ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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もしかして、このスレもIDなしで立てようとしたの?
でもいいや、IDがあればなんでも 前スレを、あのまま放置しては、だめだ。
すばらしい書き込みが、多々あった。ひとつひとつ、入念に対話していくんだ。
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あなたは、前に「オウム真理教がインチキ教団であるかどうかは、いかなる判定基準で判断するか。」というぼくの問に対し、誠実な態度でしたね。
立派だったよ。
今夜できるか怪しいが、できるだけみんなのすばらしいカキコに対し、ぼくの思索を返そう。 >>3
いや、前スレと同じにしようと思った
保守サンクス 99 名前:もしもし、わたし名無しよ :2018/08/12(日) 03:35:45.57 ID:VHjGvrQt
いまパリからです
突然話が進んでその日に速攻でチケットを買いその日に飛んで来ました
今回は少し滞在する予定です
また今回はたぶん17億円程使う予定です
正直もう今年になってアンティークドールだけに60億程使ってます
仕方ないですね好きなんですからw
また報告します > 次兄イワンが救われない人間に地上での
> 心の平穏と平和を約束する偽りの信仰を肯定した理由でもある
イヴァンは「偽りの信仰を肯定」などしましたか?それはどこに書いてあるんですか?
大審問官の章のことだと推測しますが。明文が見たい。
>大審問官のくだりで神などいないという秘密こそが神秘だとしていますけどね?
「悪魔との契約」というのはそういう事ですが
きちんと読みましたか?
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君たちの目的はなんだ?カラマーゾフを読解して、教養を深めることか?違うだろう?
教養など屁のつっぱりにもならんことは、自分でいちばん理解してるでしょう?
わたしたちの目的は、あなたらの表現でいえば「救い」、僕らの表現でいえば「成仏」じゃないか。絶対的幸福です。
本文など見ずともわかる。イヴァンは「偽りの信仰を肯定」などしてない。肯定も否定も
できずに苦しむ姿がイヴァンカラマーゾフであり、われわれ凡夫の実相だからです。
イヴァンが、そのような俗物ではない、というか単純な青年ではないことを、当然きみは知っている。
ここで重要なのは(どんな場合も重要なのは)細部の言葉の解釈などではないということだ。
きみたちは、ぼくに真意を曲解され、腹立たしかったり悔しかったりするだろう?(それはわざとだ。) なぜならそれが、われわれのやり方だからだ。
「悪魔との契約」など、キリスト教用語は普遍性がなく、カラマーゾフ本文を引きつつ
カキコできないか? >>8
>本文など見ずともわかる。イヴァンは「偽りの信仰を肯定」などしてない。
信者の大多数を占めるであろう弱者が
地獄に堕ちるまでの間に嘘をつき通して
心の安寧と地上の平和を確保する
そういう宗教的指導者の苦悩ですよ
救われない者たちに対して
神から見放されるような弱者に対して
美しい嘘をつき通してつかの間の安らぎを与える
そういう政治的信仰を肯定している
「悪魔との契約」という言葉は本文にもありますよ
>カラマーゾフ本文を引きつつカキコできないか?
あなたも本を持っているのなら自分で確認してください あれといる、大審問官はもう宣言している
かつては荒野にでて草を食うような生活を送ったがひきかえした、強い選民ではなく弱い大衆のためにと
このへんから読むと、なぜ悪魔といることを選んだかの物語の理由も書いてあるよ
「われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。おまえが憤ってしりぞけたもの、そう、あれがおまえに地上のすべての王国を指さして勧めた最後の贈りもを、あれから受け取ってちょうど八世紀になる。
われわれはあれからローマと皇帝の剣を受け取り、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した。------。」
だけど、実際にパン(欲望)をすてさる生活を送るのは言うのは簡単だけど実践はとても難しい
世界に関わらなくして自己を保つことは出来ない
自己の尺度は社会性を失えない カラマーゾフで「虐待は性的快楽をもたらす」みたいなの書いてたのどこだっけ >>11
新潮文庫だと605ページくらいからの、大審問官の前の節だね
「人間の多くの者は一種特別な素質を備えているものなんだ、それは幼児虐待の嗜好だよ、しかも相手は幼児に限るんだ。
ほかのあらゆる人間に対しては、同じこの迫害者がいかにも教養豊かで人道的なヨーロッパ人らしい態度を示すのだが、子供を痛みつけるのが大好きで、その意味では子供そのものを愛しているとさえ言えるわけだ。
この場合、まさに子供たちのかよわさが迫害者の心をそそりたてるのさ。
逃げ場も無く、頼るべき人もいない子供たちの天子のような信じやすい心、これが迫害者の忌まわしい血を燃え上がらせるんだ。」 まず書き込みの前に、以下を確認して念頭に置くこと。
平成19年11月6日本部幹部会前日、関西における全国代表者会議での
池田先生自らの決意表明
決意表明11事項
1.今日も私の生命力を広宣流布に捧げて参ります
2.何が起ころうとも心の平和を乱さぬ強さを持つこと
3.会う人ごとの健康、幸福、希望について語りゆくこと
4.友人に対しては、常にその人にしかない長所がある
ことを感じさせてあげること
5.必ず、全ての明るい面を見て、楽観主義で行くこと
6.常にベストのみを考え、ベストの結果をだす事だけを
考え行動する
7.他人の成功を自分のことのように喜べる自分であること
8.過去の失敗にとらわれず、未来の偉大なる成功を
目指し前進すること
9.他人の失敗を指摘する間もないほど自己の向上に専念すること
10. 何者にも恐れぬ強さを持ち、怒りに対しては忍耐を
持って優しく接していく
11. 困難をチャンスととらえ喜んでいく。ご本尊の大功徳を
生活上で実証が示せるよう我が信心が毎日倍増すること なんという計り知れないほどの深甚の決意であろうか。なんという祈りと善の生命の
熱風であろうか。
どうしておれは、このように具体的に、祈ってこれなかったのか? おれは特に
>4.友人に対しては、常にその人にしかない長所がある
ことを感じさせてあげること
ができなかった。このスレにおいて、友人たるドストスレの諸君に。 >5.必ず、全ての明るい面を見て、楽観主義で行くこと
もおれには困難だった。それは、おれの弱さだ。まだまだ弱い。そして、これができなければ
男として生まれた価値がない。学会員としてもっとも大切な特性だ。
そしてもっとも大事なのは、次の祈りだ。
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>6.常にベストのみを考え、ベストの結果をだす事だけを
考え行動する
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おれがこのスレにおいて企図したことは、もちんろディベートではない。折伏だ。
御本尊の大功徳と題目の絶対的音律を、まず知らぬ友たちへ教えることだ。 まだ知らぬ友たちへ知らしめることだ
のまちがいねwww いっておくが御本尊は偶像だよ
調べてみ
それがいわゆる像でなくても
自然石であっても、絵であっても偶像
なにかに拝む形態は偶像
故に靖国は偶像
そして文字を書いた紙きれを拝むのも偶像崇拝 >>13
何をしなければいけないかを謳うことよりも、理由づけで何をしなければいけないか説明することの方が難しいんじゃないかな
ドストエフスキーに限らず古代を生きたプラトンだって理由を付けることは忘れなかった
もしかすると未成年でドストエフスキーが言ったように、コロンブスは大陸を発見した時よりも見つける3日前の方が大事だと言ったように、それに至る過程を説明する方が難しいことを知っていたんじゃないかな
どうせなら何でそうしなきゃいけないか、その根拠を付けてもらえるとありがたい
皮肉な言い方になっちゃうけど、結論のみの言葉は居酒屋のナントカ十ヶ条を見てるのと変わらなくなってしまう >>18
> いっておくが御本尊は偶像だよ
> 調べてみ
ネットで調べて、解ることではないんだよ。
> それがいわゆる像でなくても
> 自然石であっても、絵であっても偶像
> なにかに拝む形態は偶像
> 故に靖国は偶像
> そして文字を書いた紙きれを拝むのも偶像崇拝
御本尊は、石であり、星であり、月であり、太陽である。偶像であり、靖国であり、
ゾシマ兄マルケールが、小鳥と木立と青空に見たものは「妙」の1字であった。
ドストエフスキーとカラマーゾフ、イヴァンミーチャアレクセイからミウーソフやスメルジャコフもすべて御本尊をあらわす。
キリストも、またあなたが「神」と考えているものも、南無妙法蓮華経の御本尊です。
「仏とは生命である」と第二代戸田先生は悟達した。
そしてこれらのことは、決してググって理解できることではない。そもそも信心とは理解ではないのだ。
もしあなたが、いまの不幸で孤独でねじ曲がったあなたのままでいいなら、あなたのちっぽけな我見の世界に閉じこもっていなさい。
創価学会は「命がけの世界」です。何もかも捨てて、そこにかけてみようと思うなら、ついてきなさい。 偶像崇拝だって禁止された理由はいつくかある
人間はつくられた存在なのに、その人間がつくった偶像を崇めることは、つくってくれた存在への冒涜になる
だから偶像崇拝は禁止されるし、それはどの宗教だって仏教だってイスラム教だって禁止された
偶像をつくった時点で目的が、最初に目指していたものと、最終目的地が変わってしまうからだ
しかも冒涜を引き連れているから二重に罪深い
だから偶像とは形ないものも、もちろん形あるものも、崇拝してしまう時点で偶像崇拝になり得る
それは人間崇拝も含まれるんだよ(ブッタだって偶像は禁止しているよ)
だけど見えないものを崇拝するのはとても難しい
それではみんなが同じものを崇拝出来ないし、同じでないと人間は満足しない、と審問官は思った
「ーーーー、神というものが地上から消え失せてしまった時でも、やはり同じことだ。彼らは偶像の前にでも、ひざまずくだろうから。」 >>21
ドストエフスキーがカトリックという集団(個人じゃないよ)を批判した理由の一つに人間崇拝がある
イエスキリスト(そして神)に使えずローマ法皇につかえる集団だったから
トルストイもそうで人間崇拝を嫌った(彼については破門さえされてる)
とても簡単であるが、これ以上ない根拠がある
神に使えないこと、つまりそれ以外のすべて、人間崇拝は偶像崇拝に値するから
キリスト教徒なら神に
イスラム教徒なら神に
ユダヤ教徒なら神に使えること
もしすべてがそうなら、詳しくないので断言できないけどこう予想できるんじゃないかな
仏教徒なら仏に使えること
それ以外はすべて偶像崇拝に値する ドストエフスキーは嫌になったんじゃないかな
社会主義という反権力につかえた時期もある
死刑宣告され死の家にも行った
それですべて悟った
結局は、顔の違う主人を変えているだけで、みんな同じことを言うだけだ
「オレが正しいだからついてこい」
この世の中に築かれたものは築いたものの欲のあらわれでしかなかった
つまりすべて人間がつくったものだったから
偶像でしかなかった
だけどこの世界を否定したなら、そこのは溝の見えない虚無感しか得られない
だからキリスト教に傾倒していった
しかも使える主人は人間ではない、イエスキリスト(そして神)のみ
この辺は、キルケゴール の目指した信仰と本当に近いものを感じる 個人供養の墓所は偶像ではないが
先祖全体供養の墓は間違いなく偶像
それが何かしらの力を与えると考える時点で偶像崇拝 踏み絵を踏めなかった時点で隠れキリシタンは偶像崇拝者であった
偶像でないというなら破り捨ててみよ 個人崇拝の現代のユートピアが北朝鮮
まさかあれを認めるのか >>27
あれは前置きがあるよ
幕府はある意味賢かった
この絵を踏めるなら教徒でないと認めよう、と言ってから踏ませる
まさに踏み絵程度の問題を、を信仰の告白にかえてしまった
さらに賢いのは、自由意思に任せていると見せかけて、実は踏むか踏まないかの2択を強制している点
強制された自由意思なんてまったく意味がないよ なんにしろ個人崇拝はやめといたほうがいい
個人崇拝は崇拝されるものの意思で成り立っていない
崇拝するものの意思で対象を偶像化して成り立つ
人間を完全なるものにするためには、偶像化以外の方法はない
だから唯一の弱点があるとすれば、誤りを認めること
失敗することではない、修正することでもない、認めることこそ彼らには害悪でやってはいけない事になる
彼らは決して間違いの可能性すら認めないだろう
認めてしまえば偶像化が成り立たないし、だけど認められないなら結局は、誤りを認められない不完全な存在と自ら主張しているに過ぎない
人間を崇拝に仕立てた時点で、対象は人間だから、どうやっても綻びがある
だから大審問官は自分が止まれないことを知っていた
最後の最後でイエスをこっそり逃したのはそういう自覚もあったからなんだろう まったく偶像を持たないのはすごく難しいけど、少なくともダメなんだという考えくらいは持っといた方がいいと思うよ >>27
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。」
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。」
「デウスと大日と混合した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものをつくりあげはじめたのだ。」
「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ。」
信仰だけあればいい、仏も神も一緒、教義はない= 神の否定、文化的にそもそも概念がなかった
遠藤周作は17世紀のキリシタンを偶像崇拝者くらいにしか思っていなかったと思うよ >>22
入滅した仏たちの遺骨に供え物を捧げ、宝玉づくりの幾千の塔や、金・銀および水晶の塔を
建立した人々、緑玉の塔を、猫目石・真珠づくりの塔を、また極上の瑠璃ならびに青玉の塔を
誰かが建立するとき、かれらはすべて「さとり」に到達するであろう。
・・・子供たちが遊戯の際に、そこここに、小石づくりの塚を作り、仏たちのために供養塔とするとき、
これらの人々は、すべて「さとり」に到達するであろう。
・・・誰かが七宝づくりの、あるいは銅または真鍮で、仏たちの像を作らせるとき、かれらはすべて
「さとり」に到着するであろう。
・・・壁に、四肢が完全で幾百の福相のある像を、みずから描く人々も、あるいは描かせる人々も、
かれらはすべて「さとり」に到達するであろう。
・・・また、如来たちの遺骨に、あるいは塔廟に、あるいは土偶の像に、また壁あるいは粘土づく
りの塔に像を描き、香と華とを手向けた人々も・・・かれらはすべて「さとり」に到達するであろう。
・・・また仏たちに供養するために、歌を甘く、また美しく歌っても、仏たちの遺骨にほんのわずか
のことをしたり、ただ一種の楽器を奏でさせただけでも
・・・かれらはすべて、この世で仏となるであろう。
・・・塔に合掌するだけでも、それが完全な形であれ、ほんのちょっと片手を挙げただけにせよ、
また、ほんの一瞬頭を下げただけでも、また、ただ一度身体を屈めただけでも、
遺骨の安置された場所で、そのとき「仏を礼拝し奉る」と一言いえば、取り乱した心で一言いっても、
かれらはすべて、この最勝の「さとり」を得よう。 >>33
法華経方便品第二 小善成仏のとこの、現代語訳ですね。 『人類から自己の不滅の信仰を滅ぼしたならば、人類の愛がただちに枯死してしまうのみならず、この世の生活を続けて行くために必要な、あらゆる生命力をなくしてしまう。』
「もしそう信じておられるなら、あなたは幸せな人か、それともまた恐ろしく不幸せな
人かどっちかじゃ!」
「なぜ不幸せなのです?」イワンは薄笑いをした。
「何故かと言うと、あなたはどうやら自分の霊魂の不滅も、自分で教会や教会問
題に就いて書かれたことも、どちらも信じておられぬらしいからです。」
(投稿者注、これはあなたのことだよ)
「あるいはおっしゃる通りかもしれません!......しかしそれでも、僕はまるっきりふざ
けたわけじゃないのです......」とイワンは不意に奇妙な調子で白状したが、その顔
はさっと赤くなった。
「まるきりふざけたのではない、それは本当じゃ。この思想はまだあなたの心内で決
しられてないので、あなたを悩まし通しておるのじゃ。しかし、悩めるものも時には
絶望のあまり、自分の絶望を慰みとすることがある。
あなたも今のところ絶望の余りに雑誌へ論文を載せたり、社交界で議論をしたりして慰んでおられる。しかし自分で自分の論法を少しも言じないで、胸の痛みを感じながら、心の中でその論法を冷笑しておられる
(これも2ちゃんにカキコしてるあなたの姿と同じだ。自分の発言をまったく信じていない)
. .....実際あなたの心中でこの問題はまだ決しておらぬ。この点にあなたの大きな
悲しみがある。何故かと言うと、それはどこまでも解決を強要するからじゃ......」
「この問題が僕の心中で解決せられることがあるでしょうか? 肯定の方へ解決せ
えたいられることが?」依然として 得体の知れぬ薄笑いを浮かべたまま、長老の顔を見つ
めながら、イワンはまた奇妙な質問を続けるのであった。
「もし肯定の方へ解決することができなければ、否定の方へも決して解決せられる
時はない。こういうあなたの心の特性は、ご自分でも知っておられるじゃろう。これ
が即ちあなたの苦しみなのじゃ。
しかし、こういう苦しみを悩むことのできる 高邁な
心をお授け下された創世主に感謝せられたがよい。『高きものに思いをめぐらし高
きものを求めよ、なぜなら我らの 棲家は天国にあればなり。』どうか神様のお恵み
で、まだこの世におられるうちに、この解決があなたの心を訪れますように、そう
してあなたの歩む道が祝福せられますように。」
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ゾシマはキリスト教なので、もの柔らかく言う。ところが、ぼくは本心で言う。「高邁な
心』でもなんでもない。
イヴァンは、『そんなことはみんな寝言だ、神なんてものは決してありゃしない』と叫ぶ、
多くのひとの本音となんら変わらん。
ただそれを sophisticateしたに過ぎん。 なんですかっ? この険悪な雰囲気は?ww
ぼくが悪いんですかっ 先生の教えを噛み締めたら、ぼくがウソで書いたこと、わかるよねっ?
>4.友人に対しては、常にその人にしかない長所がある
ことを感じさせてあげること
>5.必ず、全ての明るい面を見て、楽観主義で行くこと
みんなを攻撃する意図なんかゼロだからっ
>9.他人の失敗を指摘する間もないほど自己の向上に専念すること
ぼくはね、幸せになってもらいたいんだ!みんなにサ。この信心は絶対なんだ。
だからこそ、みんなが執着してる「神」とか「偶像」とか「個人崇拝」とか、ぜんぶちがうんだから!!
それに気づかせてあげたいから、ウソで「攻撃的に書いてるの」 >>38
>だからこそ、みんなが執着してる「神」とか「偶像」とか「個人崇拝」とか、ぜんぶちがうんだから!!
違うなら違う理由を説明して ここはドストエフスキーすれだから分類がある
ドストエフスキーだから宗教(とくに聖書)に興味がある人も多くいるだろう
クリスチャンでドストエフスキーを読む人
クリスチャンじゃないけど聖書を大切にしてドストエフスキーを読む人
他宗教でドストエフスキーを読む人
宗教は関係なくドストエフスキーを読む人
だから偶像崇拝については無視できない人も多くいるだろうね、正教では十戒になってさえいる
空気が悪いんじゃなくて、論議でもなく、論争になってもそれは仕方ないと思うよ
「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあって、下は地にあって、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」
― 新共同訳聖書 出エジプト記 20:4-5、「モーセの十戒」 >だから偶像崇拝については無視できない人も多くいるだろうね、正教では十戒になってさえいる
おは!w ぼくは、寝るぞぉ
寝る前に、厳しく問い詰めるからww
そもそもなんで、「偶像崇拝」なんて、出てきたのかな?
ドストエフスキー本文に明文はあるのかな? 御本尊が偶像崇拝w?
仏法三千年の歴史と、日蓮だいしょうにんという、ドストエフスキーなど「パンツについたシッコ」ぐらいの
価値しかない。
そんだけの天才ですよ?「仏法のことなど何も知らない」あなたたちに「御本尊の深義」などわかると思います? ドストエフスキー本文、カラマーゾフ等ですね。
そこに、偶像崇拝についての明文もないのに、
「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあって、下は地にあって、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」
― 新共同訳聖書 出エジプト記 20:4-5、「モーセの十戒」
勝手に、聖書を引用するのは「あなたの我見の解釈に過ぎない」 たくさんあるよ
大審問官、とくに君好きなゾシマ色々言ってるよ >>42
>勝手に、聖書を引用するのは「あなたの我見の解釈に過ぎない」
勝手にスレに撒き散らし始めたのは君でしょう
まーお互い様でない ラスコリニコフのラザロの復活、アリョーシャの夢、大審問官のパンと自由や奇跡と権威の話、ゾシマのヨブの災難のこと、………、全部聖書の引用だよ
だからドストエフスキースレで聖書の引用があってなにがおかしいんだ
じゃあなぜ仏教のしかも大乗仏教なんていうカラマーゾフとかけ離れた引用を書き込んだんだ >>42
それ以外にも自然石や「物」も全てひっくるめて「祈ってはならない」と言ってる箇所もある
つまり紙に文字書いてそれに祈っても偶像崇拝
それに価値があると信じて、破り燃やすことができないならそれはもう偶像崇拝 アリョーシャが生前に母親が大事にしてた聖像で癲癇みたいな発作を起こすシーンがあるけど、聖像も仏像も像って言葉でいってる
これも一つの偶像だよね
アリョーシャもアリョーシャの母親も聖像に祈ってたんだから
「ほら、見ろ、お前の聖像だぞ、どうだ、俺はこいつをはずすからな。
よく見てろよ、お前はこれを奇蹟の聖像と思いこんでいるらしいが、俺が今お前の目の前でこいつに唾をひっかけてやる、それでも罰なんぞ当りゃせんから!そのときの彼女の目つきときたら、いや、今にも俺を殺すんじゃないかと思ったくらいさ。
だけど彼女は跳ね起きて、両手を打ち合せたあと、いきなり両手で顔を覆って、全身ふるえはじめ、床に倒れるなり……そのまま気絶しちまったんだ……おい、アリョーシャ、アリョーシャ! どうした、どうしたんだ!」 >>42
イワンが父親殺される未来を見過ごしたように偶像崇拝を見過ごしたらそれはもう認めたことになる
だから連投して嵐のようになってしまった
なんにしろごめん、やりすぎた >>47
ID:aDxKQPbz くん!
>これも一つの偶像だよね
アリョーシャもアリョーシャの母親も聖像に祈ってたんだから
よくこの箇所を見つけてきたね。ところで、
>>48
> イワンが父親殺される未来を見過ごしたように偶像崇拝を見過ごしたらそれはもう認めたことになる
あなた自身は、 どっちの考えなのかよくわかんないんだけど。 「偶像崇拝」という概念。それはカラマーゾフで問題になってるの?
というのはね。「偶像崇拝」この言葉をどう思います?って、そこらへん歩いてるひとに聞いてみ?
1000人のうち「偶像崇拝は絶対ダメだよ!」ってゆーひとは、3人かな?
それはなぜだ? なぜ997人は、そんなことどーでもええっ!と思ってる?
ひとつぼくの考えを書くと「その3人の頭の中にだけ」存在してる「観念論」だからです。
道路歩いてる1000人に「創価学会はどうなん?」って聞いてみ。
ぜんぜんちがう結果が出る。具体的な数字は出さないけどもw
なぜなら「創価学会は正しいとか正しくない」を超えた存在だからです。
ぼくの言葉で、なにか感じるか、伝わるか、わからない。それでもいちおう書く。
「仏縁を結ぶこと」というのは、今のキミらにはわからないだろうが、凄いことなんだ。
カラマーゾフはひとつの教材に過ぎん。
この世界に「ドストエフスキー教」というものはありますか?ないですね。
ドストエフスキーなど、はるかに超えた教えです。日蓮仏法は。
日蓮大聖人は「頭がいい」のではない。イヴァンのような意味ですごいのではない。
じゃ、なにが凄いのか?
そこはいっしょに勉強していきましょうよ! ここの諸君は教養と興味が偏っている。それは自分でも認めるんじゃないですか?
プラトンやトルストイは引用するが、
日本や東洋の偉大な信仰や思想については語らない。 それは多いものが正しい知られているものが正しいって言ってるだけで「正しさ」とは関係ないよ
もういい加減説明しなよー
「こうなんです。」
「ハイそうですか。」
にはならないの仏教スレじゃないんだから >>52
> それは多いものが正しい知られているものが正しいって言ってるだけで「正しさ」とは関係ないよ
そのとおりだね!!そして、観念論なのは、ぼくたちもいっしょだ。
つまりね「心の中で思ってるだけなら」それは「観念論」なんですよ。
> もういい加減説明しなよー
なにを説明すんのぉ?w
> 「こうなんです。」
> 「ハイそうですか。」
> にはならないの仏教スレじゃないんだから
そんなのあたりまえ。「ハイわかりました!」ってならないのはね。でもな、よく憶えておくんだよ。
きみたちの生命には「確実にぼくの言葉が打ち込まれている」時至れば、たしかに、まちがいなく、この信心をするようになるでしょう。
そしてその日そのとき(君が学会に入った時だね)もっとも大事なことは何か、今伝えておく。
「すなおに」「ゆわれたとおりに」やること。「祈りを根本に。」
これはカラマーゾフで描かれている信仰のエッセンスを簡単な言葉で表現したものでもある。そして、もっとも困難かつもっとも勇気ある、もっとも男らしいあり方なんだよ。 説明よろしくー
>>50
>なぜなら「創価学会は正しいとか正しくない」を超えた存在だからです。
>「仏縁を結ぶこと」というのは、今のキミらにはわからないだろうが、凄いことなんだ。
なんで? >>54
>「すなおに」「ゆわれたとおりに」やること。「祈りを根本に。」
なんで? やれやれ、今どきの若い子は、なんでも説明せんとわからんらしい。
それとけっきょくこのスレは、おれがカキコせんと維持できんな。
じゃ、こうアドバイスを変更するわ。創価学会に入会した時「どういう風にがんばっていくか」についてのアドバイスな。
「なんでも疑ってかかれ」
「信心の先輩の言うこと?そんなもんは個人崇拝だ!危険だよ。地獄への道だ」
「ぜんぶ自分の考えたとおりにやるんだ」
「やりたくないことは、やるな」
「祈りなんかしなくていいから。とにかく学会にだけ入っとったら大丈夫だよ!!」 >>57
偶像崇拝くんw これから君のアダ名これでいいよな?ぐうクンって呼ぶわww 偶像崇拝について語りたいなら、カラマーゾフ・ドストエフスキーとからめて語れ。
それならいくらでも、いっしょになって考えてやる。
そうであってこそ、君らの固い頭に、なんらかの本質的理解をつかむ契機となるんだ。
おれはこのスレにおいて、おれがA君B君とよんでいるふたり以外認識できないぞ。それはつまり
そのほかの諸君が「自分というもの」を、ここで表現できていないことを意味する。
ただのチンピラにしか見えない。 すごいね
ダブスタの鏡みたい
いってることが毎回めちゃくちゃだぞ 創価禁止
創価ネタは創価スレで
ここは文学ドストエフスキースレッドです >>61
>>62
君たちに予言しておくw
君らだけでは、このスレは決して維持できない。理由は簡単だ。君らは教養主義的にドストエフスキーを読んでいるだけだからだ。
だからドストエフスキーと仏教は関係ない、創価学会は関係ない、キリスト教だと、こう考える。
したがって、その本質は理解できない。いちばんだいじなところで、とんでもない見当違いの解釈をする。
良書を読むことは、それも若い時から読むことは、すぐにはわからなくても、大変な利益がある。
しかし「読む」だけでは、限界点がある。「行動を変容してこそ」カラマーゾフを読んだと言える。
このことをずーっと一貫して訴えてきた。
ぼくは「本物の信仰者」だが、きみたちは「クリスマスを楽しむ」いっぱん日本人です。
気分だけ「神さまー!」「キリスト教〜」と思っている。
ゾシマをよく引用するわけは、ゾシマというものは、ドストエフスキーが作品世界の中で創造したものである。もちろんリアルとリンクしてる。
ゾシマは、アリョーシャの師であり、民衆を信じ、民衆を助ける。自分自身が民衆である。
彼のごとく、現実に、まわりにいる人間を、苦悩する人を助け、良い方向へ指導する。こういう人物が現実にいたとすれば
わたしたち学会員にとって、彼がキリスト教で邪宗教の指導者だとしても、尊敬を持って接せざるをえない。
それは「正しい・正しくないを超えた」もう正しいと呼ぶ「しかない」あるもの、 だからである。 「ほら、見ろ、お前の聖像だぞ、どうだ、俺はこいつをはずすからな。
よく見てろよ、お前はこれを奇蹟の聖像と思いこんでいるらしいが、俺が今お前の目の前でこいつに唾をひっかけてやる、それでも罰なんぞ当りゃせんから!そのときの彼女の目つきときたら、いや、今にも俺を殺すんじゃないかと思ったくらいさ。
だけど彼女は跳ね起きて、両手を打ち合せたあと、いきなり両手で顔を覆って、全身ふるえはじめ、床に倒れるなり……そのまま気絶しちまったんだ……おい、アリョーシャ、アリョーシャ! どうした、どうしたんだ!」 「俺はこう思うんだ。もしも悪魔が存在しないのなら。つまり、悪魔を
人間が作ったんだとしたら、人間は悪魔を自分の姿に似せて作った
ということさ。」
「それは神様も同じでしょう」 たゆみなく働くがよい。夜眠りに就いた時、『自分はなすべきことを果た
さなかった』と思い至ったなら、すぐさま起き出してそれを果たさなけれ
ばならない。 夜眠りに就いた時、『自分はなすべきことを果たさなかった』と思い至った
なら、すぐさま起き出してそれを果たさなければならない。 ぼくはね、アリョーシャ、ヨーロッパへ行きたいのだ、ここからすぐ出かけるつもりだ。
しかし、ぼくの行くところがただの墓場にすぎないってことは、自分でもよく承知している。
しかしその墓場は何よりも、何よりも一ばんとうとい墓場なんだ、いいかい!
そこにはとうとい人たちが眠っている。そのひとりひとりの上に立っている墓石は、
あかあかともえるような過ぎし日の生活を語っている。
自己の功名、自己の真理、自己の戦い、自己の科学などにたいする燃ゆるがごとき信仰を語っている。
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これがキリスト教であり、ドストエフスキーであり、カラマーゾフの実相だと思います。
ドストエフスキーのカラマーゾフが真に偉大な文学で、比較できるような作品を他のだれも生み出していない。
またキリスト教は西欧文明の根っこにあり、これもまた多大な文学芸術を生み出してきたとしても、
現代の全世界においてすでにそれは墓場となっている。ことに日本では、大半の日本人がキリスト教など相手にしていない。
それはなぜですか? 「単に少数なだけで、正しい正しくないとは関係ないから?」ちがいます。
あなた方は、ドストエフスキーの言葉を借りれば「民衆から遊離している」
そうであるから、大審問官ひとつとっても「弱い民衆」と抽象的にとらえる。イヴァンが展開したロジックをそのまま受け入れてしまう。リアルにおいては、庶民こそ強靭なものです。庶民と一体で離れないひとこそ、最強なんです。
創価学会がなぜ日本最大の宗教で、かつ現実社会にインパクトを与えつづけてきたか?
どの点がキリスト教や、たとえばお遍路さんとちがのうか?
カラマーゾフを読むほどの知性があるなら、考えてみるべきです。 > 「ほら、見ろ、お前の聖像だぞ、どうだ、俺はこいつをはずすからな。
> よく見てろよ、お前はこれを奇蹟の聖像と思いこんでいるらしいが、俺が今お前の目の前でこいつに唾をひっかけてやる、それでも罰なんぞ当りゃせんから!そのときの彼女の目つきときたら、いや、今にも俺を殺すんじゃないかと思ったくらいさ。
> だけど彼女は跳ね起きて、両手を打ち合せたあと、いきなり両手で顔を覆って、全身ふるえはじめ、床に倒れるなり……そのまま気絶しちまったんだ……おい、アリョーシャ、アリョーシャ! どうした、どうしたんだ!」
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>>70
> 偶像崇拝は蔓延する
> 創価の本質はそれである
あなたの宗派・信仰では その「偶像崇拝」ということは大切なことなんですね!それはちょうど、
アリョーシャの母にとっての「奇蹟の聖像」のようなものだ。
信じているものを否定しバカにするのは、あたかも上の文のフョードルのようなものだ。
どうもぼくは一見してフョードルになっちゃってるね?
> 創価の本質 とは「自分が幸福になる」ことです。
では、どうすれば幸福になれるのか?どうしたら「願いがかなうのか?」と言い換えてもいい。
ゾシマがホフラコーヴァに答えたのと同じ。「すぐ近くにいる、目の前の人を、救っていく、助けていく、励ましていく、この信心を教えていく」この努力しかない。
これを組織的に徹底的にやってきたのが、創価学会の本質であり、このことは自分が入信して、事実を確認する以外にないです。
いま、ぼくがゆってることがウソかマコトか? 体験すればわかる。ぜんぶ「自分が幸福になる」ためです。
ほんらいなら、こんなスレで、字で教えを書くことなど、学会精神でもなんでもない。今のぼくにできることがコレしかないからやむなくしてる。
いわゆるネット創価の人たちというのは、創価学会のなかでも、極端な汚い表現をとれば「クズ」です。これはぜったいです。
ほんものは、つねに、だれも見ていないところで「家庭訪問」などをしてる。人知れず、ありとあらゆる方法で、友を励ましている。しかも組織との連携も、きっちりしてる。
第1に自分。第二に家族。親、兄弟、妻、こども。第三に、友。友とは、他人です。 >>71
>あなたの宗派・信仰では その「偶像崇拝」ということは大切なことなんですね!
>信じているものを否定しバカにするのは、あたかも上の文のフョードルのようなものだ。
>どうもぼくは一見してフョードルになっちゃってるね?
そういう考えはイイね
他人の自由を配慮すれば、誰も君の自由にも関与してこないよ
きっとそれは自由が秩序に変わる
ここには無関心な人も無神論な人もキリスト教の人も仏教の人も他の人もいる
キリスト教などとか仏教などとか、そういう言い方は少し軽蔑に思う人もいるだろうと思うよ
あと、勧誘や内情の話ついては自制があった方がといいと思うよ
文学スレという所だから文学以外の話は慎重にやらないと、誰もが人格に関わることだから攻撃的になってしまう
と色々いうと批判になるのでやめとく、 >>73
> 御本尊を一回踏みつけてみ
> できなければ偶像
おはようw
おまえはフョードルの 生まれかわり だなあ! >>74
凝った構成で読者数が少ないのできちんと評価されていない
しかし「悪霊」で試みられて失敗に終わった父と子の対立(世代対立)や
「地下室の手記」に顕著な実存主義的傾向が
おそらくはルソーの「告白」を意識したであろうスタイルで書かれている
非情に野心的な作品であり
そういう意味では心理小説の一種と言ってもよい
(まあドスト作品は人間心理を書いたものが多いのだけど)
ただ、ルソー的告白に見られる自我の統一性はなく、
話者の分裂や作品内部での断層があらわになる
これは「失敗」などではなく作者によって企まれた結果であり
この読みにくさが安易な心理主義的評価を拒むことになる ドストドMスキー
フェラクンニ神父
おっパイーシィ神父 >>978 A君へ
> 団体は団体の特異性のために自分の団体しか救われないと主張する
> 所属できない理由は、どーもこれが受け入れられない
わかる。と前置きした上で、あなたの本来の輝きを覆い隠しているのは、ここです。
頭で考えていることです。頭で考えるとなぜダメなのか?それは自分を投げ捨てようとしていない。
「自分を投げ捨てようとしていない」とは、絶望的状況でないからです。つまり自分の殻にこもっている。いまのままでも、やっていけるからです。戦後の荒廃した日本で庶民たちは、そうして創価学会にであった。
「自分の団体しか救われないと主張」がいかに非合理に感じられようと、「もうこれが最後の希望だ!」と感じられれば、非合理性などやすやすと超えられるはずだ。
そうして行動してみて、それが非合理でもなんでもないことを知れる。
あなたは大学教育を受けた知識人といえば知識人だ。しかし、テレビでいわゆる知識人を見ればわかるでしょ? バカみたいなひとが多いよね。彼らがバカみたいなのは、信仰なく、理想なく、行動なきがゆえです。あんな風になりたいかい?
また、あなたがその教会に入らないのは「直感的に」よく感じないからだ。それでよいのだ。
「キリスト教会など、ぜったいに入ってはならない。」からだ。 > カトリックだから救われないとかプロテスタントだから救われるとかじゃなくて、カトリックでも救われる人はいるしプロテスタントでも救われない人がいる
> その逆と他宗派でもそう
もちろん、いちめんそのとおりだ。創価学会だ、プロテスタントだ、団体の名前で信仰心は測れない。たとえばこのオレからして、学会のなまえをかたっているが、とんでもない意図で、むしろ
創価学会を貶めるためカキコしてるかもしれん。また、グウくんなどは、プロテスタントの恥と言ってもいいバカみたいな存在だ。
その一方で、「理屈をつけて教会を信じないのは、じつは、あなた自身が神を信じていないことを意味する」
他人の祈り、他人の信仰、他人の中にある神を信じないのは、あなた自身の中にある「祈り/信仰/神」にたいして、ことごとく不信であることを示す。
だからゾシマは「実践の愛」と言ったのだ。むしろ「実践の愛」が先にくるんだ。そのあとに、神や
仏やイスラムがくるんだ。
「救い」などという抽象的なものは存在しない。こういう行動をとれ願えるような人間に、気がついた時成長している。。。これこそが救いだ。
そうしてその「救い」に唯一 到達できる道が、創価学会だと言ってるんだ。 もし君が
カラマーゾフに出てくる俗物のごとく、ミウーソフやスメルジャコフやそのほかのごく普通の常識人の範疇にとどまって(スメルジャコフは常識人じゃないがW )
そうして神、キリスト教、信仰を考えて、一生を終わるのか?
それでよいなら、そのままでいろ。
しかし、カラマーゾフの世界よりもはるかに劇的な世界が現実のこの日本にあって
そこに勇気をだしてトライするのか?
ぼくといっしょに、幸福の極限を知る世界へチャレンジするか? >>83
読んだよ
意外と言っては失礼になるけど意外なほどに真剣に書いてくれたんだね
あまりスレの目的と離れてしまうが、それでも正直に一時だけど真意をお返しに話そう
オレはきっと聖書からは離れられない、仮にどこにも属することがないとしても
とうの昔に無神論者から出発してしまっているし、それが逆になった今でも結局は神に執着している
無神論でも有神論でも対象は変わらないからね
もう自分の属性は神を受け入れてしまっている事を自分で知ってしまっているから、キリスト以外の宗教には、どちらにしても反対の立場を取らざるを得ないだろうね
しっかりと明示しておくし言いたい事はこれなんだけど、君が団体の方針の為ではなく個人の意志として誘ってくれた事は、理解した
この誤解は解けたということ
さあそういう事にこの話は決着にしてもらって、ドストエフスキーの話に戻ろう
きっとここではそれが最善だろうから そういえば最近、作家の日記を買ってしまった
文庫のくせに6巻で1万5000円もした
当分はこれを楽しむからいいけどね
>>79
ということで、ルソーの自我統一性についてもし何か比較が見つかったらいずれレスしてみる
とりあえずは元を取れるように6巻を読む >>83
ごたごた言わず御本尊を焼いてみるんだ
救い、開眼はその先にある ドス好きだと他の作家が陳腐になって読むのが無くなってしまう。
ドスの弟子だと自称してる(?)カミュはなんか文章を捏ね繰り回してるけど
思想は深くないなーと・・
対抗できるのはニーチェとトルストイぐらいか?
ニーチェはアフォリズムがツライ。
トルストイはキリスト教的お説教がツライ。 >>89
カミュは黄金聖闘士としての仕事も忙しかったからなあ… 同じくトルストイの民話はすごくいいと思う
けどドストエフスキーも民話みらいなのあるよ
ヨールカとか百姓のマリイとかは民話っぽいし5ページくらいで読みやすい ミーチャの餓鬼のくだりを共感できる人間って、餓鬼を救えない自分を罪悪感の免罪符で正当化し、相変わらずの安逸を貪ろうとしてるんだろうか 「カラマーゾフ」とカミュの「ペスト」を比較してごらん、いろいろ面白いぞ 比較なら異邦人だろ
もしくはなるチスとゴルトムント 理知的なイワンは飢えた子供を救うために地上の権力を握ろうとするが
情熱的なドミトリーは子供のために自らを犠牲にしようとする
この2人は「罪と罰」のラスコーリニコフが
「理知」と「献身」に分裂したようなものでいずれも問題がある
だから「白痴」のムイシュキン公「憐み」や「偉大なる平凡」が
「癒し」や「慰め」に進化したかのようなアレクセイの存在が大きくなる ドストエフスキーの中で善人みたいに書いてるのってムイシュキンとソーニャとアリョーシャくらいだよね
それに対して完璧な悪役って出てこない
ミーチャもそうだけど案逸な生活が好きだけどたまに犠牲に熱中してみたりとか、どっちなんだ!みたいな
人間味があるっちゃあるけど偽善と言われればそれもそうかな!っておもう >>98さん
善人!
shadowとしての主役お友だちpersonalityのラズミーヒンがいるじゃないですか。
極限的にして完璧な悪役はニコライ・スタヴローギンと第2の小説のアレクセイ・カラマーゾフ(!)。
んー。。。
“『真実の世界への門』副題:Le Premier homme”
では〜♪ (-^ ^-) >>98
>それに対して完璧な悪役って出てこない
悪というよりは病という捉え方です
「悪霊」でルカによる福音書の悪霊の部分を
西欧経由の主知主義によって毒されたロシア知識人
と臨終間際のステパン氏に解釈させたのもそのため
だから癒す人としてアレクセイが登場するわけです
じっさいイエス・キリストも治癒神だったわけですから
聖書中の「癒し」とは奇跡による治療行為のほかに
罪と憂いによって穢れた魂の浄化があり、
カラマーゾフでは医療行為ではなく後者の方が重視されている ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています