ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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>>326
表向きは聖地エルサレムのイスラム諸国からの奪還であるが、実態は西方・東方同士のキリスト教に対する権力争いであり、自らの勢力を拡大しようという政治的な野望である
キリスト教徒による「正義の戦い」という大義名分は、指導者の「政治的野心」を神聖化するための方便として用いられ、虐殺の命令は末端つまり民衆によって行われる、云々
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みんなが、この十字軍のようなことを書きたい、ということはもちろんわかっていた。
ぼくはあえて聞いたのだ。きみのように、ある程度の説得力をもって主張を書きうる人間がいることを
知っていたからだ。ただし、これについては、こう反駁する。
「きみの十字軍理解は、歴史教科書的理解であると」それに参加した、喜びと悲しみをもったじっさいの
人間を捨象している。ちょうど創価学会と同じです。外部にいる人間は権力争いだとか、政治的野望とか
そういう方面へと抽象化することしか知らないし、できない。
少なくともこのぼくが体験した学会は、カラマーゾフの兄弟に描かれたゾシマやアレクセイや民衆の世界
であり、それを遥かに凌駕するものでした。
信仰に生きるということは「よく生きる」ための唯一の道です。むしろこのことがカラマーゾフの兄弟の
根幹のテーマだと理解している。 そうかもしれないね
なんでも理性的に抽象化しようとするのはぼくの悪い癖なんだと自覚はあったりもするw でもドストエフスキーって何でも原理的に語ろうとしないですか
誰かがレス言っていたけど、本の影響とはこのことかw >>327
シェークスピアについて。巻末の解説においてこういう文を読んだことがある。
「シェークスピアが何を語ったかは重要ではない。シェークスピアがどう語っかが重要だ」と。
それと同じことです。きみには、人格の香気が文から感じられる。それはカキコの内容それ自体より
重要です。
なぜなら、我らの目的は論理的文を書くことではなく、相手をやり込めることではなく、人格力によって友情をはぐくむことだからなんです。
> それでも一つ言いたいのは、ドストエフスキー読者としての個人的な意見だけど、宗教と政治は相入れることはないという考えは結構大事なことになる
> 積極的に信仰につくなら、出来るだけ政治的な行いには消極的になるべきだと思うよ
ぼくも ドストエフスキー愛読者として「カラマーゾフの兄弟」から引用して、「そのことはちがうんだよ」
ということをお知らせしたい。しかし、こんどにする。夜遅いからねw
> おそらく組織に属しする以上は課されている義務があって、現実的には難しいんだろうけど
とんでもない見当違いです。究極的な誤解ですw 義務でやってるのではない。ひじょうに内発的な「仏道修行」としてやっているし、究極的には、選挙より大事なのは相手との友情と信頼の構築です。そのための選挙です。
ぼくらが頼むのは「好きな相手」「信頼する相手」です。
今夜も、すばらしい文をありがとう。 学術さんは
「読書」と「センズリ」とでは
どちらが好きですか?
おれは「まんこ舐め」が大好きです(テヘ センズリはさておきポルノやAVエロサイトは性障碍者だから見るよ。 股間に据えた花火が根元で爆発したら子供が出てきました。
にょうチューヴをとったら尿道が血だらけで子供が出てきました。 大審問官における政治と宗教の問題は
地上の生活、つまりパンの事情から
形而上的な宗教の論理を捻じ曲げたことへの批判であり
この考えは懐疑主義的無神論が根底にある自己欺瞞の所産に過ぎない
福音書中でイエスが憎むのはこういう現実主義的宗教理解であり
それはドストエフスキー作品でも変わらない
しかし社会行為である伝道から政治性を排除することは不可能である
問題は信仰の純粋性を確保した上での伝道であり
カソリック的な天上/地上という使い分けから生じる
信仰の分裂とそこから生じる懐疑と虚無(社会主義もその一種)の克服が
作者の念頭にあったのだと思う
ゾシマ長老の死とアリョーシャの受けた天啓と世俗への回帰はその答えであり
かかる意味合いでカラマーゾフはやはり一定水準の解答を提示した
非常に完成度の高い作品であることは疑いえない ドストエフスキーは「面白いから」キリスト教信仰者の女に体を売らせるのだ
ただそれだけだろう 信心深いソーニャが処女を乱暴に犯され、イケナイと思いつつも快楽堕ちして
最後はアへ顔ダブルピースをキメるんにゃろ?
ヤポンスキーの考えそうなこった! もしすべての人が信仰を持っているとしたら、どこからそれを
得たのでしょう?
ある人の説によりますと、すべてこういうことは、はじめ自然界の
恐ろしい現象に対する恐怖の念から起こったもので、神だの来世だのというものは
ないのだそうでございます。
ところで、わたくしの考えますに、こうして一生涯信じ通
して、死んでしまえば急に何もなくなってしまって、ある文士のいっているように、『た
だ墓の上は 山 牛蒡が生えるばかり』であったら、まあどうでございましょう。恐ろしい
ではありませんか!
一体どうしたら信仰を呼びもどすことが出来ましょうかしら?
もっとも、わたくしが信じていましたのは、ほんの小さい子供の時ばかりで、そ
れもなんの考えなしに機械的に信じていたのでございます......どうしたら、本当に
どうしたらこのことが証明できましょうか、
今日わたくしはあなたの前にひれ伏して、
このことをお訊ねしようと存じまして、お邪魔に上がったのでございます。だって、もし
この折りをのがしましたら、もう一生涯わたくしの問いに答えてくれる人がございませ
んもの。どうしたら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られましょうか?
わたくしは全く不幸せなのでございます。じっと立って周りを眺めましても、みんな大抵ど
うでもいいような顔をしています、今の世の中に誰一人そんなことを気にかける人
はありません。それなのに、わたくし一人だけ、それが堪らないのでございます。本
当に死ぬほどつろうございます!」 このつぎのゾシマの答えは大事だ
どの程度大事かというと、これは「カラマーゾフのすべて」がただ一語に集約されているのだ 「それは疑いもなく死ぬほど辛いことですじゃ! しかし、このことについて証明とい
うことは所詮できぬが、信念を得ることはできますぞ。」
「どうして? どういう方法なのでございます?」
「それは実行の愛ですじゃ、努めて自分の同胞を実行的に、怠りなく愛するように
してご覧なされ。その愛の努力が成功するにつれて、神の存在も自分の霊魂の
不死も確信されるようになりますじゃ。もし同胞に対する愛が完全な自己否定に
到達したら、その時こそもはや疑いもなく信仰を獲得されたので、いかなる疑惑も
あなたの心に忍び入ることはできません。これはもう実験を経た正確な方法じゃで
な。」 >>337
しかし社会行為である伝道から政治性を排除することは不可能である
問題は信仰の純粋性を確保した上での伝道であり
カソリック的な天上/地上という使い分けから生じる
信仰の分裂とそこから生じる懐疑と虚無(社会主義もその一種)の克服が
作者の念頭にあったのだと思う
=================================================================================
了解。 五 アーメン、アーメン
より
「この人の至極珍しい論文の話をしておるところでございます。」図書がかりの僧ヨシフ
がイワンを指さしながら、長老に向かってこう言った。「いろいろ新しい説が述べてあり
ますが、根本の思想はあいまいなものでございます。この人は教会的社会裁判とその権利
範囲の問題について、一冊の書物を著したある聖職者に答えて、論文を雑誌に発表された
ので......」
「残念ながら、わしはその論文を読んでおりませんじゃ。しかし話はかねがね聞いており
ましたよ」と長老は鋭い眼つきでじっとイワンを見つめながら答えた。
「この人は、きわめて興味ぶかい観点に立っておいでです」と図書がかりの高僧は語をつ
いだ。「つまり、教会的社会裁判に関する問題において、国家に対する教会の分離を
ぜんぜん否定しておられるらしゅうございます。」
「それは珍らしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイワンに訊ねた。 イワンはとうとうそれに返事をした。が、その調子は前夜アリョーシャの心配したように、
上から見下したようないんぎん無礼な態度ではなく、つつましく控え目な用心ぶかい
所があった。 底意らしいものは少しもなかった。
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イヴァンはなぜ「いんぎん無礼ではなく、つつましく控え目な用心ぶかい」態度だったのでしょう? それではイヴァンの説明を聞きましょう。
>宗教とは、無限性なるもの、永遠という時間のないもの、形而上的な天上を目指すことが本質になる
政治とは、どれだけ現実的で物質的か、それだけ現実化できるかの形而下の地上で実現可能な行為の見える形で実現することが本質となっている
もしそうならハッキリと言えることがある
宗教の反対語は政治なのだと
というあなたの考えと照らし合わせてみてください 「ぼくはこの二つの分子の混同、すなわち教会と国家というべつべつな二つのものの混同は、
むろん、永久につづくだろうという仮定から出発したのです。
もっとも、これはありうべからざることで、ノーマルな状態どころじゃない、いくぶんたりとも調和し
た状態に導くことすらできないのです。
なんとなれば、その根本に虚偽が横たわっているからです。
たとえば裁判のような問題における国家と教会との妥協は、純粋な本質からいって不可
能なのであります。
僕が 論駁を試みた僧侶の 方の断定によれば、教会は、国家のなか
に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、僕は反対に、教会こそ自
己の中に国家全体を含むべきであって、国家の中にわずかな一隅を占めるべきで
はない。たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将
来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大な目的とならなければならぬ、とこう
論駁したのです。」
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せっかく引用まで持ってきてもらって悪いんだけど、酔いがひどいw
いずれ返事は返します >>350
いやいや、ここは直接的に、宗教と政治について、イヴァンの言葉として語られている
わけではない。そのエッセンスを読み取らないとダメなんだ。ここから長い議論が始まる。
その書き出しの引用に過ぎないんだw
ぼくもわからないんだ。むしろ同志諸君にぼくが教えてもらいたいんだ。
ID:ZMAXf40Rさんなら、説明可能だろう。 >>324
創価相手にマジレスしてもしょうがないが、あまりに無知なのでちょっとだけ説明してやる
「革命か反抗か」は、サルトルとカミュの間でかわされた有名な論争だ
上に書いた定義もそれであり、オレの考えでも偏見でもない
革命か反抗かは、現実の社会運動に関る重要なもので、「人間革命」などというマヌケな言葉の遊びとはわけが違うのである
戦後のフランスでは、アルジェリア戦争をめぐって暴力による正義を受け入れるか否定するかは切実な問題であったのである
サルトルは革命を支持し、カミュはあくまで暴力を否定した
そして重要なのは、これは「カラマーゾフの兄弟」でのテーマでもあることである
ドストエフスキーは、ヘッセのように個人の救済のために小説を書いているわけではない
ドストエフスキーに限らず当時のロシアの作家はもっと社会的なのである
農奴解放後のロシア社会の改革が問題であった
書かれなかった13年後の現在の物語では、アリョーシャは、反抗的人間イワンと革命家コーリャの間で揺れ動くはずである
キリストが現在生きていたら革命家になっていただろうとベンリンスキイが書いているとコーリャが言う場面
コーリャ 「キリストは人道的な人格者だったのです。もし彼が現代に生きていたら、それこそ必ず革命家の仲間に入っていて、あるいは華々しい役目を演じたかもしれません、きっとそうですとも。」
アリョーシャ 「ベリンスキイが?覚えがありませんね。あの人はどこにもそんなことを書いていませんよ。」
ここで重要なのは、アリョーシャがベンリンスキイをよく読みこんでいることをドストエフスキーがほのめかしていることである
アリョーシャは、ゾシマの説教をおとなしく受け入れているだけのアホではないということである ベンリンスキイはロシアで最初に社会主義を広めた人物である
ドストエフスキーは、ベンリスキイのゴーゴリー批判の手紙を朗読したかどで逮捕され死刑になりかけた
当時の社会主義に対する意見の対立は、ブルジョワの力による革命か、民衆による革命かであった
前者がマルクス・エンゲルスであり、ベリンスキイである
後者はバクーニンのような無政府主義者やゲルツェンのような農民社会主義者がいる
ベリンスキイよりゲルツェンに近いドストエフスキーの関心は、社会主義と無神論との関係であった
13年後の話ではコーリャが無神論的社会主義を目指すのに対し、アリョーシャはキリスト教的社会主義を目指し、対立することになるはずである
これは最初の方でミウーソフがフランスの公安刑事から聞いた話として既にほのめかされている
「われわれは実際のところ、アナーキストだの、無神論者だの、革命家だのという、あんな社会主義者たちを、さほど恐れちゃおらんのです。しかし、連中の中に、ごく少数とはいうものの、何人か特別なのがいるんです。
それは神を信ずるキリスト教徒でありながら、同時に社会主義者でもあるという連中なんですよ。この連中をわれわれはいちばん恐れているんです、これは恐るべき人たちですよ!
キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりずっと恐ろしいものです。」 あれっ、なぜか「ベリンスキイ」を「ベンリンスキイ」とタイプミスしてるところがあった訂正する >>352
> 「革命か反抗か」は、サルトルとカミュの間でかわされた有名な論争だ
> 上に書いた定義もそれであり、オレの考えでも偏見でもない
なるほど。サルトルとカミュの論争なんですね。詳しいですね。よかったらもっと教えてもらえますか?
> 革命か反抗かは、現実の社会運動に関る重要なもので、「人間革命」などというマヌケな言葉の遊びとはわけが違うのである
「人間革命」とは両義を含むとおもう。そのうちの1義が「現実の社会運動に関る」すなわち環境に
対して変革を加えることと。
このことはいま問題となってる「宗教と政治」の問題をも含むのではあるまいか?
> 戦後のフランスでは、アルジェリア戦争をめぐって暴力による正義を受け入れるか否定するかは切実な問題であったのである
そうでしょうとも。
> サルトルは革命を支持し、カミュはあくまで暴力を否定した
サルトルは革命を支持したという。サルトルはバリケードを築いてポリ公と戦ったのか?
私達の人間革命とは、誤解を恐れずにいえば、ゾシマのいわゆる「実践の愛」に相当するとぼくはおもう。 >>352
> そして重要なのは、これは「カラマーゾフの兄弟」でのテーマでもあることである
> ドストエフスキーは、ヘッセのように個人の救済のために小説を書いているわけではない
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完全同意です。 ここで重要なのは、アリョーシャがベンリンスキイをよく読みこんでいることをドストエフスキーがほのめかしていることである
アリョーシャは、ゾシマの説教をおとなしく受け入れているだけのアホではないということである
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おそらくはベリンスキイであれ、サルトルであれ、それらをよく読み込んでいることが
アレクセイの本質ではあるまい。
アレクセイのアレクセイたるゆえんは、ゾシマの教えを「わが命」としたことであろう。 ISISやオウム見れば分かるが宗教テロはキチガイだからな
ナロードニキの自爆テロも狂ったなやり口で民心が離れた
結局マルクス主義が勝ったしドストエフスキーには先見の明がなかったということだ >>358
> ISISやオウム見れば分かるが宗教テロはキチガイだからな
オニオンさん、ひさしぶりです。そうですね。ISIS には怒りをおぼえたね。
> 結局マルクス主義が勝ったしドストエフスキーには先見の明がなかったということだ
「ドストエフスキーには先見の明がなかった」というのはどうでしょう?
超歴史的に予言的であると、ファンであるぼくは思ってしまう。これはあまりにも高名たるドストエフスキーの名に幻惑されてるに過ぎないんでしょうかね? ぼくは題目をあげなければならない。尊敬する同志諸君。
ドストエフスキーと カラマーゾフの兄弟に対する 無限の愛のゆえに
我らはここに集う。 上のレスで一定の定義はすでに述べました
まとめれば、宗教とは形而上的事物であるという根拠、と、政治とは形而下的事物であるという根拠、これらに基づいて宗教と政治は相容れないとしました
ここにおいて反抗と革命の定義も同意されます
反抗とは自分と神の個人的問題であり、革命とは他者を含む自分と神の全体的問題である、とします(この場合の神とは世界や環境と置き換えても同じ)
我反抗す、ゆえに我らあり、でしょうね
もし反対の場合は、宗教と政治がなぜ混同できるのか聞いてみたいです
あと書かれなかったもう一つのカラマーゾフについて
アリョーシャはおそらくイワンとコーリャの間で揺れ動き、革命家を目指して世俗を翻弄し、最後に問うのだと思います
「キリストに倣うとはキリストのように考えるということならば、果たしてあの磔にされること分かっていながらただ沈黙した人はーーーと、イワンとコーリャはどちらかにーーーと」
だから、同じ理由で反抗と革命もまた別次元の問題で相容れないだろう、という結論かな 反抗は"個人的なもの"、か……。カミュ『異邦人』の主人公がテロをすることもなく、
スカしてるけど敵の好きにされるがまま死刑に臨むのは"イキっても所詮、無力だから"と
見なしてたけど、革命より反抗的な人間を支持するカミュの言い分が気になる あの長い物語をまとめることで色々と省くことになるけど、カミュにとって反抗とはこの世の不条理とどう闘っていくのかということだったと思います
不条理とは死ななければならないという事実です
医者リウーはペストに反抗していたのではなく、区別なく襲う病魔と前触れなく天災に対して闘うにすぎませんでした
彼が闘っているのは病気に対してじゃない、もっと大きなこの世にある悪に「反抗」していたということ、つまりは「ただ跪かないこと」です
跪くか跪かないか、という問題は、自分がどうするか=個人的問題ということです ただ単に暴力に反暴力をあげたのだと思います
だから同じ理由で反殺人のため、どんな悪人にも反死刑を支持しました
革命にはどうしても他人の自由を分け入る必要があって、どこかで暴力か暴力に似た介入が生じてしまう
サルトルはこんなカミュを傍観者でカミュ自体が他人事だから言える、なんて言ってみたり、でまた言い争ったりする
カミュも色々と面白い本ですよ ありがとう、『ペスト』の話ですね
ペストは読んでないけど論点が良く分かりました
私は死という事実に対して「心の中で生きている」みたいなことを言って
現実に反抗する人の気持ちは分かりませんけどね >>365
カミュも同じくそう思ったと思います
だからトコトコ現実に目を据えようとした
死は死で終わる、だから生きている間はトコトコ闘うべきだと
ドストエフスキーは少し違って、不死がないならすべて許される、としています >>361
では、友人である君のためだけに話をしていこう。
> まとめれば、宗教とは形而上的事物であるという根拠、と、政治とは形而下的事物であるという根拠、これらに基づいて宗教と政治は相容れないとしました
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> もし反対の場合は、宗教と政治がなぜ混同できるのか聞いてみたいです
イヴァンカラマーゾフが「混同」と指摘したのは、きみの考えのことなんだよ。「アーメン、アーメン」
の箇所を引用したのも、そのためなんだよ。
宗教とは形而上的事物である」であるが、それが本当の意味で生きた宗教たるゆえんは、形而下つまり
現実生活において、あらゆる形で展開されるものなんだ。裁判も政治も、裁判はある被告の運命を決める。
また、政治は国民生活の7割程度の物質的幸福等を左右する。
先のイヴァンの引用文中、試みに言葉を入れ替えてみる。
>創価学会こそ自己の中に日本国国家全体を含むべきであって、日本国の中にわずかな一隅を占めるべきで
はない。たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将来、創価学会の世界広宣流布の直接かつ重大な目的とならなければならぬ、とこう論駁したのです。」 当然といえばとうぜんですが
>>352
> 創価相手にマジレスしてもしょうがないが、あまりに無知なのでちょっとだけ説明してやる
>「人間革命」などというマヌケな言葉の遊びとはわけが違うのである
学会に対する反感は強い。そのいっぽうで
>革命か反抗か
>暴力による正義を受け入れるか否定するか
>ドストエフスキーは、ヘッセのように個人の救済のために小説を書いているわけではない
ドストエフスキーに限らず当時のロシアの作家はもっと社会的なのである
>キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりずっと恐ろしいものです。」
などを引用しつつドストエフスキーやカラマーゾフの思想に強い敬意を持つている。
きみたちは、西欧的なもの、キリスト教、著名な思想家、西欧的な革命概念には、敬意を示す。
自分で気づいてないだろうが、君らは「西欧かぶれの売国奴」です。そして「現実に民衆を救っているのは
誰なのか?」そこから遊離している。
西欧翻訳古典から学習した思想は脳内に蓄積しているが、それが「実行の愛」となることはない。
だから、結果的に、カラマーゾフの兄弟等の「俗物の登場人物にきわめて近似している」
ゆえに、アレクセイ等の主人公に仮託して描かれた「心に到達することは決してない」 >>263
バフチンのドストエフスキー論のポイントは、「ポリフォニー」と「カーニバル」である
ポリフォニーは、モノローグの対概念で「多重言語、多重音声」のことである
バフチンは、ドストエフスキーをポリフォニー、トルストイをモノローグの代表として対比している
「詩は求心化、モノローグ化する傾向があるのにたいして、小説は脱中心化であり、対話を志向する。
詩人は他者についても自分の言語で語るのにたいして、散文作家は、自己に関しても他者の言語で語ろうとする。」
「単純に見えていたもののすべてが、ドストエフスキイの世界にあっては、複雑で複合的なものとなった。
それぞれの声のなかにかれは議論しあう二つの声を聞き、それぞれの表現のなかに別の対立する表現へとただちに移行する亀裂や構えを聞くことができた。
あらゆる現象が奥深く二義的、多義的であることを感じ取った。しかしこれらすべての矛盾や分岐は弁証法的なものとならなかった。」
「ドストエフスキイ世界にあっては、すべてのひと、すべてのものがおたがいを知っており、接触をし、顔をつきあわせ、おたがいに話しはじめざるをえない。
カーニバル化によって、大きな対話という開かれた構造をつくりだすことができ、人びとの社会的相互関係を高次の精神や知性の領域に移すことができた。
この領域はもっぱら、ロマン派のような単一で唯一のモノローグ的な意識、単一で不可分そして自己自身の内で展開する精神の領域となっていたものである。
カーニバル的世界感覚は、ドストエフスキイが倫理的唯我論だけでなく認識論的唯我論をも克服する手助けになっている。」
「それぞれに独立して溶け合うことのない多数の声や意識、十全な価値を持つ声たちの真のポリフォニーこそ、まさしくドストエフスキイの小説の基本的特徴なのである。
ポリフォニー小説にあっては、声なき奴隷は存在しない。創造者に同意しなかったり、反乱すら起こしかねない声たちがうごめいている。」 「トルストイの世界は一枚岩的にモノローグ的であり、主人公の言葉は、主人公についての作者の言葉によってしっかりと枠づけられている。
主人公の最後の言葉も他者(作者)の言葉の外皮をかぶって示される。
第二の全能なる声は作者の声と並んで、トルストイの世界にはあらわれてこない。
したがって、声どうしの組み合わせの問題や、作者の視点の特殊な置き方といった問題も一切起こらない。
トルストイのモノローグ的に素朴な視点とかれの言葉は、世界の隅々、精神の隅々に浸透しており、すべてを統一している。
つまり、トルストイにあっては、一個の認識する主体があるだけで、あとの残りのものはすべて認識の客体にすぎない。
作者はそれらと語るのではなく、それらについて語る、最後の言葉は作者の言葉である。」
「意識をモノローグ的にとらえる態度は、文学だけでなく他のイデオロギー的創造物の領域でも支配的である。
意味あるもの、価値あるもののすべてが、いたるところで、ひとつの中心(担い手)のまわりに集中している。
すべてのイデオロギー的創造物は、ひとつの意識、ひとりの精神のありうべき表現として考えられ受けとめられている。
意味のあるすべてをひとつの意識のなかに集め、単一のアクセントに従わせようというわけである。」
カルト宗教などはまさに教祖のモノローグの世界である
教祖はポリフォニーを最も恐れ、他の宗派の経典を読むことを禁ずる
信者を脱会させるのが難しいのは、非難されればされるほどモノローグの中に逃げ込み脱出できないようになっているからである
池田大作の『人間革命』などは、まさにモノローグ的作品の典型と言える
だから創価信者は、ポリフォニー小説『カラマーゾフ』を読んでも、長老ゾシマのモノローグ小説としか読むことができないのである >>368
なぜの部分に答えようとしてくれたことに感謝するよ
だから返信もしよう
>宗教とは形而上的事物である」であるが、それが本当の意味で生きた宗教たるゆえんは、形而下つまり
>現実生活において、あらゆる形で展開されるものなんだ。裁判も政治も、裁判はある被告の運命を決める。
>また、政治は国民生活の7割程度の物質的幸福等を左右する。
そもそも形而下の事柄、生活の幸福とか、経済や福祉による豊かさ、物質的幸福の向上は形而下での幸福でしかない
これを形而上的な幸福というものは形而上的という枠を出ないはずだから、物質的幸福はむしろ否定され精神的幸福において話されることになるでしょう
政治を見ているならいつでも政治から始めればいい、というだけのことです
それと一番重要な点ですが、そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ
キリスト教もまた同じくそうでしょう
この世の繁栄ではなく(繁栄教は宗教より哲学に近い、哲学もまた形而下的事物に属する)、この世は渡っていく橋のようなもので、イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
幸福どころか不幸を保証していますね
キリストが言ったことは、神と隣人を愛すること、をただただ強調しました
他人を自分のように愛することができるものこそ、キリスト教で幸いと呼ばれるものになるのかもしれません
トルストイが、ドストエフスキーは仏教やっていればこんなに苦痛にはならなかった、言っています
きっとそういうことなんでしょうね >>370 >>371
ドストエフスキーの詩学読んでいる最中だけど、内容が悟性的で、とてもうまくまとめたね
勉強になります、また気がついた所があったら転載を心待ちにしています
ポリフォニーのわかりやすい例してイワンとアリョーシャを思い出します
アリョーシャがイワンに、殺したのはあなたじゃない、とイワンは動揺する
肯定の言葉はアリョーシャがいう言葉で、イワンには反対の意味に聞こえてしまう
父の死を心で欲していた自分こそが真の殺害者ではないか、という思いから離れられなくなる
同じ声が重なる時、言葉は同じでもその意味は関係によって顔をかえてしまう、みたいな感想をいだかさふぇますね >>373 つづき
だからぼくはこう言ったのです
誤解にならないように厳密に言うならば、宗教につくなら、政治をするなとは言っていないですよ
相いれなくとも現実世界で生きる以上はある程度は消せないので、「宗教につくなら、政治は消極的にやればいい」ということです
そして、消極的が何当たるかは個人の問題です
ただ宗教に向かえば向かうほど政治には無関心になるのではないか、と個人的には予想していますけどね
逆もいえますね、政治に向かえば宗教なんて無関心になる
でも問題はドストエフスキーのいう、あの無神論者でしょうねきっと
キリスト教社会主義なんかを目指していた、当時の有神論的社会主義者というような、フーリエなんて狂人そのものだしw
一旦はドストエフスキーも傾向しているけど >>373
> 政治を見ているならいつでも政治から始めればいい、というだけのことです
宗教と政治は別物とかんがえるその感覚は、わかることはわかります。
> それと一番重要な点ですが、そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ
まったく意味が理解できません。ただし、きみがそう考えていることはわかる。ココまでは「一往」
再往は、「そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ」に完全同意ですw
というのは、わたしたちは日本語という道具をつかって、宗教思想から日常生活まで議論するが、すべてを
掌握するわけではない。
それどころか、「ここにリンゴがある」「食べてみなければ、その味がわかりますか?」というアレのごとく
言葉はいっさいを伝達できない。言葉の伝達できない「事項」や「体験」の核心について、今は問われている。
僕の能力では、あなたに腑に落ちるように説明できないというだけ。ですから、共通教養であるカラマーゾフを
利用する。 =================================================================================
> キリスト教もまた同じくそうでしょう
> この世の繁栄ではなく(繁栄教は宗教より哲学に近い、哲学もまた形而下的事物に属する)、この世は渡っていく橋のようなもので、イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
> 幸福どころか不幸を保証していますね
> キリストが言ったことは、神と隣人を愛すること、をただただ強調しました
> 他人を自分のように愛することができるものこそ、キリスト教で幸いと呼ばれるものになるのかもしれません
> トルストイが、ドストエフスキーは仏教やっていればこんなに苦痛にはならなかった、言っています
> きっとそういうことなんでしょうね
=================================================================================
線で囲った部分。
創価学会の信仰はひとまず置いておきましょう。
以前も議論したことがありますね? > 幸福どころか不幸を保証していますね など
政治と宗教のことも、また同じです。あなたの見えていない別の視点がある、ということです。
別々の人間だから当たり前のことだ。そうじゃないか?
次回ぼくが、「カラマーゾフの兄弟」から具体的に引用して、きみの考えをきくから。
それは議論に勝つことなんかのためじゃない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ジェネレーションにより、その時の僅かな感覚、体調でも物事の受け止め方は変わりうる。
現実は複雑である。ただおれには自信がある。どういう自信かというと、「おれが誠実な人間で」
「創価学会をやってるいるヒトはすばらしい」と君に感じさせる自信がある。
何度でも同じ話をしてあげる。気の遠くなるような粘り強さを示してやる。たとえば
「イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
> 幸福どころか不幸を保証していますね」
というテーマひとつとっても、そこに両義があることを君に確信させてあげる。すなわち、
「不幸を通じて幸福になる」ということだ。そして「信仰とそれに人生をかけた人間は」「究極的な幸福になる」
という「事実」についてだ。 が、長老は元の席に着いてから、さあ続けて下さ
い、と勧めるように愛想よく一同を見回すのであった。この人の顔のありとあらゆる
表情をほとんど研究し尽したアリョーシャは、
このとき彼が恐ろしく疲れ果てて、強
いて自ら支えているのを明らかに見てとった。近頃彼は力の消耗のため、ときどき
卒倒することがあった。その卒倒の前と同じような蒼白い色が、いま彼の顔に広が
っている。唇も白けていた。
しかし明らかに彼はこの集まりを解散させたくない様子
であった。その上に何かまだ目的があるらしい――が、どんな目的であろう? アリ
ョーシャは一心に彼に注目していた。
=================================================================================
この
>「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別を全面
的に否定しておられるらしゅうございます。」
「それは珍らしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイワンに訊ねた。
論争が始まる直前のゾシマの様子が上です。 ここにベートーヴェンがいたとする。
ベートーヴェンのすばらしい評論家の文があったとする。
バフチンというのは、この評論家とおなじです。
彼自身に「運命」や「第九」をこの世界に生み出す力はない。 むしろバフチンを読むなら、おれの文を読めと、言いたい。
おれの読み方は「自分自身がアレクセイとなる」と措定した読み方だ。
だから「長老は今どんな状態なのか?なにを考えていらっしゃのだろう?」
その描写をアレクセイといっしょになって考えている。 ドストエフスキーがバフチンを読んだとする
「なるほどね... こういう曲芸的な読み方もあるもんですかね...?フフッ!w」とか思うだろう。
次におれのカキコをドストが読む。「おおおお!これぞ我が弟子!!おお神よ! 」と泣くでしょう。
(タイプし過ぎでさいきん右手親指がつっちゃうWWWWWW) (つづき)
「それは全くその通りです」と無口で博学な僧パイーシイは、しっかりした神経質そ
うな声で言った。 「純粋な 法王集権論(ウルトラモンタニズム)
( ラテン語で「山のかなた」の意。イタリアは中央ヨーロッパに対して山のかなたにあるため)
です。」じれったそうにかわるがわる両方の足を組みかえながら、ミウーソフはこう叫んだ。
=================================================================================
注意してください。俗物は、イヴァンに反対します。 無口で博学な僧パイーシイはイヴァンのいうとおりだと。 「なんの! それにロシアには山などないではありませんか!」と図書がかりの僧ヨ
シフは叫んでさらに長老の方を向きながら語を続けた。
=================================================================================
全文を一字もぬかさず、引用中です。
ゾシマとその弟子(高僧たちにとってイヴァンの述べた説は、まったくあたりまえの説であったことが描写される) (ヨシフ)
「この人はいろいろな議論の中に、論敵たる僧侶の(これは注目すべき事実でございます)『根本的かつ本
質的命題』を論駁しておられます。
その命題は第一に、――『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の公民的、並びに政治的権利を支配するの権力を所有するあたわず、かつまた所有すべからず。』 第二に、『刑法的および
民法的権力は教会に属すべきではない。教会は神の制定したるものとして、また
宗教的目的を有する人々の結社として、性質上かかる権利と両立することを得ず』
最後の第三は、『教会はこの世の王国にあらず。』というのでございま
す......」 =================================================================================
「聖職者にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイは我慢しきれないでまた
口を出した。
=================================================================================
(我)ここでまたひとこと。あなたが正しいとか、おれが正しいとか、そういうことではない。
「どちらも正しくどちらもまちがっている」と言ったところだろうW
まず、オリジナルの「カラマーゾフの兄弟」に展開されている描写を、如実に、ありのままに読んでみようよ? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>371
>すべてのイデオロギー的創造物は、ひとつの意識、ひとりの精神のありうべき表現として考えられ受けとめられている。
>意味のあるすべてをひとつの意識のなかに集め、単一のアクセントに従わせようというわけである。
だから支配的になりやすい、ということですね
コーリャ的革命よりもイワン的な反抗の方が憐憫を感じる 話を進める為におそらく次は、幸福とは何か、不幸とはどういうことか、を考えないとになりそうだ
頭が疲れるよーw
GWだからマッタリ銭湯でも行こうかな
でも混んでそう… 出しゃばりな創価学会は沈黙せよ
迷惑老人の自分語りなんか誰も聞きたくはない
非才が駄文連投で良いレスを流すな
創価が本家地元でどれだけ嫌われてるか知らんのか >>391
相手してやりたいけどごめんなw
マジで右手親指が痛くてw あと平成最後で忙しいWWWWWW >>390
> GWだからマッタリ銭湯でも行こうかな
> でも混んでそう…
行ってきなよWW パソコンカチャカチャばかりはカラダに悪いぜ
ちなみにおれは「平成を総括し感謝し、レイワへの勝利を願い題目で、残りの2時間半を過ごす」 >>349
訳をかえると分かりやすいよ
とりあえず自分なりに書いてみました
本をもう一度見直してはいないので、間違いがあったら訂正してください
「ぼくの出発点になりましたのは、教会と国家というこの二つの要素、つまり、二つの個別の実態の混淆状態は、いうまでもなく、永遠につづくだろうという仮定です。
実を言えば、そういう混淆状態はありえないはずのものだし、もともとそういう事態の根底に虚偽が潜んでいるのですから、それを正常化することはおろか、
一応の妥協状態にもって行くこともけっしてできないはずなのですがね。
たとえば、裁判というような問題についての国家と教会との間の妥協は、ぼくに言わせれば、そのもっとも完全にして純粋な本質からいって、不可能です。」
つまり国家と教会は、誰かの手で繋げようとこれからもしていくだろう、とイワンは言う
イワンはそれに付け加えて言う
国家と教会の本質が違うからそれは不可能だろうと
そこでイワンは教会国家論を述べる
国家と教会は本質的に共存できない、なので国家の中に教会が属するか教会の中に国家が属するのかを「混合」ではなく関係性に注目する 例としてローマ(国家に教会が属した)帝国失敗をあげる
「しかし国家としてのローマには、たとえば国家の目的や基盤そのものといったような異教の文明や英知が、あまりに数多く残存することになりました。
いっぽうキリストの教会は、国家に入り込みながら、自分が立っている礎石から自分の基盤を明らかに何ひとつ譲歩できませんでした。」 なので、教会まで国家を引き上げることが求められているのだとイワンは述べる
一番重要なポイントは、犯罪の刑罰そのものに
「倫理やモラル」による罰を付け加えようとしたということ
「ぼくが反論したあの聖職者の方は、教会は国家の中に明確な、確固とした地位を占める、と主張されています。
ぼくはその人に反論して、むしろ反対に、教会のほうが国家のいっさいを自身のうちに包含すべきであって、国家の一隅にわずかな場所を占めるべきはない、
たとえそのことが、
いまはなんらかの理由によって不可能であるとしても、ことの本質からして疑いもなく、
それはキリスト教社会の今後の全発展の直接的な、最重要な目的とならなければならない、と主張したのです。」
ではなぜ、法の上での罰に精神的な罰も付け加える必要があるのか
この後それも書かれているけど、ウンザリするほど長くなったので割愛します 単語ばかり言葉ばかりを追って読むべきではない、と個人的には思っています
ここでドストエフスキーが言いたかったことは、神がいなければすべて許される、という思想が基礎にあるのではないだろうか、と思います
例えば、通常の法では行った犯罪、即、罪とはならなりません
起訴されない行為は、どんなに悪く見える行為でも犯罪として罰せられることはない
一方で、神の前で、という概念付け加えるとどうなるのか、そこにドストエフスキーは注目したのかもしれない
神の前では悪い行い、即、罪となる
つまり、神がいるのならすべて許されない、という逆説がうまれます
おそらくこれは罪と罰の潜んだテーマでもあると考えているけどね
令和一発目のレスでしたw 「ぼくの出発点になりましたのは、教会と国家というこの二つの要素、つまり、二つの個
別の実態の混淆状態は、いうまでもなく、永遠につづくだろうという仮定です。
「ぼくはこの二つの分子の混同、すなわち教会と国家というべつべつな二つのものの混同
は、むろん、永久につづくだろうという仮定から出発したのです。
===========================================================================
======
実を言えば、そういう混淆状態はありえないはずのものだし、もともとそういう事態の
根底に虚偽が潜んでいるのですから、それを正常化することはおろか、一応の妥協状態に
もって行くこともけっしてできないはずなのですがね。
もっとも、これはありうべからざることで、ノーマルな状態どころじゃない、いくぶんた
りとも調和した状態に導くことすらできないのです。なんとなれば、その根本に虚偽が
横たわっているからです。
===========================================================================
======
> たとえば、裁判というような問題についての国家と教会との間の妥協は、ぼくに言わせ
れば、そのもっとも完全にして純粋な本質からいって、不可能です。」
たとえば裁判のような問題における国家と教会との妥協は、純粋な本質からいって不可
能なのであります。
===========================================================================
以上2つの翻訳を並べてみた。ここまでは、双方で意味を取り違えるような表現はなく思
われる。 さて、イヴァンの「セリフ第1」の続きですが
------------------------------------------------------------------
僕が 論駁を試みた僧侶の 方の断定によれば、教会は、国家のなか
に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、
僕は反対に、教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、
国家の中にわずかな一隅を占めるべきではない。
たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将
来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大な目的とならなければならぬ、とこう
論駁したのです。」
------------------------------------------------------------------
イヴァンの論敵の僧侶は常識的かつ現実主義的かつ通俗的な理解をいう。
イヴァン自身は「教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、
国家の中にわずかな一隅を占めるべきではない。」という確信を述べる。
それを補強するように、その場に居合わせたゾシマの寺院の高僧たちも
宗教者として「とうぜん、アタリマエダノクラッカーだ」という。
------------------------------------------------------------------
きみのカキコでは、引用文を終わり、きみの書いた地の文があらわれる。
>つまり国家と教会は、誰かの手で繋げようとこれからもしていくだろう、とイワンは言う
>イワンはそれに付け加えて言う
>国家と教会の本質が違うからそれは不可能だろうと
これはカラマーゾフの本文ではどこに該当するのか? 自分でも探してみる。 >「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別を全面
的に否定しておられるらしゅうございます。」
「それは珍らしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイワンに訊ねた。
=================================================================================
この論争の冒頭にある上の文からもあきらかなように
イヴァンは
教会と国家の区別を全面的に否定している
>国家と教会の本質が違うからそれは不可能だろう
から、将来 教会は国家全体を教会としていくべきである
と述べている。
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政治と宗教、選挙と宗教活動、そういうものを分離せよという君の主張は、われわれの理想とする
立正安国。仏法根本に、現実政治において、最終的には国家そのもの、一閻浮提いちえんぶだい(全世界)を創価
学会となさん、この日本を仏国土となさんとする、日蓮大聖人の閻浮提内広令流布(えんぶだいないこうりょうるふ
)の指令をまっこうから否定するものである。 (ヨシフ)
「この人はいろいろな議論の中に、論敵たる僧侶の(これは注目すべき事実でございます)『根本的か
つ本質的命題』を論駁しておられます。
その命題は第一に、――『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の公民的、並びに政治的権
利を支配するの権力を所有するあたわず、かつまた所有すべからず。』
第二に、『刑法的および
民法的権力は教会に属すべきではない。教会は神の制定したるものとして、また
宗教的目的を有する人々の結社として、性質上かかる権利と両立することを得ず』
最後の第三は、『教会はこの世の王国にあらず。』というのでございま
す......」
================================================================================
「聖職者にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイは我慢しきれないでまた
口を出した。 ぼくがテキトウな意見をぶっこむから よく聞いとくんだよ!
> まとめれば、宗教とは形而上的事物であるという根拠、と、政治とは形而下的事物であるという根拠、これらに基づいて宗教と政治は相容れない
「君の言ってることは信仰者にあるまじき言語の遊戯でございます!!!!」
現実生活のすべてにおいて そこにおいてこそ 信仰の真価はあらわれるし、問われる
形而上も形而下もないっ 心と現実生活のいっさいの事象は「而二不二」ににふに です! 「わたくしはあなたの 論駁されたあの本を読んで」とイワンの方を向い
た。『教会はこの世の王国にあらず。』という言葉に一驚を 喫しました。もしこの世
のものでないとすれば、この地上に全然存在するはずがないではありませんか。聖
書の中にある『この世のものならず』という言葉はそのような意味で用いられてはお
りません。
このような言葉を 弄ぶのはあるまじきことです。主イエス・キリストはとりも
直さず、この地上に教会を立てるためにおいでなされたのです。天の王国はむろん
この世のものでなく、天上にあるに相違ありませんが、それに入って行くには、地上
に建てられた教会を通るよりほかに道がありません。
それ故この意味における俗世間的地口は不可能で、かつあるまじきことです。
教会は真に王国です、君臨すべき使命を有しているのです。それゆえ、
最後は独立せる王国として、地上全体に出現しなければなりません
――これはもう神の誓約のあることです!......」
彼は急に己れを制したかのように口をつぐんだ。イワンは敬意と注意を表しなが
ら、その言葉を聞き終わると、
=================================================================================
ここに書いてあるとおりです。創価学会は公明党を保持し、選挙という合法的手法により、
この日本国を良くするためにある。
そしてもちろん究極的理想は、全日本人全民衆全世界をひとり残らず この仏法をたもたせ救い切ることです。 令和元年 第一日目
我並びに我が師 わが家族 我が眷属 一切衆生とともに仏道をじょうぜんことを祈念し >>403
そう、分からないのか/そう思うのか、という選択になるばかりです
分かったことと言えば「私は分からない」ということを私が理解するか、「私がそう思う」ということを私が知るのか、2つの選択がいつも顔を出す
「俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。」
理性には限界があるということ
「神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。」
天上のことを地上で理解する、言い換えれば、そもそも理解できないことを理解する
最高のパラドックスがここにある
イワンには、じゃあどうすればいいのか、という始めても終わっても葛藤が残るだけです
でも葛藤はいつも残り、この葛藤こそイワンの本当の本当の本質だと思います
肯定的にも否定的にも解決しない、ということです
ではなぜ相反する自己を持とうとするのか
デカルト風に言えば、われ葛藤す、ゆえにわれあり、です
そう、私は在る、これがきっと彼にとってすべてなのかもしれません
我あり、という >>405
まず、こんな「創価学会の話ばかり聞かせて」ごめんな。厭になるよな。
> 「俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。」
> 理性には限界があるということ
ぼくが思うに、「 理性には限界がある」どころじゃない、ぼくたちはなにも知らないし、
だからこそ、理性ではなく知でもなく、ぼくなら仏教きみならキリスト教の信仰に賭けてみよう
とおもったんじゃないか?
理性や知から信仰が生まれるのではなく、信仰から「聡明さ」が生まれるんでしょ?他の優しさや勇気や力強さなどの徳性も。
> イワンには、じゃあどうすればいいのか、という始めても終わっても葛藤が残るだけです
> でも葛藤はいつも残り、この葛藤こそイワンの本当の本当の本質だと思います
> 肯定的にも否定的にも解決しない、ということです
> ではなぜ相反する自己を持とうとするのか
> デカルト風に言えば、われ葛藤す、ゆえにわれあり、です
> そう、私は在る、これがきっと彼にとってすべてなのかもしれません
> 我あり、という
イワンは、ぼくたちの生命の一側面を表している。ぼくたちの内部に確かに、カラマーゾフの登場人物たちが
ひとり残らずいる。ミーチャのようなワイルドな生活欲も。ヒョードルのごときアイロニカルなオヤジも。
ゾシマの慈悲と清澄さも。そしてもちろんアレクセイの純真も。 ドストエフスキーは主知主義的な信仰、つまり理神論を排した
この中にはイワンのような理知主義やその反動である不可知論も含まれる
ゾシマ長老による一種の汎神論的大地主義はこの観点から検討されるべきであり
世俗内伝道者アリョーシャの誕生が荒れ野の修行者たるイエスと重なるのもそのため
これを仏教的に理解しようとするのなら修験的な在野主義だろうね
そもそもイエスキリストの属したエッセネ派は修験道に似ているんだよ 創価学会の話ばかり聞かされてとっても嫌です
公明党には絶対に投票しません >>406
>だからこそ、理性ではなく知でもなく、ぼくなら仏教きみならキリスト教の信仰に賭けてみよう
>とおもったんじゃないか?
そうなのかもしれないね
キルケゴールは思惟と概念の終わりに信仰がある、なんていうけど、不遜にも分かる気がしないでもない
でもどこかで思っていることは、この世界に真理なんてものがあるとしても、それは地上の言葉で書かれているはずだし、地上で理解されるように与えられているはずだから、概念と理性よる理解ができるんじゃないかなんていつも頭をよぎる
それはまるで円運動になっているために、始まりも終わりも同じ所で終わっている錯覚に陥りますがw 信仰が時を経て薄まるどころか、より強固でいいものに仕上がっているのを読むのは
楽しみです。 ドストエフスキーもキチガイだが
このスレに粘着している連中もキチガイだな(笑) 状況が変われば真理も変わる
封建社会の理想は永遠なるものを追及してきた
しかし近代社会は進化し続けることを求める たまにはドストエフスキーチョット離れてみます
ドストエフスキーの大審問官と並べてカフカの審判の掟の門という章がある
掟とは縛るものであることは同じであるが、西洋では心の中の抑制となることが多く、東洋では外側から抑制する法やモラルに置き換えられる
大審問官と比べると、章全体を読み終わった後の解釈は多いみたいよ 掟の門前
道理の前でひとりの門番が立っている。
その門番の方へ、へき地からひとりの男がやってきて、道理の中へ入りたいと言う。
しかし門番は言う。
今は入っていいと言えない、と。
よく考えたのち、その男は尋ねる。
つまり、あとになれば入ってもかまわないのか、と。
「かもしれん。」
門番が言う。
「だが今はだめだ。」
道理への門はいつも開け放たれていて、そのわきに門番が直立している。
そこで男は身をかがめて、中をのぞいて門の向こうを見ようとした。
そのことに気づいた門番が笑って、こう言った。
「そんなに気になるのなら、やってみるか。
おれは入ってはいかんと言っただけだからな。
いいか、おれは強い。だが、おれはいちばん格下の門番にすぎない。部屋を進むごとに、次々と門番が現れるだろう。
そいつらは、前のものよりもっと強いぞ。
三番目の門番でさえ、おれはそいつを直視することもままならん。」 続き
これほどの難関を、へき地の男は予想だにしていなかった。
道理は誰にでもいつでも開かれているはずなのに、と思った。
だが、男は門番をじっと見つめた。
門番は毛皮のコートに身を包み、大きなかぎ鼻を持ち、黒く長いモンゴルひげをひょろりと生やしている。
そのとき男は心に決めた。むしろ、入っていいと言われるまで待つのだ、と。
門番が男に腰掛けを与え、門のわきへ腰を下ろさせた。
その場所で、男は幾日も幾年も座り続けた。
男は、入ってもいいと言われたくて、さまざまなことを試してみた。だが、あまりにもはげしいため、門番をうんざりさせた。
門番は、幾度となく男に簡単な尋問をおこなった。
i男の出身地をあれやこれやと問いつめた。
それ以外のことも同じように訊いたが、その問いかけは目上の人間がする一通りのものにすぎず、いつも終わりに門番は男へこう言うのだった。
今は入っていいと言えない、と。
旅のために男はあらかじめたくさんのものを持ってきたが、すべて使ってしまった。だが、どれもずいぶん役に立った。門番に賄賂を贈ったのだ。
この門番はどれもみな受け取りはしたが、そのときにこう言い添えるのだった。
「一応もらっておく。やり残したことがあるなどと思ってほしくないからな。」
何年ものあいだ、男はほとんど休みなく、門番から目を離さなかった。
そのうち男は他にも門番がいることを忘れ、最初のこの門番が、道理へ到るための唯一の障害だというふうに思えてきた。 続き
男は不幸を嘆いた。はじめの一年はなりふり構わず声を張り上げていたが、年老いてしまうともう、ただいつまでもだらだらとぼやくだけだった。
子どもっぽくなった男は、門番をずっとつぶさに見てきたからか、なんとその毛皮の襟巻きにノミがいると気づいた。
そこで、男はそのノミに、助けてくれ、あの門番を説得してくれ、と頼み込んだ。
ついには視力も衰え、男は本当に暗いのか、ただ目の錯覚なのかが、わからなくなった。
とはいえ、暗闇の中、道理の門から消えずに差し込んでくる光が、男には今はっきりと見えた。
もう、男の命ももはやこれまでだった。
死を目前にして、男の頭の中で、今までの人生すべての時間が、ひとつの問いへと集束していった。
それは男がこれまで門番に一度も訊いたことのない問いだった。
男は門番に、手を振って知らせた。
身体がこわばって、もはや自力で起き上がることができなかった。
門番は男のためにしゃがみこんだ。
ふたりの大きな身長差が、今は男にとってずいぶん苦しいものとなっていたからだ。
「今さらいったい何を知りたいというのだ。」
門番が訊く。
「欲張りめ。」
「だが、万人が道理を求めようとするではないか。」
男は言った。
「どういうわけで、長年にわたって、わたし以外に誰も、入ってよいかと聞きに来ないままだったのだ?」
門番は気づいた。男はもう、今わのきわにいる。
かすかな聴覚でも聞こえるよう、門番は男に大声でどなった。
「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ。」 KARAの前でひとりの門番が立っている。
その門番の方へ、へき地からひとりの娘がやってきて、KARAへ入りたいと言う。
門番とはスンヨンである。
しかしスンヨンは言う。
今は入っていいと言えない、と。
よく考えたのち、その娘は尋ねる。
つまり、あとになれば入ってもかまわないのか、と。
「かもしれん。」
スンヨンが言う。
「だが今はだめだ。」
KARAへの門はいつも開け放たれていて、そのわきに門番が直立している。
そこで娘は身をかがめて、中をのぞいて門の向こうを見ようとした。
そのことに気づいたスンヨンが笑って、こう言った。
「そんなに気になるのなら、やってみるか。
おれは入ってはいかんと言っただけだからな。
いいか、おれは強い。だが、おれはいちばん格下の門番にすぎない。部屋を進むごとに、
次々と門番が現れるだろう。
そいつらは、前のものよりもっと強いぞ。
三番目の門番でさえ、おれはそいつを直視することもままならん。」 >>415
>掟とは縛るものであることは同じであるが、
>西洋では心の中の抑制となることが多く、
キリスト教的倫理観だと内なる神という良心との対話になる
>東洋では外側から抑制する法やモラルに置き換えられる
仏教だと「魔がさす」という言葉にもあるように
「悪」外部からは到来する
しかしこれはキリスト教における悪魔の誘惑にも似ているが
神とリンクした良心のような内面性はそれほどない
どちらかと言うと朱子学や陽明学の明徳論が自己抑制的である
しかしこれもキリスト教のように個人の内面が唯一神と直結するようなものではない
いわゆる東洋的発想だと自我が溶解して個人の人格が他者とリンクすることによって
倫理が達成される
こういう自己解体による倫理性の確保という視点が
ドストエフスキー作品にも見られるのだが
もちろんこういう考え方はキリスト教とは相いれない
というのも一種の汎神論になって信仰も解体されてしまうから 思考は人格に間違いなく影響するよ
そもそも自己なんて思考の塊みたいなもんだし
考えることが良いのか悪いのかについては何も言えないけど、自己を持つ人間ならば、考えることが存在することでもある
だから考えよう
「私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない。」 >>420
そうですね
ドストエフスキーも内なる葛藤や個と神との関係に倫理を打ちたてようとしていたのかもしれないね
理性に恥辱と写るものが心には美に写る、という矛盾がそこにはあります
「それよりももっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想を抱く人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。
いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。そうなんだよ!理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。」 >>407
> ドストエフスキーは主知主義的な信仰、つまり理神論を排した
> この中にはイワンのような理知主義やその反動である不可知論も含まれる
本文引用をお願いします。反感で書いてるのではなく、おそらくその通りだとおもうが理解を深めたいためです。
> ゾシマ長老による一種の汎神論的大地主義はこの観点から検討されるべきであり
これも本文引用をお願いします
> 世俗内伝道者アリョーシャの誕生が荒れ野の修行者たるイエスと重なるのもそのため
世俗内伝道者アリョーシャ」というのはなんとなくわかりますが、「荒れ野の修行者たるイエス」に
重なりません。ぼくの中では。
> これを仏教的に理解しようとするのなら修験的な在野主義だろうね
> そもそもイエスキリストの属したエッセネ派は修験道に似ているんだよ
修験道」というのは現代社会で死んでいる宗派という個人的イメージ。 >>421
> どうでもいいことをごちゃごちゃと
君こそ、そんなナンセンスのツッコミはいらないんだよ。2ちゃんの悪癖だね。
「どうでもいい」とおもう箇所を引用して、なぜ?「どうでもいい」と感じたか、それくらい書き給えよ。 >>422
すいません。例のカフカの門のアレだけど すごい頭に残っちゃって
理解しようと必死なの。このまま流さないで、なんか続きを書いてよ。 このスレの住民も掟の門と似た様なもんだな
ドストは門の向こう側へ行っちゃったな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています