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【晩年】大江健三郎 8【様式】
0001吾輩は名無しである
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2023/09/10(日) 22:59:34.38ID:q3Zsuteu
御冥福を祈ります
0363吾輩は名無しである
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2024/04/29(月) 08:27:36.86ID:EV6cBIAq
0364吾輩は名無しである
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2024/04/29(月) 12:09:59.82ID:85tLFGwJ
三島と大江の違いで重要なのは、東京出身と田舎の村出身というところである
左翼の人間でよくいたのが、戦前の軍国教育を批判し、戦後の反天皇・反君が代・反日の丸の日教組教育を正当化するために、自分は軍国少年だったと声高に言う連中である
子供の頃は、国家の教育のため軍国少年になったが、戦後は改心して平和主義の民主主義者になったと主張する、軽薄な人間である
大江は、こういう連中と違い、子供の頃の軍国少年であったことを、自分自身の中にある内なる天皇を晩年の作品「水死」に至るまで問い続けた
都会の子供にとっての天皇は、国家による教育で教え込まれるものに過ぎないが、田舎の子供にとっての天皇は、共同体の年中行事などの神事と係わり合いがあり、
憲法が変わり、国家による教育が変わったからといって、簡単に消えてしまうものではない
大江が、折口信夫の民俗学、古代学をたよりに生まれ育った村の共同体と天皇を生涯問い続けたのはそのためであろう
一方、都会育ちの三島は、国家神道の天皇にこだわり続けるしかなかった
0365吾輩は名無しである
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2024/04/30(火) 12:47:56.67ID:VtkeetCQ
age
0366吾輩は名無しである
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2024/05/01(水) 23:06:25.96ID:kkPB96b6
>>364
問題時大江の戯言など
もう記憶しておく価値などないだろう。
0367吾輩は名無しである
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2024/05/02(木) 10:40:27.54ID:cf1/LAQI
そもそも大江は社会正義を盾にして
戦後民主主義者に転向したやつを軽蔑している
0368吾輩は名無しである
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2024/05/03(金) 13:18:37.19ID:fjVGotnI
(359-361の続き)
 王仁三郎は、壮絶な「神憑り」の最中、お筆先として過激な「神の言」を撒き散らし続ける出口なおと出逢い、すぐさまなおに帰依し、
なおを「神主」、自らを「審神者」とする「鎮魂帰神法」を、理論においても実践においても、確立していったのである。
最大の力をもった「神主」こそが最大の力をもった天皇なのである。
アマテラスが憑依した天皇は、その度ごとに、文字通りアマテラスそのものとなる。
大本的な「鎮魂帰神法」にもとづいて小説「英霊の声」を書き上げた三島由紀夫は、続いて評論「文化防衛論」において、伊勢神宮とアマテラスを論じることになる。
三島は、そこで、こう宣言する。
日本文化の大きな特質の一つは、本来的に「オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」ところにある。
その端的な例は、伊勢神宮で二十年に一度行われている式年造営と、そこに祀られているアマテラスと天皇の関係に見出すことが可能だ。
伊勢神宮は内宮と外宮の二つの神域からなる。
それぞれの宮を構成するすべての建物、そのなかに収められたすべての宝物は二十年に一度完全に破壊され、まったく同じものが、すぐ隣の空白の地に造り直される。
 三島は、ここにこそ近代以前にして近代を乗り越えていく日本文化の特質があるのだと断言する。
「持統帝以来五十九回に亘る二十年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、
オリジナルは、その時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。
このような文科概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にないところの天皇制の特質と見合ってゐる。」
 憑依という反復によって時間も空間もゼロへと滅び、あらためてゼロからよみがえってくる。
もしそこに「かたち」が、「仮面」がなければ、誰もが、何もが自己同一性を保つことができなくなるであろう。
三島由紀夫は、反復の度ごとに同一性が保たれる「かたち」を選んだ。
『万延元年のフットボール』を書き上げた大江健三郎は、おそらく違う。
反復の度ごとに同一性が破られ、差異性が産み落とされる「かたち」以前の「かたち」、「かたち」の母胎、「純粋天皇の胎水」たる「ふるさと」を選ぶ。
(同上P.52-55)
0369吾輩は名無しである
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2024/05/03(金) 13:20:31.60ID:fjVGotnI
三島は、伊勢神宮の式年遷宮は、コピーがオリジナルになるといっているが、これがそもそも問題なのである
20年ごとに造られる社や宝物は、完コピではなく「づれ」がある
図面通り作れるなら20年ごとにやらなくても、壊れそうになったらやればよい
20年ごとにやるのは、図面には現れない「わざ」があり、それを人間によって伝承する必要があるからであろう
こういった構造の「づれ」を問題にするのが広義の「脱構築」だろうが、原義は形而上学の同一性に関るものである
「イデア」と「現前」の同一性を、三島の天皇論に当てはめると、イデアがアマテラス、現前が天皇になる
この関係は脱構築されねばならない
0370吾輩は名無しである
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2024/05/03(金) 13:21:02.93ID:fjVGotnI
「脱構築」について、浅田彰ではなく、『へるめす』で大江と同人だった中村雄二郎の『術語集』(岩波新書)から引用してみる(P.196-200)

 「ドゥルーズ『意味の論理学』では、プラトン主義のうちにある本質界と仮象界の区別が問題にされる。
すなわち、プラトンは本質を仮象から、オリジナルをコピーから、原型を模像から分けた。
それは、本物を贋物から見分け、区別し、探し出すためであった。
そして、本物=イデアとの対比で、模像(ずれと改変を含んだコピー)はいやしめられ、抑圧された。
 では、そのように模像を退けるプラトン主義において、真理の基準となるものはなにか。それは同一性と相似性にほかならない。
だがそれらではなく、模像と差異の立場に立つときは、本質はもとより、オリジナルも原型も特権をもって存在しえなくなる。
相似は模像の外にあらわれた効果にすぎないし、同一性は差異を前提として存在しているにすぎない、とドゥールーズは言っている。」

「<ロゴス中心主義>と<脱構築>というのは、たしかに西洋文化の根幹にかかわる重要な問題である。
そして私たちとしても、明治以後西洋文化をこれだけとり入れてしまった以上、その問題は決して他人事ではない。
けれども、さらにその先に考えるべきは、私たちにとって脱構築の対象とすべきもの、私たち日本人の考え方を根本的に支配するもの、
西洋文化でのロゴス中心主義に当たるものはなにか、ということである。
それはなんといっても文化概念としての<天皇制>であろう。
 こうして私たちにとって、脱構築の作業は文科概念としての天皇制に向けられるべきことになるが、あたかもデリダ『根源の彼方に』のうちに、その点で私たちにとって切実なことばがある。
《脱構築の試みは必然的に内部からの働きかけとなり、逆転のための戦術と力とをすべて古い構造から借りうけるため、
その構造的につまり要素や原子を分離せずに借りうけるため、ある意味では必ずみずからの仕事の犠牲にならざるをえないのである。》」
0372吾輩は名無しである
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2024/05/04(土) 13:46:19.91ID:UStIoom6
>>370
敵の褌で相撲を取ろうとか笑止千万。
そもそも敵認定をしてしまう性根がそもそも間違っている。

金のために死体遺棄を平気でしてしまう若者(朝鮮人)が
話題になっているが
これもふざけた脱構築によりタガが外れた一つの犠牲なんだろうと思う。
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