ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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ただぼくはこう感じたんだ「この人は信じていない」って。
池田大作先生を信じていないから地獄に落ちるって感じたんだ。
ぼくのいうことは絶対だよ? >>146
仏典にもまったくおなじ表現があります。いか疑問点を。
日蓮は「時」がいちばん大事であることを論証しました。
> 3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
>殺すに時があり
とはなんのことでしょう?
> 5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
>石を投げるに時があり
とは?
>抱く
とは?
> 6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
心に響いたので。
> 9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
意味が取れなかったのて解説をお願い
> 10 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。 >>148
載せといてなんだけど、指摘している箇所がどういう意味なのか同じように疑問を持ってるw
つまりぼくには解説できない、という事ですw
コヘレトとヨブ記は読むのだけれど、どう理解していいのか分からない事がよくあるんだ
聖書は難しい >>147
> ただぼくはこう感じたんだ「この人は信じていない」って。
> 池田大作先生を信じていないから地獄に落ちるって感じたんだ。
>
> ぼくのいうことは絶対だよ?
---------------------
シリーズの中でいちばん面白かったですW しゃべりかたがクッサくて吹きましたWW オウム真理教に入って地下鉄にサリンを撒けば、確実に人類は救済され、元気になり、
今まで思ってみたようなこともない世界と感覚を体験し、空中浮遊する。
これはぜったいに確実です。これは否定しようもない、どーしよーもない事実です。
ポアしかない! >>152
> 宗教こわい
だとして、無宗教はこわくないのか? >>151
> オウム真理教に入って地下鉄にサリンを撒けば、確実に人類は救済され、元気になり、
>
> 今まで思ってみたようなこともない世界と感覚を体験し、空中浮遊する。
>
> これはぜったいに確実です。これは否定しようもない、どーしよーもない事実です。
>
> ポアしかない!
-----------------------------
これは
>殺すに時があり
という聖書の言葉のじっせんです
殺すことが、オウムだけの専売特許だとかんちがいしてるがそれは違う。
チンパンジー・ライオンからアメリカ大統領まで、他者を踏みつけにして自己の幸福を築こうとするのは
あなたがた不信心者の本能です。これを制御しようとするのが、仏法者です。 ではぼくも満を期してみますw
コヘレトのソロモンの考えについて
その時がある
まずあるというの事は、あったのではなくて、そしてあろう事でもない
あるという瞬間が存在し続けるという事で、休息がなく運動のみが存在する、という事です
でもソロモンは、とても有限的で唯物的に時をとらえていたと思うのは自分だけでしょうか
なぜならば、この言葉の使用方法は、ただあるではなく「その時がある」と限定しているのだからです
ただあるならば、あるという事は分割されない一様になり得えます
なぜならば、それは一つのものとして、そして連続して全体になってあるもの、と考えられるからです
つまり、今あるという事は、少し前のあるという事に密着して存在する、その連続を続けていく、そういう方法しか連続という運動の状態を保てないからです
そうならば、時というのは制限のなかで動くことない
そして何より始めも終わりももたない、はずです
なぜならば、あるというのは生まれることもなく滅びることもない有だから、と考えます
久しぶりの長文はつかれるw >>156
抽象的すぎますw
>コヘレトのソロモンの考えについて
背景も調べずレスを書いてごめんだけど、コヘレトってわからないけど、ソロモンは有名だね
各命題について、たとえば
>3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
個別具体に論評してほしい
ぼくはいっつも君の書く文に感銘を受けている。そこにはみずみずしい感性があるからだ。今回はよくない。 >>157
殺すとか壊すとか、たてるとかいやす、という単語にこだわる必要がないのかもしれないよ
あくまで聖書の読み方として、そのまま理解する部分も必要だけれど、もっと文脈として読むこともできる
形而上的に捉える事も出来る
例えばこの場合は、何にでも反対時がくることは避けられない
だからその瞬間瞬間を大事に賛美していこう、みたいな
地上においてはすべてに時がある
花が咲く時があれば枯れる時も絶対にある、みたいな
だからすべては必然だ、だから時は美しい、みたいな
すべては一様であって繋がっている
だから悲観する必要もないし、もちろん楽観する必要もない、みたいな事と思います
ちなみに答えが書かれているけどソロモンの事ですね 第 1 章
1 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
こうはじまるから、ダビデの子とはソロモンのこと
神が夢で何でも与えると言われソロモンは、知恵の心と判断する力を願ったといわれている(だったかな?)
そういう至上の知恵者がいうすべてが空しいという結論は、とても大きな答えになる
キリスト教云々じゃなくて、コヘレト読んでみるいいと思う
もちろん最後はだから神の裁きを怖れよという聖句なんだろうけどね が、ソロモン自身はまったく神を信じていないんだよなあ
したがって(世俗の普通の人々は)神を怖れよということになる コヘレトは一神教信仰者だよ
伝承では異教の宗教にハマったソロモン王が晩年に一神教に目覚めたとか
その異教の宗教がもしかしたらぞろあすたー以前のインドの輪廻宗教だったのかも
コヘレトは「すべての命は同じ」と言ってる
本来の一神教ではありえない教義だ 造物主たる唯一神からの派生なら「すべての命は同じ」となる
しかしその場合は何故、この様に悪しき者が存在するのか?
という疑問が発生する
中世神学だと空間にゆがみが生じて神の御業がゆがめられた結果だ
という説明がなされる
つまり悪所が悪の発生原因であるということで
カラマーゾフの兄弟でも悪魔と空間の相関性がわずかではあるが指摘される >>163
> 中世神学だと空間にゆがみが生じて神の御業がゆがめられた結果だ
> という説明がなされる
すごい説明ですね!
> つまり悪所が悪の発生原因であるということで
> カラマーゾフの兄弟でも悪魔と空間の相関性がわずかではあるが指摘される いま、世間の耳目は「れいわ」に集まっている。
出典は万葉集であるか、中国古典であるか。いずれにせよ、
日本国ならびに日本国民というものは、キリスト教的あるいは西欧的伝統の連続性の上にはないのである。 いま、世間の耳目は「れいわ」に集まっている。
出典は万葉集であるか、中国古典であるか。いずれにせよ、
日本国ならびに日本国民というものは、キリスト教的あるいは
西欧的伝統の連続性の上にはないのである。 文化伝統的に土着的に
キリスト教信仰と無縁であることが即座にソロモンやカラマーゾフについて議論することが
無益を意味するものではありません。
むしろそういう現実を踏まえて信仰とはなにか?考えていくことが実り多いのではと つまりなにが言いたいかというと
キリスト教信仰のみなさんも公明党に入れてくださいっ
そして大阪のみんなはぜったいに「維新を叩き潰してくださいっ」
なぜか?
公明党=信仰
維新=不信仰
だからですっ。信と不信の戦いだからです。 鈴木大拙の「日本的霊性」を読みなさい
鈴木大拙とドストエフスキーは、仏教とキリスト教の違いはあるが、大きな共通性がある
鈴木は、万葉集や平安文化には否定的評価である
その時代の仏教も、大地から遊離した宮廷人の軽いものだ
日本人、日本民族が本来持っている「霊性」は、鎌倉時代になって目覚めたと言っている
それは、農民に初めて仏教が浸透し、仏教と大地とが結びついたからである 仏教が伝来するまえから神道はある
外来の仏教がきたときに神道と仏教は揉めた後に共存することにした
日本民族本来のものがあるとすればそれは神道だけである >>170
> 鈴木大拙の「日本的霊性」を読みなさい
青空になかった。準備中だった >>171
> 仏教が伝来するまえから神道はある
> 外来の仏教がきたときに神道と仏教は揉めた後に共存することにした
> 日本民族本来のものがあるとすればそれは神道だけである
かのドイツの地では6000年前にはなにが信ぜられていたのか?
外来の思想信仰だったとしても広範な民衆生活に受容された時点で民族の信仰となるのでないか
その日本民族本来が仏教をとおして顕現してる。
原始仏教は尊く、大乗仏教は劣るなどというのは、あさはか。なぜなら、古代中世のインド中国日本の祖師や僧侶たちが
それこそ我々が夢想することもできない祈りと修行によって「原始仏教」など思考し尽くし
大乗仏典による信仰を作り上げてきたのである ... ... とぼくらは信ずる
信ずることがたいせつなんです。ある立脚点に立つことが。
政局であれば「どんな場合も公明党が正しい」という立脚点です
アレクセイであれば「神とキリストが正しい」と感じ、どんな場合も「ゾシマ長老であればどうするか?」と
考える。そして「長老の教えのとおりに振る舞おうと努力する」そのシンプルさが、清潔で透明感があり
頼れる青年や壮年を生み出す基盤です。 つまり「池田大作先生はゾシマ長老の生まれ変わりである」ということです。
公明党に投票しない者は地獄に落ちて苦しみます。
特に理由はないけど、ぼくは何となくそう信じてる。
創価学会に非ずは人に非ず。 池田先生が死ぬことなどあり得ません。
先生はキリストとなり、「永遠の命」を得て生き続けるのです。
それは公明党に投票した者だけが分かります。 >>177
本心ではどうなんだい?
たまにはドストエフスキー以外のレスにものってみるかな
それに、そういうのなら聞いてみたいと思う
指導者である人物を自らの中心にして、自らの指針とする事は多くの人がする自己実現の方法論の一つだよね
だからなんら変わった事ではないのだけれど、指導者の条件とは、会話でき、つまり思想に触れられる、それは言葉の交換のできるという事で、つまり生きて意識を持つ者である必要がある
だけどおそらくは、世間の憶測通りに高齢で表に出ていない、亡くなっていなくとも以前と同じ意識は持っていないと予想される
そういう客観的事実をど処理するのかな
受け入れる?それとも見て見ないふをみんなしている?
もし受け入れているのなら、何を根拠に受け入れているんですか
あ、煽ってるとかではなです
興味の範囲なので個人的な何かがあるならスルーして >>178
ぼくは誠実なひとにしか答えません。つまりあなたは誠実だから答えるんです。
177の彼などはフザケてるだけです。ですから放置してる。
> 指導者である人物を自らの中心にして、自らの指針とする事は多くの人がする自己実現の方法論の一つだよね
> だからなんら変わった事ではないのだけれど、
いっけん簡単で自明ですが、じつは一番難しい。大半のひとにはできない。それはカラマーゾフの長老についてや
服従について書かれてあることを思い出してください。
>指導者の条件とは、会話でき、つまり思想に触れられる、それは言葉の交換のできるという事で、つまり生きて意識を持つ者である必要がある
そのとおりです。
> だけどおそらくは、世間の憶測通りに高齢で表に出ていない、亡くなっていなくとも以前と同じ意識は持っていないと予想される
> そういう客観的事実をど処理するのかな
逆に、こう質問したい。カラマーゾフにおいて「ゾシマなきあとはアレクセイはダメ人間になっちゃうんですか?」
>会話でき、思想に触れられ、言葉の交換のでき
たって
意味ないおしゃべりなんかして、そこに革命はあるんですかっ? 三世の生命を体得できるんですかっ?
絶対的幸福に到達しますか?
深夜になってしまい明日書きますねww 信ずることがたいせつなんです。ある立脚点に立つことが。
政局であれば「どんな場合も公明党が正しい」という立脚点です。
アレフであれば「地下鉄にサリンを撒いた麻原総帥が正しい」という認識になります。
池田大作先生がおっしゃる何かではなく、池田先生そのものを信ずることに意義があるのです。
どんなに人として間違った犯罪や荒唐無稽な虚言であっても信じる。
絶対的幸福とは、そういうことなのではないでしょうか?
僕は池田先生に「殺せ」と一言命じられれば、誰であろうと迷わずに殺るwww かつて僕の友人に、「哲学は自由恋愛にして、宗教とは縁談である」と恋愛で例えた人がいます。
付き合って相手を品定めし、納得したら結婚。最初は上手くいっても、相手か自分の気持ちが変わったら別れるのが自由恋愛です。
したがって哲学の付き合いは「常に条件付き」であり、小さな意見の相違によって「簡単に袂を分かつ脆さ」があります。
一方で宗教とは、親が決めた得体の知れない相手といきなり結婚し、その人が良い人だと信じて好きになろうと努力する過程そのものです。
たとえ家庭内暴力を振るう酒飲み夫であってもひたすらに根拠もなく信じ続ける――それが信仰の本質にして意義であると僕は聞きました。
だから僕は池田大作先生を信じ、麻原彰晃総帥を信じる。
一度も人を殺した経験もない人に、ポアの何が分かるというのでしょうか?
麻原の風呂の残り湯から作った聖水を買ってない人に真実が分かるというのでしょうか?
ポアは人類を救済する。それはいっぺんやってみた人間にしかわからないことです。
だから公明党に一票いれなさい!! >>182
個人的にはカミュのシシュポスの中にあるキリーロフ の章が好き
数ページだけだけどね 歴史上、もっと偉大な作家っていうとドストエフスキーってイメージある 「もっとも偉大」な天才と言うと
"ゲーテ"か"ドストエフスキー"ですね……。 シェイクスピア、セルバンテスだろ
この二大巨頭が西洋文学のすべての基礎
ドストやニーチェをヨイショするのは教養のない中二病だけ シェイクスピアは兎も角、
セルバンテス『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』位しか読み込んでいない。
どの辺りが「もっとも偉大」に値するのか教えてほしいな>>188さん。 いちばん偉大なのはおれだろ。これまじで
その上であえて言うなら だれが偉大とかねえ!! >>183
> だから公明党に一票いれなさい!!
おまえ自身は入れてきたのかっ? 早くいけ >>189
例えば良くあるフーコーの評論でもいいけど、
小説として個人的に感動したとかじゃなくて
特に近代小説の先駆けとしての文学史的な意義があるのよ >>193
維新はぜったいに許さん。地獄へ落とす。 評価される時も貶される時も、結局1番か2番を争うのだから、名前があがるという意味で偉大な作家という定義の一つになるよね
評価されすぎ?のロシア5大作家:たまには思い切りけなしてみようか
https://www.google.com/amp/s/jp.rbth.com/document/5c1253ab15e9f940bd7de632/amp 話のネタになれば何でもいいかな
偉大な誰それの本を読んだからといって俺自身が偉大になるわけでもないし 維新が勝った
創価が人々に支持されてない邪教だとはっきりしたな! >>188
>ドストやニーチェをヨイショするのは教養のない中二病だけ
ドストエフスキーの小説はシェークスピア悲劇やドン・キホーテの
再解釈のようなところがあるし
ニーチェはドストエフスキー経由して同じようなことをやっている
まあオリジナリティー云々はともかく解釈軸が問題であってね
ドストエフスキーには進歩に伴う懐疑と信仰の問題が
ニーチェには大衆化と世俗化にともなう生の凡俗化といった危機意識がある
このあたりの問題意識の方がシェークスピアやセルバンテスよりも
現代人のそれに近いわけであってね ニュー速+で500連投達成!!
> 責任はとらんだろうけど
> 2Fからは人が離れていくよ。
> いま中国べったりの親分についていくのは
> 泥船に乗るのと同じ。
> 官房長官になりたがってるらしいが
> 自分が落ちた穴に気づいてないw
評論家きどりのバカがWWWWWWWW
ねらーのおめえのゆーことなんか 誰が信じんだよ!!
710 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:47:48.13 ID:Zqscy7pG0 (24)
おまえらよーく おぼえとけWWWWWWWW
維新なんか 日本ぜんごくで だ〜れも知らん
それでおれたち公明党さまに勝てるだと??WWWW
維新は全国で国会議員なん議席あんだア〜〜〜〜〜〜〜〜〜? 711 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:51:36.68 ID:Zqscy7pG0 (24)
おれたちは どこまでも南無妙法蓮華経の選挙だ!!
維新はてめえの「権力とカネと名誉だ」
支持者の愚民であるてめえらも ケツのあなの小せえ ガリガリ君だあ
うほっは
おれらは全世界広宣流布だけしかねえ
朝鮮とも中国とも、アメリカとも、国籍関係なく、仲良くしてゆく!!
おれらは いっさいしゅじょうが 幸福になれと、毎時まいばん 祈りまくってる
てめえらは「他人の不幸だけを願ってる」!!
そんなてめらが おれらに 勝てるわけねえだろがっ!!!!!!!!!wwww
712 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:52:40.28 ID:Zqscy7pG0 (24)
もう一回再確認しとくぞ?
維新に入れたバカ。これから入れるクズは
「地獄へ落とす」やくそくだWWWWWWWWWW
713 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:55:33.71 ID:Zqscy7pG0 (24)
ちっ、また完全勝利かよ?
また明日なW
717 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 02:02:23.02 ID:Zqscy7pG0 (24)
バカヤローW
29億6千万円の予算 を使ってるじゃねーか
橋下がカネ出したんか?っ
そんなもんカネの配分の問題だろが?
赤バス廃止したやろがっ ドストエフスキーの有名な「プーシキン演説」からシェイクスピアやセルバンテスについて述べた部分を書き出してみると
第三期には、主として全世界的な理念が輝き始め、他の諸国民の詩的比喩的表現が反映し、他国民の示した天才が具現化されている系列の作品が帰属する。
わが詩人は、彼以前には、どこでも、どの作家においても見たことも聞いたこともないような、ほとんど何か奇跡的な存在となっている。
事実、ヨーロッパの文学には、シェイクスピア、セルバンテス、シラーのような巨大な、堂堂たる芸術的天才がいた。
しかし、わがプーシキンのように、全世界的に共鳴し得るこのような能力を有している人が、これらの偉大な天才の中に一人でもいただろうか。
ヨーロッパの最も偉大な詩人たちでも、天才とその精神を、その精神の中に秘められているあらゆる深みを、その使命についての憂いを自分の中に体現した例は一つとしてないのである。
ヨーロッパの詩人の多くの場合、他国民を自分の国民性に合うように変身させ、自己流の解釈をほどこした。
シュイクスピアについても、たとえば、彼の作品のイタリア人はほとんどすべてイギリス人である。
ただプーシキン一人が、完全に他の国民性の中に化身し得る特質を有している。
『ドン・ジュアン』『石の客』を読み返してみるがいい。もしプーシキンの署名がなかったら、作者がスペイン人ではないということなど、知りようがなかったであろう。
『プーシキンについての演説』に関する説明のための数言(『作家の日記』1880年8月第1章 )
プーシキンの意義について私が特筆しておきたい思った第三の点は、全世界的に共鳴する才能、他国の天才に完全に同化する才能、それもほとんど申し分ないほどに新しいものになりきる能力である。
私は演説の中でも、ヨーロッパにはシェイクスピア、セルバンテス、シラーのようなこの上なく偉大な世界的天才がいるが、そのうち誰にもこの才能を見出すことはできない、ただプーシキンにのみこの才能を見ることができる、と述べた。
私は、他国の天才に同化し得るというこの上なく天才的なプーシキンの才能を指摘するにあたって、シャイクスピアやシラーの世界的意義を侵害するつもりはなかったのだ。 『スペードの女王』の人ね
日本では全然読まれてない気もするけど 西欧文学でドストエフスキーを超えて日本人に影響を与えた作家はぜったいにいない
ですから米川正夫は偉大です!彼の翻訳こそスタンダードだったんですからっ
三島由紀夫ほか純文学に引用されてるのもすべて米川正夫訳
この厳然たる事実はどうにもできん
であるからして、さいきんの なんたら訳などで読むのは愚の骨頂です!
もちろんこのことの反対意見があるのは承知です。ぼく自身も「白痴」をそれしかなかったという理由で
木村訳でよみ、その文体の磁器のような硬質の美しさに感嘆したものです。
それでもなおかつ米川の業績を超えることは不可能です。 米川が最初に全訳し、後の翻訳者はぜんいん「それらを下敷きにして」やったのです。
また米川の文体には「なんだかわからんが音律がある」 >>205
ヨーロッパの偉大な作家はそれぞれの民族性に限定されるが
我が国の偉大な詩人プーシキンは民族の軛を離れた普遍性を確保しており
これはプーシキンのみならず我がロシア人に共通の性格である
つまり我々ロシア人が自民族について思索するとき
それは民族性を離れた普遍性に到達するのであり
これはわが民族が世界にとって指導的役割を担っていることを意味する
というトンデモ理論だよ
単に民族的統一性を確立する前に
西欧先進国からの文化移植を実施したので寄せ集め状態になっており
それ故にナショナルアイデンティティについた考えなければならない
というだけの話に過ぎない
で、ロシア民衆は貴族階級ほど汚染が進んではいないので
そこに希望があるのだが同時に「学」もないので
民族的純粋化よりも土俗的信仰の世界に向かう
しかしその信仰は土俗的であるが故に蒙昧さと背中合わせである
そこで「罪と罰」の世界にループしてしまう
ドストエフスキーの問題設定に出口は無いんだよ ドストもナチスや大日本帝国紛いの当時よくある民族主義者だったのか
関東軍も日本民族は中国を支配して指導的役割を果たさなければならないとか吠えてたらしいな 日本が指導してたら共産主義に汚染されることもなかったよ
当時をしれ >>211
> つまり我々ロシア人が自民族について思索するとき
> それは民族性を離れた普遍性に到達するのであり
> これはわが民族が世界にとって指導的役割を担っていることを意味する
> というトンデモ理論だよ
------------------------------------
う〜ん... いつもあなたの文を読んで思うんだけども、前提の理解には完全同意なのに
結論がなぜそう感じるのか?ぼくにはわからん。
なぜこれが >トンデモ理論 なのか?
自国が、世界的な使命を持ち、「わが民族は世界にとって指導的役割を担っている」と考え信じるのは
健康な精神と「ナショナルアイデンティティ」のために、とうぜんの帰結と思うがどうでしょう? >>212
> ドストもナチスや大日本帝国紛いの当時よくある民族主義者だったのか
> 関東軍も日本民族は中国を支配して指導的役割を果たさなければならないとか吠えてたらしいな
その理解がせんぱくですよ。最高の民族主義者であるからこそ他国ともなかよくできる。
ぼくは日蓮大聖人の教えどおり、この日本国こそ全世界へ仏法を広めいく使命をもった国であり
全世界が憧れる国だと思っている。 ぼくはあなたに個人的怨みがあってつっかかるんじゃない
あなたの文は教養があるが、「信仰という地盤がないゆえに」
ほんと「根無し草」になってる。だからカラマーゾフやドストエフスキーについて論評しても
肝心なところで、最後の結論部分で「ドストエフスキーの真意に到達しない」
これは難しい理屈をこねくり回してるのではない。
あなたはカラマーゾフの登場人物で言えば、まさにイヴァンのごとくなってる。 さらに40連投達成!!
ギロリ... !
維新愚民はおらんがあああ〜〜〜?
殺してまうどっ
700 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:05:32.62 ID:hdt38pJt0 (9)
おめらは白痴なんかっ?
701 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:05:50.73 ID:hdt38pJt0 (9)
なんでイシンなんか入れんだ?
馬鹿やろ?
703 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:06:28.40 ID:hdt38pJt0 (9)
わかった。おまえの嫁は糞ブスだから それで復讐で維新かっ? 704 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:07:51.88 ID:hdt38pJt0 (9)
>>702
だいじょうぶだあWWW
あと、3週間の命だしWW 維新なんて
吹けば飛ぶような泡沫政党だしWWWWWWWWWW
705 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:09:00.87 ID:hdt38pJt0 (9)
なんの信念もねえ
思想もねえ
実績もねえ
愚民だけが支持してるWWWW
706 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:10:41.16 ID:hdt38pJt0 (9)
公明党に入れないやつは
たいへんなことに なりますよっ
教えといたからね?
でも、ちみらってなんで入れないの??こうめいに
707 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:12:48.09 ID:hdt38pJt0 (9)
あ、わかった!
根無し草で
ひとりぽっちで
仏法の大切さもわかんないんでしょう?
大予言するよ。「7年後に維新はこの世に存在してません。」
「はしもとも この世にいません」ぜんいんコジキになってます!
維新応援したおまえらも!!!!!WWWWWWWWW
708 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:15:14.52 ID:hdt38pJt0 (9)
北は北海道から南は沖縄まで!
ひとりも、ただの一人も! 維新なんか応援してませんWWWWWWW
ムードで 騙されて、おまえら愚民が、応援してるだけ。
だから「今だけ」これを忘れないように。 おやすみ。ドストスレ
俺はおまえをたいせつにしてる >>214
>なぜこれが >トンデモ理論 なのか?
>自国が、世界的な使命を持ち、
>「わが民族は世界にとって指導的役割を担っている」と考え信じるのは
>健康な精神と「ナショナルアイデンティティ」のために、
>とうぜんの帰結と思うがどうでしょう?
そういう事じゃなくて
民族的統一性や純粋性が確立されていない(特に知識人層)のに
その非統一性を多様性と置き換えて一気に世界性に持って行くのは詐術に近いのね
また、知識人層と違って土俗的信仰の世界に生きる民衆を評価するのはいいとして
この土俗性も突き詰めていくと無知蒙昧や
アジア的異教性や汎神論的世界につながりかねない
このあたりに見られる苦闘は作品の中にも見られるが
明確な回答は最後まで出されていない
そのくせ飛躍した理論で正体の定まらない自民族こそ
世界をリードするのだ!と世間受けの良いスローガンを掲げるのはどうかな?
劣等感を優越感に逆転させるような詭弁は感心できないよ
これは健全なナショナリズムではない
「悪霊」におけるキリーロフの神と民族に関する議論の方がまだマシであって
ドストエフスキーの演説はこれよりも後退しているんだよ
民族と神の問題はシェリングやフィヒテといったドイツ観念学派の考え方に近く
スラブ主義の源流でもあるのだけど
ドストエフスキーはこれには距離を置いている
しかし問題設定としては避けて通ることはできない 石原慎太郎の言を借りるのなら
「真にナショナルなものしかインターナショナルになれない」
というのはそれなりに正しい
もっというとナショナリティーの確立によって
インターナショナルに向かうことが出来る
だからまずは神の定義や信仰の強度も含めて
ナショナリティーの確立に力を注ぐべきなのに
その前段階で大見得を切っている
それも理論操作でね >>214
言葉をもし文脈というような区切りができるならば、前提と結果で分ける事も出来うる
その時の前提とは普遍性であり、その時の結果とは個別性になる
そうならば、前提に同意できてもそのあとの結論は引き出す個々の意見というものに近くなることになる
なので前提は肯定できても、結論は反対に思う事は結構あるんじゃないかな
人間は死ぬ
だから精一杯生きよう
だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
これは同時にあり得ること、そして同時にあり得る事が言葉の闇でもあり崇高な特性でもある
アリョーシャが、イワンに殺したのはあなたじゃないと言ったのに、イワンは「おまえが殺した」みたいな解釈を勝手に想像して拗ねてしまうね
という余談です
今話にあがっているドストエフスキー土壌主義がどこまで国家主義と重なっていたか、どういう意味で国家主義を捉えていたかの明確な判断は難しい、とぼくは思います
勉強不足で明確に書いてある箇所がわからないのですw
もしあったらレスよろしくー >>220
> 民族的統一性や純粋性が確立されていない(特に知識人層)のに
> その非統一性を多様性と置き換えて一気に世界性に持って行くのは詐術に近いのね
詐術でもいいじゃないですか? 重要なのは、感激であり、自国の文化と世界史的使命への自信じゃ
ないですか。当時のロシヤ人の気持ちになってください。第三者的になってはならぬと。
> また、知識人層と違って土俗的信仰の世界に生きる民衆を評価するのはいいとして
> この土俗性も突き詰めていくと無知蒙昧や> アジア的異教性や汎神論的世界につながりかねない
> このあたりに見られる苦闘は作品の中にも見られるが
> そのくせ飛躍した理論で正体の定まらない自民族こそ 世界をリードするのだ!と世間受けの良い
スローガンを掲げるのはどうかな?
ぼくが思うに「すべての思想信仰すべての理論は飛躍しています」重要なのは確信です。
それに「世間受けの良いスローガン」ではなく、ドストエフスキー本人がだれよりも確信していたと
思う。
> 劣等感を優越感に逆転させるような詭弁は感心できないよ
> これは健全なナショナリズムではない
いまのネット上テレビで散見されるウヨ的な日本が外国で賛美されているのたぐいと同じですね。ま
さに劣等感と焦燥感(このままでは日本が後退していくという)の裏返しであることがあきらか。
かれらはほんとうの日本の誇りを知らない。
ですが、歴史を見てください。ロシヤという国が、全世界にどれほどの衝撃を与えてきたんですか?
とくに文化面。
こうして21世紀に、世界的に無名の掲示板で、誰も知らない3人4人だけが見てるところで、いま
も熱烈に語られてる思考と感情とは? だれに強制されたわけでもないのに?
まさに、ドストエフスキーは「いまこの瞬間を生きている」
詭弁であろうと無かろうと、彼の予言通りになった。 世界に冠たる神国日本が外国で賛美されているのは当たり前のことだろう
それを認めたくないのは反日朝鮮人だけ >>224
> 世界に冠たる神国日本が
日本人にとっては土着信仰としての神国であるが、世界はそうは見ない。
世界宗教としての仏教国と世界は見る。
>外国で賛美されているのは当たり前のことだろう
賛美されているのは日本国だけではない。どんな小国にもその国だけの良さがある。
>それを認めたくないのは反日朝鮮人だけ
きみのちっぽけな世界観・宇宙観ではそう感じる。創価学会は全世界に信者を持つが
特段に多い国のひとつが韓国だ。人口比率でいえば日本国内より多い。ゆえに韓国朝鮮人を
下に見るなど夢にもありえないことなんだ。 きみらネトウヨが韓国を嫌うのは簡単な理由による。
無信仰かつ根無し草のため、アイデンティティが確立されていない。
心に大地がない。ゆえにわずかの悪縁で倒れて、悪事に走る人間だ。 >>227
つまりおまえが反日チョンの巣窟ってことw そりゃ朝鮮人だらけの組織じゃあ半島とも利権ずぶずぶだわな
やはり日本の宗教は日本人のためだけにある神道だけで十分
ゴミはゴミ箱へ、反日創価&統一教会は朝鮮半島へ 神道といえば漫画で読む神道みたいな本を読んだなあ
覚えているのは、なんか怒って祠かなんかに閉じこもった神さまがいたり、足の多いカラスが出てきて道案内するとかだった気がする
ぜんぜん違うかもだけどw 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
これどこで読めるんだろう
ネットだと主の祈りの部分くらいしか載っていない
1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
2 ゆえに人は、霊をもってこの本源につかえなければならぬ。
3 万人の生命は聖なる本源を持っている。そしてその本源だけが神聖である。
4 ゆえに人は、万人の生命中に存するこの本源につかえなければならぬ。これは父の意志である。
5 生命の父の意志に対する奉仕は、生命を与える。
6 ゆえに自分一個の意志の満足は生命にとって不必要である。
7 一時の生命は真の生命の糧である。
8 ゆえに、真の生命は時間を超越しているーそれはつねに現在のなかに在る。
9 生命の欺きは、時のなかにある。過去と未来の生命は、人の前に、現在の真の生命を隠蔽する。
10 ゆえに人は、過去と未来の一時的生命の欺きを破却するために、つねに努力しなければならない。
11 真の生命は、万人に共通なる現在の生命であって、愛によって表現されるものである。
12 ゆえに、現在において万人に共通する生命であるところの愛に生きるものこそ、父、本源、および基礎的生命と一致するものである。
やっぱりトルストイは直球というか正道というか、ほんとに宗教者と感じる
ドストエフスキーは宗教者と言われると何かの違和感すら感じる
それでもドストエフスキーの方がなんか惹かれるものがあるんだよね >>229
神道信じてんのかよ?
まいにちパンパン!って手を合わせてるのかよ? >>222
> 人間は死ぬ
> だから精一杯生きよう
> だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
人間は死ぬ → だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
こういう方程式を現実の人間において見たこと感じたこと ありますか?
自殺者はたくさんいるけど、いっぱんてきに普遍的に必然的に「人間は死ぬ」から、人生における努
力そのほかが無意味に感ずる、だからぼくは自殺する―というのはほんとうでしょうか?
> そして同時にあり得る事が言葉の闇でもあり崇高な特性でもある
言語論としてそうですよね。ぼくも2ちゃんカキコのとき「わざと意味的に矛盾・倒置させて、キチ
的にするように努力してる」とはいえそんな小手先だけで「キチを演じるのは甘くないです」が。W
> アリョーシャが、イワンに殺したのはあなたじゃないと言ったのに、イワンは「おまえが殺した」
みたいな解釈を勝手に想像して拗ねてしまうね
あのあたりも本文引用しつつ、いっしょに考えていきたいですねW
> 今話にあがっているドストエフスキー土壌主義がどこまで国家主義と重なっていたか、どういう意
味で国家主義を捉えていたかの明確な判断は難しい、とぼくは思います
> 勉強不足で明確に書いてある箇所がわからないのですw
> もしあったらレスよろしくー
ぼくこそ、カラマーゾフと罪と罰と白痴の一部のみしか読んでなくて、あなたの引用するプーシュキ
ンの演説とか参考になる。
ずーっと体調不良で、レスが遅くなりすいませんでした。もしコンディションよくなったら、まず第
一番にあなたのカキコにレスつけたいとおもってた。 >>231
> 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
> 廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
> これどこで読めるんだろう
国立国会図書館デジタルアーカイブでは? ぼくはぎゃくに紙の書籍が目の関係でダメなんだけど、だから
キンドルや青空でさがすけど。ぼくが少年時代にはたいがいの図書館には(東京ですけど)かならず
中村百葉訳のトルストイ全集がありましたが!
これもたぶんみんなとぎゃくで「新訳のたぐいは受けつけない」古い言い回しじゃないと純文学読んでる気がしないちゅーのもありますW
もともと母親といっしょに読み出した純文学が芥川ほか、明治大正昭和初期のころのが多かった。 > 1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
西洋的な肉体と霊を立て分けるかんがえ。仏法の色心不二の反対か。
> やっぱりトルストイは直球というか正道というか、ほんとに宗教者と感じる
言わんとすること良くわかりますW
> ドストエフスキーは宗教者と言われると何かの違和感すら感じる
> それでもドストエフスキーの方がなんか惹かれるものがあるんだよね
しかし、カラマーゾフ中のゾシマの遺訓は? >>233
いずれ誰もが死ぬと分かった時に自殺まではいかなくても、なんだか生きることが嫌になってしまったり怠惰になってしまうことはあるんじゃないかな
曰く、精神的な自殺とは生の堕落ととも言えると感じる
自分は紙で読みたい派なんです
もちろんまだ幸いなことに目に問題がないから言えるだけなんだけどね ドストスレだけど、トルストイのいう死の先駆について面白い箇所がある
ロシア人が書いたとは思えないくらいとても東洋的
古い東洋の寓話の中に、草原で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。
猛獣から逃れて、旅人は水の涸れた古井戸の中へ逃げ込んだ。
が、彼はその井戸の底に、彼をひとのみにしようと思って大きな口をあけている一ぴきの竜を発見した。
そこでこの不幸な旅人は、怒り狂う猛獣に一命を奪われたくなかったので、外へ這い出ることもできず、
そうかと言って、竜に食われたくもなかったので、底へ降りて行くこともできず、仕方がなくて、中途のすき間に生えている野生の灌木の枝につかまって、そこにかろうじて身を支えた。
が、彼の手は弱って来た。
で彼は、井戸の上下に自分を待っている滅亡に、まもなく身をゆだねなければならないことを感知した。 それでも彼はつかまっていた。
とそこへさらに、黒と白との二ひきの鼠がちょろちょろとやって来て、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲をまわりながらこれをかじりはじめたのである。
もうじき灌木はかみ切られて、彼は竜の口へ落ちてしまうに違いない。旅人はそれを見た。
そして自分の滅亡が避け難いものであるのを知った。
が、しかも彼は、そこへぶら下がっているそのわずかな間に、自分の周囲を見まわして、灌木の葉に蜜のついているのを見いだすと、いきなりそれを舌に受けて、ぴちゃりぴちゃりと嘗めるのである。
──私もまたこの旅人のように、私を牙にかけようと思って待ち構えている死の竜の避け難いことを知りながら、生の小枝に掴まっているのだ。
そして私は、何でそんな苦悩の中へ落ち入ったかを知らないのだ。
私もまたいままで自分を慰めてくれた蜜を嘗めてみる。──が、その蜜はもうこの私を喜ばせてくれない。そして白と黒との二ひきの鼠は、日夜の別なく、私のつかまっている生の小枝をがりがりと齧る。
私はまざまざと竜の姿をまのあたり見ている。
だから蜜ももう私には甘くないのである。
私の見るのはただ一つ、──避け難い竜と鼠だけである、──そして私は彼らから目をそらすことができないのだ。これは決して単なる作り話ではない。
まさしくこれは真実の、論じ合う余地のない、全ての人が知っている真理なのだ。 竜に対する恐怖をまぎらせていた生の喜びといういままでの欺瞞は、もはや私を欺くことができなかった。お前は人生の意義をさとることができないのだ、考えずにただ生きよ、とどれほど自分にいってみても、私はそれをあえてすることができない。
過去においてあまりにも久しくそれをくり返して来たからである。今や私は、たえず私を死の方へ引きずりながら駆けて行く日々夜々を見ずにはいられない。
私はこれのみを見つめている、なぜなら、これのみが唯一の真理で、その他のすべてはみな欺瞞だからである。
他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、二滴の蜜──家族に対する愛と、私が芸術と名づけている著作に対する愛──さえも、もはや私には甘くないのである。
『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、やはり人間である。彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、偽りの中に生きて行くか、さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。
一体なぜ彼らは生きなければならないのか?またこの私は何のために彼らを愛し、いたわり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?
私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、あるいはまた痴呆状態に導くためか?私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。
──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、彼らをこの真理へと導いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!』
トルストイ『懺悔』 >「悪霊」におけるキリーロフの神と民族に関する議論の方がまだマシであって
ドストエフスキーの演説はこれよりも後退しているんだよ
>人間は死ぬ
だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
もし、小手先で考えた思弁なら、これほどの影響があるはずがない。 トルストイ『懺悔』
初めて読ませてもらいました。ディスプレイの横書きの白い文字が黒い背景から
飛び出してくるような感覚を味わった。これは「死の先駆」とよばれているの?
>>238
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> 『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、
やはり人間である。彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、
偽りの中に生きて行くか、さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。
> 一体なぜ彼らは生きなければならないのか?またこの私は何のために彼らを愛し、いた
わり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?
> 私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、あるいはまた痴呆状態に導くためか?
私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。
> ──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、彼らをこの真理へと導
いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!』
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普通の人々なら「家族がいるから」「友人がいるから」と書くところを
トルストイは欺瞞であると書いた。釈迦が青年時代、親も子も妻も捨てて旅立ったように。
彼は底しれない絶望と惑乱に陥っているように見える。 いま、トルストイにあるのは痛ましい絶望感なのか? この追いつめられたような感覚は
どこから来たのか? 彼は死への恐怖と不安を、
>他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、
二滴の蜜──のひとつである芸術によって表現している。それはギリギリの戦いだった。
そうだ...... 彼はまだ今この瞬間も蜜を嘗めている。
絶望を彼の芸術表現によって極限まで描き、それを現在と未来の読者のために提示するこ
とによって、この踏み絵をふんで、それを通じて「真理」に至れ、というのだ。
ぼくは無根拠につぎのように類推したい── トルストイは「死の恐怖を超えた」と。ま
たは、最後の瞬間に「死が怖くなくなった」はずだと。
人生の最後の瞬間を「臨終」と呼ぶ。「ひとは生きてきたようにしか死ねない」と聞く。
仏法で「臨終正念」と説かれる。「臨終正念」たらんために、長い、膝を屈する修行を送
る。
青年期、壮年期において、凡夫たるぼくらは「死ぬ瞬間の準備のために、今を生きる」な
どかんがえもしない。ところが現にトルストイは、強くこのことに固着している。
痛ましくも「家族への愛」すら欺瞞だと説きつつ。
ここでフッと、ぼくの頭の中に、カラマーゾフ中の ドストエフスキーのあの言葉が浮かん
でくる。 ほかでもない、神は再びヨブを奮起せしめて、再び彼に富を与えたのである。こう
してさらに数多の歳月が流れて、もう彼は新しい別な子供らの親となり、その子供
らを愛することとなった。ところが人は『ああ、なんたることだ! 以前の子供らがい
なくなったのに、以前の子供らが永久に奪い去られたのに、どうして彼はこの新し
い子供らを愛することができたのか? どんなに新しい子供らが可愛く思われるに
もせよ、以前の子供らのことを思いだして、前と同じように十分な幸福を味わい得
るだろうか?』ところが、それが可能なのである。大いに可能なのである。昔の悲し
みは人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな感激に充ちた悦びと変わってゆく。
若い時の湧き立つような血潮のかわりに、つつましく晴ればれとした老年が
訪れるのである。私は日々の日の出を祝福し、私の心は依然として朝日に向かっ
て歌を歌うけれども、しかしどちらかというと、むしろ入日の方を愛する。斜めにさす
夕日の長い光線を愛する。それを眺めているうちに、静かな、つつましい感激に充
ちた追憶や、懐かしい人のおもかげなどが、長い祝福すべき生涯の中から 甦ってくる、
――そうしたすべてのものの上に、人を感激せしめ和解せしめ、かつ一切を許す
神の真理がさし昇るのである! 私の生涯はまさに終わらんとしている、それは自
分でも分かっている。しかし、わずかに残れる日の訪れごとに、私の地上の生活が
既に新しい、限りない、まだ知られない、とはいえ近く訪れるべき生活と、相触れ
んとしているのが感じられる。その生活を予感すると、私の魂は歓喜に震え、知性
は明らかに輝き、感情は喜悦に 咽び泣くのである。......
-----------------------
トルストイの重いコントラと このドストの穏やかなプロは 一体不二ではないか?
表裏ではないか? 重苦しい絶望をくぐり抜けて、はじめてこの境地を得るのでないか?
このふたりのロシヤが生んだ大詩人が希求したところはある一点において共通している。
そうであるから、ふたりとも共通の結果を得るはずだと―― ぼくは考えるのだ。
そして、ドストエフスキーとトルストイに限らない。われわれは誰でも信仰さえあれば
彼らと同じ境地に立てる。それが「どういう信仰なのか?」と疑念に陥りもしよう。 ここでぼくは そのことについて触れない。
「ただ信仰によって」とだけ端的に書く。
トルストイやドストエフスキーのごとく芸術的迫真性で思想や感情や叙事詩について
語れなくてよい。必要なのは「信仰のみ」によって死と絶望を乗り越えた人々のものがたりだ。
最後の最後に勝つひとたちの言葉を聞かなければならない。
追伸。
OSがおかしくなっちまった!直さないといけないが、このレスをつけるほうが大事だ。価値があると
考えて書きました。この青臭い文の底に隠された思いを汲み取ってください。 >>242
トルストイとドストエフスキーの類似と比較がよく分析してあるね
個人的に分析してみるとこうなる
トルストイは死を見つめ、一旦はすべてが嫌になるが、国民と共にある信仰が最後に残される
生に関わるすべてあらゆる物事は相対的になる
それらはあらゆる条件、時代、国家等で変わってしまう
けど彼にとって、信仰するという主観とその信仰されている神の存在は唯一、時間と色々な条件に属すことなく絶対的な非時間性を持っているように思えた
トルストイの信仰には、必要なものが確かにそこにあった
それは死を見つめた時に自覚させられる虚無感と失望
一方でドストエフスキーはこういう
飛び越えるかどうかは知らないけど、無神論者は有神論者の一つ下の段にいると
ある意味で思考に法則なんてものがあるのならば、そこには順序が出来ていて、まるで階段のようになっていて、その階段は死で舗装されていて、もし超えられれば真理みたいなものに辿り着けるのかもしれない
だけどこれは2大作家の場合で、可もなく不可もないような凡人の自分に与えられている段差は何でどのくらいのものなのかはまったくわからないけどねw みんなやっぱりトルストイも読んでるの?
自分は大昔に新潮文庫辺りは全部読んだけど今はもう読まない。
やはりキリスト教的道徳臭がキツくて嫌になる。 第3 イリューシャの埋葬 アリョーシャの弔辞
(要約)
アリョーシャは部屋へはいった。白いひだつきのレエスで飾られた空色のひつぎの中には、
両手を組み合わせ、眼を閉じたイリューシャが横になっていた。その顔はやつれていたが、
死ぬ前とほとんど変わりがなかった。そして、ふしぎなことには、死骸からほとんど臭気
が発しなかった。
顔には厳粛な物思わしげな表情が浮かんで、十文字に組み合された、さながら大理石で刻
んだような手は、ことに美しく見えた。
その手には花が持たせてあった。それに柩の内側も外側も、きょう早朝リーザ・ホフラコ
ワが送って来た花で一面に飾られてあった。そのほかカーチャからも花が贈られていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています