【ばふりばふり】蓮實重彦 X+1【120度】 [無断転載禁止]©2ch.net
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まあ小説家としては蓮實より漱石のほうが圧倒的に上なのは確かだが。 まじでそんなこと言ったの。別に民主主義がベストだなんて誰も言ってないじゃん。ファシズムよりは明らかにましだから、とりあえず民主主義を守らないとヤバいって話でしょ。 安倍や稲田みたいなキショい奴の号令で動く社会の方が良いっつーの? 蓮實は漱石の『文学論』以上の批評書いたことあるの?何故かエラソーだが。 >>240
そんなことどうでもいいから「伯爵夫人」の感想落とせやw どの作品を支持して、どの作品を支持しないかは決定的に重要な事であり、細かい言葉の内容が重要ではないという事は蓮實重彦の映画批評が証明しているじゃん。 まあそれがハスミンの批評の限界でもある
結局「選択の良さ」に還元されかねないあやうさはあるんだな。
それにおさまらない部分もあるがね
だがそのハスミンとて「面白い」だけで済ませたことはねーんだがなあ 僕が蓮實重彦のセンスを信頼しているのは、選択を誤らないからなんだよな。 そういう人だからと言って面白い小説が書けるわけではないという定説を破壊して面白い小説を書いてしまいましたね。すごいなあ!蓮實重彦! そこが決定的につまらんところでもあるわけさ。
そろそろ落ちるわ
じゃーね あ、
>>252は>>250に対してね
あと町田康が「読んでて楽しくない」みたいな選評をしてるが、ああ分かってるなと思った。
まあ陰鬱なんだよ。単純に面白いとかではない。 文藝春秋読んだけどハスミンえらいつまんない当たり前なこと言ってんなw
老いたり蓮實重彦! 快楽原則に沿った小説じゃないのは確かだよ。でも、町田康はそう説明する必要があると思ったから言ってるだけだと思うな。本当は面白いのさ。でもそう書くと、性的な表現自体が面白いと思ってると誤解されるんだよ。 蓮實の映画の趣味はいいんだが小説の趣味はいつも違和感ある。 この糞ボケ老人の遺言が読みたくてコンビニに寄ったのだがセブンにもローソンにもなかった
取り扱いやめてしまったの?
街中の本屋はバンバン潰れ、最寄りの民進岡田系の糞スーパーも雑誌コーナー潰したしやがって立ち読みできねーだろうがよ糞が 僕も立ち読みするけど、べつにそれは当然の権利ではないし、図書館行きなよ(笑) >>261
ここはオマエのような乞食が来てもいいスレではない >>図書館行きなよ
残酷なこと、言うなよ
>>261は身分証明になるものを何も持っていないんだよ >>261 = >>266 は
コテハンを付けるべきだな
シンプルに 「 バ カ 」 でいいんじゃないかなww われわれの時代に、ベートーヴェン的な音楽を作曲したからといって音楽家を、ドラクロワ的な絵をかいたからといって画家を、あるいはまたゴチックふうの伽藍を設計し
たからといって建築家を、たたえようなどとは、誰も考えはしないであろう。小説の書き方がどうして不動のままで、凝結していることができようか。 >>254
あれを誰も言わないから俺が言うドヤ
みたいに得々としゃべっているのを想像すると
こっちまでいたたまれなくなる チャーチル「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」
絶対主義王政や民主集中制のほうがマシといえば一味違ったがあれじゃ昔ながらのあれだからなぁ。 「物語形式のあらゆる技術的要素――単純過去形と三人称の使用、年代記的展開順序の無条件の採用、線状の筋立て、
情念の規則的な屈折、それぞれのエピソードの終局への指向、等々――
はすべて、安定した、脈絡のとれた、連続的な、包括的な、すみずみまで解読可能な世界の像をおしつけることを目的としていた。
世界の理解可能性は、疑義さえさしはさまれなかったから、物語るということは、なんら問題を生じなかった。
小説の文章(エクリチュール)は潔白であることができた。
ところが、フローベール以後、すべてがゆらぎはじめる。その後百年たって、いまではその体系全体が思い出にすぎなくなっている。
この思い出、この死んでしまった体系に、なにがなんでも小説をしばりつけておこうというわけなのである。」
『ヌーヴォー・ロマンのために』
フローベール以後、すべてがゆらぎはじめるってどういう意味ですか? >>272
ロラン・バルト「零度のえくりチュール」
[エクリチュールとは、言語芸術を成立させる核としての文章の“書き方 フローベール以前と以後でエクリチュールはどう変わったの? 「零度のエクリチュール」は、あまりに昔の読んだので、
何を書いてあったか忘れた。ただ、あの本は一種の新左翼主義的(旧左翼主義的ではない)なイデオロギー批判だ。
それが日本ではイデオロギー批判だと思われていない。
そういうことはテルケル派の文学論いっぱんに対していえる。
なお、蓮実は、バルトが「文章」(エクリチュール)についていったことを、
「物語」の構成に移して論じたんだろう。
対象が違うので、ほんとうにそういう「応用」ができるかどうかはしらないが、
すくなくとも構想をそのまま拝借できる(対象が違うので、そうは見えないが、
露骨に言えば、実質的な剽窃を隠したパクリ)ので、
「創作的批評」としてはありなんじゃないの。 以下は、「零度のエクリチュール」の紹介文
エクリチュールとは、言語芸術を成立させる核としての文章の“書き方"を意味する。
人間精神が自然認識に向っていた百科事典的なラブレーの時代、
ブルジョワ・イデオロギーの上に、コトバが秩序正しい社会の流通体として
機能した快楽にみちたラシーヌやバルザックの古典主義時代、
フローベール以降の古典主義崩壊時代とエクリチュールの変遷を大別することができよう。
フローベールとともにコトバは作家の地平に現れ、ある文章体を選択することが
作家の責任となる時代がはじまった。
ゾラやモーパッサン、マラルメやランボーと、エクリチュールは古典主義の解体を跡づける受難の歴史を歩んだ後、
ついに、言語の自律性と社会的道具性の中点(零点)にたつ乾いたエクリチュールがカミュとともに生れた、
とバルトは言う。
ヌーボー・ロマンの歴史的背景へのみごとな分析となっている。 日本で言うと二葉亭の「言文一致」以前以降ということ?
日本の近代の黎明期の作家はフローベール以降の自然主義を参照したわけだし。 フローベールを単なる自然主義の作家とみなして受容しただけで
現実の模倣としてのリアリズムではなく、
何も意味しない本としてのボヴァリー夫人を書いた
小説家としてのフローベールを受容したわけではない。
言語の表象代行機能に対する疑いという側面で受容したのは
中村光夫以降なんじゃないの?よく知らないけど。 二葉亭四迷は言語の表象代行機能に対する疑いを持っていたようだが >>現実の模倣としてのリアリズムではなく、
この頭の悪い一節だけで
こいつのレスには読む価値が無いと分かるよなww 写実主義、リアリズムで否応なく言語の表象機能に対する疑いが意識的、無意識的にしろ出てくるってことじゃないの?
そうしないと古典主義時代の江戸戯作と日本の近代自然主義は本質的に変わらないってことになる。 「浮遊するシニフィアン」の自覚の始まり、とかいうことじゃないの。
たとえば、左翼史的には、レヴィ=ストロース、アルチュセールあたりまでは、
下部構造の優位ということを一応言っているが、
バルトやフーコーになるとほとんどそれをいわなくなる。
ようは、「上部構造の自律性」というのを文学論においていったのが、
対称指示的でない文、エクリチュールの自律、というようなことではないのか。
292さんがいうのは、そのころの文学創作において意識されるようになった、
ということだろう。
ただし、うろおぼえだから、見当違いかもしれない。 ほんとうにそういう本なのかは知らないが、
バルトや蓮実は、その線で解釈しているんじゃないの。
たしかに、自分の主張したいことを、
ある歴史的文学作品に託している、という面もあるかもしれない。 >>281
お前が何も知らないバカだというのはよくわかったから
二度とこのスレに書くな >>283
フローベール自らマクシム・デュ・カン対してそういう趣旨で言った有名な話で
フローベールが現実を模写するリアリズムの作家ではなく
形式を優先する作家であるなんて今日では古い常識に過ぎないのだけど?
>だが、マクシムは、そのにわかには信じがたい方向へと物語を引きずり込んでゆく。
ギュスターヴが写実主義の作家だって? まさか? 自然主義の父だって?
とんでもない! そんなものは、晩年の彼しか知らぬ連中が作り出した
根も葉もない無駄話に過ぎない。私は知っている。 人間の情熱を冷酷に解剖して見せる
メスさばきを誇る「文学の外科医」といった世評を率先して嘲笑してみせたのは
ギュスターヴその人なのだ。彼にとって重要なのは、題材ではなく、あくまで言葉の問題だ。
それが嘘だというなら、彼自身の言葉をそっくり引用してもよい。
「何を語るかが重要なのではない」と彼はしばしばくり返していたではないか。
いかに語るかがすべてなのだ。何かを立証しようとする芸術作品など、
何の値打ちもありもしない。何事も意味せぬ美しい詩句は、
何かを意味している同程度の美しい詩句よりも、優れているというべきなのだ。
形式のみが救いである。
こうした文章がギュスターヴの言葉をどれほど忠実に再現したのもであるか保証の限りではない。
だが、ジャーナリズムに流布されている「自然主義の父」といった紋切り型のイメージよりも、
はるかに忠実にギュスターヴの文学的姿勢を伝えていることは明らかだろう。
少なくとも、こんにちのわれわれが彼の作品に接近する場合のやり方は、
「自然主義の父」というものよりも、形式に救いを見出すギュスターヴといったものだからである。
蓮實重彦「凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論」より 中村光夫の本はそんなに読んでないけど読んだ限りでは「私」を捨象した自然主義の影響受けたのに日本の作家は何で技法だけ真似てナルシシスティックな私を主人公にした小説書くんだ?
フローベールとモーパッサンの精神を学ばないのだ?って感じに読めた。 フローベール以前の作家は題材優先で言葉、文章、形式には無頓着だった。ということか。本当かなあw >>287
いやこのスレはバカの書き込みを排除しませんよ。
排除すべきは愛(または憎しみ)なき輩であって
ハスミンを愛してもなければ憎んですらない奴らのお喋りはうんざりですな >フローベール以前の作家は題材優先で言葉、文章、形式には無頓着だった。
いつそんなことを言ったの?貴様はバカなのか
>>289
中村光夫は「風俗小説論」で、西欧の小説の内容から刺激を受けた観念的遊戯によって
日本の小説が成り立っていると言っていたのだからまったく違う エロいエロいと言われながらも直接的なエロ描写はなかったが
「グロテスク」でようやく濡れ場を描いた中村光夫より露骨に通俗エロを導入した「伯爵夫人」を
元東大総長がこんなものを書くなんて前代未聞の快挙です!といつもながらのヨイショで迎えるワタナベ 元東大総長が書きましたって
「現役女子大生が脱いだ!」と同レベルやなw もっともハスミンがその手のど真ん中系の通俗性を意識していないとは言い難いw >>292
じゃあフローベールとそれ以前の作家に大差はないってことじゃないか? フローベールの特異性が見えてこない。
「何についても書かれていない書物」という意図というか構想はあってもボヴァリー夫人がそれを実現出来た小説かどうか。
「何についても書かれていない書物」は言語の表象機能への疑いという意味で言ってるのか?蓮實氏はそういう解釈ぽかったが… 僕は「伯爵夫人」で抜こうとは思わなかったけど、世間の人は「伯爵夫人」で抜いてるのかな?ムー大陸は何回抜いたの? 抜きはしないが、無理して抜こうと思えばできないこともないように思う
かなりの荒行となるのが予想されるが フローベールはある意味セザンヌ的な言語で物自体にまで到るまで描こうとして言語の表象不可能性を露呈させるという作家ではなく
どうでもいい馬鹿女の不倫物語をとりあえずの口実として言語の戯れを実践する作家ってことでいいのかな。 表現形式における「リアリズム」を
現実の模倣とみなすようなバカは論外として
この中の何人が本当に「ボヴァリー夫人」を読んでるんだ?ww >>297
そんなわけねえだろ
それならロブ=グリエがわざわざ>>272のようにいうはずもない
フローベール以降、何を書くかではなく、いかに書くかの転換が起こって
言語そのものが問題になったのだから >>303
お前がバカなんだよ
いつリアリズムが現実の模倣だといったんだよ
そういう通説について言っているんだろうがドアホ
だから現実の模倣としてのリアリズムではなくとワザワザ断っているだろうが
お前はとっととくたばれボケ
リアリズムがロマンス(物語)のパロディだといわれているのも知らんのかアホ すっげーなww
午前2時台にも炙り出されてきやがったww 24時間体制でこのスレに貼りついてるのか?
バカにされるのが心配でwww 反論できないとこういう言い方し始めるんだよな(笑) >>304
フローベール以前はいかに書くかって作家は腐心しなかったの?本当かよw バカがバカなこと書いてると自分では気づかず
テメエの駄レスに酔ってるだけだよ
マジレスせんでもww 文學界で渡部直己と対談してるね
「大学で「文学」は学べるか」だって
学べるかどうかじゃなくて学ばせる必要なんかないんじゃないの?
ってのが世間の大方の合意だと思うんだけどジャスミンは
ふざけるな実際は文系よりも理系の方が力を落としているのである
国はカネをよこせ
と愚かな主張をしていた
そのあと例のマンコ小説についての釈明があったようなのだが
バスの時間が迫っていたので立ち読み中断
どのような戯言を披露していたのか少々気になる 中村光夫譲りの精神(?)で、伯爵夫人に関して「釈明」などしてないしする必要もない。
学部長や総長になったときの発言はどうなんだ?と聞かれても俺にはわからない。 実は理解しないまま批評家の口真似してる奴がほとんどなんだな。安心した!w >>315-316
オマエら、双子のようにそっくりだな
頭の悪さが 当方、最終学歴は高卒、偏差値40程度のバカ高校でしたがなんとか放り出す事なく読了致しました。なんと言いますか、蓮實さんも…幻の湖以降の橋本忍や晩年の武智鉄二の境地に達したのかと感無量でした。 キミ、それほどの底抜けバカなのに
よく偏差値40程度のバカ高校に入学できたね
裏口入学? なんかフツーの2ちゃんのスレっぽくなってるな。
悪い事ではないw >>314
ヲタはわからなくても鵜呑みにする。
「近代日本の批評」の座談会では柄谷とか結構突っ込んでたよね。
蓮實が「倫理」とかって言葉使うとどういう意味?とか 2ちゃんねるでヲタという言葉を使う奴は頭が悪い、ということが
実によくわかる 人よりだいぶ遅れて読んで、今頃はしゃいでいるムー大陸って… ボヴァリー夫人論は延々とテマティック批評を展開してるの?
小説の原理論的なこともやってるの? 蓮實の『表層批評宣言』の中の「風景論」のくだりなどは、現代の世界では戯れ言、倒錯、無知、浅はかの内のどれかの評言が相応しい。
やはり『批評空間』時代の、蓮實や浅田らの旧帝国大学勤務の学者が「知」を独占できた時代は終わったということなんだ。 http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-131.html
……すなわち、蓮實重彦よりミハイル・バフチンの方が偉いし、フローベールよりドストエフスキーの方が偉いのだ、と。 >>329
>蓮實の『表層批評宣言』の中の「風景論」のくだりなどは、
現代の世界では戯れ言、倒錯、無知、浅はかの内のどれかの評言が相応しい。
ほー
その辺について具体的に説明してくれない? その「現代の世界」を担ってるのは具体的に誰なんだよ(笑) >>332
少なくとも、欧米の学者の中には100人ぐらいはいるだろうね。
その中でも、俺ほど頭の切れる奴はおらんだろうが。 >>334
代表的な5名ほどの名前を教えていただけると嬉しいです >>335
日本の批評家や編集者達に貴重な情報を俺が無料で教えるの?
日本のマスコミ、商業文芸誌に貴重な情報が載っていたことなど絶えて久しいし、無料で教えるなど俺にとってデメリットしかない。
彼等の無知を笑うのが俺の趣味なんだ。 >>336
何か風呂なしトイレ共同アパートに住んでるオーラが出てるw まあ、ニーチェのツァラトゥストラも現代で言うと風呂なしトイレ共同アパート暮らしみたいなもんだからな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています