夏目漱石 八十二夜
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夏目漱石
1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年12月9日(大正5年12月9日)
本名 夏目金之助
牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)出身
前スレ
夏目漱石 八十三夜
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1513649759/ 要するに当時のシナ人の衛生状況も、
それを書いた漱石の文章も、
見たくない認めたくない抹殺したい
ってだけか
本当にしょーもない奴だな 当時のシナ人の知識人で漱石が憧憬を持っていたような人はいないね
だいたいで言えば遅くとも清国以降はいないんじゃないかね
何かつうと「中国人の知識人への尊敬・憧憬」と言い出す人がいるが、
それは漱石の時代の満州の状況と全くと言って良いほど関係がない
西欧人の知識人がギリシア文化への敬意をもってるのと変わらないんだよね、それは クーリーについては確かに最初は「汚らしい」という印象を率直に書いていた。
しかし漱石のクーリーに対する目は変わってくる。
>クーリーはおとなしくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い。
>赤銅のような肉の色が煙の間から、汗で光々(ぴかぴか)するのが勇ましく見える。
>この素裸なクーリーの体格を眺めたとき、余はふと漢楚軍談を思い出した。昔韓信に股を潜らした豪傑はきっとこんな連中に違いない。
>クーリーは実にみごとに働きますね、かつ非常に静粛だ。と出がけに感心すると、案内は、とても日本人には真似まねもできません。あれで一日五六銭で食っているんですからね。
>馬賊の来襲に備えるために雇われたればこそ番兵だが、その実は、日当三四十銭の苦力である。
番兵に雇われたクーリーは、一般のクーリーよりも高給のようである。
こういうクーリーの労働条件にも漱石は目を注いでいる。
はじめただ汚いと思われたクーリーは、その働きと肉体美によって漱石に顕彰されるに至っている。 書体が活版印刷でも読み込み書き込み余白にまで肉薄で、解決。 >>150
それいつまで言ってるの
漱石の差別感情とあまり関係ない
知識人は完成された古典文化を愛するもの
ただそれだけ >>169
ほんと、それな。
今の気の利いた日本人だって、杜甫や李白好きだもんね。 >>169
漱石の差別感情は、民族や国家とは関係がないということ。
だからs、漱石の作品を追ってみろと。 ひたすら文豪としてしか見てないから
そういう勘違いをする
そろそろ気付け >>173
でたね文豪君。ここでは漱石を文豪なんて言ってる奴いないよ。
ひたすら漱石憎しで、著書もまともに読めてないんだろね。
そして、ただ一人浮いてる事に永遠に気付けない。
漱石憎しなんてくだらない
植民地の支配側として当時普通の差別意識でしかない
特別でもなんでもないことを記しただけ
世代的に大した題材ではなかったんだろう
たとえば中島敦とはそこらへんが違うな
中島にとっては差し迫った題材だった >>174
問題は著作を読み込めば作者本人の
細かな意識まで同定できるという思い込みだよ
お気楽文学研究のワナだな 歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。 国家が危機なら国家のために尽くすのは
当然といい、国際的な生き馬の目を抜くような
対立を低級な道徳と呼んでいるだけだから
実際長生きしなかったことがリベラル的な
評価につながっている
マルクス主義も狼藉がバレたら女性拡張論者と
一緒に軽蔑の対象になっただろう だから日本の英文学者の綿綿たる保守路線は
実は漱石から始まっていたのかもなあ
日本をイギリスにしたい 私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。 今の大作家が講演で、
嫁にいけない女がフェミニズムに走る
って話したら日本会議扱いされるだろうなw
ワハハ >>146
>中国人への民族差別云々を語る以前に、漱石には、民族あるいは国家という概念が乏しかった。
自分のイデオロギーに都合の良い読解、引用しかできない偏頗な脳しかお持ちでないようで
漱石は近代日本の傑物の一人で、国家の概念も確立してあるし、個人の概念も確固としてある。
「概念が乏しい」とかw
あんたらサヨクと違って、漱石は実に健全な国家観を持っているよ >>179
自衛隊が中東に派遣されるらしいから、自衛隊に応募しろよ。
こんなところでなにを書いても、国家のためになんかならないぞ?w >>183
その漱石の「健全な国家観」はどこに書いてあるの?
国家のために死ぬのは、独り相撲で死ぬのと同じこと、という国家観のこと? >>146
これは「差別」という言葉は仕方なく容認しつつ
漱石の差別感情を知をめぐる芸術家的葛藤として
特別視しているからタチが悪いな
なんとかこじつけようとひねり出したのだろうが屁理屈
知性がない者への軽蔑は植民地支配や黒人差別にも
ある代表的な差別意識であって、それがあるから
ほかの差別に当たらない、とはならないのは自明
そんな込み入った話じゃない >>184
漱石に対して自衛隊に応募しろって
アタマ大丈夫?www 漱石信者が、イギリスの自由主義を讃える
かのような国家観の漱石に向かって
自衛隊に入って中東に行け発言ww
面白いw >>187-188
いやあ、漱石氏がよみがえって5chに書き込むとは、まったく想定外だった。
病院行った方がいいんじゃない? >>179
ついに漱石がサヨクくんからネトウヨ扱いされるに至ったねw
老婆心ながら分からない人のために
「私の個人主義」の終わりの方とか読んでみそ? >>189
国家の危機に国家に尽くすには当然で平和な時には
個人主義でいきましょう、
という話な
これは漱石の意見で俺の意見ではない
狼藉働くフェミは嫁に行けないから、
これも同様w >>191
俺は東京在住の団塊左翼の漱石信者を
を時に漱石くんとも呼んでいるがなw
混乱は仕方ないねw イギリス帰りの漱石は民族や国家の概念が乏しい
→バカ
漱石は中国の古典が好きだったから中国人差別しない
→バカ 今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。したがっていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。
これが国家の概念の乏しい人間の言らしいw >>195
学習院という支配者層を相手にした講演で、自分のことより社会のことを考えろと説教してる。
贅沢三昧の皇族、華族、貴族への嫌味だよ。
個人主義というタイトルをつけながら、官憲の監視をすり抜け、諧謔を駆使した漱石らしい講演だ。 第3章の手紙部分を読めば事足りるのに、ダラダラ先生と私について描写してる。所詮は新聞連載ありきで出来上がった冗漫な小説。
漱石の本領は、初期の丁寧かつ洒脱な文体にこそ発揮されている。夢十夜の第一夜の、ラストシーンこそ近代文学の最高傑作だ。
朝日新聞専属になった三四郎以降の文章は、無駄な修飾語や仕草の描写の連発で、バランスが崩れている 新聞小説は、行数が決められているので、無駄な事を書き足すしかなくなっている。 「こころ」が漱石の最高傑作だという人も多いよね。
大学なんかでも、1年を通して「こころ」を課題にしたりするときもある。
たしかに、様々な切り口で捉えることができる作品だ。
昨今ではLGBTに絡めて読む人までいる。 >>201
三章とか、先生の人物像の捉え方は人それぞれだけど。長ったらしい第1章第2章が、消化不良何だよね。もしこころが平成に新聞連載されたとしても、単なる長ったらしい小説にしか思われてないと思うよ。 >>202
数年前に朝日新聞で再連載したね。
朝日デジタルだと、有料だと思うけど当時の紙面も読めるようだ。
図書館で縮刷版でも見れば、どんな感じかわかるだろう。 >>198
結構同意
分量に見合わない内容を薄めて伸ばしているのが
わかっちゃう こころなんて何の変哲もない低レヴェル小説じゃないか。 心理的な旋回運動にもたれかかっている
のっぺりになった文体がまたそこに緩慢さを
持ち込んで辛い >>206
なに言ってるかわからないのが辛いな。
カッコよく書きたいなら、もう少し漢語を使ったりして、引き締まった文が書けるように努力したほうがいいよ。 俺もこころより初期作品の方が好きだが
3部だけあればいいという非難は違うと思う
文章は淡々としてるけど構成は捻った野心的な作品だと思う
章分けが
先生と私 私の一人称(回想記)
両親と私 私の一人称(回想記)
先生の遺書 先生の一人称(遺書)
であり、これに読者の目線である「どういう立場で読者が読むか」を考えると
「先生と私」「両親と私」は《私》という主人公の立場から物語を見るという普通の小説の読み方で
図にすると
《私》←《読者》
となるけど
「先生の遺書」だけは《先生》という主人公の書いた遺書を読む《私》の立場から読むとう二重構造なので
《先生》←《私》←《読者》
になる
でも遺書を見て《私》がどう思ったかは一切語られず「両親」以降出番が消えてしまうので視線が
《先生》←《読者・私》
という《私》と《読者》が一体化して、まるで現実で知り合い遺書を読むような錯覚を与える構造になってる
実際にそんな生々しさを与えるかは人によるが
少なくとも漱石はそれを狙ってあんな構造にしたと自分は思う 次に無駄が多いとか特に「両親と私」を「これいらなくね?」と思うかもれないけど
これも目的をもって漱石はやってると思う
「両親」の内容は一見元気そうだった父親が徐々に弱って最後は黄色い反吐を吐いて死んでいくというものだけど
これを「遺書」より先に読んだ読者は「遺書」を読んでいる間にどうしても「両親」の内容を脳裏にひきずってしまい
「最初元気そうだったけど徐々に弱って死んでいく」という内容を《先生》にも重ねてしまう
内容をまとめると
@先生と私 先生の紹介部
A両親と私 体が徐々に弱って死ぬ
B先生の遺書 心が徐々に弱って死ぬ
になり
@Bだけを読んだ読者よりも
@ABと読んだ読者の方が先生の死を説得力を持って感じさせる効果があると思われる
もちろん冗長でつまらんという副作用も与えがちだけど >>209
全く不要とまでは思わんし、俺さんの解説も良く分かるけどやはり長すぎる。 人にもよるんだろうね
俺も若い頃見たときは退屈だったけど
その後父親がボケ老人みたいになって死にかけた時期があり
それを体験したあとだと両親も面白く読めた
ひしひしと死が迫ってくる感じが 分析できる対象の作品であることは間違いないが
同時にもっとも称揚が怪しげな作品に属すると思う
中編なら良かったな 諸君 もう一度言おう。 漱石は以下で十分なのである。
「吾輩ハ坂道を登りながら損ばかりしている。」 草枕はラスト以外は完璧なんだよな
シーンはいいけどセリフがなあ 三章はエゴイストになってしまう先生とK
一章と二章は西洋文化が入ってきたことによる、エゴイズムに対する日本の精神文化の変化の相対化 でも、実際無駄が多くなっていってるよな
朝日新聞時代の漱石 書き手と読み手では書き手が優位になることは少ないがな。女性の書き手の場合は全く逆で。 実際長編書くのに四苦八苦してたんだろう
気の利いた引き出し並べる猫と違って
構築しないといけないからな
これは日本人の近代芸術全てにのしかかった
課題だったけど 「猫」はむしろ冗長になっていったけど、朝日に入ってからの新聞連載はその冗長さがなくなってる。
朝日との契約は、年2回程度の中編とかいうものじゃなかったかな?
漱石にとっては、事実上、書きたいものが好きなだけ書けるという、ものすごい好条件だった。
各回ごとに小さな山場を作ったりする技術も、連載を苦にしない執筆スピードも、連載の王様といったところじゃないかな? 文芸作品こそも文章の芸術だが?小説家なんて素性はあやしいばったもんの前座だろう。 実際よくあんだけ書いたよ漱石
新聞連載時代よりも教師時代の速度が恐ろしい
ほとんど1、2週間で書いてるだろ本業の傍らで >>127
江戸時代が終わった後も使われていただろ。根拠はあるの? >>129
「侮辱をするつもりはなかった」というのも人種差別を追及される上で差別者から発せられるエクスキューズのテンプレだね。 >>130
君にレスしなくなった人も君よりも生活の方が重要で君に価値がないと思ったから書くのやめたんだと思うよ。「逃げた」わけじゃなくてさ。ほんと自分には甘いのな。 >>224
明治になってからはあまり使われなくなった。
根拠といっても、まめに江戸時代に関する本を読むしかないね。
言語学的な根拠は、言語学者ではないけど、折口信夫の国語に関する著作を読むと色々出てくる。
もちろん、僕の知らない研究も他にあると思うよ。 >>226
自分に甘いとか辛いじゃなくて、簡単に状況を説明しただけ。
君は、どこまで僻み根性が身についちゃってるんだよw 坊ちゃんを半分ほど読んだんだけどいつ頃から面白くなる? >>225
前にも書いたがネトウヨ相手に何言っても無駄
中国人や韓国人の心情なんて微塵も興味もない連中だから話が噛み合うわけないよ >>213
×「吾輩ハ坂道を登りながら損ばかりしている。」
○「吾輩ハ山道を登りながら損ばかりしている。」
ああはずかしい はずかしい
>>229
よく半分まで頑張ったね えらいえらい もう止めていいよ >>227
折口信夫によれば、「小股の切れ上がった」は「女陰の陰裂の長さ」だとか。
まあ、昔の日本の女は陰裂の長さを人目にさらすことをそれほど恥と思ってなかったかも?
K-popの韓国の女の子たちをyoutubeで見てると、ホットパンツの股間を割れ目に?深く食い込ませてる子は結構いるので、今の日本の女子とはかなり違う。
しかし、着物の上から陰裂の深さを知ることは不可能ではないかと思うが、昔の女はパンツを履いてないので結構、女陰を見る機会は多かったのかもしれない。
町内の女の御万個を全部見たとかも昔は普通だったw 西鶴の「本朝二十不孝」に、背丈の高い形容として「徒俣すまた切れあがりて」という表現があり、これとの関連などから、背丈のすらりとしている形容とする説が有力である。安永頃の流行語であったらしい。 >>233
そういうのを踏まえたうえで多分、折口は言ってたんだろうけどね。
折口が正しいとも思わないが、そう単純でもないダロウ。
太宰治と坂口安吾、織田作之助が議論して収まらなかったという話だが。 >>232
どこにそんなことが書いてあった?
折口はいくらか読んだつもりだが、そんな話は記憶にないな。
できれば書名とかを教えて欲しい。 >>232
オッサンのくせに暗いな
camel toeだろw 【スウェーデン】テレビ局「歴史的建物の周囲で大便をしてはいけません!」と中国人へ注意 中国大使館が侮辱されたと抗議 >>237
フランスでは、歴史的であるか否かを問わず、昔は建物の周囲で大小便をしてたんだってね。
「新潮」で連載してる高山某が書いてる。
西欧の宮殿にはトイレがなかった、というのは有名だが、漱石のイギリスの下宿はどうだったんだろう? >>239
事実上の漱石論という意味で、『漱石の思いで』。 >>241
江藤淳のは労作には違いないけど、自身の家系好きなところや、性的な異常嗜好が漱石の見かたにも表れているようで、あまり好きではないな。
作品評以外は、事実だけを追えばよかったんじゃないかと思う。
事実だけという面では、漱石論とはいえないが、荒正人の「漱石研究年表」が白眉だな。 >>223
根拠はあなたの経験なのですね。わかりました。 >>228
なんなの「僻み根性」って。「俺を批判する者は俺を僻んでいるに違いない」ってこと?すごい自信だねw >>244は>>227へのレス。 >223ごめんなさい 南米人の目を細める奴もいつも
悪気はなかったと謝っているからなw >>246-247
どうしちゃったんだ?
生活が苦しいのか?
病気になりかけてるぞ? 100年前に夏目漱石は未来を予言してたんだぞ
文豪だろ
「それから」
「大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。
この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。
けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。
それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとしている。
だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。
牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ」
これも
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。 >>252
容易に、ねえ・・・
戦争を始めた日本の支配層は、その容易に想像できることすら、理解できなかったバカ、ということ? デフォルトの歴史を知らんのだろうな
漱石は昔の人だからしょうがない 大英帝国をよく知っている人間だからな
後にナチスドイツやソ連に幻惑されたウヨサヨ両方に喝 >>251
予言なら猫の方が当ててる
「これから家族は家でも同じところに集まらずどんどん遠ざかっていく
それがさらに進んで別の家に住み始める」
核家族化
「その頃になると死というのは自殺だけになって
親切な警官が道を歩いていて不幸そうな顔のやつを見るけると犬殺しで撲殺する」
自殺率増加
したの方の実現までもうちょっとだな 満韓所々を目の敵に批判的な人って
いつの時代もいるねw
そんな人は漱石の本をいかに読んでないか良く分かる
事実をざっくりした感じに緻密に書くのが漱石の持ち味
その良さが一番よく表れてるのが満韓所々と道草
少々メンタル不安定な時に書いたと思われる文章は緻密さがクドくなる
満韓所々で奉天のことを書いた文章は傑作
意訳:奉天は下水道が昔から皆無だからか?お茶の水すら酸っぱい…
おまけに温泉まで黄色く濁ってるw長年、奉天民の糞小便などが長年の歳月うんぬんバッチーバッチー
色んな紀行本はあるが満韓所々を超える作品は今にしても無い 芸術的な充実と差別意識はいつも排他的に
成立するわけではないし
漱石を責めているのは極僅かな人間だろう
逆に指摘に過敏な人間が見せる言い訳構築と動揺が面白い >>258
「汚い国民である」
他国民へのこんな描写が批判にならないってのなら
そいつの人間性がクズなだけだろ >>259
芸術の評価の一部には「善意」があります
「真実」も評価の一部だけど満韓はその真実もはなはな貧弱で
かつ善意もかなり低いから作品として批判されてもしょうがないと思います ほっとけよ。
漱石をヘイト人間の仲間に引き入れたいだけの、嫌韓ネトウヨなんだからw >>261
たしかに評価には善意が含まれる
「汚い国民である」
これは善意度低いね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています