。 1917. 10 .2
装甲巡洋艦「ドレイク」被雷沈没
イギリス装甲巡洋艦「ドレイク」は、アメリカから到着したHH24船団を護衛して
アイルランド北岸を航行中だった。
ドイツ潜水艦「U79」(艦長オットー・ローアベック大尉)は10月2日の朝にこれを発見し、
魚雷攻撃を加えた。
まず1本が「ドレイク」の汽缶室に命中し、ドレイクは傾斜しつつノース海峡入口の
ロスリン島へ向かった。
ついで貨物船「ルガノ」が右舷に被雷し、速やかに沈没した。さらに駆逐艦「ブリスク」が
中央部に被雷して二つに分断され、前部船体は沈没した。
大戦果をあげた「U79」は、イギリス艦の追跡をかわして逃走した。
「ドレイク」はロスリン島のチャーチ湾に向かったが、停泊する前に貨物船
「メンディップ・リッジ」と衝突し、同船は沈没を避けるために座礁した。
衝突による「ドレイク」の損傷は軽微だったが、被雷による傾斜は止まらず、
総員退艦が命ぜられた。全員が退艦したのちに同艦は転覆沈没した。戦死者18名。
「ブリスク」の戦死者は31名。
「ブリスク」の中後部船体はロンドンデリーに曳航されて新しい艦首をつけられ、
任務に復帰した。 末期とは言え艦長が大尉とか…
まあこれもキャプテンかw Uボートの艦長はKapitänleutnantが普通でしょ
ドレイクの方のことかと思って調べたら
初代艦長ブリッグマン大尉、2代目艦長ジェリコー大尉と後の第1海軍卿が揃い踏むとか
すごい出世艦で驚いた 1917. 10. 11
「アルビオン」作戦発動
リガの占領と呼応して、エストニア東岸沖にあってリガ湾をバルト海からへだてている
大小の島嶼を占領すべく、ドイツ軍は陸海空共同作戦「アルビオン」を発動した。
9月末から掃海と空襲が始まり、天候の回復を待って10月11日から砲台に向けた
艦砲射撃が、10月12日にエーゼル島北岸に上陸作戦が開始された。
この支援には実に10隻のド級戦艦と1隻の巡洋戦艦、さらに軽巡9隻、水雷艇
(駆逐艦)50隻が動員され、ドイツ海軍総出撃の趣があった。
戦艦部隊の猛烈な艦砲射撃に支援されて揚陸は順調に進み、15日までにエーゼル
島はほぼ制圧された。
その間ロシア軽艦隊はドイツ艦隊に幾度も襲撃を加えたが、戦力の差によって
成功しなかった。
リガ湾のロシア艦隊は袋の鼠になろうとしていた。 1917. 10. 17
ポルトガル軍重砲兵部隊、フランスに到着
フランス軍の重砲兵部隊の補充要員としてポルトガル兵で編成された「独立重砲兵軍団」
がフランスに到着し、フランス軍の指揮下に入ることとなった。 1917. 10 .17
モーン水道海戦
10月17日、ドイツ軍の西エストニア諸島侵攻によってリガ湾に取り残される危険が
生じたロシア艦隊は、モーン島と本土の間のモーン水道にこもって最後の抵抗を
試みた。戦力は前ド級戦艦2隻と巡洋艦4隻+軽艦艇であった。
ドイツ艦隊はエーゼル島の南を回ってリガ湾に侵入し、モーン島周辺水域を掃海
して南から水道に突入しようと試みた。ロシア艦隊はこれを迎撃し、ここにモーン
水道海戦が行われた。
劣勢ながらロシア艦隊は奮戦した。特に砲架を新型に改装した戦艦「スラヴァ」は
長距離射撃を行ってドイツ戦艦隊を容易に近づけなかった。
しかし、掃海が進むに従ってドイツ戦艦隊は接近し、射撃は正確さを増した。
「スラヴァ」はドイツ戦艦「ケーニヒ」から大口径砲弾複数を受け、主砲弾薬庫他に
浸水して行動不能となった。やむなく「スラヴァ」は雷撃処分され、水道の交通を
妨げるように沈められたが、十分に水道をふさぐことはできなかった。
その間にロシア艦隊残余は北から水道を抜けて退却し、海戦は終わった。
10月19日までにリガ湾湾口の諸島嶼はすべてドイツ軍の占領下となった。
これにより、フィンランド湾の防備態勢もまた弱体化した。
一連の作戦中にドイツ戦艦部隊は触雷によって多少の被害を受けたが、
いずれも短期間で修理は完了した。 >>623
そろそろロシア脱落。
ヒンデン、ルーデンはナポレオンに出来なかったことを成し遂げた。
この勝利が、24年後、ちょび髭の独裁者の判断に影響を与えことになる、かどうかは知らん。 1917. 10. 24
カポレット攻勢始まる
ドイツ軍最高司令官のヒンデンブルク元帥は、押され気味のイタリア戦線にドイツ軍
部隊を投入して勢いを挽回することを企画した。
東部・西部から6個師団が抽出され、オットー・フォン・ベロー大将指揮下にドイツ軍
第14軍が組織されてイタリア戦線に投入された。
ベローは西部戦線で発達した塹壕戦の新戦術をこの戦線で大規模に展開することを
目指した。毒ガス、迫撃砲、航空機、大量の軽機関銃と手榴弾が集められ、攻勢準備は
進んだ。
攻勢が発起されたのは10月24日の未明であった。この日の風は弱く、ガス戦には
理想的な天気だった。
午前2時に、迫撃砲から毒ガス弾が発射され、イタリア陣地にパニックを引き起こした。
次いで6時から準備砲撃が始まり、主に前線からの警報を受けて集まってきた
予備隊が通る山道が砲火にさらされた。
バインジッツァ高原の北側、カポレット周辺のイタリア軍戦線には大穴があき、
ドイツ軍はそこを通って背後深くに侵入した。
目標は前線から70キロ後方のタリアメント川の突破であった。両翼は山岳兵が固め、
先鋒は孤立したイタリア陣地のすき間を通って前進を続けた。
作戦初日、ドイツ軍は25キロもの前進を果たした。今やイタリア全軍が危機に陥っていた。 >>624
ロシア遠征自体は失敗してるけど
第三次対仏大同盟とか第四次対仏大同盟でロシアに対して勝利する事はしてるから何を持ってナポレオンに出来なかった事を成し遂げたと言ってるかについては議論の余地があるな 1917. 10. 26
モンテ・マタユール陣地陥落
イタリア戦線ではドイツ・オーストリア軍の大攻勢が続いていた。
この日ヴュルテンベルク山岳兵大隊は、戦線右翼の重要拠点、モンテ・マタユール
陣地を強襲し、劣勢な兵力にもかかわらずこれを奪取した。
攻撃を指揮したのはエルヴィン・ロンメル中尉であり、彼はこの戦功により、12月に
プール・ル・メリト勲章を受章した。 1917. 10. 26
ブラジル、中央同盟国に宣戦
戦争が始まってこの方、ブラジルの主要輸出品であるコーヒーは「不要不急の品」と
して売り上げがガタ落ちしていた。特に戦前のお得意であったドイツが協商国に海上
封鎖を受けてからというもの、まったく商売あがったりというありさまだった。
ドイツが無制限潜水艦戦を始めてから、状況はさらに悪化した。貴重な商船を、
たかがコーヒーを買い付けるために大西洋を渡ってブラジルへ差し向ける船主は
おらず、ブラジル経済は不況に陥った。
経済不況は社会不安をあおり、Uボートがブラジル籍の商船を沈めると、ドイツ系
市民の店が打ちこわしを受けるなど、治安上の危険さえ生まれてきていた。
この状況をいくらかでも打開するため、ブラジル政府はドイツ・オーストリアなどの
中央同盟諸国に宣戦を布告することにした。副産物として国内に非常事態宣言を発し、
治安維持の強化を図った。
大戦の残りの期間を通じ、ブラジルは戦闘にはほとんど加わらず、組織的な軍隊の
欧州派遣も、積極的な船団護衛への参加も行わなかった。 ブラジルは知らないけど、アルゼンチンはフォークランド紛争まで「ヨーロッパの一員」って意識だったんだよな 母をたずねて三千里だと、19世紀にイタリアからアルゼンチンに出稼ぎ行ってたしな 現代日本も数十年後アルゼンチンになってないといいけど・・・ >>633
日本がアルゼンチン共和国になってどうする、というのは置いといて、まあ無理でしょう
パンパがない以上牧畜国家は目指しようがないし、白人移民をどこから連れてくるかってこともあるし >>633-634
経済の凋落という意味では?
サラエボ事件での世界大戦の勃発が避けられたとしても
世界大戦の勃発は遅かれ早かれ不可避だったのかな? 中国を巡って日本とアメリカの衝突は第一次世界大戦が無くても起きるから太平洋戦争は起きるんじゃないかな 何の脈絡もなくて恐縮だが
日露戦争は第一次大戦の縮図だって表現した人がいたけど
はぇ〜なるほどなぁと思った。たしかに旅順とかみるとひたすら
人間と銃砲弾のごり押しで何とかするしかなかった辺りが、欧州戦線の
塹壕戦に近いものを感じる…全世界的に見てもあの時代の陸戦は悲惨やね どうでもいい
縮図だとした所でそこから何か新しい発見があると思わないし >>639
というか、ボーア戦争→日露戦争→伊土戦争と積み重ねられたデータがWW1で爆発したって感じじゃない?
改めてそんなこと言わなくても皆わかってるし 日露戦争の時は、日本が国債買ってもらうために戦果をアピールする必要があって、機関銃陣地に対する銃剣突撃の成果を実態以上に吹いて回って、それを真に受けたヨーロッパ諸国がWW1で大損害を出したって話があったよな 三脚檣、今月末で閉鎖だってさー。
画像とか色々保存しとけー。 一番機関銃を活用してたはずのイギリス陸軍が銃剣信仰に陥るという皮肉
機関銃の社会史だと白人至上主義からの機関銃軽視がその原因って書いてたけど、それ以外にもなんかあんのかね 日露戦争の影響だとドイツ陸軍は観戦武官の報告で重機関銃の防御戦闘における優位性に注目して重機関銃を大量に配備していたとかかな
イギリスとフランスは機関銃にはあまり注目していなかったみたいで配備も最初は少なかったんじゃないかな >>641
さすがにそれは俗説だよ。
観戦武官のマックス・ホフマンも塹壕と機関銃の組合せについて参謀本部に報告している。
ヨーロッパ列強にとって、日露戦争も伊土戦争も二流の軍隊による僻地の局地戦。自国の用兵思想を見直すほど重要視されなかった。 >>637
マスケット銃時代の歩兵戦もかなり悲惨だよ。隊列の中央、前列に立てば生き残れないことが確実なんだから。遠くから見ると兵士がボーリングのピンのように倒れていったとか。 フランスの、とにかく攻める、攻めなきゃ未来がない、防御戦とか発想に上る時点でオカマ、っていうドクトリンが不思議で面白い
初代ナポレオンのせいでもあるし、初代ナポレオン研究さぼってるって感じもあって、歴史に学ぶことの難しさが凝縮されてる 常に状況が変化する現実ので歴史から最適解を得るって普通に考えて難題じゃない?
孫子の兵法とて人の解釈によっては180度異なる戦略を導き出すわけでしょ
組織の改善政策に大きな恩恵があってもそれが成功に繋がるかはやっぱり時の運 >>647
プラン17が採用される直前辺りまでは徹底的な防御思想でドイツ軍を国の中まで引きずり込んでから反撃する計画だよ
普仏戦争の影響で極めて消極的になってた フォッシュが普仏戦争のフランス軍を批判してエラン・ヴィタールを説いたんだっけ
ドイツに質と量で勝てないから精神主義に傾倒したとかなんとか 相手が自陣営の損害考慮すれば、まさかそこまでやらないだろうってことを
あえてやるから効果があるが フランス型攻勢主義は血を流せ、進め進め、敵を恐れるなという兵卒むけの教育を士官教育に取り入れた末の混乱だって高校生のときに習ったけど本当だろうか?
ttp://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta013.htm 1917. 10. 30
イタリア軍総退却命令
カポレットの前線の崩壊を目の当たりにしたイタリア軍総司令部(参謀総長カドルナ
大将)はこの日、一時は却下したタリアメント川後方への総退却を下令した。
しかしドイツ軍の追撃は迅速で、前線のイタリア軍全体が壊滅の危機にあった。 1917. 10. 31
ベエルシェバの戦闘
ガザ前面で膠着していたパレスチナ戦線だったが、イギリス軍エジプト遠征軍の
アレンビー司令官は再度の攻勢を周到に企画していた。ここで押し返されるような
ことがあれば、オスマン軍にフリーハンドを与えることになり、バグダードまで前進
したメソポタミアのイギリス軍をも危険にさらすことになる。
逆にアレンビーは、地中海沿岸を占領してメソポタミア方面とアラビア半島方面の
オスマン軍を孤立させることを企図していた。
攻撃目標は地中海岸から50キロ内陸に入ったベエルシェバの大オアシスとされた。
ここには堅固な陣地が築かれ、有力な砲兵が展開していた。
アレンビーはここをさらに内陸から包囲するため、10月30日からANZACの乗馬
歩兵を侵攻させた。補給物資は携行するものだけであり、もしベエルシェバが奪取
できなければこの部隊は撤退せざるを得ない。
続いてベエルシェバとガザの間の戦線に、歩兵部隊が砲兵支援とともに攻撃を
かけた。こちらの攻撃は陣地に阻まれて容易に前進はできなかった。
さらにベエルシェバの陣地に対して行われた正面攻撃もはかばかしく進まなかったが、
翼側からイギリス軍第4軽乗馬旅団が行った突撃が功を奏し、さらにANZAC部隊に
背後を脅かされたオスマン軍部隊は、31日午後にベエルシェバを放棄して敗走した。
ここにおいてガザ戦線の一角は破れ、イギリス軍は続いてさらなる攻勢を発動する
ことになる。 1917. 10
潜水艦戦の様相
厳重に護衛された大西洋護送船団を前に、ドイツUボートはその獲物を失いつつあった。
ここにおいてドイツ潜水艦隊は、より容易な狩り場を求めて地中海に集結した。
地中海航路は各船の行動路が複雑で、船団の導入が遅れていたのである。
この月、Uボートは46万トンを沈めた。しかし、地中海においても船団システムが
導入されるに従い、この方面でもUボートの獲物は少なくなっていった。 1917. 11. 1
第三次ガザの戦闘
ベエルシェバでオスマン軍の防御ラインを崩したイギリス軍エジプト遠征軍は、防御
ラインを全面的に破るために戦線中央に対する総攻撃を決断した。
その準備として、海岸に近いガザの戦線で陽動攻撃が行われ、この攻撃は予定通り
撃退されたが、オスマン軍の戦力と注意をガザに引きつけることに成功した。 1917. 11. 2
同盟軍タリアメント川の橋頭堡を奪取
この日、敗走するイタリア軍を追って、作戦の当初目標であるタリアメント川に到達した
ドイツ・オーストリア軍は、数か所で渡河に成功し、対岸に橋頭堡を確保した。
翌日、ドイツ・オーストリア軍はさらなる西への進撃を開始した。 1917. 11. 2
イギリス駆逐艦隊、カテガット海峡を襲撃
この日、ドイツの漁業に打撃を与えるため、イギリス海軍第15駆逐艦戦隊(旗艦
「パーカー」、駆逐艦13隻)はカテガット海峡に出撃し、ドイツ漁船8隻と補助巡洋艦
「K」(旧名「クローンプリンツ・ヴィルヘルム」)を撃沈した。イギリス側に損害はなかった。 1917. 11. 3
フランス軍、イタリア戦線に到着
崩壊に瀕したイタリア戦線を補強するため、急遽フランス軍6個師団が派遣され、
この日ヴェネト平野に到着した。翌日イギリス軍部隊(5個師団)も到着した。
しかし英仏軍は、ピアヴェ川戦線は保持できまいと考え、さらに後方のガルダ湖〜
ミンチョ川に布陣したため、さしあたってドイツ・オーストリア軍を押しとどめる役には
立たなかった。
ミンチョ川防衛線とは、ヴェネツィア・パドヴァ・ヴィチェンツァ・ヴェローナを敵の手に
渡すことを意味した。これはイタリアには耐えられないことである。
イタリア軍は、ピアヴェ川を死守すべく、必死に立ち直りを図った。 ww1メインの戦争映画って、西部戦線異常なし以外に有りましたっけ? >>664
何で怒っているかはわからないけど、この作品以外にww1についての作品が思い浮かばなかったので 別に怒ってないけど怒ってると決めつけられたのでイラッと来たわ
有るかどうか聞かれたから有ると答えただけなんだが
西部戦線異常なし以外のタイトルを聞きたいなら最初から他の作品名を教えてほしいと言え
俺はもう教えないけど WWI movie でぐぐったら、これでもか!と言うほど大量に出て来て思わず笑う。
「アラビアのロレンス」も「ブルー・マックス」もWWI映画ですよ。 >>668
そう言えば、「アフリカの女王」も第一次対戦だったなぁ bf1やる前からww2よりww1の方が面白いなあとは思ってたけど、後の世に与えた影響はww1の方が凄まじいよね
オスマン帝国や神聖ローマ帝国なんかの巨大な帝国が滅亡し、ブリテンも弱体化した
ロシア帝国も崩壊、フランスはボロボロ...
戦争を終わらせる戦争っていうけど、この大戦がww2のきっかけとなったと思うと皮肉すぎる ハプスブルグ=神聖ローマといっても過言ではないのでは >>673
それ恥ずかしいからあんまり世間では言わない方がいいよ 神聖でもなく、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない。 ナポレオンがローマ皇帝になっちゃう可能性が出たから
ハプスブルク家自らが神聖ローマ帝国終わらしたのに ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています