ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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>>71
>あなたの宗派・信仰では その「偶像崇拝」ということは大切なことなんですね!
>信じているものを否定しバカにするのは、あたかも上の文のフョードルのようなものだ。
>どうもぼくは一見してフョードルになっちゃってるね?
そういう考えはイイね
他人の自由を配慮すれば、誰も君の自由にも関与してこないよ
きっとそれは自由が秩序に変わる
ここには無関心な人も無神論な人もキリスト教の人も仏教の人も他の人もいる
キリスト教などとか仏教などとか、そういう言い方は少し軽蔑に思う人もいるだろうと思うよ
あと、勧誘や内情の話ついては自制があった方がといいと思うよ
文学スレという所だから文学以外の話は慎重にやらないと、誰もが人格に関わることだから攻撃的になってしまう
と色々いうと批判になるのでやめとく、 >>73
> 御本尊を一回踏みつけてみ
> できなければ偶像
おはようw
おまえはフョードルの 生まれかわり だなあ! >>74
凝った構成で読者数が少ないのできちんと評価されていない
しかし「悪霊」で試みられて失敗に終わった父と子の対立(世代対立)や
「地下室の手記」に顕著な実存主義的傾向が
おそらくはルソーの「告白」を意識したであろうスタイルで書かれている
非情に野心的な作品であり
そういう意味では心理小説の一種と言ってもよい
(まあドスト作品は人間心理を書いたものが多いのだけど)
ただ、ルソー的告白に見られる自我の統一性はなく、
話者の分裂や作品内部での断層があらわになる
これは「失敗」などではなく作者によって企まれた結果であり
この読みにくさが安易な心理主義的評価を拒むことになる ドストドMスキー
フェラクンニ神父
おっパイーシィ神父 >>978 A君へ
> 団体は団体の特異性のために自分の団体しか救われないと主張する
> 所属できない理由は、どーもこれが受け入れられない
わかる。と前置きした上で、あなたの本来の輝きを覆い隠しているのは、ここです。
頭で考えていることです。頭で考えるとなぜダメなのか?それは自分を投げ捨てようとしていない。
「自分を投げ捨てようとしていない」とは、絶望的状況でないからです。つまり自分の殻にこもっている。いまのままでも、やっていけるからです。戦後の荒廃した日本で庶民たちは、そうして創価学会にであった。
「自分の団体しか救われないと主張」がいかに非合理に感じられようと、「もうこれが最後の希望だ!」と感じられれば、非合理性などやすやすと超えられるはずだ。
そうして行動してみて、それが非合理でもなんでもないことを知れる。
あなたは大学教育を受けた知識人といえば知識人だ。しかし、テレビでいわゆる知識人を見ればわかるでしょ? バカみたいなひとが多いよね。彼らがバカみたいなのは、信仰なく、理想なく、行動なきがゆえです。あんな風になりたいかい?
また、あなたがその教会に入らないのは「直感的に」よく感じないからだ。それでよいのだ。
「キリスト教会など、ぜったいに入ってはならない。」からだ。 > カトリックだから救われないとかプロテスタントだから救われるとかじゃなくて、カトリックでも救われる人はいるしプロテスタントでも救われない人がいる
> その逆と他宗派でもそう
もちろん、いちめんそのとおりだ。創価学会だ、プロテスタントだ、団体の名前で信仰心は測れない。たとえばこのオレからして、学会のなまえをかたっているが、とんでもない意図で、むしろ
創価学会を貶めるためカキコしてるかもしれん。また、グウくんなどは、プロテスタントの恥と言ってもいいバカみたいな存在だ。
その一方で、「理屈をつけて教会を信じないのは、じつは、あなた自身が神を信じていないことを意味する」
他人の祈り、他人の信仰、他人の中にある神を信じないのは、あなた自身の中にある「祈り/信仰/神」にたいして、ことごとく不信であることを示す。
だからゾシマは「実践の愛」と言ったのだ。むしろ「実践の愛」が先にくるんだ。そのあとに、神や
仏やイスラムがくるんだ。
「救い」などという抽象的なものは存在しない。こういう行動をとれ願えるような人間に、気がついた時成長している。。。これこそが救いだ。
そうしてその「救い」に唯一 到達できる道が、創価学会だと言ってるんだ。 もし君が
カラマーゾフに出てくる俗物のごとく、ミウーソフやスメルジャコフやそのほかのごく普通の常識人の範疇にとどまって(スメルジャコフは常識人じゃないがW )
そうして神、キリスト教、信仰を考えて、一生を終わるのか?
それでよいなら、そのままでいろ。
しかし、カラマーゾフの世界よりもはるかに劇的な世界が現実のこの日本にあって
そこに勇気をだしてトライするのか?
ぼくといっしょに、幸福の極限を知る世界へチャレンジするか? >>83
読んだよ
意外と言っては失礼になるけど意外なほどに真剣に書いてくれたんだね
あまりスレの目的と離れてしまうが、それでも正直に一時だけど真意をお返しに話そう
オレはきっと聖書からは離れられない、仮にどこにも属することがないとしても
とうの昔に無神論者から出発してしまっているし、それが逆になった今でも結局は神に執着している
無神論でも有神論でも対象は変わらないからね
もう自分の属性は神を受け入れてしまっている事を自分で知ってしまっているから、キリスト以外の宗教には、どちらにしても反対の立場を取らざるを得ないだろうね
しっかりと明示しておくし言いたい事はこれなんだけど、君が団体の方針の為ではなく個人の意志として誘ってくれた事は、理解した
この誤解は解けたということ
さあそういう事にこの話は決着にしてもらって、ドストエフスキーの話に戻ろう
きっとここではそれが最善だろうから そういえば最近、作家の日記を買ってしまった
文庫のくせに6巻で1万5000円もした
当分はこれを楽しむからいいけどね
>>79
ということで、ルソーの自我統一性についてもし何か比較が見つかったらいずれレスしてみる
とりあえずは元を取れるように6巻を読む >>83
ごたごた言わず御本尊を焼いてみるんだ
救い、開眼はその先にある ドス好きだと他の作家が陳腐になって読むのが無くなってしまう。
ドスの弟子だと自称してる(?)カミュはなんか文章を捏ね繰り回してるけど
思想は深くないなーと・・
対抗できるのはニーチェとトルストイぐらいか?
ニーチェはアフォリズムがツライ。
トルストイはキリスト教的お説教がツライ。 >>89
カミュは黄金聖闘士としての仕事も忙しかったからなあ… 同じくトルストイの民話はすごくいいと思う
けどドストエフスキーも民話みらいなのあるよ
ヨールカとか百姓のマリイとかは民話っぽいし5ページくらいで読みやすい ミーチャの餓鬼のくだりを共感できる人間って、餓鬼を救えない自分を罪悪感の免罪符で正当化し、相変わらずの安逸を貪ろうとしてるんだろうか 「カラマーゾフ」とカミュの「ペスト」を比較してごらん、いろいろ面白いぞ 比較なら異邦人だろ
もしくはなるチスとゴルトムント 理知的なイワンは飢えた子供を救うために地上の権力を握ろうとするが
情熱的なドミトリーは子供のために自らを犠牲にしようとする
この2人は「罪と罰」のラスコーリニコフが
「理知」と「献身」に分裂したようなものでいずれも問題がある
だから「白痴」のムイシュキン公「憐み」や「偉大なる平凡」が
「癒し」や「慰め」に進化したかのようなアレクセイの存在が大きくなる ドストエフスキーの中で善人みたいに書いてるのってムイシュキンとソーニャとアリョーシャくらいだよね
それに対して完璧な悪役って出てこない
ミーチャもそうだけど案逸な生活が好きだけどたまに犠牲に熱中してみたりとか、どっちなんだ!みたいな
人間味があるっちゃあるけど偽善と言われればそれもそうかな!っておもう >>98さん
善人!
shadowとしての主役お友だちpersonalityのラズミーヒンがいるじゃないですか。
極限的にして完璧な悪役はニコライ・スタヴローギンと第2の小説のアレクセイ・カラマーゾフ(!)。
んー。。。
“『真実の世界への門』副題:Le Premier homme”
では〜♪ (-^ ^-) >>98
>それに対して完璧な悪役って出てこない
悪というよりは病という捉え方です
「悪霊」でルカによる福音書の悪霊の部分を
西欧経由の主知主義によって毒されたロシア知識人
と臨終間際のステパン氏に解釈させたのもそのため
だから癒す人としてアレクセイが登場するわけです
じっさいイエス・キリストも治癒神だったわけですから
聖書中の「癒し」とは奇跡による治療行為のほかに
罪と憂いによって穢れた魂の浄化があり、
カラマーゾフでは医療行為ではなく後者の方が重視されている イエスの十字架にあっては、
肉体的と言うより霊的な苦痛に意義を認めるという解釈と必然的に繋がる訳ですね。
ところで、太宰治という日本人作家の感情・洞察力・思想面の浅さは「罪のアントは信仰である」(!)という重要な点を看過しているところにもあらわれています。決して、揚げ足取りではありません。
では! (-^ ^-)♪ >>99
ラズミーヒンは抜けてました
スタヴローギンが悪役かどうかについてはチホン で告白を読むと疑惑がわいてくるよ
あれ、意外と!みななのが >>100
それは目に留まるような解釈だね
カラマーゾフの構成を、イエスの癒しをアリョーシャに仕立てて病を持つ人たちを癒していく物語
なんて考えはそれそれで面白そう
とはいーつつ、アリョーシャはいつも肯定しか基本しないし聞き手だし、なんか懺悔される神父みたいな枠組みはあるのかもしれないね >>98
「虐げられた人々」の公爵は俺からしたらひどい悪党に思えたよ
結果的に勝ち逃げしてるし。
スヴィドリガイロフや悪霊のニコライは最後は死ぬからいいけど 悪霊の仕事を聖書や教会からもらったが、世の中には低レヴェルな霊も多く、
人類が向上するには喜んで下の霊をたたかないといけないだけじゃなくなりたい。 中島らものエッセイや対談本おもしろいな
最近は小説などは読んでないわ つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ 「学術」さんの出身大学と最終学歴教えてください。
マジレスでお願いします!
リアルでの個人は特定されないと思うので。
旧帝大の博士課程修了でしょうか?
(単なる学歴コンプレックス持ちお年寄りメンヘラにしか見えん><;) >>103
>なんか懺悔される神父みたいな枠組みはあるのかもしれないね
孤立した地下室人間がたむろするロシア社会において
それぞれの「告白」を聞くことによって罪と憂いを癒していくわけです
ただし、これは父殺しとミーチャの冤罪(そして贖罪)を軸とする第一部での話です
これとは別にキリストのように万人の罪を浄化するために
贖罪羊のような死に方をするような気がしないわけでもない
それが書かれなかった第二部の内容なのだ、
ということはたとえば亀山郁夫あたりが述べている事ですが
まあ、こんなことを言っても仕方ない
じっさい、書かれてないわけですし
きちんとした構想ノートもないわけですから
それと作中で「13年前」と設定された物語の時代は
構想・執筆時期である1878−1880年の13年前と推定されることが多いわけですが
プーシキン銅像建立について言及されているホフラコワ夫人とのやり取りを考えると
物語の進行時期はそれが書かれている1870年代後半の「現在」であり
これより13年後の未来から、キリストと同じ33歳で死亡すると推測し得る
アリョーシャの青年時代を過去完了進行形で回想した物語なのかも知れない
もしそうだとするのなら、
小林秀雄が言うように、この物語に続編は無くきちんと完結したことになる 俺も完結してるように思える
たくさん悪いことをしたミーチャはお父さん殺しだけはしてないのに捕まっちゃう
冤罪で読者にたいしてなにかを投げかけて終わる
良いんじゃないでしょうか 出身大学は上智大学 早稲田大学の学術院にかかわってる。 現役時代は 中央 立教 、明治学院 早稲田 慶応 上智大 に合格。 就職しながら大学院とつながってたけど。就職から現実逃避はNO! 就職しながら大学院とつながってたけど。就職から現実逃避はNO! 全部文学部受験だけどね
東大はスポーツ六大学最下位だし文・理V類には参加してて大学院物理学科も経営してるけど、トータル六大学最下位にならないように精進して下さい。
遊んでない人も多いしおタクファッションももひとつで派手さがないよな。
心配ではあるが。 >>111>>112
カラマーゾフが完結されたか、続編がある事を前提に書かれたかを推定するのは面白い
けどどちらにするのかで物語の意味は少し変わっちゃうなーと思った
完結を前提にすれば冤罪に対する罪とアリョーシャ以外の物語にもなるし、続編の前置きに過ぎないならアリョーシャの物語に徹底するのかもしれない
きっとアリョーシャの何らかで完結するだろうからね
どっちにしろ読者としては続きがあるなら読みたかった ありょーしゃが前任であるはずがない
なぜなら世界を知らないから 前書きの「著者より」で書かれてなかったっけ、と思って読み返したけど書かれてなかった。 >>127
>前書きの「著者より」で書かれてなかったっけ
「伝記を書き記すにあたって」と前置きをしたうえで
「伝記は1つだが、小説は2つあるのだ」としている
そのうえで
第1の小説は13年前の主人公の青年前期の話とされ、
第2の小説は「現在」の「この瞬間」における「主人公の行動」とされる
しかしその後に
「小説はひとつだけでも十分すぎる」
「問題の解決に窮した」
「最初の話を読めば第二の話に取りかかる価値があるかどうか」
と書いたうえで
「あとは読者が自分で決めてくれるだろう」
としている
ひじょうにあやふやで含みのある文章で
続編執筆の口上ともいえるが
続編を書かないことの断り書きとも受け取れる >>129
超わかりやすくまとめてくれてありがとうございます >>128
山城むつみ?とか小林秀雄のドストエフスキーについての本を本屋で目がいく
いつか読んでみようと思う反面、その人のドストエフスキーに被れてしまいそうに思って避けてしまう
でもまーいずれは読んで見ると思うけどね >>128
個人的にこの感じすごい分かると思ってしまった
誰だったか、ラキーチンだったかな、神について詳しく話して尊敬さえ見えるような長舌で語るのに最後にこう言われておかしな印象が残る
「でも君は神を信じていないじゃないか?」
ペストでもタルーとリウーの会話であったと思う
「ぼくは聖人になりたい」
「でも君は神を信じていないじゃないか?」
みたいな言い回しは皮肉なのか、ただ素朴な質問なのか、どっちなんだろーと思うと個人的にクスっとする イワンにもアリョーシャが大審問官で言ってたね
そーいえば なんか愛を感じてイイよね。普段悪口ばかり言う人達なのに(笑) カラマーゾフの兄弟、難解っすねw
キリスト教の部分が意味不明www そうなんだよねえ
というかキリスト教信者の気持ちに
ある程度親しんでおかないと 大審問官は飛ばした。いくら読んでも先に進まないから。というか聖書すらちゃんと読んだことないし。宗教的な側面については何も知らないから単に文学として読んだけど無茶苦茶面白いよカラマーゾフの兄弟。あれで19世紀の小説なんだぜ。 19世紀で文学は終わった。終わらせた象徴としての存在はドストエーフスキー!でしょうか、
アインシュタインではないにしても「世界はまだまだドストエーフスキーに追いついていない!」。
芥川、阿部公房、太宰、三島……等々、
処女作や出世作死ぬ直前の作品に重要な場面で
ドストエーフスキーの名前が挙がっていますね。
では^^ 利根川進さんの自叙伝「旅人」で本人学生時代「いわん」という
あだ名で呼ばれていたエピソードも多分ワーニカを意味しているのでしょうし。
>>931 P ◆.uKag/vUmY さん、自分はキリスト教に詳しいですよー。
約3年程、プロテスタント福音派の教会に顔出ししていました。
今でも牧師さん、友人なのです。
ところで仏陀をディスっていた東電さん、昇天したのですか。
記憶さんは、無事退院したみいでお目出度い〜!
では♪ (-^ ^-) 悪霊が名作すぎて、今のところカラマーゾフにはハマってないが
まずはさいごまで読んでみようと思う むしろカラマーゾフの兄弟読んでキリスト教に興味がでた
そういう人も結構いるんじゃない?
それにしてもカラマーゾフがベストセラーだったというのは驚き
買って最後まで読んだ人はどれだけいるんだろうw >>143
キリスト教に興味持つだけでこの小説の価値はあるわ読破するのも大切だが日本人にはキリスト教は理解出来ないよ >>136
>キリスト教の部分が意味不明www
というかロシア史やロシア文化についての基礎知識が必要だと思う
聖女ワルワーラや聖人アレクセイといったロシア人なら誰でも知っているような
殉教者名やアレゴリカルな地名、人名が日本人だとピンとこない
たとえばスメルジャコフ(臭い男くらいの意味)の部屋の窓には
「悪霊」のスタヴローギンがマトリョーシャの自殺を見届けた時と同じように
ゼラニウムの鉢が置かれていたが
ゼラニウムの花言葉とは“ムハマンドの知恵”であり、
異教的な意味合いを持っている
イワンのとの対決後にマトリョーシャ同様スメルジャコフは自殺してしまう
マトリョーシャの場合はスタヴローギンの誘惑による
信仰の喪失と絶望が自殺原因だったが
スメルジャコフの場合は「罪と罰」におけるスヴィドリガイロフ的虚無に近い
しかしムハマンド的「知恵」が背景にあることは間違いなく
この賢しらな「知恵」がキリスト教的信仰心によって批判される ドストエフスキーの解説本が手元にあるだけでもだいぶ違うよ
amazonでいくつかあるはず 死の家の記録が一番馴染みやすいわ
あとは罪と罰
カラ兄は最も難解であります >>141
東電さんについてそういう風に茶化すのは不愉快だな。 >>144
ドストエフスキーもキリスト教徒と自称するくらいだから、それで読者にキリスト教に興味を持たせたなら本望だったろうね
トルストイほど直球の普及活動はしてないけど
>>146
ムハンマドの知恵って興味あるなあ
ググったけど出てこなかった
覚えている限りだと、悪霊でキリーロフ が癲癇についてシャートフに語る場面でムハンマドの事も出てきたのがあったはず
ムハンマドにも癲癇の毛があったみたいな
ドストエフスキー自身が癲癇だったみたいだけどね >>147
解説本でオススメとかある?
ネットだとめっちゃ出てくるんだけど 毎日、毎時、毎刻、自分の周囲をめぐって、自分の心の姿が常に美しくあるように気をつけ
なければならない。例えば、幼い子共の傍らを通り過ぎる時、憎々しそうな様子をして、口
汚い言葉を放ち、腹立たしい心を抱いていたら、たとえ自分の方では子供に気がつかぬとし
ても、子供はちゃんと見てとるに違いない。そうしてその醜い汚れた姿が頼りない子供の胸
に、いつまでも彫りつけられるかもしれない。つまり自分の方では気もつかぬ間に、子供の
心に悪い種子を投げたことになる。そうしてその種子が次第に大きくなってゆくのである。
それというのも、子供の前で慎しみを忘れたからである、用心ぶかい実行的な愛を自己の中
に培わなかったからである。
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ドストエフスキー は、ゾシマは「実行的な愛」という言葉を、こうした意味で書いている。
この身の振る舞いこそが究極であることを。それこそが信仰の目的でさえあることを。
そうしてそれが、きわめて困難であることを。 諸師よ、愛は教師である。しかし、これを獲得する方法を講じなければならない。なぜならば
、愛の獲得はきわめて困難であって、高い価を払い長い間の努力をもってようやく贖われるも
のだからである。実際、愛は瞬間的のものでなく、長いあいだ持続するものでなければならない。 私の若い兄は小鳥に赦しを乞うた。これは全然無意味なようであるが、しかし実際は正しい
ことなのである。
何故かと言うと、一切のことは大海のようなものであって、ことごとく相合流し相接触して
いるが故に、一端に触れれば他の一端に、世界の果てまでも反響するからである。
たとえ小鳥に赦しを乞うのが気ちがいじみているとしても、もし人が現在のままよりほんの
少しばかりでも美しくなったら、小鳥や子供やその他のすべての動物は、それだけ心持ちが
軽くなるに違いない。
くりかえしていうが、一切のものは大海のようである。もしこれを悟ったなら、人は宇宙的
な愛の悩みを感じながら、――なんともいえぬ歓喜の情を抱きながら、小鳥に向かって祈祷
するようになるだろう。小鳥に向かって自分の罪を赦してくれと、祈るようになるだろう。
たとえほかの人の目にはいかに無意味に見えようとも、この歓喜の情を尊重しなければならない。
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わたしはネコに許しを請うた。それは小学4年のときに飼っていた猫であった。わたしの初めての猫であった。ある日、激しく吐くようになった。父と母はダンボール箱とガムテープで無理やり猫を
箱に詰めようとしていた。幼いわたしはその異様な光景を見て、必死でダンボール箱にしがみつき
猫を助けようとした。父は「ビニール袋かなにかを飲み込んだのだ。もう助かることはない。
死なせてやらないと可哀相だ」と。 長いこと忘れていた、この猫への悲しみと、激しい雨にけぶる荒川の真っ黒な水面と。
その水面をゆっくりと流れていくダンボール箱。
そして今は亡き父と母と。貧乏で動物病院へ連れていくカネはなかった。
強くなれ...厳しくなれ。こうした不幸を、二度と繰り返してはならない。
いっそう強く父と母へ回向をした。そしてまた、あの猫だけではない、自分が幸せにできなかった
ものたち。この心の中に「一切のものが大海のごとく、ことごとく相合流し相接触しながら、存在してるではないか」
そしてまた、自分の悲しみと すまなかったというこの気持ちも、全宇宙へと遍満してるではないか。 >>155
文学は時に自分の経験とつながることがある
ゾシマの兄にはキッカケにがあった
彼の場合は死が近づいたことがキッカケになったけど
きみにはきみの経験がとある本の内容を体験する瞬間があったんだね
この自分の体験が読んでいた本に繋がる瞬間、これも読書の意義なのかもしれないね
むしろ共感キモなのかもしれないけど 永遠の夫、って誤訳だよな
やっぱ、万年亭主のがしっくりくる >>151
俺が持ってるのは「すらすら読めるドストエフスキー」って本 埴谷雄高ドストエフスキー全論集ってむやみに分厚い本が古本屋にあったけどどうよ? >>159
その名前もみたことあるけど実際は誰がいいんだろうね
本屋でドストエフスキーの名前を目にすると気になっちゃうよね
名前ばかり覚えていくけど、内容はまったくしらないw 「ドストエフスキイの生活」は?まだ読んでないけど… やはり小林秀雄あたりがよそそう
名前的に選んではいるけど
解説本も一冊くらいとりあえず読んでみようと思う 468 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2018/09/16(日) 01:54:17.21 ID:iqXRGs5S
俺は一人でいる時にやたら独り言を話す
それも全て英語で
延々と英語で独り言を話す
何故だか分かるか
つまり、そう言う事だ ドストエフスキーを理解するには、19世紀のロシアのインテリゲンチャの状況と特殊性について理解する必要がある
それについては、小林秀雄の「ドストエフスキイの生活」は、非常に参考になる
同じ小林秀雄全集第5巻に収録されている、「ドストエフスキイの時代感覚」と「ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演」も必読 イワンの悪魔がいう、悪のみを欲して善を行う、ってメフィストフェスも同じこと言ってた気がする
かく言う人間は、善のみを欲して悪を行うんだけど
ある意味で、悪霊のテーマだよね 女「で、年収は?」
男「年収??」
女「そうとも。あんたの年収が高ければ私は働かずに生きてゆかれるからの。」 この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
哲学者が事物の本質をこの世で理解することは不可能だというのは、これがためである。神は
種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長す
べきものは成長し、成長したものは現に生活している。
しかし、それは神秘なる他界との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部
にあるこの感情が衰えるか、それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長したもの
も死滅する。その時は人生に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。
私はこのように考えている。 (H)人は同胞の審判者たり得るか? 最後までの信仰
人間は何人の審判者となることもできない。これは特に記憶すべきことである。なぜならば、
審判者が、『自分も目の前に立っている人間と同じような犯人である。否、むしろこの人間の
犯罪に対して、自分こそ最も重い責任があるのだ』と認めない限り、この地上に犯人の審判者
というものは存在し得ないのである。この理を悟った時、初めて審判者となることができる。
これは一見したところ、いかにも気ちがいじみた言葉ではあるが、動かすべからざる真理なの
である。実際、自分が正直であったなら、いま自分の前に立っている犯人は生じなかったかも
しれない。 もし人が彼の前に立って、彼の心のままに審判さるる犯人の罪を、自ら負うことができる
ならば、猶予なくそれを実行して、自ら犯人のために苦しみ、犯人はなんらの譴責もなく
赦してやるがよい。たとえ国法によって審判を命じられたのだろうとも、なお事情の許す
限り、この精神をもって行動するがよい。こうすれば犯人は法廷を去った後、他人の審判
よりさらに苛烈に、自分で自身を裁くだろう。もし犯人が審判官のキスに対してなんらの
感動をも覚えず、かえってこれを嘲笑しながら立ち去ろうとも、決して迷いを起こしては
ならない。これは詰まるところ、まだ彼の時が来ないのであって、来べき時には必ず来る
に違いない。
また来ないとしても同じことである。もし彼が悟らなければ、そのかわりにほかの者が悟
って苦しむだろう。そうして自分で自分を責めるに違いない。すると真理は充たされるこ
とになるのである。人はこれを信じなければならない、必ず信じなければならない。
この中に古聖の希望も信仰も、ことごとく蔵せられているからである。
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(我)これらは なんという思想だろうか? このような精神で行動しているもの、また胸中奥深くに
こんな思想を抱いているものが、現代世界に何人いるのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています