ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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信仰についてのイワン(悪魔)の解釈は面白い
じゃ、信じなけりゃいいよ」ジェントルマンは愛想よく苦笑した。
「強制でどんな信仰が生れるというんだい? おまけに、信仰にはどんな証拠も役に立たないんだ、特に物的証拠なんぞね。トマスが信仰を持ったのは、復活したキリストを見たからじゃなく、それ以前から信仰を持ちたいと願っていたからなんだよ。
たとえば、降神術者だってそうだ……僕はあの連中が大好きでね……だってさ、あの連中は悪魔があの世から角を見せてくれるから、自分たちが信仰にとって役立つ存在だと思っているんだからね。
『これは、あの世が存在することの、いわば物的証拠にほかならない』だとさ。
あの世と物的証拠、やれやれだ! それに結局、悪魔の存在が証明されたからといって、神の存在が証明されたかどうか、まだわからないしね。
僕は観念論者の仲間に加えてもらいたいよ。
連中の中で造反してやるんだ。『俺はリアリストだけど、唯物論者じゃないからね、へ、へ!』と言ってね」 >>685
この悪魔の言葉は
作品冒頭の以下の部分と同じですが、要旨を箇条書き
にしてみます。
1,僧院にはいってからの彼は、すっかり奇跡を信じ
たに相違ない。
2,現実派は決して奇跡のために困惑を感じるもので
ない。
3,奇跡が現実派を信仰に導くのではないからである。
4,けれど、いざ奇跡を許容するとなれば、ごく自然
な事実ではあるが、ただ、今まで知られないでい
た事実としてそれを許容するのである。
5,信仰が奇跡から生まれるのでなくして、信仰から
奇跡が生ずるのである。もしいったん現実派が信仰を
抱いたら、その現実主義そのものによって、必ず奇跡
をも許容せざるを得ないのである。
6,使徒トマスも見ないうちは信じないと誓ったが、
いよいよ見た時には、『わが主よ、わが神よ!』と言
った。これは奇跡が彼を信じさせたのであろうか? お
そらくそうではなかろう、彼はただ信じたいと望ん
だがために信じ得たのであろう。たぶん彼が『見な
いうちは信じない』と言った時、もはや既に自己の
存在の奥底で完全に信じていたのかもしれない。 以前からとくに4,の記述に注目してました。「ごく自然な事実ではあるが、ただ、今まで知られないでいた事実としてそれを許容するのである。」
なぜかというと、ぼく自身が信仰を始めてから実感といっしょだったからです。
そして5,の「信仰から奇跡が生ずる」の一文こそ
エッセンス中のエッセンスだと。
ゾシマとアレクセイの麗しき師弟の世界も、ゾシマと民衆の
信頼と愛も、アレクセイの周囲との交流の見事さも、ひとつの奇跡であり、これ以上の奇跡があるだろうか?
それはすべて「信」の一文字から出生した。
>たとえば、降神術者だってそうだ……
以下について
イヴァンは思弁へと持っていってしまう。「傍観者になってしまう」
信仰の世界において「傍観者」になってしまうのは、良くない。
以下のアリョーシャの青春の誓いを思い出すべきである。
>『不死のために生きたい。中途半端な妥協はとりたくない。』
アリョーシャには以前通りの生活をするのが、奇怪で不可能にすら感じられた。聖書にも、『もし 完からんと欲せば、す
べての 財宝(たから)をわかちて我の後より来たれ』といってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は「すべて」の代わりに二ルーブリ出し、「我の後より来たれ」の代わりに、 祈祷式へだけ顔を出すようなことはできない。』
この思いは、この箇所は、なんどでも反芻して、読み返すべきである。もしこれを忘れるなら、カラマーゾフを読む価値などない。信仰について語る意味もない。 悪霊のステパンの台詞より
「ひとつ現代に起きた論争は、目的の置換、美学の置換であります。
いっさいの論点はただ一つ、シェイクスピアか長靴か、ラファエルか石油か、そのどちらがいっそう美しいかにあります」
(中略)
「しかし私は敢えて言う。シェイクスピアとラファエルは、
(カルマジーノフ=ツルゲーネフたちデカブリストが成し遂げた)ロシア奴隷解放令よりも高尚である。
民族の魂や社会主義、化学、日々のパン、いや全人類よりも高尚である」
(中略)
「美学が無ければ、人類は存在しえないのだぞ」
おそらくツルゲーネフの盟友だったディミトリー・ピーサレフの『美学の破壊』『考えるリアリスト』に対する反駁だね ドストは詩人のジュコーフスキーを尊敬していたらしいけど、自身はたいした詩を残していないよね ドストエフスキーで詩という詩は聞かないね
シラーなんかも愛読していたようだけど戯曲とかも聞かない
だけど、白夜の冒頭は詩的と言って問題ないよ
ドストエフスキーと言われなければ、違う作家を連想しそうになるくらいに
素晴らしい夜であった。
それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。
空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどである──いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのだろうか?
これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように希望する!
(白夜ー冒頭ー米川訳) ピーサレフの「これからの時代は、実用主義的な考え方に移行しなければならない、
シェイクスピアより長靴の方が世の役に立っている」みたいな有名な言葉がある
文化的にも産業的にも、当時のロシアはヨーロッパ諸国に後れを取り、
戦争ではイギリスとの小競り合いなんかでは連戦連敗だった
したがって明治維新で侍が帯刀や丁髷を廃したように、
まずは考え方から近代化する必要に迫られていたのだ >>693
> 素晴らしい夜であった。
> それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。
> 空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどである──いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのだろうか?
> これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように希望する!
> (白夜ー冒頭ー米川訳)
ぼくがハタチごろに暗唱した、世にも美しい冒頭部分です。この冒頭以外はおぼえていません。
そして、うん十年ぶりに、当時のままの米川訳で見せてもらえて嬉しいです。 長老について。
1. 長老とか長老制度とかがわが国の僧院に現われたのはごく最近のことで、まだ百年もたっていない。
2. ごくわずかな僧院にしか置かれていない
3. しかるにこの人が老衰と病気のため、ほとんど死になんなんとしているにもかかわらず、誰を後継者としたらいいかわからなかった。
4. この僧院が隆盛をきたして、ロシア全国に名を響かしたのは、取りも直さずこの長老のお陰であった。彼らを見たり聞いたりするために、ロシア全土から多くの巡礼者が、千里を遠しとせず、群をなしてこの町へ集まって来るのであった 5. ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と意志に同化させるものである。
6. 人はいったんある長老を選び出したら、全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長老に自分の意志を捧げるのである。
7. 願かけをした人は長い苦行ののち自己を征服し、かつ制御する日が来るのを楽しんで、こうした試練、こうした恐ろしい『人生の学校』を、自ら進んで双肩にになうのである。
8. この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、すなわち自分自身にたいする自由に到達する。
9. そして一生涯のあいだ自己を発見することのできない人々と、運命をともにするのを避けることができるのである >>697
> 5. ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と意志に同化させるものである。
米川訳で「霊魂と意志」となっているが、これは一体なんぞ? >>697
> 6. 人はいったんある長老を選び出したら、全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長老に自分の意志を捧げるのである。
長老を選んだのは、ほかならぬ自分である。「絶対の服従」
は、給料をもらうためではなく、暴力をふるわれるからでもない。
7にあるとおり、「大願」をかけているのである。
それは
「長い苦行ののち自己を征服し、かつ制御する日が来るの」が楽しみで仕方がないのである。
そうであるから「長い苦行」それ自体も楽しいのである。
修行者はイメージとして『人生の学校』と捉えている。 >>697
> 8. この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、すなわち自分自身にたいする自由に到達する。
「長い苦行」をへて、あるときとつぜん「充実した生活と完全な自由」に到達するのではないとおもう。
もうすでに、いちばん最初に、長老につかえたときから
「充実した生活と、自分自身にたいする自由」の萌芽ともいうべきものを、希望を、この生命で実感するのだろう。
であるからこそ、「長い苦行」にも容易に耐えうるのであろう。 >>698
単純に「精神的な」みたいな比喩として考えたよ
正教会における長老は修道院での精神的指導者、というのが簡単な定義として言えるんではなかろうか 自分自身から自由になる最も手っ取り早い方法は首を吊ることだな
苦しい修行の末に涅槃に至るとは時間の無駄である >>702
> 自分自身から自由になる最も手っ取り早い方法は首を吊ることだな
> 苦しい修行の末に涅槃に至るとは時間の無駄である
オニオン自身は首を吊りたくないだろう?
言葉というのは、単に言葉ではない。その考えはきみの奥深くから出てきたものだ。
皮肉を書こうとして、無意識的に選択された「首吊り」という言葉。いいか?それはきみの
宿業なんだ! このままだと、おまえはほんとうに首をくくることになるぞ!!
学会員さんに選挙たのまれたとおりに投票してきなさい。ドストエフスキーの名において、おれを信じろ。 ↑日蓮大聖人とか書いてたから怪しいと見ていたが、やはり創価学会の工作員だったか……
宗教家はやべえ、まるで話が通じねえぞってのが良く分かる例として覚えておこう 仏教はよく分からない、というよりほとんど無知と言っていいくらいだけど、日蓮宗というと思い浮かべるのは宮沢賢治だね
ひかりの素足とかよだかの星なんかはとてもいいよ
日本人作家で数少ない読む著者が宮沢賢治だなあ
夜だかが思い切って飛ぶときは、そらがまるで二つに切れたように思われます。
一疋ぴきの甲虫かぶとむしが、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑のみこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。
雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐おそろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。
泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。
僕はもう虫をたべないで餓うえて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。) 私は仏教といえば手塚治の漫画『ブッダ』かな
小学生の頃に、先生が教室の後ろにもちこんでいて、
読書の時間に小説の代わりに読んでよいということになっていたのでよく読んでいたよ
だから釈迦の伝記や逸話は嫌いではない
それは現実的な話であり、日本の宗教にありがちな空虚な妄想ではないのでね
↓( ´,_ゝ`)プッ
あなたの、あしたを、あたらしく――創価学会 だいたい、釈迦ほんにんの教えとしての考古学的文献と関係のない、
ただの思い付きを混ぜて釈迦の教えとして布教するのは如何なものか?
それはDNA的に天皇家の血をひいていない自称天皇の親戚のようなものだ
新興宗教の教祖が唯心論的にそう信じているだけであれば、それは詐欺に過ぎない
池田大作教では誰も相手にしないから、仏教だとか何とか聖人の名を利用しているのだ
名前や権威ではなく、中身で勝負しろ! (ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。
僕はもう虫をたべないで餓うえて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)
全体を読んでいないが。
醜いと軽蔑され、鷹に脅され、自分の善意の行為さえわらわれ、そうした瞬間に、とつぜん彼は気づいた。
それまで何気なくすごしてきた、むしを食べるというあたり前のことさえも。
ちょうど、ゾシマ兄の
------------------------
「神の小鳥、喜びの小鳥、 どうぞわたしを許してくれ。
わたしはお前らにも罪をおかしているのだ」
「ああ、わたしの周囲には、こうした神の栄光が満ちみちていたのだ。
小鳥、木々、草場、青空、――それだのに、わたしひとりだけは汚辱の中に住んで、
すべてのものをけがしていた。
そして、美にも栄光にもまるで気がつかないでいたのだ」
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この気づきと同じではないか。
わたしたちは、死に近づいたときしか、このことに気づけないのか。
夜だかのように、ゾシマ兄のように、わたしたちは、おごりたかぶった気持ちを捨てて、一切衆生がすべて平等に幸せになれと、その過去からの誓いを思い出していこう。
そして死に打ち勝っていこう。
しかしまた
たとえ死の前に倒れ果てたとしても、夜だかのごとく、
ゾシマ兄のごとく、星となり太陽とならん。さすれば
醜き、軽蔑されおる自分の姿のままに、後世のものたちより
仰ぎ見られる存在となるべし。 >>690
> いっさいの論点はただ一つ、シェイクスピアか長靴か、ラファエルか石油か、そのどちらがいっそう美しいかにあります」
> (中略)
> 「しかし私は敢えて言う。シェイクスピアとラファエルは、
> (カルマジーノフ=ツルゲーネフたちデカブリストが成し遂げた)ロシア奴隷解放令よりも高尚である。
> 民族の魂や社会主義、化学、日々のパン、いや全人類よりも高尚である」
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これに対する答えはいとも常識的なものです。
シェイクスピアも長靴も、どちらも大事。ラファエルも石油も、どちらも美しい。
シェイクスピアとラファエルと、ロシア奴隷解放令はどちらも高尚。 >>701
>ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と意志に同化させるものである。
>米川訳で「霊魂と意志」となっているが、これは一体なんぞ?
------------------------
ロシヤ語原文にあたるべきだが、あえてあたらない。この場合、部分的な文文句句の注釈が大事なのではなく、全体観に立つべきこと。
「感情と意志」ではなく「霊魂と意志」
「知性と意志」ではなく「霊魂と意志」
ぼくの解釈は、
長老が(主体)修行者(客体)と、あるいは修行者(主体)が長老(客体)と同化させるものは、
おのれの感情でも知性でもなく「霊魂」である。これを僕らの宗派では「生命」と呼んでいる。
「生命」の一側面が、感情であり、知性であるが、とりわけていまの場合「意志」が大切なのであろう。
「生命」は永遠であり、過去現在未来の三世をつらぬく。
また「生命」は、親から産み落とされた この肉体をもふくむ概念です。つまり肉体的な側面においても、長老と同化していくのはとうぜんです。
したがって以下のレスは
> 単純に「精神的な」みたいな比喩として考えたよ
> 正教会における長老は修道院での精神的指導者、というのが簡単な定義として言えるんではなかろうか
重要な読み落としがあると断じます。心とカラダの二元論
は浅薄な現代においてしか通用しない感覚だからです。
あなたという対話相手がいなければ、ぼくも考えを深めていくことができない。感謝しています。 岩波文庫の米川訳『悪霊』『未成年』重版しないかな
品切れ状態が長すぎる 『虐げられた人々』はトルストイの『アンナ・カレーニナ』に近いのかな、レーニンの読解の意味で >>711
書かれて知るに至る、とはこの事だね
言われるまで深く考えていなかったようだ
たしかに正教は、霊・魂・体と人間の構成を三分して、テオーシス(神化・合一)なんかもあって(あまり詳しくはないけど)、二元論では説明できない所がある
言われたように読み落としがあるようだね
もう一度読み返さなければ 悪霊再読は疲れそうw
と言っても、疲れないの何てないけどねw
でも、やっぱり読み返すなら五大長編のどれかだろうなぁ 「悪霊」の序盤に語られる社会情勢が少し前の日本みたいなところは面白い
「世の中が良くないのは、実力主義ではない、出る杭は打たれるクソみたいな社会だからだ」とか、テレビタックルで老害芸能人がうだうだ議論してるような内容を当時のロシアの人々が愚直ってたとか、
みんな自分の卑劣な行いを棚に上げておきながら「恥を知れ」と他人を些細なことで執拗に責め立てること、
そして人権派みたいな人たちの声が大きくて、声の大きい厄介な人たちに逆らえない空気があったり、現代とそんなに変わらなくて笑えるよ 長編と言えば、「白痴」はつまらなかった
文学的には他より評価が高いらしいが、話の核である「アホな公爵がみんなに好かれる」において説得力のある理由や描写が無い
本当に魅力がなく、何もしてないのに何故か好かれて大事にされるのは気持ち悪い
同じような小説としてだと、やはりドンキホーテを読んだ方が良い 「罪と罰」はまあまあ。私はそんなに面白いとは思わないが、エンタメ小説としては一番完成していると思う
マルメラードフが奥さんに罵られながら死ぬところと、ロージャが自首するシーンの描写には迫力がある
しかしナポレオンがどうとか思想に関する話はいまいちだったな
ヘーゲルの有名な言葉にそうとしても、精神論だけではナポレオンのように現実を動かすことは絶対にできないわけだからね
マルクスは「フランスの内乱」だったかにおいて、ナポレオンその人の天才性ではなく、その周囲を取り巻く情勢や背景を分析してナポレオン体制(帝国主義)を分析せよと書いていたが、正にその通りだ 「エンタメ小説としては一番完成していると思う 」のに
「私はそんなに面白いとは思わない」ってw
バカは黙っていろよ!
ウザいんだマヌケ! >>720
罪と罰を愛してるんだな。だから怒るんだよな >>718
> 長編と言えば、「白痴」はつまらなかった
つまらないと言いつつ、これほど読んでいることがすばらしい。
>「アホな公爵がみんなに好かれる」において説得力のある理由や描写が無い
> 本当に魅力がなく、何もしてないのに何故か好かれて大事にされるのは気持ち悪い
言わんとすることはわかる。ただおれは、ひじょうな説得力を感じた。具体的なテキストを引用しつつ示したいところだが準備できてない。オニオンも もし可能ならそうすべきだ。
前にも君に対してだったか「マリーと子どもたち」との物語、「死刑について」など、最初はアホ扱いしてたお嬢さんたちが、彼の魅力にどんどん引き込まれていく姿が詩的な筆致で描かれている。
公爵はアリョーシャと同じく菩薩としかいえない振る舞いをなす人間だからだ。そのあまりに普通人と隔絶した姿を
なんと表現していいかわからないから「アホ」と呼ばれているにすぎない。
> 同じような小説としてだと、やはりドンキホーテを読んだ方が良い
ドンキホーテは世界的名作だが、おれの愛読書とはならなかった。書籍と自分との出会い方というものもあるのかもね。
まさに、オニオンはドンキホーテである。
概括的にドストエフスキーの諸作品に論評を加え、敵意を受ける。しかし、それは尊いことだ。ドンキホーテとは勇気の異名なり。男だったら勇気を出すしかない。いかなる場面でも。恥をかく、それも大恥をかく人間になれ。
やはり前にこのスレで、ひじょうに教養深きひとが、
「ゾシマの遺体が腐臭を放った」というカラマーゾフの核心的一場面があるが、それについての解釈でこのおれに悪罵された。
『そんなものは、ドストエフスキーの言いたかったことと真逆である!』と。
しかしおそらく、その人の「言いたかったこと」と、おれの考えは、ほんとうは究極的には「同じものである」
その人の教養の背景と、ぼくの背景の違いから、表面上の
字面のちがいが生まれるだけだと思う。 ドストエフスキーはドンキホーテに大きく影響を受けてることも知らないのであろう
だから諸君は私の深淵なる講義も理解しえぬのだよ
まったく、教養のない方々は惨めよのう 思考停止した権威主義者でなければ、面白いかどうかは読んでみるまで分からない
読まずに感動した者、ページはめくったが意味がよく分からなかった者に比べれば、
ちゃんと最後まで読んで解説も読んでからつまらなかったと結論する方が誠実である
君たちは読む前から全てに同意しているが、「どうして?」と聞かれれば自分の言葉では答えられまい さて、たまにはフョードルの言葉を
特に女の事となればフョードルでしょう
こういうオヤジもなんか憧れますねw
わしの原則によるとな、どんな女の中にも、けっして他の男には見つからんような、すこぶる、そのおもしろいところが見つけ出せる――だが、自分で見つけ出す眼がなくてはならん、そこが肝心だ!
何よりも手腕だよ!
わしにとってはぶきりょうな女というものがないのだ、女であることが、もう興味の半ばをなしておるのだよ、いや、こんなことはおまえたちにわかるはずがないて! 私そのものが至言であり、皆とは才知が天と地ほども違うことは既に諸君も察していると思う
しかし残念なのは、滅多に引用して議論を進められないことである
電子版をコピペするのと本から書き写すのでは、労力の差が大きい ドストエフスキーが一番影響受けてるのはバルザックだろ 一 ゾシマ長老とその客
アリョーシャは胸の不安と痛みを抱きつつ、長老の
庵室へ入った時、驚きのためにほとんどそのまま入
口で立ちすくんだ。
(アレクセイはもうすべてが最悪の方向へいくこと
を覚悟していた。民衆から偉大な救世主と目される
長老、そして自分の感情と魂を支配し、自分のいっ
さいの勇気の源泉である師匠の肉体が、生命の必然
性により、死にゆき壊れゆくことを。その時がきた
とき、自分はどう振る舞うのか?どうこれからの人
生を行きてゆくのか?なんの目途もつかないのであ
った... と想像する) もう意識を失って死になんなんとしているに相違な
いと恐れ危んでいた長老が、思いもよらずひじかけ
いすに腰かけているではないか、病苦のために衰え
はててはいながらも、やはり元気のいい愉快そうな
顔をして、まわりを取り囲む客人達を相手に、静か
な明るい談話を交換しているところであった。
(長老が「病苦のために衰えはてて」いるのに「元
気のいい愉快そうな顔をして、まわりを取り囲む客
人達を相手に、静かな明るい談話を交換している」
のは、なぜか?
ひとつの答えとして、周囲の者が長老を信じる以上
に、むしろゾシマこそ周囲のものを信じているので
はないか。人間の共通の運命である、老苦と死を、
老若の早い遅いのちがいはあっても、皆で支え合っ
て乗り越えてゆこうとする、そういう精神の共同体
を、長老は構築してきたといえまいか。) とはいえ、彼が床を起き出したのは、アリョーシャ
の帰って来るようやく十五分前のことであった。客
人たちはすでにその前から庵室へ集まって、長老が
目をさますのを待っていた。それはパイーシイ主教
が、『長老はいま一度、ご自分の心に親しい人たち
と物語をするために、必ずお目ざめになるにちがい
ない。ご自分でも今朝がたそう言って約束なされま
した』と固く予言したからである。
パイーシイ主教はこの約束を、この世を去らんとし
ている長老のすべての言葉と同様に、どこまでも信
じて疑わなかったので、たとえ長老の意識ばかりか
、呼吸まで止まってしまったのを自分の眼で見ても、
もう一度目をさまして別れを告げるという約束を聞
いた以上、彼は死そのものさえ信じようとせず、死
にゆく人がわれに返って約束をはたすのを、いつま
ででも待っているに相違ない。 じっさい、今朝ほど長老ゾシマは、眠りに落ちるまえ
彼に向かって、『わしの心に親しいあなたがたと、も
う一度得心のゆくだけお話をして、あなたがたのなつ
かしい顔をながめ、もう一度わしの心をすっかり広げ
てお目にかけぬうちは、決して死にはしませんじゃ。
』とはっきりした調子で言ったのである。
------------------------
パイーシイ主教がこの約束を、どこまでも信じて疑わ
なかったのは、なぜでしょうか?
それは長老が過去において「すべての約束を果たした
こと」
長老の言葉は「すべて真実、かついっさいが現実とな
った」ことを痛いほど体験してきたからです。 おそらくは最後のものと思われるこの長老の談話を聞きに集まっ
たものは、ずっと昔から彼に信服しきっている僧侶である。その数
は四人あった。ヨシフ、パイーシイ両主教のほか、ひとりはミハイル
主教という、まださほど年をとっていない庵室ぜんたいの取締役で、
たいして学問があるわけでもなく、いやしい身分の出であるが、 毅
然たる精神を持って、朴直で不抜の信仰をいだいており、見かけは
気むずかしそうな顔をしているが、心の中では深い法悦に浸ってい
る人である。もっとも、彼は少女のような羞恥をもってその法悦を
隠していた。四人目の客は貧しい農夫の階級から出た、アンフィーム
という小作りな 平の老僧で、ほとんど文盲といっていいくらいであった。
静かな寡黙の性質で、ろくろく人と口をきくこともないが、謙抑な
人たち達の中でもとくに謙抑な人物で、何かとうてい自分の知恵に
およばないほど偉大な恐ろしいもののために、永久におびやかされ
ているような様子をしていた。長老ゾシマは、常にふるえおののい
ているようなこの老僧を非常に寵愛して、一生のあいだ、なみなみ
ならぬ尊敬をもって彼にたいした。もっとも、ほかのだれにたいす
るよりも、この老僧にたいしては口をきくことが少かった。そのく
せ、以前は長年の間この老僧とともに、聖なるロシア全土の遍歴を
したこともあるのだ。 ゾシマがもっとも信頼し愛したのは、こういったような人たちであった。
ゾシマがアレクセイを愛したのは、その精神を愛したのであったとおもわれる。 もう一度確認します。
民衆から偉大な救世主と目される長老が、もっとも信頼し
たのは、学問があるものでなく、高い身分の出のものでも
なく、雄弁なものでもない。
朴直で不抜の信仰をいだく者たちです。 >>729
バルザックはドストエフスキーの雰囲気が垣間見える
もちろんドストエフスキーがバルザックに似せたのだろうけどね
それにしても、バルザックは作品が多過ぎて読みきれないよ >>737
ドストエフスキーは土壌主義と言われるくらいに、民衆に癒着している何か、という概念をとても大切にしたと云われるね
トルストイもまたそうだったと同じくする
ロシアというのは国民性の中に、祖国に対する、という習性が強いのかもしれない
日本人のぼくからすると、愛国心何て言われると、何か独特の違和感を持ってしまうけども、そういうのは本来なら当たり前の気持ちなのかもしれない
それでも、無関心より悪いものはない、というのがドストエフスキーの見解だったりもする、何て思う
「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです。」スタヴローギン バルザックは『知られざる傑作』くらいかな、読んだの
フランス革命前後の作家だけど、何のために読むのかというのが重要だ >>739
1> 土壌主義と言われるくらいに、民衆に癒着している何か、
>
2> ロシアというのは国民性の中に、祖国に対する、という習性が強いのかもしれない
> 愛国心
3> 「完全な無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです。」スタヴローギン
きみの言わんとするところを理解しやすくするため要約した。ここでは2についてのみ書きたいことがある。
... ごめん、ちょっと休憩w 夜までに書く 当時はロシアに限らずどの国もナショナリズムの時代でしょ
言葉遊びで誤魔化さなければ日本帝国主義やナチズムと何ら変わらない
スターリンがレーニンと袂を分かつ契機となった大ロシア主義が、
ドストエフスキーが言うところの汎スラブ主義なんだよ >>741
いやいや、時間のある時にでもごゆっくりー 一同は、主人も客も、長老の寝台のすえてある第二の部屋に座を占めた。
これは前にも述べた通りきわめて手狭な構えであるから、四人の客は
やっと長老のひじかけいすをとり巻いて、第一の部屋から持って来たい
すに腰をおろすことができた(ただし、修行僧のポルフィーリイはしじゅ
う立ったままであった)。早くも夕闇がせまってきた。部屋は聖像の前な
る灯明とろうそくの光に照らし出された。アリョーシャが入口に立って
もじもじしているのを見て、長老は喜ばしげにほほえみながら、その方
へ手をさし伸べた。
「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰って来
たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」
------------------
1,長老の部屋はきわめて狭いこと
2,修行僧のポルフィーリイはしじゅう立ったままであること
3,「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰っ
て来たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」 「第六篇 ロシアの僧侶」冒頭から全文を引用してコメントを入れて
いく試み。
ただしどこまで続くかわからない。ゾシマ青年時代、決闘の前夜従
者アンフィーム?を殴るところまで到達したいと希望している。
同志たちよ。
ほとんどレスを返さないがかんべんしてくれ。 >>739
>ロシアというのは国民性の中に、祖国に対する、という習性が強いのかもしれない
逆に弱い
とくに貴族・知識人層はドイツやフランスに留学して
外国語や外国文献からの引用を自在に操ることがプレステージとなっていた
そういう上層部にとっては「未開」で啓蒙の対象となる
土俗的な民衆と民間信仰にロシア固有の民族性を発見したのが
プーシキンやドストエフスキー、トルストイであって
ドストエフスキーの作品で素朴な民間信仰に生きる庶民や
子供たちに無垢なものを見出すのはそのため 東大作家じゃ世界文学全集につぶれちゃうね。そろそろ最強の日本軍軍人文学者出せよ。 ツルゲーネフの小説でも外国かぶれを揶揄するようなセリフが良く出てくる
ナポレオン戦争以降、ロシアは封建階級を中心にかなりフランスかぶれだったと聞く
ステパンやスタヴローギンは外国語で育ち、ロシア語を満足に話せない上流階級・知識人階級の象徴でもある 前にここで名前出てたシラー面白かったよ
ユゴーは意外と読んでない人いるかな、あっという間に読めるからおすすめしとく >>746
そう言われるとそうですね
弱いからこそ見返して民衆に沿う事を訴えた、という理由があると言える >>750
レミゼラブルって事?
ユゴーなら何がおススメ?
シラーの群盗は面白かった
シェイクスピアより濃い戯曲はなかなかあるまいw うんレミゼラブル
ちくま文庫のが解説含めておすすめだけど書店にないんだよな
あとノートルダムドパリも面白い
これはドストも翻訳されたとき序文書いてるらしい(うる覚え)
死刑囚最後の日は未読だけど面白そうなんでいつか読む >>753
今ちょうど読んでいた本に区切りが出来て、次に読む本を探していたから助かるよ
ちくまでレミゼラブルを探してみる
結局は書店になくてアマゾンになりそうだけどw ちくまじゃないとダメてわけでもないから新潮や岩波でも読めそうなら全然あり
解説もレミゼラブルは面白い解説本が意外とあるしね アリョーシャが入口に立ってもじもじしているのを見て、長老は喜ばしげにほほえみなが
ら、その方へ手をさし伸べた。
(アリョーシャにとって、長老は猛烈な権威だった。善と正義の権威であった。だから、
もじもじしていた。)
「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰って来
たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」
アリョーシャはそのそばに近寄って、額が地につくほどうやうやしく会釈したが、急に
さめざめと泣きだした。何かしら心臓が引きちぎれて、魂が震えだすように思われ
た。彼は慟哭したいような気持ちになって来た。
(ここ数日、長老の死という高い緊張感をアリョーシャは生きてきた。だが父は待っていた。
けっしてアリョーシャを置いて、逝かないことを。ゾシマの心の中にはつねにアリョーシャ
があった)
「お前はなんとしたことじゃ、泣くのはもう少し待つがよい。」長老は右の手をアリョー
シャの頭に載せて、にっこり笑った。「わしはこの通り腰をかけて話をしている。この
分なら、本当にまだ二十年くらい生きられるかもしれんて。
(ゾシマはある意味超人的な側面を持つが、もうひとつの明らかな側面とは、すべての人の
父とならん、としたことではないか?) 昨日ヴィシェゴーリエからリザヴェータという娘を抱いて来た、あの親切な優しい女房の言
うた通りかもしれんて。神様、どうぞあの母親と娘のリザヴェータをお守り下さりますよう
に ! (と彼は十字を切った)。ポルフィーリイ、あの女の施し物をわしの言うた所へ持って
行ったか?」
これは昨日元気のいい信心ぶかい女房が、『わしよりも貧乏な女にやって下さい
まし』と言って寄進した、例の六十コペイカのことを思い出したのである。この種の
寄進は我から好んで己れに課した一種の難行と言った形で行われるのだが、その
金はぜひとも自分の労働で得たものでなければならなかった。長老はもはや昨晩
の中にポルフィーリイを使いとして、ついこのあいだ火事で丸焼けになった町人の
後家にその施物を贈った。この女は火事に 遭った後、幾たりかの子供をつれて袖
乞いに歩いているのであった。ポルフィーリイはもう用件をはたして、金は言いつけら
れた通り、『無名の慈善家』という名義で贈ったことを急いで報告した。
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ここのところはとくにオニオンに心を込めて読んでみよと言いたい。
オニオンなら「きっと、施し物のカネは、ゾシマと教会がふところに入れちまうんだろうな」
と予測しただろう。
ところが現実はちがうのである。わたしたちは、一般世間の常識とは隔絶した価値基準にのっとって
生き、動いているからである。
他人を助ける。それは即自分のためなのである。この難行に「チームで」挑戦している。 自分のためとは、ビル・ゲイツが莫大な寄付をして、名声を得るのと異なる。
じゃ、なにが「自分のためなんだ?」その回答が宗教と信仰のメカニズムです。
このことは文学哲学書を読んだだけで会得できるような性質のものではないです。
しかし、カラマーゾフやドストエフスキーを読めば、その片影を感じることができる。 作り話の中と現実の区別もつかないとは、やっぱり宗教は害毒だと思った
ドストエフスキー自身も現実ではギャンブルに狂ってたクズだし、
麻原尊師も言葉の中では立派に空中浮游していたことを思いだそうよ?
言うは易し、行うは難し! 本読まない阿呆な人間がカラマーゾフに挑戦してみたが
序盤の教会ゾシマ長老とフョードルの初絡みで堪えきれず爆笑しちまった
久々にこんな笑ったわ
本でこんなに爆笑できるもんだとは思わなかった
こんなの笑わずに読めるヤツがいるのかと思ったが変なのか
難しそうだけど岩波買ってよかった。青空のほうの朗読を聞いてるとニュアンスが全然違って聞こえる
これ呼んだらいろんな考察を見て回っていずれロシア語原文にもあたりたい
なんかすごく良い趣味が出来たきぶん >>760
カラマーゾフ読んで笑える感性は一つ才能だよね
シリアスな所も、なんか変に小難しい所も、まだまだ出てくるから飽きずに読みきれる事を願っています そりゃ、そうだろう、趣味嗜好なんて千差万別だからな
同じJKフェチの中にも、
現役JKじゃないと認めない派と、制服が似合っていればアラサーでも可派、
青い蕾のような成長途上の張りと弾力のある体が極上派と、むしろ体は25くらいの発育しきった柔らかいのが好みで、それに制服着せたら最高、
逆に現役でも全裸や私服なら全然興奮しない派
制服で美少女なら言うこと無し派と、むしろ顔はちょいブスくらいがリアルな女子高生感があって良い派、
JKの瑞々しい太腿全開の激ミニがたまらない派と、激ミニなんてビッチすぎて萎える、膝上10cmくらいが清楚感を保ちつつ、ちらりと見せるエロさが絶妙派、
スカートの中の秘密の花園を覗くと最高のリビドーが襲ってくる派と、日常の登校風景のような全身画だけで十分抜ける、別にパンツまで見たいとは思わない派、
未だにブルマのことが忘れられない派と、ブルマなんてもはやAVの世界だろ、ハーパン以外ありえない派、
パッと思いつくだけで、これだけある
さらに、細かく分類すれば、「ブルマの中にシャツ入れ派」と「シャツ出し派」とかあって、キリがないくらいだわ >>756
> アリョーシャが入口に立ってもじもじしているのを見て、長老は喜ばしげにほほえみなが
> ら、その方へ手をさし伸べた。
>
> (アリョーシャにとって、長老は猛烈な権威だった。善と正義の権威であった。だから、
> もじもじしていた。)
>
> 「よう帰った、せがれ、よう帰った、アリョーシャ、いよいよ帰って来
> たな、わしも今に帰って来るじゃろうと思うておった。」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(アリョーシャにとって、長老は猛烈な権威だった。善と正義の権威であった。だから、
> もじもじしていた。)
この説明はちがうようにおもわれる。諸君の意見をききたい。 >>757
>例の六十コペイカのことを思い出したのである。この種の
寄進は、われから好んでおのれに課した一種の難行といった
形で行われる
カネを出すことは難行中の難行であろう。何のためにするのか?
>その金はぜひとも自分の労働で得たものでなければならなかった。
ナマポの金、賭博でもうけたカネ、それどころか親から受け継いだ
資産さえ受けつけない。
比喩的にいえば、身を削り「大地を耕して得たカネのみ」と解釈する。 オニオン君の書き込みを見てると、ほんとうにラキーチンそっくりでびっくりする。
自尊心というワクを超えるものを持たない。自分がないからとうぜん他人もないと
思い込む。諸君はどう感じる? >>763
もじもじする、とは恥ずかしいという事
羞恥心とはカラマーゾフでは少なくとも2種類は提示されている
一つはフョードルの恥辱
人と接すると自尊心が顕示されて道化を演じてしまう
恥ずかしさを隠すために攻撃的な態度をとってしまう
一方ではアリョーシャの恥ずかしさ
誰かに好意を持っている事がなんだか気恥ずかしいように思えて、自尊心が芽生えはするが、態度は攻撃的ではなく代わりに人見知り風になってしまう
もじもじするとは後者の意味とするならば、アリョーシャが久しぶりに会うゾシマにもじもじしたとしても、別におかしくはないんじゃなかろうか ただし、これは煽りじゃないことを念押ししておく。なぜなら、オニオンを可哀想とおもわなければ
おれはアボンするだけだからだ。オニオンのような、またラキーチンのような姿というのは
無信仰者にとっては当然の帰結だし、大多数の青年壮年がそうなんだ。生きているラキーチンこと
オニオンは、おれが「意図的に」現実と作品中を混乱させている手法に気づいていない。
いっさいのラキーチンたちよ!
せめてイヴァンカラマーゾフたれ。よしやアレクセイとはなれなくとも。むしろスメルジャコフになったほうが
マシだ。今自分がラキーチンでも、けっして卑下するひつようはない。これから、いまこの瞬間から、アレクセイや
ゾシマたらんと決意すればよいのだ。 >>766
整理と分析さすがです。ただし最後の「久しぶりに会うゾシマにもじもじした」というのは
「ん?」となりました w
ではなぜ、「額が地につくほどうやうやしく会釈したが、急にさめざめと泣きだした。何かしら心臓が
引きちぎれて、魂が震えだすように思われた。彼は慟哭したいような気持ちになって来た。」
のですか? >>768
久しぶりの再会ではなかったっけ?
そうでないなら読み間違え
それでも自尊心ゆえの人見知りというのはあり得る帰結、だと思ってます
個人断定するならば、死が近い時、それは死後という想像力が最大に発揮させられる瞬間でもある
もうすでに死後の悲しみを先取りしている、という感情と、死が近いと実感するが故に、今ある生の時間が明確に現れてその時間が大切だと認識する感覚
時間とは精神次第で貴重にもなりただの日常にもなり得るわけだから、最愛の父のようなゾシマがもうすぐ死にゆくと分かれば、それは悲しみという喪失感を感じて涙した、のではないでしょうか たしかに私はスタヴローギンのような男だな
顔も男前だし、嫉妬されるのもよくあることだ
さて、前にエホバかものみの塔のパンフレットに書いてあったのだが、
「我々は近代哲学の宗教批判と向き合うと勝てないので耳を塞いで妄想の中に逃げ込みます」と
ニーチェあたりでも原始仏教に関しては「考える宗教」として高く評価していたようだが、君たちのような世俗的宗教は結局のところ念仏を唱えるだけの馬鹿のゴミ箱になってしまったのだよ
偽善者らしく、知的障害者を引き取って世話でもしてるのがお似合いということだ 姉さん、ばかにしないでね。青春というものは、ずいぶん大事なものなのよ。あたし、病気
になってから、それが、はっきりわかって来たの。ひとりで、自分あての手紙なんか書いて
るなんて、汚い。あさましい。ばかだ。あたしは、ほんとうに男のかたと、大胆に遊べば、
よかった。あたしのからだを、しっかり抱いてもらいたかった。姉さん、あたしは今までい
ちども、恋人どころか、よその男のかたと話してみたこともなかった。姉さんだって、そう
なのね。姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。あ
たしの手が、指先が、髪が、可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ。」
葉桜と魔笛
太宰治 できちゃった婚してすぐ離婚したやつは逆のこと言ってるよ >>771
とりあえず斜陽を買ってみて、太宰も読んでみようかと思う
海外古典に偏っているのは確かなので楽しみだ >>774
斜陽のような生命力弱き作品より、太宰の場合は何気ない短編こそ、忘れがたき味わいあり。
短編集から読むことをおすすめします。 >>776
そーいうもんなんだ
斜陽は短編入ってなかったから、他で短編集になってるのを本屋寄ったついでに見てみる
ありがとう テキストの詳細検索の方法を学んでいる
また書くから待っててな。
ほら、ドストエフスキーの言葉であったじゃん?
基礎的研究に力を注ぐんだってな >>766
> 羞恥心とはカラマーゾフでは少なくとも2種類は提示されている
> 一つはフョードルの恥辱
> 人と接すると自尊心が顕示されて道化を演じてしまう
> 恥ずかしさを隠すために攻撃的な態度をとってしまう
> 一方ではアリョーシャの恥ずかしさ
> 誰かに好意を持っている事がなんだか気恥ずかしいように思えて、自尊心が芽生えはするが、態度は攻撃的ではなく代わりに人見知り風になってしまう
このまとめがとても有益。でも、前者は作中のどこに書いてあるか
すぐ思い浮かぶが、後者はどこに書いてあったけ? >>779
一番分かりやすいのは、場違いな会合の信仰の薄い貴婦人
アリョーシャが気恥ずかしそうにむしろ青年らしい自意識を表現する箇所として、ホフラコワ夫人とリーザがゾシマを訪れる最初の場面で、リーザはからかうようにアリョーシャを見つめては目をそらすを繰り返す
まるで小悪魔ようにw
アリョーシャは赤くなってリーザを見ることが出来ない
お互い好意を持っているのにね
他にもフョードルの家に集まった最初は、ミーチャとはすぐうちとけるのにイワンとは長く会話すらしていないと書いてあった
アリョーシャは好意を持っても、それが強ければ強いだけ人見知りをしてしまう傾向がある
やはり父と子という親子のカラマーゾフ 特有の自意識がある、と思うんだ
もちろんフョードルのように攻撃的な自意識ではない表現方法だけど、自意識としてはカラマーゾフ 的に強いものを秘めているんじゃないかな >>780
> 一番分かりやすいのは、場違いな会合の信仰の薄い貴婦人
> アリョーシャが気恥ずかしそうにむしろ青年らしい自意識を表現する箇所として、ホフラコワ夫人とリーザがゾシマを訪れる最初の場面で、リーザはからかうようにアリョーシャを見つめては目をそらすを繰り返す
> まるで小悪魔ようにw
> アリョーシャは赤くなってリーザを見ることが出来ない
> お互い好意を持っているのにね
こんばんわーw もうすぐ寝ます。きょうもカラマーゾフの電子書籍関連の、自由自在に検索する方法について
研究してた。
上の箇所は、「アリョーシャは好意を持っても、それが強ければ強いだけ人見知りをしてしまう」の場面としては
やや不適切な感じがするんだけどw
というのは、たとえば電車のなかで、たまたま隣がかあいい女子高生だったとする。ぼくは赤くなってとなりを見ることができない。カラダも固くなって緊張してしまうとする。ついでにチンも固くなってしまったとするw
それをさして「好意を持っても、それが強ければ強いだけ人見知りをしてしまう」ということになるか?ww >>782
うん、自意識の使い方を間違ったみたい
表現を間違えたかもしれない
でも恥ずかしがり屋こそ自意識が強いのなら、アリョーシャも自意識が強いはずと思うんだけどね
実際にアリョーシャほど前半と後半(ゾシマの死の後)で性格が変わるキャラクターはいないからね
それにしても前半のアリョーシャで、とても純真なるがゆえに極端な羞恥心を持っているとは考えられないだろうか
例えばクラスで卑猥な話に耳を塞いだりとか、極端に女性に対して恥ずかしがる描写もあったりとか
こういう極端な羞恥心は自意識が強いとイコールにはならないのかな
さて、純真と自意識はどう結びついているのか、自分でも考えを整理してみる 608 :吾輩は名無しである:2011/12/29(木) 07:01:47.90
バナーエフ婦人の回想録より(トロワイヤ『ドストエフスキー伝より孫引き』)
「ある日のことです」とバナーエフ夫人はつづけている。「ツルゲーネフがドストエフスキーのいる前で、自分のことを天才だと思っている男に、あるとき田舎で会ったことがある、といい出したのです。
そして彼は、その人物が、どんなに滑稽だったかということをおもしろおかしく話し出したのです。
するとドストエフスキーの顔から、すうっと血の気が失せ、途中で中座するといきなりとび出していきました。だから私、その場にいたひとたちにいってやったのです。
『いったいどうして、それほどまでにドストエフスキーをいじめるのです?』」
609 :吾輩は名無しである:2011/12/29(木) 09:18:32.69
悪霊でカルマジーノフを馬鹿にしていたシーンを思い出した
613 :吾輩は名無しである:2011/12/29(木) 12:03:44.43
>>608
そんなことがあっても、兄への手紙には
文学仲間から一目置かれてるように書いてしまうドストエフスキー ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています