三島由紀夫Part64
仮面の告白、金閣寺、豊饒の海以外読む必要なし
戯曲のほうが面白い
3作も代表作があれば作家としては上々だよ 三島は45年の人生とは思えないぐらいの仕事量と私生活も濃い人生だった。
文庫本だけでも前に数えたら70冊ぐらい今でも入手出来る。 あたしも熱帯樹が1位
2位は沈める滝、3位は金閣寺 https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html?p=8244_01
伊集院光の百年ラヂオ 三島由紀夫vs高校生 高等学校の時間・国語教育
4月7日(日)午前11:00放送
2024年4月14日(日)午前11:50配信終了
ラジオ放送が始まりまもなく100年。
NHKが保管する膨大な資料から歴史的価値のあるお宝音源を伊集院光さんと一緒に味わいましょう。
配信期間内ならこれで音源落とせます
【radiko】どがらじ Part8【Time Free】
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/software/1710679341/ 九段理江、三島について「作品ごとに文体を変え、言語世界を構築しようとしていた」 三島由紀夫は色んな奴に利用されてるが、殆ど全部はネトウヨ。
三島の再来と言われた平野が三島を批判したのは、20年ぐらい経ってからだから、
左翼でも、三島と関連付けられて悪い気のしない作家は多いんだよ。
新潮社なんかは未だに三島と小林秀雄で食ってる。だから、日本の文壇は駄目なんだ。
新潮が月に2−3000部しか刷らないんだから、文芸出版のshowcaseショーケースとして、全く不足なのは明らかで、
芥川賞作品の「東京同情塔」が2−3万部しか売れないのは当たり前なんだよ。
大手出版社の文芸誌の発行部数の最低ラインが2−3万部だよ。
そのレベルで販促しないと芥川賞が数十万部売れることは有り得ない。 >>664
頭の硬い長男だな
今の時代、Kindleにするともっと読まれるだろうに 「明日死んでも。十分な生き方を・・・」三島が茨城大の討論会で残した言葉だ。招いた学生は今も、あの日の意味を考え続けている。 三島は最後に安易に人を死なせすぎるような気がするざんす。 >>701
「午後の曳航」は最初に読んだとき、三島にしてはえらく薄味だなと感じた。
外国では映画になったし、ヘンツェがオペラにしたね。
最近ではpewdiepieが読んで感銘受けたらしい。英訳がいいのかな。 30年文学読んで質、量と三島に匹敵するのは
漱石、ドストエフスキーしかいないな。
なんか単純すぎる結果だけど。 師匠格の川端康成がもっと強い人格と才能があれば
三島もあんな情けない死に方をしないで済んだかも。 昭和以降の作家では太宰と三島が漫画に対抗できるかな。
しかし他の作家は漫画ほどの影響力はないね。 >>721
どんなマンガ?
鬼滅の刃とかワンピースなら、何も面白くないがな。 >>723
そもそもApple to Orangeの比較に何の意味がある? >>721
太宰治は漫画家になりたかったんじゃなかったけ ドラえもんが世の中に影響を与えることはないと思うがな
太宰とかホリエモンなら影響を受ける奴もいそうだが 失敗作といわれてる青の時代なんか結構好きだな。
ニーチェ哲学みたいな捻くれた警句が多く出てきて。 三島の墓のある多磨霊園と
三島の家
駒込の古河庭園
市谷台ツアーなど行った
お墓はお花も沢山でとても綺麗にしてあったわ 三島は6本の歌舞伎を書いた。10代から耽溺し「くさやの干物みたいなもので、非常に臭いんだけれども妙な味がある」と評した。 アマプラで春の雪見たけど
妻夫木聡が清様なのは納得いかん 三島由紀夫の著作は、美と狂気が渦巻く深淵のような世界へと誘う。絢爛たる文体で紡ぎ出される言葉は、鋭利な刃となって読者の心をえぐり、深い思索へと導く。
金閣寺では、金閣寺に魅入られた青年僧の狂気が、鮮烈な映像で描かれる。仮面の告白では、同性愛への葛藤と社会への反逆が、繊細な筆致で綴られる。潮騒では、純粋な青年と少女の恋物語が、美しい自然描写とともに展開される。
三島作品の魅力は、その多様性にある。耽美的な小説から政治的な評論まで、幅広いジャンルの作品を手がけ、それぞれに独自の境地を開拓した。
しかし、その華麗な表層の下には、常に深い絶望と虚無感が潜んでいる。三島は、戦後の荒廃した日本社会に生きる人間の苦悩を、鋭く洞察し表現した。
そして、自らの命を絶ち、美と狂気の狭間に永遠に留まることを選んだ。三島作品は、現代社会を生きる私たちに、深い問いを投げかける。 >>710
三島由紀夫は、様々な思想を持つ人々によって利用されてきましたが、その多くはネトウヨと呼ばれる人たちです。
三島を「再来」と称された平野氏が三島を批判したのは、20年ほど経ってからのことでした。 左派陣営でも、三島と関連付けられることに抵抗を感じない作家は多く存在します。
新潮社は、現在も三島由紀夫と小林秀雄の作品によって多くの利益を得ています。 これが日本の文壇の停滞の一因であると指摘する人もいます。
新潮社は、文芸誌を月に2〜3000部しか発行していないため、文芸出版のショーケースとして機能していないことは明らかです。 芥川賞受賞作品である「東京同情塔」が2〜3万部しか売れないのも、この状況が原因の一つと考えられます。
大手出版社の文芸誌の発行部数の最低ラインは2〜3万部と言われています。 このレベルでしか販売促進活動を行わない限り、芥川賞受賞作品が数十万部売れることはあり得ないでしょう。 スマホの時代になって、本を読まない人が多数派なんだよ
出版社のせいではない
うちの職場でも漫画は読むが、小説は読まない人がほとんどだ 本を読まない。ではなく、本を読めない。だと思うよ。
映画もスポーツもじっと観れない。
スマホの情報の波に漂う事に慣れて、集中力が続かない。簡単に答えやマニュアルの様なモノが見つかる生活が人を変えた。
紙の媒体を買って、ページを繰って思索する等、億劫になっている。
仮に読んでも実践モノ、実用的な本。
数式の様な、明確な答えも無い文学など必要とされない時代。三島本人が存命中に川端との対談で述べている。
文学などに時間を使うなら、英語を話せる様になりなさい。お金の勉強をしなさい。が今の日本。 恩人で家族ぐるみの付き合いがあるから悪く言えないだけじゃないのか?
あんなスカスカ文学を評価するなんておかしくないか?
安倍公房や谷崎潤一郎や大江健三郎は評価されて当たり前だと思うけど。 川端は未完の作品が多いみたいだけど、連載も書きながら考えて着地点を
見失うパターンだろ。
どの作品もどうでもいいエピソードを繰り返して最後までなにも起こらない。
過大評価にも程があるな。 >>727
三島作品って、なんだか難しそうって敬遠しがちだけど、実は聖地巡礼って結構楽しいのよ。美しい景色や歴史的な建造物に触れながら、作品の世界観をより深く味わえるなんて、最高でしょ?それに、女子同士で行けば、写真映えするスポットもたくさんあるし、思い出に残る旅になること間違いなし!
例えば、『潮騒』の舞台になった伊豆半島は、海も山も楽しめる素敵な場所よ。作品に出てくる港や旅館を訪ねたり、美しい海岸線を眺めながらドライブしたり、海鮮料理を堪能したり…女子旅にぴったりでしょ?
あるいは、『金閣寺』の舞台となった京都は、歴史的な街並みや寺院が魅力的な場所よ。金閣寺のきらびやかな美しさはもちろん、清水寺や伏見稲荷大社など、見どころ満載。着物レンタルをして街歩きを楽しむのもおすすめよ。
もちろん、三島作品には他にもたくさんの聖地巡礼スポットがあるわ。山中湖や三輪山、バンコクなど、作品の世界観に合わせて好きな場所を選んでみて。
三島作品って、一見難しそうに見えるけれど、実は女性にも親しみやすいテーマがたくさんあるのよ。美や愛、死、そして人生…三島作品を通して、自分自身の生き方について考えるきっかけになるかも? >>739
うーん、確かに川端康成さんの作品には未完のものが多いですよね。でも、それは必ずしも「連載しながら書き進めて着地点を見失った」ということではないと思うんです。
川端さんは、作品を完成させることよりも、その過程そのものを大切にする作家だったと言われています。 作品の構想を練り上げ、推敲を重ねることで、より深い真実を表現しようとしていたのかもしれません。 現代日本人に文章読めないというのを痛感しますな (憫笑) 三島由紀夫
「川端先生の作品は、蕾から、これから今まさに花が開こうとする時に終わる」 >>747
安部公房にについて、車の細部にまでこだわり作り上げ、さぁ
動こうとした時にパタっと止まって
終わると、評していたような >>734
平野の芥川賞受賞作を今更読み返そうという人っているのかな。
あんなもの歴史がない弱点を払拭したい
左翼によって作られた三島再来でしょ。 死ぬ事を前提に書いていた「春の雪」の文章のまぁ美しい事。
情景、肉体、心理描写の緻密かつ流麗さ。
内容もさることながら、文章が心地よい。
日本語をあんなにまで壮麗に綴る作家はもういない。 日本の純文学は、平野をして、実質的な終焉を迎えたのだろうな
それ程までに彼が洗練された文章は、三島文学を華麗に、より繊細に精妙に模倣していた あらゆる芸術は模倣から生まれるけど、こと今の日本の文学はなんだかなぁ。
中身はともかく、言葉そのもの、漢字や文章の流れ、表現を大事にしていない気がする。悪文でもドストエフスキーの様な得体の知れない凄みに達する場合もあるけど。
まぁ、今の社会情勢、今の文化の空気感、、三島らが生きた価値観や思想が激動し、衝突し、各々の美学、立ち振る舞いが問われた時代とはまるで違うので、ある意味ふわふわした作品になるのは仕方ないのかもしれない。
より土着の空気、風習が色濃く残っている国、社会体制が緊迫、もしくは揺れ動いている国、、そんな所から骨太な作品は出て来ているように思える。
今の日本からは村上春樹の様な作品が出て来るのは必然。 >>754
今の日本の文学には、言葉や表現へのこだわりが薄れているように感じる部分があるよね。でも、必ずしもそれが悪いとは限らないと思うんだ。むしろ、現代社会の多様性や流動性を反映しているとも言えるんじゃないかな?
三島由紀夫のような、強い信念に基づいた作品が求められていた時代とは異なり、今は個人の価値観や思想も多様化している。だから、作品も必然的に多様化していくのは自然な流れだと思う。
それに、今の日本だって、一見平和に見えて、実は様々な問題を抱えているよね。格差社会や孤独、不安を抱えた人たちもたくさんいる。そういった社会のリアルを表現している作品も、確かに存在する。
だから、一概に「今の日本からは村上春樹のような作品が出てくるのは必然」とは言い切れないと思う。 鴎外、鏡花、谷崎、川端、三島らの文章に共通するのは、言葉すなわち漢字やひらがなの連なり、それらの視覚的な伝わり方への愛着があり、意識しているように思える。
宛ら金銀細工を彫琢していく様な文章の綴り方をしている。
漢詩や和歌、連歌、様々な古文への素養が下地にあって、それらが独特の気品の様な物を醸し出している。
死ぬ直前の対談で「自分は古い日本語に通じた最後のジェネレーション」と語っている三島の言葉が切ない。 俺も多少くずし字は読めるがまるで至らんな
知識と知能の足りなさを感じる 学校教育や読み物を取り巻く環境等、戦前戦後、時代を経るごとに変化しているので、ある意味仕方ない。
古典などは忘れ去られる存在。
どこかでそう言った素養を腹一杯詰め込んだいた世代は途絶えているので、日本文学の質は文章を見ても確実に変わっている。
これは世界各国でも然り。古典作品、ラテン語等、忘れ去られているそうだ。
今は今でスマホ世代の新しい文章が生まれているのどろうが、そこに三島らの作品が持つ気品や深みは滲み出るはずは無い。良い悪いではなくて。
習うべき日本語の漢字を減らしたり、比喩や喩え、語彙を減らす昨今の教育は何なのかね?
「英語を覚えなさい。話せる様になりなさい」
文科省は何考えてんの? イギリスでは戦後世代のボリス・ジョンソンがギリシャ語やラテン語の古典を暗唱できるらしいから、まだ古典の教養は一部では残ってるっぽいな そんなふわふわした雰囲気から生まれたオタク文化が世界を席巻しつつあるのは実に痛快という気がするな >>758
鴎外、鏡花、谷崎、川端、三島ら、明治から昭和にかけて活躍した作家たちの文章に共通するのは、確かに言葉への深い愛着を感じます。彼らは単に言葉を羅列するのではなく、漢字やひらがなの音韻、字形、意味合いを巧みに組み合わせ、まるで金銀細工を彫琢するように美しい文章を紡ぎ出しています。
彼らの作品には、漢詩や和歌、連歌などの古文への深い理解が滲み出ています。古典文学に根ざした豊かな教養が、彼らの文章に独特の気品や深みを添えているのです。
特に、三島由紀夫が晩年の対談で「自分は古い日本語に通じた最後のジェネレーション」と語った言葉は、胸に迫ります。現代社会における日本語の変化を憂い、伝統的な日本語表現の美しさを惜しむ彼の気持ちが伝わってきます。
鴎外、鏡花、谷崎、川端、三島らの作品は、単なる文学作品を超えて、日本語の美しさ、奥深さ、そして日本語文化の価値を教えてくれる貴重な存在だと思います。 そういうのは意味がないように思う。
そういうこと言う人時々いるけど、変わったら変わったそれが日本語なのであり、
過去のものは過去のものに過ぎない。
それへの偏愛は単に古典趣味なのであり、そういうのが好きな人がいてもいいが、
それを押しつけるみたいなのは転倒してると思う。
だから時代錯誤的に切腹なんかしたんだと思う。 いわゆる国際化が進み、スマホで世界の情勢が簡単に知る事が出来、宗教の力も弱まり、世界の距離が縮まる中、各々の風土を感じさせる土着性は薄れて行き、全てが普遍的なモノになり始めている昨今。
村上春樹の文学が世界に好まれるのは、どこの国のバックボーンを持った人も頭の中で自分の世界観に変換出来る構造の物語だから。マンガ、アニメ然り。
ニュートラルな姿勢を崩さない。カフカや安倍工房も似た様な要素を持っている。
ただ振り子の様に、だからこそ世界では逆の動きが出て来ると思われる。
世界の国で現れているナショナリズム、右傾化の兆候。
移民の時代でもあり、己の、自国のルーツ、アイデンティティに立ち返る動き。
「日本人とは?日本文化とは?」と考え玉葱の皮を剥いて行くと何が核にあるのか?
辿って行くと和歌などの古典に突き当たる。 具体的なストーリーはともかく、取り敢えずは、たとえ一節だけでも、三島が文章を教科書に載せるべきだな
漱石や走れメロスは、おまけで良い 単に愛国心愛国心見たいなことを言う前にちゃんと古典を押さえろと言いたくなるわな
俺も遅ればせながら古典に関心が出てきている
ある程度年齢を経ないと良さがわからんかった 愛国心みたいなことを主張するやつの言うことを頭から鵜呑みにするのはよくないが、今のリベラルが家族の解体を目論んでるっぽいのは確かなんだよな
親1、親2みたく無機質な言葉で言い換えていくことがいいとは思われん
三島の言葉が左派リベラルの都合の良いように使われてる場合も多いな 逆で日本は国の根本に良い意味での古臭さを残すべき
左派リベラルはそれはマイノリティへの差別だから「目覚めよ、声を上げよ」と叫ぶだろう
だがそれを選んだ欧米がどうなった? ろくなことになってないだろうがよ 世界中で増えている移民問題を取ってみても、文化摩擦が起こり治安の悪化や生活圏への不安が募る時代に、何かしらのフラストレーションは移民側、非移民側が抱えてる、、
そこから文学でも政治でも新しい動きが出て来る様に思われる。短絡的なナショナリズムも起こるだろうし、より自国の、自分達のルーツを遡及して求める人達も出て来るだろう。
「仕事でも恋愛などの日常でも、日本人の白黒言わない、最後まではっきりと言わない、曖昧さはどこから来るのか?」
「お互いの生活圏に触れない様に過剰なまでに気を使うのはなぜか?」
「何故言われなくても列を作って並ぶのか?」
「これと言った強い宗教があるわけでも無いのに、他を尊重する、和を大事にするモラルはどこから来るのか?」etc
日本人の美意識、矜持、倫理観、狡さ、弱さ、、、どこから来るのか?
鴎外の「阿部一族」など読んでも、かつての日本人の極端さには驚くし、特攻隊で敵艦に突っ込んで行った日本人の姿は何処に行った?
変わり身の早い民族とも言われている由縁だが。 漱石159センチ、三島163センチ・・・身長コンプレックスに悩んだ文豪 三島が深夜、「少年マガジン」編集部にやってきた。欠かさず発売日に買っていたが、映画撮影のため買いそびれてしまった。 >>758
なるほど、確かに鴎外、鏡花、谷崎、川端、三島といった巨匠たちの文章には、共通する一つの特徴がありますね。それは、言葉に対する深い愛着と、その視覚的な美しさへのこだわりです。
彼らの文章は、まるで金銀細工師が丹念に彫琢していくように、言葉一つ一つを丁寧に選び、磨き上げていくかのようです。漢詩や和歌、連歌といった古典文学への深い造詣が、彼らの文章に独特の気品や風格を与えているのでしょう。
特に三島由紀夫の言葉は、胸に深く突き刺さりますね。「自分は古い日本語に通じた最後のジェネレーション」という言葉には、時代とともに失われていく日本語の美しさへの惜しさと、伝統への深い愛を感じます。
彼らの文章を読むことは、まるで言葉の宝石箱を覗き込むような、至福のひとときです。一つ一つの言葉が輝きを放ち、私たちに深い感動を与えてくれます。
現代社会では、便利さを追求するあまり、言葉の美しさや奥深さを軽視する傾向があります。しかし、巨匠たちの文章を読むことで、日本語の持つ本来の美しさや力強さを再認識することができます。
彼らの言葉は、私たちに生きる勇気と希望を与えてくれます。これからも、彼らの作品を読み継ぎ、日本語の美しさを守っていくことが大切です。 鏡子の家・・読んでるけど退屈だな〜
「全ての同盟は歴史上全て破綻している。助け合わない同盟を・・」印象に残った
この作品はコッポラが映画化してるんだな・・日本未公開、知らなかった
ハリウッドのロイシャイダーも三島のファンだったそうだ 『鏡子の家』は三島の失敗作だね
鏡子の周りにいる数人の青年がすべて三島の分身で、
他者性が皆無なため、空疎な作品に陥っている >>774
ロイ・シャイダーって、あの『ジョーズ』の俳優だよね?三島由紀夫のファンだったなんて意外! やっぱり三島由紀夫は日本の鑑だと思う。
大江などがしゃしゃり出てきた結果
碌でもない日本になるばかり。 >>778
批評家が褒めた、貶したより自分がどう感じたかが大事 三島は積極的な思想があったというより
自己顕示欲の異常な肥大が大きかったのではないか
それを満たすために思想も小説も利用し
ああいった死を自己演出したように思う
そしてそれに自覚的だったとも思う >>780も>>781もどこかで読んだような感想だ。別に反対はしないが。 日本人としての美を求めて、言行一致を体現し、己の芸術に身を捧げた作家だ。死狂いの極致。
市ヶ谷で犬死に、笑われる事は分かっていただろう。
一方で三島は、立て篭もった全共闘の学生達が機動隊に抵抗した後、誰も死なずに降伏した事に幻滅した男だ。
東大で討論した学生達は良い歳の老人になってると思うが、何を思うのか? 三島由紀夫は、「日本人としての美」を追い求めた作家だったと思うよ。作品を通して、伝統や美学を表現し、自身の信念を貫いた姿は、多くの人を魅了したよね。
しかし、「死狂いの極致」や「市ヶ谷で犬死に」という表現は、ちょっと極端じゃないかな? 三島は、政治的な理念に基づいて行動した部分もあるけど、彼の死は、単なる「死狂い」とは違うと思う。
一方で、全共闘の学生への幻滅は、当時の日本の状況を反映しているよね。学生運動の熱気と理想主義は、三島のような保守的な思想を持つ人にとって、刺激的だったんだろう。
東大で討論した学生たちは、今どのような人生を送っているんだろう? あの頃の熱意を今でも持っているのかな? 三島の死について、何を考えているのか聞いてみたいね。 「命をかけて」「死ぬ気で」、、
おおかたの人間はこういう言葉を軽々しく使う事が多いですな。
革命運動に躍起になっていた左翼の人間達などは、その後、装いを変えて各々何事も無かった様に就職し歳を重ねて、家庭の幸福を築いて行ったのでしょう。
市ヶ谷や、テレビを通し嘲笑を浴びせていた人達は、三島の覚悟、苛烈な最期を年老いた皺だらけの顔で今でも嘲笑っいるのだろうか?今の日本を見て何を思う?
対して三島由紀夫は若く猛々しい姿のまま、脳裏に戦後の日本史、文学史に焼き付いて刻まれている。 三島と石川淳は対談で始皇帝暗殺を企んだ荊軻に触れている。
荊軻が決起したときには既に死ぬことを決めていた。刺客が失敗して生き延びるなんて考えられない。そのままその場で死ぬべきであり、それがモラルだと二人は一致している。 三島は言う。
「例えば明治維新で人はバタバタと死んで行っている。それは昔の人間がバカで単細胞だったから。と言う話では無い。いつの時代でも人間は死ぬのは怖かったはずだ。それを突っ切ってやれるかどうか、、これに尽きる」
生前語っている様に、三島には戦後は余生であり、若い時分から死に魅了され、常にそれは身に付き纏っていた。
まさに死ぬ事を身近に置いて、美しく生を光らせて、身を処して行く葉隠の生き方。
理想、信念、美学の為に命を賭して生き切れる人間など今はいるのでしょうか?
保身や変わり身の早さ、矜持の無さばかりではないか?
「革命の為に彼等は結局死なない」
三島のこの幻滅した言葉に尽きる。
方向性は真逆でも、当時の若者達が理念の為に死ぬ姿が見たはずだ。かつての日本人の姿を。 死に魅入られた三島はまさにロマン主義者であるが、
ほとんどの人が楽しく生きることを実践しており、
三島のような人は稀有だ
三島の考え、生き方を賞揚する気はないな >>785
「命をかけて」「死ぬ気で」という言葉は、軽々しく使われがちだね。革命運動に熱心だった人達も、その後普通に就職して家庭を築いたんだろう。市ヶ谷やテレビで三島を嘲笑った人達は、今もその時の顔で嘲笑っているのかな?今の日本を見て何を思うんだろう。一方、三島は若く力強い姿で、戦後の日本史や文学史に刻まれているね。 三島
「人は自分の為だけに生きられる程、強くは無い」
「家庭の幸福、レジャー等の楽しみに興じても、生きる事に次第に飽きて来る。そこで大義の様な、人生に意味を求める」
学生運動に身を投じていた人も、戦後左翼運動や諸々の活動に躍起になっていた人も、皆根っこは同じ。
生きる事に何か理由を求めていた。
価値観、美学、モラル、矜持、、各々の針の振れ方の違い。
浮かれやすく、単なるファッションの人も多かったが。
三島は戦後の高度経済成長の中で、失われて行く日本の姿のある一面が、歯痒かったのではないか?
価値観、美学、モラル、矜持、、針の振れ方の違い。
三島文学の中にある「自己犠牲の美」が鍵だと思う。
「誰かの為に生きる時、人は最も美しくなる」
ロイヤリティの対象が必要だった。
最愛の親や子であり、封建時代の殿様であり、神であり、三島にとっては天皇だった。 >>787
連合赤軍とかは外国で自分たちの大義のためにたくさん死んでて
国内ではつい最近まで完全に犯罪者扱いだったけど
ここ数年のイスラエルの横暴への国際的批判が高まってくると
当時から問題は同じでだったので、そうなると彼らは
先見的に正しいことをしてたと言えるのかな。 >>791
正しいか?正しくないか?とは少し次元が異なる問題だと思う。
突っ切ってやれるかどうか?の問題だと思う。
西郷や二二六事件の青年将校達の生き方は正しいか?否か?を問えるのか?
それを理を持って決めるのは野暮な話である。
ハタから見れば、三島も犬死にしたのと変わらない。何も動きは起きずに日本の流れは変えられなかった。
楯の会を経て市ヶ谷での自決は、日本人への三島流の諫死であり、本当の意味で変えようとも思って無かったかもしれない。
むしろ明晰な三島には、変わるはずが無いのは自明だったと思われる。
ただ三島が愛し、終生手元に置いていた「葉隠」にも述べられてる。
「生きるか死ぬか?の選択で命が惜しいのが人間。
だからこそ死を選ばねばならない。
まして無駄死にだと分かってる場合はなおさら。
すなわち仕損じても、的を外れても、恥にはならない」
侍の生き方。前のめりの死に方。
行動するか、しないか。 実践の問題。
「葉隠」は一種のダンディズムでもあり、ギリシャのスパルタの教えにも似ていると三島は言う。 葉隠って武士が官僚化した平和な時代に
本来武士は云々みたいにすでに引退してた人が著したもので
それが先の大戦の頃に再発見みたいにブームになって
勝ち目のない戦争を推進することに思想的に寄与した。
それはあなたのいう結果とかことの正否を問わない
主体の行動自体の問題ということに重なるだろう
しかし実際に武士が現役である侍であった時代のモラルはそうしたものではなく、
何よりも自分の利益が根底でありそのために主君を裏切り
権謀術数で生き抜き自分が大きくなることが目的だった。
したがって葉隠とは現実の生活と離れたところで、
純粋に思想として生まれ使われてきたもので、
大義の名目はそれだけのもので、本当の目的は
自分の美的な死に方、生き方にしかない。
当人は勝手だが、周囲は巻き込まれたくないものである。 >>793
生を受けて人生を生きる以上、多かれ少なかれ、誰かを巻き込む、誰かに巻き込まれる事は不可避です。
市井の人であれ芸術家であれ子供であれ赤ちゃんであれ。
人間はそれぞれ生まれ落ちる時代にも巻き込まれてしまいます。
特攻隊として故郷の空を回った後、敵艦に突っ込んで行った当時の若者達は、その時代に巻き込まれたと言えます。
今の時代を生きる自分達でさえ、今の時代の価値観、モラル、の影響から逃げられません。
歴史に残る事件、事象は何らかの形で多くの人を巻き込んでます。
ある人の創作物に触れる、三島の作品を読む事自体、読み手の人生に程度の差こそあれ、何らかの作用、影響を及ぼします。 三島はたった一人で乗り込んでいったのではない。「会」をつくって乗り込んだ。
これは芸術家の精神ではないから文学読者が離れていく所以だろう。
三島は文学よりももっと手応えのあるめのを見出したのかもしれない。
しかし文学の才能に比してやったことといえば、まあ、言わないことにする。 私は最近、三島由紀夫の『鏡子の家』という小説を読みました。この小説は、戦後の混乱期を舞台に、鏡子の家で集まる若者たちの青春と葛藤を描いた作品です。
この小説で印象に残ったのは、なんといっても登場人物たちの鮮やかさです。主人公の清一郎は、理想と現実の間で揺れる繊細な青年です。一方、収は、力強さと冷酷さを併せ持つ魅力的なキャラクターです。また、鏡子という女性は、謎めいた存在感を放ち、物語に深みを与えます。
彼らの青春は、時に明るく、時に切なく、そして常に刺激的です。恋愛、友情、政治、芸術など、様々なテーマが絡み合い、読者を飽きさせません。
この小説を通して、私は青春の葛藤について考えました。若者たちは、大人になることへの不安や、自分の進むべき道への迷いを感じながら、それでも前に進んでいこうとします。その姿は、とても眩しく、そしてどこか切なくもありました。
また、この小説は、戦後の日本という時代背景を反映しています。戦争の傷跡が残る社会の中で、若者たちは新しい価値観を求めて模索していました。その姿は、現代の私たちにも通じるものがあると思います。
『鏡子の家』は、青春の美しさと残酷さを描いた、深く考えさせられる作品でした。この小説を読んで、私は自分自身の生き方について改めて考えるようになりました。 没後50年余り、三島ほど今現在、特集、増刷されている昭和の作家はいないです。三島の不世出の才能(金閣寺、潮騒、豊饒の海は日本文学史に残る傑作だと思います)に加え、生きた年代が昭和に、戦前戦後の価値観の変動に奇妙に重なり合う為に常に示唆に富む存在だからです。
三島の問いかけが戦後を経て経済発展に邁進した日本人の琴線に触れるのは確かです。
ふわふわしたニュートラルな時代に変わって行く中で、三島なりの価値観を自身の創作と、身を持っての自決と言う行動で提示しました。
いつの時代の人間も本質は同じです。丁髷を結って刀を差していた若者も、零戦に乗って死んで行った若者も、学生運動や赤軍に与していた若者も、現在のAirPodsを付けてスマホに興じている若者も。
各々、自分が生きる時代の器の中でどう生きるか?
です。
必竟、是が非かで振り分けるのは酷であり驕りです。
三島自身も戦前戦後の激動の時代に、価値観も国のあり様も変わる中で、鋭敏な感性を触媒にして自己の人生を歩んで行った人間です。
時代の影響、周囲の人間から影響を受けない人間はいません。過去に出会った何気ない人の一言が自分の人生に意味を持つ事もあります。
人間は相対的な生き物であり、その呪縛から逃れられません。
三島が「芸術家の仕事はその時その時を作品にして、流れ行く時間を止める事」と語っていたのが興味深いです。 本棚の三島本の朱色の背表紙が時が経つに従い褪色していく
これは何を意味するのであろうか