ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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私も「父と子」を持っている。(本当は「ルージン」が欲しいのだが手に入らない)
「悪霊」の中でツルゲーネフは女々しい恋愛小説ばかりだと批判されてるが、
それ以前にツルゲーネフの小説は普通に読むと面白くないのできっと驚くだろう
ただし一見どうでもいい内容が何を風刺しているのかが分かると話はかわる
解説を読んだり、当時のロシアの情勢を調べながら読むと良い
ツルゲーネフは社会主義革命に人生をかけていた
彼の小説の内容はすべてそれに関するものだ >>800
何を風刺しているかを気にしてみる
アドバイスどうも 岩波文庫に入っているツルゲーネフは全部読んだけど、代表作といわれる『父と子』が一番いいかな?
その次は『春の水』か『煙』 >>802
>岩波文庫に入っているツルゲーネフは全部読んだけど、代表作といわれる『父と子』が一番いいかな?
そうなら父と子を買ってみてよかったと思う
ラッキー ドストエフスキーの中で兄ミハエルに宛てた書簡(1838年、8月)がある
まず彼が17歳で書いたというのは驚き以外にはない
ぼくがとても好きな文章なんだけど、謎がある
果たしてここでドストエフスキーの思っていた発狂とはどういう意味なのだろうか
小林秀雄は考察でパスカルの、呻きながら探る人、と同じ意味を与えているが、もはや未成年の頃から自己の本質を予感する芸術家は非凡と言われるだけあると思わされる一方で、自己との対決というとても大きな苦悩をともなう運命と共にあるのだな、何て思う
以下本文↓ 確かに僕は怠け者だ。非常に怠け者です。
併し、どうも僕には、人生に対して非常に怠惰な態度を取る他に道はない。
とすればどうしたらよいか。幾時になったら、この僕の暗い心持が無くなるか見当がつきません。
惟ふにこういう心の状態は、人間だけに振り向けられたものだ。
天上のものと地上のものが混じり合って人間の魂の雰囲気が出来上がっている。
人間とは、何と不自然に創られた子供だろう。
精神界の法則というものがめちゃめちゃにやられているからです。この世は、罪深い思想によって損なわれた天上の魂達の煉獄の様に僕には思えます。
この世は途轍もない(否定的なもの)と化し、高貴なもの、美しいもの、清らかなもの悉くが一つの当てこすりとなってしまった様な気がします。
ところで、こういう絵の中に一人の人間、絵全体の内容にも形式にもよらぬ、一口に言えば全くの異邦人が現れたとしてら、どういう事になるでしょう。
絵は台無しになり、無くなってしまうでしょう。
だが、全世界がその下でうめいているお粗末な外皮が見えているこの覆いを破り、永遠と一体となるには、ただ意志をふるい起こせば足るのだとは知っている、みんな解っている。
それでいて、凡そ生き物のうちで一番のやくざ者でいるとは、これは堪らぬ事だ。人間とは何と意気地のないものか。
ハムレット、ハムレット。
彼の荒々しい、嵐のような話を思うと、足腰立たぬ全世界の嘆きが聞こえて来る様で、もう僕の胸は悲し気な不平にも非難にも騒がぬ。
僕の心はいよいよ苦しくなり、僕は知らぬ振りをする、でないと僕の心はこわれてしまいそうです。
パスカルは言った。哲学に反抗するものは自身が哲学者だ、と傷ましい考え方だ。(…) 僕には新しい計画が一つあります。発狂する事。 以下略』 ラスコーリニコフくんみたいなのが地下室でうんうんするのかと思ったら地下室の手記難しすぎワロタァ
読みにくいし偏屈なうんこが屁理屈こねくり回してるうんこの話って感じでめまいがしたんだけどこれ面白いか? 『地下室の手記』の面白さだけは良く分からないんだよね。
絶賛する人が多いけど。
筑摩・河出・新潮の全集をなめるように読んだんだけど。 >>769
最愛の父のようなゾシマがもうすぐ死にゆくと分かれば、
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この一文について、ひとことどうしても書いておきたかったことがある。
アリョーシャはゾシマから「愛されていたから」師につかえたのではない。
まったく愛されておらず、それどころかアレクセイにたいして無関心であったとしても、アリョーシャは「どこまでも師を求めたであろう」
少なくも、ぼくの「己心のアリョーシャ」ならそうする。 長老ゾシマは最初はまったく凡庸なる一修行僧であった、と想像する。
しかし彼には幼年期に得た偉大な天界への、宇宙への、発心の糸が、
種が下されていた。
この凡僧を偉大たらしめたのは、民衆の信仰であった。非常に長い時間をかけて、ゾシマは成長し、聖人とよばれるものになった。
... と空想する。 /: : : : : __: :/: : ::/: : ://: : :/l::|: : :i: :l: : :ヽ: : :丶: : 丶ヾ ___
/;,, : : : //::/: : 7l,;:≠-::/: : / .l::|: : :l: :|;,,;!: : :!l: : :i: : : :|: : ::、 / ヽ
/ヽヽ: ://: :!:,X~::|: /;,,;,/: :/ リ!: ::/ノ l`ヽl !: : |: : : :l: :l: リ / そ そ お \
/: : ヽヾ/: : l/::l |/|||llllヾ,、 / |: :/ , -==、 l\:::|: : : :|i: | / う う 前 |
. /: : : //ヾ ; :|!: イ、||ll|||||::|| ノノ イ|||||||ヾ、 |: ::|!: : イ: ::|/ な 思 が
/: : ://: : :ヽソ::ヽl |{ i||ll"ン ´ i| l|||l"l `|: /|: : /'!/l ん う
∠: : : ~: : : : : : : :丶ゝ-―- , ー=z_ソ |/ ハメ;, :: ::|. だ ん
i|::ハ: : : : : : : : : : : 、ヘヘヘヘ 、 ヘヘヘヘヘ /: : : : : \,|. ろ な
|!l |: : : : : : : : :、: ::\ 、-―-, / : : :丶;,,;,:ミヽ う ら
丶: :ハ、lヽ: :ヽ: : ::\__ `~ " /: : ト; lヽ) ゝ
レ `| `、l`、>=ニ´ , _´ : :} ` /
,,、r"^~´"''''"t-`r、 _ -、 ´ヽノ \ノ / お ・
,;'~ _r-- 、__ ~f、_>'、_ | で 前 ・
f~ ,;" ~"t___ ミ、 ^'t | は ん ・
," ,~ ヾ~'-、__ ミ_ξ丶 | な 中 ・
;' ,イ .. ヽ_ ヾ、0ヽ丶 l /
( ;":: |: :: .. .`, ヾ 丶 ! \____/
;;;; :: 入:: :: :: l`ー-、 )l ヾ 丶
"~、ソ:: :い:: : \_ ノ , ヾ 丶 >>805
> 天上のものと地上のものが混じり合って人間の魂の雰囲気が出来上がっている。
この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
哲学者が事物の本質をこの世まで理解することは不可能だというのは、これがためである。
神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして
成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。しかし、それは神秘なる他界
との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部にあるこの感情が衰えるか、
それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長したものも死滅する。その時は人生
に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。私はこのように考えてい
る。
-----------------------------------------
てもとに在る、19歳時購入の河出書房・カラー版世界文学全集より引用。
(米川正夫は昭和40年に没して、息子の米川和夫が、昭和43年改版の際に編集。旧かな旧字
体の訂正、句読点を変更して読みやすくしたもの。)
http://www.geocities.jp/lsxravine/dost/sakuhin.html
この本はボロボロになり50ページほど失われている。
ぼくは16歳のとき図書館の暗い書架ではじめて手にした世界文学がこれで、同じものを19歳
のとき買いました。ひらがなが異常なまでに多い、こちらこそがぼくにとっては『米川』で
あり、岩波の米川訳には抵抗があり、手入力で修正してます。 >>811
では、そんなあなたには米川正夫訳で
『もっとも、ぼくはなまけ者です。とてもなまけ者です。しかし、どうも仕方がありません、ぼくにとってこの世に残っている唯一のものは、不断の無為をなすことなんですもの!
いつかぼくのわびしい想念が静まることがあるやら、自分でもわかりません。
人間の宿命として与えられている状態はただ一つです。人間の魂の雰囲気は天と地の合流の中にあります。
人間はなんという反合理的な子供でしょう。精神的自然の法則が破れているですもの・・・・この世界は、罪深い想念に曇らされた天の精霊のための煉獄みたいな気がします。
この世は、否定的な意味を採ったので、高遠で優美な、精神的なものから、サテイールが出て来た、そんなふうに思われます。
もし、この画面の中に、全体と効果も思想もわかたない人間、つまりまったく関係のない人間が飛び込むとしたら、いったいどうなるでしょう?画面は台無しになって、存在することができません!
しかし、全宇宙がその下で悩んでいる固い殻のみを見ているうちに、意志がただいちど爆発さえすれば、この殻を破って、永遠と融合することができるということを知り、それを知りながら創造物の中で一番の屑でいることは・・・
ああ、恐ろしい!人間てなんという浅はかなものでしょう!
ハムレット!ハムレット!
麻痺した世界のうめきを響かしているあの荒々しい、けうとい言葉を思い出すとき、その時は、わびしい不平も非難も、ぼくの胸をしめつけはしない・・・
魂は悲哀のためにしかく圧迫されているので、おのれ自分を責めさいなまないために、それを理解するすることを恐れているです。
ある時パスカルはこういいました。
哲学に抗するものは、そのものみずから哲学者である、と。哀れな哲学者よ!』
(僕には新しい計画が一つあります。発狂する事。 ) >>807
ドストエフスキー「世界観」がこの作品からついに始まってくる。
……重要な作品です。
(*´▽`*) この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、そのかわりわれわれは他の世
界、――より高い世界と生ける連結関係を有しているという、神秘な貴い感覚を与えられて
いる。それにわれわれの思想感情の根元はこの地になくして、他の世界に存するのである。
哲学者が事物の本質をこの世まで理解することは不可能だというのは、これがためである。
神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして
成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。しかし、それは神秘なる他界
との接触感のみによって生活しているのである。もし人間の内部にあるこの感情が衰えるか、
それとも全然滅びるかしたならば、その人の内部に成長、したものも死滅する。その時は人生
に対して冷淡な心持ちになり、果ては人生を憎むようにさえなる。私はこのように考えてい
る。
-----------------------
申し訳ない。おれ以外にとってどうでもいいことだが、投稿時の「書き込みウインドウ?」上の編集でミス。
40分かけて「息子の米川和夫が、昭和43年改版の際に編集」を入力したのに、誤ってキンドルの米川正夫文をそのまま投稿してしまったことに気づいた。
残念だ。おれの40分を返せ! 下書き自動保存もできねえ2ちゃん専ブラのローテクのせいだ。
なぜ40分もかかるか?といえば、老眼がひどく、まいかい紙のテキストとディスプレイを交互に参照するのが、
苦行なんだ。
だが、このキンドル版は本家本元の米川正夫ではない。編集のなんとか氏が「勝手に現代風に変えていたり」
ミスタイプも多い。アルコール度数95℃という感じだ。おれにとって「カラマーゾフ」は昭和43年カラー版世界文学全集以外にない!!
この文のままに、おれの脳内で、言葉が響いている。
だから、キチガイじみてはいるが、後日、もういちどチャレンジさせてくれ!ゾシマのこの言葉、ドストのこの思想について。こんどこそ、かんぺきに「河出昭和43年カラー版世界文学全集」のままに引用させてくれえ!! もうたくさんだ!…ええい、もうよそうや!ふん、まあいいさ!
とかうじうじしてる割に ばかな女さ! とか女に当たるイメージが強くなってしまったw >>815
それは「悪霊」でイワンだかキリーロフが言っていることで
ロシア人は当時のアメリカ人と比べても子供であり
当然のことながらアメリカ人よりも大人のイギリス人にも劣る
ただ、そういう子供っぽさが文学的には力になるわけです
大人にとってはとるに足らないようなことでも
異常にこだわって大げさに表現するから >>756
> アリョーシャはそのそばに近寄って、額が地につくほどうやうやしく会釈したが、急に
> さめざめと泣きだした。何かしら心臓が引きちぎれて、魂が震えだすように思われた。
彼は慟哭したいような気持ちになって来た。
> 「お前はなんとしたことじゃ、泣くのはもう少し待つがよい。」長老は右の手をアリョー
> シャの頭にのせて、にっこり笑った。「わしはこの通り腰をかけて話をしている。この
> 分なら、ほんとうにまだ二十年くらい生きられるかもしれんて。
> 昨日ヴィシェゴーリエからリザヴェータという娘を抱いて来た、あの親切な優しい女房の
言うた通りかもしれんて。神様、どうぞあの母親と娘のリザヴェータをお守り下さりますよ
うに ! (と彼は十字を切った)。ポルフィーリイ、あの女の施し物をわしの言うた所へ持っ
て行ったか?」
ゾシマは死ぬことを恐れないのか。そうではあるまい。アリョーシャやポルフィーリイ
そして自分を慕う「ヴィシェゴーリエからリザヴェータという娘を抱いて来た、あの親切な
優しい女房」といった民衆。
そうした存在が、病苦をおして、長老としての自分のつとめを果たそうとさせるし、
じっさいに「死ぬことが怖くなくなる」に近い状態となり得るのではないか。 (「第六篇 ロシアの僧侶」冒頭から全文を引用してコメントを入れて
いく試み。のつづき)
「さあ、せがれ、起きなさい」と長老はアリョーシャに向かって語をついだ。
「一つおまえの顔を見せてもらおう。おまえ、うちの人たちをたずねて行ったか、
そして兄に会うたか?」
長老がこんなに正確な断固たる調子で、兄たちといわずにただ兄ときいたのが、
アリョーシャには不思議なことに思われた。しかしどっちのことだろう? どっちにして
も、長老が昨日も今日も自分を町へ送ったのは、そのひとりの兄のために相違ない。
「ふたりのうちひとりのほうだけに会いました」とアリョーシャは答えた。
「わしがいうのはな、昨日わしが額を地につけて拝(はい)をした、あの上の兄のことじゃ」
「あの兄さんとは昨日会ったばかりで、今日はどうしても見つかりませんでした」とアリョ
ーシャは答えた。
「急いで見つけるがよい。明日はまた、急いで出かけるのだぞ、何もかも棄てて急ぐ
のだぞ、まだ今のうちなら、何か恐ろしい変を未然に防ぐことができようもしれぬ、わ
しは昨日あの人の偉大なる未来の苦悩に頭を下げたのじゃ。」
彼は急に言葉をきって、何やら思い沈むかのようであった。それはふしぎな言葉
であった。 >「一つおまえの顔を見せてもらおう。おまえ、うちの人たちをたずねて行ったか、
そして兄に会うたか?」
(長老は、アレクセイの顔を見ただけで
1,「兄に会ったか」それとも「会わなかったか?」
2,アレクセイが兄や父のためにどんな仕事をしてきたか?
3,何か恐ろしい変を未然に防ぐことが可能な「顔を持つ男」たるアリョーシャ
4,ロシヤと人類の運命を内包するひとつぶの種子、それどころか、地上と天上をつなぐもの。
言葉ぬきにいっしゅんにして見抜くのであろう。
> 長老が昨日も今日も自分を町へ送ったのは、そのひとりの兄のために相違ない。
まえに「ひさしぶりに長老と会った」?という疑問がありましたが、48時間ぶりであることが判明w
アリョーシャはこのとき僧院に寝起きしていた。最初の方を精読してないから、思い出せないけど。 長老はアリョーシャのこうしたエンジェルとしての役目のためにのみ
家族の元へつかわすのではない、と思う。
「そのこと自体が」つまり兄のために、また別人のために、彼が動きまわることが
即、アリョーシャの一生の土台として、この青春の3日ほどが、彼を支えることを見て取ったのだろう。 おそらくは物語の「今」を書いているのは、ゾシマ修道院訪問から殺害まで4日〜遅く見積もっても1週間の物語なのかな
アリョーシャでいうと修道院からコーリャにはじめて会うまで4日なのかな
多分ガリラヤのカナ夢がゾシマ腐臭の後だから、ゾシマの修道院の場違いな会合から3日目後だと思われる
たぶんそんなもんだと思うんだけど、スメルジャイコフの自殺はその後と推定すると4日目か5日目?
イワンについては、フョードル殺害からからスメルジャイコフの自殺までに3回スメルジャイコフに会っている事になっているけど、発狂しているので時系列は性格に読めない
(あくまで個人的推測です) >>824
嫌いな理由がいちいち最も
凄く興味深くて面白いアンチ意見だ >>824
ドストエフスキーが死んだとき、トルストイは日記に記している。
「今や私はある精神的支柱を失った…私は戸惑い、ドストエフスキーがいかに私に近しい
存在かを悟り、泣いた。今も泣いている」 やっぱりナボコフかと思ってみたらナボコフだった
ナボコフ派のドストエフスキー嫌いは有名だよね
ドストエフスキーは良くも悪くもクセが強いからアンチもすごいいそうだよね、実際 >>820
昨日の礼拝を目撃したヨシフ主教は、パイーシイ主教と目くばせした。アリョーシャは
たまりかねて、
「長老さま、お師匠さま」となみなみならぬ興奮のていで言った。「あなたのお言葉はあ
まりにも漠然としております..... いったいどのような苦悩が兄を待ち伏せしているのでご
ざいましょう」
「もの珍しそうにきくものでない、昨日わしは何か恐ろしいことが感じられたのじ
ゃ......ちょうどあの人の目つきが、自分の運命をすっかりいい現わしておるようであ
った。あの人の目つきが一種特別なものであったので......わしは一瞬の間に、あの人が自分
で自分に加えようとしている災厄を見てとって、思わずぞっとしたのじゃ。わしは一生のう
ちに一度か二度、自分の運命を残りなく現わしているような目つきを、幾たりかの人に見受
けたが、その人たちの運命は、――悲しいかな、――わしの予想に違わなんだ。わしがお前
を町へ送ったわけはな、アレクセイ、兄弟としてのおまえの顔が、あの人の助けになること
もあろうと思うたからじゃ。しかし、何もかも神さまのおぼし召し次第じゃ。われわれの運
命とてもその数にもれぬ。『一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死な
ば多くの実を結ぶべし。』これをよう覚えておくがよい。
-------------------------------------------------------------------------------------
(長老のことばが長すぎもし、重要でもあるので、いったんここで引用を切ります) 1,昨日の礼拝を目撃したヨシフ主教は、パイーシイ主教と目くばせした。
長老の行動と言葉に「意味のないものはひとつもない」と知っているがゆえに、両主教は
「目くばせした」
2,..... いったいどのような苦悩が兄を待ち伏せしているのでございましょう」
アリョーシャはほんとうになにもわからなかった。長兄ドミートリイに「何か恐ろしい
変」「偉大なる未来の苦悩」があろうなどとは「このとき」まで考えたこともなかった。
3,昨日わしは何か恐ろしいことが感じられたのじゃ......ちょうどあの人の目つきが、自
分の運命をすっかりいい現わしておるようであった。あの人の目つきが一種特別なもので
あったので......わしは一瞬の間に、あの人が自分で自分に加えようとしている災厄を見て
とって、思わずぞっとしたのじゃ。
ゾシマは「目つき」で人間の運命を読み取る。
4,わしは一生のうちに一度か二度、自分の運命を残りなく現わしているような目つき
を、幾たりかの人に見受けたが、その人たちの運命は、――悲しいかな、――わしの予想
に違わなんだ。
ただしそれは、ゾシマの長い一生の間に「一度か二度」しかなかった。数人のひとだけが
「そういう目つきをしていた」のだ。 釈尊が在世の時代の古代インドで、多くの人命を奪い、人々から恐れられていたアングリ
マーラを巡る説話
――ある時、釈尊の姿を見かけたアングリマーラは、釈尊の命を奪おうとして、後を追い
かけた。
しかし、どれだけ足を速めても、釈尊のそばにはたどりつけない。
業を煮やした彼が立ち止まり、釈尊に「止まれ」と叫んだ。すると釈尊から返っ
てきたのは、「アングリマーラ、わたしは止まっている。おん身が止まれ」との答
えだった。
自分は足を止めているのに、なぜ、そんなことを言うのかとたずねるアングリマ
ーラに対し、釈尊はさらにこう答えた。
「止まれ」と言ったのは足のことではない。次々と命を奪うことに何の痛痒も感
じない、その行動の奥底にある害心に対し、自らを制して止まるように言ったので
ある、と。
この言葉に胸を打たれたアングリマーラは、害心を取り払って悪を断つことを決
意し、手にしていた武器を投げ捨てた。そして釈尊に、弟子に加えてほしいと願い
出た。以来、彼は釈尊に帰依し、自らが犯した罪を深く反省しながら、贖罪の思いを込
めた仏道修行にひたすら励んだ。 ――アングリマーラが托鉢をしながら街を歩いていると、難産で苦しんでいる一
人の女性を見かけた。何もできずに立ち去ったものの、女性の苦しむ姿が胸に残り、
釈尊のもとに赴いてそのことを伝えた。
釈尊はアングリマーラに対し、女性のもとに引き返して、次の言葉をかけるよう
に促した。
「わたしは生まれてからこのかた、故意に生物の命を奪った記憶がない。
このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、胎児に安らかさあらんこ
とを」と。
自分が重ねてきた悪行を知るがゆえに、アングリマーラは真意がつかめなかった。
そこで釈尊は、アングリマーラが害心を自ら取り払い、深く反省して修行を重ねて
いることに思いを至らせるかのように、改めて彼に対し、女性にこう告げるように
呼び掛けた。
「わたしはとうとい道に志す者として生まれ変わってからこのかた、故意に生物
の命を奪った記憶がない。このことの真実によっておん身に安らかさあらんことを、
胎児に安らかさあらんことを」と。
釈尊の深い思いを知ったアングリマーラは、街に戻って女性に言葉を捧げた。す
ると苦しんでいた女性は穏やかな表情を取り戻し、無事に子どもを出産することが
できたのだった―― この二つの出来事を通して、釈尊がアングリマーラに促したことは何であったか。
それは、彼を長らく突き動かしてきた害心に目を向けさせて、悪行を食い止めた
ことにとどまりませんでした。母子の命を助けるための道を照らし出し、アングリ
マーラが自らの誓いをもって“命を救う存在”になっていく方向へと、心を向けさせ
た
聖教新聞 第44回「SGIの日」記念提言上 「平和と軍縮の新
しき世紀を」 2019年1月26日(より引用) 釈迦の話は中々面白いもんだね
仏教系の本だと面白いのって何があるんだろ
ヘッセくらいしか読んだことがない >>833
仮にあなたがアングリマーラで、おれが釈迦だとしよう。
あなたの中の害心(一凶)とは、いまの場合
> 釈迦の話は中々面白いもんだね
「釈迦」に興味をひかれている点だ。だからあえてこのアングリマーラの説話の出典をふせた。
釈迦仏法などいくら知っても、まったくなんの得にもならず、人生になんの変化も起きない。のみならず
悪業を積むであろう。日蓮仏法と創価学会について知っていくべきです。
> 仏教系の本だと面白いのって何があるんだろ
> ヘッセくらいしか読んだことがない
ヘッセは外人でほんとうの仏法のことなどまったくわかっていない。
仏道修行をこころざすしかない。(どうだ?なかなかにキチガイじみたレスだろう?)
だが、常識豊かなレスなど「ほんとうの幸福」には何の役にもたたない。おれにとっても
君にとっても無益だ。 釈迦を軽んじて仏法と称するとは天皇の血を引いていない皇室のようなものだ >>836
このことは深甚の義があり、ひとつだけ説明すると「釈迦ではなく日蓮大聖人」
同じく「釈迦仏法ではなく法華経」「法華経ではなく南無妙法蓮華経」ということです。 キリスト教はそもそも世俗的な幸福を求めていない
むしろそういう世界と反対の概念を持つために、幸福どころか迫害されるし、それも苦痛を伴う
それでもキリストと共にありたい、としたのがドストエフスキー
トルストイは当時正教会に不満を持ち東洋思想に興味を持っていたようだね
仏教でもブッダにはとても興味をもってたらしい
https://jp.rbth.com/arts/2014/10/16/50677 >>838
> キリスト教はそもそも世俗的な幸福を求めていない
ああ、この奇跡、ほんとうになんというやさしい奇跡だろう。キリストは初めて奇跡を行
うときにあたって、人間の悲しみでなく喜びを訪れた、人間の喜びを助けた......「人間を
愛するものは、彼らの喜びをも愛す......」これはなくなった長老がいつもくりかえして言
われたことで、あのおかたのおもな思想の一つであった......喜びなしに生きて行くことは
できない、とミーチャは言った......そうだ、ミーチャ......すべて、真実で美しいものは、
いっさいをゆるすという気持ちに満ちている、――これもやはりあのおかたの言われたこ
とだ......』
「……イエス彼に言いけるは、婦(おんな)よ、なんじとわれとなんの係わりあらんや、
わが時はいまだいたらず。その母は僕(しもべ)どもに向かいて、彼がなんじらに命ずる
ところのことをせよと言いおけり……」
『せよ……そうだ、喜びを作らなきゃならない。だれか知らんが、貧しい、非常に貧しい
人の喜びを作らなきゃならない…
(我)世俗的な幸福と宗教的な幸福の二元対立ではないのです。どちらも人間には必須です。
ぼくはガリラヤのカナの ここのところをそう読みました。 >>838
> むしろそういう世界と反対の概念を持つために、幸福どころか迫害されるし、それも苦痛を伴う
「迫害され、苦痛を伴う」がそれを乗り切る力を自己の内部に湧き起こし、最後はかならず幸福になり、
さかえるのです。 世捨て人の自由ならエピクロスやディオゲネスで充分すぎる
釈迦も布教するとかそういう考え方に反対してたね
やりたい奴が参加して、やりたい奴らだけでやってればいい
誰かに植え付け、教化しようとする宗教は必ずそれが目的化する
日蓮聖人とかいうやつがすべて悪い >>841
> 世捨て人の自由ならエピクロスやディオゲネスで充分すぎる
レスありがとうw
だからエピクロスやディオゲネスは、民衆の信仰の対象とならなかったし、
彼らの思想はだれひとり幸福にしなかったんじゃないですか?
> 釈迦も布教するとかそういう考え方に反対してたね
もし可能なら出典を示してほしい。
> やりたい奴が参加して、やりたい奴らだけでやってればいい
> 誰かに植え付け、教化しようとする宗教は必ずそれが目的化する
あなたの我見でどう考えようと、菩薩とは「自分並びに一切衆生をことごとく
救おう」という精神です。その究極が仏です。
さきに、アングリマーラと釈迦の物語を引いたでしょう?あれはきみが
小学生の時 手塚治虫のブッダを読んだと言っていたから、これなら
わかりやすいか?とおもい引いた。アングリマーラはブッダに出てくるね。
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――ある時、釈尊の姿を見かけたアングリマーラは、釈尊の命を奪おうとして、後を追い
かけた。
しかし、どれだけ足を速めても、釈尊のそばにはたどりつけない。
業を煮やした彼が立ち止まり、釈尊に「止まれ」と叫んだ。すると釈尊から返っ
てきたのは、「アングリマーラ、わたしは止まっている。おん身が止まれ」との答
えだった。
自分は足を止めているのに、なぜ、そんなことを言うのかとたずねるアングリマ
ーラに対し、釈尊はさらにこう答えた。
「止まれ」と言ったのは足のことではない。次々と命を奪うことに何の痛痒も感
じない、その行動の奥底にある害心に対し、自らを制して止まるように言ったので
ある、と。
この言葉に胸を打たれたアングリマーラは、害心を取り払って悪を断つことを決
意し、手にしていた武器を投げ捨てた。そして釈尊に、弟子に加えてほしいと願い
出た。以来、彼は釈尊に帰依し、自らが犯した罪を深く反省しながら、贖罪の思いを込
めた仏道修行にひたすら励んだ。
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これがまさに教化です。 作り話を貼って得意になっているところ悪いけど
仏教はルサンチマンにありがちな贖罪を求める宗教ではない
君は知ったかぶりばかり
創価学会の信者は所詮この程度だということだ
嘘をついてまで創価学会に属していることを隠していたのも
本当は創価を恥じているのだろう
実は創価の本を本屋で軽く立ち読みしたことがある
ざっと言えば、進研ゼミの広告チラシに付いてる漫画のような幼稚な内容だった
進研ゼミの漫画に従えば、部活に勉強、恋愛と人生万事順調になると描かれているが、実際の受講者はそうはならない
創価学会、ひいては他の宗教もろもろがまた進研ゼミと同じような嘘つきに過ぎないことに気づきなさい
私を信じれば救われる! 進研ゼミといえば、進研ゼミか公文かで悩んで公文に行った子供時代を思い出すなあ
年末に、小林秀雄のドストエフスキーの生活を実家の埃を被った本棚で発見
値段が200円でボロボロで年季を感じたけどw、とりあえず中身は変わらないはずだから読んでみた
前半はドストエフスキーの伝記になっているんだけど、よく調べたなあ、と思うくらいこと細かかった
結構面白い本だったよ >>828(前回の引用部分にアンカーをつけます)
ところでな、アレクセイ、わしはこれまで幾度となく心の中で、そういう顔を持っている
おまえを祝福したものじゃ、今こそ打ち明けて言ってしまう。」長老は静かな微笑を浮か
べながらこう言った。「わしはおまえのことをこんなふうに考えておる、――おまえはこ
の僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮らすのじゃぞ。いろいろ多くの
敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。また人生はおまえに数々の
不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸福になることもできれば、人生を祝
福することもできるし、また他の者にも祝福させることができるであろう――それが何よ
り大切なのじゃ。よいか、おまえはこう言ったふうな人間なのじゃ。皆さん。」と彼は喜
ばしげにほほ笑みつつ、客人達の方を向いた。 (我)
1,>そういう顔を持っている
とは、目が大きいとか、賢そうな顔をしているとかではなく、福運が如是相に出ていると
いうことだと。
2,>おまえはこの僧院の壁を出て行っても、やはり僧侶として世の中に暮らすのじゃぞ
この僧院を出て俗世で暮らすのは、その目的は「自分自身が」人生を祝福し、「他の者に
も」祝福させるためである。つまり「自他ともに幸福になるため」である。僧院の中にい
るよりも、アレクセイは俗世間においてこそ、より大きな仕事をなすからである。
3,>いろいろ多くの敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。
これこそ信仰者にとってもっとも大事な生き方だとおもいます。最後は信頼されるという
こと。だから勇気です。
4,>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸
福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、また他の者にも祝福させ
ることができるであろう――
青年がもっとも信頼し傾倒しきっている長老、その言葉は奇跡としてぜったいに予言通り
になると。だからこそアリョーシャは、今後の人生においてなにが起きようと、どんな不
幸な事件が来ても、長老の自分にたいする予言を思い出し「自分はぜったいに幸福にな
る」「苦悩を使命に変える」「他の人々をも救いきっていく」そういう使命が自分にはあ
るのだ! と考える。そしてじっさいにいかなる堕落からも立ち直る。 >>845
>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸福になることもできれば…
の所はいいと感じた
不幸や苦悩は幸福に内包される、とするドストエフスキーの考えがよく出ていると思う
「幸福は快適な生活の中にはない。幸福は苦痛によってあがなわれる。人間は幸福のために生まれるのではない。人間は自分の幸福をあがない取るのだ。しかも常に苦痛によって。」
『罪と罰』の創作ノート
「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
『作家の日記』
「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。」
『悪霊』 >>847
レスが遅くてごめん。
とりいそぎひとつだけ。
>「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
『作家の日記』
この言葉は前後の文脈がないから正確に判断できないが「まったく意味不明」と感じた。
「なぜ不幸なのかを知る」ことが、少なくとも「最大の幸福」なのか? >>848
>「なぜ不幸なのかを知る」ことが、少なくとも「最大の幸福」なのか?
なぜ幸福なのかを考えるのも、なぜ不幸なのかを考えるのも、なぜそう思うかをこの私が考えているだけで、だから結局同じことという意味じゃないかな
ゾシマ兄が自分が幸福と知りさえすれば楽園はもうあるといったように、キリーロフがすべていいという事を知りさえすればすべてが良くなると言ったみたいな
幸福と不幸繋がっているので、一方を知るなら一方も知った事になるのかもしれない
幸福も不幸も状態の概念だから、つまるところ認識の問題なんだと思う
「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて!それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。」(悪霊 キリーロフ ) 単にキリスト教的発想に見えるが
苦痛を感じることで精神の解放を感じるとか
よくモチーフになるじゃん
そのバリエじゃないの 苦痛とは神から与えられた試練であり
それによって人は精神性を獲得して神の存在を知覚できる
つまりもっとも惨めな時こそ私は偉大になれるという
キルケゴール的神学あるいはヌミノーゼのようなものだけど
キリーロフの議論はそれとはちょっと違う
「神」の捏造によって現状の苦痛を合理化するのではなく
この苦痛を無根拠なものとして引き受けることによって
創造性へと転化しようとする意志の哲学であり
これは後のニーチェの超人思想やカミュのシジフォスの神話のようなもので
ドストエフスキーが後世の作家たちに与えた影響の強さがうかがい知れる >「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
-----------------------------------------------------------------------------------
作家が日記にしるした時の、そのときの心持ちを、言葉で表白した。
それにたいし、カラマーゾフの「ロシアの僧侶」のところは、後世まで残るような智慧の言葉として
書かれている... ... みたいに感じた。 >>851
>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸
福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、また他の者にも祝福させ
ることができるであろう――
---------------------------------------------------------------------------------
ゾシマがアレクセイに送ったこの言葉の意味するところは
> 苦痛とは神から与えられた試練であり
> それによって人は精神性を獲得して神の存在を知覚できる
> つまりもっとも惨めな時こそ私は偉大になれる
でもなければ、
> キリーロフの議論はそれとはちょっと違う
> 「神」の捏造によって現状の苦痛を合理化するのではなく
> この苦痛を無根拠なものとして引き受けることによって
> 創造性へと転化しようとする意志の哲学であり
> これは後のニーチェの超人思想やカミュのシジフォスの神話のようなもので
でもない、と思う。どちらも確実にちがうと思う。 言葉足らずでした。
> 苦痛とは神から与えられた試練であり
これは宗教的な世界解釈として当然そのとおりなんですが、
問題はつぎの箇所で
> それによって人は精神性を獲得して神の存在を知覚できる
> つまりもっとも惨めな時こそ私は偉大になれる
不幸や苦痛が「即」「精神性を獲得」や、「神の存在を知覚」にならないと。
もっとも惨めな時「即」私は偉大になれる とはならない。
------------------------------------------------------------------
3,>いろいろ多くの敵を作るだろうが、その敵さえもおまえを愛するようになる。
4,>また人生はおまえに数々の不幸をもたらすけれど、その不幸によっておまえは幸
福になることもできれば、人生を祝福することもできるし、また他の者にも祝福させ
ることができるであろう――
------------------------------------------------------------------
ゾシマの教え3,4 ともに、時間の経過を「始中終」でザックリ考えたとき、3においては
始めと中において、>いろいろ多くの敵を作る が
最終的に、>その敵さえもおまえを愛するようになる。
4では、始め>人生はおまえに数々の不幸をもたらす 中程も >その不幸はつづく 終わりに
>その不幸によっておまえは大きな幸福を得る
とぼくは解釈します。 >>851
そう言われるとそうだね
神に与えられた試練としての不幸や苦痛の肯定と、キリーロフのような無根拠なものとして不幸と苦痛を全肯定するのでは本質が違う
最大の必然性に見舞われた時に神の存在が近くなるようなキリスト教的世界観があるのかもしれない > キリーロフの議論はそれとはちょっと違う
> 「神」の捏造によって現状の苦痛を合理化するのではなく
> この苦痛を無根拠なものとして引き受けることによって
> 創造性へと転化しようとする意志の哲学であり
> これは後のニーチェの超人思想やカミュのシジフォスの神話のようなもので
---------------
キリーロフの議論未読、カミュのシジフォスの神話未読でしつれいだが、おそらくこれは
観念論に過ぎない。
というのは、キリスト教信仰の神であれ、日蓮仏法の転重軽受 ·願兼於業・変毒為薬と
いった「苦悩を乗り越える」「苦悩を使命に変える」といった信仰であれ、多くの現実の
自分のまわりにいる近しい人々の信仰があって、支えがあって、はじめて「自分ひとりで
はない」「自分もかならず乗り越えられる」と実感できるからだ。
うまく説明できないが、これこそが「観念論・哲学」と「信仰・宗教」との違いだとおも
う。 病人を聖体のそばへ連れて行くやいなや、今まで荒れ狂ったりもがいたりしていたものが、
急になおってしまうという奇妙な事実も、『あれはただの芝居だ、ことによったら『いん
ちき坊主 』どもの 手品 かも しれ ぬ』と人はいうけれど、おそらくきわめて自然に生じ
るのであろう。つまり病人を聖体のそばへ連れていく女たちもまた病人自身も、こうして
聖体 のそばへ寄って、頭をかがめたとき、病人に取りついている悪霊が、どうしても踏
みこたえることができないものと、確固とした 真理 かなんぞのように信じ 切っ て いる。
それゆえ必然的な治療の奇跡を期待する心と、その奇跡の出現を信じきっている心とが、
聖体の前にかがんだ瞬間、神経 的にそしてもちろん精神的にも病める女の肉体 組織に、
非常な激動をひき起こすのであろう( いな、ひき起こすべき はず で ある)。
かよう に し て 奇跡 は わずか の 間 ながら 実現 する ので あっ た。 長老 が 病人
を 袈裟 で 蔽う た とき、 ちょうど これ と 同じ こと が 生じ た ので ある。 長老
の そば 近く 押しかけ て いる 女達 は、 その 瞬間 の 印象 に 呼び 醒さ れ た 歓喜 と
感動 の 涙 に 暮れ た。
(我)この場合治ることよりも重要なのは、「 歓喜 と 感動」なのである。それがあれば
こそ、狂い女の病をも喜んで周囲が支えいくのである。 病人を聖体のそばへ連れて行くやいなや、今まで荒れ狂ったりもがいたりしていた
ものが、急になおってしまうという奇妙な事実も、『あれはただの芝居だ、ことによった
ら『いんちき坊主 』どもの 手品 かも しれ ぬ』と人はいうけれど、おそらくきわめて
自然に生じるのであろう。つまり病人を聖体のそばへ連れていく女たちもまた病人自
身も、こうして聖体のそばへ寄って、頭をかがめたとき、病人に取りついている悪霊が、
どうしても踏みこたえることができないものと、確固とした 真理 かなんぞのように信じ
切っ て いる。それゆえ必然的な治療の奇跡を期待する心と、その奇跡の出現を信じ
きっている心とが、聖体の前にかがんだ瞬間、神経的にそしてもちろん精神的にも病める
女の肉体組織に、非常な激動をひき起こすのであろう( いな、ひき起こすべきはずであ
る)。
(我 : ( いな、ひき起こすべきはずである)の注記はドストエフスキー自身の信仰を表す
る)
かようにして奇跡はわずかの間ながら実現するのであった。長老が病人を袈裟で蔽う
たとき、ちょうどこれと同じことが生じたのである。長老のそば近く押しかけている女達
は、その瞬間の印象に呼び 醒された歓喜と感動の涙にくれた。 (文字が小さくなったので、整形しなおして投稿。)
「知る」のではなく「信じる」
たとえばあるひとが、書店で宗教の書籍を手にとったとする。「なんじゃそりゃ」となる。とうぜんです。
信じていないから。
引用したゾシマと信心深い農婦たちの話は、つまりゾシマを中心とした信仰・宗教共同体です。
単に一個人の思想ではない。
同じように、創価学会の書籍に書かれている教えというのは、日蓮仏法と池田先生の指導をぜったいに信じ切る
民衆のものがたりであり、その教えの核心は「南無妙法蓮華経の唱題→生命力向上・絶対的幸福」であり、これを
全学会員が(どんなに信力弱きメンバーでさえも)体験し、確信しきっているゆえに、御本尊中心の団結であるから永遠に崩れることはない。
「知る」のではなく「体験」する
(すまん。持病の鼻詰まりでよく眠れんかってw 論点がずれてきたww もうやめる)
たとえば池田先生が「いじめはいじめる方が一〇〇パーセン悪い」と発言された。一般人が同じ言葉をいえば
議論百出する。(2ちゃんのようなもの)いわく「イジメられる方に幼稚な点があるからだ。イジメられる方の
人間的成長が必要だ」とか「イジメはなくならないサ」とか。
その指導が出たとたん 全学会員はトップの幹部から最末端のおれらまで、ぜんいん「いじめはいじめる方が一〇〇パーセン悪い!」という確信をもって動き語る。 イヴァンが強力な知性と意思をもっていても、信仰共同体の中に入っておらず、自分一個の観念の世界で
信仰について考えることは。。。
ラキーチンが世知に長けていて、しかもその身はゾシマの教会に属していても、その心は開いておらず、
まったくメンバーではない。。。
だめだ!寝不足でことばが出てこない、やめる うおう!ごめんなみんな!!だれも書いてねえ、書く気が起きねえんだろ?
おれが創価ネタでこのドストスレを乗っ取るからか??
カラマーゾフで信仰の話主体だから、どうしても出てしまうんだよね!
おれの引用する美しくも気高いカラマーゾフの引用文にだけ注目してくれたらいいんだ。
信心はだれにも強制できない。あたりまえだけど。ドシドシ悪口書いてくれたまえw
だいたいおれが悪いよね。いくら2ちゃんで遠慮なしとはいえ。リアルだったら、ぶん殴られたり
会社クビになったり、きびしい反響がある。おれは卑怯者だね!
じゃ、みんなおやすみ。 唯心論者たちが適当なことずらずら書いてるだけで不毛だな
「自分は特別な存在だ」「自分には神の声が聞こえる」と誇大妄想にとりつかれた変な人たちが下らない思い付きと信念の表明を書いて議論しても話は噛み合わずに平行線のまま
もう少しリアリストになりなさい >>862
まー、そーいう時もあるよ
レスがなかったのは話の流れがなかっただけで君のせいってだけじゃないさ
斜陽が終わったので、今日あたりからツルゲーネフの父と子を読む予定
楽しみだ ドストってすごい人生だね。まさに破天荒w
政治活動、ギャンブル、女!! 太宰治を更にやばくしたような男w
思想や信仰の変遷ってかなりある?若いときからキリスト教に帰依してたの?
シベリアで聖書しか持ち込めなかったらしいからそのときに信仰が
深まったのかな? 実際よく人間の残忍な行為を『野獣のようだ』というが、それは野獣にとって不公平でもあり、かつ侮辱でもあるのだ。
なぜって、野獣は決して人間のように残忍なことはできやしない。あんなに技巧的
に芸術的に残酷なことはできやしない。虎はただ噛むとか引き裂くとか、そんなこと
しかできないのだ。人間の耳を一晩じゅう釘づけにしておくなんて、たとえ虎にそん
なことができるとしても、思い付けるもんじゃない。
とイヴァンカラマーゾフはいったが、きょうライオン兄弟の宿命という動画を見たんだ。
このドキュメンタリーの最後に研究者が語る「ライオンというものはひじょうに可愛いが、
その反面信じられないほどの邪悪さをもっている」と。
とにかく、ナチスのユダヤ人虐殺どころじゃないメチャクチャな動画だった。つまりなにが言いたいかというと、イヴァンのこの認識さえ、現実を把握してないということなんだ。 キリーロフは汎神論者としての反帝政なのかな
帝政では皇帝が神であり、逆らう者には死の恐怖がもたらされるからね
人神が神=死(権力)を恐れ敬わなくなると、帝政は柱から崩れ去るというわけだ 全盛期に滋賀のおバカ高校行ってたおっさんだけどパンチラなんて当時は日常的な光景で全くありがたみなんてなかったぞ。
普通に生活してるだけで毎日5人くらいのパンツ見てたし。見る気になったら20人くらい見れてたんじゃないだろうか。
むしろ友達の女の子とかなら汚いもん見せんなやって言ってたなぁ。
当時クラスにいた1番スカート短い奴はチャリのサドルにスカートを挟めへんって言ってたわ。普通に前を歩いてるだけでチラチラ見えるから今日はピンクか?って聞いたりするとめくって見せてきたりしてた。
やっぱり今思うと貞操観念が狂ってたんだろうね。
3年の時に元カノ6人と同じクラスになるというミラクルが起こったんだけど、それくらい付き合ってSEXするということが安売りされてた。周りもそんなのばっかだったから兄弟姉妹で溢れてた。今思うと相当狂ってたしゾッとするわ。 >>866
獣が邪悪さを持っていたとしても、イワンのいう邪悪さとは異なるんじゃないかな
ドストエフスキーのいう邪悪さとは快楽と同居するという意味で禍々しい人間的嗜好、という意味に近いんだと思う
カラマーゾフでイワンが人間には幼児虐待の嗜好がある、と言ったような邪悪さ >>865
おそらくは死刑宣告がキッカケだと想定しているよ
死の先駆はどんな価値観に変換されてもおかしくはないと思われる
死と宗教は類似しているからね >>867
ドストエフスキーは皇帝至上主義に批判的だったといわれているから、キリーロフのような人神論考え出すようなキャラクターに、そういう反帝政の意味があっても自然な事になるね
汎神論者かどうかは推測したけど分からなかった キリストを愛し、愛されているという感覚ではないのかな
最晩年ドストエーフスキーは。
汎神論者はゲーテか。
大天才のふたりだから通常人とは「神」と言っても認識の仕方が異なると思っています。 ドストエーフスキーは、
リアリズムに徹して作品を創造。
V・E・フランクル『夜と霧』を想起。 >>872
ドストエフスキーは神の認識について人格を持った神を強く意識したのだと思います
彼にとって神とは絶対の道徳ではなくてはならず、また対峙できる神である必要があったのだと
そうでなければ世界の矛盾に向き合えなかったのでは、なんて思っています
知と愛はぼくもヘッセの中で大好きです
そしてナルチス派かなw
「われわれの思索は、絶えざる抽象であり、感覚的なものの無視であり、純粋に精神的な世界の建設の試みである。しかし君はまさに反対に、最も変わりやすく生命のはかないものを抱き取って、まさに無情なものの中に存在する世界の意味を告げ知らす。
君は無常なものも無視せず、それに心を打ちこむ。君の献身によってそれが最高のものとなり、永遠なものの比喩となる。われわれ思索家は、世界を神から引き放すことによって、神に近づく。」 そのなかにある中編(作中の主人公、ヨーゼフクネヒトが書いたとされる「3つのものがたり」 >>881
読んでないです
代表作をいくつか読んだにすぎないヘッセシロウトです
おススメですか >>884
究極おすすめですW
いきなり本文を飛ばし、その3つの中編から読むことをおすすめ
ものすごく易読。 あなたの読書力なら 舐めるように一文字ずつ精読しても 2日でひとつ読めます 「雨ごい師」、「ざんげ聴聞師」、「インドの履歴書」という3つの物語
ぼくはとくに「雨ごい師」「ざんげ聴聞師」が好きです。
それは師弟のものがたりだからです。少年があるいは青年が、年長の模範となるべき人物に
したがって人生の目を開いていくものがたりだからです! だいぶヘッセに詳しいんだね
本屋に寄ったらこのスレ思い出して挙がっている本は手にとってみますw
『ガラス玉演戯』はなんか気になる 真昼の月っていう昔の常盤貴子のドラマで草むらでレイプされるやつクッソ抜けた
本当にガチなレイプで抜きたい気分のときは、このドラマを見返してる
AV女優の演技なんてやっすいのがわかる
本当にレイプされる恐怖心ってすごいんだなって思うと更に抜ける
オレは常にガチレイプで抜きたい派なんだけど、
そんな物はもちろん持ってないからAVのよく出来たお気に入りのシーンを眺めながら
あとは想像を交えて頭の中でガチレイプを展開して抜いている
真昼の月も年に数回使っている
演技力って大事なのが分かるよな
AVとかだとレイプされてるのににやけてる奴とかいるしガン萎え
下手したら自分から脱げやすいようにしてたり、自分から咥えてたり…
騎乗位しながら両手で手コキまでしてたらもう笑うしかないわな >>889
誤爆?
それともコピペ?
>AV女優の演技なんてやっすいのがわかる
>本当にレイプされる恐怖心ってすごいんだなって思うと更に抜ける
需要を考えればリアルにはできないよ
ただ舞台などで場数を踏んでいた霧島さくらとかは演技が上手いよ ドス好きはやはり
トルストイ、カミュ、ヘッセ辺りが好きなのかな? >>882
てか絶版じゃん
プレミアムついて中古でいい値段するんだけど >>894
古本屋でよく見かけるよ。
新潮文庫の水色の表紙。 「ガラス玉演戯」ってヘッセの代表作って言われてるし結構な長編なのに
新潮文庫が絶版ておかしいよな。
「二重人格」読了。
失敗作という評価が定着してるみたいだけど確かにこれは受けないな。
ゴーゴリの影響受けまくり。 >>893
古典好きが多いと思うからその辺りははずせないね
>>895
古本屋を気にしてみる
でもそんなに近くに古本屋ないんだよなー ドストエフスキー関連の本を読んでいて、彼のとても明確な信仰観がのっていた
たとえーーでも、私はーーに留まるだろう。
という意思は、やがてくる未来の自分そのものを束縛してしまうほどの強さを感じる
理性で厳密に選んだのか、盲信であるのかは定かではないが、なかなかの社会主義者だった彼がキリスト教に傾倒した心理的な理由とは何だったのだろうか、なんて考えた 続き
ナタリヤ‐ドミートリエヴナ‐フォンヴージン夫人への書簡より
わたしは自分のことを申しますが、わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われる まで、不信と懐疑の子です。
この信仰に対する渇望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶に値した か、また現に値しているか、わからないほどです。
その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、 いよいよ魂の中に根を張るのです。
とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。
そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。
つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです。
このシンボルはきわめて簡単であって、すなわち次のとおりです。キリストより以上に美しく、深く、同情のある、 理性的な、雄々しい、完璧なものは、何ひとつないということです。
単に、ないばかりではなく、あり得ないとこう自分で自分に、烈しい愛をもって断言しています。
のみならず、もしだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています