★★★大江健三郎スレ2★★★
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大江健三郎
1935年1月31日生まれ
1994年 ノーベル文学賞受賞
2018年 大江健三郎全小説刊行開始
前スレ
★★★大江健三郎スレ★★★
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1484634141/ 群像2018年10月号(9月7日発売)
定価(税込):980円
蓮實重彦「大震災で映画と出会った男 ―プロデューサー城戸四郎―」
特別対談
筒井康隆×蓮實重彦「同時代の大江健三郎」特別対談
一九二八年のモスクワの街に、日本人が大挙して現れる。歌舞伎の初海外公演がソ連邦の首都で行われる。そのなかに松竹の名プロデューサーがいた。蓮實重彦の評論「大震災で映画と出会った男 ―プロデューサー城戸四郎―」 蓮実重彦の学者としてではなく評論家としての活動はけっこういい加減というか
マウンティング取りたさが勝って理屈が後からくるみたいなところがあると思うが
元東大総長の肩書きのせいで盲信されすぎじゃないかと その情報コピペなんでそうなってるか知らないが対談は8月号に載ってるから
発注注意しとけよ
後内容があまり無いからガッカリすると思うよ >>103
文学好きの人間には、東大総長の肩書は権威にならないよ・・・
ノーベル文学賞なら権威になるけどw 蓮実は偉そうさが実ってたいしたこと言っていない割に80年代には完全に権威だったから東大総長関係無いわな >>107
なんの権威?
まさか、「表層批評宣言」みたいな駄文が権威になってるの?
いや、それしか読んでないんだけどさw >>105
目次読んで「ねえじゃん」と思いました完全に騙された… >>105
101のこぴぺ最初、蓮實 のとこに貼って
あっ大江もあるんだなと思って。。。。。
気づかなかった 蓮実については春樹を腐してピンチョンを持ち上げてるのがかなり無理があると思ったな
小説が説話的な構造に還元されてしまうことの弱さと春樹を批判してたが
ピンチョンもおもっくそ説話的な構造に還元できる作家じゃん 小説はオワコンか? ふたりの知識人が語る「これからの文学」の定義 『大江健三郎 柄谷行人全対話』より
佐藤 優
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57080 読む前に みつけて貼ったけど
あまり中身なかった
著者名からお察しとは言ってくれるな 小説が近代の産物っていうのは正しいんだろうか
アプレイウスや紫式部やボッカッチョはどうなるの? >>116
世界中にある神話も相当古いが、小説と区別するのは難しいだろうな。
要するに、なにかの指標を基準に定義しないと、小説とはなにかも決められないし、もちろん終わりも始めも決めようがない。 広く読まれ近代国民の国民の生成に一役買った
とかじゃないの
柄谷がいう小説は >>118
いくら柄谷でも、そこまでバカな定義はしないだろう。 別にバカだとは思わないよ
これは特に柄谷の創見でもなく
柄谷が参照しているBアンダーソンの議論でもあって
いまではごくごく一般的な見解でしょう 太宰が小説など女子供が読むもので良い大人が机を叩いて
議論するような代物じゃないと言ってるけど、全くその通り。
基本はこれで何度でもこれに立ち返るべきだ。
そして大江の小説はほんとゴミ。人間もゴミ。日本のテロリスト。 >>120
近代国家は概念として許せるとして、国民の生成に一役買うってなんだよ?w
あたまにウジでも湧いてるのか? 細かな是非は色々あれど、その議論そのものを
知らないというなら珍しいね >>123
『想像の共同体』なんか、吉本隆明の劣化版だぜ?w
なんでそんな人の著作を追いかけなきゃいけないんだ?
それとも、『共同幻想論』も読んでないのか? 柄谷の議論は大げさだなあ
小説と国家を結びつけたり、でかい話にしすぎだと思う
紙と印刷術が普及して、誰でもいくらでも書けるようなテクノロジーが進化したから
韻文から散文へ、小説へと移行しただけだと思うけど
昔は紙もなく書ける人も少なかったから、情報を圧縮した韻文で書くことが求められただけで
テクが発達して誰でも書けるようになると散文に移行したって理解だけどな >>124
フランス語とフランス文学の関係でも似た議論あるだろう
吉本云々ってブーメランだよw 「国民」という言葉は使わないだろうけど、「近代文学」について何か言ってたね。でもそれはもう終わったという立場でしょ。文学なんてないんだよ、という。中上が死んでから、ずっとそれが言いたかったんだろうな。 近代以後の日本語文学で言えば
私小説以上の様式は今後生まれないだろう
アメリカ黒人がコンボジャズ以上の
ハイアートを今後創出できないのと同じで
俺の場合そういう様式を終わったと表現する 近代小説が近代のネ ーション形成の基盤であったことは否定できない事実です 。
今日ではもうネ ーション ゠ステ ートが確立しています 。つまり 、世界各地で 、
ネ ーションとしての同一性はすっかり根を下ろしています 。そのためにはかつて文学が不可欠であったのですが 、
もうそのような同一性を想像的に作り出す必要はない 。
「文学 」が倫理的 ・知的な課題を背負うがゆえに影響力をもつというような時代は基本的に終っています 。
「近代文学の終り 」 >>126
なにがブーメラン?
『共同幻想論』も知らずに柄谷に触れて、おまけに曲解する程度の日本語力で「一般的な見解」とか「似た議論」とか。
やっぱり、頭にウジが湧いてるんじゃないか? 共同幻想論は
吉本の
ボクノカンガエタサイキョウノコッカロン
に過ぎず検討に値しない >>132
読んでないんだなw
読んでからバカにしろよ。 柄谷は吉本の体系を受け入れる気がないから読まないし言及しないと言ってたな
それはともかく、近代文学がネーションの形成に貢献した面があったとしても単純化しすぎでしょう
ネーション形成への貢献度でいえば長編叙事詩の方がはるかに大きいし
近代小説は基本的に個人を書くものだから民主国家との相性はいいけど言うまでもなく民主国家=ネーションステートではない
柄谷の理屈は単純化されすぎてて漫画みたいだ 一八世紀に 「美学 」という概念が登場したことは重要です 。
そこに 、感性に対する新たな態度があります 。感性 ・感情はこれまで哲学において人間的能力として下位におかれてきた 。
むしろそこから離れて 、理性的であることが望ましかった 。
ところが 、感性 ・感情が知的 ・道徳的な能力 (悟性や理性 )と密かにつながっていること 、
そして 、それらを媒介するものが想像力だという考えが出てきたのです
これまでたんなる感性的な娯楽のための読み物であった 「小説 」が 、哲学や宗教とは異なるが 、
より認識的であり真に道徳的であるような可能性が見出されるということでもあります 。
小説は 、 「共感 」の共同体 、つまり想像の共同体としてのネ ーションの基盤になります 。
小説が 、知識人と大衆 、あるいは 、さまざまな社会的階層を 「共感 」によって同一的たらしめ 、ネ ーションを形成するのです 。
この結果 、それまで低かった小説の地位は上昇します >>134
ギリシア哲学には美学がない、と?
ギリシア哲学ではエトスもパトスも下位の評価だ、と?
ギリシア哲学には政治学がない、と?
どこまで恥を晒すつもりなんだ? >>136
>>134ではなく、>>135あての間違い。
許されよw わかる人は既にわかってると思うけど
もちろんここでいう美学はカントの判断力批判ね 知恵遅れだな。父として進まず マラルメ GOD FARTHER >>138
>>135
>感性 ・感情はこれまで哲学において人間的能力として下位におかれてきた
アリストテレスを読んだことがないの?
そこから説明してね。 >>135
それによって破廉恥で気狂いの大江が勝ち誇るような
気狂いの事態になるのですか?そんなものは破壊した方が良い。 >>134だが
大学で美学専攻だったけど美学史はピュタゴラスから始めてたぞ
テオリア、プラクシス、ポイエーシスというギリシャ哲学の三分類のうちポイエーシスの大部分がそのまま後世美学とみなされた内容に当たるので、
美学の始まりが18世紀というのはあり得ない
あと、近代ドイツ美学の始まりはカントの判断力批判ではなくバウムガルテンの美学 >>144
それは柄谷の引用で
後段文からわかるように柄谷は近代理性主義、合理主義に判断力が組み込まれた
ということを論じているのであってアリストテレス など端的に関係ない 130で引用の「近代文学の終わり」の最後の行は曖昧だな。
これだけでは分からない。
この引用元の本は2005年11月に出てるんだが、
柄谷にとって具体的に「近代の終わり」とは何年頃のことなんだ?
130の引用の終わりは、「終わっています」であり、「終わりました」じゃない。
これからすると、柄谷からすれば現在も「近代」ってことなんだろう? ドゥルーズはヴィム・ヴェンダースの映画wings of desireを見て、ネーションステートを越える映画―音楽について考えたんだが、柄谷は?
まあ、○○は終わったとか言い切る癖だけは柄谷や浅田、蓮實らポストモダニストの癖だよなw 冒頭
今日は 「近代文学の終り 」について話します 。それは近代文学の後に 、
たとえばポストモダン文学があるというようなことではないし 、また 、文学が一切なくなってしまうということでもありません 。
私が話したいのは 、近代において文学が特殊な意味を与えられていて 、だからこそ特殊な重要性 、特殊な価値があったということ 、
そして 、それがもう無くなってしまったということなのです 。
これは 、私が声高く言ってまわるような事柄ではありません 。端的な事実です 。
略
私は自分が日本で文学批評をやってきた経験からいうのですが 、近代文学は一九八〇年代に終ったという実感があります 。
いわゆるバブル 、消費社会 、ポストモダンといわれた時期です 。そのころの若い人たちの多くは 、小説よりも 現代思想 ≠読んだ 。
いいかえれば 、それまでのように 、文学が先端的な意味をもたなくなっていました 。
引用の補足
柄谷は近代の終わりではなく近代文学(文学が特殊な意味を与えられ…)の終わりを論じている
さらに近代文学の終わり、とは論の結論ではなく論の端緒であって
多くの皆さんは事実問題として(上記の意味の)近代文学の終わりを実感し合意できるんじゃないですか?と説き起こして
なんでそういうことが起こったか、は歴史的カラクリがあるんですよ、というカラクリを論じている
あと引用はしてないが、他国でも近代文学の終わりの兆しが観察できる実例も紹介している ○○は終わったとか言う奴はそいつ自身が終わってるってことなんだよ。
5ch芸スポの音楽スレでジジババ達が「ロックは終わった」や「楽器を演奏する音楽は終わった」、「ギターは終わった」の大合唱なんだが、それを言う奴らは既に音楽に対する関心を失ってる、つまりそいつら自身が「死んでる」。
これは普遍的真理。 マジックというよりも
社会構成主義的議論が尽くされた、逆に言うと
普通の発想になったということだよ
近代に誕生した!論の揺れ戻し 話が文が気からそれるが一応そこにコメントするが
実際に今のポピュラー音楽の状況をフラットに観察すればギターロックが終わっているのは端的に事実だろう
むしろジジババの感性が鈍磨しているからリアルタイムの音楽について行けずギターロックにいまだ執着している
終わっている、死んでいる
というのが正しいんじゃないか? >>151
俺は漢詩好きだし読むが様式としては大昔に終わっている
個人の鑑賞量や古典化が絡んでいるので
関心を失うという問題もそのなかで積極的な意味がある >>153
まあそんな感じでもあるだろうな
ひとつにはギターの大衆化が終わって
文化的に逸脱的な存在じゃなくなったってこと >>149
もう、諦めろよ。
君はあまりに知識がなさすぎる。
柄谷にしがみついても、なにも得るものはないよ。 柄谷の次はギターの話か・・・w
ピアノなら、大江光といくらか関係があるかな? 史記を小説だといってきかない馬鹿が
何を言おうがどうでもいいがな >>156
ある段階から君は真面目に話す相手じゃないと見切ってるんだよね
引用は君相手にやっているわけでもないし
君と会話する気もないから絡んでこないでね >>159
見切ったとは大きく出たねw
自分の無知を自覚して、少しは勉強しろよ。
無知を知ることこそ、知、だぞ?w 大江スレで柄谷出したりギターの話出したりする奇妙な人々は、なにが言いたいんだろう?
大江が現代の文学者として最高峰だということに異論がある人はいないだろう。
その大江の話をせずに、言葉の定義もできない中途半端な批評家の言葉を引用したり、音楽の豆知識とかを披露してる。
大丈夫かな? 「セヴンティーン」「政治少年死す」の若者は、掃き捨てられるべき人間なのか、称賛されるべき人間なのか?
それとも、ごく普通の高校生となにも変わるところはないのか?
僕は、ごく普通の若者を、大江が見事に描き切ったと思うんだけどね。 >>146
バウムガルテンの美学の主な由来の一つはプロティノス
プロティノスの客観的な合理性とは独立した内観を重んじる思想は中世スコラ哲学と近代の神秘主義的な思想のかなりの部分を規定しているので
(例えばアンセルムスやマールブランシュ)
非合理性がカントの美学において初めて現れたという主張は成り立たない
あと、カントが感覚を主要な論点にしているのは経験論と大陸合理論の統合を図ったからで、
感性についての論はカント以前の経験論の伝統に由来しているし、これは少なくともストア派まで遡れる
だからカントにおいて感性が初めて哲学の話題になったというのも大間違い 文脈無視で知識の羅列ではなくちゃんと文脈をおさえてね
カントが何故大哲学者として高く評価されているか?
それはまさに仰る通り
>経験論と大陸合理論の統合を図ったから
じゃないんですかね?
つまり理性重視の大陸の近代哲学に、感性を重要なものとして組み込んだのはまさにカントその人であって
そこをいっているのに
感性論単体の由来がどこまで遡れる、なんて完全に論点がずれている
やりたければ勝手にやればいいが絡まれて知らないよ
そんな話はこっちはしてないんだから むやみに人名や知識を羅列する人いるんだよな
あれ恥ずかしいからやめたほうがいいんだけど
自分で未整理のままだから
少し突っ込むとぐちゃぐちゃになる まあ、柄谷が個人的、行人的に世界の近・現代文学に関心を失ったということを
告白してるだけだろ。
彼は2005年に文芸批評引退宣言をしてた訳だ。
>>154
漢詩は狭い範囲のことであって、柄谷の言うのは遥かに広い範囲のことを指してる。 まあ、彫刻の場合はBrancusiブランクーシでBrancusi近代彫刻は終わったのではないか?
近代文学以降との対応があるとすれば、ブランクーシ以降の彫刻作品の超巨大化の現象はある意味formフォームの消滅と言って良いかもしれない(視認性の消滅という意味で)に相当するものが近代以降の文学にもあるのではないか?
古代ギリシャの時代区分でリード的役割を果たしたのは彫刻だった。 まあ、ブランクーシや近代については未だ言い足りない。
近代の幕開けはイタリア・ルネッサンスのコントラポスト(古代ギリシャ彫刻の)の
再発見に始まり、近代はブランクーシ流のコントラポストで終わったと思う。
ブランクーシ流とはフォームの「形成」と「融解」のコントラポストだったと思う。
そして、彼以後の彫刻は「融解」から「拡散」の方向に向かって行ったと俺は考える。
近代文学はそれに符牒を合わせてきただけではないか?という仮説はどうだろうか。 >>165
>>135では哲学において感性が理性の下位に置かれていて注目されていなかったと言ってるじゃん
これはカントの論点とは違う主張で、そこがおかしいと言っているんだよ
あと、共感によって道徳観や美意識が形成されるというのはまさにプラトンやアリストテレスのミメーシスについての議論の論旨で、やはり18世紀起源のものではない
あえて言うなら用語系が違うだけ 国立も女子大の方が優勢だろうな。女学院とか。東京程度じゃ。 哲学というのは大枠において似たような議論が
歴史の進展、社会やテクノロジーの発展、人間観の変遷に応じ
繰り返しされるものではないんですか?
それでカントとプラトンは、あえて違いをだすなら用語系が違うだけで同じになるんですか?
ちょっと呆れてしまうんだけど
近代の時代を背負ってされている議論はすぐれて近代の議論ですよ
古代にも同型の議論があった、と指摘してもまあいいけど意義はあまりないよね
結局、リテラルに美学の一単語に脊椎反射で反応してただけですよね 試験で読み書きしてる数学じゃない男女の数理と哲学的真理では、どっちが上位層かわかるでしょ。新旧世代で激しい恋だよね。間違いない方は男女で。遠近。 懐女走産 覆会権寒楼
第四の伏兵 第五のナミ兵。スリーワーズ ワーズ 理三外科のOhe ならお世話になったんだけど。接骨レントゲン。放射ね。 Oh yeah にはロック的には大した意味はないw ついでに言っちゃおうか
ちょっと前までやたらシモンとピンチョン持ち上げてる人文学板にいたの蓮実の影響だと思ってたわ
俺もガイド本的な本わりと読むからだからどうってこともないけどね >>172
>近代の時代を背負ってされている議論はすぐれて近代の議論
そういうのを同義反復というんだよw
時代の意味も背負うの意味も議論の意味も、雰囲気だけで語りたがる。
そんな風に無知を晒して得意顔をするから、ちょっとでも哲学に知識のある人からはバカにされるんだよ。 >>181
おいおいw
史記読んだことないのかよw 史記が小説かどうかは議論に値するとは思えない
史記の中の伝記にあたる部分は広義には間違いなく小説だし、
狭義の意味づけは多様すぎるからどれを適用するかによって結論が変わってくる
2ちゃんの議論だと、間違いなく自分が優先したい狭義の基準のどれかを持ち上げて他を貶める不毛な言い合いになる それならば小説の広義はなんであるかを
ソース付きで示せばいいかと
「俺の思った広義」じゃ意味がない 全小説1を買ってきた
あまり詳しくないので、初期にこんなに単行本未収録作品が多いとは知らなかった
たくさん持ってる人も、全小説1〜3は買う価値あるんじゃないかな 史記の伝記は少なくともコント(日本の漫才みたいなのじゃなくて原義のほう)とノヴェッレに当てはまる
フィクションではなくロマンに含まれるかは微妙だが
狭義に当てはまるものがある以上こういったものを総称する広義にも当然当てはまるだろう、という話 全小説3で読む限りオクラ作品は本人がオクラにしてただけのことはあって
質はあまり高くなかったように思う(政治少年含めて)
個人的な体験前夜に行き詰まっていた一時期があるんだなあと思った
中期以降は全集6
身がわり山羊の反撃/「芽むしり仔撃ち」裁判
この二篇がオクラ入りだったもの
あと6はいっている、いかに木を殺すか、収録作もずっと絶版だったから
オクラみたいなものだけど、いかに木を殺すか所収作は
大江的ユーモア全開作品が多く初期オクラ入りより読む価値あるように思う
3のオクラのように書きあぐねてジタバタしてる感じはない >>172
いや、18世紀が起源でそれ以前はそうではなかった、というのが端的に事実誤認だからそう指摘しただけだが
意義のあるなし以前の問題
あと、用語系が違うということの意義は小さくないからそのことを勝手に過小評価して呆れられても困る
意義はあまりないというけど、あなたの言う柄谷の論旨は
小説という近代に特有の形式が共感という特有の作用を持ち、そのためにネーションステートという近代に特有の共同体が成立したというものだから、
ネーションステートの起源が本当に柄谷が言う意味での近代小説なのかそうでないのかというのは
この話の重要な論点だと思うけど > 用語系が違うということの意義は小さくない
から
>あえて言うなら用語系が違うだけ
なんて言っちゃいけないんじゃないの?
どんどん支離滅裂になってるな
柄谷の言っていることはパラフレーズすれば、
近代において近代理性主義に判断力を組み込むカントの考えが出てきた
ということはだけど
「でも美学の起源は古代ギリシャで〜と」か完全にアスペじみた反応だよね
別に誰も事実誤認などしてない
あなたが文脈を誤認して関係ない話をしているだけ これ以上そのレスみたいに主張を180度変えてまで何のつもりなんだか
粘着されたくないからもう少し述べると
「近代小説が近代ネーションステートの確立に寄与した」
というのは柄谷が一人で誰も考えなかった独自の自説を持ち出して論証してるというより
いまでは通説になっているベネディクトアンダーソンの議論を引いてきてるだけなんだよね
それはそれこそ用語系をみれば明らかなように
そこで講演を聴いている聴衆が、「へー小説なんて感情に訴える女子ども向けみたいなものがそんなに大事とはねえ」
みたいな疑問とか驚きを感じるところをフォローしたりサービスするつもりで付論的に
「共感とか感情とか皆さん馬鹿にしますが、近代の理性主義の哲学は
感情をおろそかに取り扱ってないんですよ」
という話をしてるわけ
そういう講演から、さらにザックっと論旨掴めるよう抜粋して持ってきたもの
そういうただの抜粋をみて、何故かいきり立ってぐちゃぐちゃ
俺の知ってる事実ではー、ギリシャではーとか関係ありそうで関係ないことをぐちゃぐちゃまくしたて始めるのがそもそもアスペぽいんだよ >>186
だから必要なのはそのソースだよ
それでそうか、じゃあそれなら...となる
君がそう思った、じゃ意味がないし
必要以上に複雑な理論武装も必要ない
俺は史記中に存在する物語性を取り上げて
全体を小説と呼ぶ必要はなく、文学史上も
辞書的定義上も混乱するだけという立場 >>191
物語性じゃなくて、史記は登場人物の心理を想像で補って書いていたり
儒教思想による主題論的な枠組みを与えているのが
史実を短文で列記した春秋や、その注釈であるような左伝とは違ってかなり小説らしい特徴を持っているということ
conte とnovellaの定義はググればすぐ出てくるでしょう
日本の国語辞典に載ってる小説の定義にも当てはまるけど、面倒だがなんなら引用しようか? >>189
だからあなたが>>135で言っているのはそういう話じゃないでしょ
感覚が哲学では理性の下位の置かれて注目されていなかった、美学の始まりは18世紀、と言ってるじゃん
俺が言ってるのはこれが間違いだということで、カントの話はしていない
あなたのカントの理解が不十分だからその区別がつかないんだよ >>190
それが柄谷一人の主張とは誰も言ってないでしょ
ネーションステートの起源が本当に近代小説なのかということが今は疑問視されているわけで、
近代に特有とされている近代小説=共感作用=ネーションステートという関係は、
こうしたものと同質のものが以前からあったなら成り立たないのではないかというのがその論旨
議論を放り出してアンダーソンの名前だけ出してもしょうがないでしょう
主張をするだけして一切の反論は受け付けないというなら別だけど >>135
は柄谷の引用で、柄谷はカントを念頭に置いてこれを言っています
それ以上も以下もないです
それについて全体の文脈も見ずに
リテラルに「美学の始まり」にひっかかって本当は美学の始まりはー
とかあなたが無意味に突っかかっているだけ
ベネディクトアンダーソンに疑義を呈するならあなたが勝手にすればいいけど、ちょっと付き合いきれないですよ
それはw >>195
引用なの?
なら柄谷が美学史をわかってないで終わる話
というかこの文面だとセンスデータを認識の根拠にしてきた経験論の伝統の立つ瀬がないんだが
どうなってるんだ柄谷は
>ベネディクトアンダーソンに疑義を呈するならあなたが勝手にすればいいけど、ちょっと付き合いきれないですよ
アンダーソンに対する批判を知らないのはともかく
権威に寄りかかって議論抜きで勝利宣言をするのは恥ずかしくないんだろうか いや傍目にはネット弁慶で
評論家の講演録の抜粋引用の言葉尻つかまえて勝利宣言して得意顔なのが
よほど恥ずかしいよ
何度もいうけどリテラルに「美学」に反応するから話がおかしくなるんで
柄谷は美学史の話をしているのではなくカントの話しかしていません
カントが理性と想像力を架橋するという考えを持ち出した
ということを言いたいだけでしょ >>197
リテラルに美学という言葉にこだわっているのはそっちでしょう
カントの美学と共通の内容が以前からあったということは、いわばこれが美学の本質に関わる要素だということ
だからこそそれが近代に特有だと主張する柄谷への反証になるんだと言ってるんだがなんでわからないんだろ
>評論家の講演録の抜粋引用の言葉尻つかまえて勝利宣言して得意顔なのが
>よほど恥ずかしいよ
内容を吟味しないで権威だけでなにもかも判断する人はそう思うだろうね
そういうのをカントは啓蒙以前の段階にある子供と呼んでいるんだが ああ、やっとわかったわ
この人って哲学者がなにか人間についてこうこうだと提唱すると、そこで人間の性質が変わる
という変な考えベースで話してるんだ
そりゃ話がおかしくなるわ
人間の性質が不変一定であれば
ギリシャ人も近代ドイツ人もざっくりとは同じものを見出すんじゃないですか
近代ドイツの哲学者が近代人の発想として、判断力の問題を再提示したら
それこそ同時代人は真面目に受け取る。そういうものじゃないの?
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