ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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イエスの十字架にあっては、
肉体的と言うより霊的な苦痛に意義を認めるという解釈と必然的に繋がる訳ですね。
ところで、太宰治という日本人作家の感情・洞察力・思想面の浅さは「罪のアントは信仰である」(!)という重要な点を看過しているところにもあらわれています。決して、揚げ足取りではありません。
では! (-^ ^-)♪ >>99
ラズミーヒンは抜けてました
スタヴローギンが悪役かどうかについてはチホン で告白を読むと疑惑がわいてくるよ
あれ、意外と!みななのが >>100
それは目に留まるような解釈だね
カラマーゾフの構成を、イエスの癒しをアリョーシャに仕立てて病を持つ人たちを癒していく物語
なんて考えはそれそれで面白そう
とはいーつつ、アリョーシャはいつも肯定しか基本しないし聞き手だし、なんか懺悔される神父みたいな枠組みはあるのかもしれないね >>98
「虐げられた人々」の公爵は俺からしたらひどい悪党に思えたよ
結果的に勝ち逃げしてるし。
スヴィドリガイロフや悪霊のニコライは最後は死ぬからいいけど 悪霊の仕事を聖書や教会からもらったが、世の中には低レヴェルな霊も多く、
人類が向上するには喜んで下の霊をたたかないといけないだけじゃなくなりたい。 中島らものエッセイや対談本おもしろいな
最近は小説などは読んでないわ つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ 「学術」さんの出身大学と最終学歴教えてください。
マジレスでお願いします!
リアルでの個人は特定されないと思うので。
旧帝大の博士課程修了でしょうか?
(単なる学歴コンプレックス持ちお年寄りメンヘラにしか見えん><;) >>103
>なんか懺悔される神父みたいな枠組みはあるのかもしれないね
孤立した地下室人間がたむろするロシア社会において
それぞれの「告白」を聞くことによって罪と憂いを癒していくわけです
ただし、これは父殺しとミーチャの冤罪(そして贖罪)を軸とする第一部での話です
これとは別にキリストのように万人の罪を浄化するために
贖罪羊のような死に方をするような気がしないわけでもない
それが書かれなかった第二部の内容なのだ、
ということはたとえば亀山郁夫あたりが述べている事ですが
まあ、こんなことを言っても仕方ない
じっさい、書かれてないわけですし
きちんとした構想ノートもないわけですから
それと作中で「13年前」と設定された物語の時代は
構想・執筆時期である1878−1880年の13年前と推定されることが多いわけですが
プーシキン銅像建立について言及されているホフラコワ夫人とのやり取りを考えると
物語の進行時期はそれが書かれている1870年代後半の「現在」であり
これより13年後の未来から、キリストと同じ33歳で死亡すると推測し得る
アリョーシャの青年時代を過去完了進行形で回想した物語なのかも知れない
もしそうだとするのなら、
小林秀雄が言うように、この物語に続編は無くきちんと完結したことになる 俺も完結してるように思える
たくさん悪いことをしたミーチャはお父さん殺しだけはしてないのに捕まっちゃう
冤罪で読者にたいしてなにかを投げかけて終わる
良いんじゃないでしょうか 出身大学は上智大学 早稲田大学の学術院にかかわってる。 現役時代は 中央 立教 、明治学院 早稲田 慶応 上智大 に合格。 就職しながら大学院とつながってたけど。就職から現実逃避はNO! 就職しながら大学院とつながってたけど。就職から現実逃避はNO! 全部文学部受験だけどね
東大はスポーツ六大学最下位だし文・理V類には参加してて大学院物理学科も経営してるけど、トータル六大学最下位にならないように精進して下さい。
遊んでない人も多いしおタクファッションももひとつで派手さがないよな。
心配ではあるが。 >>111>>112
カラマーゾフが完結されたか、続編がある事を前提に書かれたかを推定するのは面白い
けどどちらにするのかで物語の意味は少し変わっちゃうなーと思った
完結を前提にすれば冤罪に対する罪とアリョーシャ以外の物語にもなるし、続編の前置きに過ぎないならアリョーシャの物語に徹底するのかもしれない
きっとアリョーシャの何らかで完結するだろうからね
どっちにしろ読者としては続きがあるなら読みたかった ありょーしゃが前任であるはずがない
なぜなら世界を知らないから 前書きの「著者より」で書かれてなかったっけ、と思って読み返したけど書かれてなかった。 >>127
>前書きの「著者より」で書かれてなかったっけ
「伝記を書き記すにあたって」と前置きをしたうえで
「伝記は1つだが、小説は2つあるのだ」としている
そのうえで
第1の小説は13年前の主人公の青年前期の話とされ、
第2の小説は「現在」の「この瞬間」における「主人公の行動」とされる
しかしその後に
「小説はひとつだけでも十分すぎる」
「問題の解決に窮した」
「最初の話を読めば第二の話に取りかかる価値があるかどうか」
と書いたうえで
「あとは読者が自分で決めてくれるだろう」
としている
ひじょうにあやふやで含みのある文章で
続編執筆の口上ともいえるが
続編を書かないことの断り書きとも受け取れる >>129
超わかりやすくまとめてくれてありがとうございます >>128
山城むつみ?とか小林秀雄のドストエフスキーについての本を本屋で目がいく
いつか読んでみようと思う反面、その人のドストエフスキーに被れてしまいそうに思って避けてしまう
でもまーいずれは読んで見ると思うけどね >>128
個人的にこの感じすごい分かると思ってしまった
誰だったか、ラキーチンだったかな、神について詳しく話して尊敬さえ見えるような長舌で語るのに最後にこう言われておかしな印象が残る
「でも君は神を信じていないじゃないか?」
ペストでもタルーとリウーの会話であったと思う
「ぼくは聖人になりたい」
「でも君は神を信じていないじゃないか?」
みたいな言い回しは皮肉なのか、ただ素朴な質問なのか、どっちなんだろーと思うと個人的にクスっとする イワンにもアリョーシャが大審問官で言ってたね
そーいえば なんか愛を感じてイイよね。普段悪口ばかり言う人達なのに(笑) カラマーゾフの兄弟、難解っすねw
キリスト教の部分が意味不明www そうなんだよねえ
というかキリスト教信者の気持ちに
ある程度親しんでおかないと 大審問官は飛ばした。いくら読んでも先に進まないから。というか聖書すらちゃんと読んだことないし。宗教的な側面については何も知らないから単に文学として読んだけど無茶苦茶面白いよカラマーゾフの兄弟。あれで19世紀の小説なんだぜ。 19世紀で文学は終わった。終わらせた象徴としての存在はドストエーフスキー!でしょうか、
アインシュタインではないにしても「世界はまだまだドストエーフスキーに追いついていない!」。
芥川、阿部公房、太宰、三島……等々、
処女作や出世作死ぬ直前の作品に重要な場面で
ドストエーフスキーの名前が挙がっていますね。
では^^ 利根川進さんの自叙伝「旅人」で本人学生時代「いわん」という
あだ名で呼ばれていたエピソードも多分ワーニカを意味しているのでしょうし。
>>931 P ◆.uKag/vUmY さん、自分はキリスト教に詳しいですよー。
約3年程、プロテスタント福音派の教会に顔出ししていました。
今でも牧師さん、友人なのです。
ところで仏陀をディスっていた東電さん、昇天したのですか。
記憶さんは、無事退院したみいでお目出度い〜!
では♪ (-^ ^-) 悪霊が名作すぎて、今のところカラマーゾフにはハマってないが
まずはさいごまで読んでみようと思う むしろカラマーゾフの兄弟読んでキリスト教に興味がでた
そういう人も結構いるんじゃない?
それにしてもカラマーゾフがベストセラーだったというのは驚き
買って最後まで読んだ人はどれだけいるんだろうw >>143
キリスト教に興味持つだけでこの小説の価値はあるわ読破するのも大切だが日本人にはキリスト教は理解出来ないよ >>136
>キリスト教の部分が意味不明www
というかロシア史やロシア文化についての基礎知識が必要だと思う
聖女ワルワーラや聖人アレクセイといったロシア人なら誰でも知っているような
殉教者名やアレゴリカルな地名、人名が日本人だとピンとこない
たとえばスメルジャコフ(臭い男くらいの意味)の部屋の窓には
「悪霊」のスタヴローギンがマトリョーシャの自殺を見届けた時と同じように
ゼラニウムの鉢が置かれていたが
ゼラニウムの花言葉とは“ムハマンドの知恵”であり、
異教的な意味合いを持っている
イワンのとの対決後にマトリョーシャ同様スメルジャコフは自殺してしまう
マトリョーシャの場合はスタヴローギンの誘惑による
信仰の喪失と絶望が自殺原因だったが
スメルジャコフの場合は「罪と罰」におけるスヴィドリガイロフ的虚無に近い
しかしムハマンド的「知恵」が背景にあることは間違いなく
この賢しらな「知恵」がキリスト教的信仰心によって批判される ドストエフスキーの解説本が手元にあるだけでもだいぶ違うよ
amazonでいくつかあるはず 死の家の記録が一番馴染みやすいわ
あとは罪と罰
カラ兄は最も難解であります >>141
東電さんについてそういう風に茶化すのは不愉快だな。 >>144
ドストエフスキーもキリスト教徒と自称するくらいだから、それで読者にキリスト教に興味を持たせたなら本望だったろうね
トルストイほど直球の普及活動はしてないけど
>>146
ムハンマドの知恵って興味あるなあ
ググったけど出てこなかった
覚えている限りだと、悪霊でキリーロフ が癲癇についてシャートフに語る場面でムハンマドの事も出てきたのがあったはず
ムハンマドにも癲癇の毛があったみたいな
ドストエフスキー自身が癲癇だったみたいだけどね >>147
解説本でオススメとかある?
ネットだとめっちゃ出てくるんだけど 毎日、毎時、毎刻、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように気をつけ
なければならない。例えば、幼い子共の傍らを通り過ぎる時、憎々しそうな様子をして、口
汚い言葉を放ち、腹立たしい心を抱いていたら、たとえ自分の方では子供に気がつかぬとし
ても、子供はちゃんと見てとるに違いない。そうしてその醜い汚れた姿が頼りない子供の胸
に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。つまり自分の方では気もつかぬ間に、子供の
心に悪い種子を投げたことになる。そうしてその種子が次第に大きくなってゆくのである。
それというのも、子供の前で慎しみを忘れたからである、用心ぶかい実行的な愛を自己の中
に培わなかったからである。
-------------------------
ドストエフスキー は、ゾシマは「実行的な愛」という言葉を、こうした意味で書いている。
この身の振る舞いこそが究極であることを。それこそが信仰の目的でさえあることを。
そうしてそれが、きわめて困難であることを。 諸師よ、愛は教師である。しかし、これを獲得する方法を講じなければならない。なぜならば
、愛の獲得はきわめて困難であって、高い価を払い長い間の努力をもってようやく贖われるも
のだからである。実際、愛は瞬間的のものでなく、長いあいだ持続するものでなければならない。 私の若い兄は小鳥に赦しを乞うた。これは全然無意味なようであるが、しかし実際は正しい
ことなのである。
何故かと言うと、一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触して
いるが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。
たとえ小鳥に赦しを乞うのが気ちがいじみているとしても、もし人が現在のままよりほんの
少しばかりでも美しくなったら、小鳥や子供やその他のすべての動物は、それだけ心持ちが
軽くなるに違いない。
くりかえしていうが、一切のものは大海のようである。もしこれを悟ったなら、人は宇宙的
な愛の悩みを感じながら、――なんともいえぬ歓喜の情を抱きながら、小鳥に向かって祈祷
するようになるだろう。小鳥に向かって自分の罪を赦してくれと、祈るようになるだろう。
たとえほかの人の目にはいかに無意味に見えようとも、この歓喜の情を尊重しなければならない。
----------------------
わたしはネコに許しを請うた。それは小学4年のときに飼っていた猫であった。わたしの初めての猫であった。ある日、激しく吐くようになった。父と母はダンボール箱とガムテープで無理やり猫を
箱に詰めようとしていた。幼いわたしはその異様な光景を見て、必死でダンボール箱にしがみつき
猫を助けようとした。父は「ビニール袋かなにかを飲み込んだのだ。もう助かることはない。
死なせてやらないと可哀相だ」と。 長いこと忘れていた、この猫への悲しみと、激しい雨にけぶる荒川の真っ黒な水面と。
その水面をゆっくりと流れていくダンボール箱。
そして今は亡き父と母と。貧乏で動物病院へ連れていくカネはなかった。
強くなれ...厳しくなれ。こうした不幸を、二度と繰り返してはならない。
いっそう強く父と母へ回向をした。そしてまた、あの猫だけではない、自分が幸せにできなかった
ものたち。この心の中に「一切のものが大海のごとく、ことごとく相合流し相接触しながら、存在してるではないか」
そしてまた、自分の悲しみと すまなかったというこの気持ちも、全宇宙へと遍満してるではないか。 >>155
文学は時に自分の経験とつながることがある
ゾシマの兄にはキッカケにがあった
彼の場合は死が近づいたことがキッカケになったけど
きみにはきみの経験がとある本の内容を体験する瞬間があったんだね
この自分の体験が読んでいた本に繋がる瞬間、これも読書の意義なのかもしれないね
むしろ共感キモなのかもしれないけど 永遠の夫、って誤訳だよな
やっぱ、万年亭主のがしっくりくる >>151
俺が持ってるのは「すらすら読めるドストエフスキー」って本 埴谷雄高ドストエフスキー全論集ってむやみに分厚い本が古本屋にあったけどどうよ? >>159
その名前もみたことあるけど実際は誰がいいんだろうね
本屋でドストエフスキーの名前を目にすると気になっちゃうよね
名前ばかり覚えていくけど、内容はまったくしらないw 「ドストエフスキイの生活」は?まだ読んでないけど… やはり小林秀雄あたりがよそそう
名前的に選んではいるけど
解説本も一冊くらいとりあえず読んでみようと思う 468 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2018/09/16(日) 01:54:17.21 ID:iqXRGs5S
俺は一人でいる時にやたら独り言を話す
それも全て英語で
延々と英語で独り言を話す
何故だか分かるか
つまり、そう言う事だ ドストエフスキーを理解するには、19世紀のロシアのインテリゲンチャの状況と特殊性について理解する必要がある
それについては、小林秀雄の「ドストエフスキイの生活」は、非常に参考になる
同じ小林秀雄全集第5巻に収録されている、「ドストエフスキイの時代感覚」と「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」も必読 イワンの悪魔がいう、悪のみを欲して善を行う、ってメフィストフェスも同じこと言ってた気がする
かく言う人間は、善のみを欲して悪を行うんだけど
ある意味で、悪霊のテーマだよね 女「で、年収は?」
男「年収??」
女「そうとも。あんたの年収が高ければ私は働かずに生きてゆかれるからの。」 この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は
種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長す
べきものは成長し、成長したものは現に生活している。
しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部
にあるこの感情が衰えるか、それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長したもの
も死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。
私はこのように考えている。 (H)人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰
人間は何人の審判者となることもできない。これは特に記憶すべきことである。なぜならば、
審判者が、『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、むしろこの人間の
犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めない限り、この地上に犯人の審判者
というものは存在し得ないのである。この理を悟った時、初めて審判者となることができる。
これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理なの
である。実際、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかったかも
しれない。 もし人が彼の前に立って、彼の心のままに審判さるる犯人の罪を、自ら負うことができる
ならば、猶予なくそれを実行して、自ら犯人のために苦しみ、犯人はなんらの譴責もなく
赦してやるがよい。たとえ国法によって審判を命じられたのだろうとも、なお事情の許す
限り、この精神をもって行動するがよい。こうすれば犯人は法廷を去った後、他人の審判
よりさらに苛烈に、自分で自身を裁くだろう。もし犯人が審判官のキスに対してなんらの
感動をも覚えず、かえってこれを嘲笑しながら立ち去ろうとも、決して迷いを起こしては
ならない。これは詰まるところ、まだ彼の時が来ないのであって、来べき時には必ず来る
に違いない。
また来ないとしても同じことである。もし彼が悟らなければ、そのかわりにほかの者が悟
って苦しむだろう。そうして自分で自分を責めるに違いない。すると真理は充たされるこ
とになるのである。人はこれを信じなければならない、必ず信じなければならない。
この中に古聖の希望も信仰も、ことごとく蔵せられているからである。
------------------------------------------------
(我)これらは なんという思想だろうか? このような精神で行動しているもの、また胸中奥深くに
こんな思想を抱いているものが、現代世界に何人いるのか? >>171
>また来ないとしても同じことである。
こういう結果より経過を見るのを見逃さずにむしろ重視するドストエフスキーの考え方は好き >>172
> >また来ないとしても同じことである。
> こういう結果より経過を見るのを見逃さずにむしろ重視するドストエフスキーの考え方は好き
おれもここに着目してました。ここで結果より経過を重視するのは、まさにこれは信仰だからだと思います。「まさに必ずそうあるべし」と。
ただ、ここ「(H)人は同胞の審判者たり得るか? 」のところは、うまく説明できないが、強い違和感を感じるのも事実です。 >>173
>ただ、ここ「(H)人は同胞の審判者たり得るか? 」のところは、うまく説明できないが、強い違和感を感じるのも事実です。
素直に言葉を読むと自分はこうなった
ここで言う審判者になり得るは、審判者になるには被告と同じだけ(それ以上)に罪があると自覚する事が必要と言っている
言葉の通りに読むなら、犯罪者しか犯罪者を裁けない、みたいな感覚で言ってるように読める
しかしそもそも裁くのは司法(非犯罪者)が世の法則であると続き、その審判者は犯罪者(自分)であると話を最初に戻しているように感じる
要するに人は人を裁けない事を知ろう、ということかな
裁くものはいないから、罪は認める必要があるけど、裁かないで許しちゃえ!そーすれば自分(見た誰か他の人)でいずれ後悔して回心するだろう
みたいな事を言いたかったのかかもしれない、と読めるんじゃなかろうか >>171
>これらは なんという思想だろうか?
いわゆる「悪人正機」に近いものでしょうね
無明の世界にいる罪人が弥陀の「不可思議光」によって覚醒する
ここで注意すべきことは闇に光が訪れて照らされるのではなく
他力によって闇が光り輝き始めて罪業が浄化されて回心がなされる
これは反省や自己批判といったものではない
それゆえ「不可思議」と形容されるしかない
トルストイもそうだけどドストエフスキーの議論には
東方の異教的な発想に近いものがある
まあこの場合はイスラムではなく東洋思想に近いわけですが >>174
> 素直に言葉を読むと自分はこうなった
> 被告と同じだけ(それ以上)に罪があると自覚
原文。
>『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、むしろこの人間の
犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』
>自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかった
一側面として「一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触して
いるが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。」
という思想・信仰を内包している。すべては関連してる、すべてはつながり合っている、偶然はない、という。 >>174
> 素直に言葉を読むと自分はこうなった
素直に読むことこそ いちばんむずかしいと感じます。ですから、解説書のたぐいは初読のときは
読むべきではない。解説者の境界が入り込むからです。
> 被告と同じだけ(それ以上)に罪があると自覚
原文。
>『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、むしろこの人間の
犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』
>自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかった
一側面として「一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触して
いるが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。」
という思想・信仰を内包している。すべては関連してる、すべてはつながり合っている、偶然はない、という。 >>175
ぼくの受けた印象は「西洋的な伝統のもとにひじょうに深い思索」であると。
ただ、ひとつ問題が。人間の本能を無視していないか?と。
ここでは司法に限定されてるかのようだが、別の箇所で「復讐心」についても語られている。
悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、とうぜんの生命の法則性である。
つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。
とにかく(H)人は同胞の審判者たり得るか?の内容を、2ちゃんニュー速などで展開しても
理解するやつは少数でしょう。
論理的な文は書けなかった。諸兄の思索の展開を待つ。 >>175
ぼくの受けた印象は「西洋的な伝統のもとにひじょうに深い思索」であると。
ただ、ひとつ問題が。人間の本能を無視していないか?と。
ここでは司法に限定されてるかのようだが、別の箇所で「復讐心」についても語られている。
悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、とうぜんの生命の法則性である。
つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。
とにかく(H)人は同胞の審判者たり得るか?の内容を、2ちゃんニュー速などで展開しても
理解するやつは少数でしょう。
論理的な文は書けなかった。諸兄の思索の展開を待つ。 >>175
ぼくの受けた印象は「西洋的な伝統のもとにひじょうに深い思索」であると。
ただ、ひとつ問題が。人間の本能を無視していないか?と。
ここでは司法に限定されてるかのようだが、別の箇所で「復讐心」についても語られている。
悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、とうぜんの生命の法則性である。
つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。何か一段高みから
すべてをみおろしてないか?
とにかく(H)人は同胞の審判者たり得るか?の内容を、2ちゃんニュー速などで展開しても
理解するやつは少数でしょう。
キリスト教が偽善的であると解釈されがちなのは、こういうところに由来してないか。誤解を避けるために書きたいが、
「犯人をバンバン死刑にしろ」的な感覚は、大嫌いです。個人的に。
論理的な文は書けなかった。諸兄の思索の展開を待つ。 >>181
>つまりここの教えは、一種「本能に逆らった」教えです。なんというか「当事者意識」が希薄でないか。何か一段高みから
>すべてをみおろしてないか?
見方として、見下ろすと悲観的な結論につなげなくてもいいのかもしれないよ
むしろ当事者という意識を無くしたかったのかもしれない
ドストエフスキーは我やエゴの部分を、自分と他人を分ける部分をどう無くしていくのかにこだわった作家でもあるし、それが不可能と分かっていながら自分が一番認められないイワンの側面を持っていた
法則は本能的であるけど、法則を超える事に生きる意味を探している作家でもある
キリスト教的に言えば隣人愛の到達であるし、東洋思想で言えば無我とか真我なんていうのかな
一切は大海、そういう事なんだろう >>181
>悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、
>とうぜんの生命の法則性である。
それは科学主義に基づく自然の法則と
ジュネーブ思想と名付けられた市民社会の名誉意識が複合したもので
ゾシマの思想はそういうものではない
仏教思想の時事無碍法界相のようにすべてが連続的であり
それ故に「愛」に基づく融和が生じるといった発想で
「神」というのはこの連続性の最終審級くらいの意味ですね
たとえば検事イポリートによるミーチャの論告求刑は前者の見方で
精神分析や論理学で法としての罪を構築していくが
これは冤罪に過ぎない、しかしこの社会的制裁、つまり「罰」を
あえて汚名とともに引き受けることによって贖罪と自他の救済が生じる
作品の冒頭に記された聖書からのエピグラムである
一粒の麦〜というのはそういう事でしょう
ドストエフスキーはいちおうキリスト教世界にとどまるのだけど
ローマカソリックやプロテスタントと違った独自の境地にいる 法廷闘争部分である最終章は退屈極まりないけど
やはりこの作品の完成度は高い、と言わざるを得ない >>183
>ドストエフスキーはいちおうキリスト教世界にとどまるのだけど
>ローマカソリックやプロテスタントと違った独自の境地にいる
そうだね、カトリックプロテスタント批判をよく耳にするね
彼は正教会だけどその中でも煙たがられていたくらいだから、もっと異端扱いされてたのかもしれない
だってハッキリと書いている
キリストに近付こうとする事を教理にする教会からすればたまったもんじゃないだろうから
「キリスト教の教えに従い、己のごとく隣人を愛する事は不可能だ。この地上ではみんなが個我の法則に縛られているからだ。我が障害となるのである。ただキリストのみがそれを成し得た。………」
結局、イエスの教えができたのはイエスだけだった、と言ってしまえば批判は免れないと予想でこるのに >>182
>法則は本能的であるけど、法則を超え
なければならないのだ。それはそのとおりだ。 >>183
> >悪を憎み、被害を恐れ、被害を受ければ復讐したいのは、
> >とうぜんの生命の法則性である。
>
> それは科学主義に基づく自然の法則と
> ジュネーブ思想と名付けられた市民社会の名誉意識が複合したもので
「市民社会の名誉意識」とは思わない。より本源的な素朴に生命的なものと考える。
右の頬を打たれたら相手の左の頬を殴り返したくなるのが人間生命であり、クリスチャンであってもとうぜん同じ。たとえばw煽られれば煽り返すのが2ちゃんの流儀であり、精神衛生上もよい。
(しかし、精神衛生上は良くても、因果の法則性的には、まったくよくない)
言葉であれ、暴力であれ、この場合なら、相手の修羅界の生命という縁に触れて、自分の修羅界が出生する。しかしその負の力にどうすれば打ち勝てるのか? その方規が問題なのだ。
> ゾシマの思想はそういうものではない
それはまちがいない。「ゾシマの思想はそういうものではない」
> たとえば検事イポリートによるミーチャの論告求刑は前者の見方で
> 精神分析や論理学で法としての罪を構築していくが
> これは冤罪に過ぎない、しかしこの社会的制裁、つまり「罰」を
> あえて汚名とともに引き受けることによって贖罪と自他の救済が生じる
これはゾシマの腐臭に通じている。ゾシマの死臭により、その生涯は汚点をもって解釈されるのか?
>法廷闘争部分である最終章は退屈極まりないけど
ぼくはそう思わなかった。「カラマーゾフの兄弟」に退屈な箇所というものはなかった。ここのところは「自分自身がミーチャ」であるとして体験していく箇所だと感じた。 >>187
>「市民社会の名誉意識」とは思わない。より本源的な素朴に生命的なものと考える。
いや、前作の未成年でヴェルシーロフの口を借りて
ギリシア思想における公共性の延長として
市民社会における名誉や相互承認があるのだ、と指摘されているし
カラマーゾフではカソリックやその反動にすぎない
プロテスタント(理神論)によってロシア正教的キリスト教思想の衰弱がもたらされこれが啓蒙主義的科学主義の温床になっているのだ、という考え方です >>187
>ここのところは「自分自身がミーチャ」であるとして体験していく箇所だと感じた。
その追体験はあくまでイポリートによって批評的に再構成されたものであり
実際は前章までの生の物語を論理的に再構成した市民的価値判断に過ぎない
この論証性によって有罪が確定されるのだが
ミーチャがこの罪をあえて引き受けるというところに意義がある >>189
> >ここのところは「自分自身がミーチャ」であるとして体験していく箇所だと感じた。
>
> その追体験はあくまでイポリートによって批評的に再構成されたものであり
> 実際は前章までの生の物語を論理的に再構成した市民的価値判断に過ぎない
> この論証性によって有罪が確定されるのだが
> ミーチャがこの罪をあえて引き受けるというところに意義がある
誤解だ。俺が言ってるのは、「前章までの生の物語」から連続するところの「論理的に再構成した市民的価値判断」を押し付けられ、やがて「この罪をあえて引き受けるという」という精神の流れを
そのまま体験せよ、と言ってるのだ。もっと言えばわれわれは皆ミーチャだ。
同じく、
> この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
> 界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
> いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
> 哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は
> 種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長す
> べきものは成長し、成長したものは現に生活している。
>
> しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部
> にあるこの感情が衰えるか、それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長したもの
> も死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。
> 私はこのように考えている。
第7篇でアレクセイが、星空と秋の草花の下で、この「神秘なる他界との接触感」を体験した。
師匠の教え通りの追体験をしたのだ。アレクセイとミーチャを信奉するわれわれは、もし老年であろうとも そのまま青年である。アレクセイである。 >>187
>これはゾシマの腐臭に通じている。ゾシマの死臭により、その生涯は汚点をもって解釈されるのか?
この物語は匂いがあるから意味があったのです
罪をあえて引き受ける、というのは本当に難しい
匂い(ゾシマの腐臭もソーニャのまっすぐな目も)とは存在である
多くの人は精神的に何が正しくて何が正しくないのかを頭では理解しているし、人類を愛してさえいる
でもダメなんだ
自分の正しさを「今は」表に出さずにはいられない
匂う相手が現在の目の前に現れると法則も同時に姿を見せて、その姿に圧倒される
人類(匂わない)を愛する事は出来るが姿(匂う)を見せないこと、とイワンは言ったけどね
ドストエフスキーの言う法則を超えられない、というのは個我を消すのがどれほど不可能な事のか、という命題でもあると思う
この匂いに圧倒されて感情をその場で発散させる、が、後で良心に思い合わせて言った事を後悔する
この人間的な矛盾に神秘がある、とドストエフスキーは肯定的にも否定的にもなれないイワンに似ている作家と思うのです >>192
> 自分の正しさを「今は」表に出さずにはいられない
すごい文であり思索だが、上の一行の意味がよく取れなかった。ゆっくりでいいから、もう少し解説してくれ。 >>193
単純に、言い返したりするのってその瞬間ムカついたとかっていう理由じゃない
後で言い過ぎたなあー、って思うんだけどさ、「今のその瞬間」は言っちゃうんだよね
なんでかって言うと、相手を目の前にしているから
つまり存在を目の前にすると自尊心ってやつが芽生えるから言っちゃうんだよね
まさにあの地下室の主人公だよ(地下室では人類を愛しているが、扉を開ければ人類は敵になる)
頭(精神)で悪いことって理解しているけど、その瞬間はダメなんだ
つづき>>192
>多くの人は精神的に何が正しくて何が正しくないのかを頭では理解しているし、人類を愛してさえいる
でもダメなんだ
そして以下のあの文に繋がる
他界とは精神的な事=天の種
成長する草は肉体的な事=成長した(例えば草)
精神の世界では人類は姿がない(天の法則):匂わない
肉体の世界では人類は姿がある(地の法則):匂う
一読者の解釈にすぎないけど自分はこう読んだ、という事なので正しいのかは分からないよ
こう言うのは形而上の話なので形而下で正解を決めるのは難しいからね
「(全文:哲学では不可能である):神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。」
だからそもそも、精神の種で生まれ地で成長する、という矛盾してつくられているからこの世界で調和させるのは(哲学的な=地上の考え)では不可能、とドストエフスキーは考えたのではなかろうか
で、キリスト(天の考え)を(地の法則)に加えるとどーかな?調和出来ないかな?という読み方です
この辺は正教的な神化とかっていう考えもあるんじゃなかろうか、と思うのでした >>192
この文は詩的に昇華してる。たしかに言われてみれば、あの断章は、匂いや五感に総合的に訴える
インスピレーションが多い。 眠る時刻です。皆さん、今日はありがとうございました。 ドストエフスキーが影響を受けたとされるバルザックを読んでいるが、これは傑作だったよ
と、言ってもゴリオ爺さんだけだけどね
個人的にはとてもよくにていると感じた
スヴィドリガイロフっぽいのもいるし、良心と自尊心に悩まされて翻弄する主人公なんて、似ているように感じ、感じるかこそ面白かった
他に影響を与えたのではなく、受けたの作家って誰なんだろう
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