第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ナポレオンが帝位についたから神聖ローマの看板をオーストリアに架け替え
その後、ハンガリー人の不満を解消するために二重帝国の体裁にしてオーストリア=ハンガリー帝国になりWWIで解体 1917. 11. 5
ラパロ会議
欧州全域を巻き込んだ大戦の進展に伴い、連合国各国間の軍事的協力機構の設立が
望まれていた。危機に瀕したイタリア戦線に英仏軍を派遣するにあたり、この問題は
再燃し、この日英仏伊の首相はイタリアのラパロで会合を持った。
その場で、連合国の統合戦争指導部を設立すること、西部戦線の最高司令官として
フランス軍のフォッシュ将軍を推挙することなどが合意された。
この会議は、軍部から戦争指導の権限を奪おうと考えていたイギリスのロイド・ジョージ
首相のイニシアチブで行われ、西部戦線に固執するイギリス軍部がサロニカ戦線から
撤収するかもしれない、という一種の「脅し」を使って仏伊の合意を取りつけたものであった。
最高戦争指導部は11月27日にヴェルサイユで発足した。 1917. 11. 5
ティクリートの戦闘
ラマディの戦闘によって余裕を得たイギリス軍は、春に占領したサマラからチグリス川を
さかのぼって戦線を押し上げるべく、限定攻勢を企図した。
兵力は歩兵2個師団と付属の騎兵部隊で、指揮官にはアレクサンダー・コッブ少将が
任ぜられた。
この方面のオスマン軍指揮官はイスマイル・ハッキ・ベイであったが、ハッキ・ベイは
兵力をサマラから上流に13キロのティクリートに集結させてイギリス軍の攻撃を迎え
撃った。
ティクリートの周囲には堅固な塹壕陣地が設置されていたが、コッブはこれを正面から
突破すべく、11月5日に攻撃を開始した。
3時間の攻撃で第一線は破れ、コッブは騎兵による追撃を命じたが、第二線はいまだ
健在で、騎兵部隊は多大な損害を出した。
しかしオスマン軍の防御力も限界に達しており、ハッキ・ベイは部隊に撤収を命じた。
撤退は整然と行われ、あとに敗残兵も遺棄物資も残さなかった。
イギリス軍はオスマン軍を追って6日にティクリートを占領したが、追撃の余力は
なかった。 バルフォア宣言から100年、パレスチナ各地で英国への抗議デモ
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3149216?cx_position=63
バルフォア宣言100年、バンクシーが英外交の「謝罪パーティー」開催 パレスチナ
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3149049 >>681
ブリテンの三枚舌外交は無茶過ぎ。
英仏の植民地帝国が続く限りは、どうとでもなると思っていたのかね?
実際、現在のところ貧乏くじ引いているのは米帝。 ドイツが強すぎて負けた理由がわからない戦争
フランスが弱すぎただけかもしれんが 何言ってるか意味不明
理由がわからないのは詳しく調べてないせいってだけじゃないの ドイツは同盟国が戦力として頼れないから一国で協商国を相手にしないといけない
艦隊戦で負けて海上封鎖されてからドイツは打開策が無くなった
フランスは人的損失をあれだけだしても良く持ったと思うよ WW2でもほとんど同盟国を頼れなかったという・・・
婿選びは大事だわ >>687
ドイツ野郎は、なぜかイタリア女に入れ込んだ。
戦後、フランス女に乗り替えた。 1917. 11. 6
ボリシェヴィキ蜂起
ケレンスキーの臨時政府はこの日ボリシェヴィキの一斉検挙を図って首都の各所の
捜索を行ったが、ボリシェヴィキはこれに一斉武装蜂起で応えた。
すでに首都の大半はケレンスキー政府を見捨ててボリシェヴィキに味方しており、
ボリシェヴィキは瞬く間にペトログラードを占拠した。 1917. 11. 6
ハレイラの戦闘
ガザにオスマン軍主力を拘束したイギリス軍エジプト遠征軍は、ついに本攻勢をガザと
ベエルシェバの中間、ハレイラとシェリアに向けて発動した。
オスマン軍はこの攻勢を察知して、ガザの主力を北へ逃がすために、ハレイラ方面の
陣地に死守命令を下した。
優勢なイギリス軍の攻撃により、ハレイラの陣地は次第に圧倒されたが、貴重な
2日間を稼ぐことに成功した。 1917. 11. 6
カナダ軍、パッシェンデールを奪取
1917年度イギリス軍夏季攻勢はまだ続いていた。もはや秋も深まり、降り続く雨と
絶え間なく土を耕す砲弾によって、地表は泥沼と化していた。
10月26日から、カナダ軍はパッシェンデール村を目標に攻撃を続けていたが、11月
初めに数日雨のない日があったために前進がいくらか容易となり、11月6日の攻撃に
よってパッシェンデール村はカナダ軍の手に落ちた。
そこに何の作戦的価値があったのか? それは聞くだけ空しい問いであろう。 明日は革命100周年
とりあえずオーロラ号はフルスクラッチで造ったw もし独裁的でなく民主的革命が起きてたらロシアは今より発展してたかな衰退してたかな そもそも体制を維持できない
2月革命で政権を握った民主的だった立憲民主党はボルシェビキに政治的にも軍事的にも勝てなかったんだし 寒く広過ぎる大地のロシアと、元蛮族が多過ぎる中国。
専制でしか統治できない。 なんかのサイトで見たけど欧州列強の一角と言いながら、えっイタリアの国力ってそんなに低いの?
まあ第一次大戦時は日本は二重帝国、イタリア、オスマン帝国以下だったけど。 どこかでオーストリア海軍にふれたページを見たことあるけど
三国同盟を結びながら仮想敵だったイタリア海軍との関係はどうだったの?
本来なら共同で地中海で作戦やるつもりだったのかも。
オーストリア海軍はイタリアを敵に回したくないわな。
イタリア軍はアルバニア沖に機雷をまいてオーストリア海軍をアドリア海にカンヅメにしようとするの明白だし。 1917. 11. 7
ガザ陥落
イギリス軍エジプト遠征軍の総攻撃は、退却するオスマン軍の追撃局面に移っていた。
戦線中央部で後衛戦闘を行う部隊に支援され、オスマン軍のガザ守備隊は7日に
撤退を開始し、北方に逃れた。同日イギリス軍はガザに入城し、さらに北へ敵を追った。 1917. 11. 7
ロシア臨時政府崩壊
ボリシェヴィキはこの日ケレンスキー派が立てこもる旧冬宮を攻撃し、ケレンスキー派は
抵抗するすべもなく敗れ、閣僚の多くは逮捕された。ケレンスキーは逃亡した。
ボリシェヴィキは、冬宮占拠に先立って声明を発表し、国家の全権はソヴィエトが指導
する軍事委員会が掌握した、と宣言した。
この日は旧暦10月25日にあたるため、この政変を10月革命と呼ぶ。
この後もケレンスキー派の残党と革命軍の戦闘が散発的に行われたが、11月半ば
までにほぼ臨時政府派は鎮圧され、ボリシェヴィキ政権はその地位を確立した。
しかし地方においては状況は混沌としており、長い内戦・革命干渉戦争が続くこととなる。 失われたオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍が見れなくなっとる・・・
うそお >>693
統一性も勢いも足りない革命になってgdgd続いた挙げ句多数の独立した共和国乱立とかなってそもそもロシアが終わりそう 分裂したくて仕方がない地域大量に抱えてたからな
どさくさで随分独立したし ソ連時代でもスターリンがいなかったら>>702と同じ結果にしかならんかったかと
日米が極東共和国みたいな満州国拡大版みたいな傀儡作って好き勝手するってのが目に見えてる 1917. 11. 8
同盟軍ピアヴェ川の線に到達
敗走するイタリア軍を追って、同盟軍はヴェネト平野を西へ進んだ。タリアメント川を
2日に、リヴェンツァ川を6日に渡った同盟軍は、8日にはピアヴェ川に達した。
ピアヴェ川を渡れば、ヴェネツィアはすぐそこにある。
しかし、ドイツ・オーストリア軍の勢いにはすでに限界が近づいており、あまりの進撃の
速さのため、突破先鋒部隊は補給の不足に苦しんでいた。 1917. 11. 8
カドルナ将軍罷免
カポレットの大敗の責任を取って、イタリア軍参謀総長ルイジ・カドルナ大将は罷免された。
後任にはアルマンド・ディアズ大将が就任した。 ドイツは戦闘には強いけど戦争には弱い
地政学的に不利だし同盟国にも恵まれない 新しい国家がぽっと現れては一瞬で潰れる革命前後のロシアの混沌ぶりを思えば穏やかな革命などありえんだろうなぁ
少しでも手を緩めればバルト三国に続いて幾つもの国が独立し、フィンランドよろしく内戦とドイツの絡んだ対ソ戦争を演じていただろうし、そこまで行くと再併合する力が穏やかな革命の産んだソ連にあるか怪しい
ロシア崩壊まで行かずとも、東欧はより複雑で悲惨な情勢になったろう >>708
同盟国に恵まれない以前の問題では?
その点ビスマルクは心得ていて、ロシアと妥協してフランスと対峙、ブリテンと無用な対立はずしなかった。
当時、フランスと妥協ガード不可能なら選択は一つだったが…
あのカイゼル髭の男、何を血迷ったかww 1917. 11. 9
同盟軍ピアヴェ川の橋頭堡を奪取
この日、ドイツ・オーストリア混成の山岳部隊はピアヴェ川上流を渡河し、対岸に
橋頭堡を確保した。攻撃の先鋒を務めたのはまたもエルヴィン・ロンメル中尉であった。
部隊は北方から来援したオーストリア軍部隊と合流し、ピアヴェ川西岸を南へ向かった。 1917. 11. 9
ロシア人民委員会議、「平和に関する布告」を発表
臨時政府の崩壊に伴い、ソヴィエトは全国大会を開き、その席上で全権のソヴィエトへの
移行と、新たな政府としての人民委員会議(ソヴナルコム)の発足を決議した。
レーニンを議長とする人民委員会議は、9日に「平和に関する布告」を行った。これは、
世界大戦の全交戦国に対し、無賠償・無併合・即時和平・民族自決を呼びかけたものである。
大戦遂行に忙しい各国はさしあたり特段の反応を示さなかったが、のちの「ウィルソンの
十四か条」はこの布告と精神的に通ずる点が多い。 >>712
ある意味、一方的な勝利宣言みたいなもんだな 1917. 11. 10
イギリス軍のイープル攻勢終了
7月から続いていたイギリス軍の攻勢は、晩秋の訪れとともに終結した。
「かじり取り、しがみつく」と描写されたイギリス軍の攻撃は、戦術的にはドイツ軍の
逆襲戦術をある程度封じ込め、着実な前進を可能とした。
ドイツ軍の逆襲による防御は、一時的に前線塹壕地帯を敵の手にゆだねることになる。
イギリス軍はその余裕を利用し、ドイツ軍の反撃師団が逆襲にかかる前に、奪取した
地区に迅速に野砲部隊を進出させ、堅固な防御陣を築く。ドイツ軍の逆襲はその砲兵
火力によって撃退される。
すべてがうまくいくわけではないが、こうしてイギリス軍はパッシェンデールまで前進
することができた。その前進距離は――約9キロメートル。
その引き換えに失われた兵力は、研究家によってかなりの幅はあるが、20万から
30万人と見積もられる。ドイツ軍もまた多大な消耗をこうむり、イギリス軍とほぼ同数を
失ったと考えられる。
確かにドイツ軍にとってこれは耐え難い消耗であった。しかし攻勢によって双方が
同数を失ってゆき、戦線がほとんど動かないのならば、戦争はどうなったら終わりに
なるのだろうか? 双方が死に絶えた時、いったい誰が勝者となるのか?
その解答はいまだ誰も知らなかった。 いやどっちも事実上破綻させてるからw
破綻しても統制経済で状況を糊塗して戦争機械としての国家を回し続けるのが近代戦
ちなみに、負けるより勝ったほうがある意味悲惨
負ければそれを理由に借財を事実上チャラにできるが、勝ってしまうとそれもできない
事実上無意味な金本位制を理想と囚われ、回帰を夢見ながら大散財の後始末に追われ続ける だからドイツの方が連合国より頭が良いって言いたいの? 総力戦という恐ろしい概念と、銃後などというものがない現実を見たことがなかった当時の人はどう考えたのだろう? >>719
ドゥーエ「最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃が向けられ戦争は長続きしない」「長期的に見れば流血が少なくするのでこのような未来戦ははるかに人道的だ」 1917. 11. 11
イタリア戦線の同盟軍停止
カポレットからピアヴェ川まで破竹の進撃をつづけてきたドイツ・オーストリア軍で
あったが、ここで攻勢は限界に達し、前進を停止せざるを得なくなった。
いまだイタリア軍は混乱の中にあり、ピアヴェ川防御線は鉄壁には程遠いもので
あったが、同盟軍の砲兵と弾薬補給は速い進撃についていけずに後方に取り残されて
おり、同盟軍には突破作戦を発起するための火力が足りなかった。
ピアヴェ川西岸を南下しつつあったオーストリア軍主体の兵力も、平野部に出る
直前にあるモンテ・グラッパ山の堅固な陣地に阻まれて前進が停止した。
かくして、カポレット攻勢は終結した。イタリア軍はこの戦闘において30万以上の
捕虜を出す大敗北を喫した。イタリアはこの穴を、徴兵年齢の引き下げと、英仏軍の
来援によって埋めざるを得なかった。 1917. 11. 13
日本、巡洋戦艦の欧州派遣要請を拒絶
10月21日に、イギリス海軍は日本政府に向け、巡洋戦艦「金剛」型2隻を欧州水域に
派遣してほしいとの正式要請を行った。
しかし11月13日、日本の珍田捨巳駐英大使はイギリスのバルフォア外務大臣に対し、
「国防上の問題のため」派遣は認められない、と明確に要請を拒絶した。 1917. 11. 16
ヤッファ陥落
パレスチナにおいてオスマン軍を追撃するイギリス軍エジプト遠征軍は、オスマン軍の
執拗な遅滞戦闘や局地的な逆襲を打ち破りつつ北上を続け、この日地中海岸の要港
ヤッファを占領した。
その2日前に、パレスチナ方面のオスマン軍を統括するイルディリム軍集団(司令官
ファルケンハイン大将(ドイツ軍))は、司令部をイェルサレムから撤収して北方の
ナブルスに後退させていた。
次の戦いの焦点は、古都イェルサレムの攻防となる。 1917. 11. 16
クレマンソー、フランス首相に就任
ニヴェル攻勢の失敗から続くフランス軍の混乱状態は、政界をも揺るがしていた。
この日、パンルヴェ首相の解任に伴って次期首相として指名されたのは、急進
社会主義者で対独強硬論者のジョルジュ・クレマンソーだった。
クレマンソーは、低迷する国民の戦意を立て直すことができるのであろうか。 1917. 11. 17
第二次ヘリゴランド・バイト海戦
イギリス大艦隊司令長官ビーティ大将は、英仏海峡において掃海を行う掃海艇部隊の
援護を行うドイツの軽巡部隊を、巡洋戦艦を含む有力な英艦隊で捕捉撃滅する計画を
立てた。
ネイピア中将率いる襲撃部隊は、巡洋戦艦「リパルス」、大型軽巡洋艦「カレイジャス」
「グローリアス」、軽巡8隻、駆逐艦10隻からなり、11月17日未明からヘリゴランド・バイト
(湾)に侵入した。
ドイツ艦隊はロイター少将率いる軽巡4隻、駆逐艦(水雷艇)8隻の部隊で、掃海艇
部隊を護衛していたところ、突如としてイギリス艦の大口径砲弾が頭上から降り注いできた。
ロイター少将は劣勢を悟ってただちに全部隊の退却を命じたが、掃海艇1隻が逃げ遅れて
撃沈された。
その後は、煙幕を使いつつ高速で逃げるドイツ艦隊を、イギリス艦隊が後ろから
追いかける形となったが、2時間の追撃戦の末、イギリス艦隊は撤退した。
その間際に、ドイツ艦隊には戦艦2隻の増援が到着したが、戦艦の砲撃は英軽巡1隻の
艦橋に貫通孔を開けるにとどまった。
ドイツ艦のうち目立った損傷を受けたのは、「リパルス」の主砲弾を受けた「ケーニヒス
ベルク」1隻であった。 1917. 11. 18
モード将軍病死
メソポタミア方面のイギリス・インド軍の司令官フレデリック・モード中将は、占領した
バグダードに駐留していたが、この日にわかに病を発して急死した。コレラであった。
煮沸しない牛乳を飲んで感染したという。
死去した場所は、奇しくも前年にドイツ軍軍事顧問フォン・デア・ゴルツ将軍がコレラで
急死したのと同じ建物だった。
後任には第三軍団長のウィリアム・マーシャル中将が任命された。 1917. 11. 20
カンブレーの戦闘
この日イギリス軍は、北フランスのカンブレー西方において、「タンク」437両を集中して
投入した攻撃を行った。
初日にはイギリス軍は大幅に前進し、「ヒンデンブルク・ライン」の一角をも占拠したが、
8日間の攻撃の間に、ドイツ軍は予備を集結させて戦線の突破を許さなかった。
続いてドイツ軍は反撃に移り、11月30日から12月7日にかけて戦線を押し返した。
結局イギリス軍の得た土地はわずかであった。双方に4万5000ほどの損害が出た。
この戦闘では互いに、歩兵と砲兵の連合による火力戦、戦車戦と対戦車戦、突撃部隊に
よる反撃防御などといった、進歩した塹壕戦術が用いられ、あたかも新戦術の実験場の
趣があった。
連合軍側では「タンク」の集中使用による大成功が喧伝されたが、歩兵の支援なしでは
占領地を維持できないなど、「タンク」の限界も露呈した戦いであった。 1917. 11. 21
ネビ・サムウィルの戦闘
パレスチナ海岸地方をヤッファまで奪取したイギリス軍であったが、貧弱な補給線の
ためにそれ以上の前進は危ぶまれた。
ガザ前面まではエジプトからの鉄道が通じていたが、その先の補給路は砂漠の中の
小路で、ロバやラクダが頼りだった。
ヤッファの港は沖がかりで、はしけに積み替えて荷役するのは大変な手間であった。
エジプト遠征軍の大きな部分をなす乗馬歩兵には、かさばる馬糧の補給も必要で、
補給の負担は大きなものだった。
しかし、エジプト遠征軍司令官アレンビー将軍は、ここで一気にイェルサレムまでの
攻略を果たしてしまうつもりだった。
町を正面から攻撃するのではなく、遠巻きに包囲して、オスマン軍が補給の不足から
自発的にイェルサレムを放棄するのを期待する、という作戦である。
イギリス軍は攻撃に参加する部隊を絞り、イェルサレムにつながる道路の切断に
かかった。
イェルサレムから北に延びるナブルス街道の切断を担当したのはイギリス軍
第52師団であったが、その途上、イェルサレム近郊のネビ・サムウィル(サムエル廟)で
オスマン軍の陣地に前進を阻まれた。
オスマン軍の抵抗は強固で、さらに海岸線から内陸に延びるイギリス軍の北翼を
ねらってオスマン軍は襲撃を繰り返した。
戦闘は連日にわたり、両軍とも激しく消耗した。 1917. 11. 26
モンテ・グラッパの戦闘終結
イタリア戦線の突破を賭けて、オーストリア軍は山岳戦線のモンテ・グラッパ陣地の
奪取を試みた。未だ回復しない補給状態のため、比較的小規模な部隊で最大の効果を
挙げられる「戦線の鍵」を奪い取ろうという作戦であった。
11月13日、オーストリア軍とドイツ軍の山岳兵はイタリア軍の守るモンテ・グラッパの
攻撃にかかった。
しかしイタリア軍は頑強に抵抗し、ヴェルダンのフランス軍のように、敵の攻撃には
逆襲によって応じた。
エルヴィン・ロンメル中尉が属するヴュルテンベルク山岳兵大隊もこの攻撃に
加わっていたが、イタリア軍の逆襲を受けて退却せざるを得なかった。
26日、ついにドイツ・オーストリア軍は攻撃をあきらめてもとの陣地に戻った。
イタリア軍の退却はここで食い止められ、ヴェネツィアは救われたのである。 1917. 11. 29
イギリス空軍法、議会を通過
本土防空と前線支援、海軍航空隊の航空戦力を一元的に管理し、航空産業と結び
つけるための新たな軍種、「空軍」を設立するために、この日イギリス議会は「空軍法」を
可決した。
これは、王が陸海軍のほかに新たに「空軍」を組織する権限を認め、陸海の航空隊の
要員・装備・組織が「空軍」に移管されることを定めたものである。
これによって成立したイギリス王立空軍 Royal Air Force は、1918年4月1日をもって
正式に発足し、世界で初めての「独立空軍」となったのである。 1917. 11. 29
エルヴィン・ベーメ戦死
オスヴァルト・ベルケと空中衝突してベルケの死の原因となったエルヴィン・ベーメ
中尉にも、死神が忍び寄っていた。
「血の四月」前と夏に戦闘で負傷したため、親友のリヒトホーフェンには撃墜数で
大きく水をあけられていたベーメであるが、負傷から復帰すると撃墜数を伸ばし始めて
いた。
この日、イープル上空でイギリス軍のソッピース・キャメル戦闘機を撃墜した後、
ベーメはイギリス軍の写真偵察機編隊を発見した。
ベーメはその中のアームストロング・ホイットワースF.K.8複座機に狙いを定め、
後方から攻撃をしかけたが、イギリス機のパッテン操縦士(大尉)は急旋回でベーメを
かわし、ベーメ機はパッテン機の前に飛び出してしまった。
パッテンは機首機銃でベーメ機を撃ち、ベーメ機はタンクを撃ち抜かれて燃料が
流れ出した。そこへパッテン機の偵察員、レスター中尉の旋回機銃弾がさらに命中し、
ベーメ機は燃料に引火して火だるまとなった。
そのままベーメ機は墜落し、ベーメは戦死した。生涯撃墜数24機。
遺体はイギリス軍に確認され、その場で埋葬されたが、のちの地上戦闘でその跡は
今では不明になっている。 1917. 11〜
潜水艦戦の様相
船団護衛システムの完成によって、この月までにUボート作戦はほぼ制圧されたと
言ってよいだろう。
この月、Uボートによる損害は30万トンを切り、29万トンにとどまった。
これ以降、船舶損失が40万トン台に届くことはなかった。1918年4月からは30万トンにも
届かなくなった。
「大西洋の戦い」は、連合国護送船団の勝利に終わったのである。 ヨーロッパってそこら辺の土掘り起こしたら遺骨だらけなんかな… あんまり100年間手付かずの土地ってないだろうし、陣地戦続いてたから戦場清掃なり遺体回収なりはそれなりにこなせてたんじゃないかな・・・西部戦線は 1917. 12. 3
オーストリア軍、ピアヴェ川の橋頭堡を放棄
イタリア戦線には冬が到来し、同盟軍のこれ以上の前進は不可能であることが明らかに
なった。
同盟軍南西方面司令部は公式に攻勢の終結を宣言し、ピアヴェ川西岸の橋頭堡を
放棄して東岸の陣地を固めることを命じた。
イタリアの危機は終わったのである。 >>734
毒ガス汚染だったり戦死直後に陣地占領で死体処分されたりとかがあるから
身元不明遺骨だらけとは聞くし
実際独仏国境周辺は今でも立ち入り禁止、遺骨出まくりで開発制限の土地だらけやで あの国境沿いの戦線で10万単位の戦死、戦病死者が出ているからな
ベルダンの周囲だけでも砲撃の後の穴を臨時の埋葬地にして、さらにまた砲撃で穴があき、何処に遺骨が飛び散ったかわからないような区域が何ヵ所となくあるらしい 1917. 12. 4
ロシア軍と中央同盟軍の間で停戦合意
10月革命で政権を取ったボリシェヴィキは、即時和平を国内外に向けて主張していた。
ドイツはこれに同意し、この日東部戦線の一部で停戦が合意された。
翌日にはロシア戦線全域の停戦が合意され、8日にはボリシェヴィキの機関紙
「イズベスチヤ」は停戦の布告を掲載した。
両軍は合意に従い、7日には戦闘行為を停止した。
停戦に引き続き、正式な休戦交渉のために、独露両国の代表はブレスト・リトフスク市で
会談を行うこととなった。 フランスもチェルノブイリや福島どころじゃない範囲の超長期環境汚染地域を作られたら
そりゃ妥協なんでできないでしょうな
http://karapaia.com/archives/52193942.html >>740
二次大戦の時はこれらの地域はどうなってたんだろうね。
普通に看板無視して両軍走り回ってたの? 1917. 12. 6
フィンランド独立宣言
ロシア革命に伴い、ロシア皇帝の統治するフィンランド大公国は存立の基礎を失った。
1908年に設置されていたフィンランド議会は、10月革命を経てボリシェヴィキが実権を
握ったロシアから独立の同意を取り付け、12月4日に独立宣言書を起草して議会で
審議を行った。
そして6日、議会は正式に独立宣言を採択し、ここにフィンランドは独立国として
成立した。
しかし国内は、社会主義者・共和主義者・君主制主義者などが勢力争いを始めており、
フィンランドが確固とした独立を勝ち得るのはそれら勢力の内戦を経てからになる。 1917. 12. 6
ハリファックス大爆発事故
この日、カナダ大西洋岸の港町、ハリファックスで船団の集合待ちのために入港
してきた火薬運搬船「モンブラン」は、狭い水路でノルウェー船籍の貨物船「イモ」と
接触し、漏れ出した積み荷のベンゼンから発火した。
積み荷の危険を知っていた「モンブラン」の乗組員は一目散にボートで逃げ、船は
無人のまま埠頭に突っ込んでそこで爆発した。
2400トンに及ぶ火薬の爆発は、埠頭に集まっていた消防隊などの人々を巻き込み
ながら港町を破壊した。
船は粉々に破壊され、町は2キロ四方が瓦礫の山となった。さらに爆発が起こした
津波が沿岸の建物を押し流した。
被害は建物1万3000棟、死者2000人、負傷者9000人に及んだ。 1917. 12. 7
アメリカ戦艦戦隊、イギリス艦隊と合流
Uボートの猛威の前に、イギリス海軍は古い戦艦から乗組員を引き揚げて軽艦艇に
乗せ換えていたため、戦艦戦力に不足を感じるようになっていた。
これを補うために、4月に参戦したアメリカ海軍に戦艦派遣要請が出された。
アメリカ海軍はこれに応え、11月27日に戦艦「ニュー・ヨーク」、「デラウェア」、
「フロリダ」、「ワイオミング」がイギリスへ向けて出港した。
大西洋を東へ向かった4隻は、12月7日にスカパ・フローのグランド・フリートに
合流した。 1917. 12. 9
フォクシャーニ休戦協定
ロシアの戦線離脱によって、ルーマニアは孤立無援の状況となった。
やむなくこの日、ルーマニア軍は中央同盟国軍との間に休戦協定を結び、講和に
向けて交渉を始めることとなった。 1917. 12. 9
イェルサレム陥落
パレスチナ戦線の要、古都イェルサレムは徐々にイギリス軍の包囲に陥ろうとしていた。
オスマン軍はこの都に残しておく兵力の余裕はなかったし、イェルサレムの固守に
こだわって戦線が伸びてしまうのは、全体の兵力が劣勢な状況から見て得策では
なかった。
オスマン軍は、自軍の敢闘により撤退路が保たれているうちにイェルサレムを放棄
することを決断し、12月8日から撤収にかかった。
翌日、イェルサレムの市長フセイン・サリム・アルフセイニはイギリス軍に使者を送り、
イェルサレム市の無血開城を伝えた。
12月11日、イギリス軍のアレンビー将軍は公式にイェルサレムに入城した。古都の
聖域に敬意を表して、下馬しての入城だった。
ベエルシェバの戦闘からイェルサレムの開城まで、イギリス軍の被った損害は
1万8000あまり、対してオスマン軍の損害は2万5000に及び、さらに1万2000あまりが
各所で捕虜となった。
これにより、南パレスチナはイギリス軍の占領下となり、オスマン軍のバグダードへの
反撃は事実上非常に困難となった。
東部戦線の崩壊、西部戦線の膠着、イタリア戦線の大敗走によって陰鬱な空気が
漂っていた連合軍陣営にとって、この勝利は希望の光となった。
地中海沿岸は冬の雨季に入り、戦場にはしばしの平穏が訪れた。 1917. 12. 10
サロニカ戦線総司令官サレイユ将軍解任
サロニカ戦線の総司令官、フランス軍のサレイユ将軍は、中央では社会主義系の
政治家とかかわりが強かった。
新任の首相クレマンソーはこれを嫌い、サレイユを更迭してデスペレ将軍に変えようと
したが、参謀総長フォッシュ将軍は後任にギヨーマ将軍をあてた。
解任されたサレイユは軍務から引退し、故郷で隠棲することとなった。 1917. 12. 10
オーストリア海防戦艦「ヴィーン」撃沈さる
ピアヴェ川戦線の支援のためにトリエステまで前進してきていたオーストリア旧式
海防戦艦部隊に対し、イタリア海軍は小型舟艇による襲撃を企図した。
ルイジ・リッツォ少佐に率いられた「MAS」舟艇2隻は、12月9日の深夜にトリエステに
侵入し、防潜網をかいくぐって、オーストリア艦「ヴィーン」と「ブダペスト」に魚雷を発射した。
「ブダペスト」を狙った魚雷ははずれたが、「ヴィーン」は機関部に魚雷1発を受けて
大浸水を生じ、わずか5分で転覆沈没した。戦死者46名。
イタリア舟艇部隊は無事逃走し、リッツォ少佐はこの功績に対して黄金軍功章を
受章した。 WW1のドイツ軍はシェリーフェン・プランを捨てシェリーフェン・プランははロシア侵攻を偽装するためのブラフとし
兵力の動員の遅いロシア・東部戦線をオーストリアと協力し短期間のうちに突き崩し講和を取り付け
イギリスの参戦を出来得る限り遅らせその間にフランスを攻め落とすべきではなかっただろうか 緒戦で総攻撃してくるのがわかりきってる西部戦線側に主力を置かないという時点でシュリーフェンプラン以上にやばい賭けになる
西部戦線を強化しすぎると東部戦線は中途半端になるし
弱体にして西部戦線がフランス軍によって崩壊したら終わりだ 1916年まではブルシーロフ攻勢をかませるくらいにロシアも元気でしたからね。
そんなに一方的には勝てないと思いますよ。
オーストリア軍は頼りになりませんしね。 1917. 12. 12
ドイツ駆逐艦隊、イギリスのスカンジナヴィア船団を襲撃
10月の襲撃に引き続き、ドイツ海軍はイギリスとノルウェーを結ぶ船団の襲撃を
企図していた。
コルベ少佐率いる4隻の水雷艇(駆逐艦)はこの日、スコットランドからノルウェーに
向かう船団を捕捉することに成功した。護衛の駆逐艦「パートリッジ」は瞬時に撃沈され、
僚艦「ペリュー」は逃走した。残った護衛はトローラー型哨戒艇だけであり、ドイツ艦隊は
6隻からなる船団全部を撃沈して帰投した。
イギリス側の戦死者は100名、捕虜52名、商船乗員の捕獲者23名。ドイツ側は負傷
3名のみであった。 1917. 12. 14
フランス巡洋艦「シャトールノー」被雷沈没
フランスの旧式巡洋艦「シャトールノー」はギリシャ水域で兵員輸送艦として
使われていた。
この日、コリント湾を航行していた同艦は、ドイツの潜水艦「UC38」(艦長ハンス・
ヘルマン・ヴェントラント中尉)に発見され、午前6時47分に魚雷1本が命中して
航行不能となった。
護衛の駆逐艦の追撃をかわし、「UC38」は8時20分に再び雷撃を行って1本を
命中させ、「シャトールノー」は沈没した。戦死者300人あまり。
「UC38」は護衛の駆逐艦のさらなる攻撃を受けて浸水し、ヴェントラント中尉は
やむなく浮上して艦を放棄し、捕虜となった。 >>754
軽艦艇はがんばっていますね。
それから、1917年末はまだ第一次大戦「中期」だと思います。
まだ戦争は1年近く続くんですよ。
戦況を見ても、「末期」と言えるのは早く見積もっても1918年
秋からだと思います。 >>755
ろくな対潜兵器ないとはいえ、駆逐艦がいるのに一時間半も海域にとどまって攻撃続けるって、潜水艦の艦長とクルーの精神力すげーな 1917. 12. 15
モルダヴィア建国宣言
ロシア領ウクライナとルーマニアの国境のロシア側、ドニエストル川流域をベッサラビア
またはモルダヴィアという。
この地域の住民は2月革命後自治意識を強め、11月に議会を招集して、12月15日に
「モルダヴィア民主共和国」の成立を宣言した。
これはもともとはロシア臨時政府系のロシア連邦共和国に加盟するという意味合いの
ものであったが、10月革命とボリシェヴィキの政権奪取を経て、次第に隣国で民族的に
近いルーマニアとの合併に傾いていくことになる。 集英社漫画世界の歴史(古いほう)を読み返したけどレーニンの残虐な側面についてはほとんど触れられてなかった。
おかしくない? 激しい内戦時代でレーニンに敵対する陣営だけが虐殺されていたわけでもない事も考えて全体的に見るとレーニンが残虐だと言う評価は単純に不適当 つまりろくでなしの虐殺者しかいなかったという単純な事実
てか論点ずらしの詭弁としても761は出来が悪いな ほとんど罵詈雑言にしかなってなくてどこが問題なのか指摘できてないそのレスほど出来は悪くないよ 1917. 12. 17
ソヴィエト・ウクライナ戦争始まる
ウクライナは2月革命後自治政府を組織し、ロシアとの連邦制をめざして活動して
いたが、10月革命後はボリシェヴィキの暴力革命路線を批判し、モスクワとの反目が
深まっていた。
11月には自治政府は「ウクライナ人民共和国」の成立を宣言し、これは事実上の
独立宣言となって、英仏の承認を受けた。
これに対しボリシェヴィキ政権は武力によるウクライナ政府の転覆を決意し、東部・
都市部における蜂起とロシアからの鎮圧軍の派遣を行った。
12月17日、ボリシェヴィキ政権はウクライナ政府に対し敵対行動の中止と赤衛軍の
進駐を求める最後通牒を発し、ウクライナ政府は即日これを拒否した。
同日ウクライナ北部バハマチで赤衛軍とウクライナ軍の衝突が発生し、ここに
おいて両者は本格的な戦争に突入した。 漫画世界の歴史はむしろロシア革命で人口が激減した事実にノータッチなのが問題なんじゃない 前後に二回の世界大戦があるから、そのどちらかのせいにしとけば問題茄子
農業集団化も粛清も人口の減少理由ではありません 1917. 12. 20
ヤッファの戦闘
11月16日に英軍の手に落ちたヤッファの港であったが、オスマン軍の陣地はまだ町の
近くにあって、港は敵砲兵の射程内であった。
これを排除して港を使用可能にすべく、町の北を区切っているナハル・エル・アウヤ
(アウユ川)を渡河してオスマン軍を駆逐する作戦が企画された。
歩兵3個師団が攻勢を担当することとなり、第52師団は20日深夜の夜陰に乗じて
アウユ川河口から1マイル上流の地点をボートで渡った。渡河は奇襲となり、21日
午前までに渡河堡が確保された。
工兵が浮橋を急造すると騎馬部隊・砲兵部隊が渡河し、オスマン軍はその戦力に
圧倒されて北へ退却した。
かくしてヤッファはイギリス軍の手に確固として保持されることとなり、その後の
戦闘において補給拠点として機能することができたのである。 第1次大戦中に謎の失踪、豪潜水艦第1号 100年経てついに発見
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3156201?cx_position=27 ソ連の体制の前駆はWWI前の帝政ロシアの無理やり体制維持のための政策が大元だし
政治将校もスパイ制度も大体ソ連前には原型がある ロマノフ王朝もハプスブルク王朝も密偵、密告制度が充実?していた。
国民の支持、それ以上に国民のまとまりについて自信が無かった。 西側から民主主義とか議会制度とか福祉とかそういう新思想が流れてきたら
皇帝一家と貴族だけが特権的に国家リソース独占してることが
国際競争にとっての癌だとみんなわかってたからなあ
そういうのを黙らせるためにスパイ制度整備したけど
歪んだ体制までは直せなかったという 1917. 12. 26
赤衛軍ハリコフを占領
独立を宣言したウクライナに侵攻したロシア赤衛軍は、ボリシェヴィキ派の多い東部
ウクライナに侵攻し、この日東部ウクライナの中心都市であるハリコフを占領した。
軍の統制という面で、赤衛軍はウクライナ軍に勝っており、ウクライナ軍は防戦
一方であった。 1917. 12. 26
イギリス海軍本部長ジェリコー提督更迭
ジュットランドでイギリス大艦隊を率いたジェリコーは海軍本部長を務めていたが、
その消極的姿勢はロイド・ジョージ首相の不興を買っていた。また、海軍大臣を務めて
いるロイド・ジョージの懐刀、エリック・ゲッデスとも個人的にそりが合わなかった。
ロイド・ジョージは、12日のスカンジナヴィア船団壊滅を口実にジェリコーを辞任させる
ことに決め、クリスマス前にゲッデスは書面をもってジェリコーに辞任を求めた。
ジェリコーはクリスマス明けの26日にこれを受け入れ、辞任した。後任はゲッデスの
肝煎りで本部長補佐を務めていたウィームズ提督が就任した。
長年の海軍への奉職に対し、ジェリコーは翌年春に子爵位を授けられた。
(Geddes と Wemyss の読み方はこれでいいのかちょっと不安。) 1917. 12. 27
オスマン軍イェルサレム周辺で反撃
イェルサレムから撤退したオスマン軍であったが、砲兵はまだ市内を射程内におさめて
いた。また、イギリス軍がイェルサレムから北上するための道路もしっかり保持していた。
イギリス軍はこれらの脅威を除去するために攻勢を企図していたが、オスマン軍は
機先を制して逆襲に転じた。
しかしイギリス軍は速やかに防御を固めてオスマン軍を撃退し、余勢を駆って再反撃に
出た。
4日間の戦闘で、イギリス軍はイェルサレム付近の重要拠点を奪取し、この都を安全に
するとともに、北上して攻勢に出るための足がかりを得ることに成功した。 >>755
シャトールノー…?
リシュアンドブレー?
アルベールドモルセール? >>775
「モンテ・クリスト伯」の登場人物は de Chateau-Renaud
巡洋艦の方は de Chateaurenault
なので、残念ながら別人ですね。 1918. 1. 4.
列強のフィンランド独立承認
前年の11月15日に独立を宣言したフィンランドに対し、この日ボリシェヴィキ・ロシアと
フランス・スウェーデン・ドイツが承認を行った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています