第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
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1918. 4. 22
トランスコーカサス連邦独立
ロシア領南カフカスの諸民族の代表は、2月革命後に「ザカフカス委員会」を結成して
臨時政府に従っていたが、10月革命後のボリシェヴィキ政府には従わず、独自の動きを
見せていた。
さらに3月のブレスト・リトフスク条約で「本来南カフカスに属すべき」オスマン帝国領内の
占領地がすべてオスマン帝国に返還されたため、委員会のボリシェヴィキへの反感は
高まり、4月22日にはザカフカス議会は「トランスコーカサス(ザカフカス)連邦共和国」の
成立を宣言して公然とロシアから離脱した。 1918. 4. 23
ゼーブルッヘ・オーステンデ襲撃
度重なるドーヴァー海峡へのドイツ軽艦隊の襲撃とUボートの攻撃に対抗するため、
イギリス海軍は、ドイツ海軍が前線基地として使用していたベルギー領ゼーブルッヘ港と
オーステンデ港の襲撃を企図した。
両港とも海から短い運河を経た内陸にあり、襲撃隊は旧式巡洋艦をその運河の口に
自沈させ、港を閉鎖する作戦であった。
夜半にイギリス艦隊は港に近づき、沿岸砲台を煙幕で覆うことを試みたが、当日は
風が強くて煙幕は流れてしまい、閉塞船は砲台から激しい砲火を受けた。
結局、ゼーブルッヘでは運河の中に突入できたものの完全な閉塞はできず、小型
Uボートの出入りに支障はなかった。
オーステンデでは航路標が偽装のためにずらして設置されており、閉塞船は運河から
離れた砂州に座礁して、まったく航路をふさぐことはできなかった。
大々的に行われた作戦は失敗に終わったが、イギリスではこの襲撃を「壮挙」として
宣伝し、無味乾燥な封鎖と通商護衛に疲れた海軍の士気に一服の清涼剤を与える
ことに成功した。それが唯一の成果であったろう。 なんだこのスレは・・・・・・・・一人が延々と書き込んでる >>926
実際一人かどうかはわからないが、奇特なこのスレの名主様だよ。
第一次大戦は、特に欧州にとっては第二次大戦以上の歴史的エピソードなんだが、日本では人気?が無いから希少なスレだ。
そういえば、百年前、そろそろ世界初の戦車戦が始まっているはず。
現代の戦車に比べると、現代人と原人くらい差があるが。 そろそろWW1が終わってしまう。
途中から参加しているので、サラエボ事件の
あたりのWW1の開始の頃から読み返したい
と切に思うよ。
どこかに纏めてアップされていると助かる。 >>928
残念ながら、2015年の1月途中から始めたので、1914年の記録はないのです。
また、1915年の途中までは本当に「年表カレンダー」でしかなく、今のように
内容の説明がついたのは1915年11月ごろからですかね。 1918. 4. 25
オスマン軍カルスを占領
4月23日、オスマン軍はアルメニア人民兵の立てこもる東アナトリア(戦前のオスマン
帝国領内であるがアルメニア人が多い)のカルス要塞を攻囲した。
アルメニア軍側の統率は乱れ、周辺諸民族からの援助もなく、ザカフカス代表の
チュヘンケリ(グルジア出身)はカルス要塞に対し開城を勧告した。
孤立無援となったカルス要塞は25日に降伏し、オスマン軍はさらに東へ向かった。
カルスはこの後もアルメニアとトルコの間で争奪が繰り返されるが、その物語は
本スレッドの範囲を超える。 1918. 4. 27
ヴィボルグの戦闘
フィンランド内戦は白軍の優勢下に進行していた。
赤軍は最後の拠点として南東部ロシア国境に近いヴィボルグに追い詰められていた。
白軍のマンネルヘイム将軍はこの日までにカレリア地峡を封鎖してロシアからの干渉を
断ち、ヴィボルグ前面に陣を張る赤軍の退路をも断った。
マンネルヘイム将軍は最後の攻撃を命令し、砲兵の砲撃とともに赤軍に全面攻撃を
行った。
激しい戦闘ののち赤軍は崩壊し、29日にはヴィボルグ市内の拠点もすべて掃討された。
内戦の帰趨は決した。白軍は各地の赤軍残存陣地の掃討に移った。 1918. 4. 29
「ゲオルゲッテ」作戦中止
英仏海峡を狙うドイツ軍の攻勢は阻止された。連合軍はフランス軍の予備から兵力を
抽出して北部戦区に送り、兵力比はドイツ軍に不利なものとなった。
ここにおいてドイツ軍総司令部は「ゲオルゲッテ」の中止を命令した。 1918. 4. 29
ウクライナにてヘーチマンのクーデタ
中央同盟国との和平とドイツ軍の進駐によって国土をボリシェヴィキから奪い返した
ウクライナ中央ラーダ政府であったが、国内の統制力は弱く、ドイツの望む食糧の
大量供給にはあまり頼りにならなかった。
ドイツ軍はこの状況を見て、コサック民兵を率いていた貴族のスコロパーズキー将軍を
ひそかに支援した。
将軍はこの日農民の大集会を開いて中央ラーダ政府批判の声を上げ、熱狂する
支持者に推戴されて「ヘーチマン」(コサックの頭領)に就任した。
ヘーチマン・スコロパーズキーは兵を率いて中央ラーダ政府を解散させ、ウクライナの
実権を握った。ヘーチマンは国号を「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」に
改め、ドイツ軍の支持のもと独裁的権力を掌握した。 1918. 5. 1
ドイツ軍セヴァストーポリを占領
ウクライナからボリシェヴィキ勢力を一掃したドイツ軍はロシア領クリミアに侵入し、
この日セヴァストーポリ軍港を占領した。ロシア黒海艦隊主力はノヴォロシーイスクに
逃れたが、一部はドイツ軍に抑留された。 戦前まで対立していたドイツやフランスの社会主義者や
ハプスブルグ帝国の民族主義者が団結する展開好き
方向性が違うだけで皆愛国者なんだなって >>939
ハプスブルク帝国内の民族主義者が一時団結したように見えたのは、汎スラヴ主義の
ロシアがグダグダなことがばれたので、一応帝権に従っておくか、という動きになった
だけでしょ。
それが証拠に、帝国がドイツに追従するようになるとすぐに独立を志向するようになるじゃないか。
マサリクの運動は1915年から始まっており、国内勢力ともしっかり呼応している。
>>939の言うような無邪気な「愛国心」なんて、帝国ではどの民族もも持ち合わせていないよ。
イタリア戦線で士気が高いのは、「未回収のイタリア」が南スラヴの固有の領土を侵害する
という点が影響しているしね。 1918. 5. 7
ブカレスト講和条約
前年末の休戦に引き続いて行われたルーマニアと中央同盟国との講和会議はこの日
妥結し、講和条約が結ばれた。
これにより、ルーマニアは南部ドブルジャをブルガリアに、カルパチア山脈のいくつかの
峠をハンガリーに割譲した。
また、北部ドブルジャも当分の間中央同盟国の共同占領下におかれることとなったほか、
主要な油田はドイツに租借されることとなった。
一方でルーマニアは、ベッサラビア(モルダヴィア)との合同を認められることとなった。 1918. 5. 9
第二次オーステンデ襲撃
4月の作戦で閉塞することができなかったベルギーのオーステンデ港に対し、
イギリス軍は再び襲撃閉塞作戦を企画した。
前回ゼーブルッヘに突入した旧式巡洋艦「ヴィンディクティヴ」と、もう1隻「サッフォー」が
閉塞船として選ばれ、これをモニター艦・駆逐艦・爆撃機・陸上からの長距離砲撃で
支援することとなった。
5月8日の夜半、襲撃隊はダンケルクを出航したが、途中で「サッフォー」は機関故障を
起こして隊列から脱落した。作戦は「ヴィンディクティヴ」1隻で行われることとなった。
折からの濃霧の中、「ヴィンディクティヴ」はオーステンデ港口の運河に突入を図ったが、
ドイツ軍の沿岸砲台の砲撃はすさまじく、艦は推進軸を破壊されて操船不能となった。
艦はそのまま潮に流されて港口に縦に突っ込んだ形で砂州にのし上げ、指揮官は
やむなく自沈爆薬の点火と総員退去を命じた。退却に際して、陸からの射撃を受けて
多数の死傷者が出た。
作戦はまたも失敗に終わり、ドイツの沿岸用小型潜水艦は不自由なく港を出入り
することができた。
しかしイギリス海軍当局は今回も「壮挙」としてこの作戦を宣伝し、イギリス海軍の
士気はいささか元気づけられたのであった。 飛行機の窓からレンガを落として攻撃したって本当かい? 初期の飛行機は窓なんて上等なものついてないから
専用の戦闘機出てくるまで煉瓦や工具投げあったり、小火器撃ち合ったりしてたよ いくら木でできた飛行機とはいえ工具投げつけられても壊れないよなぁ 同航戦なら大して威力なさそうだけど、反航戦だと相対速度が上がって大ダメージの予感
滅多に当たらないだろうけど このころは、宇宙戦艦ヤマト的な
二人ノリで戦闘機の後ろに、銃座?がついてる戦闘機がありましたか? 1918. 5. 11
バトゥーミ講和会議始まる
オスマン帝国と南カフカス諸民族との間の紛争は収まっていなかった。
特にアルメニア人はオスマン軍に強く反抗し、旧国境以西のアルメニア人居住地を
強く要求した。
オスマン軍はそれに対し正規軍の進撃をもって応え、旧国境を越えてさらに東へ向かう
勢いを見せた。
ここにおいてドイツのあっせんで再度講和会議が黒海岸のバトゥーミで開かれたが、
その結果は前線での戦況に左右され、すぐには決定されなかった。 資料見つけたのでシェア
『オーストリア・ハンガリー帝国最後の戦争 1914-1918年』
( Österreich-Ungarns letzter Krieg 1914 - 1918)
http://warhistory-quest.blog.jp/18-May-10
>オーストリア国立図書館がデジタル化した著作権フリーの書籍を公開してくれています。
>詳細にオーストリアの参画したほぼ全ての欧州戦線での部隊配置、補給、増員などが網羅されている完全に純粋な軍事記録です。 いやほんと良く公開してくれたよねオーストリア国立図書館
この高解像やばすぎでしょ
著者も本職の超高級軍人だしイデオロギー性ほぼなしの軍事記録とか感動もの 大国のはずのオーストリア・ハンガリーが戦力にならなかったのは謎
日本が1944年以降一方的にボコられたのと同じか オーストリアハンガリーはブルシーロフさんにボコられたせいじゃないの ドイツ国民が飢餓に陥った戦争というイメージしかないわ
向こうの本読むと第二次大戦中の日本並みの飢餓状態
1918年12月のドイツ公衆衛生委員会は、
763,000人のドイツ人の民間人が飢餓で死亡したと主張した
1928年に行われた学術研究は、1918年12月の終わりまでの封鎖によって
引き起こされた病気で424,000人の死者を出した
戦前から肥料の多くを新大陸に依存していたのだから家畜を養えなくなり
脂肪とタンパク質の不足、栄養失調、結果結核や肺炎で死亡者続出
連合国側は悪化してもそこまで深刻化しなかった
第二次大戦でヒトラーがソ連侵攻したのもイギリスの海上封鎖が欧州全域にわたり
食糧・肥料が入らず支配地域全域で飢餓の兆候が表れたからと言われている。 ナポレオンの頃から大陸国家は同じ過ちを繰り返しているね
あの位置にイギリスが居て大陸国家が制海権を取らない限りイギリスには勝てない
イギリスを干上がらせるのが先か大陸国家が飢えるのが先かの勝負だ >>951
こっち貼れよ
Österreich-Ungarns letzter Krieg 1914 - 1918
Number of volumes: 15
http://digi.landesbibliothek.at/viewer/toc/AC01039112/0/ 1918. 5. 12
オーストリア皇帝の「カノッサの屈辱」
前月のオーストリア皇帝カール1世の秘密和平工作暴露に怒ったドイツ皇帝ヴィルヘルム
2世は、この日大本営のあるベルギーのスパにカールを呼びつけた。
その場でカールはドイツとの軍事同盟の強化と西部戦線へのオーストリア軍派遣を
約束させられ、軍事的に完全にドイツの隷属下に立つことを強いられた。
この屈辱的な事件をオーストリアの新聞は「まるでカノッサの屈辱だ」と書き立てて
カールの醜態を批判し、和平工作の仲立ちとなった皇后ツィタは「売国奴」と蔑まれた。
オーストリア皇室の威信は地に落ちたのであった。 てか続けんの?
ブツブツ一人でつぶやいてる人が飽きたらそれでおしまいなのに
1918まできてるし、あいつが続けたいなら続けろやでいいんでね? 俺は日報みたいのは全く読んでないけど第一次世界大戦スレ自体はあってほしい 作戦や戦闘のようす政治状況などは少し調べればいくらでも出てくる
むしろ銃後の市民生活や財政状況、戦傷者の福祉手当や市民への配給基準など
あまり知らないことを書いてくれれば価値もあると思うのだが
一人延々とつまらないことばかり書いてるから価値はない 別に日報はなくてもいいが、このスレがなくなるのは寂しい。 1918. 5. 14
チェコ軍団蜂起
旧ロシア軍所属のチェコ人・スロヴァキア人の部隊、チェコスロヴァキア軍団は、
チェコスロヴァキア独立承認を得るために、ロシアから西部戦線に移動しようとしていた。
しかしこの日、シベリア鉄道を移動途中のチェリャビンスクで、軍団所属の兵士が
たまたま通りかかったハンガリー人捕虜といさかいを起こして乱闘となった。
当地のソヴィエトは乱闘に参加したチェコ兵を逮捕するとともに、当地のチェコ部隊を
武装解除しようとしたところ、憤ったチェコ部隊は蜂起してチェリャビンスク市を占領
してしまった。
モスクワの全ロシアソヴィエト指導部はこれに激怒し、シベリアを通過中の全チェコ
部隊の武装解除を地方ソヴィエトへ指令した。
むろんこれにはチェコ部隊も武力で抵抗し、シベリア各地はにわかに騒乱の巷となった。
この事件はやがて、思いもよらない方向へ事態を発展させることとなる。 日報は俺も好きだ
同日付なのが特に気に入っている
書籍で見れば一瞬の出来事も、実際に日数をかけて展開していくと妙なリアル感がある >>968
なんであんなライト層向け本だしたんだろうなあの人 1918. 5. 16
フィンランド内戦の終結宣言
この日までにフィンランド赤軍の拠点はすべて掃討され、白軍は勝利宣言を行って、
内戦は終結した。赤軍と白軍の間には終戦協定その他の取り決めは行われなかった。
フィンランドは平穏を取り戻したが、ヘルシンキをはじめとする主要都市にはドイツ軍が
とどまり、フィンランドの地位は実質的にはドイツの保護国であった。 1918. 5. 16
日中共同防敵軍事協定
ロシア革命によってシベリアや北満洲のロシア領土・勢力圏内の情勢は流動化していた。
独露講和によってドイツの勢力がシベリアに及ぶのではないかという危惧、また共産主義
勢力がシベリアから中国へ浸透する危惧などが日中(中国は北京の中華民国段祺瑞政権)
両国によって共有され、この日日中共同で、満洲と、必要あればシベリアの治安確保を
目的とした軍事的協力体制を築くための協定が結ばれた。
しかし日本の真の意図はシベリア方面への日本自身の勢力拡大にあり、その動きは
シベリア出兵へとつながっていくことになるのだが――そこまでの話は本スレッドの範囲を
超える。 自衛のために軍拡していた国が他国を侵略し始めるのは歴史のお約束 1918. 5. 18
イギリス空軍のケルン空襲
この日イギリス空軍は D.H.4 軽爆33機をもってドイツのケルンを昼間空襲した。
この日は聖霊降臨祭の土曜日で街路には多くの人出があり、市の中心部への爆撃に
よって死者41人と負傷者47人が出た。 1918. 5. 19
最後の英本土空襲
この日爆撃航空団「ボゴール3(カゴール3の改名)」は、ゴータ爆撃機38機とツェッペリン・
シュターケン爆撃機3機からなる大編隊をロンドン空襲に差し向けた。
1.5トンの爆弾が市街に着弾し、死者49人と負傷者177人が発生した。
イギリス空軍も盛んに迎撃を行い、7機のゴータ爆撃機が撃墜された。
結果として、これが最後の英本土空襲となった。これ以降、爆撃航空団は地上作戦
支援に投入されることとなったのである。
この年の後半にはロンドンとパリに向けての大規模な焼夷弾空襲が企図されたが、
報復を恐れて作戦は実行されなかった。 この時代の航空機とかエースパイロットの話好きなんだけど、資料が少なすぎて困る。二次大戦だとスロヴァキアのエースの資料とかあるのに、一次だとフランス軍とかですら資料が無い。ジョルジュマドンとかググっても出て来ない そんなときにはノーマンフランク
OVER THE FRONT: The Complete Record of the Fighter Aces and Units of the United States and French Air Services, 1914-1918
https://www.amazon.com/dp/0948817542 >>980
中古でも7000円近いってよっぽど貴重な本なのかな、リストに入れておこう >>971
ユーモア小説 兵士シュヴェイクの冒険にも チェコ人とハンガリー人の喧嘩が
描写されていた。
作者の死去により未完となったことが惜しまれます。
第一次大戦を描きかつ日本語で読める文学作品ってだけでも貴重な存在。
作者が生き長らえ作品が続いていたなら オーストリア ハンガリー帝国の敗北
チェコスロヴァキアという独立国家の誕生までえがいていたのだろうか。 1918. 5. 21
アルメニア戦線の停戦破れる
バトゥーミでの講和会議は、アルメニアの強硬な抵抗によって遅々として進まなかった。
これに対してオスマン帝国は実力をもってアルメニアに城下の盟を誓わせるべく、
アルメニアの首府イェレヴァンに向けて進撃を開始した。
オスマン軍はアルメニア軍の抵抗を押し切って旧国境を超えた。 お それ岩波のやつかなぜか手元にあるわシュヴェイク
新スレ乙 一次大戦の物語だと「戦場の一年」が良かった。当時の塹壕戦の様子が良く分かるから資料としても良いし、お約束のように狙撃される新兵や将軍、ストレスで裸に目覚める同僚とか出てきてダレなくて面白かった 1918. 5. 26
グルジア・アゼルバイジャン独立
4月に「トランスコーカサス連邦共和国」の独立を宣言した南カフカスの諸民族であるが、
民族自決の原則に従ってそれぞれの民族ごとに独立国を建設することとなった。
この日、連邦議会は自らの解散を決議し、グルジアとアゼルバイジャンは独立宣言を
行った。2日後にはアルメニアも独立宣言を行った。
1920年にはソヴィエト軍が侵攻して南カフカスは再びロシア=ソ連領となるが、それは
このスレッドの話の範囲を超える。 1918. 5. 27
「ブリュッヒャー・ヨルク」攻勢発動
北部での攻勢が失敗に終わると、ドイツ軍は戦略的に価値のある目標を失ってしまった。
しかし兵力はなお余裕があり、アメリカ軍の到来前に何としてでも戦線突破を果たして、
講和の糸口をつかまねばならなかった。
アメリカ軍はすでに5月には戦線に到着しつつあった。急がねばならない。
攻撃はなるべく敵の防御の弱い場所を選んで行われることとなった。選定されたのは
「ミヒャエル」作戦突出部の南、かつてフランス軍のニヴェル攻勢が行われた区域であった。
この地域で突破ができれば、突出部はパリをうかがうこととなり、連合軍は必ずや
この地域に兵力を集中するであろう。そうすれば北部での再攻勢によって今度こそ
イギリス軍を海に追い詰めることができるに違いない。
兵力は29個師団、対するフランス軍は19個師団。攻勢は5月27日に開始された。
この地域を守るフランス軍は防御の経験に乏しく、多線防御の基本ができて
いなかった。ガス砲撃と突撃歩兵の突破の前にフランス軍はもろくも崩れ、前線に
露出していた大兵力が降伏して、戦線は無防備となった。
初日にドイツ軍は20キロ前進し、エーヌ川に迫った。 1918. 5. 29
スクラ・ディ・レゲンの戦闘
この日、サロニカ戦線において、前年の内戦を経て新たに連合軍に加わったギリシャ軍
初の攻勢作戦が実施された。
目標はテサロニキ北西の山岳部にあるスクラの町で、ブルガリア軍によって陣地化
されていた。
ギリシャ軍は3個師団をもってこれに攻撃をかけ、3日間の戦闘でここを占領・確保する
ことに成功した。
ギリシャ軍は、来たるべきサロニカ攻勢において十分その役目を果たせることを証明
したのである。 1918. 5. 30
ドイツ軍マルヌ川に到達
「ブリュッヒャー・ヨルク」攻勢はドイツ軍優勢に進んでいた。
この区域を担当するフランス軍のペタン将軍が死守ではなく機動戦と反撃による防御を
目指したこともあり、ドイツ軍は前進を続けて、この日1914年以来久方ぶりにマルヌ川の
線に到達した。
フランス軍の反撃は撃破され、パリに危機が迫っていた。 1918. 6. 4
バトゥーミ講和条約締結
首府イェレヴァンに迫るオスマン軍を前にして、ついにアルメニアは抵抗をあきらめて
バトゥーミ講和条約を承認した。
条約に従ってオスマン帝国の国境は東へ移動し、百万以上のアルメニア人が住む
領域が帝国領となった。
他のザカフカス諸民族もこの条約に参加し、オスマン帝国との戦争状態はようやく
ひとまず終止符が打たれることとなったのである。
オスマン軍は同時にアゼルバイジャンと協定を結んで同地に進駐し、バクーとその
油田を巡ってイギリス軍・ボリシェヴィキと争うことになる。(下記項目) 1918. 6. 4
オスマン・アゼルバイジャン協約
ロシアから独立を果たしたアゼルバイジャンはイスラム教徒が多く、オスマン帝国に
親近感を抱いていた。
オスマン帝国はこれを利用してカスピ海岸バクーの油田を手中に収めようとして、
アゼルバイジャンと協定し、国内への進駐を認めさせた。
また、オスマン帝国は南カフカス近辺のイスラム教徒から民兵を募って、
ボリシェヴィキやイギリスが狙うバクーへ進撃しようと企んでいた。
実はドイツはボリシェヴィキと協力してバクーの石油の割当を得ようとしており、
キリスト教徒の多いグルジアに進駐してバクーへ圧力をかけようとしているところで
あった。
バクーの石油をめぐって複雑な闘争が繰り広げられようとしていた。 (6 lゝ、_ .ノ ヽ、__ノ |!/
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