【蒙古襲来】元寇【文永・弘安の役】8 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>671
当然だ。
鉄砲以前は弓と馬が最強の兵器だから。
モンゴルは弓と馬で世界を制した。 ハンガリーまでだったかなあ
蒙古斑(赤ちゃんのお尻が青い時期が有る)出るの
チェコスロバキアはチェコがゲルマン?系??で
スロバキアはスラブ系だったかな?
謎が多い白いユダヤ教徒!w
(ユダヤ教徒はアラブ人だしw キリストもw)
そもそも聖書が原典の3大宗教w
(当然人間が考えたw) ハンガリー人の元であるマジャール族がモンゴロイドだからだよね。
混血してコーカソイド化したけど。 >>419
大鎧の実物見てきたんだが、
小札をよく見ると2枚の板を貼り合わせて(紐で繋いでると言ったほうがいいかも)1枚の小札になってる。
2枚の内、外側は厚さ1〜1.5ミリほど、内側は3ミリほどの厚み。
漆が塗ってあるからよく分からないけど、外側が鉄で内側が革で作られているのだろうか。
そうだとすれば小札は半分ずつ露出するように綴られているから、
鉄板の厚みが2〜3ミリ、革の厚みが6ミリという事になる。
草摺と大袖の部分は革主体と考える、
その上で鉄の比重が7.85(1 立方センチメートルあたり約 7.85g)、
革の比重が0.7と、、、考えれば合計30キロ弱になる。
どうよ? >>小札をよく見ると2枚の板を貼り合わせて1枚の小札になってる
これ分かるかなー?
ネットの画像とか見ても出てこないし。実物見ないと分からないんだよな。
実物の写真を撮れれば良かったんだけど・・・
1枚となった小札がそれぞれ綴られてる感じなんだよ。 >>677
身体にフィットするように作られている当世具足と比べると全体的に箱型の大鎧は
まだまだ古代からの流れを感じさせるね つまりモンゴル人や朝鮮人の弓は日本の武士様の鎧にはさしたる効果がなかったって事だな。 それは日本の弓も大差ないんじゃないか
騎射でも顔とか防備の薄いところを狙うのが基本だし 昔読んだ本に日本の弓は蒙古の鎧を貫通するが、蒙古の弓は日本の鎧を貫通しなかったと書いてあった。
あれ何だったかな。 と言って、毒矢被害が史書に記述されてる以上、撃たれて平気なワケじゃないのは明確だけどね >>682
その根拠となる史料でもわかればいいんだけど >>683
そりゃ顔とか首とか手足とか防備の薄いところを狙われればね。 狙うことは狙うんだろうが、狙って当たるとは限らないんで貫通力も大事かと。
なんで読んだか忘れたが、
戦闘用の和弓の矢は弓道の矢をイメージしたら間違える。
鑿(のみ)が飛んでくると思ったほうがいい。
っていうのがあった。 昔読んだ本だけどあれなんだったかなとかなんで読んだか忘れたがとか
うろ覚えが多いな… 和弓でフライパンを貫通する実験では、固定されたフライパンは容易く貫通できるが、
紐で宙に吊るしたフライパンは貫通させるのが難しいという実験結果がでている。
という事は同じ厚みなら板金鎧よりラメラーアーマーの方がタフなんだろうか。
当世具足の板札も小札に近い効果があるだろうね。
南蛮胴、これは駄目だな。 これが元側から長しといえども遠く能ずと言われた武士の矢か
確かに射程は短そう 紐で宙に吊るしたフライパンは貫通させるのが難しいという事は、
矢が着弾する瞬間にフライパンが後退し、単位時間あたりのエネルギー量が下がったという事なんだろうか。
だとすれば弓が槍より貫通力に勝るのは単位時間あたりのエネルギー量の違いからくるのだろう。 むしろ極力鏃の重量を抑えてアーマーピアッシングを高めた形状じゃないか
俺らが考える通常の征矢とは形状が異なる、ボヴォドキンアローそっくり。
>>693 長根のような巨大な鏃を使ってたなかったとしたら
短距離しか飛ばなかったって事はない >>697
元側の認識だからね
元の弓に比べてってことかもしれない >>676の見立てが正しければ、
外側の鉄板で鏃の先端を破砕し、内側の革板で勢いを殺すという事だろうか。
ちなみに鉄板だけを見ても、合わせ鍛造で外側は硬く内側は粘り強い、日本刀と同じ構造になっている。 こんな調子で武士たちは次第に押されはじめ、モンゴル軍が赤坂の松原に陣を張ったころには、
誰も敵に向かう者がいないありさまとなっていた。
そんななかで目立ったのは、肥後の菊地武房130騎、詫磨別当太郎100騎である。
かれらは激烈な戦闘をまじえ、家子カ党のほとんどをうしない、しかもなお敵の「首ども数多」を取った。
また、「屈強の馬乗り、弓の上手」小弐景資が、追撃してくる敵の軍将を疾駆する馬上から、
振り返りざまに射殺したのも人の目を引いた。
景資がみせた射方はパルティアンショットとよばれ、世界の他地域でもおこなわれ、
特に古代メソポタニアでさかんであった。
(近藤好和、1997)
日本の武士がパルティアンショットで敵将を射落としたとの記述が興味深いね。 >>698
歴史群像では推測としながらも逆の見解を述べてるよ >>679
これどうなんだろ。
箱形で鞍輪に重量を載せる大鎧は日本の甲冑の中では異端だと思う。世界中見ても異端だし。
この頃の鎧が一番装甲が分厚い。
日本刀は鎌倉時代に名刀が多いように、鎧もまた鎌倉時代が最も優れていたのではないかと思う。
当世具足も機能的でカッコいいと思うけどね。
何より実物が大量に残っているから、ガラス越しではなく直に見ることができるのがいい。 ラメラーアーマーの一種には違いない。芸術性の高さまで求めた辺り、イスラム圏の鎧に近似している。 イスラム騎兵のカイトシールドとか、西洋に影響受けてるとこはあるけどね。 とっても間違ったこと書くな
秘密に時々アクセスするのですか?
私は時々考えます侵略することを >>701
都合の悪い史料は無視する推測がアテになるのかな? モンゴルの弓は小さいけどストロークをしっかりとるからな。
耳のあたりまで引き絞るから。
ストローク11センチのクロスボウなんかとは物が違うんだよ。 射方は日本とモンゴル一緒なんだけどね
>>710
無視してる訳じゃないだろうけど
正確に測った訳でもなく所詮は印象だからね
歴史群像のは現実的な理屈を積み上げてる真面目な記事だったよ。 >>712
>無視してる訳じゃないだろうけど
え?まさかその面白おかしいライトオタ向け歴史雑誌の記事中に
元寇と同時代の元の人間が記した「汎海小録」が引用されてなかったの? >>713
だから何度もいうけど
実測で測ったんですかね?それ
面白おかしいと言えるくらいちゃんと読んだの?
中世の人間が印象で語った一節で全て決めつけるあなたも一方的だよ 当時の日本の射法は直射が多かったからその印象もあるかもね 運用の違いが大きいと思う。
日本の射手は個々が標的を狙って射るのに対して、大陸の軍は弾幕を張るからな。
家ごとに功を争う武士と、組織化された軍の違いだね。 関門海峡幅500メートル水深10メートル長さ10キロ
大小河川に舟艇水軍を潜ませる帆掛け船では負ける 水深10メートル図
100年前の博多湾水深
和弓と引き尺を同じにしたクロスボウ作ったら最強なんじゃないかな。
なんで作らなかったのかな。 弘安の役沈船27メートルキール
かつて騎士たちは弩を”あまりに無慈悲な武器”であるとして
教皇に訴え禁止令を出させたことがあった
弩は鍛錬を積まずども引き金を引きさえすれば誰にでも矢を射ることができる武器!
すなわちそれは…
たとえ平民であっても騎士の命を奪うことができるということ…!
特権的な騎士が平民などに敗れることがあってはならぬ…
特権的な騎士が平民などに敗れることがあってはならぬ…
禁止令を出させたのは弩が騎士の優位を脅かすものであると真に恐れていたことの証左でもある!
この光景を見るがいい騎士たちよ
騎馬が最強との思い込みはすでに幻想に過ぎぬ!
https://twitter.com/gryphonjapan/status/677116497089531904
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ラテラノ公会議で本当に弩がピンポイントで禁止になったのかどうか調べてみたら? 異教徒には積極的に使ってるよね。
っていうか、教会から禁止されても無視してるよ。トーナメントも禁止されても無視してたし。 4年ぶりくらいに元寇スレ見たけど
スレ名物のパフォ君はまだ生きてたどころか自説を展開するブログまで開設してたのか。
俺が始めてパフォ君を見かけてからもう12年くらい経つしスゴイ執念だな。
その内論文書くなり自費出版で本出すなりしそう。 新しいページ「勘仲記をどう読むか」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12450451866.html
「一週間後撤退説」を正面から批判してはいないが、廿日撤退とも読める
ことを説明している。 上記ページで:
博多合戦の一週間後に撤退したと言う例の学者の説を「一週間説」、
通説の通り博多合戦の当夜に撤退したという説(私の説)を「当夜説」と呼ぶならば、
その違いは下記の通り。
1)「一週間説」は十月十八日付の「賊徒来着対馬」の記事を無視するが、「当夜説」は
無視しない。(十月五日の対馬来着と見なす)
2)「一週間説」は十月廿二日付の「去十三日於対馬・・合戦」の「十三日」を飛脚の博多
出発日と見るが、「当夜説」は文章の通り合戦の日と見なし、原文の「対馬」は「壱岐」の
誤りと見る。(他に壱岐合戦の報告はない)
3)「一週間説」は十一月六日付の「俄逆風吹来、吹帰本国、少々船又馳上陸上」を
十月廿七日ごろに元軍が博多湾で遭難して撤退したことの報告と見なすが、
「当夜説」は壱岐の状況(安国論私抄では130艘漂着)の偵察結果の報告と見る。
(一週間遅れは偵察に要した期間)
「当夜説」を簡単に言えば「廿日夜に博多撤退、廿一日夜に壱岐付近で遭難」である。 服部説などこのスレを覗いている者なら誰も信じていないだろう。
当夜説もなにもどの史料も20日夜撤退で統一されている。
モンゴル軍が大敗したことを記した鎌倉年代記裏書の
「二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北」
これだけが根拠なんだから。24日が誤記で20日とすれば、他の史料とも整合性がとれる。 >>734
>これだけが根拠なんだから
いや、服部説の主な根拠は勘仲記だ。
>24日が誤記で20日とすれば、他の史料とも整合性がとれる
それについては「内外の史料に現れる大宰府とは何か」のページで書いた。
日付の誤記だけでなく、「大宰府=博多」を認めなければ、そのことは
言えない。 鎌倉武士って西洋のピストル騎兵に似てると思う。
武器の有効射程も威力も同じくらいだし、防具の厚さや面積も同じくらい。 新しいページ「五檀法日記は何を語るか」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12495487618.html
ウィキペディアなどに引用されているサワリだけでなく、その日の全文を読むことが
大事だと、よく分かった。
「五檀法日記」と「勘仲記」は互いに裏付け合っている。 秀吉は済州島に興味はなかったのかな?
恩賞としてすぐに大名を配置できそうな場所だろあれ 馬の放牧地にしか使えないような絶海の孤島は、どの大名もいらんだろ。
日明貿易が盛んならば避難港くらいにはなったろうけど。 香港デモのワンシーン。
引き尺の重要さがよく分かる動画。
ひ弱な学生でも、引き尺をうまく利用すれば、
重いレンガを遠くに見える警察署まで投擲できる。
この子は理系の学生だろうか。
https://mobile.twitter.com/RebeccaRambar/status/1157697657609117702
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) あの時、日蓮の首をはねていたら神風は吹かなかったろう >>741
馬の放牧地って武家にとっては超重要だけどね。
まあ、鎌倉時代までだけど。
関東あたりは馬の放牧地に適した土地があり、それが板東武者のルーツなんだとか。
秀吉の時代になると、鉄砲持った歩兵が主力の時代になるから、馬の放牧地なんて意味無いけど。 >>742の動画に映ってる男すごいと思うんだよね。
1.2キロの石を80m飛ばす投石機を動かすのに41人の人手が要るらしい。
それを考えれば、この動画の男は1人だし、恐ろしく効率が良い。
やっぱり飛び道具は引き尺なんだよ。 https://image.tnm.jp/image/1024/C0064504.jpg
これは後三年合戦絵巻の一部だが、
下の中央やや左の置盾に和弓から放たれた矢が深々と刺さってる。
この時代は伏竹弓の時代で、後の元寇の時代になると三枚打弓が使われるようになり、
和弓の性能が向上している。
元寇時のモンゴル軍は手盾を持って戦ってるが、
おそらく和弓から放たれた矢は、モンゴル軍の鎧や兜を盾ごとぶち抜いただろう。
それにしても後三年合戦絵巻や前九年合戦絵巻は和弓の貫通力を感じさせて面白い。 >>428
鎌倉幕府(上層に貴族出身が意外と多い)は、かつて対立した西国の監視もする立場
幕府は、元朝相手に強気
→ だが、実際に元軍を撃退したのは、西国武士(幕府軍が議論で遅れる間、現地だけで圧勝)
→ 幕府としては、西国武士(幕府軍抜きの武士団)の手柄にしたくない
→ 幕府は、「神風思想」(寺社・貴族の創作)に協力し、前は対立してた西国武士に恩賞渋る
→ 武士の不満
→ 世は乱れ、幕府崩壊へ
文永では奇襲の受け止め役となり大被害受けた、松浦党への恩賞もお粗末なもの
要は、幕府軍が活躍できなかったので
もと対立勢力である西国武士の功績を讃えるより、貴族・寺社勢力の機嫌とり「神風思想」に乗った幕府 モンゴル帝国は、遊牧民として交易やるから情報戦にも優れてた
【モンゴル帝国】
「恐怖の大魔王」チンギス・ハンの戦わない戦略 プロパガンダを徹底して使い倒した
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1578092905/l50 >>746
>この時代は伏竹弓の時代で、
後三年絵巻の成立年代は南北朝時代だが絵師は題材となった時代当時の弓に関する考証知識なんて持ってないでしょ
雰囲気で描いてるだけだからそこから後三年合戦当時の武器の威力を読み取ろうなんて無意味すぎるよ ようつべでマニアと思しき弓矢の解説動画見たけど
和弓だけエビデンスがナショジオの例の番組のみという今ひとつ要領を得ない内容だった
和弓って科学的に分析された事が一度もないんだろうか ぶっちゃけ形状と素材の反発力ぐらいしか考慮する要素ないだろうし 文永の役で博多の街がモンゴル軍に占領されたなどという記録はない。
蒙古襲来絵詞など信頼できる全ての史料で、モンゴル軍は赤坂で日本軍に撃退されている。
当日夜に筥崎宮が火災を起こしたから、史料を無視して博多の街がモンゴル軍によって
占領されたことになってるだけである。
しかし、その筥崎宮に伝わる八幡大菩薩愚童訓に拠れば火災の原因は内部出火である。
八幡大菩薩愚童訓は、確かに博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げたと記している。
その一方で、少弐景資は手勢を率いて撃って出ており、名のある武士もそれに続いたと
書いているので、博多筥崎に残っていたのは日本軍の主力ではない。
また、モンゴル軍が攻め込んだのは今津早良百路原赤坂だとしているので八幡大菩薩愚童訓
においてもモンゴル軍はやはり博多筥崎まで到達できていない。
博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げたのは、戦闘と全く無関係の出来事なのである。
戦闘と全く無関係の出来事が何故八幡大菩薩愚童訓にとって重要だったかといえば、
八幡大菩薩愚童訓はそもそも八幡の霊験を示すための書物であり、弘安の役の台風と
文永の役の筥崎宮の火災がそれに該当する。
10月20日の夜、博多筥崎に武士は1人も残っていなかったのだから、筥崎宮の火災は
武士の放火ではなく八幡の霊験によって起こされた内部出火であるというのが
八幡大菩薩愚童訓の主張なのだ。
もしもモンゴル軍が博多筥崎に到達していたら当然こんな理屈は成立しない。
要するに八幡大菩薩愚童訓もモンゴル軍が赤坂までしか到達できずに敗れたことを
大前提として書かれているのである。 現地に伝わる八幡大菩薩愚童訓と、それを下敷きに全国に普及した八幡愚童訓では、
10月20日の戦闘の経過が全く違う。
「八幡愚童訓」
菊池が赤坂で蒙古を駆け散らす。
↓
少弐景資が蒙古の副将を射倒す。
↓
博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げる。
「八幡大菩薩愚童訓」
菊池が赤坂で蒙古を駆け散らす。
↓
少弐景資が百道原に押し寄せて戦い、大名高家の武士もそれに続く。
↓
蒙古が今津早良百路原赤坂に攻め込む。
↓
博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げる。
↓
少弐景資が蒙古の副将を射倒す。
八幡大菩薩愚童訓だと、博多筥崎の武士が水城に引き上げたのは戦闘と直接関係のない出来事で、
戦闘そのものは少弐景資が蒙古の副将を射倒し、日本軍勝利で終わってる。
八幡大菩薩愚童訓は現地の史料であり、読者の対象の現地の住民も文永の役の戦闘が
日本軍勝利で終わったことを体験として共有していた。
しかし、それが全国に普及し予備知識ゼロの者が読んだ時、正確に理解されなかった。
だから八幡愚童訓で日本軍が負けたかのように改変されてしまったんだ。 八幡大菩薩愚童訓の他にも日本軍が明確に勝利している八幡愚童訓の異本がある。
『朝師御書見聞 安国論私抄』の中で日朝が引用している八幡愚童訓だ。
そこには、博多筥崎にいた武士が夜に水城に引き上げたという部分がない。
菊池が赤坂で蒙古を駆け散らした後、少弐景資が蒙古の副将を射倒して戦闘終了。
それが本筋なんだよ。 今じゃ普通に鎌倉武士団に力負けしたってのが通説だな 一日で船に逃げ戻ってその足で撤退してるからねぇ
どれだけ無理な解釈しても九州の御家人に実力で排除されたんですよ https://jp.reuters.com/article/israel-saudi-idJPKBN2670OQ
CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点
船酔い続出で戦意喪失だった!?
播田 安弘
1941年徳島県生まれ。父は造船所経営、母の実家は江戸時代から続く船大工「播磨屋」の棟梁。
艦艇の設計を夢見て三井造船(当時)に入社、大型船から特殊船までの基本計画を担当、半潜水型水中展望船、
流氷砕氷船「ガリンコ号2」、東京商船大学(当時)のハイテク観測交通艇、ディズニーシーの噴水台船などを開発、主任設計。
東海大学海洋工学部で非常勤講師を8年間務め、この間、2008年、日本初の水陸両用バス「LEGEND零ONE号」の船舶部分を設計。
定年後は船の3Dイラストレーションを製作する「SHIP 3D Design 播磨屋」を主宰。
2019年公開の映画『アルキメデスの大戦』では製図監修を担当、戦艦の図面をすべて手描きで作成。 >>763
すいません
リンク貼り間違えました・・・それはイスラエルとサウジアラビアの外交問題の記事です・・
これが蒙古軍船の記事のリンクです
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75515
CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点
船酔い続出で戦意喪失だった!? モンゴル人は少数で相対的に弱兵だった高麗人や女真族が多数を占めていた。
元寇はモンゴル帝国内の序列を上げたい高麗や遼東の勢力が中心。 >>11
アイヌ絡みは、「アイヌ(加害者)の方から大陸や樺太を侵略した」て話だしな
まず
北海道にウィルタ・擦文・ニヴフ・モヨロら先住民族がいたが
13世紀ごろ新たにアイヌ文化が成立(北方オホーツク系と交雑)し、先住民を駆逐+勢力拡大
その拡大の過程で、アイヌ(加害者)が樺太・大陸のニヴフ(被害者)を渡海侵略
…アイヌに害された地元民が元朝に訴え
→地元民の訴えを聞き、元軍がアイヌ(侵略者)に対し何度も防衛出動→負けたアイヌは元朝に服属
…以降、アイヌは歴代中国王朝に朝貢 (★アイヌの山丹交易:古代中国への朝貢交易)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%82%83%93%83S%83%8B%82%CC%8A%92%91%BE%90N%8DU/5/
> 日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、
> アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。
アイヌの侵略に対し、元軍が船・ソリ(犬・トナカイなど)で何度も懲罰・排除して、アイヌは服従
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf
★> アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
★> 大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました >>765
高麗人や女真族は操船要員だから前線には投入されなかった。
高麗人が損害受けるとモンゴル人だけじゃ船を動かせないからね。
元寇で戦闘に中心はモンゴル帝国最精鋭のモンゴル漢人部隊。 >>767
元寇関連は新説も定説も読んだが
それは流石に聞いたことない。
最近多いのは元寇でモンゴル人自体ほぼいなかったって説。
日本遠征を担当した朝鮮と遼東はモンゴル人がほぼいない地域。
船員7000人はほぼ高麗人で、なおかつ元軍もほぼ高麗系と女真系、
漢人と契丹人が少数、純粋なモンゴル人はほぼ無し。 いやいや、そんな史料は無いよ。
負けた言い訳の思いつきにしかすぎん。
元史という史料で元寇で逃げ帰った兵士が
捕らえられたモンゴル人と漢人と高麗人は処刑
されたが、旧南宋人は助命されたと証言しているよ。
つまり捕らえられた捕虜の中にはモンゴル人が
いたってこと。 モンゴル人といわれたものは遼東のモンゴル化した女真族や高麗人だろう。
どうやってモンゴル人と鑑定していたのかは知らんが。 いやいや、女真族や高麗人をモンゴル人と評した例は
ないよ。
ともに軍を構成している仲間の軍勢をそれも支配層の
モンゴル人を見分けられないはずがないだろう。
そもそも、高麗の忠烈王がクビライにモンゴル兵の
増員を要請していて了解を得られているんだから
モンゴル人いないなんて理屈は成り立たない。 元寇の元を擁護する言い訳ってほとんど捏造だよね
・モンゴル人は一部だけだった、モンゴル本軍が来たらヤバかった
→モンゴル人はそもそも少数民族
他の国を攻めるときもいろんな民族の武器や戦法を吸収して進撃する
・高麗人がほとんどの烏合の衆だった
→実際はモンゴル人、女真人、漢人といった何れも戦闘民族の割合の方が多かった
・海辺での戦闘だからなんとかなった
上陸されていたらヤバかった
→赤坂での戦いを完全に無視している
・モンゴル人は馬を連れてこなかった
→連れてきている
上陸もされて武士団の騎兵隊と正面からぶつかっている
・フビライは本気じゃなかった
→二回の敗北にもかかわらずもう一度攻めることを計画していたが家臣に止められた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています