ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>636
罪と罰のテキストを入手してない。しかも書籍もない。つまりまった
く本文にはあたってない。
記憶のなかにある「罪と罰」と君のカキコだけからレスを書く。そし
てせっかくいいことを書いてきても、突然バカげたことを書いてしま
うことを恐れる。だが、それを恐れてはいけないと思うのだ。そのと
き素朴に感じたことを書くのが大切なんだと。
---------------------------------
> ラスコリニコフはこう考えて老婆を殺す
> 100の善行や1000の人類の発展を将来為すようなニュートンとかの
前に、
ニュートンなんか偉くもなんともありません。そのニュー豚が食らう
マンマはだれが作ったのですか?ニューとんを作ったのはだれですか
?ニュートンママではありませんか? 愚直な信仰をつらぬき、だれ
にも見えないところで善の行動をなす民衆がいちばん偉いのです。
ニュートンなどいなくても、時代精神が次の、別の、ニュートンをう
んでるんです。
東條英樹は絞首刑になった。負けたからである。負けるまでは、国内
において無敵の存在だった。トルーマン大統領は原爆投下のゴーサイ
ンを出した。彼は広壮な住宅で静かに死んだ。一見して、罪と罰は、
単に現世における勝ち負けに過ぎないようにおもえる。しかしわたし
は次のように考える。 トルーマンの罰は「原爆投下を決断したその瞬間に 既にくだっている
のだ」と。罪に対する罰は、生命に刻まれる罰であり、現世でももち
ろん苦しむが、後世こそおそろしい。なぜならば永遠の生命だからで
ある。大統領のひとりの身にとどまるものでない。子孫そして未来の
アメリカ国民に影を落とし続けるのだ。
この世界と宇宙において、「ラスコーリニコフくんは美しいすばらし
いことをした」と言うもの、感じるものは、ひとりもいません。
きみ自身からしてそうでしょう?
なぜなら「生命尊厳を踏みにじった」からです。
>精神上において彼らは殺人なんて些細な事と考えているからこそ良
心の呵責は持たない
良心の呵責など、関係ないです。主観の問題でない。犯罪が露呈する
か否かも関係がない。悪に対して罰が下るのは「生命の法則」だから
です。われわれ人間には、その法則が如実に見えない、というだけの
こと。 でもそれ、君一人がそう願っている唯心論に過ぎないのでは? バイタのソーネチカは"大地に接吻しなさい"という
ニーチェのツァラトゥストラなんかでも"大地"がどうのこうのという言い回しを散見するが、
大地とは平たく言えば現実社会や身近にいる、ラスコリニコフが言うところの"虫けらのような人々"のことである
キリスト教やイスラム教では、現世=大地を取るに足らぬ仮初として、あの世の人生を本当の世界としているらしいが、
しかし実際には大地を軽んじることは、天上(信仰上の世界やその道徳観念など)を軽んじることと表裏一体なのだ
――ということを、ドストエフスキーは書きたかったのではないかな さて、従って"大地に接吻しなさい"とは、クソみたいな世の中とクソみたいな人々を愛しなさいということなのだが、
悪霊ではスタヴローギンが遺書の中で"心の広いキリーロフ"と評したキリーロフは、皆が好きで皆のための人神思想の故に自殺している
いっぽうで心の狭い(皆が嫌いな)スタヴローギンは皆を好きになれない故に生きていることが取るに足らずと感じ、遂には自殺した
彼の言う"自殺は最後の欺瞞である"とは、疫病神の自分は死んだ方が世のため人のためだと確信しているが、大嫌いな世の中のために死んでやるつもりは毛頭ないという意味である
これはカミュの『異邦人』に出てくる主人公ムルソーにも共通している
死刑判決を受け、処刑場に向かうムルソーは、人々があくまで自分を仲間と見なして死刑を憐れむよりも、
嫌いな連中には敵意をむき出しにされた方が清々しいと、喜んで罵声を浴びて死に向かう
宗教家の諸君、君たちは果たして本当に大地に渾身のチューができるかな? まずは『土壌主義宣言』を読め
これを、小林秀雄は単なる雑誌の宣伝のための文書だと書いているが、そうではないと思う
ドストエフスキーは、西欧の知識を真似してもダメだ、それは所詮借り物で、ロシアの大地から遊離しているからだ
カトリックもプロテスタントも大地から遊離してしまった
世界を救えるのは大地と密接に結びついているロシア正教だけである
これが、『作家の日記』でもくり返し言っている、後期のドストエフスキーの思想の基本である だから大地を軽蔑したルサンチマン宗教じゃダメだということ
それは世俗を罵る日本の大乗仏教全般にもいえることだ
オニオンのような真の天才にしてジェダイの鏡だけが世界を救えると知れ しかしニュートンは偉いともいえる。
なぜなら人類全体の宿命転換をなさんとしたからだ。このことはドストエフスキーにもいえる。
けれどぼくが書きたかったことは「ニュー豚が食らうマンマはだれが作ったのですか?」とは
お百姓が作ったということだ。すべての生命は連関して支え合っており「ただの欲望のような金貸しの老婆」などいるはずもないのだ。
同じようにして「バイタのソーネチカは」という軽蔑的発言があったが、ソーニャは家族を養うための自分にできる唯一の仕事としてやっている。これははたして非難されるべきことなのか?
他人の労働の成果で妄想的思考に沈潜し「ナポレオンは偉大である、ニュートンは人類の進歩に貢献した、おれはナポレオンやニュートンとなる、そのための障壁を崩さねばならぬ、すなわち
金貸しババアを殺してそのカネを奪い、上昇への第一歩の資金となす」
このような自己欺瞞はいくらでも青年の脳内に出生するであろう。そして殺人に近い悪を起こすこともありうるかもしらん。
... しかし、こんなものを「理想」として世界と青年に提示することが可能だろうか?
むしろ逆であり、「他人の不幸の上に、自己の幸福と繁栄を築かない」これこそ「理想」と呼ぶに値するもの、多くの青年を糾合しうるものなのだ。
理想や価値というものは、信仰と信仰共同体があって、はじめて現実の目標たりうる。
ただし
>カトリックもプロテスタントも大地から遊離してしまった
世界を救えるのは大地と密接に結びついているロシア正教だけである
これが、『作家の日記』でもくり返し言っている、後期のドストエフスキーの思想の基本である
とあるとおり、宗教信仰ならなんでもいいのではない。逆です。
> でもそれ、君一人がそう願っている唯心論に過ぎないのでは?
このことはひじょうに伝達が難しい。至難といってもいい。ある意味「唯心論」だ。
「ただ心こそ大切なれ」という意味では。
アリョーシャにゾシマがあったように、ラスコーリニコフにソーニャがいたように
自分のゆがんだ考えと行動を照らし合わす現実の他人がいるんだ。そして民衆の信仰。
このもっとも肝心要のことは「言葉で説明不能」だから「宗教はうさん臭い」となるんだ。 >「他人の不幸の上に、自己の幸福と繁栄を築かない」これこそ「理想」と呼ぶに値するもの、多くの青年を糾合しうるものなのだ。
しかし理想とは人それぞれ違う相対的なものだ
古代の、あるいはアマゾンの山奥にある部族においては、他所の村の戦士を殺して骸骨を飾るのが徳である
されどキリスト教は神がひとつであるように、絶対にひとつの正義しか認めず、他者を呪い、排撃する
バイタのソーネチカの言い分は、アマゾンの山奥に置いては、戦士の誇りを冒涜する邪教の戯言に過ぎないのだ
互いに争うことがあってもそれぞれの正義に存在価値があるとするのを汎神論とすれば、
すべての正義に存在価値がないと見なすのがニヒリズム(誰もいない世界)である
チホン神父は"ニヒリズムとは完全なる信仰への一歩手前の段階"だという
では"完全なる信仰"とは何か? ――キリスト教以外のあらゆる考え方を否定することである! >>648
君にはぜったいに見えてないものがある。
> >「他人の不幸の上に、自己の幸福と繁栄を築かない」これこそ「理想」と呼ぶに値するもの、多くの青年を糾合しうるものなのだ。
> しかし理想とは人それぞれ違う相対的なものだ
当たり前かつ当然である。しかし、それはなにも言ってないのと同じことだ。
> 古代の、あるいはアマゾンの山奥にある部族においては、他所の村の戦士を殺して骸骨を飾るのが徳である
ここで大事なのは「きみがどう思うか?」なんだ。「他所の村の戦士を殺して骸骨を飾るのを」
きみは やりたいか?仁義なき戦いで山村組に入って、外道の親分の言うとおりに、ぶっ殺しにいきたいか?
> されどキリスト教は神がひとつであるように、絶対にひとつの正義しか認めず、他者を呪い、排撃する
一見正しいかのような前提を立てて、つぎに大嘘を書くのが、半知半解のきみら評論家の常套手段だ。
> されどキリスト教は神がひとつであるように、絶対にひとつの正義しか認めず
ここは正しい、宗教の宗教たるゆえんである。
>他者を呪い、排撃する
真逆だろう。かわいそうだから、邪宗教のメンバー、無信仰のメンバーを救うために、友の眼の奥に隠された悲しみの影に耳をすまし、その友といっしょに立ち上がろうと、日夜信仰活動にいそしみ、友を激励しているのが、否定しようも無きわれわれの実像であろう。
ドストエフスキー作品世界へいったん話をもどして考えてみよう。ゾシマやアレクセイが、無信仰のメンバー、信力弱わきメンバー、出ては来ないがイスラム教のメンバーらを『呪い、排斥』するか?
おれは文を推敲してない。また、書いてもきみには理解できんだろう。論理的ねじれも多々あろう。だが、何かがおまえの生命に打ち込まれるだろう。 >>642
> 大地とは平たく言えば現実社会や身近にいる、ラスコリニコフが言うところの"虫けらのような人々"のことである
この解釈は、仮にまちがっていたとしても「重要な真理」をついていると思う。
> キリスト教やイスラム教では、現世=大地を取るに足らぬ仮初として、あの世の人生を本当の世界としているらしいが、
きみは『らしい』で語ってはならん。自分がやってみることだ。それもとことん。
キリスト教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ、民衆の生活と一体化し、文化を生み出す母体となり、日々真剣に祈り続けられて存続してきた、いわゆる「高等宗教」が
きみの考えるような『空理空論』におちいり、鼻持ちならんバカインテリみたいな教義を持つわけがなかろう?それはわかるよな? >>650
君のように顔真っ赤にして口汚く罵りながら
"寛容の宗教"を気取る欺瞞に気づかないのか?
>日夜信仰活動にいそしみ、友を激励しているのが、否定しようも無きわれわれの実像であろう。
やはり君は統一教会の信者か何かのようだね
経験論者として、私はその関係者の実態を観測して宗教を評価しているが、
君を見る限り、実存において宗教とは、他人を否定し、己を省みない盲人の寝言である ニュートンがいなければ代わりのニュートンを時代が生むか
あるかもしれないけど、それこそ神の意志、何て言葉になるね ラスコーリニコフには、つぎの言葉をささげたい。
>(H) 人は同胞の審判者たり得るか?
最後までの信仰
人間はなんぴとの審判者となることもできない。これはとくに記憶すべきことである。
なぜなれば、審判者が、自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。
いな、むしろこの人間の犯罪にたいして、自分こそ最も重い責任があるのだ、と認
めない限り、この地上に犯人の審判者というものは存在し得ないのである。
----------------------------------------
わたしたちは、ラスコーリニコフの審判者となることはできない。
なぜならわたしは、ラスコーリニコフの犯罪と、その心の動きの一部始終を知っているわたしこそ、彼と同じような強盗殺人犯だからである。いやちがう。ラスコの犯罪にたいして自分こそ最も重い責任があるのだ。 >この理を悟ったとき、初めて審判者となることができる。
その上で、あえて彼の審判者となろう。
おそらく大半の職業裁判官は、この理を悟っていない。そうであるから、トルストイは裁判官たちを「他人を裁き、死へと導く反キリスト教的な者たち―」と呼んだのであろう。
>これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理なのである。じっさい、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかったかもしれない。
---------------------------------------------------------------
これについては以前のスレで少し書いた。われわれが、自分は普通人だと確信しておる凡人たるわれわれ大衆が、「ほんのわずかの優しい心」をもっている人間だったら、そもそもこの世に、宮崎勤や宅間守や加藤が出現するか?ぜったいに否です。 >もし人が彼の前に立って、彼の心のままに審判さるる犯人の罪を、みずから負うことが
できるならば、猶予なくそれを実行して、みずから犯人のために苦しみ、犯人はなんら
のけんせきもなくゆるしてやるがよい。
------------------------------------------
もしぼくが、ラスコーリニコフ担当の裁判官ならば、ぼく自身が死刑もしくはシベリア流刑になるべし。ラスコは無罪放免である。ところが、じっさいには、それは不可能である。
>よし国法によって審判を命じられたのであろうとも、なお事情の許すかぎり、この精神をもって行動するがよい。
なお事情の許すかぎり、この精神をもって行動する。
-----------------
以上の愚かなコメントを「罪と生の肯定」という言葉に
触発されて書きました。
いかなる罪も肯定せねばならぬ。どんな生であれ、生を肯定
するしかない。どんな極悪な罪業も恐れるひつようはない。
この夜空にきらめく星星をぼくらの人生における数々の悪事や罪業や後悔だとしよう。そんなものは、朝になれば太陽がのぼり、すべて跡形もなく消え失せるのだ。 そんな独り善がりな妄想の自己満足にふけられたら
殺人事件で殺された者の遺族にはたまらんわな
なんの意味もないし >>656
> そんな独り善がりな妄想の自己満足にふけられたら
> 殺人事件で殺された者の遺族にはたまらんわな
>
> なんの意味もないし
----------------------------------
模範解答で、たてまえで、空理空論と思っているんだろうw?宗教・信仰の世界ってのはナ
そんな甘いモンじゃねーんだよww
殺人事件で殺された者の遺族にはナ、ちゃ〜んとつぎの教えが用意されてるんでい! >>655
>この夜空にきらめく星星をぼくらの人生における数々の悪事や罪業や後悔だとしよう。そんなものは、朝になれば太陽がのぼり、すべて跡形もなく消え失せるのだ。
ポジティブな考えだね
そして大局的に物事をとらえる人は、個のイワン的というより全体のゾシマ的な考えに近いのだろう、と思う
なんてふとレス読んでいて思った (H) 人は同胞の審判者たり得るか?
最後までの信仰
(引用のつづき)
こうすれば犯人は法廷を去った後、おまえの審判
よりさらに苛烈に、自分で自身をさばくであろう。
もし犯人が審判官の接吻にたいしてなんらの感動
をも覚えず、かえってこれを嘲笑しながら立ち去
ろうとも、決して迷いを起こしてはならぬ。
これはつまるところ、まだ彼の時が来ないのであ
って、来るべき時には必ず来るにちがいない。
(これは裁判官というより、ひとと接するときの振る舞い方と捉えるべきです)
また来ないとしても同じことである。もし彼が悟
らなければ、そのかわりにほかの者が悟って苦し
むだろう。そうして、自分で自分を責めるに相違
ない。すると真理は満たされることになるのであ
る。人はこれを信じなければならぬ、必ず信じな
ければならぬ。この中に古聖の希望も信仰も、こ
とごとく蔵せられているからである。
(大切なのは「真理が満たされることです」すべては
「信じる」こと。これだけ。) たゆみなく働くがよい。夜眠りについたとき、『自分はなすべきことを果たさなかった』と思いいたったなら、すぐさま起きだしてそれをはたさねばならぬ。
また自分の周囲の人たちがことごとく、意地悪い冷酷な人間であって、自分の言葉に耳を傾けてくれなかったら、彼らの前に倒れてゆるしをこうがよい。
なぜなれば、自分の言葉に耳を傾けさせ得なかったのは、事実、自分に罪があるからである。
-----------------------------------
この断章で最初にゾシマ自身が
>これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが
と断り書きを入れているだろう? 現代日本の一般人であり、無信仰のきみらには
そう見えるよ、と最初に説明してる。
ここに書いてある思想は、宗教・信仰共同体という強固なフレームワークがあって
はじめて意味をなすものなんだ。
たとえば犯罪被害にあった人に対して、信仰上の先輩が「良かったじゃないか!
これできみの悪業がひとつ取れたんだ」と言われて「ああ、そうなんだ!」と
信じられる人にとって意味があるんだ。わかりやすく書けないけど。
-------------------------------
罪業にまみれて、バカで、凡人の、自分の発言を『だれが信じますか?』
だれひとり自分の所説を信じないのは、それだけの過去世からの罪業があるからです。
また信じると思って説いていない。 オニオン君が
>そんな独り善がりな妄想の自己満足にふけられたら
>殺人事件で殺された者の遺族にはたまらんわな
>なんの意味もないし
オニオン君にはなんの意味もない、ということなんだ。ゾシマの言う事なら
どんなことでもキチガイみたいになって信じる!という信徒にとってだけ意味があり、そして実際に強烈な力を持つんだ。 >>658
> >この夜空にきらめく星星をぼくらの人生における数々の悪事や罪業や後悔だとしよう。そんなものは、朝になれば太陽がのぼり、すべて跡形もなく消え失せるのだ。
これはぼくの頭から出た言葉ではなく、日蓮大聖人の言葉の
現代的表現です。
そして、来る日も来る日も聖教新聞に書かれているイメージです。また、つねに、お互いをこの信仰で励ましてあってます。
「朝になれば太陽がのぼり」とはすなわち、この南無妙法蓮華経の信心で、という意味です。
仏教とキリスト教で文化的に異なり、しっくりこないでしょうが、ゾシマの教えは、ぼくにとってことごとく『生きてそこにあるがごとく』真実の迫真性で迫ってきます。
(もちろん1%の疑問はあるが。)
ゾシマの教えというのは、哲学的言葉ではなく、民衆を励ますための、古来からの智慧の累積によって、紡ぎ出されたものだから、だと推測します。
ですから、仏教キリスト教という教義的文化的壁を容易につきぬけていくのでしょう。 ぼくが思うに、イヴァンというのは、偉大な男なんだ。
それはなぜかと言うと、キリスト教信仰という当たり前の枠組みに歯向かったからだ。
つまり、しごく当たり前として、多くの人がおちいっている惰性の信仰を拒否して、
さらにもう一歩奥地を目指したんだと思う。だがその方法論はまちがっていた? その敗れ去る姿を読者に見せているんだ。
それにたいしアレクセイは、いまは一見、ひ弱な育ちのいい青年に過ぎぬが、じつは偉大な罪人の
生涯として作者により企図されたものの、思春期であった。 キチガイみたいというが、実際にキチガイだからね
忌憚なく、例の尊師とその空中浮游を信じ続けなさい
世間は相手にしないから つまり大地の立法の上に神の法を置き、韓国人の反日行為みたいに身内にのみ通じる感傷に従い、俺ルールを押し通すわけだな
されど「皇帝のものは皇帝に返しなさい」ともいうだろう?
死後の世界にいくまでは、シャバの常識に従わないとね!
自分ひとりの頭の中だけで、満足していなさい マルクス、エンゲルス、そしてレーニンが「フォイエルバッハ・テーゼ」や「唯物論と経験批判論」において「唯物論vs観念論」という対立構図を作り出した歴史的意義の大きさを改めて確認した夜であった
愚かな伝道師諸君よりもサタニストな無神論者の方が、宗教がかくあるべきなのか、ずっと真摯に考えているよ まえに、なんとかさんという人が、一日20ページ読む言ってたな。
たぶん挫折しただろう。目標が抽象的で形式的。ほんとうに必要と思ってないもんな。
それとオニオン君は、批判するなら本文にそって書いてくれ。
たとえばゾシマのこの思想はどうなんだ?という具合に。
年末年始で時間がない。お互いに底辺な言い合いにしたくないだろ? >>664
> キチガイみたいというが、実際にキチガイだからね
> 忌憚なく、例の尊師とその空中浮游を信じ続けなさい
>
> 世間は相手にしないから
尊師の話なんか出してどうすんだよw ?ドストエフスキーの文脈で書きなさいよ。 >>665
> 韓国人の反日行為みたいに身内にのみ通じる感傷に従い、俺ルールを押し通すわけだな
ネトウヨ恥ずかしいぞwww たとえからして底辺やなア! みなさん今年も残すところあと数時間ですね
よいお年を迎えられますように! >>666
> 愚かな伝道師諸君よりもサタニストな無神論者の方が、宗教がかくあるべきなのか、ずっと真摯に考えているよ
宗教ってのはさ、考えて理解るもんじゃないよ。イヴァンが、またどんな最高の頭脳だったとしても、 その点はいっしょ。
ここにリンゴというものを食べたことがない人がいたと仮定しよう。アボガドでもいいねw
それがどんな味でどんな食感なのか、言葉で説明しても、ほんとうのところはけっして伝わらない。「食ってみるのがいちばん早い」そうじゃないか?
>>670
> みなさん今年も残すところあと数時間ですね
> よいお年を迎えられますように!
良いお年を!来年こそはカラマーゾフを底の底まで身読しよっか!
今年最後のカキコをつぎの言葉の引用でしめくくりたい。
-------------------------------
若者よ、決して祈祷を忘れてはならぬ。おまえの祈りのたびごとに
(もしその祈りが真心より出たものならば) 、 新しい感情がひらめく
であろう。その感情の中に、これまで知らなかった新しい思想が生
まれてきて、なんじに力を 賦与するであろう。こうしておまえは、
祈祷が教育であることを悟るに相違ない。 ID:FZgUaVsQが下衆な本性を露わにしたようですな
無駄に上から目線の宗教説教家なんて所詮こんなものよのう┐(´〜`)┌ ヤレヤレ 韓国で統一教会が幅を利かせているのにも理由がある
つまりキリスト教は本来的に韓国人的な気質を持っているということだ
"人はシャツを着るように、自分にぴったりな思想を持つ"――F.エンゲルス ID:FZgUaVsQも日本人が憎い在日朝鮮人なのかもしれない
ならばチョッパリを呪い、神に祈るよりも、祖国に帰ってレーダー照射でもしたらいかがかな? スレのみなさん
あけましておめでとう
今年もよろしくお願いします
目標として、マイナーと思って読んでない残りの作品は読みたいなあ
ドストエフスキーは優先で今年は読書する、のを目標にしようと思う キリーロフはサモワールで沸かしたお茶が好きらしいが、私は粉末玄米茶をお勧めする
玄米あられの粉が底に沈殿し、どろっと餅湯のようになって美味しい
これこそ神が何を言っただの言わなかったのなんかより、ずっと大事な真理だ
シェイクスピアより長靴を、ラファエルより石油を、ムッシュ・カルマジーノフに万歳! >>676
> キリーロフはサモワールで沸かしたお茶が好きらしいが、私は粉末玄米茶をお勧めする
> 玄米あられの粉が底に沈殿し、どろっと餅湯のようになって美味しい
> これこそ神が何を言っただの言わなかったのなんかより、ずっと大事な真理だ
>
> シェイクスピアより長靴を、ラファエルより石油を、
いちめん、その通りだよなw
ムッシュ・カルマジーノフに万歳!ちゅーのは、出典は悪霊かなんかか?そうすると、読んでるんだな?
にしても、オニオンはどうしてそんなに宗教不信が強いのかね?
おれの住んでる地方では
無信仰のほうがだんぜん少ないけどな
カラマーゾフを読むと、19世紀当時、伝統的キリスト教への不信と無信仰は、ヨーロッパをはじめ全世界的に進行してたみたいだな
でもこのことを簡単な言葉で表現すると「生活のなかで生きている宗教なのか、否か」ここが分水嶺だと思うんだ
生きていない信仰で宗教なら、不信と嫌悪を抱くのは当然だし。
このことについては、作品中の「不信」の人物たちを引用して、考えてみたい。こんど 不信は死海文書から増え広がったんだよ
学術から電波していった キケロは舌を抜かれ、コペルニクスは目をえぐられ、シェイクスピアは石で打たれる――
これがシガリョフ主義ですよ。奴隷は平等でなけりゃいけない。
専制君主なしにはこれまでに自由も平等もあったためしがないが、ただし家畜の群れの中は平等でなけりゃいけない。 人類家畜化計画と言えばイルミナティーだな
前にも書いたが、ピョートルはイルミナティーなのだよ
帝政ロシアの秘密警察《オフラーナ》は民衆の帝政への不満を逸らすべく、政府ぐるみでユダヤ陰謀論を流布した
後にヒトラーが本気で信じてしまった《シオン賢人議定書》である
なんでもお見通しのニコライ・スタヴローギン曰く、
「ピョートル君、きみは秘密警察の回し者か何かじゃないかね?」 第三課の監視のもとで
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエーフスキー、
よく活動していたよね。
カラマ第2の小説、本当に素晴らしいです!
(-^□^-)♪ 小林秀雄さん、『カラマーゾフの兄弟』評、「凡そ続編という様なものが全く考えられぬ程完璧な作」って遠回しにドストエーフスキーさんの天才なる能力を軽んじてみているのでしょうか。
石川淳さん、『壁』阿部公房さんの『地下生活者の手記』よりの影響をあからさまに指摘かいな……。
太宰治さん、「罪」のアントは「信仰」ですよー。「とんだそらまめだ!」
ε- (´ー`*)♪ 野中宗助w
ダサいコテw
漱石作品から借用とは中学生か高校生か? >>677
私の地元は創価学会がうるさいところだ
選挙の前になると「公明党をよろすく」みたいな電話がたくさんかかってくる 信仰についてのイワン(悪魔)の解釈は面白い
じゃ、信じなけりゃいいよ」ジェントルマンは愛想よく苦笑した。
「強制でどんな信仰が生れるというんだい? おまけに、信仰にはどんな証拠も役に立たないんだ、特に物的証拠なんぞね。トマスが信仰を持ったのは、復活したキリストを見たからじゃなく、それ以前から信仰を持ちたいと願っていたからなんだよ。
たとえば、降神術者だってそうだ……僕はあの連中が大好きでね……だってさ、あの連中は悪魔があの世から角を見せてくれるから、自分たちが信仰にとって役立つ存在だと思っているんだからね。
『これは、あの世が存在することの、いわば物的証拠にほかならない』だとさ。
あの世と物的証拠、やれやれだ! それに結局、悪魔の存在が証明されたからといって、神の存在が証明されたかどうか、まだわからないしね。
僕は観念論者の仲間に加えてもらいたいよ。
連中の中で造反してやるんだ。『俺はリアリストだけど、唯物論者じゃないからね、へ、へ!』と言ってね」 >>685
この悪魔の言葉は
作品冒頭の以下の部分と同じですが、要旨を箇条書き
にしてみます。
1,僧院にはいってからの彼は、すっかり奇跡を信じ
たに相違ない。
2,現実派は決して奇跡のために困惑を感じるもので
ない。
3,奇跡が現実派を信仰に導くのではないからである。
4,けれど、いざ奇跡を許容するとなれば、ごく自然
な事実ではあるが、ただ、今まで知られないでい
た事実としてそれを許容するのである。
5,信仰が奇跡から生まれるのでなくして、信仰から
奇跡が生ずるのである。もしいったん現実派が信仰を
抱いたら、その現実主義そのものによって、必ず奇跡
をも許容せざるを得ないのである。
6,使徒トマスも見ないうちは信じないと誓ったが、
いよいよ見た時には、『わが主よ、わが神よ!』と言
った。これは奇跡が彼を信じさせたのであろうか? お
そらくそうではなかろう、彼はただ信じたいと望ん
だがために信じ得たのであろう。たぶん彼が『見な
いうちは信じない』と言った時、もはや既に自己の
存在の奥底で完全に信じていたのかもしれない。 以前からとくに4,の記述に注目してました。「ごく自然な事実ではあるが、ただ、今まで知られないでいた事実としてそれを許容するのである。」
なぜかというと、ぼく自身が信仰を始めてから実感といっしょだったからです。
そして5,の「信仰から奇跡が生ずる」の一文こそ
エッセンス中のエッセンスだと。
ゾシマとアレクセイの麗しき師弟の世界も、ゾシマと民衆の
信頼と愛も、アレクセイの周囲との交流の見事さも、ひとつの奇跡であり、これ以上の奇跡があるだろうか?
それはすべて「信」の一文字から出生した。
>たとえば、降神術者だってそうだ……
以下について
イヴァンは思弁へと持っていってしまう。「傍観者になってしまう」
信仰の世界において「傍観者」になってしまうのは、良くない。
以下のアリョーシャの青春の誓いを思い出すべきである。
>『不死のために生きたい。中途半端な妥協はとりたくない。』
アリョーシャには以前通りの生活をするのが、奇怪で不可能にすら感じられた。聖書にも、『もし 完からんと欲せば、す
べての 財宝(たから)をわかちて我の後より来たれ』といってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は「すべて」の代わりに二ルーブリ出し、「我の後より来たれ」の代わりに、 祈祷式へだけ顔を出すようなことはできない。』
この思いは、この箇所は、なんどでも反芻して、読み返すべきである。もしこれを忘れるなら、カラマーゾフを読む価値などない。信仰について語る意味もない。 悪霊のステパンの台詞より
「ひとつ現代に起きた論争は、目的の置換、美学の置換であります。
いっさいの論点はただ一つ、シェイクスピアか長靴か、ラファエルか石油か、そのどちらがいっそう美しいかにあります」
(中略)
「しかし私は敢えて言う。シェイクスピアとラファエルは、
(カルマジーノフ=ツルゲーネフたちデカブリストが成し遂げた)ロシア奴隷解放令よりも高尚である。
民族の魂や社会主義、化学、日々のパン、いや全人類よりも高尚である」
(中略)
「美学が無ければ、人類は存在しえないのだぞ」
おそらくツルゲーネフの盟友だったディミトリー・ピーサレフの『美学の破壊』『考えるリアリスト』に対する反駁だね ドストは詩人のジュコーフスキーを尊敬していたらしいけど、自身はたいした詩を残していないよね ドストエフスキーで詩という詩は聞かないね
シラーなんかも愛読していたようだけど戯曲とかも聞かない
だけど、白夜の冒頭は詩的と言って問題ないよ
ドストエフスキーと言われなければ、違う作家を連想しそうになるくらいに
素晴らしい夜であった。
それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。
空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどである──いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのだろうか?
これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように希望する!
(白夜ー冒頭ー米川訳) ピーサレフの「これからの時代は、実用主義的な考え方に移行しなければならない、
シェイクスピアより長靴の方が世の役に立っている」みたいな有名な言葉がある
文化的にも産業的にも、当時のロシアはヨーロッパ諸国に後れを取り、
戦争ではイギリスとの小競り合いなんかでは連戦連敗だった
したがって明治維新で侍が帯刀や丁髷を廃したように、
まずは考え方から近代化する必要に迫られていたのだ >>693
> 素晴らしい夜であった。
> それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。
> 空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどである──いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのだろうか?
> これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように希望する!
> (白夜ー冒頭ー米川訳)
ぼくがハタチごろに暗唱した、世にも美しい冒頭部分です。この冒頭以外はおぼえていません。
そして、うん十年ぶりに、当時のままの米川訳で見せてもらえて嬉しいです。 長老について。
1. 長老とか長老制度とかがわが国の僧院に現われたのはごく最近のことで、まだ百年もたっていない。
2. ごくわずかな僧院にしか置かれていない
3. しかるにこの人が老衰と病気のため、ほとんど死になんなんとしているにもかかわらず、誰を後継者としたらいいかわからなかった。
4. この僧院が隆盛をきたして、ロシア全国に名を響かしたのは、取りも直さずこの長老のお陰であった。彼らを見たり聞いたりするために、ロシア全土から多くの巡礼者が、千里を遠しとせず、群をなしてこの町へ集まって来るのであった 5. ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と意志に同化させるものである。
6. 人はいったんある長老を選び出したら、全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長老に自分の意志を捧げるのである。
7. 願かけをした人は長い苦行ののち自己を征服し、かつ制御する日が来るのを楽しんで、こうした試練、こうした恐ろしい『人生の学校』を、自ら進んで双肩にになうのである。
8. この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、すなわち自分自身にたいする自由に到達する。
9. そして一生涯のあいだ自己を発見することのできない人々と、運命をともにするのを避けることができるのである >>697
> 5. ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と意志に同化させるものである。
米川訳で「霊魂と意志」となっているが、これは一体なんぞ? >>697
> 6. 人はいったんある長老を選び出したら、全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長老に自分の意志を捧げるのである。
長老を選んだのは、ほかならぬ自分である。「絶対の服従」
は、給料をもらうためではなく、暴力をふるわれるからでもない。
7にあるとおり、「大願」をかけているのである。
それは
「長い苦行ののち自己を征服し、かつ制御する日が来るの」が楽しみで仕方がないのである。
そうであるから「長い苦行」それ自体も楽しいのである。
修行者はイメージとして『人生の学校』と捉えている。 >>697
> 8. この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、すなわち自分自身にたいする自由に到達する。
「長い苦行」をへて、あるときとつぜん「充実した生活と完全な自由」に到達するのではないとおもう。
もうすでに、いちばん最初に、長老につかえたときから
「充実した生活と、自分自身にたいする自由」の萌芽ともいうべきものを、希望を、この生命で実感するのだろう。
であるからこそ、「長い苦行」にも容易に耐えうるのであろう。 >>698
単純に「精神的な」みたいな比喩として考えたよ
正教会における長老は修道院での精神的指導者、というのが簡単な定義として言えるんではなかろうか 自分自身から自由になる最も手っ取り早い方法は首を吊ることだな
苦しい修行の末に涅槃に至るとは時間の無駄である >>702
> 自分自身から自由になる最も手っ取り早い方法は首を吊ることだな
> 苦しい修行の末に涅槃に至るとは時間の無駄である
オニオン自身は首を吊りたくないだろう?
言葉というのは、単に言葉ではない。その考えはきみの奥深くから出てきたものだ。
皮肉を書こうとして、無意識的に選択された「首吊り」という言葉。いいか?それはきみの
宿業なんだ! このままだと、おまえはほんとうに首をくくることになるぞ!!
学会員さんに選挙たのまれたとおりに投票してきなさい。ドストエフスキーの名において、おれを信じろ。 ↑日蓮大聖人とか書いてたから怪しいと見ていたが、やはり創価学会の工作員だったか……
宗教家はやべえ、まるで話が通じねえぞってのが良く分かる例として覚えておこう 仏教はよく分からない、というよりほとんど無知と言っていいくらいだけど、日蓮宗というと思い浮かべるのは宮沢賢治だね
ひかりの素足とかよだかの星なんかはとてもいいよ
日本人作家で数少ない読む著者が宮沢賢治だなあ
夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。
一疋ぴきの甲虫かぶとむしが、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑のみこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。
雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐おそろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。
泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。
僕はもう虫をたべないで餓うえて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。) 私は仏教といえば手塚治の漫画『ブッダ』かな
小学生の頃に、先生が教室の後ろにもちこんでいて、
読書の時間に小説の代わりに読んでよいということになっていたのでよく読んでいたよ
だから釈迦の伝記や逸話は嫌いではない
それは現実的な話であり、日本の宗教にありがちな空虚な妄想ではないのでね
↓( ´,_ゝ`)プッ
あなたの、あしたを、あたらしく――創価学会 だいたい、釈迦ほんにんの教えとしての考古学的文献と関係のない、
ただの思い付きを混ぜて釈迦の教えとして布教するのは如何なものか?
それはDNA的に天皇家の血をひいていない自称天皇の親戚のようなものだ
新興宗教の教祖が唯心論的にそう信じているだけであれば、それは詐欺に過ぎない
池田大作教では誰も相手にしないから、仏教だとか何とか聖人の名を利用しているのだ
名前や権威ではなく、中身で勝負しろ! (ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。
僕はもう虫をたべないで餓うえて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
全体を読んでいないが。
醜いと軽蔑され、鷹に脅され、自分の善意の行為さえわらわれ、そうした瞬間に、とつぜん彼は気づいた。
それまで何気なくすごしてきた、むしを食べるというあたり前のことさえも。
ちょうど、ゾシマ兄の
------------------------
「神の小鳥、喜びの小鳥、 どうぞわたしを許してくれ。
わたしはお前らにも罪をおかしているのだ」
「ああ、わたしの周囲には、こうした神の栄光が満ちみちていたのだ。
小鳥、木々、草場、青空、――それだのに、わたしひとりだけは汚辱の中に住んで、
すべてのものをけがしていた。
そして、美にも栄光にもまるで気がつかないでいたのだ」
------------------------
この気づきと同じではないか。
わたしたちは、死に近づいたときしか、このことに気づけないのか。
夜だかのように、ゾシマ兄のように、わたしたちは、おごりたかぶった気持ちを捨てて、一切衆生がすべて平等に幸せになれと、その過去からの誓いを思い出していこう。
そして死に打ち勝っていこう。
しかしまた
たとえ死の前に倒れ果てたとしても、夜だかのごとく、
ゾシマ兄のごとく、星となり太陽とならん。さすれば
醜き、軽蔑されおる自分の姿のままに、後世のものたちより
仰ぎ見られる存在となるべし。 >>690
> いっさいの論点はただ一つ、シェイクスピアか長靴か、ラファエルか石油か、そのどちらがいっそう美しいかにあります」
> (中略)
> 「しかし私は敢えて言う。シェイクスピアとラファエルは、
> (カルマジーノフ=ツルゲーネフたちデカブリストが成し遂げた)ロシア奴隷解放令よりも高尚である。
> 民族の魂や社会主義、化学、日々のパン、いや全人類よりも高尚である」
-------------------------
これに対する答えはいとも常識的なものです。
シェイクスピアも長靴も、どちらも大事。ラファエルも石油も、どちらも美しい。
シェイクスピアとラファエルと、ロシア奴隷解放令はどちらも高尚。 >>701
>ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と意志に同化させるものである。
>米川訳で「霊魂と意志」となっているが、これは一体なんぞ?
------------------------
ロシヤ語原文にあたるべきだが、あえてあたらない。この場合、部分的な文文句句の注釈が大事なのではなく、全体観に立つべきこと。
「感情と意志」ではなく「霊魂と意志」
「知性と意志」ではなく「霊魂と意志」
ぼくの解釈は、
長老が(主体)修行者(客体)と、あるいは修行者(主体)が長老(客体)と同化させるものは、
おのれの感情でも知性でもなく「霊魂」である。これを僕らの宗派では「生命」と呼んでいる。
「生命」の一側面が、感情であり、知性であるが、とりわけていまの場合「意志」が大切なのであろう。
「生命」は永遠であり、過去現在未来の三世をつらぬく。
また「生命」は、親から産み落とされた この肉体をもふくむ概念です。つまり肉体的な側面においても、長老と同化していくのはとうぜんです。
したがって以下のレスは
> 単純に「精神的な」みたいな比喩として考えたよ
> 正教会における長老は修道院での精神的指導者、というのが簡単な定義として言えるんではなかろうか
重要な読み落としがあると断じます。心とカラダの二元論
は浅薄な現代においてしか通用しない感覚だからです。
あなたという対話相手がいなければ、ぼくも考えを深めていくことができない。感謝しています。 岩波文庫の米川訳『悪霊』『未成年』重版しないかな
品切れ状態が長すぎる 『虐げられた人々』はトルストイの『アンナ・カレーニナ』に近いのかな、レーニンの読解の意味で >>711
書かれて知るに至る、とはこの事だね
言われるまで深く考えていなかったようだ
たしかに正教は、霊・魂・体と人間の構成を三分して、テオーシス(神化・合一)なんかもあって(あまり詳しくはないけど)、二元論では説明できない所がある
言われたように読み落としがあるようだね
もう一度読み返さなければ 悪霊再読は疲れそうw
と言っても、疲れないの何てないけどねw
でも、やっぱり読み返すなら五大長編のどれかだろうなぁ 「悪霊」の序盤に語られる社会情勢が少し前の日本みたいなところは面白い
「世の中が良くないのは、実力主義ではない、出る杭は打たれるクソみたいな社会だからだ」とか、テレビタックルで老害芸能人がうだうだ議論してるような内容を当時のロシアの人々が愚直ってたとか、
みんな自分の卑劣な行いを棚に上げておきながら「恥を知れ」と他人を些細なことで執拗に責め立てること、
そして人権派みたいな人たちの声が大きくて、声の大きい厄介な人たちに逆らえない空気があったり、現代とそんなに変わらなくて笑えるよ 長編と言えば、「白痴」はつまらなかった
文学的には他より評価が高いらしいが、話の核である「アホな公爵がみんなに好かれる」において説得力のある理由や描写が無い
本当に魅力がなく、何もしてないのに何故か好かれて大事にされるのは気持ち悪い
同じような小説としてだと、やはりドンキホーテを読んだ方が良い 「罪と罰」はまあまあ。私はそんなに面白いとは思わないが、エンタメ小説としては一番完成していると思う
マルメラードフが奥さんに罵られながら死ぬところと、ロージャが自首するシーンの描写には迫力がある
しかしナポレオンがどうとか思想に関する話はいまいちだったな
ヘーゲルの有名な言葉にそうとしても、精神論だけではナポレオンのように現実を動かすことは絶対にできないわけだからね
マルクスは「フランスの内乱」だったかにおいて、ナポレオンその人の天才性ではなく、その周囲を取り巻く情勢や背景を分析してナポレオン体制(帝国主義)を分析せよと書いていたが、正にその通りだ 「エンタメ小説としては一番完成していると思う 」のに
「私はそんなに面白いとは思わない」ってw
バカは黙っていろよ!
ウザいんだマヌケ! >>720
罪と罰を愛してるんだな。だから怒るんだよな >>718
> 長編と言えば、「白痴」はつまらなかった
つまらないと言いつつ、これほど読んでいることがすばらしい。
>「アホな公爵がみんなに好かれる」において説得力のある理由や描写が無い
> 本当に魅力がなく、何もしてないのに何故か好かれて大事にされるのは気持ち悪い
言わんとすることはわかる。ただおれは、ひじょうな説得力を感じた。具体的なテキストを引用しつつ示したいところだが準備できてない。オニオンも もし可能ならそうすべきだ。
前にも君に対してだったか「マリーと子どもたち」との物語、「死刑について」など、最初はアホ扱いしてたお嬢さんたちが、彼の魅力にどんどん引き込まれていく姿が詩的な筆致で描かれている。
公爵はアリョーシャと同じく菩薩としかいえない振る舞いをなす人間だからだ。そのあまりに普通人と隔絶した姿を
なんと表現していいかわからないから「アホ」と呼ばれているにすぎない。
> 同じような小説としてだと、やはりドンキホーテを読んだ方が良い
ドンキホーテは世界的名作だが、おれの愛読書とはならなかった。書籍と自分との出会い方というものもあるのかもね。
まさに、オニオンはドンキホーテである。
概括的にドストエフスキーの諸作品に論評を加え、敵意を受ける。しかし、それは尊いことだ。ドンキホーテとは勇気の異名なり。男だったら勇気を出すしかない。いかなる場面でも。恥をかく、それも大恥をかく人間になれ。
やはり前にこのスレで、ひじょうに教養深きひとが、
「ゾシマの遺体が腐臭を放った」というカラマーゾフの核心的一場面があるが、それについての解釈でこのおれに悪罵された。
『そんなものは、ドストエフスキーの言いたかったことと真逆である!』と。
しかしおそらく、その人の「言いたかったこと」と、おれの考えは、ほんとうは究極的には「同じものである」
その人の教養の背景と、ぼくの背景の違いから、表面上の
字面のちがいが生まれるだけだと思う。 ドストエフスキーはドンキホーテに大きく影響を受けてることも知らないのであろう
だから諸君は私の深淵なる講義も理解しえぬのだよ
まったく、教養のない方々は惨めよのう 思考停止した権威主義者でなければ、面白いかどうかは読んでみるまで分からない
読まずに感動した者、ページはめくったが意味がよく分からなかった者に比べれば、
ちゃんと最後まで読んで解説も読んでからつまらなかったと結論する方が誠実である
君たちは読む前から全てに同意しているが、「どうして?」と聞かれれば自分の言葉では答えられまい さて、たまにはフョードルの言葉を
特に女の事となればフョードルでしょう
こういうオヤジもなんか憧れますねw
わしの原則によるとな、どんな女の中にも、けっして他の男には見つからんような、すこぶる、そのおもしろいところが見つけ出せる――だが、自分で見つけ出す眼がなくてはならん、そこが肝心だ!
何よりも手腕だよ!
わしにとってはぶきりょうな女というものがないのだ、女であることが、もう興味の半ばをなしておるのだよ、いや、こんなことはおまえたちにわかるはずがないて! 私そのものが至言であり、皆とは才知が天と地ほども違うことは既に諸君も察していると思う
しかし残念なのは、滅多に引用して議論を進められないことである
電子版をコピペするのと本から書き写すのでは、労力の差が大きい ドストエフスキーが一番影響受けてるのはバルザックだろ 一 ゾシマ長老とその客
アリョーシャは胸の不安と痛みを抱きつつ、長老の
庵室へ入った時、驚きのためにほとんどそのまま入
口で立ちすくんだ。
(アレクセイはもうすべてが最悪の方向へいくこと
を覚悟していた。民衆から偉大な救世主と目される
長老、そして自分の感情と魂を支配し、自分のいっ
さいの勇気の源泉である師匠の肉体が、生命の必然
性により、死にゆき壊れゆくことを。その時がきた
とき、自分はどう振る舞うのか?どうこれからの人
生を行きてゆくのか?なんの目途もつかないのであ
った... と想像する) もう意識を失って死になんなんとしているに相違な
いと恐れ危んでいた長老が、思いもよらずひじかけ
いすに腰かけているではないか、病苦のために衰え
はててはいながらも、やはり元気のいい愉快そうな
顔をして、まわりを取り囲む客人達を相手に、静か
な明るい談話を交換しているところであった。
(長老が「病苦のために衰えはてて」いるのに「元
気のいい愉快そうな顔をして、まわりを取り囲む客
人達を相手に、静かな明るい談話を交換している」
のは、なぜか?
ひとつの答えとして、周囲の者が長老を信じる以上
に、むしろゾシマこそ周囲のものを信じているので
はないか。人間の共通の運命である、老苦と死を、
老若の早い遅いのちがいはあっても、皆で支え合っ
て乗り越えてゆこうとする、そういう精神の共同体
を、長老は構築してきたといえまいか。) とはいえ、彼が床を起き出したのは、アリョーシャ
の帰って来るようやく十五分前のことであった。客
人たちはすでにその前から庵室へ集まって、長老が
目をさますのを待っていた。それはパイーシイ主教
が、『長老はいま一度、ご自分の心に親しい人たち
と物語をするために、必ずお目ざめになるにちがい
ない。ご自分でも今朝がたそう言って約束なされま
した』と固く予言したからである。
パイーシイ主教はこの約束を、この世を去らんとし
ている長老のすべての言葉と同様に、どこまでも信
じて疑わなかったので、たとえ長老の意識ばかりか
、呼吸まで止まってしまったのを自分の眼で見ても、
もう一度目をさまして別れを告げるという約束を聞
いた以上、彼は死そのものさえ信じようとせず、死
にゆく人がわれに返って約束をはたすのを、いつま
ででも待っているに相違ない。 じっさい、今朝ほど長老ゾシマは、眠りに落ちるまえ
彼に向かって、『わしの心に親しいあなたがたと、も
う一度得心のゆくだけお話をして、あなたがたのなつ
かしい顔をながめ、もう一度わしの心をすっかり広げ
てお目にかけぬうちは、決して死にはしませんじゃ。
』とはっきりした調子で言ったのである。
------------------------
パイーシイ主教がこの約束を、どこまでも信じて疑わ
なかったのは、なぜでしょうか?
それは長老が過去において「すべての約束を果たした
こと」
長老の言葉は「すべて真実、かついっさいが現実とな
った」ことを痛いほど体験してきたからです。 おそらくは最後のものと思われるこの長老の談話を聞きに集まっ
たものは、ずっと昔から彼に信服しきっている僧侶である。その数
は四人あった。ヨシフ、パイーシイ両主教のほか、ひとりはミハイル
主教という、まださほど年をとっていない庵室ぜんたいの取締役で、
たいして学問があるわけでもなく、いやしい身分の出であるが、 毅
然たる精神を持って、朴直で不抜の信仰をいだいており、見かけは
気むずかしそうな顔をしているが、心の中では深い法悦に浸ってい
る人である。もっとも、彼は少女のような羞恥をもってその法悦を
隠していた。四人目の客は貧しい農夫の階級から出た、アンフィーム
という小作りな 平の老僧で、ほとんど文盲といっていいくらいであった。
静かな寡黙の性質で、ろくろく人と口をきくこともないが、謙抑な
人たち達の中でもとくに謙抑な人物で、何かとうてい自分の知恵に
およばないほど偉大な恐ろしいもののために、永久におびやかされ
ているような様子をしていた。長老ゾシマは、常にふるえおののい
ているようなこの老僧を非常に寵愛して、一生のあいだ、なみなみ
ならぬ尊敬をもって彼にたいした。もっとも、ほかのだれにたいす
るよりも、この老僧にたいしては口をきくことが少かった。そのく
せ、以前は長年の間この老僧とともに、聖なるロシア全土の遍歴を
したこともあるのだ。 ゾシマがもっとも信頼し愛したのは、こういったような人たちであった。
ゾシマがアレクセイを愛したのは、その精神を愛したのであったとおもわれる。 もう一度確認します。
民衆から偉大な救世主と目される長老が、もっとも信頼し
たのは、学問があるものでなく、高い身分の出のものでも
なく、雄弁なものでもない。
朴直で不抜の信仰をいだく者たちです。 >>729
バルザックはドストエフスキーの雰囲気が垣間見える
もちろんドストエフスキーがバルザックに似せたのだろうけどね
それにしても、バルザックは作品が多過ぎて読みきれないよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています