ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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かつて僕の友人に、「哲学は自由恋愛にして、宗教とは縁談である」と恋愛で例えた人がいます。
付き合って相手を品定めし、納得したら結婚。最初は上手くいっても、相手か自分の気持ちが変わったら別れるのが自由恋愛です。
したがって哲学の付き合いは「常に条件付き」であり、小さな意見の相違によって「簡単に袂を分かつ脆さ」があります。
一方で宗教とは、親が決めた得体の知れない相手といきなり結婚し、その人が良い人だと信じて好きになろうと努力する過程そのものです。
たとえ家庭内暴力を振るう酒飲み夫であってもひたすらに根拠もなく信じ続ける――それが信仰の本質にして意義であると僕は聞きました。
だから僕は池田大作先生を信じ、麻原彰晃総帥を信じる。
一度も人を殺した経験もない人に、ポアの何が分かるというのでしょうか?
麻原の風呂の残り湯から作った聖水を買ってない人に真実が分かるというのでしょうか?
ポアは人類を救済する。それはいっぺんやってみた人間にしかわからないことです。
だから公明党に一票いれなさい!! >>182
個人的にはカミュのシシュポスの中にあるキリーロフ の章が好き
数ページだけだけどね 歴史上、もっと偉大な作家っていうとドストエフスキーってイメージある 「もっとも偉大」な天才と言うと
"ゲーテ"か"ドストエフスキー"ですね……。 シェイクスピア、セルバンテスだろ
この二大巨頭が西洋文学のすべての基礎
ドストやニーチェをヨイショするのは教養のない中二病だけ シェイクスピアは兎も角、
セルバンテス『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』位しか読み込んでいない。
どの辺りが「もっとも偉大」に値するのか教えてほしいな>>188さん。 いちばん偉大なのはおれだろ。これまじで
その上であえて言うなら だれが偉大とかねえ!! >>183
> だから公明党に一票いれなさい!!
おまえ自身は入れてきたのかっ? 早くいけ >>189
例えば良くあるフーコーの評論でもいいけど、
小説として個人的に感動したとかじゃなくて
特に近代小説の先駆けとしての文学史的な意義があるのよ >>193
維新はぜったいに許さん。地獄へ落とす。 評価される時も貶される時も、結局1番か2番を争うのだから、名前があがるという意味で偉大な作家という定義の一つになるよね
評価されすぎ?のロシア5大作家:たまには思い切りけなしてみようか
https://www.google.com/amp/s/jp.rbth.com/document/5c1253ab15e9f940bd7de632/amp 話のネタになれば何でもいいかな
偉大な誰それの本を読んだからといって俺自身が偉大になるわけでもないし 維新が勝った
創価が人々に支持されてない邪教だとはっきりしたな! >>188
>ドストやニーチェをヨイショするのは教養のない中二病だけ
ドストエフスキーの小説はシェークスピア悲劇やドン・キホーテの
再解釈のようなところがあるし
ニーチェはドストエフスキー経由して同じようなことをやっている
まあオリジナリティー云々はともかく解釈軸が問題であってね
ドストエフスキーには進歩に伴う懐疑と信仰の問題が
ニーチェには大衆化と世俗化にともなう生の凡俗化といった危機意識がある
このあたりの問題意識の方がシェークスピアやセルバンテスよりも
現代人のそれに近いわけであってね ニュー速+で500連投達成!!
> 責任はとらんだろうけど
> 2Fからは人が離れていくよ。
> いま中国べったりの親分についていくのは
> 泥船に乗るのと同じ。
> 官房長官になりたがってるらしいが
> 自分が落ちた穴に気づいてないw
評論家きどりのバカがWWWWWWWW
ねらーのおめえのゆーことなんか 誰が信じんだよ!!
710 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:47:48.13 ID:Zqscy7pG0 (24)
おまえらよーく おぼえとけWWWWWWWW
維新なんか 日本ぜんごくで だ〜れも知らん
それでおれたち公明党さまに勝てるだと??WWWW
維新は全国で国会議員なん議席あんだア〜〜〜〜〜〜〜〜〜? 711 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:51:36.68 ID:Zqscy7pG0 (24)
おれたちは どこまでも南無妙法蓮華経の選挙だ!!
維新はてめえの「権力とカネと名誉だ」
支持者の愚民であるてめえらも ケツのあなの小せえ ガリガリ君だあ
うほっは
おれらは全世界広宣流布だけしかねえ
朝鮮とも中国とも、アメリカとも、国籍関係なく、仲良くしてゆく!!
おれらは いっさいしゅじょうが 幸福になれと、毎時まいばん 祈りまくってる
てめえらは「他人の不幸だけを願ってる」!!
そんなてめらが おれらに 勝てるわけねえだろがっ!!!!!!!!!wwww
712 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:52:40.28 ID:Zqscy7pG0 (24)
もう一回再確認しとくぞ?
維新に入れたバカ。これから入れるクズは
「地獄へ落とす」やくそくだWWWWWWWWWW
713 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:55:33.71 ID:Zqscy7pG0 (24)
ちっ、また完全勝利かよ?
また明日なW
717 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 02:02:23.02 ID:Zqscy7pG0 (24)
バカヤローW
29億6千万円の予算 を使ってるじゃねーか
橋下がカネ出したんか?っ
そんなもんカネの配分の問題だろが?
赤バス廃止したやろがっ ドストエフスキーの有名な「プーシキン演説」からシェイクスピアやセルバンテスについて述べた部分を書き出してみると
第三期には、主として全世界的な理念が輝き始め、他の諸国民の詩的比喩的表現が反映し、他国民の示した天才が具現化されている系列の作品が帰属する。
わが詩人は、彼以前には、どこでも、どの作家においても見たことも聞いたこともないような、ほとんど何か奇跡的な存在となっている。
事実、ヨーロッパの文学には、シェイクスピア、セルバンテス、シラーのような巨大な、堂堂たる芸術的天才がいた。
しかし、わがプーシキンのように、全世界的に共鳴し得るこのような能力を有している人が、これらの偉大な天才の中に一人でもいただろうか。
ヨーロッパの最も偉大な詩人たちでも、天才とその精神を、その精神の中に秘められているあらゆる深みを、その使命についての憂いを自分の中に体現した例は一つとしてないのである。
ヨーロッパの詩人の多くの場合、他国民を自分の国民性に合うように変身させ、自己流の解釈をほどこした。
シュイクスピアについても、たとえば、彼の作品のイタリア人はほとんどすべてイギリス人である。
ただプーシキン一人が、完全に他の国民性の中に化身し得る特質を有している。
『ドン・ジュアン』『石の客』を読み返してみるがいい。もしプーシキンの署名がなかったら、作者がスペイン人ではないということなど、知りようがなかったであろう。
『プーシキンについての演説』に関する説明のための数言(『作家の日記』1880年8月第1章 )
プーシキンの意義について私が特筆しておきたい思った第三の点は、全世界的に共鳴する才能、他国の天才に完全に同化する才能、それもほとんど申し分ないほどに新しいものになりきる能力である。
私は演説の中でも、ヨーロッパにはシェイクスピア、セルバンテス、シラーのようなこの上なく偉大な世界的天才がいるが、そのうち誰にもこの才能を見出すことはできない、ただプーシキンにのみこの才能を見ることができる、と述べた。
私は、他国の天才に同化し得るというこの上なく天才的なプーシキンの才能を指摘するにあたって、シャイクスピアやシラーの世界的意義を侵害するつもりはなかったのだ。 『スペードの女王』の人ね
日本では全然読まれてない気もするけど 西欧文学でドストエフスキーを超えて日本人に影響を与えた作家はぜったいにいない
ですから米川正夫は偉大です!彼の翻訳こそスタンダードだったんですからっ
三島由紀夫ほか純文学に引用されてるのもすべて米川正夫訳
この厳然たる事実はどうにもできん
であるからして、さいきんの なんたら訳などで読むのは愚の骨頂です!
もちろんこのことの反対意見があるのは承知です。ぼく自身も「白痴」をそれしかなかったという理由で
木村訳でよみ、その文体の磁器のような硬質の美しさに感嘆したものです。
それでもなおかつ米川の業績を超えることは不可能です。 米川が最初に全訳し、後の翻訳者はぜんいん「それらを下敷きにして」やったのです。
また米川の文体には「なんだかわからんが音律がある」 >>205
ヨーロッパの偉大な作家はそれぞれの民族性に限定されるが
我が国の偉大な詩人プーシキンは民族の軛を離れた普遍性を確保しており
これはプーシキンのみならず我がロシア人に共通の性格である
つまり我々ロシア人が自民族について思索するとき
それは民族性を離れた普遍性に到達するのであり
これはわが民族が世界にとって指導的役割を担っていることを意味する
というトンデモ理論だよ
単に民族的統一性を確立する前に
西欧先進国からの文化移植を実施したので寄せ集め状態になっており
それ故にナショナルアイデンティティについた考えなければならない
というだけの話に過ぎない
で、ロシア民衆は貴族階級ほど汚染が進んではいないので
そこに希望があるのだが同時に「学」もないので
民族的純粋化よりも土俗的信仰の世界に向かう
しかしその信仰は土俗的であるが故に蒙昧さと背中合わせである
そこで「罪と罰」の世界にループしてしまう
ドストエフスキーの問題設定に出口は無いんだよ ドストもナチスや大日本帝国紛いの当時よくある民族主義者だったのか
関東軍も日本民族は中国を支配して指導的役割を果たさなければならないとか吠えてたらしいな 日本が指導してたら共産主義に汚染されることもなかったよ
当時をしれ >>211
> つまり我々ロシア人が自民族について思索するとき
> それは民族性を離れた普遍性に到達するのであり
> これはわが民族が世界にとって指導的役割を担っていることを意味する
> というトンデモ理論だよ
------------------------------------
う〜ん... いつもあなたの文を読んで思うんだけども、前提の理解には完全同意なのに
結論がなぜそう感じるのか?ぼくにはわからん。
なぜこれが >トンデモ理論 なのか?
自国が、世界的な使命を持ち、「わが民族は世界にとって指導的役割を担っている」と考え信じるのは
健康な精神と「ナショナルアイデンティティ」のために、とうぜんの帰結と思うがどうでしょう? >>212
> ドストもナチスや大日本帝国紛いの当時よくある民族主義者だったのか
> 関東軍も日本民族は中国を支配して指導的役割を果たさなければならないとか吠えてたらしいな
その理解がせんぱくですよ。最高の民族主義者であるからこそ他国ともなかよくできる。
ぼくは日蓮大聖人の教えどおり、この日本国こそ全世界へ仏法を広めいく使命をもった国であり
全世界が憧れる国だと思っている。 ぼくはあなたに個人的怨みがあってつっかかるんじゃない
あなたの文は教養があるが、「信仰という地盤がないゆえに」
ほんと「根無し草」になってる。だからカラマーゾフやドストエフスキーについて論評しても
肝心なところで、最後の結論部分で「ドストエフスキーの真意に到達しない」
これは難しい理屈をこねくり回してるのではない。
あなたはカラマーゾフの登場人物で言えば、まさにイヴァンのごとくなってる。 さらに40連投達成!!
ギロリ... !
維新愚民はおらんがあああ〜〜〜?
殺してまうどっ
700 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:05:32.62 ID:hdt38pJt0 (9)
おめらは白痴なんかっ?
701 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:05:50.73 ID:hdt38pJt0 (9)
なんでイシンなんか入れんだ?
馬鹿やろ?
703 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:06:28.40 ID:hdt38pJt0 (9)
わかった。おまえの嫁は糞ブスだから それで復讐で維新かっ? 704 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:07:51.88 ID:hdt38pJt0 (9)
>>702
だいじょうぶだあWWW
あと、3週間の命だしWW 維新なんて
吹けば飛ぶような泡沫政党だしWWWWWWWWWW
705 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:09:00.87 ID:hdt38pJt0 (9)
なんの信念もねえ
思想もねえ
実績もねえ
愚民だけが支持してるWWWW
706 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:10:41.16 ID:hdt38pJt0 (9)
公明党に入れないやつは
たいへんなことに なりますよっ
教えといたからね?
でも、ちみらってなんで入れないの??こうめいに
707 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:12:48.09 ID:hdt38pJt0 (9)
あ、わかった!
根無し草で
ひとりぽっちで
仏法の大切さもわかんないんでしょう?
大予言するよ。「7年後に維新はこの世に存在してません。」
「はしもとも この世にいません」ぜんいんコジキになってます!
維新応援したおまえらも!!!!!WWWWWWWWW
708 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:15:14.52 ID:hdt38pJt0 (9)
北は北海道から南は沖縄まで!
ひとりも、ただの一人も! 維新なんか応援してませんWWWWWWW
ムードで 騙されて、おまえら愚民が、応援してるだけ。
だから「今だけ」これを忘れないように。 おやすみ。ドストスレ
俺はおまえをたいせつにしてる >>214
>なぜこれが >トンデモ理論 なのか?
>自国が、世界的な使命を持ち、
>「わが民族は世界にとって指導的役割を担っている」と考え信じるのは
>健康な精神と「ナショナルアイデンティティ」のために、
>とうぜんの帰結と思うがどうでしょう?
そういう事じゃなくて
民族的統一性や純粋性が確立されていない(特に知識人層)のに
その非統一性を多様性と置き換えて一気に世界性に持って行くのは詐術に近いのね
また、知識人層と違って土俗的信仰の世界に生きる民衆を評価するのはいいとして
この土俗性も突き詰めていくと無知蒙昧や
アジア的異教性や汎神論的世界につながりかねない
このあたりに見られる苦闘は作品の中にも見られるが
明確な回答は最後まで出されていない
そのくせ飛躍した理論で正体の定まらない自民族こそ
世界をリードするのだ!と世間受けの良いスローガンを掲げるのはどうかな?
劣等感を優越感に逆転させるような詭弁は感心できないよ
これは健全なナショナリズムではない
「悪霊」におけるキリーロフの神と民族に関する議論の方がまだマシであって
ドストエフスキーの演説はこれよりも後退しているんだよ
民族と神の問題はシェリングやフィヒテといったドイツ観念学派の考え方に近く
スラブ主義の源流でもあるのだけど
ドストエフスキーはこれには距離を置いている
しかし問題設定としては避けて通ることはできない 石原慎太郎の言を借りるのなら
「真にナショナルなものしかインターナショナルになれない」
というのはそれなりに正しい
もっというとナショナリティーの確立によって
インターナショナルに向かうことが出来る
だからまずは神の定義や信仰の強度も含めて
ナショナリティーの確立に力を注ぐべきなのに
その前段階で大見得を切っている
それも理論操作でね >>214
言葉をもし文脈というような区切りができるならば、前提と結果で分ける事も出来うる
その時の前提とは普遍性であり、その時の結果とは個別性になる
そうならば、前提に同意できてもそのあとの結論は引き出す個々の意見というものに近くなることになる
なので前提は肯定できても、結論は反対に思う事は結構あるんじゃないかな
人間は死ぬ
だから精一杯生きよう
だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
これは同時にあり得ること、そして同時にあり得る事が言葉の闇でもあり崇高な特性でもある
アリョーシャが、イワンに殺したのはあなたじゃないと言ったのに、イワンは「おまえが殺した」みたいな解釈を勝手に想像して拗ねてしまうね
という余談です
今話にあがっているドストエフスキー土壌主義がどこまで国家主義と重なっていたか、どういう意味で国家主義を捉えていたかの明確な判断は難しい、とぼくは思います
勉強不足で明確に書いてある箇所がわからないのですw
もしあったらレスよろしくー >>220
> 民族的統一性や純粋性が確立されていない(特に知識人層)のに
> その非統一性を多様性と置き換えて一気に世界性に持って行くのは詐術に近いのね
詐術でもいいじゃないですか? 重要なのは、感激であり、自国の文化と世界史的使命への自信じゃ
ないですか。当時のロシヤ人の気持ちになってください。第三者的になってはならぬと。
> また、知識人層と違って土俗的信仰の世界に生きる民衆を評価するのはいいとして
> この土俗性も突き詰めていくと無知蒙昧や> アジア的異教性や汎神論的世界につながりかねない
> このあたりに見られる苦闘は作品の中にも見られるが
> そのくせ飛躍した理論で正体の定まらない自民族こそ 世界をリードするのだ!と世間受けの良い
スローガンを掲げるのはどうかな?
ぼくが思うに「すべての思想信仰すべての理論は飛躍しています」重要なのは確信です。
それに「世間受けの良いスローガン」ではなく、ドストエフスキー本人がだれよりも確信していたと
思う。
> 劣等感を優越感に逆転させるような詭弁は感心できないよ
> これは健全なナショナリズムではない
いまのネット上テレビで散見されるウヨ的な日本が外国で賛美されているのたぐいと同じですね。ま
さに劣等感と焦燥感(このままでは日本が後退していくという)の裏返しであることがあきらか。
かれらはほんとうの日本の誇りを知らない。
ですが、歴史を見てください。ロシヤという国が、全世界にどれほどの衝撃を与えてきたんですか?
とくに文化面。
こうして21世紀に、世界的に無名の掲示板で、誰も知らない3人4人だけが見てるところで、いま
も熱烈に語られてる思考と感情とは? だれに強制されたわけでもないのに?
まさに、ドストエフスキーは「いまこの瞬間を生きている」
詭弁であろうと無かろうと、彼の予言通りになった。 世界に冠たる神国日本が外国で賛美されているのは当たり前のことだろう
それを認めたくないのは反日朝鮮人だけ >>224
> 世界に冠たる神国日本が
日本人にとっては土着信仰としての神国であるが、世界はそうは見ない。
世界宗教としての仏教国と世界は見る。
>外国で賛美されているのは当たり前のことだろう
賛美されているのは日本国だけではない。どんな小国にもその国だけの良さがある。
>それを認めたくないのは反日朝鮮人だけ
きみのちっぽけな世界観・宇宙観ではそう感じる。創価学会は全世界に信者を持つが
特段に多い国のひとつが韓国だ。人口比率でいえば日本国内より多い。ゆえに韓国朝鮮人を
下に見るなど夢にもありえないことなんだ。 きみらネトウヨが韓国を嫌うのは簡単な理由による。
無信仰かつ根無し草のため、アイデンティティが確立されていない。
心に大地がない。ゆえにわずかの悪縁で倒れて、悪事に走る人間だ。 >>227
つまりおまえが反日チョンの巣窟ってことw そりゃ朝鮮人だらけの組織じゃあ半島とも利権ずぶずぶだわな
やはり日本の宗教は日本人のためだけにある神道だけで十分
ゴミはゴミ箱へ、反日創価&統一教会は朝鮮半島へ 神道といえば漫画で読む神道みたいな本を読んだなあ
覚えているのは、なんか怒って祠かなんかに閉じこもった神さまがいたり、足の多いカラスが出てきて道案内するとかだった気がする
ぜんぜん違うかもだけどw 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
これどこで読めるんだろう
ネットだと主の祈りの部分くらいしか載っていない
1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
2 ゆえに人は、霊をもってこの本源につかえなければならぬ。
3 万人の生命は聖なる本源を持っている。そしてその本源だけが神聖である。
4 ゆえに人は、万人の生命中に存するこの本源につかえなければならぬ。これは父の意志である。
5 生命の父の意志に対する奉仕は、生命を与える。
6 ゆえに自分一個の意志の満足は生命にとって不必要である。
7 一時の生命は真の生命の糧である。
8 ゆえに、真の生命は時間を超越しているーそれはつねに現在のなかに在る。
9 生命の欺きは、時のなかにある。過去と未来の生命は、人の前に、現在の真の生命を隠蔽する。
10 ゆえに人は、過去と未来の一時的生命の欺きを破却するために、つねに努力しなければならない。
11 真の生命は、万人に共通なる現在の生命であって、愛によって表現されるものである。
12 ゆえに、現在において万人に共通する生命であるところの愛に生きるものこそ、父、本源、および基礎的生命と一致するものである。
やっぱりトルストイは直球というか正道というか、ほんとに宗教者と感じる
ドストエフスキーは宗教者と言われると何かの違和感すら感じる
それでもドストエフスキーの方がなんか惹かれるものがあるんだよね >>229
神道信じてんのかよ?
まいにちパンパン!って手を合わせてるのかよ? >>222
> 人間は死ぬ
> だから精一杯生きよう
> だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
人間は死ぬ → だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
こういう方程式を現実の人間において見たこと感じたこと ありますか?
自殺者はたくさんいるけど、いっぱんてきに普遍的に必然的に「人間は死ぬ」から、人生における努
力そのほかが無意味に感ずる、だからぼくは自殺する―というのはほんとうでしょうか?
> そして同時にあり得る事が言葉の闇でもあり崇高な特性でもある
言語論としてそうですよね。ぼくも2ちゃんカキコのとき「わざと意味的に矛盾・倒置させて、キチ
的にするように努力してる」とはいえそんな小手先だけで「キチを演じるのは甘くないです」が。W
> アリョーシャが、イワンに殺したのはあなたじゃないと言ったのに、イワンは「おまえが殺した」
みたいな解釈を勝手に想像して拗ねてしまうね
あのあたりも本文引用しつつ、いっしょに考えていきたいですねW
> 今話にあがっているドストエフスキー土壌主義がどこまで国家主義と重なっていたか、どういう意
味で国家主義を捉えていたかの明確な判断は難しい、とぼくは思います
> 勉強不足で明確に書いてある箇所がわからないのですw
> もしあったらレスよろしくー
ぼくこそ、カラマーゾフと罪と罰と白痴の一部のみしか読んでなくて、あなたの引用するプーシュキ
ンの演説とか参考になる。
ずーっと体調不良で、レスが遅くなりすいませんでした。もしコンディションよくなったら、まず第
一番にあなたのカキコにレスつけたいとおもってた。 >>231
> 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
> 廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
> これどこで読めるんだろう
国立国会図書館デジタルアーカイブでは? ぼくはぎゃくに紙の書籍が目の関係でダメなんだけど、だから
キンドルや青空でさがすけど。ぼくが少年時代にはたいがいの図書館には(東京ですけど)かならず
中村百葉訳のトルストイ全集がありましたが!
これもたぶんみんなとぎゃくで「新訳のたぐいは受けつけない」古い言い回しじゃないと純文学読んでる気がしないちゅーのもありますW
もともと母親といっしょに読み出した純文学が芥川ほか、明治大正昭和初期のころのが多かった。 > 1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
西洋的な肉体と霊を立て分けるかんがえ。仏法の色心不二の反対か。
> やっぱりトルストイは直球というか正道というか、ほんとに宗教者と感じる
言わんとすること良くわかりますW
> ドストエフスキーは宗教者と言われると何かの違和感すら感じる
> それでもドストエフスキーの方がなんか惹かれるものがあるんだよね
しかし、カラマーゾフ中のゾシマの遺訓は? >>233
いずれ誰もが死ぬと分かった時に自殺まではいかなくても、なんだか生きることが嫌になってしまったり怠惰になってしまうことはあるんじゃないかな
曰く、精神的な自殺とは生の堕落ととも言えると感じる
自分は紙で読みたい派なんです
もちろんまだ幸いなことに目に問題がないから言えるだけなんだけどね ドストスレだけど、トルストイのいう死の先駆について面白い箇所がある
ロシア人が書いたとは思えないくらいとても東洋的
古い東洋の寓話の中に、草原で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。
猛獣から逃れて、旅人は水の涸れた古井戸の中へ逃げ込んだ。
が、彼はその井戸の底に、彼をひとのみにしようと思って大きな口をあけている一ぴきの竜を発見した。
そこでこの不幸な旅人は、怒り狂う猛獣に一命を奪われたくなかったので、外へ這い出ることもできず、
そうかと言って、竜に食われたくもなかったので、底へ降りて行くこともできず、仕方がなくて、中途のすき間に生えている野生の灌木の枝につかまって、そこにかろうじて身を支えた。
が、彼の手は弱って来た。
で彼は、井戸の上下に自分を待っている滅亡に、まもなく身をゆだねなければならないことを感知した。 それでも彼はつかまっていた。
とそこへさらに、黒と白との二ひきの鼠がちょろちょろとやって来て、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲をまわりながらこれをかじりはじめたのである。
もうじき灌木はかみ切られて、彼は竜の口へ落ちてしまうに違いない。旅人はそれを見た。
そして自分の滅亡が避け難いものであるのを知った。
が、しかも彼は、そこへぶら下がっているそのわずかな間に、自分の周囲を見まわして、灌木の葉に蜜のついているのを見いだすと、いきなりそれを舌に受けて、ぴちゃりぴちゃりと嘗めるのである。
──私もまたこの旅人のように、私を牙にかけようと思って待ち構えている死の竜の避け難いことを知りながら、生の小枝に掴まっているのだ。
そして私は、何でそんな苦悩の中へ落ち入ったかを知らないのだ。
私もまたいままで自分を慰めてくれた蜜を嘗めてみる。──が、その蜜はもうこの私を喜ばせてくれない。そして白と黒との二ひきの鼠は、日夜の別なく、私のつかまっている生の小枝をがりがりと齧る。
私はまざまざと竜の姿をまのあたり見ている。
だから蜜ももう私には甘くないのである。
私の見るのはただ一つ、──避け難い竜と鼠だけである、──そして私は彼らから目をそらすことができないのだ。これは決して単なる作り話ではない。
まさしくこれは真実の、論じ合う余地のない、全ての人が知っている真理なのだ。 竜に対する恐怖をまぎらせていた生の喜びといういままでの欺瞞は、もはや私を欺くことができなかった。お前は人生の意義をさとることができないのだ、考えずにただ生きよ、とどれほど自分にいってみても、私はそれをあえてすることができない。
過去においてあまりにも久しくそれをくり返して来たからである。今や私は、たえず私を死の方へ引きずりながら駆けて行く日々夜々を見ずにはいられない。
私はこれのみを見つめている、なぜなら、これのみが唯一の真理で、その他のすべてはみな欺瞞だからである。
他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、二滴の蜜──家族に対する愛と、私が芸術と名づけている著作に対する愛──さえも、もはや私には甘くないのである。
『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、やはり人間である。彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、偽りの中に生きて行くか、さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。
一体なぜ彼らは生きなければならないのか?またこの私は何のために彼らを愛し、いたわり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?
私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、あるいはまた痴呆状態に導くためか?私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。
──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、彼らをこの真理へと導いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!』
トルストイ『懺悔』 >「悪霊」におけるキリーロフの神と民族に関する議論の方がまだマシであって
ドストエフスキーの演説はこれよりも後退しているんだよ
>人間は死ぬ
だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
もし、小手先で考えた思弁なら、これほどの影響があるはずがない。 トルストイ『懺悔』
初めて読ませてもらいました。ディスプレイの横書きの白い文字が黒い背景から
飛び出してくるような感覚を味わった。これは「死の先駆」とよばれているの?
>>238
------------------------------------------------------------------
> 『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、
やはり人間である。彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、
偽りの中に生きて行くか、さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。
> 一体なぜ彼らは生きなければならないのか?またこの私は何のために彼らを愛し、いた
わり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?
> 私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、あるいはまた痴呆状態に導くためか?
私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。
> ──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、彼らをこの真理へと導
いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!』
------------------------------------------------------------------
普通の人々なら「家族がいるから」「友人がいるから」と書くところを
トルストイは欺瞞であると書いた。釈迦が青年時代、親も子も妻も捨てて旅立ったように。
彼は底しれない絶望と惑乱に陥っているように見える。 いま、トルストイにあるのは痛ましい絶望感なのか? この追いつめられたような感覚は
どこから来たのか? 彼は死への恐怖と不安を、
>他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、
二滴の蜜──のひとつである芸術によって表現している。それはギリギリの戦いだった。
そうだ...... 彼はまだ今この瞬間も蜜を嘗めている。
絶望を彼の芸術表現によって極限まで描き、それを現在と未来の読者のために提示するこ
とによって、この踏み絵をふんで、それを通じて「真理」に至れ、というのだ。
ぼくは無根拠につぎのように類推したい── トルストイは「死の恐怖を超えた」と。ま
たは、最後の瞬間に「死が怖くなくなった」はずだと。
人生の最後の瞬間を「臨終」と呼ぶ。「ひとは生きてきたようにしか死ねない」と聞く。
仏法で「臨終正念」と説かれる。「臨終正念」たらんために、長い、膝を屈する修行を送
る。
青年期、壮年期において、凡夫たるぼくらは「死ぬ瞬間の準備のために、今を生きる」な
どかんがえもしない。ところが現にトルストイは、強くこのことに固着している。
痛ましくも「家族への愛」すら欺瞞だと説きつつ。
ここでフッと、ぼくの頭の中に、カラマーゾフ中の ドストエフスキーのあの言葉が浮かん
でくる。 ほかでもない、神は再びヨブを奮起せしめて、再び彼に富を与えたのである。こう
してさらに数多の歳月が流れて、もう彼は新しい別な子供らの親となり、その子供
らを愛することとなった。ところが人は『ああ、なんたることだ! 以前の子供らがい
なくなったのに、以前の子供らが永久に奪い去られたのに、どうして彼はこの新し
い子供らを愛することができたのか? どんなに新しい子供らが可愛く思われるに
もせよ、以前の子供らのことを思いだして、前と同じように十分な幸福を味わい得
るだろうか?』ところが、それが可能なのである。大いに可能なのである。昔の悲し
みは人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな感激に充ちた悦びと変わってゆく。
若い時の湧き立つような血潮のかわりに、つつましく晴ればれとした老年が
訪れるのである。私は日々の日の出を祝福し、私の心は依然として朝日に向かっ
て歌を歌うけれども、しかしどちらかというと、むしろ入日の方を愛する。斜めにさす
夕日の長い光線を愛する。それを眺めているうちに、静かな、つつましい感激に充
ちた追憶や、懐かしい人のおもかげなどが、長い祝福すべき生涯の中から 甦ってくる、
――そうしたすべてのものの上に、人を感激せしめ和解せしめ、かつ一切を許す
神の真理がさし昇るのである! 私の生涯はまさに終わらんとしている、それは自
分でも分かっている。しかし、わずかに残れる日の訪れごとに、私の地上の生活が
既に新しい、限りない、まだ知られない、とはいえ近く訪れるべき生活と、相触れ
んとしているのが感じられる。その生活を予感すると、私の魂は歓喜に震え、知性
は明らかに輝き、感情は喜悦に 咽び泣くのである。......
-----------------------
トルストイの重いコントラと このドストの穏やかなプロは 一体不二ではないか?
表裏ではないか? 重苦しい絶望をくぐり抜けて、はじめてこの境地を得るのでないか?
このふたりのロシヤが生んだ大詩人が希求したところはある一点において共通している。
そうであるから、ふたりとも共通の結果を得るはずだと―― ぼくは考えるのだ。
そして、ドストエフスキーとトルストイに限らない。われわれは誰でも信仰さえあれば
彼らと同じ境地に立てる。それが「どういう信仰なのか?」と疑念に陥りもしよう。 ここでぼくは そのことについて触れない。
「ただ信仰によって」とだけ端的に書く。
トルストイやドストエフスキーのごとく芸術的迫真性で思想や感情や叙事詩について
語れなくてよい。必要なのは「信仰のみ」によって死と絶望を乗り越えた人々のものがたりだ。
最後の最後に勝つひとたちの言葉を聞かなければならない。
追伸。
OSがおかしくなっちまった!直さないといけないが、このレスをつけるほうが大事だ。価値があると
考えて書きました。この青臭い文の底に隠された思いを汲み取ってください。 >>242
トルストイとドストエフスキーの類似と比較がよく分析してあるね
個人的に分析してみるとこうなる
トルストイは死を見つめ、一旦はすべてが嫌になるが、国民と共にある信仰が最後に残される
生に関わるすべてあらゆる物事は相対的になる
それらはあらゆる条件、時代、国家等で変わってしまう
けど彼にとって、信仰するという主観とその信仰されている神の存在は唯一、時間と色々な条件に属すことなく絶対的な非時間性を持っているように思えた
トルストイの信仰には、必要なものが確かにそこにあった
それは死を見つめた時に自覚させられる虚無感と失望
一方でドストエフスキーはこういう
飛び越えるかどうかは知らないけど、無神論者は有神論者の一つ下の段にいると
ある意味で思考に法則なんてものがあるのならば、そこには順序が出来ていて、まるで階段のようになっていて、その階段は死で舗装されていて、もし超えられれば真理みたいなものに辿り着けるのかもしれない
だけどこれは2大作家の場合で、可もなく不可もないような凡人の自分に与えられている段差は何でどのくらいのものなのかはまったくわからないけどねw みんなやっぱりトルストイも読んでるの?
自分は大昔に新潮文庫辺りは全部読んだけど今はもう読まない。
やはりキリスト教的道徳臭がキツくて嫌になる。 第3 イリューシャの埋葬 アリョーシャの弔辞
(要約)
アリョーシャは部屋へはいった。白いひだつきのレエスで飾られた空色のひつぎの中には、
両手を組み合わせ、眼を閉じたイリューシャが横になっていた。その顔はやつれていたが、
死ぬ前とほとんど変わりがなかった。そして、ふしぎなことには、死骸からほとんど臭気
が発しなかった。
顔には厳粛な物思わしげな表情が浮かんで、十文字に組み合された、さながら大理石で刻
んだような手は、ことに美しく見えた。
その手には花が持たせてあった。それに柩の内側も外側も、きょう早朝リーザ・ホフラコ
ワが送って来た花で一面に飾られてあった。そのほかカーチャからも花が贈られていた。 >>246
> やはりキリスト教的道徳臭がキツくて嫌になる。
気持ちはよくわかりますw 裁判官がしぬ瞬間を描いたあの中編を読みました?
道徳として読むのではなく、19世紀当時そして今でも「自分は穏健なキリスト教徒」だと
(知らんけどw)諸外国では そう表明することは常識人・社会人としてとうぜんのこと
と聞きます。
ところがそうした人々(これはもちろんキリスト教批判ではありません。日本でも原理は
いっしょです)がその宗教の教えをどこまで現実のものとして、肉体化?してるでしょう
か?
カラマーゾフ中でアリョーシャの少年時の誓いとして
>聖書にも、『もし 完からんと欲せば、すべての 財宝(たから)を 頒ちて我の後より来
たれ』といってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は「すべて」の代わり
に二ルーブリ出し、「我の後より来たれ」の代わりに、 祈祷式へだけ顔を出すようなこ
とはできない。』
とある。
トルストイには狂信のそしりを受けようとも、全世界全人類へむけてモラルを説く情熱が
あった。
トルストイの欺瞞への怒り、死という絶望を乗り越えたいという叫びは、先の引用を読め
ば明らかなように、腹の底か ら湧いてくるよ うな、魂を引き裂 くよ うな感情であった。
寝不足で文がねじれてるけど、何が言いたいかわかりにくいだろうけど!
それともうひとつ。
宗教と道徳はまったくの別物ですよ。あなたは(わたしは)キリスト教を信じていないか
ら道徳と感じる。宗教というのは「行動」です。「なぜその教えがあるのか?」をつかむ
のは宗派の中に属して皆と行動をともにしなければ、ぜったいに体得できません。 >>245
> 買っちゃえ!新しいのw
Linuxとパソコンが趣味で膨大な時間を取られている。なかなか、こっち来れない。
OS の一部が壊れたくらいでいちいちマシン買ってらんないWWW 修復するの。 >>246
読書として、むしろガッツリ宗教色が強い作家も時たま読みたくなる瞬間があるよ
そういう時にトルストイはもってこいの作家です
だからこそ嫌になる気持ちもわかるけどね
ちなみにトルストイのいう欺瞞の考え方は好き
キリスト教会は迷信と恣意的な欺瞞が入りこんでしまっているけど、その教会なくしてキリスト教そのものは存在しなかったと書いている
歴史は常に前提に重ねて築かれていく
前提がなくなればその後もなかった、みたいな
批判は批判だから正教会とから破門される異端だけどね
天才なんてどこかおかしいからしょうがないんだけどねw
https://jp.rbth.com/arts/2015/02/24/52101 >>250
> 読書として、むしろガッツリ宗教色が強い作家も時たま読みたくなる瞬間があるよ
> そういう時にトルストイはもってこいの作家です
> だからこそ嫌になる気持ちもわかるけどね
戦争と平和はその宗教色が濃くないね。カラマーゾフも宗教色が濃いのに、なぜ嫌にならんのかな? トルストイばアンナカレーニナくらいしか読んでないな
小説自体よりレーニンの読解が面白い >>251
>カラマーゾフも宗教色が濃いのに、なぜ嫌にならんのかな?
先に断りを入れておく
個人の感覚としての抽象と独断でならば説明がつく気がする、だから断定するけどあくまで個人の感想です
トルストイはキリスト論の中で人間論を語っている
だから彼にとって言葉は見出すものではなく守るものになる
言葉と真理はすでに外にあって揺るがす事はなく、その中で人間がどう生きるべきかが最善なのか、を語る
この外にあたるものこそキリストに他ならない
それはすべての人間はーーと言い切れる根拠でもあり、だからその普遍的な語り方に拒否してしまう要因でもあると想定しているよ
まるでお手本見ているような感覚におちいるね
ドストエフスキーは人間論の中でキリスト論を語る
言葉や真理はすでに内にあって、その個人との関係において見出して身につけていくものとした
あくまで持っている本来のものを思い出していくことになるし、だからそのには相反する葛藤が書かれる
人間には神聖な性質がすでに誰もが持っていて、それを思い出すことや見出すこと、その最上にあるのがキリストでありキリストの言葉であるとした
だけど真理は普遍的であるとするが、それは各個人とキリストとの関係において個々のものであるとし、人間は同じところを目指すが手法はバラける、という個の世界観がつよい
キャラクターがみな主人公並みに濃いのも頷ける
受け入れやすさはここにあるのでは?と個人的には思うのです 遊戯王の台詞だったかな
「人は真理を目指して生きるのではなく、人が生きるところに真理は在るのです」 >>253
トルストイについてはじつはほとんど読み込んでいない。だからコメントを避ける。
だが、とても正しく書けていると感じる。ただし、本文の引用がなく、この深夜のアタマでは
理解しづらい部分が多い。その上で印象に残ったのは
> 言葉や真理はすでに内にあって、その個人との関係において見出して身につけていくものとした
> あくまで持っている本来のものを思い出していくことになるし、だからそのには相反する葛藤が書かれる
> 人間には神聖な性質がすでに誰もが持っていて、それを思い出すことや見出すこと
この部分であり、日蓮の「観心本尊抄」の「末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずる人は人界に仏界を具足する故なり」という言葉だ。
「言葉や真理」「神聖な性質」という語句を「仏界」置き換えればだ。 さくらという 極限に美しき 薄紅色のあの花びらが
醜くゴツゴツとした あの桜の木の なかに備わっていると誰が信ずるのか?
しかし、縁に触れてたしかに出生(しゅっしょう)するのだと。
それと同じことだ―― と日蓮は仏界の生命が我らあさましき凡夫の生命のなかに
内在することを教えた。
当時の人々は、釈迦や仏という極限に清らかにして力強き生命に、われわれなどがなれるはずがないと
理解していた。 ぼくも初めて読んだトルストイはアンナカレーニナだ
とはいえ その良さを理解できなかったし途中まででやめた
翻訳のせいもあろうし、なにより「自分の人生経験が足りないからか」とも感じる。
だいぶんたって、戦争と平和を、ついに最初の読みづらい貴族の夜会のところを突破すると
... それはたいへんな読書体験であった!(しかし半分以下でやめたw )
文学であろうが、映画であろうが、「偉大な作品と目されているもの」について、「こんなもの!」とか
言うのはたいへんバカげている。これだけはアドバイスできる。
古典というか「時代を超えて、地域文化を超えて継承されてる文化遺産というのは、とてつもない」ものだけです。
さあ、寝る予定時間をおおはばに超えた。脳が壊死ww おやすみ! パリの大聖堂が赤赤と燃えた
燃えるはずなき石造の
典雅を極めた建築が灰燼となった
それはなぜだ?
キリスト教は邪宗だからだ! フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
池田大作先生が極楽浄土から仏罰を下したのでしょう
公明党に仇なすすべての国々に呪いあれー! >>259
> フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
きみの言うとおりだ。フランスは大謗法国家である。仏罰であることはまちがいない。
世界広しといえど我らの健気な同志をいじめ抜いたのはフランス国だけだ。
初めて意見があったなw おやすみ 法華経を信ずるものをバカにしイジメたものには
恐ろしい罰がある
このことだけは教えておかないといけない
冗談でふざけて仲良しでウソでイジメただけで
心の中では仲良しだったとする
それでも、とてつもない罰がある バフチンか
いずれ手を出そうと思ってた本だ
思い出しついでに本屋に行ったら気にしよう ノートルダム大聖堂を破壊した仏罰こそ法蓮華経であり、僕ら創価学会の信仰の力によるものです。
したがって法蓮華経とは破壊であり、あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
ゾシマ長老の生まれ変わりである池田先生は、あの世で「永遠の命」を得て森羅万象を創造し、
その代弁者である僕もまた神仏に等しい存在なのです。
ドストエフスキーも晩年はキリストを見限り、日蓮大聖人の弟子になったと思います。 神がいないならば、僕がかみである、であるならドスト読書として分からなくもないが
いつから君は無神論者になったのだいw 神がいないのではありません。神と合一するのです。
マイスター・エックハルトをご存知でしょうか?
自己を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
(要約)
最初に認識すべきは、権力が集団を前提とすることだ。
個人が個人であることを止めたとき、はじめて権力は生じる。
君は《自由は隷従なり》という党のスローガンを知っているだろう。
この逆も言えると考えたことはないかね? つまり《隷従は自由なり》ということだ。 (続き)
ひとりでいる――つまり自由でいる、このとき人は必ず打ち負かされる。
それは必然というべきだろう。人は寿命か何かで死ぬ運命にあり、死は敗北の中でも致命的な敗北だからね。
しかし組織や集団に対する無条件の完全なる服従ができれば、自己とアイデンティティーを完全に脱却することができれば、
すなわち自分=池田大作になるまで創価学会そのものになれれば、その人物は全能で不死の存在、つまり永遠の命となる。
無数にいるクローン人間のような学会員のひとりとなれば、その中の一部に過ぎない肉体が死んだとしても、他の肉体が生きていれば自分が生きているに等しいからだ。 繰り返しますが、ゾシマ長老の生まれ変わりである池田大作先生が死ぬことなどありえません。
池田先生は神と合一し、キリストとなり、「永遠の命」を得たのです。
創価学会をカルト認定するフランスの邪教寺院には仏罰が下り、日蓮は仏界の道理を示しました。
創価学会は全世界に信者を持ち、特段に多い国のひとつが韓国です。
韓国人が公明党を裏切った安倍晋三の靖国神社を放火したのは、色心不二の表れに過ぎません。
法蓮華経とは破壊であり、あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
何を根拠にこれを断言するのかという問いに対しては、「ただ信仰によって」とだけ端的に答えておきましょう。
では!
――あなたの、明日を、新しく 生まれ変わりの意味は?
「俺は悟空の生まれ変わり」とかあるのか? >>270
自由と罪のイデアについて反論するつもりでいたけどやめとく
エックハルトとの引用とか、ビックブラザーとか読んでいて面白いとおもったからw
だけどテオーシスから政治も話につなげるのは無理があるきがするよ
合一によってもし自己自身から逃れることが出来て、個我の放棄が出来るならば、人の不幸に寛容になるのが必然だと思うよ
だって個我の喪失には国籍も党派もないはずだから
弁証法的に寛容とは綜合という意味が含まれなければならない
そういう意味で彼らのアイデンティティが燃えてしまったことは嘆かわしい事だと思います >>265
> ノートルダム大聖堂を破壊した仏罰こそ法蓮華経であり、僕ら創価学会の信仰の力によるものです。
常識で考えなさいよw ノートルダム大聖堂を破壊したのは単なる火事でしょ?それと法蓮華経ってなんだ?
「妙法蓮華経」でしょ。創価学会のひとたちが、 ノートルダム大聖堂なんか相手にすると思う?
あれは観光地であり、清水寺みたいなもんでしょ?
地域の「幸福責任者」であり「先駆者」であるのがわたしたち。
いつでも、どこでも、誰でも、
目の前に苦しんでいる人がいれば、
親身に声を掛ける。
悩みを聞き、共に泣き、
共に祈り、共に喜び合う。
この「一人を大切にする」
人間主義の行動が、
あらゆる人に
無条件に開かれているところに、
創価学会が
世界に広がった理由があるのだ。
「一対一」の粘り強い対話で
勝ち得た信頼は、
何ものにも揺るがない。(池田大作先生 四季の励まし 2018年3月25日) >>265
>あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
仏法とは希望の異名です
> ゾシマ長老の生まれ変わりである池田先生は、あの世で「永遠の命」を得て森羅万象を創造し、
お前は「生まれ変わり」ということに執着してるが、そんな証明もできないたわごとをホザクのは
邪教・幸福の科学かなんかの信者だろう? いくら口真似だけしてもダメなんだ。
ぼくはイヴァンで、おまえはスメルジャコフだWWW
お前の最後は自殺か発狂だ。これは定まっている、これはまちがいないWWWW
> その代弁者である僕もまた神仏に等しい存在なのです。
代弁者もなにもない。仏とは学会員のことであり、おれは仏だ。
> ドストエフスキーも晩年はキリストを見限り、日蓮大聖人の弟子になったと思います。
たぶんドストは大聖人を知らなかっただろうね。
もし知っていたとしても、それを受け入れる下地は彼にはなかった。だが、彼の偉大さは変わらない。
このことはおいおい証明していくよ。 日本がひどい目にあったとしたらそれは仏罰?
結局負けたら宗教も負けるのか >>275
いやそれは違う。勝てなくても負けないことが仏法正義の証明だ。
負けて負けて... それでも自分に打ち勝つ。
東日本大震災で命を失ったとしても、正義の心はだれにも破壊できないと、池田先生は
仰せだよ!
仏罰はなんのためにあるのですか? 懲らしめて苦しめるためではない。
親が子を鞭打つのと同じです。励まし鍛え、強くするためです。
過去世・現在世の悪業を叩き出し、こんぜにおいて仏の境涯を獲得するためです。
先生はゾシマ長老の生まれ変わり? ゾシマは小説中の登場人物。先生は実在の大衆指導者。
先生は凡夫です。われわれ創価学会員もひとり残らず凡夫です。凡夫のままに偉大な人生を歩みたいと
願った。さいしょはそんなこと「偉大な人生」など考えもしない。ある日、ふと気づく。
これしかありえない!創価学会の人生しかありえない!ほんとうに良かった。幸福であった!
いまも幸福ですと。 ID:vOnRUWr8は創価学会の末席を汚す出来損ないですが、
池田先生はこのような面汚しの舎弟にも門徒を開き、創価の光を照らし続けています。
日蓮大聖人の教えは三千世界の仏敵を粉砕し、勝利に次ぐ勝利を重ね、
反抗する者は自殺か発狂へと追い込み、魂をその罪から救済しているのです。
東日本大震災では「我亡き後に洪水よ来たれ」と驕る俗人に仏罰を与え、我欲を洗い流し、民衆に個我を放棄させ、
すべてを失い真っ白に清められた脳髄に大作先生のマントラ(真言)をたっぷりと注入し、多くの人々を仏道へと導きました。
大事なことなのでもう一度だけ書きましょう。
個を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
(要約)
ぼくらに仏罰を下された異端者は、苦痛のあまり悲鳴を上げ、意気阻喪し、卑しむべき姿に成り果てる。
そして遂にはすっかりと悔い改め、自分自身の意志を失い、自発的に創価学会に救いを求めてくる。
それこそが僕らが池田先生と共に掲げる『人間革命』なのだ。
勝利に次ぐ勝利、布教に次ぐ布教。限りなくどんどん動員をかけて公明党を議席を増やすのだ。
どんな未来が待っているのか、君もようやく分かりかけてきたようだな。
しかし創価学会の本質を理解するだけに甘んじてはならない。君は最後にはそれを受け入れ、歓迎し、その一部になるのだ! >>277
> ID:vOnRUWr8は創価学会の末席を汚す出来損ないですが、
見抜いてるねWW スメルジャコフの言うとおりぼくは創価のできそこないだW だがひとたび
言論戦に打って出たときは、この地上のいかなる大天才にも負けることはない。それが創価の宿命だからだ。
> 池田先生はこのような面汚しの舎弟にも門徒を開き、創価の光を照らし続けています。
> 日蓮大聖人の教えは三千世界の仏敵を粉砕し、勝利に次ぐ勝利を重ね、
>
> 反抗する者は自殺か発狂へと追い込み、魂をその罪から救済しているのです。
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ここまではおおむねあっている。ここまで読んだかぎりではきみはあるいは学会員かも知れないと感じる。
> 東日本大震災では「我亡き後に洪水よ来たれ」と驕る俗人に仏罰を与え、我欲を洗い流し、民衆に個我を放棄させ、
> すべてを失い真っ白に清められた脳髄に大作先生のマントラ(真言)をたっぷりと注入し、多くの人々を仏道へと導きました。
だが「マントラ」だの不気味な用語をつかうし、やはり邪宗の回し者とわかる。
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> 個を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。
「永遠の命」を得るかは知らんが、ある重要な真理をついてるね。そしてこのことは「宗教の本質」の一部でもあると思う。 >>278
> 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
読んだよ。うーむ。。。どうやらきみは「求めている者」らしいな。
ほんとうは学会に入りたいんだね? だが、懐疑に打ち勝てない。このまま一生それを続けるのかっ?
疑ったままでいいから やってみたらどうだ?? 青年らしく!
君のせいで創価スレになっちゃってるじゃねーかっ!! ここはドストスレだぞ?わかってんのかっ?
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW いいか?勘違いすんなよ
自殺だの、発狂だの書いたのは、おまえが哀れだからだ!
真実に目覚めろ。自分を欺き続けるのか? 確信が欲しくないのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています