【ばふりばふり】蓮實重彦 X+1【120度】 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>303
まさか非日常化=非親和化としてのリアリズムといった程度のことで
こいつは屁理屈を言いまくっていたのか?
まあ、ドアホだな
通念上は現実の模写がリアリズムだろうに >>303
現実に対する模倣(ミメーシス)としてのリアリズム、
物語(ロマンス)に対するパロディとしてのリアリズム、
非日常化・異化・非親和化としてのリアリズム以外のリアリズムがあるのなら
是非教えてもらいたいね 社会主義リアリズムも古色蒼然たる通念上のリアリズムの一種だろう フローベールは神のような視点からのミメーシスとしてのリアリズム? 神のような視点はバルザックなどじゃないの?
ミメーシスとしてのリアリズムはフローべール自ら否定しているはず 10日以上前のレスが悔しくて仕方が無いこのバカ>>340-341 に
マジレス返さんでもww >>346
単に屁理屈が言いたいだけなのが完全にばれて
もはや哀れだとしか思えんな このスレでオマエを批判するのは一人だけだと思い込みたいキチガイさん
こんな時間にもすぐ反応するんだね
10日間、ずっと悔しかったんだねwwww 10日間悔しくてわざわざ書かなかったと思っていること自体が哀れだな
こちらの書かなかった事情もよく理解していないくせによく言うわw
非日常化についてなら数日前にとっくに気づいていたわw 勝目 梓(1932年6月20日 - )
幼い頃両親が離婚し、母とともに九州に渡る。高校中退後、長崎で炭鉱夫として働き、労組の責任者となるが闘争に敗れて退職。
ほか養鶏業、自動車教習所教員など、さまざまな職を転々とし、三年間の結核療養中に作家をこころざす。
1962年、初めて書いた小説で文學界新人賞に応募、一次予選通過。
1964年、郷里に妻を残し、愛人とともに上京。運送会社のトラック運転手として働きながら、同人誌『文藝首都』に所属し、
翌年、19歳で入会してきた中上健次を知り、中上の才能に打ちのめされる。
1966年、34歳で、『文藝首都』の推薦作「玩具の花」を『新潮』に発表。
1967年、「マイ・カアニヴァル」(『文藝首都』)で上半期芥川賞候補、1968年、「遠景」を『文學界』に、
1969年、「花を掲げて」を同誌に発表、直木賞候補となるが、芽が出なかった。
1969年、高瀬千図と出会い恋愛関係となる。
高瀬は二女を産むが、勝目が流行作家となってようやく妻との離婚が成立、結婚。しかし高瀬が作家デビューしてのち、協議離婚。
1970年、森敦と出会い、毎朝激励の電話を受けるなどして文学について教わった結果、娯楽小説に転じる決意をする。
1974年、42歳の時に「寝台の方舟」で小説現代新人賞を受賞、1975年から官能小説を中間小説誌に発表するようになる。
1977年、45歳で、初の単行本『マン・フラワー号のハント旅行』(グリーンアロー・ブックス)を刊行。 筒井康隆、勝目梓に小説が評される
日が来るとは思わなかったな ハスミンは『ゴジラ』(1954年)は評価してるの?
ハスミンの『シン・ゴジラ』評も読んでみたい! 蓮實は長身のオランウータン。
彼はチンパンジーではなく、オランウータンなのだ。 オランウータンに似てるのは間違いないけど、ものすごく賢いよな。 チンパンはアフリカ、オランは東南アジアで、
オランはオランダやベルギーの女性の人気者なんだな。
確か、ベルギーの女性が大柄なオランウータンと結婚したという話もあった。 自分もハスミン=オラウータンそっくり説の熱心な信奉者だった
でも、例の会見でTVでまじまじと蓮實重彦の顔を見たら
晩年の田中絹代にも似てた >>360
>確か、ベルギーの女性が大柄なオランウータンと結婚したという話もあった。
kwsk
>>361
イイハナシダナー(;_;) 最近蓮實が話題になって新規層を獲得したものだからTwitterでヒステリーが爆発してて笑える 500 : 吾輩は名無しである2016/09/01(木) 23:14:27.36
白江幸司
蓮實の豊崎追悼文を読んだ。文中の主張に占める党派的我田引水の割合が高すぎる。
哲学研究が解説するデリダと批評理論が解説するデリダとの対比で、
「通俗的な解説などとは異なる卓越した孤立」と仏文研究脈および豊崎褒め。
つくづく下品な野郎だが、そういう操作に気づかない人には魂の慰めを与える。
蓮實のド・マン/豊崎比較が噴飯ものだと指摘されてるけど、
蓮實がやってるのは「ド・マンなどは所詮仏文の知が大したことありませんなぁ。
ブランショをテマティスム批評家と勘違いしてるようだしデリダ特権視してるし、プププー」で、マジ下品w
追悼文にせよ豊崎論にせよ、文章自体は上品めかして流麗に書いてるから下品だと思われないってだけなんで、
要はエレガンスや不合理っぽさを演出すれば、コロッと引っかかる読者が沢山いるということよ。
2016年8月31日 501 : 吾輩は名無しである2016/09/01(木) 23:16:05.89
白江幸司
豊崎追悼文集の蓮實の別稿では、「イメージとして流通すること・イメージの連帯による堕落/孤立と持続」
の対比で読む人豊崎を賞賛しているけれど、この初歩的なミスは「ド・マンはどうせデリダとか言うだけでしょ?」
というイメージだけで書いてるために起きてる点で、悲惨さが際立つ。
あと、蓮實においてはブランショとデリダは比較的小馬鹿にされるのがつねなのに、
豊崎がブランショとデリダにこだわるときだけいつもの蔑視がまるで無くなるのも、我田引水のために豊崎を持ち上げてるように思える。
「ヌーヴェルクリティークにこだだる豊崎」を賞賛してるがそれは蓮實の自画像じゃん。
そんなわけで、蓮實の卑しさばかりが印象に残った。
豊崎光一の死後高まる英名は、日本において批評理論家が活躍しなかった仇花なんだろうか、などと感慨が深まった
(蓮實は基本的に、仏哲独哲独文に対して攻撃されずマウンティングできるように体勢を作るので思弁が形容詞への過剰負荷などになりがち)
あまり学識を誇らない蓮實だが(そもそも学識あるのかという疑いもあるが…)
「ヌーヴェルクリティークにかんする知見でマウンティング」は結構やってる。
あれは若い頃に築いた見解をもって、隙のあるやつはマウントしてボコる感じだが、研究者にありがちな悪しき体質の発露だと思うと腑に落ちる。
蓮實をとりまく情勢は、無邪気な鵜呑み層、酸いも甘いも通り越したはずがなぜか愚直なビリーバーとなった年寄り、
すでにまともに相手してない層、などが浮かぶが、最初の層には逆に届きにくいし、最後の層には必要ないし、
ビリーバーには何言ってももう無駄であり、批判しても意味がない気がしている
2016年9月1日 エマニュエル・リヴァ→マリー=シャンタル・ヴァン・メンケベーク
岡田英次→蓮實重彦
二十四時間の情事 Hiroshima mon amour (1959年)
1966年 - 東京大学博士課程を中退(同年3月)。東京大学文学部助手に就任(同年4月)。
学習院大学文学部フランス文学科非常勤講師を併任(同年9月)。
フランス留学中に知り会ったベルギー人のマリー=シャンタル・ヴァン・メンケベークと結婚(同年12月)。 猿の惑星 - Planet of the Apes(1968年)
マックス、モン・アムール (1987年)
PLANET OF THE APES/猿の惑星 Planet of the Apes -(2001年)
『マックス・モン・アムール』は、聡明であることの美しさを誇る貴重な映画的試みである。〈映画に目が眩んでQ〉
(「マリ・クレール日本版」5月1日、第6巻第5号、328〜329頁)
「作家主義」にさからってティム・バートンを擁護することの困難 『Planet of the Apes 猿の惑星』をめぐって〈【時評】《1》〉
(「批評空間」10月1日、第V期第1号[批評空間]、230〜234頁) ≫文章自体は上品めかして流麗に書いてるから
蓮実の翻訳調の奇形的日本文を「流麗」だと思う人がいるのがふしぎなんだな。
そういう人は、
同先生が批判していた、古典作品の「紋切型」の文で読み込んだらいいのじゃないか。
そうすれば勘違いに気づくはずだ。 蓮実重彦自身は、つまりは、本音ではないこと、ほとんど逆のことばかり言う、
「確信犯」だと思うのだ。「確信犯」は、よくいえば「戦略家」である。
問題はだから、その受け売りをする人たちだろう。 まともな頭の人は蓮實の書いたものなんかよみません。
今や、読むのは彼のビリーバーだけですって。
365のビリーバーは上手い表現だw 三島賞受賞記者会見での取材記者側(複数?)とのやりとりを今日初めて読んだが、蓮實の支離滅裂な答えは爆笑に値する。
意識せざるコメディアンだ。
小林秀雄の曖昧な物言いを批判する一方でこれはないわな。
曰く、「小説が向こうからやってきた。」から書いた。
じゃ、やる気満々だったのかと聞けば、全否定。
大体、小説が
向こうからやって来たとか、島田雅彦の「いつの間にか小説が出来ていました。」並の珍発言だぜ。 蓮實重彦の煽り、脅迫技術は天才的だから。天性の香具師気質。 >>378
蓮實が阿呆なことがばれただけだよ。
蓮實の阿呆を買いかぶっちゃいけない。 >>377
「向こうからやってきた」と「やる気まんまんじゃない」のは両立するよ 既存の文化権力形態を批判することで、その形態の中で地位を得ていく、
という芸風は、よくあるものである。
石原慎太郎、田畑総一郎、などもそうであった。
蓮実の場合は、なにやら「知」的っぽかったので、それらとは少々違うように錯覚する人がいるだけの話で、
じつは本性はおなじである。 石原も田原も審美眼がないけど、蓮實重彦はある。これは決定的な差だな。 今や何の価値もない事が知れ渡ったチャンピオンベルト(しかもちっぽけな)で最大限に派手な話題づくり出来たプロレスラー扱いすると途端に怒りだす。
そこまで出来てこそプロレスラー(勿論それも否定)。
デブ福田や小林よしのりのように、無責任に毒吐いてたくせに立場が劣勢になると「俺はヒールを演じてただけ。これはプロレスなんだから…」と言い訳するような輩とはやはり別格。 >>380
詩なら、向こうからやって来て、それを直ぐにその場で作品化できるわけだが。
だが、小説の場合は制作期間は数カ月に渡り、毎日の睡眠、休息を挟み、持続する制作意思が不可欠になってくるわけだ。
大体が、小説を作ろうという意思があるから、小説が向こうからやって来たという、古代ギリシアのオカルティストみたいなことを言ってしまう。
きちがい以外のものではない。 石原は、流行作家だったし、
田原は、テレビ・映画製作者・監督、であった。
創作力を伴う審美眼がないのに、官学の長のごり押しの偽文化人、
になったのは蓮実だろう。 >>384
僕は蓮實重彦がきちがいだとは思えないけど、中原昌也は「蓮實重彦は狂ってる!彼を文部大臣にすべきだ!」と言っていたな。 >>385
石原慎太郎が撮った映画見た事ある?(笑) 蓮實重彦
「作家には里田まい的な無知蒙昧、 田原総一郎的な傲岸不遜、安倍晋三的な厚顔無恥が許される。批評家にはそれらは許されない」
私がつくづく野球を球場で見るのが嫌になったのは、東京ドームでは、ネット裏ですらみんなメガホンを叩いて騒ぐわけです。
ほとんど私と考えが一致したことのない石原慎太郎まで、巨人戦を見に行ったら、やっぱりあのメガフォンがうるさいんで五回で帰ったと聞きました。 >>388
>蓮實重彦
>「作家には里田まい的な無知蒙昧、 田原総一郎的な傲岸不遜、安倍晋三的な厚顔無恥が許される。批評家にはそれらは許されない」
それマジで書いてたっぽいね。面白い(笑) >>391
その質問待ってましたと、言いたいところだが、俺は蓮實の僅か、一億倍頭が切れるのに過ぎない鈍才だよ。 「小説が向こうから来た」というのは、
なじみの編集者に、「先生、三島賞がぱっとしないんで、
盛り上げたいので、何か小説書いてくださいよ」
とか言われた、という程度のことじゃないの。
どこの誰だか世間が名も知らないようないまどきの作家の小説よりは、
受賞作になれば一部で話題になるだろう。 矢野編集長は、僕の要望にほぼ完璧に応えてくれた。あの人が僕の意見を容れて動いたのではないと思うけど、本当に「わかってる」人。低価格での単行本化を速攻でしてくれた。 ≫中原昌也は「蓮實重彦は狂ってる!彼を文部大臣にすべきだ!」と言っていたな。
ぜんぜん狂っていないよ。中原流のよいしょなんだろうけれど、
しかし、大げさな物言いだな。
まわりがイエスマンばかりになった権威的年寄りは、概してああなるものだ。 中原昌也は蓮實重彦の初期小説を「底の浅いホラー小説」「死ねバカ!」と書いてましたよ(笑) あるいは、「距離を取ってますよ」というアピールとか。
とはいえ、中原氏は、私の所属する文学サークルのインタビューに快く応じてくれた、
ということがあるので、これ以上、批判をしたいとは思わない。
これでもわたしは、「義理」を重んじるので。 そんな話は意味ないでしょ。蓮實重彦と仲良くなる前の中原昌也が蓮實重彦に対してどういう態度を取ってたか、って話をしてるんだけど。何の「よいしょ」だよ(笑) 中☆原☆昌☆也が何言おうと勝手だが
中原☆が業界受けするだけで大成しないまま不摂生が原因でくたばることだけは断言しておく。 蓮實は悪くないけど蓮實に影響受けた映画批評家は全部ダメ
というフレーズを紋切り型辞典に登録してから >>403
中原昌也は言ってたよね。だからこそ自分は町山智浩の映画批評を信用するのだと。町山智浩も大いに蓮實重彦の映画批評の影響を受けていると思うけど、新しい地平を切り開いているのは確か。 「シン・ゴジラ」が“また”負ける!?大ヒット「君の名は。」との時空を超えた因縁とは?
「進撃の巨人」がこっぴどく酷評された昨年とは一変、この夏は邦画が興行でも評判でも大盛況だ。
ハリウッドやディズニーの大作を蹴散らすように、東宝が社運をかけて放った「シン・ゴジラ」が一部の心配をよそに大ヒットしていることはご存じだろう。
ところが、だ。ここにきて「シン・ゴジラ」の快進撃を脅かすとんでもない特大ヒット作が現れた。
「新海誠監督のアニメ『君の名は。』のヒットぶりが凄まじい。8月26日に公開されるや、宮崎駿監督のジブリ作品なみのロケットスタート。
最初の週末3日間で興収12億円、その後の平日でも客足はまったく衰えず、『映画の日』とはいえ2学期も始まった9月1日の平日も全国で完売御礼状態です。
早くもゴジラの70億円どころか80億円、90億円レベルの国民的興行になるのではと噂されていますね。
そして、映画ファンの間では復権したゴジラが今度も“因縁の作品”に負けるのかという驚きの声が出ています」(前出・映画誌ライター)
国内で900万人以上が観たとされる「ゴジラ」第1作が公開されたのは1954年(昭和29年)だが、
この年、映画配給成績(当時は興行収入ではなく配給額が指標)で1位に君臨したのは「ゴジラ」(1.6億円)ではなく、
女性ファンを中心に国民的人気シリーズとなっていた「君の名は」の最終第三部(3.3億円)だったのだ。
もちろん、新海監督の「君の名は。」はリメイクではなくオリジナル作品だが、くしくも62年越しに「ゴジラ」と「君の名は」の同名タイトルが
邦画界でトップ争いを繰り広げることにロマンを感じている映画マニアも多いという。
「夏休みも終わり、『君の名は。』がどこまでヒットを続けられるかは未知数。しかし作品の評判と地方や平日の興行状況から『シン・ゴジラ』を最終的に抜く可能性はかなり高い。
これが平成29年だったらさらに面白かったと話す映画ファンも多いようですね」(前出・映画誌ライター)
昭和29年は松竹と東宝の争いだったが、平成28年はどちらも東宝の配給作品。まさに関係者は「してやったり」だろう。
http://www.asagei.com/excerpt/65291 では、中原は、仲良くなる前には本音で蓮実のことをぼろくそいっており、
仲良くなってからは、ご機嫌取りをしている、ということでいいのじゃないか。 しかし、「陥没地帯」の出たころは、
中原氏は、「ハスミ・スクール」(浅田彰いわく)の人じゃなかったわけか?
それhが知らなかったな。 中原が具体的な批判をせず大ざっぱな放言する場合
これでいいんだろという甘えみたいなものを感じる。
本気で否定したい対象に関しては「誰に頼まれたわけでもないのに」熱がこもる。 ≫町山智浩も大いに蓮實重彦の映画批評の影響、を受けていると思うけど新しい地平を切り開いているのは確か。
あったらしーちへーをきりひらいているー、
とかよく書くね。これで「審美眼」がなんたらとかいうから、おそろしいわ。 >>406
「果たして、仲良くなる前に本音を言ってたのか?」という問題には踏み込まないの? >>408
それはあるね。
>>409
まあ、シンプルに言葉を捉えて欲しい「蓮實重彦の地平とは違う地平を町山智浩が切り開いている」という言葉の意味のニュアンス理解できない? 内容ではなく、言い回しが馬鹿にされている、ということが理解できない?
で、
≫「果たして、仲良くなる前に本音を言ってたのか?」という問題には踏み込まないの?
踏み込むもなにも、だいたい関心がない。
仲良くなる前には「陥没地帯」をぼろくそいっていた、ということらしいから、
じゃあお世辞使ってなかったんだろう、と思っただけのことだ。 >>412
中原昌也は「陥没地帯」をボロクソ言って、「伯爵夫人」を絶賛したね。それが全てだな。 中原氏が何をほめようが何をけなそうが、関心がない、
というのが、わたしとしては、全てだな。 もっと本気出せやアンチw
Pはジャネごときに優しすぎるぜ。
ヒュロヒョロの雑草みたいなルサンチマンは無視無視。 pとムー大陸というのは、同一人物だろう。
双子のようにそっくり、といった人もいたようだが。
この給食のクジラの大和煮のうまさがわからないやつは味バカ、的な論法が、
ムー大陸用語の「雑草のルサンチマン」だろう。
で、わたしとしては、ハスミ先生と同じく、「ルサンチマン」を近代知と理解している。 だいたい、ムー大陸とpというのの書き込みがど酷似しており同一人物であるかのようだ、、
というのは、ほかの人も書いているわけで、前々からわたしも同感だ、というだけのことなんだ。
そもそも、「節穴」とかそうでないとかというほどには、考えていないわけね。
つまりは、この二つの固定ハンドルは、赤の他人が自分に関心を持ってくれる、
という過度の期待を持ち過ぎなんだ。これは欠損家庭の人にありがちな発達障害のパターンに見える。
420〜422のレスのようなどうでもよい書き込みもするし。 他人に過度に期待しずぎて、迷惑行為に及ぶわけで、
だから、期待し過ぎなければ、迷惑行為もしなくなるのじゃないか。 だいたい、ムー大陸:Pさんは、どこのどういう人なの?
個人ないし組織の名を挙げて、虚偽でない立場が、
わかるようにしてくれるといいね。 前スレでの「伯爵夫人」の感想を読めば分かるように
とっても頭が悪いのに必死に背伸びする姿だが痛々しい人だよ ムー大陸を「頭が悪い」とは思わないな。
ただ、むかしよくいた「ある種の人士」の典型なんだ。
余りにも典型的で、ほとんど作り物のようでさえある。 カント的には、趣味判断・美的判断というのは、私的かつ普遍的、という非常にありがたいものなんだろうけれど、
そのありがたいはずのものを、やすやすとなにかにゆだねてしまう、
という奴隷道徳=ルサンチマンに疑念を抱かない、
ある意味で、模範的なほど現代消費社会に順応した種族といえるだろう。 けっきょく、ハスミイズムの問題点というのは、
本人にとっては私的な動機に基づくものであったのに、
社会的には、文化の画一性を助長するように機能してしまった、
ということだったと思う。
そして、本人もいつごろからか、そのご本尊的な位置付けにおよそ満足してしまった、
ということだろう。これは吉本隆明とほとんどおなじである。 違うといえば違うのは、ハスミのほうは、官僚主義的体制防衛的なポジショントークを、
ときとしてするので、
すこし老害有害な面がおおきい、ということかな。 リーアム・二―ソンはアクターズスタジオのインタビュー番組で、
「監督がだれであろうと、画面に映るのは俳優で、観客が集中するのは、その演技だ」
といったのであるが、わたしとしては、こういう言に、
ハスミ映画批評の全文よりも、重みを感じる。 ハスミは、、小説でも映画でも、文中や画面に現れないものには関心がなく、
じっさいに運動している人間に関心がある、と述べたのであるが、
劇映画の場合、その「運動」をしているのは、監督ではなく、俳優である。
で、わたしは、主演俳優の名で映画を記憶することが多く、
監督の名で記憶することは少ない。 >>433
その「官僚主義的体制防衛的なポジショントーク」とやらせの具体例を挙げてみてくれ
>>434-435
この凄まじいバカの映画音痴っぷりからムー大陸臭がする 卑俗な例だと、「文学は大学で学べるか:という対談における、
国は文学部に金出せ、とかいう発言の引用が、↑であったがな。
それと私は、ムー大陸とは正反対のことをいっているのじゃないか。
画面に映らない「作家」などというものには、あまり関心がない、といっているんだから。
で、この「画面に映らないものには関心がない」というのは、
反ハスミイズムどころか、その徹底だと思う。 ハスミは、画面に映らない思想やら主張やら、あるいは、無意識やら、
というものを批評は気にし過ぎだ、
という趣旨のことをよく述べるのであったが、
作家のその作意もまた、思想やら主張やら、無意識やら、
と同様に気にされ過ぎなんじゃないの、といえる。 国は文学部に金出せ、とかいう発言がオマエに言わせると官僚主義的体制防衛的かwwwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています