ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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>>370 >>371
ドストエフスキーの詩学読んでいる最中だけど、内容が悟性的で、とてもうまくまとめたね
勉強になります、また気がついた所があったら転載を心待ちにしています
ポリフォニーのわかりやすい例してイワンとアリョーシャを思い出します
アリョーシャがイワンに、殺したのはあなたじゃない、とイワンは動揺する
肯定の言葉はアリョーシャがいう言葉で、イワンには反対の意味に聞こえてしまう
父の死を心で欲していた自分こそが真の殺害者ではないか、という思いから離れられなくなる
同じ声が重なる時、言葉は同じでもその意味は関係によって顔をかえてしまう、みたいな感想をいだかさふぇますね >>373 つづき
だからぼくはこう言ったのです
誤解にならないように厳密に言うならば、宗教につくなら、政治をするなとは言っていないですよ
相いれなくとも現実世界で生きる以上はある程度は消せないので、「宗教につくなら、政治は消極的にやればいい」ということです
そして、消極的が何当たるかは個人の問題です
ただ宗教に向かえば向かうほど政治には無関心になるのではないか、と個人的には予想していますけどね
逆もいえますね、政治に向かえば宗教なんて無関心になる
でも問題はドストエフスキーのいう、あの無神論者でしょうねきっと
キリスト教社会主義なんかを目指していた、当時の有神論的社会主義者というような、フーリエなんて狂人そのものだしw
一旦はドストエフスキーも傾向しているけど >>373
> 政治を見ているならいつでも政治から始めればいい、というだけのことです
宗教と政治は別物とかんがえるその感覚は、わかることはわかります。
> それと一番重要な点ですが、そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ
まったく意味が理解できません。ただし、きみがそう考えていることはわかる。ココまでは「一往」
再往は、「そもそも宗教とは幸せを望むことではありませんよ」に完全同意ですw
というのは、わたしたちは日本語という道具をつかって、宗教思想から日常生活まで議論するが、すべてを
掌握するわけではない。
それどころか、「ここにリンゴがある」「食べてみなければ、その味がわかりますか?」というアレのごとく
言葉はいっさいを伝達できない。言葉の伝達できない「事項」や「体験」の核心について、今は問われている。
僕の能力では、あなたに腑に落ちるように説明できないというだけ。ですから、共通教養であるカラマーゾフを
利用する。 =================================================================================
> キリスト教もまた同じくそうでしょう
> この世の繁栄ではなく(繁栄教は宗教より哲学に近い、哲学もまた形而下的事物に属する)、この世は渡っていく橋のようなもので、イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
> 幸福どころか不幸を保証していますね
> キリストが言ったことは、神と隣人を愛すること、をただただ強調しました
> 他人を自分のように愛することができるものこそ、キリスト教で幸いと呼ばれるものになるのかもしれません
> トルストイが、ドストエフスキーは仏教やっていればこんなに苦痛にはならなかった、言っています
> きっとそういうことなんでしょうね
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線で囲った部分。
創価学会の信仰はひとまず置いておきましょう。
以前も議論したことがありますね? > 幸福どころか不幸を保証していますね など
政治と宗教のことも、また同じです。あなたの見えていない別の視点がある、ということです。
別々の人間だから当たり前のことだ。そうじゃないか?
次回ぼくが、「カラマーゾフの兄弟」から具体的に引用して、きみの考えをきくから。
それは議論に勝つことなんかのためじゃない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) ジェネレーションにより、その時の僅かな感覚、体調でも物事の受け止め方は変わりうる。
現実は複雑である。ただおれには自信がある。どういう自信かというと、「おれが誠実な人間で」
「創価学会をやってるいるヒトはすばらしい」と君に感じさせる自信がある。
何度でも同じ話をしてあげる。気の遠くなるような粘り強さを示してやる。たとえば
「イエスはむしろついてくるものは迫害されるとまで言っています
> 幸福どころか不幸を保証していますね」
というテーマひとつとっても、そこに両義があることを君に確信させてあげる。すなわち、
「不幸を通じて幸福になる」ということだ。そして「信仰とそれに人生をかけた人間は」「究極的な幸福になる」
という「事実」についてだ。 が、長老は元の席に着いてから、さあ続けて下さ
い、と勧めるように愛想よく一同を見回すのであった。この人の顔のありとあらゆる
表情をほとんど研究し尽したアリョーシャは、
このとき彼が恐ろしく疲れ果てて、強
いて自ら支えているのを明らかに見てとった。近頃彼は力の消耗のため、ときどき
卒倒することがあった。その卒倒の前と同じような蒼白い色が、いま彼の顔に広が
っている。唇も白けていた。
しかし明らかに彼はこの集まりを解散させたくない様子
であった。その上に何かまだ目的があるらしい――が、どんな目的であろう? アリ
ョーシャは一心に彼に注目していた。
=================================================================================
この
>「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別を全面
的に否定しておられるらしゅうございます。」
「それは珍らしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイワンに訊ねた。
論争が始まる直前のゾシマの様子が上です。 ここにベートーヴェンがいたとする。
ベートーヴェンのすばらしい評論家の文があったとする。
バフチンというのは、この評論家とおなじです。
彼自身に「運命」や「第九」をこの世界に生み出す力はない。 むしろバフチンを読むなら、おれの文を読めと、言いたい。
おれの読み方は「自分自身がアレクセイとなる」と措定した読み方だ。
だから「長老は今どんな状態なのか?なにを考えていらっしゃのだろう?」
その描写をアレクセイといっしょになって考えている。 ドストエフスキーがバフチンを読んだとする
「なるほどね... こういう曲芸的な読み方もあるもんですかね...?フフッ!w」とか思うだろう。
次におれのカキコをドストが読む。「おおおお!これぞ我が弟子!!おお神よ! 」と泣くでしょう。
(タイプし過ぎでさいきん右手親指がつっちゃうWWWWWW) (つづき)
「それは全くその通りです」と無口で博学な僧パイーシイは、しっかりした神経質そ
うな声で言った。 「純粋な 法王集権論(ウルトラモンタニズム)
( ラテン語で「山のかなた」の意。イタリアは中央ヨーロッパに対して山のかなたにあるため)
です。」じれったそうにかわるがわる両方の足を組みかえながら、ミウーソフはこう叫んだ。
=================================================================================
注意してください。俗物は、イヴァンに反対します。 無口で博学な僧パイーシイはイヴァンのいうとおりだと。 「なんの! それにロシアには山などないではありませんか!」と図書がかりの僧ヨ
シフは叫んでさらに長老の方を向きながら語を続けた。
=================================================================================
全文を一字もぬかさず、引用中です。
ゾシマとその弟子(高僧たちにとってイヴァンの述べた説は、まったくあたりまえの説であったことが描写される) (ヨシフ)
「この人はいろいろな議論の中に、論敵たる僧侶の(これは注目すべき事実でございます)『根本的かつ本
質的命題』を論駁しておられます。
その命題は第一に、――『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の公民的、並びに政治的権利を支配するの権力を所有するあたわず、かつまた所有すべからず。』 第二に、『刑法的および
民法的権力は教会に属すべきではない。教会は神の制定したるものとして、また
宗教的目的を有する人々の結社として、性質上かかる権利と両立することを得ず』
最後の第三は、『教会はこの世の王国にあらず。』というのでございま
す......」 =================================================================================
「聖職者にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイは我慢しきれないでまた
口を出した。
=================================================================================
(我)ここでまたひとこと。あなたが正しいとか、おれが正しいとか、そういうことではない。
「どちらも正しくどちらもまちがっている」と言ったところだろうW
まず、オリジナルの「カラマーゾフの兄弟」に展開されている描写を、如実に、ありのままに読んでみようよ? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>371
>すべてのイデオロギー的創造物は、ひとつの意識、ひとりの精神のありうべき表現として考えられ受けとめられている。
>意味のあるすべてをひとつの意識のなかに集め、単一のアクセントに従わせようというわけである。
だから支配的になりやすい、ということですね
コーリャ的革命よりもイワン的な反抗の方が憐憫を感じる 話を進める為におそらく次は、幸福とは何か、不幸とはどういうことか、を考えないとになりそうだ
頭が疲れるよーw
GWだからマッタリ銭湯でも行こうかな
でも混んでそう… 出しゃばりな創価学会は沈黙せよ
迷惑老人の自分語りなんか誰も聞きたくはない
非才が駄文連投で良いレスを流すな
創価が本家地元でどれだけ嫌われてるか知らんのか >>391
相手してやりたいけどごめんなw
マジで右手親指が痛くてw あと平成最後で忙しいWWWWWW >>390
> GWだからマッタリ銭湯でも行こうかな
> でも混んでそう…
行ってきなよWW パソコンカチャカチャばかりはカラダに悪いぜ
ちなみにおれは「平成を総括し感謝し、レイワへの勝利を願い題目で、残りの2時間半を過ごす」 >>349
訳をかえると分かりやすいよ
とりあえず自分なりに書いてみました
本をもう一度見直してはいないので、間違いがあったら訂正してください
「ぼくの出発点になりましたのは、教会と国家というこの二つの要素、つまり、二つの個別の実態の混淆状態は、いうまでもなく、永遠につづくだろうという仮定です。
実を言えば、そういう混淆状態はありえないはずのものだし、もともとそういう事態の根底に虚偽が潜んでいるのですから、それを正常化することはおろか、
一応の妥協状態にもって行くこともけっしてできないはずなのですがね。
たとえば、裁判というような問題についての国家と教会との間の妥協は、ぼくに言わせれば、そのもっとも完全にして純粋な本質からいって、不可能です。」
つまり国家と教会は、誰かの手で繋げようとこれからもしていくだろう、とイワンは言う
イワンはそれに付け加えて言う
国家と教会の本質が違うからそれは不可能だろうと
そこでイワンは教会国家論を述べる
国家と教会は本質的に共存できない、なので国家の中に教会が属するか教会の中に国家が属するのかを「混合」ではなく関係性に注目する 例としてローマ(国家に教会が属した)帝国失敗をあげる
「しかし国家としてのローマには、たとえば国家の目的や基盤そのものといったような異教の文明や英知が、あまりに数多く残存することになりました。
いっぽうキリストの教会は、国家に入り込みながら、自分が立っている礎石から自分の基盤を明らかに何ひとつ譲歩できませんでした。」 なので、教会まで国家を引き上げることが求められているのだとイワンは述べる
一番重要なポイントは、犯罪の刑罰そのものに
「倫理やモラル」による罰を付け加えようとしたということ
「ぼくが反論したあの聖職者の方は、教会は国家の中に明確な、確固とした地位を占める、と主張されています。
ぼくはその人に反論して、むしろ反対に、教会のほうが国家のいっさいを自身のうちに包含すべきであって、国家の一隅にわずかな場所を占めるべきはない、
たとえそのことが、
いまはなんらかの理由によって不可能であるとしても、ことの本質からして疑いもなく、
それはキリスト教社会の今後の全発展の直接的な、最重要な目的とならなければならない、と主張したのです。」
ではなぜ、法の上での罰に精神的な罰も付け加える必要があるのか
この後それも書かれているけど、ウンザリするほど長くなったので割愛します 単語ばかり言葉ばかりを追って読むべきではない、と個人的には思っています
ここでドストエフスキーが言いたかったことは、神がいなければすべて許される、という思想が基礎にあるのではないだろうか、と思います
例えば、通常の法では行った犯罪、即、罪とはならなりません
起訴されない行為は、どんなに悪く見える行為でも犯罪として罰せられることはない
一方で、神の前で、という概念付け加えるとどうなるのか、そこにドストエフスキーは注目したのかもしれない
神の前では悪い行い、即、罪となる
つまり、神がいるのならすべて許されない、という逆説がうまれます
おそらくこれは罪と罰の潜んだテーマでもあると考えているけどね
令和一発目のレスでしたw 「ぼくの出発点になりましたのは、教会と国家というこの二つの要素、つまり、二つの個
別の実態の混淆状態は、いうまでもなく、永遠につづくだろうという仮定です。
「ぼくはこの二つの分子の混同、すなわち教会と国家というべつべつな二つのものの混同
は、むろん、永久につづくだろうという仮定から出発したのです。
===========================================================================
======
実を言えば、そういう混淆状態はありえないはずのものだし、もともとそういう事態の
根底に虚偽が潜んでいるのですから、それを正常化することはおろか、一応の妥協状態に
もって行くこともけっしてできないはずなのですがね。
もっとも、これはありうべからざることで、ノーマルな状態どころじゃない、いくぶんた
りとも調和した状態に導くことすらできないのです。なんとなれば、その根本に虚偽が
横たわっているからです。
===========================================================================
======
> たとえば、裁判というような問題についての国家と教会との間の妥協は、ぼくに言わせ
れば、そのもっとも完全にして純粋な本質からいって、不可能です。」
たとえば裁判のような問題における国家と教会との妥協は、純粋な本質からいって不可
能なのであります。
===========================================================================
以上2つの翻訳を並べてみた。ここまでは、双方で意味を取り違えるような表現はなく思
われる。 さて、イヴァンの「セリフ第1」の続きですが
------------------------------------------------------------------
僕が 論駁を試みた僧侶の 方の断定によれば、教会は、国家のなか
に正確な、一定した地歩を占めているというのですが、
僕は反対に、教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、
国家の中にわずかな一隅を占めるべきではない。
たとえ現代において、それが何かの理由によって不可能であろうとも、将
来、キリスト教社会の発達の直接かつ重大な目的とならなければならぬ、とこう
論駁したのです。」
------------------------------------------------------------------
イヴァンの論敵の僧侶は常識的かつ現実主義的かつ通俗的な理解をいう。
イヴァン自身は「教会こそ自己の中に国家全体を含むべきであって、
国家の中にわずかな一隅を占めるべきではない。」という確信を述べる。
それを補強するように、その場に居合わせたゾシマの寺院の高僧たちも
宗教者として「とうぜん、アタリマエダノクラッカーだ」という。
------------------------------------------------------------------
きみのカキコでは、引用文を終わり、きみの書いた地の文があらわれる。
>つまり国家と教会は、誰かの手で繋げようとこれからもしていくだろう、とイワンは言う
>イワンはそれに付け加えて言う
>国家と教会の本質が違うからそれは不可能だろうと
これはカラマーゾフの本文ではどこに該当するのか? 自分でも探してみる。 >「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別を全面
的に否定しておられるらしゅうございます。」
「それは珍らしい、しかしどのような意味ですかな?」と長老はイワンに訊ねた。
=================================================================================
この論争の冒頭にある上の文からもあきらかなように
イヴァンは
教会と国家の区別を全面的に否定している
>国家と教会の本質が違うからそれは不可能だろう
から、将来 教会は国家全体を教会としていくべきである
と述べている。
=================================================================================
政治と宗教、選挙と宗教活動、そういうものを分離せよという君の主張は、われわれの理想とする
立正安国。仏法根本に、現実政治において、最終的には国家そのもの、一閻浮提いちえんぶだい(全世界)を創価
学会となさん、この日本を仏国土となさんとする、日蓮大聖人の閻浮提内広令流布(えんぶだいないこうりょうるふ
)の指令をまっこうから否定するものである。 (ヨシフ)
「この人はいろいろな議論の中に、論敵たる僧侶の(これは注目すべき事実でございます)『根本的か
つ本質的命題』を論駁しておられます。
その命題は第一に、――『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の公民的、並びに政治的権
利を支配するの権力を所有するあたわず、かつまた所有すべからず。』
第二に、『刑法的および
民法的権力は教会に属すべきではない。教会は神の制定したるものとして、また
宗教的目的を有する人々の結社として、性質上かかる権利と両立することを得ず』
最後の第三は、『教会はこの世の王国にあらず。』というのでございま
す......」
================================================================================
「聖職者にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイは我慢しきれないでまた
口を出した。 ぼくがテキトウな意見をぶっこむから よく聞いとくんだよ!
> まとめれば、宗教とは形而上的事物であるという根拠、と、政治とは形而下的事物であるという根拠、これらに基づいて宗教と政治は相容れない
「君の言ってることは信仰者にあるまじき言語の遊戯でございます!!!!」
現実生活のすべてにおいて そこにおいてこそ 信仰の真価はあらわれるし、問われる
形而上も形而下もないっ 心と現実生活のいっさいの事象は「而二不二」ににふに です! 「わたくしはあなたの 論駁されたあの本を読んで」とイワンの方を向い
た。『教会はこの世の王国にあらず。』という言葉に一驚を 喫しました。もしこの世
のものでないとすれば、この地上に全然存在するはずがないではありませんか。聖
書の中にある『この世のものならず』という言葉はそのような意味で用いられてはお
りません。
このような言葉を 弄ぶのはあるまじきことです。主イエス・キリストはとりも
直さず、この地上に教会を立てるためにおいでなされたのです。天の王国はむろん
この世のものでなく、天上にあるに相違ありませんが、それに入って行くには、地上
に建てられた教会を通るよりほかに道がありません。
それ故この意味における俗世間的地口は不可能で、かつあるまじきことです。
教会は真に王国です、君臨すべき使命を有しているのです。それゆえ、
最後は独立せる王国として、地上全体に出現しなければなりません
――これはもう神の誓約のあることです!......」
彼は急に己れを制したかのように口をつぐんだ。イワンは敬意と注意を表しなが
ら、その言葉を聞き終わると、
=================================================================================
ここに書いてあるとおりです。創価学会は公明党を保持し、選挙という合法的手法により、
この日本国を良くするためにある。
そしてもちろん究極的理想は、全日本人全民衆全世界をひとり残らず この仏法をたもたせ救い切ることです。 令和元年 第一日目
我並びに我が師 わが家族 我が眷属 一切衆生とともに仏道をじょうぜんことを祈念し >>403
そう、分からないのか/そう思うのか、という選択になるばかりです
分かったことと言えば「私は分からない」ということを私が理解するか、「私がそう思う」ということを私が知るのか、2つの選択がいつも顔を出す
「俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。」
理性には限界があるということ
「神は種子を他界より取ってこの地上に撒き、己れの園を作り上げられたのである。こうして成長すべきものは成長し、成長したものは現に生活している。」
天上のことを地上で理解する、言い換えれば、そもそも理解できないことを理解する
最高のパラドックスがここにある
イワンには、じゃあどうすればいいのか、という始めても終わっても葛藤が残るだけです
でも葛藤はいつも残り、この葛藤こそイワンの本当の本当の本質だと思います
肯定的にも否定的にも解決しない、ということです
ではなぜ相反する自己を持とうとするのか
デカルト風に言えば、われ葛藤す、ゆえにわれあり、です
そう、私は在る、これがきっと彼にとってすべてなのかもしれません
我あり、という >>405
まず、こんな「創価学会の話ばかり聞かせて」ごめんな。厭になるよな。
> 「俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。」
> 理性には限界があるということ
ぼくが思うに、「 理性には限界がある」どころじゃない、ぼくたちはなにも知らないし、
だからこそ、理性ではなく知でもなく、ぼくなら仏教きみならキリスト教の信仰に賭けてみよう
とおもったんじゃないか?
理性や知から信仰が生まれるのではなく、信仰から「聡明さ」が生まれるんでしょ?他の優しさや勇気や力強さなどの徳性も。
> イワンには、じゃあどうすればいいのか、という始めても終わっても葛藤が残るだけです
> でも葛藤はいつも残り、この葛藤こそイワンの本当の本当の本質だと思います
> 肯定的にも否定的にも解決しない、ということです
> ではなぜ相反する自己を持とうとするのか
> デカルト風に言えば、われ葛藤す、ゆえにわれあり、です
> そう、私は在る、これがきっと彼にとってすべてなのかもしれません
> 我あり、という
イワンは、ぼくたちの生命の一側面を表している。ぼくたちの内部に確かに、カラマーゾフの登場人物たちが
ひとり残らずいる。ミーチャのようなワイルドな生活欲も。ヒョードルのごときアイロニカルなオヤジも。
ゾシマの慈悲と清澄さも。そしてもちろんアレクセイの純真も。 ドストエフスキーは主知主義的な信仰、つまり理神論を排した
この中にはイワンのような理知主義やその反動である不可知論も含まれる
ゾシマ長老による一種の汎神論的大地主義はこの観点から検討されるべきであり
世俗内伝道者アリョーシャの誕生が荒れ野の修行者たるイエスと重なるのもそのため
これを仏教的に理解しようとするのなら修験的な在野主義だろうね
そもそもイエスキリストの属したエッセネ派は修験道に似ているんだよ 創価学会の話ばかり聞かされてとっても嫌です
公明党には絶対に投票しません >>406
>だからこそ、理性ではなく知でもなく、ぼくなら仏教きみならキリスト教の信仰に賭けてみよう
>とおもったんじゃないか?
そうなのかもしれないね
キルケゴールは思惟と概念の終わりに信仰がある、なんていうけど、不遜にも分かる気がしないでもない
でもどこかで思っていることは、この世界に真理なんてものがあるとしても、それは地上の言葉で書かれているはずだし、地上で理解されるように与えられているはずだから、概念と理性よる理解ができるんじゃないかなんていつも頭をよぎる
それはまるで円運動になっているために、始まりも終わりも同じ所で終わっている錯覚に陥りますがw 信仰が時を経て薄まるどころか、より強固でいいものに仕上がっているのを読むのは
楽しみです。 ドストエフスキーもキチガイだが
このスレに粘着している連中もキチガイだな(笑) 状況が変われば真理も変わる
封建社会の理想は永遠なるものを追及してきた
しかし近代社会は進化し続けることを求める たまにはドストエフスキーチョット離れてみます
ドストエフスキーの大審問官と並べてカフカの審判の掟の門という章がある
掟とは縛るものであることは同じであるが、西洋では心の中の抑制となることが多く、東洋では外側から抑制する法やモラルに置き換えられる
大審問官と比べると、章全体を読み終わった後の解釈は多いみたいよ 掟の門前
道理の前でひとりの門番が立っている。
その門番の方へ、へき地からひとりの男がやってきて、道理の中へ入りたいと言う。
しかし門番は言う。
今は入っていいと言えない、と。
よく考えたのち、その男は尋ねる。
つまり、あとになれば入ってもかまわないのか、と。
「かもしれん。」
門番が言う。
「だが今はだめだ。」
道理への門はいつも開け放たれていて、そのわきに門番が直立している。
そこで男は身をかがめて、中をのぞいて門の向こうを見ようとした。
そのことに気づいた門番が笑って、こう言った。
「そんなに気になるのなら、やってみるか。
おれは入ってはいかんと言っただけだからな。
いいか、おれは強い。だが、おれはいちばん格下の門番にすぎない。部屋を進むごとに、次々と門番が現れるだろう。
そいつらは、前のものよりもっと強いぞ。
三番目の門番でさえ、おれはそいつを直視することもままならん。」 続き
これほどの難関を、へき地の男は予想だにしていなかった。
道理は誰にでもいつでも開かれているはずなのに、と思った。
だが、男は門番をじっと見つめた。
門番は毛皮のコートに身を包み、大きなかぎ鼻を持ち、黒く長いモンゴルひげをひょろりと生やしている。
そのとき男は心に決めた。むしろ、入っていいと言われるまで待つのだ、と。
門番が男に腰掛けを与え、門のわきへ腰を下ろさせた。
その場所で、男は幾日も幾年も座り続けた。
男は、入ってもいいと言われたくて、さまざまなことを試してみた。だが、あまりにもはげしいため、門番をうんざりさせた。
門番は、幾度となく男に簡単な尋問をおこなった。
i男の出身地をあれやこれやと問いつめた。
それ以外のことも同じように訊いたが、その問いかけは目上の人間がする一通りのものにすぎず、いつも終わりに門番は男へこう言うのだった。
今は入っていいと言えない、と。
旅のために男はあらかじめたくさんのものを持ってきたが、すべて使ってしまった。だが、どれもずいぶん役に立った。門番に賄賂を贈ったのだ。
この門番はどれもみな受け取りはしたが、そのときにこう言い添えるのだった。
「一応もらっておく。やり残したことがあるなどと思ってほしくないからな。」
何年ものあいだ、男はほとんど休みなく、門番から目を離さなかった。
そのうち男は他にも門番がいることを忘れ、最初のこの門番が、道理へ到るための唯一の障害だというふうに思えてきた。 続き
男は不幸を嘆いた。はじめの一年はなりふり構わず声を張り上げていたが、年老いてしまうともう、ただいつまでもだらだらとぼやくだけだった。
子どもっぽくなった男は、門番をずっとつぶさに見てきたからか、なんとその毛皮の襟巻きにノミがいると気づいた。
そこで、男はそのノミに、助けてくれ、あの門番を説得してくれ、と頼み込んだ。
ついには視力も衰え、男は本当に暗いのか、ただ目の錯覚なのかが、わからなくなった。
とはいえ、暗闇の中、道理の門から消えずに差し込んでくる光が、男には今はっきりと見えた。
もう、男の命ももはやこれまでだった。
死を目前にして、男の頭の中で、今までの人生すべての時間が、ひとつの問いへと集束していった。
それは男がこれまで門番に一度も訊いたことのない問いだった。
男は門番に、手を振って知らせた。
身体がこわばって、もはや自力で起き上がることができなかった。
門番は男のためにしゃがみこんだ。
ふたりの大きな身長差が、今は男にとってずいぶん苦しいものとなっていたからだ。
「今さらいったい何を知りたいというのだ。」
門番が訊く。
「欲張りめ。」
「だが、万人が道理を求めようとするではないか。」
男は言った。
「どういうわけで、長年にわたって、わたし以外に誰も、入ってよいかと聞きに来ないままだったのだ?」
門番は気づいた。男はもう、今わのきわにいる。
かすかな聴覚でも聞こえるよう、門番は男に大声でどなった。
「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ。」 KARAの前でひとりの門番が立っている。
その門番の方へ、へき地からひとりの娘がやってきて、KARAへ入りたいと言う。
門番とはスンヨンである。
しかしスンヨンは言う。
今は入っていいと言えない、と。
よく考えたのち、その娘は尋ねる。
つまり、あとになれば入ってもかまわないのか、と。
「かもしれん。」
スンヨンが言う。
「だが今はだめだ。」
KARAへの門はいつも開け放たれていて、そのわきに門番が直立している。
そこで娘は身をかがめて、中をのぞいて門の向こうを見ようとした。
そのことに気づいたスンヨンが笑って、こう言った。
「そんなに気になるのなら、やってみるか。
おれは入ってはいかんと言っただけだからな。
いいか、おれは強い。だが、おれはいちばん格下の門番にすぎない。部屋を進むごとに、
次々と門番が現れるだろう。
そいつらは、前のものよりもっと強いぞ。
三番目の門番でさえ、おれはそいつを直視することもままならん。」 >>415
>掟とは縛るものであることは同じであるが、
>西洋では心の中の抑制となることが多く、
キリスト教的倫理観だと内なる神という良心との対話になる
>東洋では外側から抑制する法やモラルに置き換えられる
仏教だと「魔がさす」という言葉にもあるように
「悪」外部からは到来する
しかしこれはキリスト教における悪魔の誘惑にも似ているが
神とリンクした良心のような内面性はそれほどない
どちらかと言うと朱子学や陽明学の明徳論が自己抑制的である
しかしこれもキリスト教のように個人の内面が唯一神と直結するようなものではない
いわゆる東洋的発想だと自我が溶解して個人の人格が他者とリンクすることによって
倫理が達成される
こういう自己解体による倫理性の確保という視点が
ドストエフスキー作品にも見られるのだが
もちろんこういう考え方はキリスト教とは相いれない
というのも一種の汎神論になって信仰も解体されてしまうから 思考は人格に間違いなく影響するよ
そもそも自己なんて思考の塊みたいなもんだし
考えることが良いのか悪いのかについては何も言えないけど、自己を持つ人間ならば、考えることが存在することでもある
だから考えよう
「私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない。」 >>420
そうですね
ドストエフスキーも内なる葛藤や個と神との関係に倫理を打ちたてようとしていたのかもしれないね
理性に恥辱と写るものが心には美に写る、という矛盾がそこにはあります
「それよりももっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想を抱く人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。
いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。そうなんだよ!理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。」 >>407
> ドストエフスキーは主知主義的な信仰、つまり理神論を排した
> この中にはイワンのような理知主義やその反動である不可知論も含まれる
本文引用をお願いします。反感で書いてるのではなく、おそらくその通りだとおもうが理解を深めたいためです。
> ゾシマ長老による一種の汎神論的大地主義はこの観点から検討されるべきであり
これも本文引用をお願いします
> 世俗内伝道者アリョーシャの誕生が荒れ野の修行者たるイエスと重なるのもそのため
世俗内伝道者アリョーシャ」というのはなんとなくわかりますが、「荒れ野の修行者たるイエス」に
重なりません。ぼくの中では。
> これを仏教的に理解しようとするのなら修験的な在野主義だろうね
> そもそもイエスキリストの属したエッセネ派は修験道に似ているんだよ
修験道」というのは現代社会で死んでいる宗派という個人的イメージ。 >>421
> どうでもいいことをごちゃごちゃと
君こそ、そんなナンセンスのツッコミはいらないんだよ。2ちゃんの悪癖だね。
「どうでもいい」とおもう箇所を引用して、なぜ?「どうでもいい」と感じたか、それくらい書き給えよ。 >>422
すいません。例のカフカの門のアレだけど すごい頭に残っちゃって
理解しようと必死なの。このまま流さないで、なんか続きを書いてよ。 このスレの住民も掟の門と似た様なもんだな
ドストは門の向こう側へ行っちゃったな ぼくは何度でもゾシマを引用する。しかも同じ箇所だ。なぜなら、ひじょうに重要な思想
があるからだ。
これは日蓮大聖人の思想とイメージ的に極度に似ているのだ。
(I)地獄 地獄の火 神秘的考察
諸師よ、『地獄とはなんぞや』と考察する時、私は次のように解釈する、『すなわち、も
はや愛し 能わざる苦悩である。』
時間をもっても空間をもっても測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神
的存在物は、地上の出現によって『われ有り、故にわれ愛す』という能力を授けられた。
彼は実行的な生きた愛の瞬間を、一度、たった一度だけ与えられた。これが即ち地上生活
なのである。それと同時に時間と期限が与えられた。
ところが、いかなる結果が生じたか? この幸福な生物は限りなく貴い賜物を 拒んで、尊重
することも愛好することも知らず、嘲笑の眼をもって眺めながら、最後まで無感覚
のままで押し通した。
=================================================================================
1,一度、たった一度だけ与えられた
2,それと同時に時間と期限が与えられた
ぼくは若いときから、まいどこの箇所を読むとき感動を禁じ得ない。レイワのいまこの瞬間、印象に残ったのは、上の2つの表現だった。 どうか友たちよ。
ぼくがなぜこの箇所を、そしてゾシマの指導集を、こうまで愛するのか?そのなぞを解いてくれ。
ぼくにさらなるインスパイアを与えておくれ。 ぼくがカラマーゾフの兄弟を読む最大の目的は
人生を恐れる若い友たちへ、そうではないんだ!ということを語れる言葉を求めている。
そのためなのさ。 たとえばここにブラウザとしてクロームとファイアフォックスがあるとする。
それらは似てるかちがうか? だが究極的なマナコで見た時
それらは「まったく同じもの」ではないか?
ぼくはカラマーゾフのゾシマの教えと創価学会のおしえは「まったく同じもの」といっても
さしつかえないと考える。哲学的観点など完全に はなから読み飛ばしている。
大事なのはひとを救い、それを通じて自分を救うことと考える。自他ともにいっしょに幸福になっていくことだと考える。 (I)地獄 地獄の火 神秘的考察
諸師よ、『地獄とはなんぞや』と考察するとき、私は次のごとく解釈する、『すなわち、
もはや愛しあたわざる苦悶である。』時間をもっても、空間をもっても、はかることの
できない無限の世界において、ある一つの精神的存在物は、地上の出現によって『われ
あり、ゆえに、われ愛す』という能力を授けられた。
彼は実行的な「生きた」愛の瞬間を、一度、たった一度だけ与えられた。これがすなわち
地上生活なのである。
それと同時に時間と期限が与えられた。ところが、いかなる結果が生じたか?
この幸福な生物は限りなくとうとい賜物をこばんで、尊重することも愛好することも知らず、
嘲笑の目をもってながめながら、冷淡な態度をじしていた。 >>433
>諸師よ
と師匠であるゾシマは、弟子である神父たちに語りかける
私はいつも「地獄って何?」と思っています、と。きみたちはそういうことを考えたことがあるか?
日蓮もまた「地獄とはなんぞ?」と考え、同じ結論を述べている。(精確には書かない) >時間をもっても、空間をもっても、はかることの
できない無限の世界において、
場所はどこだ?
時空間では測れない、無窮無盡のある場所だ。きみたちはドストエフスキーを読んでいるつもりになってるだけだ。
これらの文もサラッと読み飛ばしているだろう? >ある一つの精神的存在物は、地上の出現によって『われ
あり、ゆえに、われ愛す』という能力を授けられた。
「ある」とは「某」だ。だれそれである必要はないのだ。一個の霊魂をもつ生命が、先の計測不能の場所に出現し
ある能力を賦与された。そしてなんと叫んだのか?
「我在故我愛!」『われあり、ゆえに、われ愛す』だ。「私 恋しちゃったんだあ」いったい何に対して? 僕が今生きいる世界は地獄だ。「僕は恋をしている!」と君に対して叫びたい。
一度、たった一度だけ「生きた」愛の瞬間を君に捧げたかった。
一瞬間でよかった。積極的で、暖かい愛の瞬間をきみに捧げるべきだった!
なんとなれば、僕がこの世に生まれてきたわけは
君を愛するためだったから だがもうムリなんだ。わかるね?
もう愛の季節は終わったんだ
そう... 僕らは拒む
この贈り物を放棄し、
大切にしない
バカにして愛さない
そして永遠に無関心になる
=================================================================================
僕がこんな世迷いごとを書いているのは、「某」が能力を授けられたが、なぜそれを実行しなかったか?について
考えて見るためだ。牛丼でも食ってくる。じゃあね 論点もなく適当なことを書き散らしても時間の無駄にしかならないんだよね
毎日5chにかじりつくしかない人はそれでいいのかもしれないけど
すこしでも知的な人はそれを相手にせず静かに通り過ぎていく >>427
>ドストは門の向こう側へ行っちゃったな
道元が正法眼蔵で触れている祖師西来意のようなもので
向こう側に行ったら駄目なんだよ
原理的に解答不可能な境地について考えるので
キリーロフやイワンのように発狂してしまう
内田樹ならキープするなパスしろ!
あるいは立ち止まって考え込むな!というだろうね
宇宙の果てや世界の終わりについて考えても仕方ないし
これに世俗道徳をからめてもしょうがない
でも宗教とはそんなものなんだけどさ >>426
もう上レスですでに書かれているけど、個人的には二通りの見方がある
一つは、道理の門とは一線を越えなかったということ
法でもあり秩序でもある道理を踏みとどまって、そこに尋ねてはしたけれど最後まで枠に留まることを選択した、という道理がそこにある
もう一つは、道理に、自分より大きな存在からの許可を求めたということ
良心や道徳などの自己基準は自分より大きな存在に許可を求めて、それが与えられれば道理など弱いものに過ぎないとも解釈できる
許可さえあれば人は簡単に道理など踏み越える、という風刺としても読める
ただし共通する解釈として重要なのは、この物語の通り、道理とは彼のみに与えられた門であり、万人共通の道理があると思っているのは誤解だ、ということです
カフカは実在主義を個であることにこだわり、すべての感覚から発生する情緒もまた個人的なものであるとする考えはドストエフスキーと似ている概念だと思うよ
一匹の毒虫に変わったとしても全体は自分という個とは何も関係しない、ということです
どこまで行っても、すべては自分と自分の門の物語である、ということです もうすこし踏み込んだ話をすれば、宗教も同じ見方ができる
この道理とは法とか秩序とか、もっと言えば神に置き換えてもいいとさえ思います
例えば、病院において、医者は何人もの患者を請け負うことになる
しかし患者からすれば医者は主治医一人になる
医師からすれば患者という多数に「共通」の健康を与えるが、患者からすれば「自分」の健康を求めるのみ、ということ
学校の教師と生徒でも同じことだね
個人的に信仰や倫理や道徳(するかしないかは別問題として)についても同じことが言えるし、それを誤解している人が多いとも思っている
神(道理でもなんでもいい)からすればすべての人間について語るけども、人からすれば自分と神しかそもそもいない、ということが上の根拠から言えないだろうか
だからキリーロフでさえ見習う所はあると言える
彼はあらゆる秩序を自分のみに向けた
だから他者の殺人ではなく、自分の殺人なのだろう
道理も道徳も倫理も神との関係も、患者という人の立場からすれば、自分に向けることしかできないはずなのに、多くの宗教やその団体は創始者の意図とはかけ離れて、自分の門では飽き足らず人の門まで叩こうとする姿勢は考えさせられる、と個人的には思っています
イワンは微妙だけど老婆殺しのラスコリニコフはこのパターンだと思われる
GWもおわるから明日から早く寝なくちゃw
おかけげ昼夜逆転したw >>428
>時間をもっても空間をもっても測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神
>的存在物は、地上の出現によって『われ有り、故にわれ愛す』という能力を授けられた。
イエスキリストのことだと思うよ
そもそも神は時間に属さない
そしてその神が「受肉」したということはキリスト教として超重要な出来事である
キリストはいう、新しい戒めとして、神を愛することと隣人を愛すること、と告げた
神と違って人間は時間に属する存在だから、この世では有限の中を生きているという真理がある
感じ方に違いはあれど、その時間は少ない
だから憎み合っている暇はない、愛し会う時間ですら少ないのだから、人を自分自身のように愛することが我ありという存在証明になるくらい仲良しでいこう!、みたいな感じかな
ちなみにその逆に、相手が死んでから、愛しあえって行ったのは誰だ?みたいな書き方をしている著作もあったよね
おとなしい女だったかな >>439
> 論点もなく適当なことを書き散らしても時間の無駄にしかならないんだよね
> 毎日5chにかじりつくしかない人はそれでいいのかもしれないけど
> すこしでも知的な人はそれを相手にせず静かに通り過ぎていく
おまい、まずスルーできてねえしW どこが知的なの? 知的以前に「何も書けねえじゃん!」
はやく、ドストエフスキーについて本文引用して書きなよ >>440
>>441
おふた方はこのスレの重鎮です。それはここのスレ主であるぼくが認めますWW
元来は、能力的に煽り程度しか書けないものが集うべきネット掲示板に、ぜんこん込めて投稿してくれてる。
おれたちは異次元です。それができるのはなぜですか?ぜんぶドストエフスキーの功徳です。
明日以降ゆっくりレスします。ありがとうメルシー >>443
> >時間をもっても空間をもっても測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神
> >的存在物は、地上の出現によって『われ有り、故にわれ愛す』という能力を授けられた。
>
> イエスキリストのことだと思うよ
これだけ。それは違うんじゃないの? だってその存在物はいっさい尊重せず愛さないんだよ? >>441
まず本文すらちゃんと読んでないことを先にアヤマル。
> 一つは、道理の門とは一線を越えなかったということ
いちおう納得。
> 法でもあり秩序でもある道理を踏みとどまって、そこに尋ねてはしたけれど最後まで枠に留まることを選択した、という道理がそこにある
最後まで枠に留まる」というのは、自分の意志でとどまったんだっけ?
>
> もう一つは、道理に、自分より大きな存在からの許可を求めたということ
なっとく。
> 良心や道徳などの自己基準は自分より大きな存在に許可を求めて、それが与えられれば道理など弱いものに過ぎないとも解釈できる
> 許可さえあれば人は簡単に道理など踏み越える、という風刺としても読める
すばらしい。この説明は。
>
> ただし共通する解釈として重要なのは、この物語の通り、道理とは彼のみに与えられた門であり、万人共通の道理があると思っているのは誤解だ、ということです
そういうことなんか? 「道理とは彼のみに与えられた門であり」へ?何この日本語、理解できん。となっていた。
> カフカは実在主義を個であることにこだわり、すべての感覚から発生する情緒もまた個人的なものであるとする考えはドストエフスキーと似ている概念だと思うよ
> 一匹の毒虫に変わったとしても全体は自分という個とは何も関係しない、ということです
> どこまで行っても、すべては自分と自分の門の物語である、ということです
このところは わかるような、わからんような。なっとくゆかん。
あとで読み返す。 >>442
例えば、病院において、医者は何人もの患者を請け負うことになる
しかし患者からすれば医者は主治医一人になる
医師からすれば患者という多数に「共通」の健康を与えるが、患者からすれば「自分」の健康を求めるのみ、ということ
-----------------------------------------
ここの喩えは、一次的に、ひじょうに理解しやすいたとえです。しかし、もういちだん深くみると、どうでしょう?
さいしょ、その患者は「「自分」の健康を求めるのみ」の姿で、泣きながら名医のところへ行った。
だが、その患者はしだいに目覚めていった。おのれひとりの病苦がこの世界にあるのではないと。
医者さえも患者であった。病院の全てのひとが患者であった。さらに全人類が病者であった。こう理解したならば?
その患者は、身近なたったひとりを看護するために立ち上がった。つぎは一切衆生の看護婦になろうと決意しないだろうか? >多くの宗教やその団体は創始者の意図とはかけ離れて、自分の門では飽き足らず人の門まで叩こうとする姿勢は考えさせられる、と個人的には思っています
まず「創始者の意図」とはなんのことでしょう?
キリスト教であれは、キリストは個人主義的な、信仰を勧めたのですか?
もうひとつは「伝道」とか「広宣流布」ということが「何故あるのか?」その目的を誤解してると思います。 >>440
> >ドストは門の向こう側へ行っちゃったな
>
> 道元が正法眼蔵で触れている祖師西来意のようなもので
> 向こう側に行ったら駄目なんだよ
> 原理的に解答不可能な境地について考えるので
> キリーロフやイワンのように発狂してしまう
> 内田樹ならキープするなパスしろ!
> あるいは立ち止まって考え込むな!というだろうね
> 宇宙の果てや世界の終わりについて考えても仕方ないし
> これに世俗道徳をからめてもしょうがない
> でも宗教とはそんなものなんだけどさ
=================================================================================
ぼくがいつもあなたのカキコを読んで感じるのは、広く学び多くを聞き、哲学的宗教的観念を
捉えようとしていることですが、逆にそれがあなたのガンになっていると思う。
イヤ、思うと言うより、あなたも知っているとおり、古聖たちは「そういう態度はあかん」と皆指摘している。
無意味な思考を捨てて、思考なんか役に立たないじゃないですか?ある意味。
ぼくらは「自分のわがままで愚かな思考の堂堂巡り」で容易に逃げる道、たやすい道、愚かな道を
選択するじゃないですか? >>448
>そういうことなんか? 「道理とは彼のみに与えられた門であり」へ?何この日本語、理解できん。となっていた。
>>418
>「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ。」 >>449
例えは何かの比喩というだけで、単語に意味はほどんどないということ
ここでの問題は「関係」ついて例えているだけにすぎないよ
関係には関係する役割があって、要するに、神は神という立場で、被造物は被造物という立場でしか関係を持てない、という話の例えが医者と患者ということ
だから学校でもいいし、会社の上司と部下でもいい
あくまで例え話だからね >>450
伝える、ということの意味がぼくとは違うんだろうね
どちらがいいのか悪いのかではなく、おそらく深層では認識の違いだと思うよ
キリスト教について無知なぼくより詳しい人に聞いた方がいいんだけど、それでも言えることは、なんでも語りかける時は基本的に「汝は」で始まる
「人間は」ではなくて「あなたは」として語りかけるということ
あなたの隣人を愛しなさい、ということ
その「あなたの隣人は誰か」というのは、語りかけたものの指定ではなく、語られたものの問題ということ
そこには自由意思の存在がある、自由意思とは何か
それは、ただ一人で選択することが「出来得る」ということ
なのでこの話は、個人主義とか全体主義という枠組みの内容の話とはまったく別問題、ということです
大審問官のパンと自由の、第一の悪魔の誘惑を読むといいよ
カフカ流に言えば、自分の門を叩くかどうかは自分が自由に選択することで、それは彼のみに与えられた特権である というか10時から電気消して布団にいるのに寝られないw
休み開けはいつもこうだ
スマホか長靴か、だねw 罪と罰の新訳を再読中
地下室読んだ後だと主人公がラスコリニコフの分身だったとわかって面白い >>428
それと同時に時間と期限が与えられた。ところが、いかなる結果が生じたか? この幸福な
生物は限りなく貴い賜物を 拒んで、尊重することも愛好することも知らず、嘲笑の
眼をもって眺めながら、最後まで無感覚のままで押し通した。
こういう人が地上を去った時、富めるもの及びラザロに関する寓話に示されているように、
アブラハムの懐をも見るだろうし、アブラハムと物語をもするだろうし、天国を見かつ神の
もとへ赴くこともできよう。
しかし、愛することのできなかった者が神のもとへ赴き、他人の
愛を蔑視した者が愛を抱ける人々と接触する、ということに苦痛が存するのであ
る。なぜならばこの時はじめて目が醒めて、心の中でこう思うからである。 『今こそようやく分かった。たとえ今愛することを望んだところで、自分の愛には効果
もなければ犠牲もない。
地上の生活はもはや終わったからである。いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
いま他人のために自分の命を喜んで捧げる覚悟はあっても、それはもはや不可能なのだ。愛
の犠牲として捧げることのできる生活はもう過ぎ去ってしまった。今はあの生活とこの生活
との間に、無限の深淵が横たわっている。』 アブラハムについての注記(前前スレよりコピペ)
-----------------------------------------------
ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜい沢に遊び暮らしていた。ところが、
ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、その
食卓から落ちる物で飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬が来て彼のでき物をなめていた。
この貧しい人がついに死に、御使い達に連れられてアブラハムのふところに送られた。
金持ちも死んで葬られた。そして黄泉(よみ)にいて苦しみながら、目を上げると、アブラハム
とその懐にいるラザロとが、はるかに見えた。
そこで彼は声を上げて言った、『父アブラハムよ、私を哀れんでください。ラザロをお遣わし
になって、その指先を水で濡らし、私の舌を冷やさせてください。私はこの火炎の中で苦しみ
もだえています』。 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前良いものを受け、ラザロの
方は悪いものを受けた。しかし、今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとあなたがたとの間には大きな深遠が置いてあって、こちらからあなた
方のほうへ渡ろうと思ってもできないし、そちらから私たちの方へ越えて来ることも出来ない』
そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。私の父の家へラザロをお遣わしください。
私に5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告して頂き
たいのです』。
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者がある。これに聞くが良かろう』。
金持ちが言った、『いいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが兄弟達の所へ行ってく
れましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみ
がえって来る者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
------------------------------------------------
これは紛れもなく、知っておいたほうがよい背景的知識であろう。 >>458
> 『今こそようやく分かった。たとえ今愛することを望んだところで、自分の愛には効果
> もなければ犠牲もない。
おれはこの言葉をささやき、叫びながら、きょう外を歩き走り、電車に乗っていたのだ。
「愛とは犠牲!」と自分に言い聞かせつつ。
おれが君らにずっと不満なのは、ドストエフスキーを哲学か教養として、覚めた距離から読んで、それで
読んだつもりになっていることだ。
おれら自身の日常ってのは、時に、カラマーゾフをも遥かに凌駕する劇的なものじゃないか?
>この幸福な生物は限りなく貴い賜物を 拒んで、尊重
することも愛好することも知らず、嘲笑の眼をもって眺めながら、最後まで無感覚
のままで押し通した。
これは君のことであり、悪いときの僕のことじゃないか? まえにキリスト教を知らないでドストエフスキーを読めませんよ... フフw
とかホザイてたやつがいた。おれに言わせりゃ片腹痛い。
知的になんか理解したって、なんになるってんだ?
最初に読んだときの感動のままに、この老年近き今日まで、おれの内部にカラマーゾフの兄弟はある。
創価学会員として生きることがすなわち俺にとってのカラマーゾフだ。 単純に知識を通して読まないと読み誤る、ってことじゃない
クセの強い本とか、そこら辺ドストエフスキーはかなり濃いからね >>463
こういう人が地上を去った時、富めるもの及びラザロに関する寓話に示されているように、
アブラハムの懐をも見るだろうし、アブラハムと物語をもするだろうし、天国を見かつ神の
もとへ赴くこともできよう。
いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
==========================================================================
=======
今回のあたりですが、背景的知識がなくても、そこから受ける感動はいっしょじゃないです
か?
どうでしょう?
むしろ、聖書の、キリスト教信仰の香りも色も味わいも、ドストエフスキーの天才的筆致か
ら蘇ってきませんか?
> 単純に知識を通して読まないと読み誤る、ってことじゃない
> クセの強い本とか、そこら辺ドストエフスキーはかなり濃いからね
僕はぎゃくに感じる。余計な知識を通して読めば、読み誤る。
知識などあとからポツポツと自然に入ってくる。それさえ余計なくらいだろう。
彼らの読みなど、あてになる場合もあれば、まったく見当違いもあろう。というのは、バフ
チン?であろうが、小林英夫?であろうが「彼らの境涯」が入り込むからです。そうした後
代の解釈者・論者と、ド氏とどちらが上なの? 評論家にカラマーゾフや罪と罰が書ける
の? ゾシマやアレクセイを創造できるの?
ドストなかずく「カラマーゾフの兄弟」は真の古典ですから、若い人が、若い心のままに読
んで、強力な影響を受ける。聖書など遥かに凌駕した文学です。 >>463
こういう人が地上を去った時、富めるもの及びラザロに関する寓話に示されているように、
アブラハムの懐をも見るだろうし、アブラハムと物語をもするだろうし、天国を見かつ神の
もとへ赴くこともできよう。
いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
------------------------------------------------------------------
今回のあたりですが、背景的知識がなくても、そこから受ける感動はいっしょじゃないです
か?
どうでしょう?
むしろ、聖書の、キリスト教信仰の香りも色も味わいも、ドストエフスキーの天才的筆致か
ら蘇ってきませんか?
> 単純に知識を通して読まないと読み誤る、ってことじゃない
> クセの強い本とか、そこら辺ドストエフスキーはかなり濃いからね
僕はぎゃくに感じる。余計な知識を通して読めば、読み誤る。
知識などあとからポツポツと自然に入ってくる。それさえ余計なくらいだろう。
彼らの読みなど、あてになる場合もあれば、まったく見当違いもあろう。というのは、バフ
チン?であろうが、小林英夫?であろうが「彼らの境涯」が入り込むからです。そうした後
代の解釈者・論者と、ド氏とどちらが上なの? 評論家にカラマーゾフや罪と罰が書ける
の? ゾシマやアレクセイを創造できるの?
ドストなかずく「カラマーゾフの兄弟」は真の古典ですから、若い人が、若い心のままに読
んで、強力な影響を受ける。聖書など遥かに凌駕した文学です。 自分の意見は押し付けるけど、自分の知らない知識には嫉妬やっかみだけで全否定するのが創価学会 >>467
> 自分の意見は押し付けるけど、自分の知らない知識には嫉妬やっかみだけで全否定するのが創価学会
>聖書など遥かに凌駕した文学です。
は言いすぎですね。www 読んだこともないのに。でも、
>バフチン?であろうが、小林英夫?であろうが「彼らの境涯」が入り込むからです。そうした後
代の解釈者・論者と、ド氏とどちらが上なの? 評論家にカラマーゾフや罪と罰が書ける
の? ゾシマやアレクセイを創造できるの?
の問はどうですか? そのとおりじゃないですか?w >>458
> 『今こそようやく分かった。たとえ今愛することを望んだところで、自分の愛には効果
> もなければ犠牲もない。
>
> 地上の生活はもはや終わったからである。いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
> 望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
> 地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
>
=================================================================================
いま、生きている「この瞬間しかない」この瞬間しか「犠牲をはらう」ことも、「効果」もない。
> いま他人のために自分の命を喜んで捧げる覚悟はあっても、それはもはや不可能なのだ。愛
> の犠牲として捧げることのできる生活はもう過ぎ去ってしまった。今はあの生活とこの生活
> との間に、無限の深淵が横たわっている。』
いま他人のために自分の命を喜んで捧げる覚悟、つまり他人に「尽くそう」とする生命です。
それはいましかなく、別のとき別の場所ではない。 他人に尽くすためには、胃がキリキリ痛むような、ギリギリの神経戦になる場合もある。
そのままヘタってしまうかもしれない。自分が自殺してしまうかもしれない。
だがやるのだ。模範は周囲にたくさんいるではないか? .... これこそ宗教の本質です。これがないなら、
ただの観念論です。けっして人間的成長も、絶対的幸福もありえません。 よく地獄の火は物質的のものだと説く人がある。私はこういう神秘を究めようとは思わない。そのようなことをするのは恐ろしい。
(我)
神秘はわからないから、究めようとしない、そういう観念論はしりぞける―――それがゾシマの仰せだよ。
それは恐ろしいことであると、これを敬虔という。 >>470
わたしたち凡夫は弱い。逃げたくなる。深い悩みの深淵に囚われている青年と対峙することは。
だからこそ、チームでやる。学会も、このゾシマの教会も同じこと。お互いにはげまし合い、ときには
ライバルともなる。ゾシマひとりで、民衆の問題をかんがえるのではない。高僧たちも、アリョーシャも
そのことのために一致団結する。たとえば、ここにイヴァンカラマーゾフという貴族の青年がいる。
脳内に不幸な思想をやどしている。この青年を未来の不幸からいい方向へ向けるためには、どうするのか?と。
またここにひとりの農婦がいる。一人息子が急に手紙をいっさいよこさなくなった。母親は混乱し不安だ。
それは生活に暗い影を落とす。 しかし、かりにそれが物質的の火であるとすれば、そこに落ちた人々はかえって心から
それを喜んだに相違ない。
なぜなれば、余の考えでは、物質的な苦痛に紛れて、よしや 一ときであろうとも、さらに
恐ろしい心の悩みを忘れることができるからである。
しかし、この悩みは外部のものでなく内部のものであるから、全然とり去ってしまうことは
できない。もし取り去ることができたとしても、人々はこれがためいっそう不幸に陥ること
と思われる。
=================================================================================
物質的な苦痛よりも、「心の悩み」のほうが恐ろしいこと十字御書:日蓮。その「心の悩み」とは何か?
それが「地獄」であると。
そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或
は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて
候。さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人
の心の内に候。
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