ドストエフスキーPart46 [無断転載禁止]
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前スレ
ドストエフスキーPart45 [無断転載禁止]
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1504199868/
カラマーゾフ以外の著作でも構いません、話しあいましょう。ドストエフスキー関連何でもあり。
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1504199868/_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured もう夜中の2時。そろそろおいとまします。
素朴な感想をひとつ。
たぶんこのスレは、世界最高の思考の場です。なぜそれが、可能となったかというと
僕達はぜんいん「カラマーゾフの熱狂的な愛読者」だからです。とうぜん、おのおのの、人生経験も、立場も、信条も異なる。
カラマーゾフを愛するという一点において、3人4人が集い、それゆえに私達は、どんな有名人、どんな大学者も超えた存在となった。 >>895
自らを犠牲にして敵に立ち向かうなんてのは信仰のない虫でもやってるよ >>901
> 自らを犠牲にして敵に立ち向かうなんてのは信仰のない虫でもやってるよ
言われてみれば、たしかにそのとおりだな。でもそれは「信仰」のためではないのでは。
ここでいう「信仰」とは、法華経信仰なり、キリスト教信仰なりですが。
人間も信心と関係なく、命を捨てる場合がある。敢えて不利益を選ぶ場合もある。
たとえが不適切だが、宅間守は敢えて殺人の大罪と、死刑を受けるという不利益を選んだ。
それは「永遠の生命」への信仰ゆえにか?
アメリカ映画の中で、主人公たちは、恋人への愛のゆえに、国家への忠誠のゆえに、容易に命を捨てる。
菅原文太や高倉健は、義侠のために、友のために、命を軽くし、懲役20年も平然と受ける。
それは「広宣流布」の理想のためか?あるいは、キリスト教の神への信仰のためか?
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とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは、たうじのごとし。
「願はくは我が弟子等、大願を起こせ」「同じくは仮にも法華経の故に命を捨てよ」
つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ
上野殿御返事[竜門御書]
弘安2年(1279年)11月
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今夜も、薬飲んで、なに書いてるのか、論旨がわからなくなった。飲んでなくても、論理的文章書けないけどもw! >>891
>単に神を否定するのではなく、信仰の効用を温存したままで
これは、歴史上、実例があったのか。というのも、
>(内心で神を否定しつつ)信仰の効用を温存し、
こういう指導者はすぐ見破れてしまうのだが。民衆のまなこによって。
>極めて現世利益重視の分配正義と統治の安定性が
この文脈では、見当違いかもだが、「現世利益重視」とは、低級なもののように考えられがちだが、きわめて重要です。
現実に、この人生において「病気がなおる」「元気になる」「生活が向上する」
これは信仰の根本とも言える。
「花は開いて果(このみ)となり、月は出でて必ずみち、
灯は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、
人は善根をなせば必ずさかう。」
それだけじゃない、それを超えるものがあるのだが。 ドストエフスキーは現世利益は奴隷的な信仰方法として扱っているようにも思うよ
自由な信仰とはー何々にならなくともー、まるでヨブのような理不尽な災難にみまられようとも、ただすること
パンとはあらゆる見返りをさす、と考えても意味は一致するよ
「荒野で40日間断食したおまえ(イエス)に対して、悪魔は「お前が神の子ならば、その石ころをパンに変えてみよ」と言い、「そうすれば人類は、感謝にあふれるおとなしい羊の群れのように、おまえのあとから走ってついてくるぞ。」と誘った。
しかし、おまえは「人はパンのみにて生きるにあらず。神の言葉によって生きる」と答えた。
なぜなら、パンのために、人間から自由を奪いたくなかったからだ。
しかし、おまえの言う自由はなにを約束してくれるのか。
それは、人間にとって耐えがたい重荷にしかならないではないか。
人間というのは、パンのためなら自由を放棄して、パンを与えてくれる者の奴隷になったほうが良いと考える。
自由よりも、パンこそが人間にとって価値があるのだ。」
立つのも堕ちるのも、自由な選択によるもの
パンか自由か、これこそドストエフスキーの求めた自由意志じゃないだろうか
理性はとても賢いがゆえに、時に、善ににたものを善いと思いそれを行う事を意志に命じてしまう
それでも意志とは自由になるように与えられている
だからこそ、自由な意志を持ち続けられるようにパンに騙されてはいけない、と思うのです ただ問題なのは、そういう自由な信仰は言葉であらわすのは簡単だけど実践できないということ
できないことに良心の呵責を感じるか、できないならそもそもなかったかのように秘密にしちゃえとする審問官であるか、これも一つの読者への投げかけかもしれないね >>905
こちらの表現が拙かったねw でもこのことは、意外にも伝えるのがもっともむずかしいことのひとつに思う。「功徳」とは何か?信心すると何が変わるの?と。
「現世利益」ということばに引っかかてしまうんだろうな。
イヴァンとアレクセイをくらべてごらん。イヴァンのようにではなく、アレクセイのようになる、ということさ。それが功徳なんだ。それが、「この現世において」受ける利益なんだよ。
そもそもいかなる宗教でも、その目的は「この現実の、生きている毎日を、より良く生きる」ということだ。
もちろん「信じらんねぇ」よな。「うそこけ!」と思うだろ? 「学会なんて、怪しい宗教で、ろくな奴いねーだろ?」って感じか。
ところが、ほんとに「幸福になる」しかも今すぐ体験できる。理屈なんかぜんぶいらん。
この創価学会のエッセンスはひとつしかない。それは「題目」だ。
こんど具体的にその方途を書いてあげる。 こんなとこで創価学会の話などやめなさい
創価が嫌い人もいるんですよ 現世利益とかなんとかいってるけどフロイトのタナトスとっての利益を考えてみろよ ドストエフスキーと創価学会。この二つは完全に相通じている。
創価学会は世界宗教として、紛れもなく唯一無二の存在であり、もはやキリスト教など比較対象にすらならない。
ドストエフスキーもまた世界文学の最高峰である。
なかんずくカラマーゾフの兄弟は「信仰」がメインテーマです。したがって、創価学会のことを書くのは当然である。
> こんなとこで創価学会の話などやめなさい
ただし、あくまでもカラマーゾフを語る上での、信仰論であり、創価学会である。
創価学会だけを、単独で語らないので、ご心配なくw
> 創価が嫌い人もいるんですよ
好き嫌いなど言っていたら、損するのはあなたですよww >>910
> フロイトのタナトスとっての利益を考えてみろよ
タナトスって知らんから、ひまができたら調べて書くから待っとけ ゾシマは誠実な祈りによって生じる感情こそが
新たなる思想と教えにつながるとし、
具体的には万物の連続性の知覚こそが
愛であり歓喜なのだと言っている
ある意味仏教に近い捉え方ではあるが
造物主という一者の存在や形而上を設定するという点では
やはりキリスト教であり
有限者たる人間の「信仰」と絶対者である「神」との亀裂が生じる
義人ゾシマの死に際して
遺体から腐臭が発生するというのは
ヨブ記的信仰の問題が示唆されているわけだ フォンゾーンだな、をリアルで使いたいが使ったところで( ゚д゚)ポカーンになるんだろうなw >>910
>フロイトのタナトスとっての利益を考えてみろよ
なるほど、きみは以前からこのテーマを考え続けていたんだな。
むずかしいから、もっと書いてくれ。 >>913
> ゾシマは誠実な祈りによって生じる感情こそが
> 新たなる思想と教えにつながるとし、
> 具体的には万物の連続性の知覚こそが
> 愛であり歓喜なのだと言っている
そこのところは、ぼくの好きな箇所です。米川訳でコピペしてくる。 (G)祈祷 愛 他界との接触
若者よ、決して祈祷を忘れてはならぬ。お前の祈りのたびごとに(もしその祈り
が真心より出たものならば)、新しい感情が閃くであろう。その感情の中に、これ
まで知らなかった新しい思想が生まれてきて、なんじに力を賦与するであろう。
こうしてお前は、祈祷が教育であることを悟るに相違ない。
(注、これはコピペではない。70年台の米川訳を再現した。なぜなら、自分はこの
通りに暗記しており、これらのアドバイスのとおりに「祈り」つまり題目をあげて
きたからだ。諸君に問う。きみたちは「祈らずして」カラマーゾフの心に到達する
と思うのか?) もう一つ覚えておかなければならぬことがある。ほかでもない、毎日暇のあるたび
に、『神よ、今日みくらの前に召されたる人々を憐れみたまえ』と心の中で念ずる
のだ。
なぜというに、毎時毎時、いや、一刻一刻、数千の人が地上の生活を捨てて、その
霊魂が神の大前へ召されて行く、――彼らの中の多数は、悲哀と憂悶の中にさびし
く人知れずこの土と別れて行くのである。しかもだれひとりとしてそれを憐れむ者
もなく、そのような人が生きていたかどうか、それすら知っている者もない。
その時、こういう人の後世を弔うおまえの祈りが、地球のまるで反対の側から神を
めざして昇って行く。お前とその人が互いに知りあっておらぬとしても、なんの障
りもないことである。
恐怖を抱いて神の大前に立った人の霊魂は、自分のようなもののためにも祈ってく
れる人がある、自分のような者をも愛してくれる人が地上のどこかに残っていると
思っただけで、その瞬間に感激の情を覚えるであろう。
それに神様もお前たちふたりをなおいっそう、慈悲深い目をもって眺めて下さるに
相違ない。じっさい、お前でさえそれほどあわれみを持っているのだから、お前よ
りも無限に慈悲ぶかくお優しい神様が、なおさら憐れんで下さるのは当然ではない
か。神様はお前のためにその人をも赦して下さるに違いない。 ゾシマの兄の自然賛美は仏教的な全一性に見えるけど、この場合の自然とは「神の被造物だから」美しいと悟ることができた
本質は神の属性がそこにあるから、自然の中に神を見ている=神への賛美となる
もし「神の被造物だから」を、踏まえずにただ自然賛美であるとするならば、自然賛美の意味が変わってくるよね
すべていい、すべてがすばらしい、全肯定受認ができたのはキリーロフもそうだったはず
彼は世界の起こることすべてを賛美したが(一瞬)、根拠がないためその先に待っていたのは虚無だった
そしてその根拠を我意に求めて自殺する ------------------------------------------------
回向のとき、このように祈るようにしてきた。自分の亡き親だけでなく。亡き友だけでなく。感激をもって、ここのところを読んだ。最近は忘れがちであったがw
「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光(ないし ほうかい びょうどう りやく じたぐあんどう きじゃっこう)」
と、ゾシマのこの教えの心を込めて、強く祈念してきた。あらためて今夜より、強く祈念するのだと決意した。
>>913
> 造物主という一者の存在や形而上を設定するという点では
> やはりキリスト教であり
わたしは「造物主」など、そうした教義上の違い、文化的違い、そうしたものは、この場合
枝葉だと考えます。
大切なのは、ドストエフスキーまたゾシマが提示してる、このイメージです。
地球の遠い国で、名も知らぬ無名のたくさんのひとが、一人さびしく死んでいく。今この瞬間も、です。これは厳然たる事実です。
そのひとを哀れむことは「即自分をあわれむこと」です。ぜんぶ自分に帰ってくる。
われわれの教えとまったく同じであり、仏法であり、日蓮そのものです。 >>921
こんばんわ!おれは、大きな苦難をかかえている。
だから、今から、3時近くだけど、あと10分でも祈るよ。... その10分は、おれにとって永遠の
10分となるかもしれない。.... ああ!なに言ってんのかわかんねえなぁ。自分でも。 死を哀れむのは分かるけど、それをわざわざ宗教に結びつける必要あるか?
哀れむって宗教の教えがないと分からないほど難しいことだと思えないけど >>924
> 死を哀れむのは分かるけど、それをわざわざ宗教に結びつける必要あるか?
>
> 哀れむって宗教の教えがないと分からないほど難しいことだと思えないけど
-------------------
「哀れむ」こと自体は、信仰がなくともできるでしょう。
しかし「救済」はどこにありますか?
>自分のようなもののためにも祈ってくれる人がある
密かに自分のために「祈ってくれる」 祈りの対象は何でしょう?
その死んでいく人も、地球の裏側から祈ってくれる人も、信仰をもっている。「祈りは届き、究極的な救いが、生きとし生ける物(一切有情)に、やがて平等に訪れる」
現在、生きてるいるメンバーにも、死んだメンバーにも。いま、青春と幸福に満ちたひとにも。そうでないひとにも。「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」を解釈してみた。
宗教とは、特別なセクトなどではなく、人間にとって無くてはあり得ないものです。
なぜなら生老病死からだれひとり逃れられず、「底しれないほどの不幸」をその胸に隠していない人間は、この宇宙にひとりもいないからです。 フロイトの父は半分ぐらいの齢の女性と結婚したらしい。
僕らには考えられないな。年上の方が・・・・。 ブランショは死にゆく者に寄り添い、他者の死の孤独を分かち合う事が共同体の役割だと書いてるよ
『…そうだ、確かに君は死んでゆく。だが、死に瀕してきみはただ遠ざかってゆくわけではない。
きみはなお、ここにいる。なぜなら、きみは今、この死ぬということを
あらゆる痛みの同意であるかのよう
にして私に委ねている。そして私はそこで、身を引き裂かれながらそっと身震いし、きみとともにことばを失い、
…きみのかわりに死に身を委ねて、君をも私をも超越したこの贈り物を受け取ろうとしているからだ…』 >>922
>わたしは「造物主」など、そうした教義上の違い、
>文化的違い、そうしたものは、この場合枝葉だと考えます。
大日如来を本体として明王や菩薩に生成変化していく信仰と
造物主と被造物、形而上と形而下に分裂する信仰とではぜんぜん違いますよ >>929
> 大日如来を本体として明王や菩薩に生成変化していく信仰と
> 造物主と被造物、形而上と形而下に分裂する信仰とではぜんぜん違いますよ
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あなた自身は、どちらの信仰をお持ちですか? >>926
> 信仰なんだから既存の型にはめるなよ
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「既存の型にはめる」ことこそ、信仰とも言える。それも完膚なきまで、徹底的に自分の感覚を捨て去り、理屈以前に「それはそもそもなぜそうなのか?」問うことなく、指導者のいうとおりやってみる。
もしあなたが「別に現状の自分でいい」と思うなら、話は別だ。そういう人には、とりあえず信仰も宗教もいらぬ。
以上は、カラマーゾフ本文等にあたっていないので、ドストエフスキーの思想とは、無関係かもしれぬ。だがおそらく、ゾシマの説教にも、同じような内容があるはずと予測する。
キリスト教であれ、イスラム教であれ、教義上の違い、地域的違い、歴史的文化的経緯から、まったく違う外見をもっていることは、当然のことである。
ところが、そのエッセンスは、驚くほど共通している。この場合のエッセンスとは、
どうすれば「この人の世の苦しみを制御できるか?」ということです。
それは膨大な経験から生み出されたものではないか?
>>931
思考停止以外にも信仰はあると思うけどな
キルケゴールだって信仰してるよ >>932
> 思考停止以外にも信仰はあると思うけどな
> キルケゴールだって信仰してるよ
------------------
おれの駄文じゃ、おまえに伝わるはずない。カラマーゾフから引用してあげる。そうすれば、
おまえの固い心にも 何かが残るはずだ。 そもそも信仰とはある種の熱狂であり、ドストエフスキーやトルストイのいう最終形態(個性の最終目標)は個我の喪失であると言える(作家の日記より)
しかしながらそこで問題が発生する
キリスト教の神への信仰には一つ乗り越えなければならない大きなパラドックスがある
それは理性を持って尚且つ信仰しなければならないということ
なぜなら人格神であるがために、キリストもまた「言葉」で教えを示そうと受肉を持ってわざわざこの物質的世界にあわられている
言葉を理解するには人間として理性は省けない
しかし理性は理性であるがために理解できないこの世の不条理にすべての理由を要求する
理由が解決できないのに服従することはできないと
その矛盾のために多くのキリスト者が葛藤し、ドストエフスキーもまたその葛藤を小説家として問いかけているわけです
これがキリスト教が持つ最大の特性と考えているけどどうなんだろうね
理神論者ならこの壁はないと思うんだけど なぜ悪が放置されているのか
なぜそれでも沈黙されたままなのか
なぜ善と悪が混沌なのか
なぜ、なぜ、なぜ、を越えて信仰があるならば、服従とは理解しないことにならなければならない
だったらなぜ自由な理性を与えられたのか
いつかはこの葛藤を超えたいが、難しいのも現実だね
だからぼくはドストエフスキーを読む、結局この結果でいつも終わるんだけどねw しかしならがこの矛盾(自我の放棄と理性の対立)を越える方法がわかりそうでもある
恐らくは自由意志の神秘であろうと思ってる ドスト愛好家ロシア愛好家(ちょいキモめ)の集会ってないんだろうか この板で 例の小島を肯定してる少数派の方いますか
「罪と罰」を気に入っていた様なので ヒルティ― 眠られぬ夜のために とか トルストイ 言葉日めくり
も驚かされることが多い。そういうものを書きたいよな。 近くにときめき横丁ってのがあるから今度行ってみよ。 >>937
コアなキモめだったら参加してみたいかもw ドストエフスキー作品はほぼ神学だから
それも弁証法や当時としては最新の学問だった心理学も使用しているので
独自の解釈になっている
たとえばゾシマがアリョーシャの夢中で復活を果たし
その夢から覚めたアリョーシャが泣きながら大地に五体投地をすると
「何か」が天から降下して霊的覚醒が生じて闘士に変貌するとか
普通に考えればカルトそのものの内容です 台風撃退法。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2018/07/post-fa5b.html
「世界の車窓から」「ちい散歩」「じゅん散歩」さえ見ていれば、「ステーションカバリッジ」
が広がり、暑苦しさがなくなる。
つまり、鉄道網の充実を示す番組さえ放送すれば、台風13号の上陸は防げる。
いざ、接近してみなければ国民はその気にならないだろう。
接近させて「ロールアウト」を仕掛ける作戦だ。 >>941
彼は古典小説が好きだったみたいよ
罪と罰が好きというよりも何というかその内の一つみたいな感じだったのかも
創世記は手書きで書き写してたらしいから聖書マニアっていう印象の方がつよい >>949
はえー凄い
彼がそんな凝ってた性格だからあの行為に繋がったのか
少し気になりますね
思想はやはりいいですね
それが世間的に悪い方向に向かっていたとして 靖国神社に関する私の見解。
そもそも、国としては「戦死者が出ていかに周囲に不幸になる人をなくすか?」
という研究をしなければ「次の戦争は出来ない」ものだ。
そこで、靖国神社には「25歳を過ぎて、ニートで、周囲の女たちからも、死んじゃえばいいのに」
と思われていた男たちが「戦没者」となっているはずである。
そうでなければ、「侵略戦争への反省がない」「戦争準備として靖国を参拝する」
という発想は生まれない。
本当に、英霊を「神」として美化するのならば、靖国参拝は「平和への祈り」のための
施設に過ぎなくなる。
第二次世界大戦を宗教にした世界唯一の国としては、靖国神社が「侵略戦争への反省」
をする場所なのか、それでは「右翼が動いてもアウトにはならないのではないか?」などが、
國學院の連中には詰めきれていない。
もういちど、遊就館に残されている資料を精査してもらいたい。
私からの依頼であります。 神がいるとした方が得なら、神がいるとするがいい
神が不要なものにとっては神はいない
それが真理だろう 神は存在する。神の存在を問いかけているが、なんで見たことも触ったこともないのに神を知っているのか。それは神という存在を認識しているからだ。
って、アウグスティヌスは神の概念を知っているから神はいるとしたけど、根拠としてどーなんだろ
お腹いたいごめんなさいと同じに見える 小島のせいで一時期「(やっぱ)読書ばっかしてる奴は危険だ」みたいなこと書かれて嫌だったよな >>934
> そもそも信仰とはある種の熱狂であり、
熱狂だけではダメですよね!火のように燃えるだけでは。水のようにたゆまず流れ、
氷のように冷たい英知も必要だし。
>ドストエフスキーやトルストイのいう最終形態(個性の最終目標)は個我の喪失であると言える(作家の日記より)
「個我の喪失」というても、一般仏教的・哲学的に解釈してはダメだなって思う。それは観念論になってしまうから。次の箇所をみてください。
------------------------------------------------
長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と
意志に同化させるものである。人はいったんある長老を選び出したら、
全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長老に自分の意志を捧
げるのである。願かけをした人は長い苦行の後自己を征服し、かつ制御
する日が来るのを楽しんで、こうした試練、こうした恐ろしい『人生の
学校』を、自ら進んで双肩に担うのである。この生涯の服従を通じて、
ついには充実した生活と完全な自由、即ち自分自身に対する自由に到達
する。そして一生涯のあいだ自己を発見することのできない人々と、運
命をともにするのを避けることができるのである。
この長老制は理論的に創設されたものでなく、現代のものについていえ
ば、すでに千年来の実験によって編み出されたのである。長老に対する
義務は、いつの時代にもわが国の僧院にあった普通の『服従』とは、類
を異にしている。ここに認められるものは、ここに認められるものは、
服従者の永久の 懺悔である、命令者と服従者との間の破ることのできな
い関係である。
------------------------------------------------ そもそもなぜ「創価学会のほうが、キリスト教よりも圧倒的に優れている」と断言
できるかといえば、学会には組織と同志と民衆の城が巌のごとくそびえ立っている
からです。
これは創価学会の「もうひとつの秘密」です。
おのれひとりでは「個我の喪失」も、いかなる美徳もありえません。仲間との切磋琢磨、
リーダーの見本があって後輩はついてくる。極論すれば哲学に人がついてくるのではない。
そして、学会指導とは上に引用したゾシマの「人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と
意志に同化させるものである」というレベルの厳格さでもって、その指導を受けきり、
自分の生命に染めきって、はじめて意味をなす。相談ではない。「指導がまちがって
るか、正しいか?」そんなレベルではないんだ。 >>934
> しかしながらそこで問題が発生する
> キリスト教の神への信仰には一つ乗り越えなければならない大きなパラドックスがある
> それは理性を持って尚且つ信仰しなければならないということ
> しかし理性は理性であるがために理解できないこの世の不条理にすべての理由を要求する
> 理由が解決できないのに服従することはできないと
まったくその通りですね。これは学会員も同じですよ。
「理解できないこの世の不条理」ですね。
ゾシマがヒントをくれている。「他人にかかわり」「他人につくすこと」
もちろん極限の祈りも絶対です。大前提です。
その上で、自分が地獄の時でも、他人のことを考え・祈る。ウソみたいな話ですが
これは可能なんです。 >>935
> なぜ悪が放置されているのか
悪は中短期的には、勝ち誇る。長期的には、かならず悲惨極まる報いをうける。
そしてなぜそうなのか?は日蓮が明確に御書に書いている。
> なぜ、なぜ、なぜ、を越えて信仰があるならば、服従とは理解しないことにならなければならない
> だったらなぜ自由な理性を与えられたのか
あなたは「服従の対象」を、観念上にある「神」と、とらえている。先にぼくが引用した
カラマーゾフ中の文や、関連箇所を再読すべきだ。
服従とは、具体的、個別的、指導に対して服従するのでる。服従を「なにか土下座でもする
前近代的なもの」と、とらえてはなならない。
------------------------------------------------
実際、みずから案出した無数の欲望を満足させることにのみ馴れた囚われたる人間
が、どうして自分の習慣から離れることができよう、そうして、どこへ行くことが
できよう? 孤独の中に閉じこもった人間にとって、一体としての人類などというこ
とになんの用があり得るだろうか。
かくしてついに物質を蓄えると同時に喜悦を失う、という結果に到達したのである。
僧侶の歩む道は、これとまったく異っている。人々は服従や 精進や、進んでは祈
祷さえ冷笑するが、しかしこれらのものの中にのみ、真の自由に到る道が蔵されて
いるのである。我らは、無用の欲望を切りはなし、自尊心の強い倨傲な意志を
服従によって 鞭うち柔らげ、神の助けを借りて精神の自由と、それにつれて内心の
愉悦を獲得するのである! >>956
>長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と意志に同化させるものである。
ドストエフスキーって多くの場面で理性より意志を重要視している会話が見られるよね
プラトンは魂について、理性-欲望-意志の構成をあげて、意志とは理性または欲望に命令される付随的なものと考えた(理性or欲望→意志)
理性が主人の人を徳と、欲望が主人のものを無節制と
もしこの法則を変えた時、人はどうなるんだろうか(つまり、意志→理性or欲望)
ゾシマやアリョーシャの場合は、信仰という意志に理性と欲望を従えて宗教的な世界に踏み入れるに至った
ラスコリニコフも意志に理性と欲望を従えて秩序を超えようとしたけども、殺人者に至った
キリーロフは意志の力に理性が薄れてしまって自殺に至った
ドストエフスキーのこの方法は、意志の力で理性を保ったまま信仰に至ればいいという方法、確かにこれは彼のいう究極の個性になれるかもしれないけど、とても危ういことだと思う
意志が何を選択するかで結果がものすごく変わってしまう
アダムもまた、彼の自由な意志によってリンゴを食べてしまったのだから >>955
人に聞かれて、罪と罰好きだから何度も読んでるよ!と言ったら悪いイメージを与えそうw >>928
> ブランショは死にゆく者に寄り添い、他者の死の孤独を分かち合う事が共同体の役割だと書いてるよ
>
> 『…そうだ、確かに君は死んでゆく。だが、死に瀕してきみはただ遠ざかってゆくわけではない。
> きみはなお、ここにいる。なぜなら、きみは今、この死ぬということを
> あらゆる痛みの同意であるかのよう
> にして私に委ねている。そして私はそこで、身を引き裂かれながらそっと身震いし、きみとともにことばを失い、
> …きみのかわりに死に身を委ねて、君をも私をも超越したこの贈り物を受け取ろうとしているからだ…』
-----------------------------------
ぼくは、この文を最初に見たときの印象として、もし強固な信仰が、永遠の生命への、がなくして。死んでいく当人と、死にゆく者に寄り添うひとと、双方に。
もしそうでないならば、虚しいと感じた。
死はたしかに個々人を超えたギフトだが、生命にとって最悪のギフトである。歴代の先輩方はぜんいん、この試練をのりこえた。
ぼくたちわたしたちが、高校受験をのりこえたが如く。 >>921
二 故大主教ゾシマ長老の生涯
長老みずからの言葉をもといとして、
アレクセイ・カラマーゾフこれを編む
(A)ゾシマ長老の年若き兄
より。
>マルケールは 精進をしようとせず、口汚く 罵って冷笑するのであっ
た。『そんなことはみんな寝言だ、神なんてものは決してありゃしない』
などと言って、母や召使の者ばかりか、年少の私までも死ぬほど驚かせた。
政治犯の流刑囚の影響を受けて。母・召使・年少までも死ぬほど驚いたのは、
「常識に反する発言だからである」
>私の家の召使は四人いたが、みな農奴ばかりであった。彼らはことごとく知
り合いの地主の名義で買われたのである。今でも覚えているが、母はこの四人
のうち、下働きのアフィーミヤというびっこの老婆を六十ルーブリで売り払っ
て、その代わりに普通の小間使いをやとったことがある。
当時のロシア社会における穏健なキリスト教徒であるが、農奴を売り買いする
ことについては、なんの疑問も持たなかった。
なんとなれば、それもまた当時の彼らの常識だからである。 >>957
宗教とは世俗からはなれることなのに政治に積極的に関わろうとすることについてはどう思ってるの? >「 宗教とは世俗からはなれること」なのに政治に積極的に関わろうとすることに
ついて
まずあなたの考えは根本的な錯誤があるので、カラマーゾフの文を引用して、理解
しやすくする。
イヴァン「... 僕が 論駁を試みた僧侶の 方の断定によれば、教会は、国家のなか
に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、
我「創価学会が日本国の中で、「宗教団体としての一定した地位をしめていれば
よい。なぜ政治と国家権力に携わろうとするのか?」という疑問は、ちょうどこ
こに書いてあるイヴァンが論駁した通俗的な僧侶の意見と同じです。
イヴァン「僕は反対に、教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、国家
の中にわずかな一隅を占めるべきではない。たとえ現代において、それが何かの
理由によって不可能であろうとも、将来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大
な目的とならなければならない、とこう論駁したのです。」 これは、ドストエフスキーの考えどおりをイヴァンに仮託して述べているところで
ある。創価学会の理想は、全世界広宣流布であり、それは「個人の幸福の確立なく
して、社会の繁栄はありえない」の体現である。また逆に「社会の繁栄なきところ
に、個人の幸福もありえない」これが政治の役目です。すなわち公明党である。
(日蓮)汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か
腐った世俗の政治家に、なにができるというのか?政治を含めてあらゆる現実社会
に、仏法の理想を体現せよ、全世界へ広宣流布せよ、これは大聖人の指令である。
あなたの考えは「教会と政治、国家権力は別物である」と世俗人であるミウーソフ
等が考えたのと同じことです。
引用が長くならないように、うまく要約して説明することができなかった。当該箇
所を読んでほしい。
ただ一つ言えることとして、学会と公明党は一体不二である。
正しい仏法によって数千万の民衆を「現実に幸福にしきった」のは、われわれしか
いない。
大日教も、キリスト教も、いかなる実績もない。
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マァ、多少論旨不明確なのはご愛嬌でw だいたい、こういうことなんですよ! >>966
自分はイワンに惹かれるからその国家教会論は以外とすきだし、ただ現実それをやってるのはサウジアラビアとかイスラム国家になっちゃうからどーかとも思うけども
だけど君がそれを受け入れるとは少し驚いたよ
そのイワンが書いたのが大審問官の叙事詩だから
永遠とか聖性さを持つ宗教に対して有限と無永遠性を謳う政治と同価値に引き下げようとした審問官がやろうとしたのも宗教政治だったということを忘れてないかい? 二重人格が文庫で出版されてるの知らなかった
これ読んでみたい初期のだし >>921
> ゾシマの兄の自然賛美は仏教的な全一性に見えるけど、この場合の自然とは「神の被造物だから」美しいと悟ることができた
> 本質は神の属性がそこにあるから、自然の中に神を見ている=神への賛美となる
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『そんなことはみんな寝言だ、神なんてものは決してありゃしない』などと言っていたマルケールは、なぜ
>兄は精進するために、教会へ赴くようになった。
『これはね、お母さん、ただ、あなたのためにするんですよ。あなたを悦ばして安心さ
せるためなんですよ。』と兄は母にこう言った。すると母は悦びと悲しみのあまりに泣
きだした。
と変わったんだろう? ... ぼくはあなたの考えは「逆」だと思う。(どういうことか徐々に説明していく)
母への愛、母への済まないという気持ちが「教会へ赴くように」させたのだ。上に書いてあるとおりです。「ただ、あなたのために。あなたを悦ばして安心させるため」
>『あなた方は優しい親切なお方です。一体僕はどんな値打ちがあって、あなた方
に愛して頂けるのでしょう。なんのためにあなた方は僕みたいな人間を愛して下さ
るのでしょう? そして僕はなぜ今までそれに気がつかなかったのでしょう? なぜあ
りがたいと思わなかったのでしよう?』
命が失われていくのが実感されたからこそ、「生きたいからこそ」、善行を積み、信仰に賭けようという最後のかすかな希望が出てきたんだ。今まで見えていなかった、見ないようにしてきた、自分の悪業も、善い行いも、すべて走馬灯のように、如実に見えたんだ。 >『神の小鳥、悦びの小鳥、どうぞ私を赦してくれ。私はお前らにも罪を犯している
のだ。』この言葉に至っては、私たちのうち誰一人了解し得るものがなかった。とこ
ろが、兄は嬉しさのあまりに泣き出しながら、『ああ、私の周囲には、こうした神の
栄光が充ち満ちていたのだ。小島、木立、草場、青空――それだのに、僕一人
だけは汚辱の中に住んで、すべての物を汚していた。そして美も栄光もまるで気が
つかないでいたのだ。』
>「神の被造物だから」美しいと悟ることができた
のではない。死の間際に、生と生命から、去って別れてゆかなければならなくなっとき、
生命の異常な美しさ、毎時毎刻の生きる瞬間の異常な貴重さが、ハッキリと知覚できるようになった。そのことをば、「神」「被造物」という概念に当てはめて表現した。
なぜそう言えるのか?「おれも同じことを体験したから」言えるんだ。
今夜も中途半端で、説得力ないな? 睡眠薬もメチャクチャ効いてるぜ。でも、おれは
今夜いま、書いておきたいとおもった。
もしもドストエフスキーやカラマーゾフが、「神学」や「キリスト教文学」(そんなものが存在してるのかわからんが)の範疇に収まるなら『決して、全世界に、人類の文化遺産として残らなかった』
特定の宗教・教義・民族・文化・地域・歴史の制限をはるかに超えたものが、描かれているから、屹立してるんだよ。 予審でミーチャが餓鬼を哀れむ場面に宗教は何か答えを用意できるのかねぇ >>970
誤解させたかもしれない
言いたかったことは、彼は自然の中に神(神の恵み)を見たから美しいと思った
でもそれは自然を神が創ったというキリスト教の考えがベースにはなっていると思うよ
でもキッカケは自分の死がそれを与えたということは恐らくそうなんだと思う
いわゆる死の先駆ってやつかもしれない
だってもうすぐマジで死ぬんだからね
「ああ、私の周囲には、こうした神の栄光が充ち満ちていたのだ。-------」と言っているのはただの自然賛美とは異なると思うんだ >>971
できないかもしれない
というより人間に備わった憐憫てやつだとおもう
憐れむことを彼自身が選んだ、人間がそうすることを人間にしている一つの行為になる
ドストエフスキーは必ずしも宗教に絡めるわけではなくて、人間そのものとその人間の関係を書いてるところもたくさんあるね >>970
お互い読者の一角なんだから必ずしも感想を一致させる必要はないということは、付けさせてもらうよ
君は普遍性を大事にして見つけたいと思うんだろうね
勘違いだったら悪いけどなんかそう思ったんだ あなた方、
ノンクリでもドストエーフスキーの真髄を理解というか経験できた
と思っているのかな?
大いなる勘違いですよー。 >>976
自分はキリストを信じているし聖書の神も信じているがクリスチャンではないよ
教会はたまに知り合いに連れてってもらうけど所属はしていない、という事は信仰への意思は足りないという自覚も一方で持ってるけど
所属しない話は長く余計になるので割愛します
なのでキリスト教の知識は実際のクリスチャンよりは浅いのは確かだよ
でも、ドストエフスキーもまた教義より個人の体験を重んじていたようにみえないかい
そして知識(知性)と信仰を切り離す考えを持っていたように思われる
そうならば、ドストエフスキー理解の条件は最低限スレスレだけどいけないかな
もちろんクリスチャンの方がそれは容易いし、早いだろうと思うけどね 団体は団体の特異性のために自分の団体しか救われないと主張する
もちろん団体維持のために当たり前の当然のことなんだけど
所属できない理由は、どーもこれが受け入れられない
カトリックだから救われないとかプロテスタントだから救われるとかじゃなくて、カトリックでも救われる人はいるしプロテスタントでも救われない人がいる
その逆と他宗派でもそう
信仰の度合いは神しか測れないと思ってる(予見説じゃなくて個人の意思も大事だと思うけどね)
理由としては、どの宗派も築かれた歴史から今の地位を確保しているに過ぎないと思うから
それを無視するならば、神が創ったキリスト教の歴史を軽視しているようにしか思えてならないんだ
じゃあ原始キリスト教の団体に所属すればいいじゃん、と詰められたらお手上げだけどねw 救われる人間とそうでない人間は最初から決まっていて
あらかじめ救われるように設定されている人間に信仰はいらない
しかし救われない人間であっても信仰は必要
ただしこの救われる/救われないということは最後の審判までは分からない
これが予定説の概要であり
次兄イワンが救われない人間に地上での
心の平穏と平和を約束する偽りの信仰を肯定した理由でもある
親に虐待されながらも親を慕って悔悟する子供を出したのは
キリスト教における信仰(救われない信者)の比喩なわけだね
救われないが信じろ!その方が幸せだが見返りはない!
というのは苛烈な思想だからね
ヨブ記を好んで引用するのはそういう事だよ >>980
> 救われないが信じろ!その方が幸せだが見返りはない!
幸せならば、それはそれで一つの「見返り」になるのでは? 全ての人生のテーマともいえるものを小説や文学に詰め込むのは無理だが、
抜粋して引用できるようになると役に立つかもしれない。
思い当たる節があることが並んでいるのは、たぶん小説や文学より
他らしいスタイルを目指したからなんだろう。 地獄のオンナ見たさに悪びれてみる。天女に乞う、媚びる。 >>980
> 救われる人間とそうでない人間は最初から決まっていて
> あらかじめ救われるように設定されている人間に信仰はいらない
> しかし救われない人間であっても信仰は必要
> ただしこの救われる/救われないということは最後の審判までは分からない
>
> これが予定説の概要であり
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予定説というものの概要はわかった。そしてそれは、偉大な思想家が述べたもので、ちょっと研究したくらいでは、奥義と深意はわからないことに同意しておく。
その上できみのカキコだけから印象を書けば、「馬鹿げた教え」であると感じる。
「救われる/救われない」この世での、現実の行為で決まる。当たり前だし、そう思いませんか?
> 次兄イワンが救われない人間に地上での
> 心の平穏と平和を約束する偽りの信仰を肯定した理由でもある
イワンは「偽りの信仰を肯定」などしましたか?それはどこに書いてあるんですか?
大審問官の章のことだと推測しますが。明文が見たい。
> 親に虐待されながらも親を慕って悔悟する子供を出したのは
> キリスト教における信仰(救われない信者)の比喩なわけだね
それは、気がつかなかった。すばらしい卓見だし、おそらくその通りでしょう。
> 救われないが信じろ!その方が幸せだが見返りはない!
> というのは苛烈な思想だからね
苛烈どころか、愚劣であり、そんものは信仰ではない。
> ヨブ記を好んで引用するのはそういう事だよ
ゾシマの章から、まったくそのように読めない。 >>913
> ゾシマは誠実な祈りによって生じる感情こそが
> 新たなる思想と教えにつながるとし、
> 具体的には万物の連続性の知覚こそが
> 愛であり歓喜なのだと言っている
>
> ある意味仏教に近い捉え方ではあるが
> 造物主という一者の存在や形而上を設定するという点では
> やはりキリスト教であり
> 有限者たる人間の「信仰」と絶対者である「神」との亀裂が生じる
>
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あなたは、ずーっとすばらしく、見事に深くカラマーゾフを読み、正しく語ってきた。
それなのに、とつぜん結論部にいたって、
> 義人ゾシマの死に際して
> 遺体から腐臭が発生するというのは
>「 ヨブ記的信仰の問題が示唆されているわけだ 」
否定的結論に、つまりドストエフスキーの伝えたい真意の逆を、提示するのか? >>981
>幸せならば、それはそれで一つの「見返り」になるのでは?
だからゾシマは臨終の際に苦難も悦びに変わる、としている
このあたりがイワンの現世利益と信仰を結び付けようとする考えとの相違点で
イワンの考え方はカソリックやカソリック制度を共和制に利用する
ルソー流の考えに近い >>984
>イワンは「偽りの信仰を肯定」などしましたか?それはどこに書いてあるんですか?
大審問官のくだりで神などいないという秘密こそが神秘だとしていますけどね?
「悪魔との契約」というのはそういう事ですが
きちんと読みましたか? >>986
>否定的結論に、つまりドストエフスキーの伝えたい真意の逆を、提示するのか?
信仰とはあくまで有限者たる人間の考えに過ぎず
イワン流にいうのならユークリッド的認識(カントなら悟性的存在)なので
全能者たる神の思し召しに対して解釈を差し挟むことは難しい
世間的には道義の厚いゾシマの死に際しても腐臭が発するという事は
神からの懲罰的行為やその原因となる悪があったと「解釈」し得る
つまり「信仰」という人間世界の価値判断に基づく「解釈」が生じ、
この疑念がアリョーシャの心を大きく揺さぶる
つまりヨブも陥りかけた信仰上の懐疑
ただし、庵室に引き返した際に
イエスの復活にも似た霊示を受けることによって
単なる修道僧の青年から愛と信仰の闘士へと再生する
このあたりが神とその恩寵たる自然との合一(大地主義)
としてドストエフスキーには珍しく詩的自然描写で説かれている
まあ「理屈じゃない」ということなんでしょうね 神は同性愛を禁じるとともに生来的同性愛者も同時に生み出している
神は悪を禁じると同時に生来的悪人も生み出し、むしろそれを祝福している
ゲイがいなければゲイにまどわされる(神の試し)人間がそもそもいなくなるから?
悪人がいなければそのきっかけが生まれないから?
もしくは人が何も考えなくなるから?
もしくは神そのものが悪で悪を推奨してるか 重複してもうたすまん
IDありとなしができたということで、まいっか
ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1533993240/ >>995
ありがとうございます!
>>993
死ね >>990
悪は善のために創られたから祝福される
そう予定された
悪は悪でしかないから拒否される
そう予定された
どちらも成り立つが、一方が成り立つならどちらも成り立たないことになる
神の御意思はつかみどころがないね >>998
神はいない、だからつかみどころがあるわけない
神はいる、だからつかみどころがあるわけない
同じになっちゃうよ レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。