紀州【中上健次】熊野 2
浅田彰「昭和の終わり、平成の終わり」 【実のところ、被差別部落出身であることを公表して作家活動を行っていた中上健次には、一般社会の上に排除された天皇と下に排除された被差別部落民が背中合わせの存在だという神話的構図に惹かれがちなところがあった。たとえば『日輪の翼』(1984年)では、作家が「路地」と呼ぶ被差別部落が再開発のために地上げされ、追い出された老婆らを若者らが日本各地の霊場に連れて行ったあげく最後に東京の皇居前広場にたどりつく。そこで嬉々として清掃奉仕をする老婆らをおいて、若者らは新宿歌舞伎町でホストになるのだが、彼らが老婆らを見る目はあくまでも優しい。私は、ノーマルな日常社会の上にある聖なるものと下にある賎なるものの通底という神話的構図を批判しつつも、私なら直ちに否定してしまうそうした構図を中上健次が複雑なニュアンスをこめて扱っていることをいかにも彼らしいと思っていた。いずれにせよ、すでに海外に出ることが多くなっていた柄谷行人と中上健次は、「日本の外に出れば天皇をめぐる神話的構図など意味を持たない、ただマイノリティの横の連帯(アソシエーション)あるのみだ」という線で再び一致することになるのだが、それは少し後の話である。】 〈マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。〉〈ドゥルーズ「マゾッホとサド」〉 〈かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〉 (中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収) 高橋文樹の木澤佐登志著「ニック・ランドと新反動主義」 についての書評から 〈ここら辺のリバタリアンの思想的裏付けについては本書を読んでほしいのですが、僕の抱いた印象は「スキゾ・キッズのリア充番」です。 スキゾ・キッズというのは、浅田彰が『逃走論』で開示したモデルで、「分裂症的(スキゾフレニック)」に軽やかに色んな場所へ逃走していく生き方でした。〉 高橋文樹さんは、あまりこの種のことに詳しくないので、それについて書かれていないが、 いうまでもなく「逃走論」におけるスキゾというのは、 ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」から来ている。 そのズキゾというのは、ようするにカントの言うような超越論的統覚がばらけ気味ということです。 近年、カント哲学を精神分析的解釈する柄谷行人の本を読めばわかりますが、 これは「マゾッホとサド」においてドゥルーズが称揚した「マゾヒスト的」というのと非常に似ているのです。 ジャック・デリダ、中上健次 『穢れということ −ジャック・デリダvs中上健次−』 中上健次は、1986年時点ですでに、日本を松阪牛に見立て、 それをリゾーム的なものとして批判しています。 浅田彰は、デリダと中上の対談の現場にいながら、それに気づいていなかった、 ということになるでしょう。 浅田 [私なら直ちに否定してしまうそうした構図を中上健次が複雑なニュアンスをこめて扱っていることをいかにも彼らしいと思っていた。] その中上らしさを、もし良いと思っているならば、見習ったらいいと思うのだが、 どうもそうはならないようだから、良いとは思っていないのだろう。 6の補足 「自己意識とは欲望である」(ヘーゲル「精神現象学」〉 7の補足 いわば、リゾームは,中心のない多方向に展開していく関係性のことだ。 家父長的規範(「父」であるような超自我)からの逃走(浅田の「逃走論」のきも)と 欲望の多方向性による偶然的接続による多様な生を(ヘーゲル哲学的な目的論的生成、ではない非目的論的な生成) 「リゾーム」という概念を示して肯定した、といえると思う。 中上健次は、日本におけるドゥルーズ思想の受容の仕方が、 時流に合わせた天皇主義のモデルチェンジにしかならない ということに気づいていたといえると思う。 ×「父」であるような超自我 〇「父」であるような自我理想と同一視されるような超自我 死後急速に存在感なくなって行った作家だな 生前は何で文壇的にのさばってたんだろう? 中上の『軽蔑』は朝日新聞に連載されたが、合田佐和子の挿絵が毎回女の眼だけを描く特異なものだった しかし、単行本になった際、その挿絵は本のどこにも使われなかった あれはとても残念で、自分は連載時の1回分の新聞切り抜きを単行本に挟んである 作品はいいと思った。少なくとも村上龍とかよりは。比較してはいけないんだろうけど。 安里 朖 @St8GWBikWwNVhOV · Jun 21 裕仁下血時から死亡後にかけてだったか、中上健次の熱狂的な天皇礼賛文をよみ「とんでもねえ天皇主義者だ」と憤激して以来ずっと貶し続けてます。世の中全体が天皇熱にうかされてた時、それを更に煽り立てるような中上には恐怖すら感じた。日本人の天皇に対する脆弱性を探る上での好個の例というべき。 安里 朖 @St8GWBikWwNVhOV · Jun 21 あるに決まってます。で、あるに決まってるものに抵抗するのが左翼です。中上健次の雑文は「日本文化と天皇の絆」に抵抗しないどころか、それを称揚するもの。要は右翼耶蘇教徒・三浦朱門がいみじくもいう「天皇制は日本人の体質」をそのまま体現したような文。そんなゴミと魯迅を比較してはいけない。 Quote Tweet Kentaro_SUZUKI @suzuken2002 · Jun 21 Replying to @St8GWBikWwNVhOV 「日本文化と天皇の絆」、あるに決まっているじゃないですか? とむしろ詩人安里ミゲルさんにいいたい。「いきものががり」も当時のポスモダも「天皇の絆」です。その文化が嫌だからアニメやアニメ的日本映画ドラマを私はあまり見ませんがそれだけならまだ「楽」で、魯迅の為した国民性改造が必要です。 安里 朖 @St8GWBikWwNVhOV · Jun 24 『紀州』の抜書1つよんでも、中上健次の2流文学者ぶりがよく分る。深沢七郎は三島小説を"少年文学"と正しく称した。三島由紀夫も2流だが、文章家としては1流。少なくとも表面上はピカピカしてるのが三島の特徴。それに引替え中上は文章も2流以下で 安里 朖 @St8GWBikWwNVhOV · Jun 24 中上健次は、文壇的諸事情から柄谷行人を始めとする同世代(近辺)の文壇人からよってたかってゲタを履かされ、実物よりも大きく見えてるだけの典型的文壇作家。このクラスの商業文人に比べれば、大西巨人は確かに偉大だ。ポスモダとも結託した「吉本隆明の時代」(ヒデザネ)の産物としての価値しかない。 穢れや賤しいということを幾分、ポジティブに捉えてみせたところに中上のメリットがある。 我々はそれをさらにぐんと、推し進めるべきだろ。 近代の平等の原則から言えば貴と賤とみなされてる者もあなたや私がそうであるようにありふれた人間でしかありえないってことなんだが 中上の小説を貴種とか賤民といった視点で読み解くのは空しいし、勝手にやってろと思う あまりに被差別部落に拘泥した読解というしかないからだ それよりもテクストの言葉を綿密に読み解いていくべきだ 彼が文体や物語といかに対峙したか、『地の果て 至上の時』を読め 柄谷を筆頭とした中上一派的な批評家たちがまだぞろぞろいて福田和也以外はなかなか中上については否定的に言い難い空気があるんだろうな そのうち急速に萎むのは間違いない やるならちゃんとやってほしい 否定してやったぜ以外何も言っていないのに等しいのではあまりにも 父殺しの主題がそもそもよく分からん 秋幸はなんで龍造を殺したのかもよく分からん 神話とギリシア悲劇からみる「父殺し」の普遍性 島田雅彦 中上健次はもともと、神話やギリシア悲劇が好きだというのがある。 また、精神分析や文化人類学(この場合は「父殺し」と「王殺し」とが重なることがある)的な図式を あえて用いているというところもある。 のちには、中上はそれからずれて、↓の方向に行ったということもあるだろう。 「桜川」だったと思うが(ただし記憶が不確か)、龍造が随分と弱々しい人物として描かれていたのでなかったか。 〈マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。〉〈ドゥルーズ「マゾッホとサド」〉 〈かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〉 (中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収) ↑の書き込みは、「神話とギリシア悲劇からみる「父殺し」の普遍性」島田雅彦 からの引用ではない。 島田氏の批評文は、参考になるので、いちおう挙げておいただけ。 中上健次論 : 王殺しと物語の定型の破壊 増田真奈美 26で書いたようなことは、↑の論文に詳述してあった。 それと、26の引用文中で中井先生が「超自我」といっているものは、 たぶん「自我理想」というほうが正確なのではないかと思う。 「 このように『羊をめぐる冒険』は『千の顔を持つ英雄』と正確に対応している。少なくともぼくにはそう思える。それは繰り返すが村上春樹の小説をキャンベルによって解釈したのではなく、『羊をめぐる冒険』がキャンベルの神話論に従って「物語論」的に物語られているからである。より正確にぼくの印象を記すならば、恐らくこういうことだ。 村上春樹は「同時代」のアメリカ小説ージョン・アーヴィングやスティーヴン・キングやトルーマン・カポーティ、『スター・ウォーズ』や『地獄の黙示録』に共通の構造があることに「同時代としてのアメリカ」を書く前後には気がついていて、そしてその構造を抜き出す際に、キャンベルを明らかに参照している。 一方では、キャンベルの『千の顔を持つ英雄』の中で単一神話論の構造に従って紹介されていった古今の神話の一部を「ジャンク」として作中に引用している。つまり構造と素材の双方を借用していくことで村上春樹の中に「物語メーカー」というアプリケーションがインストールされたのである。 それが『羊をめぐる冒険』で起きたことである。これ以降、村上春樹はこのアプリケーションのプログラムをリナックスのユーザーのようにあれこれといじりまわしながら本格的に小説を書き始めるのである。」 「 村上春樹論、ないしは中上健次論が物語論として語られる時、一つの共通したアングルとして語られるのは、彼らは物語の構造を文学に敢えて導入することでそのような物語の構造やそれのもたらす陳腐さを顕わにした、という主張である。 (中略)同じ批評家の、ともに構造しかない小説を選択した中上と村上への評価が一八〇度違うのは「文壇」の二人に対する「空気」の問題でしかないが、例えば「村上春樹イエローページ」で加藤典洋も同じような評価を実は村上にしている。 (中略)恐らく四方田もそうであるように、物語構造が「主体」や「自己実現」というベタな主題を小説に代入してしまったことを村上なり中上の文学の支持者は受け入れ難いようにぼくには思える。」大塚英志『物語論で読む村上春樹と宮崎駿ー構造しかない日本』 wiki 『旅芸人の記録』(希: O Θίασος、翻字: O Thiassos)は、テオ・アンゲロプロス監督のギリシャ映画。 旅芸人の一行が19世紀の牧歌劇「羊飼いのゴルフォ」を上演しながら、アトレウス家の古代神話を基にギリシャを旅し、1939年から1952年の政治史を中心としたギリシャ史が旅芸人の視点から語られる。「現代ギリシャ史と風景を横断する旅」をテーマとし、ギリシア神話に依拠した、叙情詩的、叙事詩的な作品である。 ≫秋幸が実の父を殺そうとする動機 「父殺し」「王殺し」(隆造=「蠅の王」)は、神話的な物語の十八番の演目だから、 話の中心に持ってきたということだろう。 たしか「地の果て…」には、フレーザーの「金枝篇」からの引用があっただろう。 けっきょくのところ、暴れん坊将軍が悪い幕閣の役付きをやっつけるようなものとして、 その種のお話では、「父殺し」「王殺し」のテーマはお決まりなわけです。 wiki 『金枝篇』(きんしへん、英: The Golden Bough)はイギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書である。金枝とはヤドリギのことで、この書を書いた発端が、イタリアのネーミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られた。完成までに40年以上かかり、フレイザーの半生を費やした全13巻から成る大著である。映画「地獄の黙示録」でカーツ大佐(マーロン・ブランド)の愛読書として映るシーンがある。 中上健次は、村上春樹とおなじで、 ポストモダニズムの作家ですよ。 わたしは、ポストモダン的な作風が悪いとは思わないので、 これは肯定的な意味です。 wiki エレクトラコンプレックス(ドイツ語: Elektrakomplex、 英語: Electra complex)は女児のエディプスコンプレックスを指し、ユングによって提唱された名称。コンプレックスを日本語訳し、エレクトラ複合と呼ぶこともある。 秋幸三部作はエディプスコンプレックス 「旅芸人の記録」のほうはエレクトラコンプレックス、 それが主題、こういうことでしょう。 [父親であるとかまえる気など毛頭ないというようにボソボソと話しはじめた実父を見て、私はやりきれなかった。これが私の小説の主人公秋幸が自然そのものの化身とも、蠅の王とも呼んだ浜村龍造かと腹さえ立ち、これでは秋幸という私生児の物語の主人公がかわいそうすぎるじゃないかと、嘲いさえしたのだった。] (熊野州「桜川」) 中上が文学的想像力を駆使して浜村龍造を造型したことが分かる 中上の小説で最も魅力的な人物だった 地域開発の記録文学/思想文学 : 中上健次『地の果 て 至上の時』をめぐるメモランダム 渡邊英理 ↑の論文に詳しいが、中上文学には、 日本の戦後の「下部構造」の根幹といえる権威主義的開発体制の「マイクロポリティクス」の様相についての批判 という面があるだろう。 養父が土方の親方で、実父が流れ者から名士になりあがったデベロッパーということで、 そういうものに対する肉感を伴う分析がある。 その種の分析力というのは、村上春樹や村上龍のようなありふれた中間層から出てきた人にはなかなか身につかないものだ。 春樹の場合は、核になる文化的背景が学生むけの消費主義文化的風俗、龍の場合は、背景子供向けの劇画・マンガ文化的風俗みたいなことになるので、 私が思うに、中上とちがって、大人の鑑賞にはむかないところがある。 三島由紀夫の場合には、開発主義についての官僚的な計画者レベルの観点というのはあるのだが、 机上の分析というかんじで、肉感がとぼしい。 柄谷行人 「(「熊野集」は)物語=民俗学的空間と、私小説=自然主義的空間という日本近代文 学の「起源」において構築された二つの制度を脱構築する」 浜村龍造って田中角栄じゃないの? 角栄は賛否両論あるが下層への利益誘導という正の側面が確実にあるし殺すような対象でもないような 角栄的なものを引き継いだ自民党勢力は小泉に殺されたわけで秋幸は小泉か? 秋幸は龍造を殺していない。 龍造は自分で縊死する。 ちなみに、おなじ「金枝篇」を引いている「地獄の黙示録」では ウィラード大尉はカーツ大佐を殺す。 そして、ウィラードは「王国」を大佐の遺言に従って 破壊する(ナパーム弾による爆撃を軍に要請)。 秋幸は路地の跡地を燃やすが、あくまでもそこはすでに路地が破壊されたあとだ。 「地の果て…」の結末には、神話的物語のクライマックスとしては、 やや拍子抜けするようなズレがある。 Apocalypse Now Kurtz Compound Destruction Deleted Scene with Credits ↑最初の劇場公開時にあったシーンなのだが、 完全版などではカットされているので、 見たことのない人もいるかもしれない。 >>49 あえて物語を封印して、反物語としての小説を書いたわけだ これをよしとする者と肩透かしと思う者とで評価が割れる 蓮實重彦は中上の小説は山口昌男の図式的な中心と周縁理論のヴァリエーションと言ってたな 中上は柄谷と仲良かったけど中上のバックグラウンドは柄谷じゃなくて山口と吉本なんだよな 蓮實は山口理論を超えられるのが中上の力と四方田みたいなあるいは春樹を評した加藤みたいなこと言ってたけどw >>36 だから物語の構造に強いられてるのであって心からのリアリティがないってことじゃないの? <天皇>のいない世界 : 『地の果て至上の時』の象徴界 柴田勝二 ≫蓮實重彦は中上の小説は山口昌男の図式的な中心と周縁理論のヴァリエーションと言ってたな これは一面的な読解だ。 むしろ中上の小説世界は、 「アポロ的なものとディオニュソス的なもの」「中心と周縁」「サンボリックとセミオティツク」 こうしたものからズレていって、しまいはリゾーム的なところにいきつく。 中上の文学世界に最も近しかったのは、吉本や山口の思想ではなく、 浅田彰の思想だった。 [中上は自らの路地を対外的に見出した「路地」の上位に据える. 気は全くなく、 それらを同一平面上に並べたリゾーム的な繋がりを持つ、 フラットで、脱. 中心的な世界を見ていた](今井亮一「中上健次とガルシア・マルケス」) . 恋愛とは、まさに安定した秩序=コスモスがつき破られ、そこに混沌とした渦巻き=カオスが湧き出してくる体験ではないだろうか。 前者の安定した社会関係、言語と主体からなる秩序を、クリステヴァはサンボリックと名づけ、 後者のコスモスのなかに侵入しそれを解体する暴力的な力をセミオティックと名づけるのである。 そうすると、たとえば恋愛という体験は、サンボリックとセミオティックのせめぎあうプロセスとして記述することが可能になるわけだ。 ----------『現代言語論』 立川健二 山田広昭 共著 p. 141から144 より。 吉本、山口、そして三島に似ているのは、むしろ蓮實重彦のほうですよ。 人は、自分で似ていると思うものではなく、 あいつと私は違うと拒否しているものに実は似ている、ということがありがちなのです。 [安定した秩序=コスモスがつき破られ、 そこに混沌とした渦巻き=カオスが湧き出してくる体験] 蓮實重彦的な映画愛・小説愛によって生じる「陥没地帯」というのは、 読み取りのコード(物語=コスモス)がセミオティツクなものに 「不意打ち的」に侵入されることで 陥没するところのことだから、まさに↑の引用文にあるようなことです。 路地の解体というのは、↑で言及した方がいる列島改造論 それに代表される土建中心の国家資本主義と生政治の結合で、 低開発地域の開発は、55年体制下の地方改善事業、同和対策事業として 自民党と社会党などの談合の産物だたっといえる。 「地の果て…」で路地の跡地に小屋をしつらえて仮住まいしているような連中、 それらがのちに「日輪の翼」で流民化する連中になるわけだが、 これは、国家資本主義+生政治のソーシャルリベラリズム体制内に居場所のない サバルタンーノマドみたいなものだろう。 今の50歳未満の文壇・論壇人などは、1970〜1980年代はよかった、みたいなことを言うものが多い。 そういう人たちは、↑の中上作品にあるような批判をどのように評価するのか。 ×低開発地域の開発 〇低開発地域としての被差別部落の解体と再開発 作中の秋幸の親族、現実の中上健次の親族には、 国のおこなった低開発地方開発事業、同和対策事業からの受益者が多い。 なお、柄谷行人の実家もたぶん、おなじくその受益者だろう。 汚い汲み取り便所の掘っ立て小屋から清潔な水洗トイレの住宅に 建て替えることの何が問題なのか、さっぱり分からんな 自民党も社会党も同意した政策だ 青山真治 / 路地へ中上健次の残したフィルム (Trailer) これでも「失われた路地へ」ということが主題ということらしい。 「失われた〜」というのは、なにか大切なものを喪失したようなときにいうだろう、 「失われた時を求めて」みたいに。 青山監督のような中上文学の熱烈なファンは、とりあえずそういう気分なのだろう。 中上健次の本心がどうだったのかは知らない。 中上の親族のおおくは、「汚い汲み取り便所の掘っ立て小屋から清潔な水洗トイレの住宅に 建て替える」ことを含む同和対策事業による路地の再開発でがっぽり儲けただろう。 >>67 俺もそれ自体は間違ってると思わない みんな団地に住みたいからつくるとか でもそれが文学の主題にならないか?って言われたらなるでしょ それも色んな読み方ができるって事なんじゃないの。俺は被差別部落の歴史を知らないからそういう読み方をできないけど。でも中上は全部作り物だって自分で言ってるね。 中上の部落は迷路のような路地だが、地形的には色んな部落=路地があるんだよ。 部落=迷路ではない。 部落=路地を前近代の構造の一つと見ることも可能だが、それらの構造は完全に消滅した訳ではないし、残った構造から過去を再現視することも易しい。そして、それはかなり有意義なことでもある。ポスト構造主義の良い所は構造を絶対視しなかった点ではないか? 卑近なところで言えば、武蔵小杉は大型台風に見舞われた以後はウンコ杉と言われてるが、さらに食料自給率の低下が危惧されたり、再生可能エネルギーが注目されてる中で、人間が食事から摂取する栄養は6割から7割に過ぎず、ウンコの利用価値は非常に高い。 武蔵小杉とか便利なのかも知れないけどめちゃくちゃ混むよな面倒臭い 渋谷か新宿に電車乗り換えなしで30分以内に行ける街ならどこでもいい駅からは徒歩10分が限度 >>渋谷か新宿に電車乗り換えなしで30分以内に行ける街 タワマンのデヴェロッパーかよw >>78 でもそれが最低限じゃない?それ以上はめんどくせーわ 枯木灘を何の知識もなく読んだら被差別部落が絡む小説なんて分からないよね 千年の愉楽以降のならず者たちが跋扈する路地ってのも実状から言えばどうなん? その通り。被差別部落の話だとは前提知識なしに読んでもわからないよな。 和歌山及び新宮には行ったこと無いけど枯木灘は路地どうこうより地方の小さな都市のあのなんとも言えない感じは上手く描いてるなと思う >>80 西日本の人間には若くても、鋭い奴はピンとくるんだよ。 念のため、バイアグラじゃないよw 中上文学は『橋のない川』や『青年の環』のような部落差別をテーマとしていない かれが部落出身でも、そういう作品を書く意志はなかった かれは戦前の徳田秋声の自然主義文学を戦後ただ一人受け継いだ作家だ 自然主義リアリズムを戦後にいかに脱構築したか、それが読みどころだ 中上は部落の唯物的なところを強調したが、それには長所も短所もあった。 部落差別がテーマなら、もっとはっきり部落であることを書いてるわな。 その程度のことは誰でも分かるよ。 >>85 >>自然主義リアリズムを戦後にいかに脱構築したか、それが読みどころだ 大杉重男がそういうことを言ってるらしい。 デコンストラクションは批評の手法だと思うが、中上がどの作品でやったのか、 知りたいね。 いま大した文芸評論家がいないので、 大杉重男には徳田秋声と中上健次で1冊評論を書いてもらいたい 自分は『地の果て 至上の時』が中上の最も批評的なテクストだと見ている 中上健次は、戦後生まれとしては、 研究論文の数が圧倒的に多い作家だ。 精神分析、民俗学、記号論、コスコロ、カルスタ、フェミニズム(肯定的なものはオバの語りなどが対象になる)、 ほとんどすべての批評理論でもって論じられている。 研究論文を読めば十分だろう。 >>67 の方がいうような政策の対象から漏れるような連中がいる。 グラムシのいう「サバルタン」にあたるような者たちだ。 「その土地のもっとも不毛な空き地の、定住を忌む思いの直接的表現としてのテント、バラックに 拠り、どのような定職にもつかず、自由な結婚をいとなみ、体制をゆすり、近親者にくらいついて ――水への馮依を拒否する一群は、事態の深部において、火に馮依する者である」 「今日もしプロレタリアートの純粋な心情というものがありうるとすれば、 (谷川雁「馮依の分裂を知る者――中上文学・二泊三日の旅から」 (『国文学 解釈と教材の研究』(一九八五年三月号)) ×「今日もしプロレタリアートの純粋な心情というものがありうるとすれば、 〇「今日もしプロレタリアートの純粋な心情というものがありうるとすれば、 その最大公約数のごときものがここに示されている」 >>89 研究論文はつまらない 文芸評論家の面白い評論を読みたい 大杉の『小説家の起源』は面白かった >>85 >>かれは戦前の徳田秋声の自然主義文学を戦後ただ一人受け継いだ作家だ 自然主義リアリズムを戦後にいかに脱構築したか、それが読みどころだ その読みどころの箇所を大まかで良いから教えてくれ。 そんなカッコいいことが、スガにおべっかを使う大杉に出来るのか疑問なので。 わたしは、ユリイカや國文学のような準学術誌に載るような批評のほうがレベルが高く、 文芸誌に載るようなものよりも面白かったと思う。 ユリイカの原稿料は昔から安かった? 原稿料が安いほど原稿のレベルは上がるとか思ってる編集者もいるにはいた。 だが、今は通用しないかも。 ユリイカの安い原稿料への不満の声があちこちで上がってる。 やはり、編集者のレベルが下がったからではないか? 今のユリイカは、何も方向性が分からず、自力推進力も無くて、大海原に浮かんでる浮遊物に過ぎないと思うが。 「地の果て…」などではとくに、 「路地」の跡地にたてたバラックなどに仮住まいしているような 流動的な日雇い下層労総者からの略取・詐取といったものが、 社会的再生産の過程において、重要な資本蓄積の機会として描かれている。 「熊野集」でも、同和対策事業に乗って儲けるためには、 いかに上手にその種の下層労働者を「奴隷化」するかが肝心、 みたいなことが作者の姉夫婦の例を挙げて示されている。 中上文学にあっては、本源的蓄積は、資本主義の成立時にあった一過性のものではなく、 今現在も継続しているプロセスとして理解されているといえる。 上で引用した谷川雁の批評文にしても、そうしたことを踏まえて中上文学を論じたわけだ。 ところが、最近の「文壇」系の思想家は、本源的蓄積それ自体を「幻想」であるかのように言うことが多い。 これは中上の盟友であったはずの柄谷行人の「世界史の構造」などから出ているもので、 「子分」の大澤真幸などは、はっきり「幻想」という言い方をしている。 read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる