ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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>>277
> ID:vOnRUWr8は創価学会の末席を汚す出来損ないですが、
見抜いてるねWW スメルジャコフの言うとおりぼくは創価のできそこないだW だがひとたび
言論戦に打って出たときは、この地上のいかなる大天才にも負けることはない。それが創価の宿命だからだ。
> 池田先生はこのような面汚しの舎弟にも門徒を開き、創価の光を照らし続けています。
> 日蓮大聖人の教えは三千世界の仏敵を粉砕し、勝利に次ぐ勝利を重ね、
>
> 反抗する者は自殺か発狂へと追い込み、魂をその罪から救済しているのです。
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ここまではおおむねあっている。ここまで読んだかぎりではきみはあるいは学会員かも知れないと感じる。
> 東日本大震災では「我亡き後に洪水よ来たれ」と驕る俗人に仏罰を与え、我欲を洗い流し、民衆に個我を放棄させ、
> すべてを失い真っ白に清められた脳髄に大作先生のマントラ(真言)をたっぷりと注入し、多くの人々を仏道へと導きました。
だが「マントラ」だの不気味な用語をつかうし、やはり邪宗の回し者とわかる。
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> 個を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。
「永遠の命」を得るかは知らんが、ある重要な真理をついてるね。そしてこのことは「宗教の本質」の一部でもあると思う。 >>278
> 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
読んだよ。うーむ。。。どうやらきみは「求めている者」らしいな。
ほんとうは学会に入りたいんだね? だが、懐疑に打ち勝てない。このまま一生それを続けるのかっ?
疑ったままでいいから やってみたらどうだ?? 青年らしく!
君のせいで創価スレになっちゃってるじゃねーかっ!! ここはドストスレだぞ?わかってんのかっ?
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW いいか?勘違いすんなよ
自殺だの、発狂だの書いたのは、おまえが哀れだからだ!
真実に目覚めろ。自分を欺き続けるのか? 確信が欲しくないのか? 誰だかが言っていた、バフチンのドストエフスキーの詩学を今日本屋でたのんできた
待ち遠しいが、文庫で1600円は高いよー 一八四七年に社会主義者といえば、一方では、さまざまな宗教的体系の信奉者たち、
すなわちイギリスのオーエン派、フランスのフーリエ派をさしていたが、このどちらも、すでに死滅しつつあった。
他方では、社会主義者とは、種々雑多な《ヤブ医者》のことであって、不幸をもたらす現実の原因を変革せずに、
上から目線の美辞麗句と得体の知れぬ言葉遊びの説教および精神論によって世の中を救済すると称していた連中であった。
『空想から科学へ』 F.エンゲルス 世の中に不幸な人がいないとき、人々を救済すべく使命を担った宗教は存在意義を失います。
逆に創価学会が世界に羽ばたき、勢力を拡大するには何が必要でしょうか? それは救済を必要とする哀れな人々です。
救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人たちに仏罰を与え、
自殺か発狂へと追い込み、自発的に神仏に救いを求めるように導かなくてはなりません。
ゆえに全ての仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
既存のアイデンティティーを完全に破壊し、綺麗真っ白に「リセット」してこそ、僕らは仏道の慈悲を与えることができ、
「日蓮大聖人の教え」以外に善悪の基準を持たない「完全なる信仰」へと至ることができるのではないでしょうか!
これは「キリスト教が目指す理想」にも通じる話であり、池田大作先生が「永遠の命」を得たことの何よりもの証明となります。
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チホン神父「完全な無神論者は、完全な信仰に至る最後の階段に立っています」(『悪霊』) 初めての痴漢は中二の時ですね
電車で遊びに行った時、すごく混んでて身動き取れなくて触られた
そんなことが自分の身に降りかかるなんて考えたこともなかったから固まってました
このときはお尻を触られたくらいだった
この頃から男性不信気味になった(そんなにひどいわけじゃない)
2回めは高一の時
電車通学でお尻を触られました
10分くらいずっと触られて、怖くて固まって泣きそうになりました
3回めは2回めの一週間後くらいで、また通学時です
後ろから押されて、目の前にいたイケメンサラリーマンにくっついたままになってたら、腰を撫でられ、スカートの中に手が入ってきたと思ったら、お尻を撫でられたり揉まれたりした
イケメンなのにこんなことするの!?って怖くて怖くてどうすることもできなかったです
とりあえずここまで。 >>285
ずいぶんがんばってキッチリ説明してるじゃないかっ
> 世の中に不幸な人がいないとき、人々を救済すべく使命を担った宗教は存在意義を失います。
> 逆に創価学会が世界に羽ばたき、勢力を拡大するには何が必要でしょうか? それは救済を必要とする哀れな人々です。
> 救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人たちに仏罰を与え、
9割がた いい事が書いてあるね。しかしここで はたと膝を打つ。一大疑問が沸き起こったからだ。
>救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人
とは
誰のことだ? そういうひとはいるのかね? たとえばトルストイは大貴族の家に生まれ、
人類の教師として在世中から世界的名声を博した。それなのに、信仰と救いを求めたのはなぜだ?
>救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人
というものが実在していたとしても、それは人生における瞬間的なものじゃないか? >俗人たちに仏罰を与え、
自殺か発狂へと追い込み、自発的に神仏に救いを求めるように導かなくてはなりません。
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われわれは仏罰など与えない。与えるのは仏であり御本尊です。自殺か発狂へと追い込むのではなく、
君らは自然にそうなる。理由は法華経を信じず、法華経を信ずるものを誹謗するからです。
いまぼくが書いていることは、ふつうの学会員さんは「ぜったいに言わない」なぜか?
君ら哀れな無信仰者や邪宗のメンバーを救うのが、われわれの目的だからです。そして現実問題として
学会に入信して幸福となる。あるいは幸福への確かな羅針盤を得る。入会させるためには「地獄へおちる」
といったたぐいのことを言って「はい、わかりましたっ」っていいます?君のようによけい反発するだけでしょ?
ここは2ちゃんです。リアルの人間関係ではない。だから「本当のことを、己心のありのままを」書くのだ。
ぼくは究極的には、このやり方がいちばんあなたの生命に刺さると信じてそうしてるのだ。 >>285
あとは、略す。君は学会批判などして なんの得になるのかね?
自分自身が「どんな信仰、どんな理想」持つか開陳したらどうかね? そう、われわれは仏罰など与えません。
僕らはただ「自殺しろ、発狂しろ」と願い、「そうあれかし」と他人の不幸を御本尊に祈るだけです。
御本尊は創価学会に歯向かい、維新の会に投票した者や哀れな異端者に呪いをかけ、
彼らは苦痛のあまり悲鳴を上げ、意気阻喪し、卑しむべき姿に成り果てる。
それこそが僕らが池田先生と共に掲げる『人間革命』なのです。
故に法華経とは呪いであり、あらゆる仏道は「他人の不幸は蜜の味」にも通じています。
そして無信者は遂にすっかりと悔い改め、自分自身の意志を失い、自発的に創価学会に救いを求めてくる。
しかし彼らを呪い、苦しめ、地獄に落とすのはあくまで仏道に救済するためなのです。
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もしこの書き込みを無信者による「遠回しな嫌味」だと解釈するのであれば、それは不信の表れです。
確信が欲しくないのですか? 信ずることがたいせつなんです。ある立脚点に立つことが。
政局であれば「どんな場合も公明党が正しい」という立脚点です。
僕は池田先生に「殺せ」と一言命じられれば、誰であろうと迷わずに殺る。
絶対的幸福とは、そういうことなのではないでしょうか? 幸福とは無知な認識である、とするならばその通りだね
よく頭がお花畑なんてバカにするけど、時にお花畑の人生なんてとても本人は幸福だろうと思う
と、書いていて思い出した言葉は、無知は力なりだったw
Big brother is watching you ! オブライエンびいきで読めばピカレスク小説の傑作ですな 傑作は置いといて、風刺文学をよんでいて面白いと思った感情に似たものがあるw 日本全体が経済破綻などにあって、日本全体が仏罰を受けたとしたらどうなる?
戦前は廃仏毀釈運動があって仏教排斥してたからそれが仏教隆盛のきっかけになった
でも次起きたらどうなる?
全ての宗派が仏罰を受けたことになるのかな 人間は神すらも人間にしたてあげてしまった
理解できない存在は不安とおそれをまねくからね
罰もまた同じくそうする
この不幸な出来事が果たして何なのか、偶然なのか、運命なのか、罰なのか、もしくは恵なのか
罰と理解しようとすることはできても、それが罰だったと理解することはできないよね
だって分からないのだから >>294
>>295
ひじょうに重要な問をありがとう。 >日本全体が経済破綻などにあって、日本全体が仏罰を受けたとしたらどうなる?
自分が仏罰を受けた場合:
「これは神様が私たちに与えてくださった試練です。神様は乗り越えられる試練しか与えません!!」
他人が仏罰を受けた場合:
「不信者&異教徒ざまあwwwメシウマwwwww天罰だぁーーーーwwwwwwwwwww」
これが宗教者の心理です。その本質は自分に対する節度の無い甘さにあります。 人間は理解できない存在を神に仕立て上げて納得しようとする
理解できない存在は不安とおそれをまねくからね
大昔は災害が部族の死活問題だったので、それを生贄の儀式でそれを防ごうとした
(ドストエフスキーの『悪霊』にもその議論が少し出てきます)
みんな"神"という共通の単語を用いるが、実際には各々が最も強い関心を持ってるものを
勝手に神と呼ぶので、神に対する論争はまるで前提からして話がかみ合わないと相場は決まっている
歴史学・宗教学の基本 ドスの影響で人生変わった?
それ以外でも文学によってそんな体験したひと多いのかな?
自分はどうなんだろ?意識してないレベルで影響受けてるのかな? >>299
本は自己を写す鏡である、と仮説したらどうだろうか
本来理解できる事は既に知っている事だけになる
先にも言ったけど、理解しようとする事と理解できるという事は質的差異がまったく違う
何が違うのかと問えば、意志の介在の有無がある
よく磨かれた鏡がある、そしてその反対に合わせ鏡が置いてある
鏡に写った人間が何に驚くのか、共感するのか、悲しむのか、嫌悪するのか、喜ぶのかを見ている
見ている者とは自己であり、見られてる者とは自己自身であるならば、自己自身が何を思うのか本によって確かめられることになる、そして合わせ鏡とは措定する第三者になる
これが本ということになる
本を読むことで他人の声が紛れこむ
そこには理解しようとする第三者の意志が入りこみ、その第三者を理解しようとする自己自身の意志が見えてくる
この私が何を思うのかではなくて、この私自身が何を思っているのかをこの私が眺めることが出来る、と言える
自らの意志を1人で眺めることが読書とも言える
その過程を、影響を受けたとか変わった、と呼んでもいいと思うよ
実際ぼくもそうだしw
そしてドストエフスキーは個々のキャラが強いから、誰か1人くらいは共感するヤツがいるよねw >>300
>そこには理解しようとする第三者の意志が入りこみ、
➡︎
そこには自分の理解をこえた第三者の意志が入り込み、
でした 俺の魂の中で、もはや俺の全存在を凌駕してしまったある状況に対する恐ろしい思慕の念が強まっていった。他でもない、それは俺の心をとらえた、この世界の中どこでもすべてはどうでもいいのだという確信であった。
ずっと以前にそのことは予感していたのだが、それが去年突然に完全な確認となって現れたのだ。俺は突然、世界が存在しようがしまいが、どこに何もなかろうが、そんなことは俺にとってはどれもみなどうでもいいことなんだ、と感じたのだ。
俺は自分の存在をもって、俺には何一つなかったということを知り、感じ始めたのだ。
おかしな男の夢の部分で、自殺前の人間の描写と書かれている
キリーロフ の自殺前と似ているね
それにしてもバフチンのドストエフスキーの詩学を読んでるんだけど思ったより難しい… >>295
汎神論において、おそらくみんなが神とよんでいる神は同じですよ
太古の人の災害も、勝利の女神なんてのも、現代人にとっての宇宙や太陽だって同じ
災害が神なのではない、手に負えないような必然性や自然の法則を神と呼んでるにすぎない、と思うのです
ぼくのいう理解できない神を人間にしたてあげてしまった神、というのは人格を持つ神のことを言っています
神を神人ではなく人神にしてしまった、という意味です
イワンが肯定的にも否定的にも決着できなかった、善悪と裁きと救いを与える神、という意味ですね >>302
俺の魂の中で、もはや俺の全存在を凌駕してしまったある状況に対する恐ろしい思慕の念が強まっていった。他でもない、それは俺の心をとらえた、この世界の中どこでもすべてはどうでもいいのだという確信であった。
ずっと以前にそのことは予感していたのだが、それが去年突然に完全な確認となって現れたのだ。俺は突然、世界が存在しようがしまいが、どこに何もなかろうが、そんなことは俺にとってはどれもみなどうでもいいことなんだ、と感じたのだ。
俺は自分の存在をもって、俺には何一つなかったということを知り、感じ始めたのだ。
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またまた、またしても! きみは美しい引用文で俺を誘う。俺は歓喜する。青春の感覚だけが
体験の一瞬を切り取るのか? ふつふつとライヴァル心が湧く。「よし、俺ならもっと美しい詩を
引いてくるぞ」と。 キリーロフの人神論て、食欲や生存本能・死の恐怖などに囚われなければ
自分の心は自分で決めることができ、したがって自分の心の神は自分であるて話だよね? 人間は所詮は猿の進化系として猿の動物的本能の名残を基礎として
仲間を大事にするだとか、逆に潜在的にメスを奪う身近なイケメンに対する敵意だとかそういう心理が働くんだけど、
そういった煩悩から自由になると、善悪の基準とか、何かに対する意欲を白紙から心の中だけで作ることはできないんだよね
その辺はマルクスとか唯物論の方がきっちり説明できていると思うけど、
ドストは何故か宗教が無ければ駄目なんだみたいな結論に無理矢理に至る >>303
艦コレでも犬でも猫でもいいけど
人間はなんでも擬人化してしまうものよ >>304
> 俺の魂の中で、... 略
以下の引用ですが、ぼくもこうした感覚を体験したことがあるような気がする。完全に同じではないような気はするが。 俺は疲れているわけではなかつた
そんなことは皆どうでもよいのだつた
ただある壮大なものがしづかに傾いているのであつた
戦争中、戦争を謳歌してた連中が、速攻「民主主義の宣教師」になった。
それでいいんだ! おまえたち庶民はマルクス主義の世になればマルクス主義になびき
維新の世になれば維新になびく。それだけのことなんだ。 正しくないから公明党は負けたのだよ
つまり驕る創価学会に仏罰が下った >>310
> 正しくないから公明党は負けたのだよ
> つまり驕る創価学会に仏罰が下った
素直なもの
優しいもの
誠実なもの
穏やかな愛
そして愛と死
それが僕の好きなものなんです!!
ですから、究極的には、創価も公明も維新もどうでもいいのだと
正しい正しくないではないんです
僕の好きな僕のたいせつなひとたち。先生。同志。あるいはネット上で出会うひとかけらの善意
でも、僕にとっては大切なものなんです。
南無妙法蓮華経とは、この世界と宇宙へのぼくのラヴレターです。 >>305
そうです、生の本質とは苦痛とみなしたキリーロフです
「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。今は苦痛と恐怖ばかりですよ。
いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。
いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。
いまの人間はまだ人間じゃない。
幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。
苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる。」
その時人間は自由になるといったキリーロフです
「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です。」
だから自殺するキリーロフです
「最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。
その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神です。」
自殺しないためにも、自分自身を神のように頼るのは危ういことなのかもしれません
曰く、それこそ自己自身の絶望です 都合が悪くなると話をすり替えるのが日蓮大聖人の教えなんですね 思うんだが初期キリスト教とか創価も
信者は敬虔で悪さしないようにしてて
一部の人間が暴動や極端な行為をやるようにして
その責任を悪さしないやつになすりつける、みたいな感じで成り立ってたんじゃないだろうか そうなのかもしれないね
そしてほとんどの集団がそういう一面を持っている 人神とか背伸びして大袈裟な言い回しするから混乱しがちだけどさ、
自分の気の持ちようというあまりに小さな話なんだよな
唯心論的にはそれが天地創造の神と繋がるんだろうけど 意外と知られてないけど病院の手術
病気の程度の大小に関係なく、手術患者の手術着の下は全裸だからな
全身麻酔なり局部麻酔なりを打って手術スタートすると、呼吸確保なりなんなりでまず胸元丸出しにさせられるならな
高確率で尿道に管を通されるので下半身も丸出しにさせられる
手術室には多くのスタッフがいて、手術する先生や助手は必死かもしれんが、筆記記録するだけのスタッフもいる
それと動画撮影もされている
記録という意味もあるが万が一のトラブルが起きた時の証拠としても残す必要がある
まとめると、長時間に渡って全裸を大勢にガン見され、映像も残されているのです キリーロフもイワンもラスコリニコフも反抗だったんだと思う
人は関係から逃れられない
最初の人間から最後の人間まで、自分と係る関係は存在したしこれからもそれは続く
人は他者に与えられる部分と自分が持っている部分の均衡で平安を保ち、それが傾けば不安におちいる
ではその他者とは何なのか
イワンもキリーロフも知っていたのだろう
絶対的な他者とは地上には存在しない
地上にあるものを基礎にするならばすべてが相対的になる
ならば神か
しかし反抗する、まるで親に癇癪を起こす子供のように
キルケゴールの言葉を借りれば、
「永遠者へと自己を結びあわせるべきであることを意識していながら、この永遠者が本来の自己を恵み与えてくれるかどうか不確実であること、
このような不確実なものとのかかわりのために現実の自己を否定しなければならないということに腹を立てて、反抗的に自我を固執し、
自我を絶対視してその上に傲慢に居直るのである。
ここで、自我の殻への自己閉鎖性は絶頂に達する。」
曰く、強い絶望ですね
ドストエフスキーはこの反対に、絶望的自我に閉じこもらなかったものも書き出している
それは、アリョーシャ、ゾシマ、そして何より売春婦という環境にありながらもそう在り続けたソーニャ
ただ最後に疑問があります
なぜ絶望から抜け出す方法をしっていながら、反抗という絶望を、イワンもキリーロフも留まることを選んだのだろうか?
この辺はまだ読みが甘いようですw 「反抗」とは「決してひざまずかない」こと
現実に対して、この世界に対して、この世界を作った神に対して
革命は、暴力に行き着き、権力を求める
反抗は、平和的であり、反権力である
ただ、決して現実をこの世界を受け入れない
カミュは、こういう「反抗的人間」の代表としてイワン・カラマーゾフを上げて詳しく分析している >>314
> 一部の人間が暴動や極端な行為をやるようにして
> その責任を悪さしないやつになすりつける、みたいな感じで成り立ってたんじゃないだろうか
創価学会の場合、具体的にそんなことがあったのか? まったく具体例があげられていなくて、
自分にとっては意味不明。 >>315
> そうなのかもしれないね
> そしてほとんどの集団がそういう一面を持っている
これもまったく意味不明。しつれいながら。具体例を摘示して書いてないから。 >>321
> 「反抗」とは「決してひざまずかない」こと
> 現実に対して、この世界に対して、この世界を作った神に対して
> 革命は、暴力に行き着き、権力を求める
革命とは→暴力であり権力である
という方程式を既定のものという偏見の枠組みがきみの脳髄に出来上がっている。そうではないんだ。
ぜったい平和だ。だれひとり犠牲にせず、幸福の連帯を築き上げるのが、われら創価学会である。
これを人間革命という。
> 反抗は、平和的であり、反権力である
> ただ、決して現実をこの世界を受け入れない
> カミュは、こういう「反抗的人間」の代表としてイワン・カラマーゾフを上げて詳しく分析している
個人主義的な考えが強すぎ。イワンが現実世界において善をなさない、そのゆえんたるべきか。 創価学会はもうあきらめろ
お前は完全に論破されたんだ >>323
彼が言ってるのは単純に権力者への批判ということでないかな
どの団体も、末端にいる人たちはただ自分が善く生きることに目指していて、宗教なら自分の信仰を強めること、政治団体なら票の獲得に協力するとか、そしてまず第一に従うことに専念する
歴史的に、異教徒に戦争をする決定も政治的な革命も、決定できる権力者が決定している(というより末端には出来る権限がない)し、そもそも宗教も政治も歴史とは権力者争いの記録でしかない
学会の組織についてはまったくしらないけど、キリスト教の歴史については多少は具体例をあげられるよ
キリスト教による異教徒弾圧として、もっとも有名なのは、歴史上、中世ヨーロッパの十字軍の遠征がある
表向きは聖地エルサレムのイスラム諸国からの奪還であるが、実態は西方・東方同士のキリスト教に対する権力争いであり、自らの勢力を拡大しようという政治的な野望である
キリスト教徒による「正義の戦い」という大義名分は、指導者の「政治的野心」を神聖化するための方便として用いられ、虐殺の命令は末端つまり民衆によって行われる、云々
これもその一面にはならないかな
>>314
>信者は敬虔で悪さしないようにしてて
>一部の人間が暴動や極端な行為をやるようにして
>その責任を悪さしないやつになすりつける、みたいな感じで成り立ってたんじゃないだろうか >>324
少し違う立場で話をするよ、あなたとは歴史がある
だから批判ではなく、個人的な意見を偽りなく伝えた、と受けてほしい
もし君がその信仰のために、他にも生活や人との関係のために、創価学会が大切ならばその通りにいくのも悪いことだとは思わない
それでも一つ言いたいのは、ドストエフスキー読者としての個人的な意見だけど、宗教と政治は相入れることはないという考えは結構大事なことになる
積極的に信仰につくなら、出来るだけ政治的な行いには消極的になるべきだと思うよ
おそらく組織に属しする以上は課されている義務があって、現実的には難しいんだろうけど
宗教とは、無限性なるもの、永遠という時間のないもの、形而上的な天上を目指すことが本質になる
政治とは、どれだけ現実的で物質的か、それだけ現実化できるかの形而下の地上で実現可能な行為の見える形で実現することが本質となっている
もしそうならハッキリと言えることがある
宗教の反対語は政治なのだと
だけど個人的な考えだから、反論がわくのも当たり前だろうけど、こういえば少しは伝わるじゃないかな
曰く、大審問官は政治的でありキリストはどこまでも宗教的であったと
そしてこれは大審問官のテーゼの一部でもある >>326
表向きは聖地エルサレムのイスラム諸国からの奪還であるが、実態は西方・東方同士のキリスト教に対する権力争いであり、自らの勢力を拡大しようという政治的な野望である
キリスト教徒による「正義の戦い」という大義名分は、指導者の「政治的野心」を神聖化するための方便として用いられ、虐殺の命令は末端つまり民衆によって行われる、云々
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みんなが、この十字軍のようなことを書きたい、ということはもちろんわかっていた。
ぼくはあえて聞いたのだ。きみのように、ある程度の説得力をもって主張を書きうる人間がいることを
知っていたからだ。ただし、これについては、こう反駁する。
「きみの十字軍理解は、歴史教科書的理解であると」それに参加した、喜びと悲しみをもったじっさいの
人間を捨象している。ちょうど創価学会と同じです。外部にいる人間は権力争いだとか、政治的野望とか
そういう方面へと抽象化することしか知らないし、できない。
少なくともこのぼくが体験した学会は、カラマーゾフの兄弟に描かれたゾシマやアレクセイや民衆の世界
であり、それを遥かに凌駕するものでした。
信仰に生きるということは「よく生きる」ための唯一の道です。むしろこのことがカラマーゾフの兄弟の
根幹のテーマだと理解している。 そうかもしれないね
なんでも理性的に抽象化しようとするのはぼくの悪い癖なんだと自覚はあったりもするw でもドストエフスキーって何でも原理的に語ろうとしないですか
誰かがレス言っていたけど、本の影響とはこのことかw >>327
シェークスピアについて。巻末の解説においてこういう文を読んだことがある。
「シェークスピアが何を語ったかは重要ではない。シェークスピアがどう語っかが重要だ」と。
それと同じことです。きみには、人格の香気が文から感じられる。それはカキコの内容それ自体より
重要です。
なぜなら、我らの目的は論理的文を書くことではなく、相手をやり込めることではなく、人格力によって友情をはぐくむことだからなんです。
> それでも一つ言いたいのは、ドストエフスキー読者としての個人的な意見だけど、宗教と政治は相入れることはないという考えは結構大事なことになる
> 積極的に信仰につくなら、出来るだけ政治的な行いには消極的になるべきだと思うよ
ぼくも ドストエフスキー愛読者として「カラマーゾフの兄弟」から引用して、「そのことはちがうんだよ」
ということをお知らせしたい。しかし、こんどにする。夜遅いからねw
> おそらく組織に属しする以上は課されている義務があって、現実的には難しいんだろうけど
とんでもない見当違いです。究極的な誤解ですw 義務でやってるのではない。ひじょうに内発的な「仏道修行」としてやっているし、究極的には、選挙より大事なのは相手との友情と信頼の構築です。そのための選挙です。
ぼくらが頼むのは「好きな相手」「信頼する相手」です。
今夜も、すばらしい文をありがとう。 学術さんは
「読書」と「センズリ」とでは
どちらが好きですか?
おれは「まんこ舐め」が大好きです(テヘ センズリはさておきポルノやAVエロサイトは性障碍者だから見るよ。 股間に据えた花火が根元で爆発したら子供が出てきました。
にょうチューヴをとったら尿道が血だらけで子供が出てきました。 大審問官における政治と宗教の問題は
地上の生活、つまりパンの事情から
形而上的な宗教の論理を捻じ曲げたことへの批判であり
この考えは懐疑主義的無神論が根底にある自己欺瞞の所産に過ぎない
福音書中でイエスが憎むのはこういう現実主義的宗教理解であり
それはドストエフスキー作品でも変わらない
しかし社会行為である伝道から政治性を排除することは不可能である
問題は信仰の純粋性を確保した上での伝道であり
カソリック的な天上/地上という使い分けから生じる
信仰の分裂とそこから生じる懐疑と虚無(社会主義もその一種)の克服が
作者の念頭にあったのだと思う
ゾシマ長老の死とアリョーシャの受けた天啓と世俗への回帰はその答えであり
かかる意味合いでカラマーゾフはやはり一定水準の解答を提示した
非常に完成度の高い作品であることは疑いえない ドストエフスキーは「面白いから」キリスト教信仰者の女に体を売らせるのだ
ただそれだけだろう 信心深いソーニャが処女を乱暴に犯され、イケナイと思いつつも快楽堕ちして
最後はアへ顔ダブルピースをキメるんにゃろ?
ヤポンスキーの考えそうなこった! もしすべての人が信仰を持っているとしたら、どこからそれを
得たのでしょう?
ある人の説によりますと、すべてこういうことは、はじめ自然界の
恐ろしい現象に対する恐怖の念から起こったもので、神だの来世だのというものは
ないのだそうでございます。
ところで、わたくしの考えますに、こうして一生涯信じ通
して、死んでしまえば急に何もなくなってしまって、ある文士のいっているように、『た
だ墓の上は 山 牛蒡が生えるばかり』であったら、まあどうでございましょう。恐ろしい
ではありませんか!
一体どうしたら信仰を呼びもどすことが出来ましょうかしら?
もっとも、わたくしが信じていましたのは、ほんの小さい子供の時ばかりで、そ
れもなんの考えなしに機械的に信じていたのでございます......どうしたら、本当に
どうしたらこのことが証明できましょうか、
今日わたくしはあなたの前にひれ伏して、
このことをお訊ねしようと存じまして、お邪魔に上がったのでございます。だって、もし
この折りをのがしましたら、もう一生涯わたくしの問いに答えてくれる人がございませ
んもの。どうしたら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られましょうか?
わたくしは全く不幸せなのでございます。じっと立って周りを眺めましても、みんな大抵ど
うでもいいような顔をしています、今の世の中に誰一人そんなことを気にかける人
はありません。それなのに、わたくし一人だけ、それが堪らないのでございます。本
当に死ぬほどつろうございます!」 このつぎのゾシマの答えは大事だ
どの程度大事かというと、これは「カラマーゾフのすべて」がただ一語に集約されているのだ 「それは疑いもなく死ぬほど辛いことですじゃ! しかし、このことについて証明とい
うことは所詮できぬが、信念を得ることはできますぞ。」
「どうして? どういう方法なのでございます?」
「それは実行の愛ですじゃ、努めて自分の同胞を実行的に、怠りなく愛するように
してご覧なされ。その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の
不死も確信されるようになりますじゃ。もし同胞に対する愛が完全な自己否定に
到達したら、その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も
あなたの心に忍び入ることはできません。これはもう実験を経た正確な方法じゃで
な。」 >>337
しかし社会行為である伝道から政治性を排除することは不可能である
問題は信仰の純粋性を確保した上での伝道であり
カソリック的な天上/地上という使い分けから生じる
信仰の分裂とそこから生じる懐疑と虚無(社会主義もその一種)の克服が
作者の念頭にあったのだと思う
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了解。 五 アーメン、アーメン
より
「この人の至極珍しい論文の話をしておるところでございます。」図書がかりの僧ヨシフ
がイワンを指さしながら、長老に向かってこう言った。「いろいろ新しい説が述べてあり
ますが、根本の思想はあいまいなものでございます。この人は教会的社会裁判とその権利
範囲の問題について、一冊の書物を著したある聖職者に答えて、論文を雑誌に発表された
ので......」
「残念ながら、わしはその論文を読んでおりませんじゃ。しかし話はかねがね聞いており
ましたよ」と長老は鋭い眼つきでじっとイワンを見つめながら答えた。
「この人は、きわめて興味ぶかい観点に立っておいでです」と図書がかりの高僧は語をつ
いだ。「つまり、教会的社会裁判に関する問題において、国家に対する教会の分離を
ぜんぜん否定しておられるらしゅうございます。」
「それは珍らしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイワンに訊ねた。 イワンはとうとうそれに返事をした。が、その調子は前夜アリョーシャの心配したように、
上から見下したようないんぎん無礼な態度ではなく、つつましく控え目な用心ぶかい
所があった。 底意らしいものは少しもなかった。
=================================================================================
イヴァンはなぜ「いんぎん無礼ではなく、つつましく控え目な用心ぶかい」態度だったのでしょう? それではイヴァンの説明を聞きましょう。
>宗教とは、無限性なるもの、永遠という時間のないもの、形而上的な天上を目指すことが本質になる
政治とは、どれだけ現実的で物質的か、それだけ現実化できるかの形而下の地上で実現可能な行為の見える形で実現することが本質となっている
もしそうならハッキリと言えることがある
宗教の反対語は政治なのだと
というあなたの考えと照らし合わせてみてください 「ぼくはこの二つの分子の混同、すなわち教会と国家というべつべつな二つのものの混同は、
むろん、永久につづくだろうという仮定から出発したのです。
もっとも、これはありうべからざることで、ノーマルな状態どころじゃない、いくぶんたりとも調和し
た状態に導くことすらできないのです。
なんとなれば、その根本に虚偽が横たわっているからです。
たとえば裁判のような問題における国家と教会との妥協は、純粋な本質からいって不可
能なのであります。
僕が 論駁を試みた僧侶の 方の断定によれば、教会は、国家のなか
に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、僕は反対に、教会こそ自
己の中に国家全体を含むべきであって、国家の中にわずかな一隅を占めるべきで
はない。たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将
来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大な目的とならなければならぬ、とこう
論駁したのです。」
================================================================================= >>349
せっかく引用まで持ってきてもらって悪いんだけど、酔いがひどいw
いずれ返事は返します >>350
いやいや、ここは直接的に、宗教と政治について、イヴァンの言葉として語られている
わけではない。そのエッセンスを読み取らないとダメなんだ。ここから長い議論が始まる。
その書き出しの引用に過ぎないんだw
ぼくもわからないんだ。むしろ同志諸君にぼくが教えてもらいたいんだ。
ID:ZMAXf40Rさんなら、説明可能だろう。 >>324
創価相手にマジレスしてもしょうがないが、あまりに無知なのでちょっとだけ説明してやる
「革命か反抗か」は、サルトルとカミュの間でかわされた有名な論争だ
上に書いた定義もそれであり、オレの考えでも偏見でもない
革命か反抗かは、現実の社会運動に関る重要なもので、「人間革命」などというマヌケな言葉の遊びとはわけが違うのである
戦後のフランスでは、アルジェリア戦争をめぐって暴力による正義を受け入れるか否定するかは切実な問題であったのである
サルトルは革命を支持し、カミュはあくまで暴力を否定した
そして重要なのは、これは「カラマーゾフの兄弟」でのテーマでもあることである
ドストエフスキーは、ヘッセのように個人の救済のために小説を書いているわけではない
ドストエフスキーに限らず当時のロシアの作家はもっと社会的なのである
農奴解放後のロシア社会の改革が問題であった
書かれなかった13年後の現在の物語では、アリョーシャは、反抗的人間イワンと革命家コーリャの間で揺れ動くはずである
キリストが現在生きていたら革命家になっていただろうとベンリンスキイが書いているとコーリャが言う場面
コーリャ 「キリストは人道的な人格者だったのです。もし彼が現代に生きていたら、それこそ必ず革命家の仲間に入っていて、あるいは華々しい役目を演じたかもしれません、きっとそうですとも。」
アリョーシャ 「ベリンスキイが?覚えがありませんね。あの人はどこにもそんなことを書いていませんよ。」
ここで重要なのは、アリョーシャがベンリンスキイをよく読みこんでいることをドストエフスキーがほのめかしていることである
アリョーシャは、ゾシマの説教をおとなしく受け入れているだけのアホではないということである ベンリンスキイはロシアで最初に社会主義を広めた人物である
ドストエフスキーは、ベンリスキイのゴーゴリー批判の手紙を朗読したかどで逮捕され死刑になりかけた
当時の社会主義に対する意見の対立は、ブルジョワの力による革命か、民衆による革命かであった
前者がマルクス・エンゲルスであり、ベリンスキイである
後者はバクーニンのような無政府主義者やゲルツェンのような農民社会主義者がいる
ベリンスキイよりゲルツェンに近いドストエフスキーの関心は、社会主義と無神論との関係であった
13年後の話ではコーリャが無神論的社会主義を目指すのに対し、アリョーシャはキリスト教的社会主義を目指し、対立することになるはずである
これは最初の方でミウーソフがフランスの公安刑事から聞いた話として既にほのめかされている
「われわれは実際のところ、アナーキストだの、無神論者だの、革命家だのという、あんな社会主義者たちを、さほど恐れちゃおらんのです。しかし、連中の中に、ごく少数とはいうものの、何人か特別なのがいるんです。
それは神を信ずるキリスト教徒でありながら、同時に社会主義者でもあるという連中なんですよ。この連中をわれわれはいちばん恐れているんです、これは恐るべき人たちですよ!
キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりずっと恐ろしいものです。」 あれっ、なぜか「ベリンスキイ」を「ベンリンスキイ」とタイプミスしてるところがあった訂正する >>352
> 「革命か反抗か」は、サルトルとカミュの間でかわされた有名な論争だ
> 上に書いた定義もそれであり、オレの考えでも偏見でもない
なるほど。サルトルとカミュの論争なんですね。詳しいですね。よかったらもっと教えてもらえますか?
> 革命か反抗かは、現実の社会運動に関る重要なもので、「人間革命」などというマヌケな言葉の遊びとはわけが違うのである
「人間革命」とは両義を含むとおもう。そのうちの1義が「現実の社会運動に関る」すなわち環境に
対して変革を加えることと。
このことはいま問題となってる「宗教と政治」の問題をも含むのではあるまいか?
> 戦後のフランスでは、アルジェリア戦争をめぐって暴力による正義を受け入れるか否定するかは切実な問題であったのである
そうでしょうとも。
> サルトルは革命を支持し、カミュはあくまで暴力を否定した
サルトルは革命を支持したという。サルトルはバリケードを築いてポリ公と戦ったのか?
私達の人間革命とは、誤解を恐れずにいえば、ゾシマのいわゆる「実践の愛」に相当するとぼくはおもう。 >>352
> そして重要なのは、これは「カラマーゾフの兄弟」でのテーマでもあることである
> ドストエフスキーは、ヘッセのように個人の救済のために小説を書いているわけではない
=================================================================================
完全同意です。 ここで重要なのは、アリョーシャがベンリンスキイをよく読みこんでいることをドストエフスキーがほのめかしていることである
アリョーシャは、ゾシマの説教をおとなしく受け入れているだけのアホではないということである
=================================================================================
おそらくはベリンスキイであれ、サルトルであれ、それらをよく読み込んでいることが
アレクセイの本質ではあるまい。
アレクセイのアレクセイたるゆえんは、ゾシマの教えを「わが命」としたことであろう。 ISISやオウム見れば分かるが宗教テロはキチガイだからな
ナロードニキの自爆テロも狂ったなやり口で民心が離れた
結局マルクス主義が勝ったしドストエフスキーには先見の明がなかったということだ >>358
> ISISやオウム見れば分かるが宗教テロはキチガイだからな
オニオンさん、ひさしぶりです。そうですね。ISIS には怒りをおぼえたね。
> 結局マルクス主義が勝ったしドストエフスキーには先見の明がなかったということだ
「ドストエフスキーには先見の明がなかった」というのはどうでしょう?
超歴史的に予言的であると、ファンであるぼくは思ってしまう。これはあまりにも高名たるドストエフスキーの名に幻惑されてるに過ぎないんでしょうかね? ぼくは題目をあげなければならない。尊敬する同志諸君。
ドストエフスキーと カラマーゾフの兄弟に対する 無限の愛のゆえに
我らはここに集う。 上のレスで一定の定義はすでに述べました
まとめれば、宗教とは形而上的事物であるという根拠、と、政治とは形而下的事物であるという根拠、これらに基づいて宗教と政治は相容れないとしました
ここにおいて反抗と革命の定義も同意されます
反抗とは自分と神の個人的問題であり、革命とは他者を含む自分と神の全体的問題である、とします(この場合の神とは世界や環境と置き換えても同じ)
我反抗す、ゆえに我らあり、でしょうね
もし反対の場合は、宗教と政治がなぜ混同できるのか聞いてみたいです
あと書かれなかったもう一つのカラマーゾフについて
アリョーシャはおそらくイワンとコーリャの間で揺れ動き、革命家を目指して世俗を翻弄し、最後に問うのだと思います
「キリストに倣うとはキリストのように考えるということならば、果たしてあの磔にされること分かっていながらただ沈黙した人はーーーと、イワンとコーリャはどちらかにーーーと」
だから、同じ理由で反抗と革命もまた別次元の問題で相容れないだろう、という結論かな 反抗は"個人的なもの"、か……。カミュ『異邦人』の主人公がテロをすることもなく、
スカしてるけど敵の好きにされるがまま死刑に臨むのは"イキっても所詮、無力だから"と
見なしてたけど、革命より反抗的な人間を支持するカミュの言い分が気になる あの長い物語をまとめることで色々と省くことになるけど、カミュにとって反抗とはこの世の不条理とどう闘っていくのかということだったと思います
不条理とは死ななければならないという事実です
医者リウーはペストに反抗していたのではなく、区別なく襲う病魔と前触れなく天災に対して闘うにすぎませんでした
彼が闘っているのは病気に対してじゃない、もっと大きなこの世にある悪に「反抗」していたということ、つまりは「ただ跪かないこと」です
跪くか跪かないか、という問題は、自分がどうするか=個人的問題ということです ただ単に暴力に反暴力をあげたのだと思います
だから同じ理由で反殺人のため、どんな悪人にも反死刑を支持しました
革命にはどうしても他人の自由を分け入る必要があって、どこかで暴力か暴力に似た介入が生じてしまう
サルトルはこんなカミュを傍観者でカミュ自体が他人事だから言える、なんて言ってみたり、でまた言い争ったりする
カミュも色々と面白い本ですよ ありがとう、『ペスト』の話ですね
ペストは読んでないけど論点が良く分かりました
私は死という事実に対して「心の中で生きている」みたいなことを言って
現実に反抗する人の気持ちは分かりませんけどね >>365
カミュも同じくそう思ったと思います
だからトコトコ現実に目を据えようとした
死は死で終わる、だから生きている間はトコトコ闘うべきだと
ドストエフスキーは少し違って、不死がないならすべて許される、としています >>361
では、友人である君のためだけに話をしていこう。
> まとめれば、宗教とは形而上的事物であるという根拠、と、政治とは形而下的事物であるという根拠、これらに基づいて宗教と政治は相容れないとしました
=================================================================================
> もし反対の場合は、宗教と政治がなぜ混同できるのか聞いてみたいです
イヴァンカラマーゾフが「混同」と指摘したのは、きみの考えのことなんだよ。「アーメン、アーメン」
の箇所を引用したのも、そのためなんだよ。
宗教とは形而上的事物である」であるが、それが本当の意味で生きた宗教たるゆえんは、形而下つまり
現実生活において、あらゆる形で展開されるものなんだ。裁判も政治も、裁判はある被告の運命を決める。
また、政治は国民生活の7割程度の物質的幸福等を左右する。
先のイヴァンの引用文中、試みに言葉を入れ替えてみる。
>創価学会こそ自己の中に日本国国家全体を含むべきであって、日本国の中にわずかな一隅を占めるべきで
はない。たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将来、創価学会の世界広宣流布の直接かつ重大な目的とならなければならぬ、とこう論駁したのです。」 当然といえばとうぜんですが
>>352
> 創価相手にマジレスしてもしょうがないが、あまりに無知なのでちょっとだけ説明してやる
>「人間革命」などというマヌケな言葉の遊びとはわけが違うのである
学会に対する反感は強い。そのいっぽうで
>革命か反抗か
>暴力による正義を受け入れるか否定するか
>ドストエフスキーは、ヘッセのように個人の救済のために小説を書いているわけではない
ドストエフスキーに限らず当時のロシアの作家はもっと社会的なのである
>キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりずっと恐ろしいものです。」
などを引用しつつドストエフスキーやカラマーゾフの思想に強い敬意を持つている。
きみたちは、西欧的なもの、キリスト教、著名な思想家、西欧的な革命概念には、敬意を示す。
自分で気づいてないだろうが、君らは「西欧かぶれの売国奴」です。そして「現実に民衆を救っているのは
誰なのか?」そこから遊離している。
西欧翻訳古典から学習した思想は脳内に蓄積しているが、それが「実行の愛」となることはない。
だから、結果的に、カラマーゾフの兄弟等の「俗物の登場人物にきわめて近似している」
ゆえに、アレクセイ等の主人公に仮託して描かれた「心に到達することは決してない」 >>263
バフチンのドストエフスキー論のポイントは、「ポリフォニー」と「カーニバル」である
ポリフォニーは、モノローグの対概念で「多重言語、多重音声」のことである
バフチンは、ドストエフスキーをポリフォニー、トルストイをモノローグの代表として対比している
「詩は求心化、モノローグ化する傾向があるのにたいして、小説は脱中心化であり、対話を志向する。
詩人は他者についても自分の言語で語るのにたいして、散文作家は、自己に関しても他者の言語で語ろうとする。」
「単純に見えていたもののすべてが、ドストエフスキイの世界にあっては、複雑で複合的なものとなった。
それぞれの声のなかにかれは議論しあう二つの声を聞き、それぞれの表現のなかに別の対立する表現へとただちに移行する亀裂や構えを聞くことができた。
あらゆる現象が奥深く二義的、多義的であることを感じ取った。しかしこれらすべての矛盾や分岐は弁証法的なものとならなかった。」
「ドストエフスキイ世界にあっては、すべてのひと、すべてのものがおたがいを知っており、接触をし、顔をつきあわせ、おたがいに話しはじめざるをえない。
カーニバル化によって、大きな対話という開かれた構造をつくりだすことができ、人びとの社会的相互関係を高次の精神や知性の領域に移すことができた。
この領域はもっぱら、ロマン派のような単一で唯一のモノローグ的な意識、単一で不可分そして自己自身の内で展開する精神の領域となっていたものである。
カーニバル的世界感覚は、ドストエフスキイが倫理的唯我論だけでなく認識論的唯我論をも克服する手助けになっている。」
「それぞれに独立して溶け合うことのない多数の声や意識、十全な価値を持つ声たちの真のポリフォニーこそ、まさしくドストエフスキイの小説の基本的特徴なのである。
ポリフォニー小説にあっては、声なき奴隷は存在しない。創造者に同意しなかったり、反乱すら起こしかねない声たちがうごめいている。」 「トルストイの世界は一枚岩的にモノローグ的であり、主人公の言葉は、主人公についての作者の言葉によってしっかりと枠づけられている。
主人公の最後の言葉も他者(作者)の言葉の外皮をかぶって示される。
第二の全能なる声は作者の声と並んで、トルストイの世界にはあらわれてこない。
したがって、声どうしの組み合わせの問題や、作者の視点の特殊な置き方といった問題も一切起こらない。
トルストイのモノローグ的に素朴な視点とかれの言葉は、世界の隅々、精神の隅々に浸透しており、すべてを統一している。
つまり、トルストイにあっては、一個の認識する主体があるだけで、あとの残りのものはすべて認識の客体にすぎない。
作者はそれらと語るのではなく、それらについて語る、最後の言葉は作者の言葉である。」
「意識をモノローグ的にとらえる態度は、文学だけでなく他のイデオロギー的創造物の領域でも支配的である。
意味あるもの、価値あるもののすべてが、いたるところで、ひとつの中心(担い手)のまわりに集中している。
すべてのイデオロギー的創造物は、ひとつの意識、ひとりの精神のありうべき表現として考えられ受けとめられている。
意味のあるすべてをひとつの意識のなかに集め、単一のアクセントに従わせようというわけである。」
カルト宗教などはまさに教祖のモノローグの世界である
教祖はポリフォニーを最も恐れ、他の宗派の経典を読むことを禁ずる
信者を脱会させるのが難しいのは、非難されればされるほどモノローグの中に逃げ込み脱出できないようになっているからである
池田大作の『人間革命』などは、まさにモノローグ的作品の典型と言える
だから創価信者は、ポリフォニー小説『カラマーゾフ』を読んでも、長老ゾシマのモノローグ小説としか読むことができないのである >>368
なぜの部分に答えようとしてくれたことに感謝するよ
だから返信もしよう
>宗教とは形而上的事物である」であるが、それが本当の意味で生きた宗教たるゆえんは、形而下つまり
>現実生活において、あらゆる形で展開されるものなんだ。裁判も政治も、裁判はある被告の運命を決める。
>また、政治は国民生活の7割程度の物質的幸福等を左右する。
そもそも形而下の事柄、生活の幸福とか、経済や福祉による豊かさ、物質的幸福の向上は形而下での幸福でしかない
これを形而上的な幸福というものは形而上的という枠を出ないはずだから、物質的幸福はむしろ否定され精神的幸福において話されることになるでしょう
政治を見ているならいつでも政治から始めればいい、というだけのことです
それと一番重要な点ですが、そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ
キリスト教もまた同じくそうでしょう
この世の繁栄ではなく(繁栄教は宗教より哲学に近い、哲学もまた形而下的事物に属する)、この世は渡っていく橋のようなもので、イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
幸福どころか不幸を保証していますね
キリストが言ったことは、神と隣人を愛すること、をただただ強調しました
他人を自分のように愛することができるものこそ、キリスト教で幸いと呼ばれるものになるのかもしれません
トルストイが、ドストエフスキーは仏教やっていればこんなに苦痛にはならなかった、言っています
きっとそういうことなんでしょうね >>370 >>371
ドストエフスキーの詩学読んでいる最中だけど、内容が悟性的で、とてもうまくまとめたね
勉強になります、また気がついた所があったら転載を心待ちにしています
ポリフォニーのわかりやすい例してイワンとアリョーシャを思い出します
アリョーシャがイワンに、殺したのはあなたじゃない、とイワンは動揺する
肯定の言葉はアリョーシャがいう言葉で、イワンには反対の意味に聞こえてしまう
父の死を心で欲していた自分こそが真の殺害者ではないか、という思いから離れられなくなる
同じ声が重なる時、言葉は同じでもその意味は関係によって顔をかえてしまう、みたいな感想をいだかさふぇますね >>373 つづき
だからぼくはこう言ったのです
誤解にならないように厳密に言うならば、宗教につくなら、政治をするなとは言っていないですよ
相いれなくとも現実世界で生きる以上はある程度は消せないので、「宗教につくなら、政治は消極的にやればいい」ということです
そして、消極的が何当たるかは個人の問題です
ただ宗教に向かえば向かうほど政治には無関心になるのではないか、と個人的には予想していますけどね
逆もいえますね、政治に向かえば宗教なんて無関心になる
でも問題はドストエフスキーのいう、あの無神論者でしょうねきっと
キリスト教社会主義なんかを目指していた、当時の有神論的社会主義者というような、フーリエなんて狂人そのものだしw
一旦はドストエフスキーも傾向しているけど >>373
> 政治を見ているならいつでも政治から始めればいい、というだけのことです
宗教と政治は別物とかんがえるその感覚は、わかることはわかります。
> それと一番重要な点ですが、そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ
まったく意味が理解できません。ただし、きみがそう考えていることはわかる。ココまでは「一往」
再往は、「そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ」に完全同意ですw
というのは、わたしたちは日本語という道具をつかって、宗教思想から日常生活まで議論するが、すべてを
掌握するわけではない。
それどころか、「ここにリンゴがある」「食べてみなければ、その味がわかりますか?」というアレのごとく
言葉はいっさいを伝達できない。言葉の伝達できない「事項」や「体験」の核心について、今は問われている。
僕の能力では、あなたに腑に落ちるように説明できないというだけ。ですから、共通教養であるカラマーゾフを
利用する。 =================================================================================
> キリスト教もまた同じくそうでしょう
> この世の繁栄ではなく(繁栄教は宗教より哲学に近い、哲学もまた形而下的事物に属する)、この世は渡っていく橋のようなもので、イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
> 幸福どころか不幸を保証していますね
> キリストが言ったことは、神と隣人を愛すること、をただただ強調しました
> 他人を自分のように愛することができるものこそ、キリスト教で幸いと呼ばれるものになるのかもしれません
> トルストイが、ドストエフスキーは仏教やっていればこんなに苦痛にはならなかった、言っています
> きっとそういうことなんでしょうね
=================================================================================
線で囲った部分。
創価学会の信仰はひとまず置いておきましょう。
以前も議論したことがありますね? > 幸福どころか不幸を保証していますね など
政治と宗教のことも、また同じです。あなたの見えていない別の視点がある、ということです。
別々の人間だから当たり前のことだ。そうじゃないか?
次回ぼくが、「カラマーゾフの兄弟」から具体的に引用して、きみの考えをきくから。
それは議論に勝つことなんかのためじゃない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ジェネレーションにより、その時の僅かな感覚、体調でも物事の受け止め方は変わりうる。
現実は複雑である。ただおれには自信がある。どういう自信かというと、「おれが誠実な人間で」
「創価学会をやってるいるヒトはすばらしい」と君に感じさせる自信がある。
何度でも同じ話をしてあげる。気の遠くなるような粘り強さを示してやる。たとえば
「イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
> 幸福どころか不幸を保証していますね」
というテーマひとつとっても、そこに両義があることを君に確信させてあげる。すなわち、
「不幸を通じて幸福になる」ということだ。そして「信仰とそれに人生をかけた人間は」「究極的な幸福になる」
という「事実」についてだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています