ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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>>427
>ドストは門の向こう側へ行っちゃったな
道元が正法眼蔵で触れている祖師西来意のようなもので
向こう側に行ったら駄目なんだよ
原理的に解答不可能な境地について考えるので
キリーロフやイワンのように発狂してしまう
内田樹ならキープするなパスしろ!
あるいは立ち止まって考え込むな!というだろうね
宇宙の果てや世界の終わりについて考えても仕方ないし
これに世俗道徳をからめてもしょうがない
でも宗教とはそんなものなんだけどさ >>426
もう上レスですでに書かれているけど、個人的には二通りの見方がある
一つは、道理の門とは一線を越えなかったということ
法でもあり秩序でもある道理を踏みとどまって、そこに尋ねてはしたけれど最後まで枠に留まることを選択した、という道理がそこにある
もう一つは、道理に、自分より大きな存在からの許可を求めたということ
良心や道徳などの自己基準は自分より大きな存在に許可を求めて、それが与えられれば道理など弱いものに過ぎないとも解釈できる
許可さえあれば人は簡単に道理など踏み越える、という風刺としても読める
ただし共通する解釈として重要なのは、この物語の通り、道理とは彼のみに与えられた門であり、万人共通の道理があると思っているのは誤解だ、ということです
カフカは実在主義を個であることにこだわり、すべての感覚から発生する情緒もまた個人的なものであるとする考えはドストエフスキーと似ている概念だと思うよ
一匹の毒虫に変わったとしても全体は自分という個とは何も関係しない、ということです
どこまで行っても、すべては自分と自分の門の物語である、ということです もうすこし踏み込んだ話をすれば、宗教も同じ見方ができる
この道理とは法とか秩序とか、もっと言えば神に置き換えてもいいとさえ思います
例えば、病院において、医者は何人もの患者を請け負うことになる
しかし患者からすれば医者は主治医一人になる
医師からすれば患者という多数に「共通」の健康を与えるが、患者からすれば「自分」の健康を求めるのみ、ということ
学校の教師と生徒でも同じことだね
個人的に信仰や倫理や道徳(するかしないかは別問題として)についても同じことが言えるし、それを誤解している人が多いとも思っている
神(道理でもなんでもいい)からすればすべての人間について語るけども、人からすれば自分と神しかそもそもいない、ということが上の根拠から言えないだろうか
だからキリーロフでさえ見習う所はあると言える
彼はあらゆる秩序を自分のみに向けた
だから他者の殺人ではなく、自分の殺人なのだろう
道理も道徳も倫理も神との関係も、患者という人の立場からすれば、自分に向けることしかできないはずなのに、多くの宗教やその団体は創始者の意図とはかけ離れて、自分の門では飽き足らず人の門まで叩こうとする姿勢は考えさせられる、と個人的には思っています
イワンは微妙だけど老婆殺しのラスコリニコフはこのパターンだと思われる
GWもおわるから明日から早く寝なくちゃw
おかけげ昼夜逆転したw >>428
>時間をもっても空間をもっても測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神
>的存在物は、地上の出現によって『われ有り、故にわれ愛す』という能力を授けられた。
イエスキリストのことだと思うよ
そもそも神は時間に属さない
そしてその神が「受肉」したということはキリスト教として超重要な出来事である
キリストはいう、新しい戒めとして、神を愛することと隣人を愛すること、と告げた
神と違って人間は時間に属する存在だから、この世では有限の中を生きているという真理がある
感じ方に違いはあれど、その時間は少ない
だから憎み合っている暇はない、愛し会う時間ですら少ないのだから、人を自分自身のように愛することが我ありという存在証明になるくらい仲良しでいこう!、みたいな感じかな
ちなみにその逆に、相手が死んでから、愛しあえって行ったのは誰だ?みたいな書き方をしている著作もあったよね
おとなしい女だったかな >>439
> 論点もなく適当なことを書き散らしても時間の無駄にしかならないんだよね
> 毎日5chにかじりつくしかない人はそれでいいのかもしれないけど
> すこしでも知的な人はそれを相手にせず静かに通り過ぎていく
おまい、まずスルーできてねえしW どこが知的なの? 知的以前に「何も書けねえじゃん!」
はやく、ドストエフスキーについて本文引用して書きなよ >>440
>>441
おふた方はこのスレの重鎮です。それはここのスレ主であるぼくが認めますWW
元来は、能力的に煽り程度しか書けないものが集うべきネット掲示板に、ぜんこん込めて投稿してくれてる。
おれたちは異次元です。それができるのはなぜですか?ぜんぶドストエフスキーの功徳です。
明日以降ゆっくりレスします。ありがとうメルシー >>443
> >時間をもっても空間をもっても測ることのできない無限の世界において、ある一つの精神
> >的存在物は、地上の出現によって『われ有り、故にわれ愛す』という能力を授けられた。
>
> イエスキリストのことだと思うよ
これだけ。それは違うんじゃないの? だってその存在物はいっさい尊重せず愛さないんだよ? >>441
まず本文すらちゃんと読んでないことを先にアヤマル。
> 一つは、道理の門とは一線を越えなかったということ
いちおう納得。
> 法でもあり秩序でもある道理を踏みとどまって、そこに尋ねてはしたけれど最後まで枠に留まることを選択した、という道理がそこにある
最後まで枠に留まる」というのは、自分の意志でとどまったんだっけ?
>
> もう一つは、道理に、自分より大きな存在からの許可を求めたということ
なっとく。
> 良心や道徳などの自己基準は自分より大きな存在に許可を求めて、それが与えられれば道理など弱いものに過ぎないとも解釈できる
> 許可さえあれば人は簡単に道理など踏み越える、という風刺としても読める
すばらしい。この説明は。
>
> ただし共通する解釈として重要なのは、この物語の通り、道理とは彼のみに与えられた門であり、万人共通の道理があると思っているのは誤解だ、ということです
そういうことなんか? 「道理とは彼のみに与えられた門であり」へ?何この日本語、理解できん。となっていた。
> カフカは実在主義を個であることにこだわり、すべての感覚から発生する情緒もまた個人的なものであるとする考えはドストエフスキーと似ている概念だと思うよ
> 一匹の毒虫に変わったとしても全体は自分という個とは何も関係しない、ということです
> どこまで行っても、すべては自分と自分の門の物語である、ということです
このところは わかるような、わからんような。なっとくゆかん。
あとで読み返す。 >>442
例えば、病院において、医者は何人もの患者を請け負うことになる
しかし患者からすれば医者は主治医一人になる
医師からすれば患者という多数に「共通」の健康を与えるが、患者からすれば「自分」の健康を求めるのみ、ということ
-----------------------------------------
ここの喩えは、一次的に、ひじょうに理解しやすいたとえです。しかし、もういちだん深くみると、どうでしょう?
さいしょ、その患者は「「自分」の健康を求めるのみ」の姿で、泣きながら名医のところへ行った。
だが、その患者はしだいに目覚めていった。おのれひとりの病苦がこの世界にあるのではないと。
医者さえも患者であった。病院の全てのひとが患者であった。さらに全人類が病者であった。こう理解したならば?
その患者は、身近なたったひとりを看護するために立ち上がった。つぎは一切衆生の看護婦になろうと決意しないだろうか? >多くの宗教やその団体は創始者の意図とはかけ離れて、自分の門では飽き足らず人の門まで叩こうとする姿勢は考えさせられる、と個人的には思っています
まず「創始者の意図」とはなんのことでしょう?
キリスト教であれは、キリストは個人主義的な、信仰を勧めたのですか?
もうひとつは「伝道」とか「広宣流布」ということが「何故あるのか?」その目的を誤解してると思います。 >>440
> >ドストは門の向こう側へ行っちゃったな
>
> 道元が正法眼蔵で触れている祖師西来意のようなもので
> 向こう側に行ったら駄目なんだよ
> 原理的に解答不可能な境地について考えるので
> キリーロフやイワンのように発狂してしまう
> 内田樹ならキープするなパスしろ!
> あるいは立ち止まって考え込むな!というだろうね
> 宇宙の果てや世界の終わりについて考えても仕方ないし
> これに世俗道徳をからめてもしょうがない
> でも宗教とはそんなものなんだけどさ
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ぼくがいつもあなたのカキコを読んで感じるのは、広く学び多くを聞き、哲学的宗教的観念を
捉えようとしていることですが、逆にそれがあなたのガンになっていると思う。
イヤ、思うと言うより、あなたも知っているとおり、古聖たちは「そういう態度はあかん」と皆指摘している。
無意味な思考を捨てて、思考なんか役に立たないじゃないですか?ある意味。
ぼくらは「自分のわがままで愚かな思考の堂堂巡り」で容易に逃げる道、たやすい道、愚かな道を
選択するじゃないですか? >>448
>そういうことなんか? 「道理とは彼のみに与えられた門であり」へ?何この日本語、理解できん。となっていた。
>>418
>「ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ。」 >>449
例えは何かの比喩というだけで、単語に意味はほどんどないということ
ここでの問題は「関係」ついて例えているだけにすぎないよ
関係には関係する役割があって、要するに、神は神という立場で、被造物は被造物という立場でしか関係を持てない、という話の例えが医者と患者ということ
だから学校でもいいし、会社の上司と部下でもいい
あくまで例え話だからね >>450
伝える、ということの意味がぼくとは違うんだろうね
どちらがいいのか悪いのかではなく、おそらく深層では認識の違いだと思うよ
キリスト教について無知なぼくより詳しい人に聞いた方がいいんだけど、それでも言えることは、なんでも語りかける時は基本的に「汝は」で始まる
「人間は」ではなくて「あなたは」として語りかけるということ
あなたの隣人を愛しなさい、ということ
その「あなたの隣人は誰か」というのは、語りかけたものの指定ではなく、語られたものの問題ということ
そこには自由意思の存在がある、自由意思とは何か
それは、ただ一人で選択することが「出来得る」ということ
なのでこの話は、個人主義とか全体主義という枠組みの内容の話とはまったく別問題、ということです
大審問官のパンと自由の、第一の悪魔の誘惑を読むといいよ
カフカ流に言えば、自分の門を叩くかどうかは自分が自由に選択することで、それは彼のみに与えられた特権である というか10時から電気消して布団にいるのに寝られないw
休み開けはいつもこうだ
スマホか長靴か、だねw 罪と罰の新訳を再読中
地下室読んだ後だと主人公がラスコリニコフの分身だったとわかって面白い >>428
それと同時に時間と期限が与えられた。ところが、いかなる結果が生じたか? この幸福な
生物は限りなく貴い賜物を 拒んで、尊重することも愛好することも知らず、嘲笑の
眼をもって眺めながら、最後まで無感覚のままで押し通した。
こういう人が地上を去った時、富めるもの及びラザロに関する寓話に示されているように、
アブラハムの懐をも見るだろうし、アブラハムと物語をもするだろうし、天国を見かつ神の
もとへ赴くこともできよう。
しかし、愛することのできなかった者が神のもとへ赴き、他人の
愛を蔑視した者が愛を抱ける人々と接触する、ということに苦痛が存するのであ
る。なぜならばこの時はじめて目が醒めて、心の中でこう思うからである。 『今こそようやく分かった。たとえ今愛することを望んだところで、自分の愛には効果
もなければ犠牲もない。
地上の生活はもはや終わったからである。いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
いま他人のために自分の命を喜んで捧げる覚悟はあっても、それはもはや不可能なのだ。愛
の犠牲として捧げることのできる生活はもう過ぎ去ってしまった。今はあの生活とこの生活
との間に、無限の深淵が横たわっている。』 アブラハムについての注記(前前スレよりコピペ)
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ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜい沢に遊び暮らしていた。ところが、
ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、その
食卓から落ちる物で飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬が来て彼のでき物をなめていた。
この貧しい人がついに死に、御使い達に連れられてアブラハムのふところに送られた。
金持ちも死んで葬られた。そして黄泉(よみ)にいて苦しみながら、目を上げると、アブラハム
とその懐にいるラザロとが、はるかに見えた。
そこで彼は声を上げて言った、『父アブラハムよ、私を哀れんでください。ラザロをお遣わし
になって、その指先を水で濡らし、私の舌を冷やさせてください。私はこの火炎の中で苦しみ
もだえています』。 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前良いものを受け、ラザロの
方は悪いものを受けた。しかし、今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとあなたがたとの間には大きな深遠が置いてあって、こちらからあなた
方のほうへ渡ろうと思ってもできないし、そちらから私たちの方へ越えて来ることも出来ない』
そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。私の父の家へラザロをお遣わしください。
私に5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告して頂き
たいのです』。
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者がある。これに聞くが良かろう』。
金持ちが言った、『いいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが兄弟達の所へ行ってく
れましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみ
がえって来る者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
------------------------------------------------
これは紛れもなく、知っておいたほうがよい背景的知識であろう。 >>458
> 『今こそようやく分かった。たとえ今愛することを望んだところで、自分の愛には効果
> もなければ犠牲もない。
おれはこの言葉をささやき、叫びながら、きょう外を歩き走り、電車に乗っていたのだ。
「愛とは犠牲!」と自分に言い聞かせつつ。
おれが君らにずっと不満なのは、ドストエフスキーを哲学か教養として、覚めた距離から読んで、それで
読んだつもりになっていることだ。
おれら自身の日常ってのは、時に、カラマーゾフをも遥かに凌駕する劇的なものじゃないか?
>この幸福な生物は限りなく貴い賜物を 拒んで、尊重
することも愛好することも知らず、嘲笑の眼をもって眺めながら、最後まで無感覚
のままで押し通した。
これは君のことであり、悪いときの僕のことじゃないか? まえにキリスト教を知らないでドストエフスキーを読めませんよ... フフw
とかホザイてたやつがいた。おれに言わせりゃ片腹痛い。
知的になんか理解したって、なんになるってんだ?
最初に読んだときの感動のままに、この老年近き今日まで、おれの内部にカラマーゾフの兄弟はある。
創価学会員として生きることがすなわち俺にとってのカラマーゾフだ。 単純に知識を通して読まないと読み誤る、ってことじゃない
クセの強い本とか、そこら辺ドストエフスキーはかなり濃いからね >>463
こういう人が地上を去った時、富めるもの及びラザロに関する寓話に示されているように、
アブラハムの懐をも見るだろうし、アブラハムと物語をもするだろうし、天国を見かつ神の
もとへ赴くこともできよう。
いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
==========================================================================
=======
今回のあたりですが、背景的知識がなくても、そこから受ける感動はいっしょじゃないです
か?
どうでしょう?
むしろ、聖書の、キリスト教信仰の香りも色も味わいも、ドストエフスキーの天才的筆致か
ら蘇ってきませんか?
> 単純に知識を通して読まないと読み誤る、ってことじゃない
> クセの強い本とか、そこら辺ドストエフスキーはかなり濃いからね
僕はぎゃくに感じる。余計な知識を通して読めば、読み誤る。
知識などあとからポツポツと自然に入ってくる。それさえ余計なくらいだろう。
彼らの読みなど、あてになる場合もあれば、まったく見当違いもあろう。というのは、バフ
チン?であろうが、小林英夫?であろうが「彼らの境涯」が入り込むからです。そうした後
代の解釈者・論者と、ド氏とどちらが上なの? 評論家にカラマーゾフや罪と罰が書ける
の? ゾシマやアレクセイを創造できるの?
ドストなかずく「カラマーゾフの兄弟」は真の古典ですから、若い人が、若い心のままに読
んで、強力な影響を受ける。聖書など遥かに凌駕した文学です。 >>463
こういう人が地上を去った時、富めるもの及びラザロに関する寓話に示されているように、
アブラハムの懐をも見るだろうし、アブラハムと物語をもするだろうし、天国を見かつ神の
もとへ赴くこともできよう。
いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
------------------------------------------------------------------
今回のあたりですが、背景的知識がなくても、そこから受ける感動はいっしょじゃないです
か?
どうでしょう?
むしろ、聖書の、キリスト教信仰の香りも色も味わいも、ドストエフスキーの天才的筆致か
ら蘇ってきませんか?
> 単純に知識を通して読まないと読み誤る、ってことじゃない
> クセの強い本とか、そこら辺ドストエフスキーはかなり濃いからね
僕はぎゃくに感じる。余計な知識を通して読めば、読み誤る。
知識などあとからポツポツと自然に入ってくる。それさえ余計なくらいだろう。
彼らの読みなど、あてになる場合もあれば、まったく見当違いもあろう。というのは、バフ
チン?であろうが、小林英夫?であろうが「彼らの境涯」が入り込むからです。そうした後
代の解釈者・論者と、ド氏とどちらが上なの? 評論家にカラマーゾフや罪と罰が書ける
の? ゾシマやアレクセイを創造できるの?
ドストなかずく「カラマーゾフの兄弟」は真の古典ですから、若い人が、若い心のままに読
んで、強力な影響を受ける。聖書など遥かに凌駕した文学です。 自分の意見は押し付けるけど、自分の知らない知識には嫉妬やっかみだけで全否定するのが創価学会 >>467
> 自分の意見は押し付けるけど、自分の知らない知識には嫉妬やっかみだけで全否定するのが創価学会
>聖書など遥かに凌駕した文学です。
は言いすぎですね。www 読んだこともないのに。でも、
>バフチン?であろうが、小林英夫?であろうが「彼らの境涯」が入り込むからです。そうした後
代の解釈者・論者と、ド氏とどちらが上なの? 評論家にカラマーゾフや罪と罰が書ける
の? ゾシマやアレクセイを創造できるの?
の問はどうですか? そのとおりじゃないですか?w >>458
> 『今こそようやく分かった。たとえ今愛することを望んだところで、自分の愛には効果
> もなければ犠牲もない。
>
> 地上の生活はもはや終わったからである。いま自分の胸には、地上で蔑視した精神的愛の渇
> 望が炎のように燃え立っているけれども、それを癒やすための生きた水(即ち以前の実行的な
> 地上生活の賜物)を、ただの一滴でも持って来てくれるアブラハムはいないのだ。
>
=================================================================================
いま、生きている「この瞬間しかない」この瞬間しか「犠牲をはらう」ことも、「効果」もない。
> いま他人のために自分の命を喜んで捧げる覚悟はあっても、それはもはや不可能なのだ。愛
> の犠牲として捧げることのできる生活はもう過ぎ去ってしまった。今はあの生活とこの生活
> との間に、無限の深淵が横たわっている。』
いま他人のために自分の命を喜んで捧げる覚悟、つまり他人に「尽くそう」とする生命です。
それはいましかなく、別のとき別の場所ではない。 他人に尽くすためには、胃がキリキリ痛むような、ギリギリの神経戦になる場合もある。
そのままヘタってしまうかもしれない。自分が自殺してしまうかもしれない。
だがやるのだ。模範は周囲にたくさんいるではないか? .... これこそ宗教の本質です。これがないなら、
ただの観念論です。けっして人間的成長も、絶対的幸福もありえません。 よく地獄の火は物質的のものだと説く人がある。私はこういう神秘を究めようとは思わない。そのようなことをするのは恐ろしい。
(我)
神秘はわからないから、究めようとしない、そういう観念論はしりぞける―――それがゾシマの仰せだよ。
それは恐ろしいことであると、これを敬虔という。 >>470
わたしたち凡夫は弱い。逃げたくなる。深い悩みの深淵に囚われている青年と対峙することは。
だからこそ、チームでやる。学会も、このゾシマの教会も同じこと。お互いにはげまし合い、ときには
ライバルともなる。ゾシマひとりで、民衆の問題をかんがえるのではない。高僧たちも、アリョーシャも
そのことのために一致団結する。たとえば、ここにイヴァンカラマーゾフという貴族の青年がいる。
脳内に不幸な思想をやどしている。この青年を未来の不幸からいい方向へ向けるためには、どうするのか?と。
またここにひとりの農婦がいる。一人息子が急に手紙をいっさいよこさなくなった。母親は混乱し不安だ。
それは生活に暗い影を落とす。 しかし、かりにそれが物質的の火であるとすれば、そこに落ちた人々はかえって心から
それを喜んだに相違ない。
なぜなれば、余の考えでは、物質的な苦痛に紛れて、よしや 一ときであろうとも、さらに
恐ろしい心の悩みを忘れることができるからである。
しかし、この悩みは外部のものでなく内部のものであるから、全然とり去ってしまうことは
できない。もし取り去ることができたとしても、人々はこれがためいっそう不幸に陥ること
と思われる。
=================================================================================
物質的な苦痛よりも、「心の悩み」のほうが恐ろしいこと十字御書:日蓮。その「心の悩み」とは何か?
それが「地獄」であると。
そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或
は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて
候。さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人
の心の内に候。
十字御書:日蓮 しかし、かりにそれが物質的の火であるとすれば、そこに落ちた人々はかえって心から
それを喜んだに相違ない。
なぜなれば、余の考えでは、物質的な苦痛に紛れて、よしや 一ときであろうとも、さらに
恐ろしい心の悩みを忘れることができるからである。
しかし、この悩みは外部のものでなく内部のものであるから、全然とり去ってしまうことは
できない。もし取り去ることができたとしても、人々はこれがためいっそう不幸に陥ること
と思われる。
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物質的な苦痛よりも、「心の悩み」のほうが恐ろしいこと。その「心の悩み」とは何か?
それが「地獄」であると。
そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或
は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて
候。さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人
の心の内に候。
十字御書:日蓮 今日もブツブツと独り言
本家地元で嫌われてるカルト宗教の本性がよくわかる もうすぐ罪と罰の再読が終わる
見落としてい所が多々あって、誤読していた所も多かった
やっぱり再度は再読でメリットがあるね
それに自分の頭じゃあ難しい本は一回では読み解けないようだー ソーニャの処女を買ったのはマルメラードフの上司
上司のおっさんは悪いと思って再就職を斡旋したけど
マルメラードフは気まずくて結局投げ出してしまうのであった
おお神よ、ザーメン 天国にある正しき人々が、その苦痛を見て彼らを赦し、
無限の愛をもって自分のそばへ呼び寄せるにしても、かえってそれがために ひとしお苦痛を増すことになる。
つまり彼らの心の中に、今はとうてい不可能な答礼と感謝の意を含んだ実行的の愛を呼び覚ますから
である。
とはいえ、私は臆病な心の底でこんなことを考えている。ほかでもない、こうした不可能の自覚
そのものが、最後には苦痛の軽減を助けるのではあるまいか。
そのわけは、正しき人々の愛を応酬の望みもなく受けた時、この従順と謙虚の行為の中に、地上において蔑視した実行的愛の片影といおうか、これと似よりの作用といおうか、とにかく、そうしたものを感得することができるからである... ...諸師よ、余はこれを明瞭に言い現わし得ないのを悲しむ。 しかし地上において我とわが身を滅ぼした者は気の毒である。まことに、自殺者は気の毒である!
これより不幸な者はほかにないと私は思う。彼らのために神に祈るのは罪悪であると人はいう。そうして、教会も表面的には彼らを破門するような具合である。
けれども私は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。キリストも決して愛をとがめ
て、怒られるわけがないではないか。
私は自白するが、こういう人々のために一生涯、心の中で祈っていた、今でも毎日祈っている。 しかし、地獄の中にも傲慢、残忍を押し通した者もいる。否定することのできぬ真理を確知し、かつ認
識したにもかかわらず、サタンとその 倨傲な精神に結合しきった恐ろしい人間もいる。
こういう人達にとって地獄は、望むところでもあり、それでもまだものたりないところである。
彼らは好きでなった受難者である。
なぜならば、彼らは神と生を呪って、おのれ自身をのろったからである。
たとえば、砂漠で飢え渇いたものが、自分で自分の体から血を吸い始めるのと同じように、自分の毒に充ちた倨傲を 糧としている。 しかし、 永劫に飽満ということを知らぬ彼らは、 赦免を拒み、自分を招いてくれる神を呪うのである。
彼らは生ける神を憎悪の念なしに考えることができぬ。そうして生命の神のなからんことを願い、
神が自分と自分の創造物を減ぼすことを要求している。
こうして、永久に 瞋恚(しんに)のほむらの中に燃えながら、死と虚無を願うことであろう。しかし、その死はとうてい得られないのである...... アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフの手記はここで終わっている。この手記は不完全なしかも断
片的なものである。例えば伝記なども、長老の青春時代の初期に関するものばかりである。 彼の教訓や意見の中には、以前さまざまな機会にさまざまな動機によって述べたものが、一つの 纏ったもののような体裁で合併されたのもある。長老が臨終前、幾時間かにわたって説いた言葉は、正確に区分され
ていない。しかし、アレクセイが以前の教訓の中からここに併記したものを対照してみるならば、その
時の談話の気分も性質も理解することができよう。
=================================================================================
アレクセイは師の教えをかんぜんに血肉化していたのではあるまいか?
だから(A)(B)... と箇条書きに整理できた。
この仕事はアレクセイにしかできなかった。いちばん近くにおり、いちばん精神的に近かったから。
いや... むしろ彼は教えのエッセンスのさらにその奥を解していた。彼自体が、この信仰この思想の
体現者だった。 長老の逝去は実際突然であった。その夜、長老のもとに集まった人々は彼の死の近いことを十分悟
ってはいたが、それでもやはり、こうまで唐突に襲って来ようとは、とうてい予期することができなかった。
それどころか、前にもちょっと述べておいたように、同宿の人々はその晩長老が非常に元気でもあり口数
も多くなったのを見て、たとえ長くは続かないにもせよ、長老の健康が目に見えてよくなったことと信じていた。
後で人々が不思議そうに言い伝えたところによると、逝去のつい五分前まで、なに一つ予想がで
きなかったとのことである。突然、長老は激しい胸の痛みを感じたかのさまで、蒼い顔をしながら強く両
手で心臓を押さえた。
一同はそのとき席を立って彼の方へ飛んで行った。しかし彼は苦しみながらもや
はり微笑を浮かべて一同を見上げつつ、静かに肘椅子から床へすべり落ちて 跪いた。
うつ伏しに顔を土にすりつけて両手を広げ、歓喜の溢れるようなさまで、(たったいま人々に教えた通り)大地を接吻して祈祷をあげながら、静かに喜ばしげに魂を神へ捧げたのである。
=================================================================================
なんちゅう死に方や! みんなは、ここを読んでもなんにも感じないの... ?!! 苦しみながらもやはり微笑を浮かべて
=================================================================================
苦しむのは、肉体を捨てて、この地上を去るからです。
微笑を浮かべているのは、弟子たちに、周囲のものたちに、信仰の偉大さと、永遠の生命への確信と、
自分の人生が最高であったことの歓喜を示すためです。 ぼくはネトゲのあいまあいまに このカキコをしてる。
これぞ人生の真実です... w 人生とはかくも偉大にして卑小なんです >>487
>人生とはかくも偉大にして卑小なんです
こういう背反のある考え方はドストエフスキーっぽいねw 罪と罰読み終わった
今回はラスコリニコフよりスヴィドリガイロフになぜか惹かれるものがあった
読書はその時の自分の状態が結構影響するという事を実感させられる
薄暗い天井の低い部屋の中で目覚め、さあ永遠です、なんて言われたらどうする
だけどそれしか想像できない、といったスヴィドリガイロフがドゥーニャの愛か自殺という旅かに賭けるシーンはとても面白かった >>489
スヴィドリガイロフはまさに
>>481
>>482
で引用した
「永劫に飽満ということを知らぬ彼らは、 赦免を拒み、自分を招いてくれる神を呪う」そういう地獄の衆生ではないの? 解説して スヴィドリガイロフは道徳的自主規制のないつまり自由な存在である
そういう意味ではナポレオン主義的ラスコーリニコフと似た存在でもある
しかし神を信じない虚無的な存在でもあるので
その自由も動物的欲求充足の世界に下降する
この動物的欲求充足だけでは生命の神秘や
生きる悦びには到達し得ない(とドストエフスキーは考える)
仏教用語をつかうのなら「無明」というやつでしょう
無神論的理想主義者であるラスコーリニコフが垣間見た自身の「影」が
スヴィドリガイロフだと思いますね
ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフとの対話では押されまくっている
神がいないのなら道徳律も存在せず
欲望と力がせめぎ合う畜類の世界でも良いわけだから
ラスコーリニコフ的正義論の出る幕はないのね スビドリガイロフってレイプ失敗で自殺するだけじゃないのね >>493
ラスコリニコフ逃亡の面倒を見ることを餌にしてドゥーニャに迫るんだけど逃げられちゃう
というか、土壇場でわざとドゥーニャを逃しちゃう
結局、スヴィドリガイロフの自殺の深層部分は自己嫌悪なのかもしれない
彼は、「よりも自分をうまくだませる者が、誰よりも楽しく暮らせるってわけですよ」、なんて言ってたのに最後にドゥーニャへの愛は自分を騙せなかったんだろう、それに彼はニヒリストだから自殺が一番普通の選択になる
ラザロの復活はラスコリニコフのみに与えられた恩恵なんだろうね
ソーニャさまさまだよw
ここからはちょう個人的解釈だけど、
キルケゴールの言葉を借りれば、人間の本来の姿は「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力の内に、透明に、根拠を置いている。」状態という
スタヴローギンは自己自身に関係して、淫行でもなんでも我意のままにふるまう自己自身であろうとしていたけど、自己を措定した力の内にその根拠をおけなかった、つまりドゥーニャの愛がそこにはない
だから絶望し、そして自殺した スタヴローギンもロリレイプの自己嫌悪で自殺した
チホン神父の対応がよくなかったのだろう
ラスコリニコフはソーニャに叱られて罪の意識がスカっとしたようだが だとすると自己嫌悪や自由な存在として、スタヴローギン、スヴィドリガイロフ、イワン、ヴェルシーロフ、この辺は同じくくりになるね
その極にあるのがアリョーシャたちになる
そして言葉が重なる時、一つの物語が出来る
小説は本当に面白い >>492
>仏教用語をつかうのなら「無明」というやつでしょう
この概念は、形而上学的な世界の性質、とりわけ世界について無常(アニッチャ)および無我(アナッター)であることの教義についての無知、誤解を指す[2][4][5] 。それは苦(ドゥッカ)の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる[6]。wiki
まったく理解できなかった(´・ω・`) マルメラードフが自己嫌悪で自殺したのも
むしろソーニャが怒らなかったからじゃないか?
かみさんに殴られるのが快感とか言ってたが
殴られて開き直る方が気が楽だっただろうね >>498
同じくそう思う、マルメラードフの死は事故とも呼べるけどね
大人しく、最後の金も父の飲み代になると分かっていながら渡してしまうソーニャの存在と目
プリへーリヤも最初にあったとき、あの目が怖いと言っていたからね
マルメラードフもラスコリニコフも母も、ソーニャの献身性や、ただ黙って見て何も言わない沈黙性、何よりこどものような「目」が怖かったんだろう
またしても個人的な超解釈ですが、
それはつまずきと言える
2000年前の人たちがキリストにつまずいたあの躓きがそこにある、と考えているよ
つけたせばキルケゴールのいう、暗い可能性、もそこにある ソーニャは自己に対する信仰の躓きを、すなわち自己不信をもたらす存在だったということか
自己犠牲というより自己否定がキリスト教の本質だな 嘆かわしいことだけどそういうことになるね
あまりに高い存在は相手の暗部を曝け出して、それそのものをその本人に突きつけてしまう
だから躓く、まるでキリストを前に躓いた人たちのように >>ハーイ!マイ、ペンフレンズ
> スタヴローギンもロリレイプの自己嫌悪で自殺した
> チホン神父の対応がよくなかったのだろう
スタヴローギンとチホン神父。読んでいない。だからゾシマとイヴァンに置き換えて考えてみる。
対応が良くなかったから自殺― イヴァンはゾシマの教えを、そのまま受け入れようとしたか?
> ラスコリニコフはソーニャに叱られて罪の意識がスカっとしたようだが >>498
気になった点を。
> マルメラードフが自己嫌悪で自殺したのも
マルメラードフが自殺? カラマーゾフの兄弟とくらべ、ほとんど再読してないが。
> むしろソーニャが怒らなかったからじゃないか?
> かみさんに殴られるのが快感とか言ってたが
> 殴られて開き直る方が気が楽だっただろうね >>499
>マルメラードフもラスコリニコフも母も、ソーニャの献身性や、ただ黙って見て何も言わない沈黙性、何よりこどものような「目」が怖かったんだろう
本文に、ドストエフスキー自身により、そう解説されているんだろう。しかし、なにも予備知識がない
ひとが聞いて、
>献身性や、ただ黙って見て何も言わない沈黙性、何よりこどものような「目」が
なぜ?「怖い」のか? それは解せないだろう。 >>499
> 2000年前の人たちがキリストにつまずいたあの躓きがそこにある、と考えているよ
> つけたせばキルケゴールのいう、暗い可能性、もそこにある
それぞれ、「つまずき」「暗い可能性」というのは、なんなの? >>500
> ソーニャは自己に対する信仰の躓きを、すなわち自己不信をもたらす存在だったということか
> 自己犠牲というより自己否定がキリスト教の本質だな
「自己否定がキリスト教の本質だな」という部分が理解できない。補足してほしい。 さいきん、ひじょうにレベルが向上している。
本来的なドストエフスキースレ。このレベルなら、まったく2ちゃん民ではない、ドストエフスキー愛好者をも、吸引するだけのものがある。 創価学会の荒らしが書き込まなければ良いスレなのにな 「自己否定がキリスト教の本質だな」
というのは、深い意味があるんだろ? ま、いいや...
取るに足らないやつだと、わかったし。 ほかのメンバーに聞きたい。「自己否定がキリスト教の本質 」とは
もう少し解説を加えると、どうなるんだ? たとえばゾシマの教説をなどを引用して
説明してくれたまえ。 自分でも、ゾシマの説教のところとか、再読したときに
「自己否定がキリスト教の本質」的なことが、書いてあるか、注意しとくw
ただ、おれはちがうと思う... w
といのうは、その言葉の含む一般的意味では、まったくまちがっていないが、
とくにキミらには、君らの場合には「ちがうんだ」 創価学会とは何か
創価学会とは君自身だ。
いつかわかる日が来る。
キリスト教も、我らに無関係ではけっしてない。
この世に、われわれと無関係のものなどひとつもない。
>>512
で、「その言葉の含む一般的意味では、まったくまちがっていないが」うんぬんについて。
説明する。
ウィトゲンシュタインは「言葉と現実は一対一で対応していない」という結論に達したという。
若き日に主著を書いたときはその逆を論証していたそうだ。(読んだことない)
戦争と小学校教師を体験して、まったく逆の結論に達したというのだ。
「自己否定がキリスト教の本質だな」はそのまま「自己肯定がキリスト教の本質だ」とも言えるのだ。
各各の教えというものは、とつぜん真逆たりうる。だからこそ、そのひと、その場合、個別に
教えは説かれる。
だからおれは、いつも「カラマーゾフ本文では、どこに該当しますか?引用してください」といったことを
聞くんだ。
文豪の筆致によって、個別具体性の影を、そこに見出すからだ。
ドストエフスキー作品を読む最大の効用は、そこだと感じた。哲学的観念的思弁は、役立つようでいて、
じっさいには「なにも言っていないのと同じになる」 たとえば、ぼくが見本を示したように
>>486
> 苦しみながらもやはり微笑を浮かべて
> =================================================================================
>
> 苦しむのは、肉体を捨てて、この地上を去るからです。
> 微笑を浮かべているのは、弟子たちに、周囲のものたちに、信仰の偉大さと、永遠の生命への確信と、
> 自分の人生が最高であったことの歓喜を示すためです。
といったように、カラマーゾフの兄弟のこの箇所を「引用し」つぎに「どう感じたか?」書くのだ。
もちろん、テキストをみんなが持ってないかもしれない。そこはなんとかしてくれ。おれもなんとかした。
ネットがあるから どうにかできるはずだ。 ヨブ記の時点、つまり旧約の神に対しても自己否定だよ
キリスト教だけではなくユダヤ教やイスラム教でも
神と信徒との間にはこの関係がつきまとう
ここで重要なことは自分を神への供物として捧げる(自己犠牲=献身)ではなく
神の被造物に過ぎない自分が元の持ち主のもとに返還される(自己否定)
といった具合に再規定され、不合理な運命やそこから派生する苦痛や恐怖が
宗教的法悦に一転すること
このあたりは仏教も変わらないのだけど
キリスト教(や旧約の派生宗教)の場合は絶対者と「私」が直接向き合って
「私」という人格の崩壊に愉楽がともなう事とかなあ
はっきりいって狂気なんですけどね
でもこれもまた一種の救いですね まーた迷惑老人が独り言をブツブツと連投してスレ流ししてる
君は他人が仲良く議論してると嫉妬やっかみで荒らさずにはいられない性分のようだな
創価学会に閉じこもってろ このスレッドレベルがガタ落ちだな。そもそもお前ら大卒なのか?
「自己否定がキリスト教の本質」に至っては全く何も分っていないとしか言いようがない。
>>507
いい気になってんじゃねーよ。馬鹿が!
まあ所詮は便所の落書きだな。
小学生の作文、読書感想文じゃないのだから学問的な掘り下げも出来るのなら頼むよ。
お前等には無理か? >>505
アブラハムはモリヤの山で、老年にしても授かった愛する子イサクを神の命で捧げることになる
アブラハムは子を憎んでいたのではない
子を愛していたからそれが殺意と区別がつかなくなるほどの愛がそにはあり、相手を滅ぼしてしまうほどの「暗い可能性」がその裏に潜むことになる
自分自身のように愛することに私は尻込みする、とラカンはいったが、同じくぼくたちもここで「躓く」
神人は賤しい姿をとり、時間の中で愛し、そしてその生命さえも犠牲にされた
しかしその神人さえも愛の暗い可能性とつまずきを不可能にはできなかった
そこに人間の最大の悲惨も同時にあるが、自分自身のように愛することの意味をこれを取り去ってしまっては語り得ない
その愛のわざが人間にはかえって逆のものになり、より悲惨なものになり得るかもしれないという可能性がそこにはある
この暗い可能性、人間がつまずいて、そのつまずきの中に留まることを罪とした
だからイエスキリストはいう「私につまずかないものはさいわいである(マタイ11)」と、そしてその先は言わない
人間は最大の矛盾をはらんでいる、自分自身のように愛することで自分自身とその相手さえほろばしてしまう可能性が同時にまとわりついてくる
つまずきと暗い可能性とはそういうものです
書けば書くほど駄作の論文ができそうな勢いで、とてもレスでは説明しきれません
死に至る病と旧約のアブラハムの聖句、もう少し踏み込むならばフロイトも同じことを性を交えていっているので参照をオススメします 創価学会は西洋哲学などの教養がないから全く話についてこれない
他の人は互いにある程度知っていること前提に話を進めている
ただそれだけのこと だいたい読んでないドストエフスキーの著作にまで知ったかぶりだけで口を挟むなよ
よく読んでからレスをしろ >>515
それはもう狂気にうつりますね
否定は自己に関わる最大の敵ですもんね
しかしそれがなければ宗教そのものの意味を失いかねない
ぼくが思うにラスコリニコフは老婆とリザヴェータを殺したのではなく、神を殺したんです
でもそれはイアゴーが、眠りを殺した、といった意味ではないでしょう
イアゴーは少なからず神と向き合っていた狂気があるが、ラスコリニコフは、私が殺した、ということが認知できていなように思えます
私が殺した、という意識と、私は殺していない、という意識と無意識の差異に自己同一性を失い立っていられなくなっている
無意識とは、見たくないものを避けて通っているというわけではなく、すでに知っていることを知らないままにしておく、ということです
彼の無意識化で知っているがふせているもの顕示、それがソーニャの存在でしょうね
だからソーニャに殺人を告白する時初めて殺したリーザを思い出す
そして自分の言葉がまったく同じに他者から語られる時、ラスコリニコフは選択を迫られる
自殺か自首か、です >>515
> 神の被造物に過ぎない自分が元の持ち主のもとに返還される(自己否定)
「カラマーゾフの兄弟」本文が想起され、わかりやすかった。
> 「私」という人格の崩壊に愉楽がともなう事とかなあ
「私」という人格の崩壊?
> はっきりいって狂気なんですけどね
> でもこれもまた一種の救いですね
狂気と推測される信仰をあなた自身は持っているのか?あなた自身はこうした信仰を持っているの?
それとも知識として客観的に書いているだけなの? >>518
まずいつも、最大限の誠実さでレスをつけてくれることに感謝する。
> アブラハムはモリヤの山で、老年にしても授かった愛する子イサクを神の命で捧げるこ
とになる> アブラハムは子を憎んでいたのではない
ここまでは、よく解りました。
> 子を愛していたからそれが殺意と区別がつかなくなるほどの愛がそこにはあり、相手を滅ぼしてしまうほどの「暗い可能性」がその裏に潜むことになる
というものを、未だかって見たことも聞いたことも体験したこともない。
それを「愛」と名付けるのか?
>「相手を滅ぼしてしまうほどの「暗い可能性」」
>自分自身のように愛することに私は尻込みする、とラカンはいった
なんとなく、わかってきた。
そのようにラカン兄さんというひとが 言ったんだね?
その「暗い可能性」というのはゾシマやカラマーゾフに、出てこないようだね。
>同じくぼくたちもここで「躓く」
つまずいたら、そのつまずいた大地に手をついて、おのが体を持ち上げて、何度でも再起せよ。
人間に暗い衝動があることは、もちろん認める。
南無妙法蓮華経の信心で、師弟不二の信心ですべて乗り越えていけると確信せよ。 > 神人は賤しい姿をとり、時間の中で愛し、そしてその生命さえも犠牲にされた
> しかしその神人さえも愛の暗い可能性とつまずきを不可能にはできなかった
略
> つまずきと暗い可能性とはそういうものです
> 書けば書くほど駄作の論文ができそうな勢いで、
とんでもない。あなたの回答は、誠実かつ論理的一貫性があり、よくわかった。
「 つまずきと暗い可能性」について。
ときどき聞くクリスチャンの「躓き」という独特な言い回しをかんぺきにつかんだ。
その上であなたならできるから、頼みます。以上の思想や問題意識が、カラマーゾフや、
他のドスト作品本文においてどの箇所にあるのか引用してほしいです。 >>515
ぼくはあなたに対していつもキツイ。ID:aBSF2lbJ さんに対しては甘い口調でしゃべる。
だからといって、あなたを軽視してるということではない。ぼくはむしろ貴方こそほんとうは信仰について
深い憧憬を持っていると予測しています。 Fラン文系の大学でも占い師のチラシの裏を論文とはいわんだろう(創価大学では知らんが)
○×は△ですと個人的な信念の表明では学会は成り立たないのだよ >>523
カラマーゾフにおいてはゾシマの訪問者が一番その可能性が出ているよ
ゾシマの言葉は隣人愛が根本にある
その暗い可能性が、訪問者の現在の自己自身を崩壊させる
他は例えばイワンもまた同じ可能性がある
アリョーシャの、あなたは殺していない、という言葉がイワンの、オレは殺していない、という言葉と重なったときにイワンの自己自身は崩壊する
自己自身は自己の中で現れるのではなく、他者との関係において初めて現れるものだから
イワンがアリョーシャの言葉、つまりは「隣人愛」を受け入れられないかぎり発狂は終わらない、と言える
そこにイワンのつまずきという大きな深い罪がある
この罪がイワンの分裂、悪魔の分身の生みの親です
上レスで話した事柄は、キリスト教を「とおして」、ドストエフスキーに「ついて」話ているよ
結局は同じことなんです
その対象について語るとき、その対象自身に関わろうとするけど、そのもの自体と関係するのではなく、その関係にさらに関わっている「最後の関係」について話しているにすぎない
だからこのスレッドで話すことはすべてドストエフスキーに帰着する
あくまでぼくの場合はだけどね >>523
>それを「愛」と名付けるのか?
アブラハムにとって愛する子を神の御手に委ねることは自分自身を愛するように愛するという愛そのものだよ
だけど一般という主観性からみたらアブラハムの子を生贄にするという行為は殺人になる、むしろ狂気にうつる「暗い可能性」がそこにはある
これが愛と感じられなかったあなたもつまずいた、と言えるんだよw
というぼく自身もつまずいているけどね
だからキリストはつまずかない者はさいわいである、と語るのだけれど、だからつまずいていともわるいとも言わない
つまずかないものはさいわいである、文字通りそのまま
だから
>>523
>つまずいたら、そのつまずいた大地に手をついて、おのが体を持ち上げて、何度でも再起せよ。
その先を肯定すること、それもまた一つの絶望であり一つの罪である、キルケゴールは解釈するんだ
このへんはキリスト教とか正教の考えが基礎になるので聖書を少しで読まないと理解は難しいと思う
少なくとも無知な自分の場合はそうだった >>524
>その上であなたならできるから、頼みます。以上の思想や問題意識が、カラマーゾフや、
>他のドスト作品本文においてどの箇所にあるのか引用してほしいです。
罪と罰においてはラスコリニコフとリーザとの関係で話すこともできる、とぼくは考える
ラスコリニコフはソーニャに殺人告白するのだけれど、これはソーニャに赦しを求めているわけではない
殺したリーザに赦されたいが、そして死せるリーザがソーニャの中であらわれるのだけれど、ソーニャを通してリーザに赦しを求めるわけでもない
「死せるリーザに赦されたいのだ」
だけど彼は理解できない
だからなぜ自首しなればならないのか、シベリアという檻に入ってさえも、どういう罪で罰せられているのかまったく分からない
なぜなら死んだ者に赦されたいと願うことは、死んだ者がそこに文字通りいる可能性を信じることで、ラザロの復活を求めるが、復活を文字通り信じられないラスコリニコフには理解が出来ない
この無神論と信仰の間にいるラスコリニコフはつまずいている、とある面からは解釈出来得る
ソーニャに愛されることではなく、ラスコリニコフがソーニャを愛するとき、ラスコリニコフ自身に隣人愛が根ずくとき、果たしてそのつまずきが消えるのかどうかは物語が終わっているので分からない 一切を自己否定せずに開き直ればそれで済む話だと思うけどな by ニーチェ ――あなたはただいま『自分を恥じてはならない、これが一切のもとだから、』とご注意く
ださりましたが、あのご注意でわたくしを腹の底までお見透しなさいました。全くわたしは
いつも人中へ入って行くと、自分は誰よりも一番いやしい男で、人がみんな自分を道化者あ
つかいにするような気がいたすのでございます。
そこで、『よし、それなら一つ本当に道化の役をやって見せてやろう。人の思わくなど
怖くはない。誰も彼もみんなわしより卑屈な奴らばかりだ!』こういうわけで、わたくしは
道化になったのでございます、恥ずかしいが 故の道化でございます、長老さま、恥ずかし
いが故の道化なのでございます。
ただただ疑り深い性分のために、やんちゃをするのでございます。もしわたくしが人の
中へ入る時、みんなわたくしのことを世にもおもしろい利口な人間と思うてくれるに違いな
い、こういう自信ができましたなら、いやはや、その時はわたくしもどんないい人間になっ
たことでしょうなあ! 長老さま」 と、いきなりとんと膝を突いて、「永久の生命を受け継ぐためには、一体どうすれば宜しいのでございましょう?」 「どうすればよいか、自分でとうからご存じじゃ。あなたには分別は十分ありますでな。飲酒に耽らず、言
葉を慎しみ、女色、ことに拝金に溺れてはなりませんぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにゆか
ぬまでも、せめて二つでも三つでもお閉じなさい。が大事なのは、一番大事なのは、嘘をつかぬというこ
とですじゃ。」 ゾシマからヒョードルへの指導
肝要なのは自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。
自ら欺き、自らの 偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることができぬようになる、
すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。
何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう。
ところが、愛がないから、自然と気を紛らすために 淫らな情欲に溺れて、畜生にも等しい悪行を犯すようになりますじゃ。
それもこれもみな他人や自分に対する絶え間のない偽りから起こることですぞ。自ら欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。
実際、時としては、腹を立てるのも気持ちのよいことがある。そうではありませんかな? そういう人はな、誰も自分を馬鹿にした者はない、ただ自分で侮辱を思いついてそれに色どりをしただけなのだ、ということをよく承知しております。
一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、わずかな他人の言葉に突っかかり、針ほどのこ
とを棒のように触れ回る、――それをちゃんと承知しているくせに、自分からさきになって腹を立てる。し
かもよい気持ちになって、なんともいえぬ満足を感じるまで腹を立てる。こうして本当のかたき同志のよ
うな心持ちになってしまうのじゃ......さあ立ってお座りなされ、お願いですじゃ。それもやはり偽りの身振
りではありませんか。」 >>527
> カラマーゾフにおいてはゾシマの訪問者が一番その可能性が出ているよ
> 他は例えばイワンもまた同じ可能性がある
以上2つの箇所を重点的箇所として、精密に忠実に引用しよう。こんど。まだ、よくわからないから。
> 上レスで話した事柄は、キリスト教を「とおして」、ドストエフスキーに「ついて」話ているよ
> だからこのスレッドで話すことはすべてドストエフスキーに帰着する
> あくまでぼくの場合はだけどね
ぼくはドストエフスキーを「とおして」自分自身の信仰について語っているつもりだ。 >「永久の生命を受け継ぐためには、一体どうすれば宜しいのでございましょう?」
>「どうすればよいか、自分でとうからご存じじゃ。あなたには分別は十分ありますでな。
>飲酒に耽らず、言葉を慎しみ、女色、ことに拝金に溺れてはなりませんぞ。」
やはり『1984年』の体制派の性質とキリスト教てそっくりだよな >>527
> その暗い可能性が、訪問者の現在の自己自身を崩壊させる
「暗い可能性」ちょっと聞いただけでは、まったく思い当たらない。できるだけ早く、そこを見てみる。
> 他は例えばイワンもまた同じ可能性がある
> アリョーシャの、あなたは殺していない、という言葉がイワンの、オレは殺していない、という言葉と重なったときにイワンの自己自身は崩壊する
> 自己自身は自己の中で現れるのではなく、他者との関係において初めて現れるものだから
> イワンがアリョーシャの言葉、つまりは「隣人愛」を受け入れられないかぎり発狂は終わらない、と言える
> そこにイワンのつまずきという大きな深い罪がある
> この罪がイワンの分裂、悪魔の分身の生みの親です
ここも同じく、そのキリスト教的一種の複雑さとハッキリ適合するのか?ラカンの言葉?で説明できるのか? 今の時点で理解できぬ。
> 上レスで話した事柄は、キリスト教を「とおして」、ドストエフスキーに「ついて」話ているよ
> 結局は同じことなんです
おれは、君とラカンとキルケゴール等の西洋哲学者自体への、信仰及び人間およびキリスト教解釈を疑う。
それにたいし、ドストエフスキーの、カラマーゾフの、ゾシマの思想については、きわめて高い思想であり、てっていてきに討論されるべき内容だと思う。
> その対象について語るとき、その対象自身に関わろうとするけど、そのもの自体と関係するのではなく、その関係にさらに関わっている「最後の関係」について話しているにすぎない
> だからこのスレッドで話すことはすべてドストエフスキーに帰着する
> あくまでぼくの場合はだけどね
ぼくはゾシマの思想の表現をとおして、自己の信仰と希望について、創価学会と日蓮仏法へと帰着させたい。 >>536
> >「永久の生命を受け継ぐためには、一体どうすれば宜しいのでございましょう?」
> >「どうすればよいか、自分でとうからご存じじゃ。あなたには分別は十分ありますでな。
> >飲酒に耽らず、言葉を慎しみ、女色、ことに拝金に溺れてはなりませんぞ。」
>
> やはり『1984年』の体制派の性質とキリスト教てそっくりだよな
どう同じなのか? 『1984年』を引用して説明してほしい。君が「カラマーゾフの兄弟」を
読めてないのは確実だ。自分でもわかるだろう? これを絶対に煽りとうけとめてはならぬ。 >>528
> >それを「愛」と名付けるのか?
> アブラハムにとって愛する子を神の御手に委ねることは自分自身を愛するように愛するという愛そのものだよ
よくわかった。
> だけど一般という主観性からみたらアブラハムの子を生贄にするという行為は殺人になる、むしろ狂気にうつる「暗い可能性」がそこにはある
これもわかった。
> これが愛と感じられなかったあなたもつまずいた、と言えるんだよw
つまずいたな... w
> というぼく自身もつまずいているけどね
同じやんけっww
> だからキリストはつまずかない者はさいわいである、と語るのだけれど、だからつまずいていともわるいとも言わない
キリスト教ではそうなるんだな!
> つまずかないものはさいわいである、文字通りそのまま> だから
> >>523
> >つまずいたら、そのつまずいた大地に手をついて、おのが体を持ち上げて、何度でも再起せよ。
> その先を肯定すること、それもまた一つの絶望であり一つの罪である、キルケゴールは解釈するんだ
> このへんはキリスト教とか正教の考えが基礎になるので聖書を少しで読まないと理解は難しいと思う
> 少なくとも無知な自分の場合はそうだった
ぼくはキリスト教を外道信仰、キルケゴールは問題外の小物、という立場だが、ドストエフスキー作品
なかんずく「カラマーゾフの兄弟」なかんずく「ゾシマの思想」を、我ら日本人の共通教養にして、
我らのシェークスピアととらえている。日蓮大聖人が仏法ではない外道の中国思想を、縦横無尽に
引用して、仏法の深義を弟子どもに説くのと同じことだね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています