大江健三郎や中上健次って近代文学でどれ位凄いの? [無断転載禁止]©2ch.net
保坂は春樹の亜流といった印象しかない
それなら奥泉のほうが好きだ >>35
>保坂和志チルドレンに完全に駆逐されたよな
青木淳悟、柴咲友香、磯崎 憲一郎は駆逐されたのかな? >>42
ちょうど長編連載中だ!オーガニズムを読もう! こいつ、まだ日本にいるのかよ(怒
さっさと北朝鮮に行けよ。理想国家なんだろ(笑
秋目鞍のくせに政治に口出しやがって。
日本の恥だ、こいつは。
日本から出て行け!
今大学で教授面している反日のクソも同様だ。
お前らは粗大ゴミに出すのも恥ずかしい存在だ。
砕け散れ!
大江に加担して北朝鮮を賛美するものどもも同罪だ。
共産党は特に罪深い。 どっちも「響きと怒り」を超える作品を書いてないよな >>48
そうだろうか
自分は『万延元年のフットボール』と『枯木灘』は『響きと怒り』と遜色ないとみる 現在から見た内容はともかく「響きと怒り」の時系列解体に匹敵する仕事なんてジョイスやヴァージニア・ウルフくらいだけでしょ 時系列解体は手法にすぎず、それ自体に価値があるわけではない
ハクスリーや福永武彦も導入している
文学作品の価値は手法ではなく効果だ
読み手にどれだけリアルな感銘を与えたかに尽きる
もちろん手法が効果に影響をもたらすことは多分にあるが 大江も中上も優れた批評家に出遭わなかったのが、片方は幸いし、もう一方は災いした。 >>51
それだと印象批評にしかならないから厄介だと思うんだよな
やっぱり最低限の理屈は必要でしょ 優生政策 大江さんも我々も消極的優性学により子孫を残すに相応しくない
優生政策は歴史的に次の2つのカテゴリーに分けられてきた。
積極的優生学 子孫を残すに相応しいと見なされた者がより子孫を残すように奨励する。
消極的優生学 子孫を残すに相応しくないと見なされた者が子孫を残すことを防ぐ。
積極的優生学は、優れた形質を持つと思われた人間を増やすことを目的に、複数の子供を持つ優れた素質を持つ両親を表彰したり、金銭的 援助を与えるという手段を採る。消極的優生学は劣った形質を持つ人間に生殖を思い留まらせるものである。 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 >>31
ケチョンケチョンに貶してたのって昔の別冊宝島のやつか?
あれ、今の再評価ブームを経て読むと渡部程度が小島信夫を読むことなんて出来なかったってことを無惨に晒してるだけやん
まあ、当時の文芸誌読むと小島のお友達が愛想がてらに褒めてるだけの状況だから仕方ないかもしれないけどさ 日本は近代化に失敗した国なんだから、「近代文学」なんてあるわけないだろ。。 >>39
その二人は顔が似てるだけだろ
保坂が依拠してるのはフランス文学の枠組みだし >>25
中上健次が絶賛していたのは、フォークナーと谷崎潤一郎 「その男蠅の王龍造」
「枯木灘」の主人公の名前は忘れたが、これは印象に残った >>49
「万延元年」はそんなに傑作なのか
左翼は嫌いだけど、それは読んでみよう >>64
まぎれもなく傑作だね
大江の反日左翼思想には吐き気がするが? うな、芳樹のわけがない(笑)
あとは、平野啓一郎と中村友則か 田中 慎弥(たなか しんや、1972年(昭和47年)11月29日 - )は、日本の小説家。
2005年(平成17年)に『冷たい水の羊』で第37回新潮新人賞を受賞後、いくつかの文学賞受賞を経て、2012年(平成24年)に
『共喰い』で第146回(平成23年/2011年下半期)芥川賞を受賞した。 中村 文則(なかむら ふみのり、1977年9月2日 - )は日本の小説家。愛知県東海市出身。愛知県立東海南高等学校、福島大学行政社会学部応用社会学科卒業。
フリーターを経て、2002年に「銃」で第34回新潮新人賞を受賞しデビュー。
2004年、『遮光』で第26回野間文芸新人賞、2005年、『土の中の子供』で第133回芥川龍之介賞、2010年、『掏摸<スリ>』で第4回大江健三郎賞を受賞。
同作の英訳 『The Thief』は、ウォール・ストリート・ジャーナル紙で、2012年のベスト10小説に選ばれ、2013年のロサンゼルス・タイムズ・ブック・プライズにもノミネートされた。
『悪と仮面のルール』の英訳(EVIL AND THE MASK)はウォール・ストリート・ジャーナル紙の2013年のベストミステリーの10作品に選ばれる。
2014年、ノワール小説への貢献で、アメリカでデイビッド・グーディス賞を受賞。 >>72
軸見文則の奴、スレッドまであるよ、
概ね正鵠を射た批判的言辞が多く見られる。
【借りモノの苦悩?】中村文則2【福島大卒!!?www】
http://mevius.2ch.net/test/read.cgi/book/1427297194/ なんで「軸見」というユニークな名を捨てて、平凡な目立たない筆名にしたんだろうな? 高度な文学性を持ち、三島由紀夫の再来とまで評された平野啓一郎。多数の著書を発表していますが、そのなかでも特におすすめの10冊を紹介していきましょう。 1,ドーン
2009年に発売され、第19回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞した作品です。こちらは未来の宇宙船を舞台とした物語。
火星から帰還した主人公たちが、ある重大な秘密によって世界を左右する問題に巻き込まれるという展開になっています。
秘密が徐々に解き明かされていくので、ひとたび読めば平野ワールドに引き込まれること間違いなしです。
また作中では平野啓一郎自身が生み出した本当の自分とは何かを問う、「分人主義」という概念も登場するので、
読めば読むほど考えさせられる作品といえるでしょう。 2.決壊
この作品から、平野啓一郎のファンや読者が増えたと言われており、殺人事件を犯した人間と、それを取り巻く人々の心理が描かれています。
インターネット時代の問題といえる匿名による言葉の暴力、ネットを介した暴力などを、絶妙な描写で描き、繊細な心理描写が読者を魅了します。
現代の抱える問題を捉えたストーリー展開なので、老若男女幅広く読めるというのも、読者が増えたきっかけといえるでしょう。
こちらは平成20年度、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した作品でもあります。 3,日蝕
この作品は平野啓一郎を語る上では外せない一冊でしょう。当時平野啓一郎はまだ学生であり、これがデビュー作になります。
また、最年少で第120回、芥川賞を受賞した作品でもあります。
文体は森鴎外を意識していると言われ、極めて文学的であるために読むのは難解ではありますが、ぜひ読んでおきたい一作です。 読者の多寡は文学の評価の決め手にはならない
やはり研究者の優れた論文が出ると再評価される 洋書コーナーにいったら、Fuminori Nakamuraの英訳書が大量に置いてあった
もはや日本を代表する作家? 中国で一番読まれている作家は東野圭吾
中国ベストセラーランキングに何作もランクインしている 売れる小説を書けない3流作家が
売れる作家に対して「通俗作家」のレッテルで威張り散らすという通俗的なメンタリティ 大江健三郎とか、下手くそで読みにくい文章で威張っていれば評論家に褒めてもらるだろうという
通俗的な権威主義で売れないつまらないごみ小説書いていた作家だからな
偉くなりたい、褒められたい、威張りたいという通俗的魂胆しかないしょうもない作家だった >>87
村上春樹の人気も凄いぞ
個人的には、村上春樹こそラノベに見えるんだが ラノベっぽさが皆無なのは、なんといっても中上健次
重厚感が抜群だ 読みにくかったら優れていて読みやすかったらラノベっていう思考だから
日本文学はどんどんつまらなくなっていくんだろうな ラノベってのは、チープなファンタジー小説のことなんじゃないの? 大江健三郎も若い頃『夜よゆるやかに歩め』という通俗恋愛小説を出したが、
その後この作品を書いたことを後悔しており、いま刊行中の全集にも入れていない。 大江のほうが公開していて読者でもピンキリだから不利だよ。 どうテキストに反応するかは読者をふるいにかけて選ぶ方が高い気がする。 大江健三郎の作品はどれもこれも読者に媚びてなくて
徹頭徹尾、大江が抱えていた現実世界への憎悪や嫉妬といった情念を
書きたいように書き切っていると言う点でそのエネルギーと真剣さに感服する
が、二度と読み直したくならないほど物語として面白くないし後味が悪い
一方、中上健次の作品にも大江と同じように強い意志が貫かれているのだけど
描かれている世界は赤裸々でグロテスクなものであってもどこか共感しやすく
心地よい読後感があって、いつか読み直したい気にさせる
結局はその文学性の高さや世間評価などはどうでもよくて
それらはあくまでもその本を手に取るきっかけに過ぎなくて
自分にとって大事なのはその文学世界と自分の経験世界との相性なのだ
良い文学とは、読者が自分の心象風景を見つめ直すためのよく磨かれた鏡なのだと思う 村上春樹の最高傑作とされる「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
主人公の現実のストーリーと、潜在意識下の閉ざされた世界のストーリーが交互に進んでいくわけだが、個人的には、この2つの世界のつながりが弱すぎる気がした
もちろん、春樹ファンなら、「それは読みが浅い。そこを深読みするんだ」というだろうし、それは分かるんだけど、それにしたって、脈絡が弱い 結末についても、春樹ファンのブログでは
「それぞれの物語の主人公やヒロインはこれからどうなっていくのか、それ以外の登場人物は何を想うのか。
それらが読者に委ねられる形で、ストーリーは永遠に続くかのような余韻を残しつつ終わりを迎える。
切なくも、その先が気になる、いつか続編を書いて欲しい、と願わせられるエンディングなのだ。」
となっていたが、個人的には、「これで終わるのは早すぎる」としか思えなかった。
短編ならあれで良いと思うが、あれだけの長編小説にしてはちょっと・・・。
正直、本来なら短編であるべき内容を、無理やり引き延ばしてムダに長くしたという印象だった。 いや、しかし、「現実世界とファンタジー世界が、明確にはつながらないが、なんとなく漠然と連関している」というのが、この作品の斬新なところなんだろうな
自分が、個人的な好みとして、もっと明快なものを好んでいるだけだ でも、それにしたって、2つの世界のつながりが弱すぎる気がするなあ
「これは主人公の潜在意識内の世界なんだ」というのは、頭で考えればそういう意味なんだろうという解釈になるだけであり、実感としてそういう気はしなかった >>102
でも心理学的な仮説では
自分で意識できない潜在意識世界についての働きはユングである程度説明できるものの
そこで進行してる文脈までは本人でさえ語り用がない(文脈はないのかも知れない)
一方で自覚世界は、自分が意識的に作った文脈と世界観に強く支配されて物語化されていく
つまり自覚世界から見ると、潜在意識世界の文脈とはまったく連動を感じられないのが普通で
これがつながって見える物語だったら、むしろ軽薄に見えたんじゃないかと思う
村上作品にたびたび出てくる「影」が102が言う潜在意識下の人格に近いかも
ユングの言う「シャドウ」も潜在意識の一部とはされてるんだけど 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」P130〜134より抜粋
村上 ぼく自身はどちらかというと、積み重ねて弁証法的にいくタイプだと思うのです。
河合 こんどの『ねじまき鳥クロニクル』は、その感じが非常に強いですね。
だから、これからもまだそうとうつくられるだろうな、という感じがしました。
村上 どういうふうな意味でそういうふうに感じられるんでしょう?
河合 やっぱりストラクチャー(構造)を持っているでしょう。過去の日本の私小説は
ストラクチャーを持っていないですからね。『ねじまき鳥クロニクル』の場合は、
二巻で終わりとしてストラクチャーを考えるか、三巻で終わりと考えるかという
問題が出てきますが、ぼくが考えるに、とくに三巻まで考えに入れたら
すごい構造を持っていますし、そのうえ、まだ不可解なところが残されています。
ですからこういう調子でいかれたら、またつぎができると、そう思いましたね。 村上 ただ、ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』に関して感ずるのは、何がどういう意味
を持っているのかということが、自分でもまったくわからないということなのです。
これまで書いてきたどの小説にもまして、わからない。
たとえば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、かなり同じような
手法で書いたものではあるのですが、ある程度、自分ではどういうことかということは、
つかめていたような気がするのです。今回ばかりは、自分でも何がなんだか
よくわからないのです。たとえば、どうしてこういう行動が出てくるのか、それが
どういう意味を持っているのかということが、書いている本人にもわからない。
それはぼくにとっては大きいことだったし、それだけに、エネルギーを使わざるを
えなかったということだと思うのです。
河合 芸術作品というのは、絶対にそういうところがあるだろうとぼくは思います。
そうでなかったらおもしろくないのではないでしょうか。作者が全部わかって
つくっているのは、それは芸術じゃないですね。推理小説とかそういうのは
カチッと仕掛けができているわけですが、そうではなくて、芸術作品になってくると、
作者のわからないことがいっぱい入っていて当然だと思います。ただ、こうだという
ことはわかるんですね。こうでなければならないという意味みたいなものを考えて
いたら、絶対にできないと思います。 村上 もちろん、終わってからほかの人が読んだり、批評家が読んだりするのと同じ
レベルでテキストとして読んで、自分で考えることは可能なんですね。
ただ、いちばん困るのは、ぼくが一人の読者としてテキストを読んで意見を発表すると、
それが作者の意見としてとらえられることなんですね。
河合 作者の言っているのがいちばん正しいと、思う人がいるということですね。
そんなばかなことはないのですよ。
村上 でも、ぼくがアメリカ人の学生にそれを言うと、みんな怒るのですよ。
たとえば、ゼミみたいなものをやって、ぼくの短編をテキストにしてみんなで読んで、
「村上さんはどう思いますか?」と言うから、「ぽくはこう思うけど、それはきみたちが
持つのと同じように、意見のひとつにすぎない」と言っても、
「でも、それはあなたが書いたんでしょう」って彼らは言うんですよね。
アメリカ人にはやはりそういう傾向はあるんでしょうか。
河合 アメリカ人は、とくにいわゆる西洋流のエゴをものすごく大事にしているから、
自分の意思とか自分の考えとか、そういうのにすごく寄っかかっているんですね。
だから、作者が書いて、作者が言ったら、それは正しいものだと、
そういう考え方をするのではないでしょうか。 >>106
「僕」じゃなくて「影」が主人公なんだな? カフカなんかは、本当にトランス状態になって夢うつつで書いたんじゃないかみたいな印象があるけど、村上春樹もそうなのかもな? アンデルセンの作品「影」に対して村上春樹が評論してる記事が面白かった
https://www.buzzfeed.com/jp/sakimizoroki/murakami-andersen
↓一部引用
アンデルセンの「影」には、このような生ぬるい分析を退ける自己発見の旅のあとが見て取れます。
これはアンデルセンにとってたやすい旅ではなかったはずです。
彼自身の影、見るのを避けたい彼自身の隠れた一面を発見し、見つめることになったからです。
でも、実直で誠実な書き手としてアンデルセンは、カオスのど真ん中で影と直接に対決し、
ひるむことなく少しずつ前に進みました。
僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、
まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。それは僕自身の影に違いない。 中上健次の文学は、村上春樹よりは中上自身が自分の深層心理を自覚していて
そこを出発点に物語を構造化してるように見える。
自分が生きた境遇を起点に緻密に推敲しながら自己実現を果たそうとしてイメージ。
大江健三郎はそれらとはぜんぜん違っていて、思想テロを目的に書いてるイメージ。
村上春樹が何かの対談で、文学の暴力性について語っていて
それは文学で描かれる暴力描写が、
読者の心の底に押し込まれてる動物的な残酷性を満たす効果があって
結果的にそれは癒しをもたらすから読まれるのだ、みたいな内容。
この点は大江健三郎の評価とも関わりがある気がする。 久々に岬を読んだら
素直に面白かった
生きてたときに読んだ時は先入観が大きくて
まともに読めてなかった >>118
当時は生きる伝説みたいになってて
大げさに言えば神格化されてた
そう言う意味で過大評価したり反発を感じたりして
普通に読めなかった たしかに中上健次の小説は
どこが評価されてるんだろう?って目で読むとぜんぜん入っていけないね
三島由紀夫や川端康成はすごくわかりやすいのに あの源氏物語を現代に復活させたかのような文章が良いんだよ
それで人間関係の中で自然に「欲望」や「殺意」が生成されていく過程を
図式的にではなく書いている
それも自然主義文学のような鳥瞰的な視点ではなくね
これが「地の果て 至上の時」になると
相変わらずの文章だけど主人公が変に内省的になって
ゴタクを述べ始めるから駄目だね 物語=路地(部落)を書くことで世に出た作家だけど
それを書かなくても優れた作家になれたはずだと思う。
あとの方はそれが逆に足かせになった様な気がする。
大江だったらそれは光さんで、それまでは作家は例えば太宰みたいに
そう言う子がいても触れないのが当たり前で、そうしたマイナスの現実を
逆に中心に持ってきたことに二人の共通点はあるな。 持たざる中でギリギリで生きる人生は
たくさん所有し背負ってる人生より
ずっと人間臭くて本質的だ自由だと思わせるって意味では
やっぱり中上は文学として秀逸なんだな
「いろいろ考えさせられる」という曖昧な読後感の正体は
持ち続けるか手放すべきかの選択を迫られる躊躇感なのかな >>124
中上は家は金持ちだったし、
才能も物語も所有してたし、
何を持ってなかった? 中上は持たざる人だった
なんてこと書いてあるようには見えないが、、、 >>123
太宰治はキリストを引き合いにして罪の意識や弱さを書いているが
大江健三郎は障害をかかえた無力で無垢な存在としての我が子を通して
「罪」や「悪」を描いて神に救済に至る道を描いている
つまり「希望」ということです
そこが自殺という形で幕を閉じた太宰治との違いであり
沈黙の神に対して信仰と救済の問題を問い続けてきた
ドストエフスキーとの類似性です
これが中上になると旧約聖書やギリシア悲劇を意識したフレームの中で
「罪」の意識や「悪」そして物語が生成されていく現場を動的に捉えていこうとする
それゆえに「物語」がメタレベルで更改されていく
だから中上健次の登場は日本文学上の「事件」と言われている
この更改過程は表面的に見れば
文化人類学を援用した80年代以降の大江文学とも似ているが
静態的かつ図式的な大江のそれとは決定的に違う
大江健三郎だと予定調和的に死と再生をくりかえす楽観論に落ち着くが
中上の場合は物語世界とその延長たる現実世界が
混沌かつ殺伐とした未来に行きつくであろうことが予感される
またその中で生きていく若者の苦しみが描かれるわけだね
大江のように物語的には洗練されてはいても
思想として弛緩しているわけではない 梅原猛と中上の対談エッセイが面白かった
ジョゼフキャンベルと誰だったかの「神話の力」を読み直したくなった 中上健次の生い立ち
和歌山県新宮市で父、鈴木留造と母、木下千里との間に生まれる。
千里が健次を妊娠中、留造が他の女性を2人妊娠させていたことが発覚する。
千里は留造と離別、一人で健次を産む。
留造は妊娠させた女性のうちの一人と結婚、健次の半年違いの妹にあたる女児が生まれる。
留造はさらにこの女性との間に2人の男児をもうける。
千里には前夫の木下勝太郎との間に既に4人の子供があり、留造と別れたあとは女手一つで行商をしながら子供たちを育てる。
やがて、男児一人を連れた土建業を営む中上七郎と出会い、末子の健次を連れて同居、
4人での生活をはじめ、健次が中学生の時、千里は健次とともに中上七郎のもとに入籍した。
1953年、新宮市立千穂小学校に入学する。
小学6年生の終わり頃、12歳年上の異父兄・木下行平が首吊り自殺するという事件が起こり中上は大きな衝撃を受けた。 いわゆる「部落」というのは性的に放縦ではないので
どちらかと言うと文化人類学の交叉婚や同族婚のように
婚姻にあたっては「筋」厳格に重んじる地域が多く
地域内でも家格を重視する
だから部落内の民主化を推進する解放同盟があるわけで
中上のケースは非常に稀であり
彼のように複雑な家庭環境を持つ人物が
たまたま血統や居住地域という面で「部落」に分類されていただけ
そういう意味では中上の部落小説は非常に誤ったイメージを流布するものなのね
というか中上は歴史的経緯がよく分かってないからね
それでも文学として自我論や物語論の側面で評価できる部分がある >>133
中上健次の「岬」「枯木灘」の主人公の家庭環境や境遇が
中上のそれと一致する部分がたくさんあるね
親父が女癖が悪くあちこちの女に子を産ませてるところ、
主人公にたくさん兄弟がいるところ、若くして兄を亡くしてるところ、
主人公が肉体労働に従事してるところetc
中上自身がモデルになってるのかな >>135
作者自身がモデルというより、肉体労働者なんかは、実際にやってみないと分からないところがあるからな
普通の文人タイプには無い、貴重な人生経験 >>135
>主人公が肉体労働に従事してるところetc
>中上自身がモデルになってるのかな
労働経験は羽田の貨物業務くらいで
土方の経験はないよ
貨物業務だって職長レベルで指示をしていたそうだから
どのくらい肉体を使っていたのかも怪しい
土方として基礎工事などに従事している人はちょくちょく体を休めるので
中上の小説の様に忘我の境地にはならないと思うけどね