★★★大江健三郎スレ2★★★
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大江健三郎 1935年1月31日生まれ 1994年 ノーベル文学賞受賞 2018年 大江健三郎全小説刊行開始 前スレ ★★★大江健三郎スレ★★★ https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1484634141/ 文学センスや内容が、判で押したような 左翼思想とリンクしてなかった 社会的に別々の渇望だったんだろう >>69 そんなあなたには、ハリーポッターがおおすすめ。 >>69 「セヴンティーン」があるじゃん。あの物語はニッポンの現代を活写した万人に愛される作品。 俺もアレでネトウヨの意識の流れを初めて知ったんだ。 >>72 誰にも愛されてないだろ デマを流すな。デマは左翼の大得意なことかもしれないが。 左翼は万死に値する。 俺は洪水はわが魂に及びが好きだけどハックルベリーフィンとは比べられないな でもあれは体裁は児童文学だし親しみやすさで比べたらいかんと思う 当時は全体的に今よりわかりやすい物語が書かれてた時代だしね >>74 あれは思想的にはどうかと思うけど、それにしても面白いよ。漫画的でもあるし一種のプロパガンダだよね。 ああいう右翼は実際多いよ。ネトウヨじゃなくても普通に会話ができる右翼は非常に少ない。まあ、普通に会話できる右翼なんて右翼じゃなくて単なる人間未満の何かだと思ってるけどw ごめん、>>77 間違えた… × 普通に会話ができる右翼なんて ○普通に会話ができない右翼なんて ハックルベリーは今も閲覧できない 図書館がアメリカにはいっぱいあるからな その意味ではフレッシュで社会的存在 >>77 そうでもない 右翼の保守おっさんなんてそこらに いくらでもいるし左翼とトンチキ加減は さほど変わらない >>79 何を言ってるのかさっぱり分からないが、馬鹿の俺にも分かるように話してくれんか? >>80 でも、右翼じゃなくてもセヴンティーンな時期はみんなあったでしょ。ローティーンの頃でもさ。 >>81 いまもよくハックルベリーを 図書館から排除するかしないかで騒ぎになる 現代のゆれ動く政治意識を反映する古典なので フレッシュと書いた First published in 1885, the book has delighted millions of readers, while simultaneously riling contemporary sensibilities, and is still banned in many schools and libraries. http://books.wwnorton.com/books/The-Annotated-Huckleberry-Finn/ 中二病に駆られた奴自体は嫌いじゃない。もちろん考え方の内容にもよるけど。 >>83 あ〜〜りがとぉうさぉう〜〜ん(坂田敏夫風に)。 >>90 韓国人氏、ね韓国人キ、モ、イ ご注意申し上げます。韓国を援護するのは日本人から嫌われますので、避けたほうがよろしいかと思います。 韓国は幼稚園児から反日思想を教育しているため大人になっても日本、日本人を恨んで憎しんでいて慰安婦、竹島、を中心に頭の中が反日でいっぱいの人たちです 私は愛国ホシュなんだよ あああムカついてきた韓国に! >>91 よほど韓国にコンプレックスを持ってるんだね。 韓国が嫌い = 韓国が気になってしかたがない 韓国人が憎い = なぜ小国の韓国人が自分より優れてるんだろう? こんな感じかな?w 俺の意見は全く変わらんよ。悪魔の大江は早く死ぬべき。 時事問題政治ニュースを毎回5分程度でお届け! ホシュなら一度は目にするべきKAZUYAちゃんねる あなたのホシュにお届け https://ytranking.net/channel/10/ 「原爆文学」というカテゴリーでも残るのは大江ではなく 井伏鱒二「黒い雨」だろうし 大江はヒロシマノートのようにルポで広島扱っているが どちらかといえば現代=核時代にフォーカスしているんで原爆文学とはちょっと違うでしょ 群像2018年10月号(9月7日発売) 定価(税込):980円 蓮實重彦「大震災で映画と出会った男 ―プロデューサー城戸四郎―」 特別対談 筒井康隆×蓮實重彦「同時代の大江健三郎」特別対談 一九二八年のモスクワの街に、日本人が大挙して現れる。歌舞伎の初海外公演がソ連邦の首都で行われる。そのなかに松竹の名プロデューサーがいた。蓮實重彦の評論「大震災で映画と出会った男 ―プロデューサー城戸四郎―」 蓮実重彦の学者としてではなく評論家としての活動はけっこういい加減というか マウンティング取りたさが勝って理屈が後からくるみたいなところがあると思うが 元東大総長の肩書きのせいで盲信されすぎじゃないかと その情報コピペなんでそうなってるか知らないが対談は8月号に載ってるから 発注注意しとけよ 後内容があまり無いからガッカリすると思うよ >>103 文学好きの人間には、東大総長の肩書は権威にならないよ・・・ ノーベル文学賞なら権威になるけどw 蓮実は偉そうさが実ってたいしたこと言っていない割に80年代には完全に権威だったから東大総長関係無いわな >>107 なんの権威? まさか、「表層批評宣言」みたいな駄文が権威になってるの? いや、それしか読んでないんだけどさw >>105 目次読んで「ねえじゃん」と思いました完全に騙された… >>105 101のこぴぺ最初、蓮實 のとこに貼って あっ大江もあるんだなと思って。。。。。 気づかなかった 蓮実については春樹を腐してピンチョンを持ち上げてるのがかなり無理があると思ったな 小説が説話的な構造に還元されてしまうことの弱さと春樹を批判してたが ピンチョンもおもっくそ説話的な構造に還元できる作家じゃん 小説はオワコンか? ふたりの知識人が語る「これからの文学」の定義 『大江健三郎 柄谷行人全対話』より 佐藤 優 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57080 読む前に みつけて貼ったけど あまり中身なかった 著者名からお察しとは言ってくれるな 小説が近代の産物っていうのは正しいんだろうか アプレイウスや紫式部やボッカッチョはどうなるの? >>116 世界中にある神話も相当古いが、小説と区別するのは難しいだろうな。 要するに、なにかの指標を基準に定義しないと、小説とはなにかも決められないし、もちろん終わりも始めも決めようがない。 広く読まれ近代国民の国民の生成に一役買った とかじゃないの 柄谷がいう小説は >>118 いくら柄谷でも、そこまでバカな定義はしないだろう。 別にバカだとは思わないよ これは特に柄谷の創見でもなく 柄谷が参照しているBアンダーソンの議論でもあって いまではごくごく一般的な見解でしょう 太宰が小説など女子供が読むもので良い大人が机を叩いて 議論するような代物じゃないと言ってるけど、全くその通り。 基本はこれで何度でもこれに立ち返るべきだ。 そして大江の小説はほんとゴミ。人間もゴミ。日本のテロリスト。 >>120 近代国家は概念として許せるとして、国民の生成に一役買うってなんだよ?w あたまにウジでも湧いてるのか? 細かな是非は色々あれど、その議論そのものを 知らないというなら珍しいね >>123 『想像の共同体』なんか、吉本隆明の劣化版だぜ?w なんでそんな人の著作を追いかけなきゃいけないんだ? それとも、『共同幻想論』も読んでないのか? 柄谷の議論は大げさだなあ 小説と国家を結びつけたり、でかい話にしすぎだと思う 紙と印刷術が普及して、誰でもいくらでも書けるようなテクノロジーが進化したから 韻文から散文へ、小説へと移行しただけだと思うけど 昔は紙もなく書ける人も少なかったから、情報を圧縮した韻文で書くことが求められただけで テクが発達して誰でも書けるようになると散文に移行したって理解だけどな >>124 フランス語とフランス文学の関係でも似た議論あるだろう 吉本云々ってブーメランだよw 「国民」という言葉は使わないだろうけど、「近代文学」について何か言ってたね。でもそれはもう終わったという立場でしょ。文学なんてないんだよ、という。中上が死んでから、ずっとそれが言いたかったんだろうな。 近代以後の日本語文学で言えば 私小説以上の様式は今後生まれないだろう アメリカ黒人がコンボジャズ以上の ハイアートを今後創出できないのと同じで 俺の場合そういう様式を終わったと表現する 近代小説が近代のネ ーション形成の基盤であったことは否定できない事実です 。 今日ではもうネ ーション ゠ステ ートが確立しています 。つまり 、世界各地で 、 ネ ーションとしての同一性はすっかり根を下ろしています 。そのためにはかつて文学が不可欠であったのですが 、 もうそのような同一性を想像的に作り出す必要はない 。 「文学 」が倫理的 ・知的な課題を背負うがゆえに影響力をもつというような時代は基本的に終っています 。 「近代文学の終り 」 >>126 なにがブーメラン? 『共同幻想論』も知らずに柄谷に触れて、おまけに曲解する程度の日本語力で「一般的な見解」とか「似た議論」とか。 やっぱり、頭にウジが湧いてるんじゃないか? 共同幻想論は 吉本の ボクノカンガエタサイキョウノコッカロン に過ぎず検討に値しない >>132 読んでないんだなw 読んでからバカにしろよ。 柄谷は吉本の体系を受け入れる気がないから読まないし言及しないと言ってたな それはともかく、近代文学がネーションの形成に貢献した面があったとしても単純化しすぎでしょう ネーション形成への貢献度でいえば長編叙事詩の方がはるかに大きいし 近代小説は基本的に個人を書くものだから民主国家との相性はいいけど言うまでもなく民主国家=ネーションステートではない 柄谷の理屈は単純化されすぎてて漫画みたいだ 一八世紀に 「美学 」という概念が登場したことは重要です 。 そこに 、感性に対する新たな態度があります 。感性 ・感情はこれまで哲学において人間的能力として下位におかれてきた 。 むしろそこから離れて 、理性的であることが望ましかった 。 ところが 、感性 ・感情が知的 ・道徳的な能力 (悟性や理性 )と密かにつながっていること 、 そして 、それらを媒介するものが想像力だという考えが出てきたのです これまでたんなる感性的な娯楽のための読み物であった 「小説 」が 、哲学や宗教とは異なるが 、 より認識的であり真に道徳的であるような可能性が見出されるということでもあります 。 小説は 、 「共感 」の共同体 、つまり想像の共同体としてのネ ーションの基盤になります 。 小説が 、知識人と大衆 、あるいは 、さまざまな社会的階層を 「共感 」によって同一的たらしめ 、ネ ーションを形成するのです 。 この結果 、それまで低かった小説の地位は上昇します >>134 ギリシア哲学には美学がない、と? ギリシア哲学ではエトスもパトスも下位の評価だ、と? ギリシア哲学には政治学がない、と? どこまで恥を晒すつもりなんだ? >>136 >>134 ではなく、>>135 あての間違い。 許されよw わかる人は既にわかってると思うけど もちろんここでいう美学はカントの判断力批判ね 知恵遅れだな。父として進まず マラルメ GOD FARTHER >>138 >>135 >感性 ・感情はこれまで哲学において人間的能力として下位におかれてきた アリストテレスを読んだことがないの? そこから説明してね。 >>135 それによって破廉恥で気狂いの大江が勝ち誇るような 気狂いの事態になるのですか?そんなものは破壊した方が良い。 >>134 だが 大学で美学専攻だったけど美学史はピュタゴラスから始めてたぞ テオリア、プラクシス、ポイエーシスというギリシャ哲学の三分類のうちポイエーシスの大部分がそのまま後世美学とみなされた内容に当たるので、 美学の始まりが18世紀というのはあり得ない あと、近代ドイツ美学の始まりはカントの判断力批判ではなくバウムガルテンの美学 >>144 それは柄谷の引用で 後段文からわかるように柄谷は近代理性主義、合理主義に判断力が組み込まれた ということを論じているのであってアリストテレス など端的に関係ない 130で引用の「近代文学の終わり」の最後の行は曖昧だな。 これだけでは分からない。 この引用元の本は2005年11月に出てるんだが、 柄谷にとって具体的に「近代の終わり」とは何年頃のことなんだ? 130の引用の終わりは、「終わっています」であり、「終わりました」じゃない。 これからすると、柄谷からすれば現在も「近代」ってことなんだろう? ドゥルーズはヴィム・ヴェンダースの映画wings of desireを見て、ネーションステートを越える映画―音楽について考えたんだが、柄谷は? まあ、○○は終わったとか言い切る癖だけは柄谷や浅田、蓮實らポストモダニストの癖だよなw 冒頭 今日は 「近代文学の終り 」について話します 。それは近代文学の後に 、 たとえばポストモダン文学があるというようなことではないし 、また 、文学が一切なくなってしまうということでもありません 。 私が話したいのは 、近代において文学が特殊な意味を与えられていて 、だからこそ特殊な重要性 、特殊な価値があったということ 、 そして 、それがもう無くなってしまったということなのです 。 これは 、私が声高く言ってまわるような事柄ではありません 。端的な事実です 。 略 私は自分が日本で文学批評をやってきた経験からいうのですが 、近代文学は一九八〇年代に終ったという実感があります 。 いわゆるバブル 、消費社会 、ポストモダンといわれた時期です 。そのころの若い人たちの多くは 、小説よりも 現代思想 ≠読んだ 。 いいかえれば 、それまでのように 、文学が先端的な意味をもたなくなっていました 。 引用の補足 柄谷は近代の終わりではなく近代文学(文学が特殊な意味を与えられ…)の終わりを論じている さらに近代文学の終わり、とは論の結論ではなく論の端緒であって 多くの皆さんは事実問題として(上記の意味の)近代文学の終わりを実感し合意できるんじゃないですか?と説き起こして なんでそういうことが起こったか、は歴史的カラクリがあるんですよ、というカラクリを論じている あと引用はしてないが、他国でも近代文学の終わりの兆しが観察できる実例も紹介している ○○は終わったとか言う奴はそいつ自身が終わってるってことなんだよ。 5ch芸スポの音楽スレでジジババ達が「ロックは終わった」や「楽器を演奏する音楽は終わった」、「ギターは終わった」の大合唱なんだが、それを言う奴らは既に音楽に対する関心を失ってる、つまりそいつら自身が「死んでる」。 これは普遍的真理。 マジックというよりも 社会構成主義的議論が尽くされた、逆に言うと 普通の発想になったということだよ 近代に誕生した!論の揺れ戻し 話が文が気からそれるが一応そこにコメントするが 実際に今のポピュラー音楽の状況をフラットに観察すればギターロックが終わっているのは端的に事実だろう むしろジジババの感性が鈍磨しているからリアルタイムの音楽について行けずギターロックにいまだ執着している 終わっている、死んでいる というのが正しいんじゃないか? >>151 俺は漢詩好きだし読むが様式としては大昔に終わっている 個人の鑑賞量や古典化が絡んでいるので 関心を失うという問題もそのなかで積極的な意味がある >>153 まあそんな感じでもあるだろうな ひとつにはギターの大衆化が終わって 文化的に逸脱的な存在じゃなくなったってこと >>149 もう、諦めろよ。 君はあまりに知識がなさすぎる。 柄谷にしがみついても、なにも得るものはないよ。 柄谷の次はギターの話か・・・w ピアノなら、大江光といくらか関係があるかな? 史記を小説だといってきかない馬鹿が 何を言おうがどうでもいいがな >>156 ある段階から君は真面目に話す相手じゃないと見切ってるんだよね 引用は君相手にやっているわけでもないし 君と会話する気もないから絡んでこないでね >>159 見切ったとは大きく出たねw 自分の無知を自覚して、少しは勉強しろよ。 無知を知ることこそ、知、だぞ?w 大江スレで柄谷出したりギターの話出したりする奇妙な人々は、なにが言いたいんだろう? 大江が現代の文学者として最高峰だということに異論がある人はいないだろう。 その大江の話をせずに、言葉の定義もできない中途半端な批評家の言葉を引用したり、音楽の豆知識とかを披露してる。 大丈夫かな? 「セヴンティーン」「政治少年死す」の若者は、掃き捨てられるべき人間なのか、称賛されるべき人間なのか? それとも、ごく普通の高校生となにも変わるところはないのか? 僕は、ごく普通の若者を、大江が見事に描き切ったと思うんだけどね。 >>146 バウムガルテンの美学の主な由来の一つはプロティノス プロティノスの客観的な合理性とは独立した内観を重んじる思想は中世スコラ哲学と近代の神秘主義的な思想のかなりの部分を規定しているので (例えばアンセルムスやマールブランシュ) 非合理性がカントの美学において初めて現れたという主張は成り立たない あと、カントが感覚を主要な論点にしているのは経験論と大陸合理論の統合を図ったからで、 感性についての論はカント以前の経験論の伝統に由来しているし、これは少なくともストア派まで遡れる だからカントにおいて感性が初めて哲学の話題になったというのも大間違い 文脈無視で知識の羅列ではなくちゃんと文脈をおさえてね カントが何故大哲学者として高く評価されているか? それはまさに仰る通り >経験論と大陸合理論の統合を図ったから じゃないんですかね? つまり理性重視の大陸の近代哲学に、感性を重要なものとして組み込んだのはまさにカントその人であって そこをいっているのに 感性論単体の由来がどこまで遡れる、なんて完全に論点がずれている やりたければ勝手にやればいいが絡まれて知らないよ そんな話はこっちはしてないんだから むやみに人名や知識を羅列する人いるんだよな あれ恥ずかしいからやめたほうがいいんだけど 自分で未整理のままだから 少し突っ込むとぐちゃぐちゃになる まあ、柄谷が個人的、行人的に世界の近・現代文学に関心を失ったということを 告白してるだけだろ。 彼は2005年に文芸批評引退宣言をしてた訳だ。 >>154 漢詩は狭い範囲のことであって、柄谷の言うのは遥かに広い範囲のことを指してる。 まあ、彫刻の場合はBrancusiブランクーシでBrancusi近代彫刻は終わったのではないか? 近代文学以降との対応があるとすれば、ブランクーシ以降の彫刻作品の超巨大化の現象はある意味formフォームの消滅と言って良いかもしれない(視認性の消滅という意味で)に相当するものが近代以降の文学にもあるのではないか? 古代ギリシャの時代区分でリード的役割を果たしたのは彫刻だった。 まあ、ブランクーシや近代については未だ言い足りない。 近代の幕開けはイタリア・ルネッサンスのコントラポスト(古代ギリシャ彫刻の)の 再発見に始まり、近代はブランクーシ流のコントラポストで終わったと思う。 ブランクーシ流とはフォームの「形成」と「融解」のコントラポストだったと思う。 そして、彼以後の彫刻は「融解」から「拡散」の方向に向かって行ったと俺は考える。 近代文学はそれに符牒を合わせてきただけではないか?という仮説はどうだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる