ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
いろいろの西洋東洋の教えも
僕らは信心があるから読める。それらを学ぶのは何のため?か。それもこの仏法のためです。
この仏法によって、自分自身が最高に幸福になり、まわりに、社会へと波動させていくためです。
理屈以前に 祈り、広宣流布の理想に若いときから生きた。もちろん言葉による
教えを深化させることにも 取り組んできた。
青春時代に、君のような「キリスト教の友」 またオウム真理教そのほかのメンバーとも対話してきた。
宗教なんかぜんぜん関係がない一般的なやつらとも。だから、信心をさせることなど無理であることは
君ら以上に体験的にハッキリと承知している。「理屈や教えでは、ぜったいにだれ一人動きません。」
このことは創価学会の教えであるのみならず、日蓮大聖人が言っている。僕らがやってきたことは
入信させるというよりも「この確信をとおして友人を作ることであった」おれという人間を信頼させることであった!
ところで、なんで人は信心すると思う? 創価学会に入信した人は、例外なく「一線を越えてきた」
1,幸せになりたいからです。
2,今の自分を変えたいからです
3,なんとかしたいからです!
君は、入信しません。理由は「なんとかしたい」と思っていないからです。今の自分に満足しているからです。
そうしてこれからも、軽薄なるアンチ創価学会の連中と同じレベルの考えを持ち続けるでしょう。 >>567
まずどうして学会員が健康、それ以外が病人、と仮定したの
何か根拠があるんだよね
まだか自分の感情がそう思った、なんてことはないはず >>568
>「なんとかしたい」と思っていないからです。今の自分に満足しているからです。
自己に満足している人間はいないよ
自己から逃れられる人間はいないからね
君のナルシシズムの根本はここにある
いつしか君の自我は防衛のために、自分はこの世界に仕返しする権利があると思ってしまった
一方で、彼らはもうすでに恵まれているのだから、当然その仕返しを受け入れなければいけないと
だからぼくならこう仮定する
病気とは、自我が処理すべき欲動がそこになく、その欲動が居どころを失ってしまった精神をいう
その治し方もだいたいは分かるけど、君は受け入れないだろうね
リチャード三世を読むといいよ、ドストエフスキーに近いものがあるのでおススメです なにも君の自我を崩したいとか、宗教をやめさせようとかじゃないんですよ
なにも肉好きの集まりに魚の土産を持っていく必要はないし、魚嫌いにお刺身定食をおごる必要もないわけでw
そうかの話がしたいならそうかの中ですればいいと思いますよ
自由にやる事と身勝手にやることは違います
教会に行ってわざわざ仏の話をするのは行き過ぎです
ドストエフスキーすれではドストエフスキーの話をしましょう 幸福とは無知な認識である
キリスト教はぺテロにより、生に対する復讐へと転倒した by ニーチェ 七人のシェイクスピアっていう漫画読んでてさ
リチャード3世が紹介されてて面白そうだった
まあ見所抜粋じゃなくて普通に読んだら面倒臭そうだけどね キリスト本人にとって神がうんぬんてのは言葉遊びに過ぎず、
実際には単なる実存主義者だったのではないかという現実的で素朴な解釈は
聖書の狂気じみた記述を読むと打ち砕かれるな >>573
なんか漫喫で見たことある漫画だw
シェイクスピアは文庫で200ページもないのばっかだから簡単に読めますよ
ニーチェ読める人なら片手間でしょうね すべての否定するのが批判哲学の帰結としての虚無主義
善人も悪人もお前の全てを許すのが実存主義(超人思想)
かくかくしかじかでなければならないと命令するのが本質主義(プラトン主義)
人の生きざまは千差万別、俺はロックンロール、貴様は何もんだぁ〜?
https://www.youtube.com/watch?v=2heGfHy0Hew そういう意味で考えた時にドストエフスキーはなに主義だったんだろうか、なんて思う
主義は結局のところ、なんでもかんでも自分の信じる主義に還元してしまう
実在主義者はなんでも実在主義にしてしまうように
モノローグはモノローグということなんだろうね
でもドストエフスキーはポリフォニーであったとバフチンはいう
存在はどこまでいっても個という存在を消せない、ということなのかな
そうならば、ドストエフスキーの顔はいくつもあったことになる 肯定せず、否定もせずの日和見主義としてのポリフォニー >>578
それもある意味当たってるねw
ちなみにフロイトは心理分析でこう言っているよ
結構面白いよ
彼に言わせれば、四つの顔があるらしい
詩人の顔、道徳家の顔、犯罪者の顔、神経症患者の顔
そして父親から受け継いだ超自我を形成するサディズムが通常は発揮される
些末なことにはサディストを秘め、気性が激しく他人に攻撃的になり簒奪を求める人格を持つ
重要なことには、サディストとしての攻撃性が自分自身に方向転換してマゾヒストに変わり、他人に温和になり寛容でエゴの少ない博愛の人格が顔を出す
ギャンブラーだったのもここにあるのかな
ここに犯罪者の顔と道徳家の顔が葛藤し、自己自身のアンビエントに苦悩して耐えられず神経症患者の顔をもつ
詩人の顔は彼の芸術家としての自然の恩恵があるのみ、曰く理由はなく、ただの才能ですね
人並み外れたドストエフスキーの持つ欲動の昇華だったのかも、というのは個人的分析です
彼はいつでも良心からの苦痛を求めていたという
父親から受け継いだ超自我のサディスティックに、自我の持つ女性的なマゾヒスティックが抑圧されて、心理の中では常に罰せられることを望む性格があった、云々、と精神分析されている
苦しみを求めるラスコーリニキ、分離派に興味を持ったというのも頷けますね あつ、アンビバレントでした、訂正スマン
ambivalent 「あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。」 『地下室の手記』
自分で病人といっちゃってる レーニンは『唯物論と経験批判論』という本の中でエルンスト・マッハという人の思想を紹介している
そのマッハによると人間の脳はあらゆる事物を意識しすぎると情報を処理しきれなくなるので
普段は意図的に五覚の情報を半分くらい遮断しているとのこと(情報のエコノミー) なるほど、正常であるためには凡庸がちょうどいいんだろうね
意識しなすぎるのも問題だけど、意識しすぎるのも問題をうむことになる
無自覚は放銃にするが、意識過剰は傲慢さをむき出しにする、なんてバルザックがどこかで書いていたのを思い出しました 南無妙法蓮華経(5時間唱題)
生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなり
さて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、
又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、
無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり
有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり、
生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり
若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、 む?だれも書かなくなったな?
しゃーない。書いたろか?ゾシマ長老の指導集を、学会精神で読み解く、俺の超一流の投稿を読みたいか?
おれは日蓮大聖人の御書の研究に没頭せねばならんと決意して忙しいが。 ここはアテナイ?の大聖堂だと空想してみよ。
ここにプラトンがいて、アリストテレスがいると仮定せよ。
たとえそいつらがいても無意味なんだあ!!
どんな哲学を述べても、現代の民衆のだれひとり評価せんのだ。
もしそれが、現実生活のなかで生きられるので無ければ。
御書の一節。たとえば「冬は必ず春となる」でもいい... 体調不良のため、とうとつにカキコ終わります... w >>585
> 誰のためにもならん時間の無駄w
レスありがと... w 黙れ、不信心者!! そういってスタブローギンは目をギラギラとさせ、カラカラと笑った 「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等云云、地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候
伝教大師は依馮集で「讃ぜん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く。然りと雖も信ぜん者に於いては天鼓と為り、謗らん者に於いては毒鼓と為る。信謗彼此、決定して成仏せん」 祈り。勤行唱題のときの姿勢・姿かたちに、あり得ぬほど如実に、生命が現れる。
浮ついた心のままに。イヤイヤの心が 先生より贅沢なイスにはぜったい座らぬ。先生の足腰、先生の肺が健康であれと
3ヶ月といわれたのに、3日でしんどいです。先生笑う。
「今から家へ帰って、どう過ごしたらいいでしょうか?」「ニコニコ笑っとったらいい。」 昭和33年1月7日
夕刻、本部へゆく。先生に、ちょっと、お目にかかる。お身体の具合、非常にお悪い様子。おいたわしい限りである。
時代は、変わってきた。残念だ、無念だ。しかし、広布実現まで、長い人生である。
先生、見ていてください。成長して、必ず青年部が、あとに続きます。
夜、御僧侶招待……Nで。先生のお姿、全くお元気なし。御僧侶16人。大幹部30名。
先生、お帰りのあとは、まことに淋しい。弟子一同に、一段の奮起を望みたいほどである。 1月8日
夜、会合あり。先生のご様子、心配。お元気との報あり。安堵。
1月17日
朝、注射を。先生と、久しぶりに、じっくりお会いする。本部にて、「“大”久しぶりだね……」と、おっしゃられた。師匠の暖かな眼差し。懐かしい。大愛の師に、感動あり。
青年よ、一切の邪悪の権力に抵抗せよ。
1月18日
夕刻、先生とお目にかかる。
「やりづらくとも、君たちが、学会を支えてゆくのだ」と、厳しき指導あり。先生の胸中……。 1月20日
将来への、先の先まで、お考えくださる慈愛に、ただただ、感謝申し上げるのみ。
先生のご指示を、更にさらに、力強く感じ、実践せねば、証明せねばならぬ。 1月21日
先生と、お目にかかれず……淋し。不思議なぐらい淋し。 1月23日
朝、注射。
先生のお体も、芳(かんば)しからず。
「闘争の源は、鉄の肉体であり、生命力であり、健康体である」と、つねづねいいし、その師も弟子も、つねに病弱とは、運命のいたずらや、にくし。 1月24日
夜、本部に戻り、一人、たまっていた先生の指導をメモする。
1月27日
午前中、先生のお宅に、お邪魔する。O君のご報告等々のため。先生の包容・慈悲に驚くのみ。“横死と宿命”についてお話あり。
1月28日
朝、先生のお宅に、お邪魔する。2時間余、暖かなお話を戴く。感謝深し。心奥に、いつか、いつか、厳粛なる日の来たることを直覚してならぬ。胸はりさける悩み出ず。 2月1日
痩せ衰えゆく、先生を、本山にお迎えする。先生、毅然たる態度で、指揮をとりはじめゆく。
2月2日
朝、熱あり。風邪か?
午前9時、先生と共に、御開扉。万思、祈念す。
2月3日
朝より微熱あり。
先生、熱海にて、ご静養。種々、電話あり。
2月4日
遅く、病める先生より「大作の病気の方はどうだ」と、奥様を通じて電話あり。申し訳なし。 彼が僧院生活に入ったのも、ただこれ一つのみ
が当時の彼の心に驚異の念を呼び覚まし、世界悪の闇から愛の光明を目指して驀進(ばくしん)する彼の心に
究極の理想として映じたからである。また僧院生活が彼に驚異の念を呼び覚ました訳は、当時彼が
稀有の人物と考えていた有名な長老ゾシマを、その中に発見したからである。彼は乾いた心の初恋に
も似た熱情を捧げて、この長老に傾倒したのである。 四 三男アリョーシャ
彼はまだやっと二十一であった(中兄のイワンはその時二十四、長兄のドミートリイは二十八であっ
た)。第一に言っておかなければならないのは、この青年アリョーシャが決して狂信者でもなければ、また
少なくとも筆者の考えでは、断じて神秘主義者でもないということである。あらかじめ筆者の忌憚なき
意見を述べるなら、彼は単に若き博愛家にすぎない。
=================================================================================
ぼくは、この文をそのまま自分のこととして、自己紹介と思ってコピペしている。ぼくはまさに「若き博愛家」
であった。 ぼくが創価学会に入ったのも、ただこれ一つのみ
が当時のぼくの心に驚異の念を呼び覚まし、世界悪の闇から愛の光明を目指して驀進
(ばくしん)するぼくの心に究極の理想として映じたからである。
また信仰生活がぼくに驚異の念を呼び覚ました訳は、当時ぼくが稀有の人物と考えていた有名な
○○先生を、その中に発見したからである。彼は乾いた心の初恋にも似た熱情を捧げて、
この先生に傾倒したのである。
=================================================================================
以上のごとく、文字を入れ替えて、そのまま完全にぼくの青春時代を言い表すことが可能だし、しかもそれは
いまもまったく同じ濃度と質量で、否、いやまして創価学会の信心と先生に傾倒している。 長老ゾシマについては、多くの人がこんなことをいっていた、――彼の所へは大勢の人が、
自分の心中を打ち明けて、霊験のある言葉や忠言を聞こうという希望に渇しながらやって来
る。長老はこういう人達と永年のあいだ無数に接して、その懺悔や、苦悶や、告白を数限り
なく自分の心に納めたので、しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どん
な用事で来たのか、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を苛んでいるか、
というようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。そして、当人がまだ口を利
かないさきに、その霊魂の秘密を正確に言い当てて、当人を驚かしたりきまり悪がらせたり、
どうかすると気味わるく感じさせたりするのであった。
=================================================================================
試みに問う。きみたちは、こういう人物とおのが人生の中で出会ったことがあるか? しかしアリョーシャは、はじめて長老の所へ差向いで話しに来る多くの人が、大抵みな恐
怖と不安の表情で入って行くが、出て来る時には、悦ばしそうな明るい顔つきになっている
のに気がついた。実際、恐ろしく沈み込んでいた顔が、わずかの間にさも幸福そうになるの
であった。いま一つアリョーシャを感動させたのは、長老が人と応対するとき決して厳格で
ないばかりか、かえっていつも愉快そうな顔をしていることであった。彼は少しでも余計罪
の深い者に同情して、最も罪の深いものを誰より一番に愛するのだ、と僧達は話し合ってい
た。
=================================================================================
>彼は少しでも余計罪の深い者に同情して、最も罪の深いものを誰より一番に愛するのだ、
ふつうは、罪の深いものを忌避し、イノセントなものを愛するのが凡夫です。それなのに逆にこのような
感情をもつのは、まさに信仰のゆえです。信仰と使命感の故です。 しかしそれでも大多数は、すでに疑いもなく長老ゾシマの味方であった。のみならずその
中には、真底から熱情を込めて、彼を愛している者も少くなかった。ある者はもうほとんど
狂信的に彼に傾倒していた。こういう人達は公然にこそ言わないが、長老は聖徒である、そ
れにはいささかの疑いもない、と噂していた。
そしてほどなく長老の逝去を予見しているので、ごく近いうちに僧院にとって偉大な名誉と
なるような奇跡が、必ず現われるに違いないと期待していた。長老の奇跡的な力はアリョー
シャも絶対に信じて疑わなかった。それはちょうど、寺の中からけし飛んだ棺の話を絶対に
信じたのと同じ理屈であった。
=================================================================================
ぼくも真底から熱情を込めてその先生を愛した。狂信的にそのひとに傾倒していた。日蓮大聖人
に次ぐ存在である。
先生の奇跡的な力をぼくは絶対に信じて疑わなかった。
だからキリストであろうが、いかなる主義主張であろうが、すべて問題外の愚論であった。
なぜかならば、眼前の偉大な人物につかえているからである。 彼は病気の子供や大人の親類などを連れて来て、長老様がその上にちょっと手を載せて、お
祈りをいって下さるようにと頼む多くの人を見た。
彼らはまもなく(中にはすぐその翌日)やって来て、涙ととも
に長老の前に打ち倒れ、病人を全治してもらった礼を述べるのであった。
それははたして長老が全治さしたのか、病気が自然の経過を経て快方に向かったのか、――
そんな問題はアリョーシャにとって存在しなかった。
なぜならば、アリョーシャはすっかり師の精神力を信じきって、師の名声を自分自身の勝利
ように思いなしていたからである。 >それははたして長老が全治さしたのか、病気が自然の経過を経て快方に向かったのか、――
そんな問題はアリョーシャにとって存在しなかった。
重要なことが書いてある。ある信仰があって、そこに奇跡的な力があるから信じる―― などという
態度は、信仰の本質を示していない。
アリョーシャは、ゾシマの病気を治癒する奇跡的力のゆえに、信仰したのではなく、傾倒して愛したのでもない。
そんな問題はアリョーシャにとって、どうでもよいことであった。
1,アリョーシャはすっかり師の精神力を信じきっていた。
2,師の名声を自分自身の勝利のように思っていた。 ことに、彼が満面照り輝いて胸のときめきをとどめ得なかったのは、長老に会って祝福を受
けるためにロシアの全土から流れ寄って、庵室の門口で待っている平民出の巡礼の群へ、し
ずしずと長老が姿を現わす時であった。
彼らはその前へ打ち倒れて、泣きながらその足に口づけし、その足の踏んでいる土
に口づけし、声を上げて 慟哭した。また女房どもは彼の方へ子供を差し出したり、病める
狂い女を連れて来たりする。 長老は彼らと言葉を交え、簡単な祈祷を捧げ祝福をして、彼らを退出させるの
であった。最近に至って病気の 発作のため、時とすると、庵室を出ることができないほど弱ってしまうこと
があった。そんな時、巡礼者は二日でも三日でも僧院の中で、彼が出て来るのを待ち受けていた。
なんのために彼らはこれほど長老を愛するのか、
なぜ彼らは長老の顔を見るやいなやその前に倒れて
ありがた涙に暮れるのか、それはアリョーシャにとって少しも疑問にならなかった。 (我)ぼくにとって、それは少しも疑問にならなかった。その回答はこうである。
おお、彼はよく知っていた! 常に労役と悲哀、――いな、それよりもなおいっそう、常日頃の生活に
付きまとう不公平や、自己の罪のみならず全人類の罪にまで苦しめられているロシア民衆の謙虚な魂
にとっては、聖物または聖者を得てその前に倒れ 額きたいというより以上の強い要求と 慰藉はない
のである。
(我)このことは、ロシア民衆あるいは民衆と、抽象的にとらえてはならぬ。これは僕ら自身のことを言っている。僕ら自身の不幸な青春の魂について言っている。
『たとえ我々に、罪悪や、不義や、誘惑などがあっても構いはしない、地球の上のどこそこに
は、神聖で高尚な方がおいでになる。あの人は、我々に代わって真理を持っていらっしゃる、真理を知
っていらっしゃる、つまり真理は地上に亡びていない証拠だ。して見ると、その真理はいつか我々にも伝
わって来て、神様が約束されたように、地球全体を支配するに違いない。』とこんなふうに民衆は感じ
ている、感じているのみか考えてさえいる。アリョーシャにはそれがよくわかった。そして長老ゾシマが民衆の考えているのと同じ聖人であり、真理の保管者であるということを少しも疑わなかった。その点におい
て、彼自身もこれらの有難涙に暮れる百姓や、子供を長老の方へ差し出す病身な女房などと変わり
はなかった。 >612
心配しなくてもよい。君たちとぼくでは次元が違う。仏法者と依怙依託(えこえたく)なき、人生の羅針盤なき一般人である君らとでは。
君らが僕のカキコを必死で読んでいることも、よくわきまえている。 キリストであれ、釈迦であれ、その他信仰であれ、民衆から遊離し、現実の目の前にいるひとりを救わんと
動いていないならば、そして誰よりも自分自身のネガティブな、もろもろの虚しさを超克しようと
祈り、走り抜いていないのならば、そんなものは観念論に過ぎない。
それを可能にするための、創価学会の組織である。 >また長老が永眠の後、この僧院に並々ならぬ名誉を与えるという信念は、僧院内の誰よりも一番
深く、アリョーシャの心に根ざしていた。
この発想は僕にはわからぬ。キリスト教と関係があるのか?僕ならば次のように考える。
「ああ、長老様が亡くなったら、この僧院も終わりだあ〜〜。そんでぺくも終わりだあ〜〜、もう誰も
ぼくを守ってくれる人はいないんだあ。頼る人もお〜〜!」と。
>それに全体として、このころ何かしら深刻な炎のような心内の歓喜が、いよいよ烈しく
彼の胸に燃え盛るのであった。
青春時代たしかに、僕もこうした歓喜の炎が胸に燃え盛っていた。そのことはよく憶えている。しかしもしかすると、自覚できていないだけで、老年近い今こそ、人生最大の歓喜と情熱の火の玉なのかしれん。
もしそうだとすると、これこそ信心の大功徳としか言いようがない。 >なんといっても、自分の目に見える真理の保持者
は、この長老一人にすぎないということも、決して彼を当惑させなかった。
『どっちにしても同じことだ。長老は神聖な人だから、あの人の胸の中には万人に対する更新の秘訣が
ある、真理を地上に押し立てる偉大な力がある。それですべての人が神聖になり、互いを愛し得るよう
になるのだ。そして貧富高下の差別もなくなって、一同が一様に神の子となる。こうしてついに神の王国が実現されるのだ。』これがアリョーシャの心に浮かぶ空想であった。
(我)
1,万人に対する更新の秘訣
2,真理を地上に押し立てる偉大な力
3,すべての人が神聖になり
4,すべての人が互いを愛し得るようになる
5,貧富高下の差別もなくなって
6,一同が一様に仏の子となる
7,ついに仏国土が実現される
微妙な表現の違いはあるが、まさにぜんぶことごとく、アリョーシャの夢想とおれの空想は完全合致だ!!
おれたちには1から7までのすべてがある。君らには 何一つないだろう?当たり前だ!
まず1,の「万人に対する更新の秘訣」がない。というより そもそも概念が理解できんだろう?
あえて説明せんとく... w 今回は。 >>610
> 長老に会って祝福を受けるためにロシアの全土から流れ寄って、
庵室の門口で待っている平民出の巡礼の群へ、
しずしずと長老が姿を現わす時であった。
1,長老に会うため
2,その目的は祝福を受けるため(心内の闇を払うため)
3,広大なロシア大陸のすべての片田舎からでも集う。長老の下へ
4,民衆は、庵室の門口で待っている。応接室やソファで、予約制で待つのではない。
日蓮大聖人御書に「伝教大師は二千里をすぎて止観をならい、玄奘三蔵は二十万里をゆきて般若経を得給へり」
「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と。
また池田先生は、
「仏法のために歩けば、歩いた分だけ、自在に世界を回れる福徳を得る。
仏法のために、法座となる会場を整え、会館や研修道場を清掃する人は、
未来に『宝の家』に住まう境涯になるでしょう。
これらは、おとぎ話ではない」
> 彼らはその前へ打ち倒れて、泣きながらその足に口づけし、その足の踏んでいる土
> に口づけし、声を上げて 慟哭した。また女房どもは彼の方へ子供を差し出したり、病める
> 狂い女を連れて来たりする。
1,長老の前に打ち倒れること(長老の前で とりつくろい、威儀を保つのではない。それは信心弱き
ひとのなすことである)
2,泣きながら
3,その足に口づけし
なぜか?命がけだからです。全存在をかけて 苦悩の解決のために 長老の前へ集ったからです。 >>613
> おお、彼はよく知っていた! 常に労役と悲哀、――いな、それよりもなおいっそう、常日頃の生活に
> 付きまとう不公平や、自己の罪のみならず全人類の罪にまで苦しめられているロシア民衆の謙虚な魂
> にとっては、聖物または聖者を得てその前に倒れ 額きたいというより以上の強い要求と 慰藉はない
> のである。
1,つねに労役、つねに働かないといけない。不労所得はない。土地財産もない。官位も爵位もない。もちろん学歴など皆無だ
2,常日頃の生活に付きまとう不公平
1があるから、とうぜん2もある。
3,自己の罪に苦しみ
2の不公平ゆえに、罪を犯すではないか。
一例を挙げれば、ここに財布が落ちていたとする。なかに10万円入っていたとする。所持金は5円だったとする。自分のみならず家族が食べるごはんもないとする。
4,全人類の罪にまで苦しめられている
罪というのは哲学者が考えるような「ひとりのもの」ではない。全人類共通のものです。 >民衆の謙虚な魂にとっては、聖物または聖者を得てその前に倒れ 額きたいというより以上の強い要求と 慰藉はないのである。
1,民衆の
先の1〜4に該当しないものは、民衆ではありません。
2,謙虚な魂
傲慢な魂、賢い魂ではなく、謙虚な魂。謙虚な心ではなく、謙虚な魂です。頭で考えるのでも
感じるのでもなく、存在それ自体が謙虚にならざるを得ない。
3,聖物
聖なる「物」。御本尊です。
4,聖者
5,その前に倒れ 額きたい
それより以上の強い「ねがい」と「なぐさめ」はない。
もとより他のことなどどうでもいいと思っている。これが信仰篤き民衆の飾らざるありのままの姿です。
自分にはこれこれの財産がある。自分にはこれこれの学歴がある。自分には、これこれの能力がある。馬鹿げたことです。賢い人間など腐るほどいるが、信心バカ信心キチガイはめったに出現しない。
たとえば末期ガンになったとき、そんなものが何の役に立つか? 僕が数年前から述べてきた主張を思い出してもらうために、再度書きます。
1,このスレの99%のひとたちは、カラマーゾフや他のドスト作品を「読み飛ばしているだけ」です。
2,一語一語、思索し「自分のこととして」「自分の身に当てて」読んでいません。小説として
ちょっと教養高めのエンターテイメントと思っている。ちがいますか?
3,そうなるワケですが、カラマーゾフの小説作品中の世界と、あなた達が生きている生活してる
現実が遊離してるからです。全く関係ないからです。 >『たとえ我々に、罪悪や、不義や、誘惑などがあっても構いはしない、
1,罪悪
悪業・罪業である
2,不義
不正義・不義理である。我らはそれらの塊である。
3,誘惑
性の誘惑、悪の誘惑、怠惰の誘惑、努力の放棄、信念の放棄
>地球の上のどこそこには、神聖で高尚な方がおいでになる。あの人は、我々に代わって真理を持っていらっしゃる、真理を知っていらっしゃる、
つまり真理は地上に亡びていない証拠だ。して見ると、その真理はいつか我々にも伝わって来て、神様が約束されたように、地球全体を支配するに違いない。』とこんなふうに民衆は感じ
ている、感じているのみか考えてさえいる。
>アリョーシャにはそれがよくわかった。
アリョーシャは貴族のむすこであり、厳しい労働もしていない。それなのになぜ、民衆の心がわかりますか?
アリョーシャは「いっさいを捨てて」信仰にかけているからです。長老につかえきっているからです。 >>623
> フランスでカルト認定された創価学会のモノローグ性
フランスだけではない。台湾でも(比較的近年まで)、韓国でも(1964年)猛烈な弾圧を受けました。
げんざい、イタリア・イギリス・インドでとてつもない勢いで広宣流布中です。 欧米、ラテンアメリカでは「仏教といえば創価学会をさします」 ただし、諸外国のことは、ぼくは知らないし、
そんなことは、どうでもイイとも言える。
ぼくたちは日本に住み、なかんずく地域に住み、その地域のなかで
学会員という生き方を見せている。
究極的には、アリョーシャも長老も救われません。信仰の対境が、キリストだー、イスラエルの民だー、神だーという邪宗教だからです。
ただし、彼らは本物のキリスト教徒です。行動と実践があるからです。
このスレで「キリスト!」と言っている人は、行動と実践なきゆえに、もちろんキリスト教徒ではない。 >>623
> フランスでカルト認定された創価学会のモノローグ性
おフランスでカルト認定されたら、なにか悪いものと思う。そりゃそうだ... w
君ら俗物の特色で、権威に弱く、白人バンザイの愚人だからね。
君は権威権力に弱いでしょ?ケイサツとか... w
そういう弱っちい人間で一生を終えたいなら、自己満足の世界で生きていなさい。 創価学会にのめりこむほど社会から孤立していく
彼らはそれを救済と呼んでいる ドストスレは滅んだ!
俺に滅ぼされた。
なぜか? 内発的な、自分の胸中から湧き上がる、作品への思いが、なにもなかったからだ!
たとえば長文である必要はない。たった一言であっても、虚飾ない心からの叫びなら、それは
届く。たとえば以前「罪と罰」について。「ラスコーリニコフは俺自身だ!」というカキコがあった。
「ラスコーリニコフは俺の代わりに罪を犯し、罰を受けた」と。 なぜこの言葉が心を打つのか?
読書体験から直接得た「真実の感想」だからだ。 >>629
> 創価学会にのめりこむほど社会から孤立していく
> 彼らはそれを救済と呼んでいる
それにたいし この者は、自分で創価学会を体験したわけではなく、2ちゃんあたりのネットで得た偏見をもとに、語っている。だから愚人・狂人とよばれる。
だれが真実に「社会から孤立している」のか? とうぜん、こういう愚人は孤立するのが宿命なのです。 なに言ってんだ
おまいの聞きたくもない創価の話を無理矢理聞かされるから誰もいなくなってるんだ 教育がーとか、親がーとか、日本人の文化がーとか
ぜんぶちがうと思う。
自己肯定感が低いのは、信仰がないためだろう。
俺達は創価学会の強固なコミュニティに所属し、
若いときから、民衆を救う!この日本から不幸な人をなくす!
人間革命する!という価値観のもと、あらゆる訓練を受けてきた。
そしてなにより、この絶対の御本尊様に対して
南無妙法蓮華経の信心により、「自己の無力感を制覇する」祈りの連続であった。
だから、ありのままの自分を受け入れられる!!
304 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/06/19(水) 16:08:02.58 ID:45n2Wq6f0 (5)
哀れな2ちゃんねらーどもよ!
ひとつだけ教えてやる。
おまえらは「自己肯定感が低くて良いのだ」
それが極限まで低くなった時、入信も可能なのだ!
305 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/06/19(水) 16:09:22.91 ID:45n2Wq6f0 (5)
もし学会に入り、命がけで信心したくなったら、
何もかもお前らが目指してたものが、幻影に過ぎない、
そんなものは策だった!と気づいたら、そんときは
俺に電話してこいっ >>633
> なに言ってんだ
> おまいの聞きたくもない創価の話を無理矢理聞かされるから誰もいなくなってるんだ
わかった... w 半分にする。それでいいか? 創価スレへどうぞ
日頃から偉そうなことばっか言ってるんだから行動でしめせ
責任とって出ていこう
ほんとこれで最後 >>635
そうかの話はスレチだからやっぱり合わないと思う
半分とかでなくて
バスケ部でゴルフのアイアン持ってきたら、野球部で将棋の駒もってきたら、なにしてんのってなるでしょ
文学のロシア作家のスレで東洋の宗教の話されても、なにそれってなるのは分かるでしょ
だからそうかの事はそうかスレでやって、ドストエフスキーの話があるならばドストスレですればいいじゃん
みんなそーしてるんだし
そういう区切りができないなら、君ごとそうかのスレにうつったほうがいいと思うよ >>638
> バスケ部でゴルフのアイアン持ってきたら、野球部で将棋の駒もってきたら、なにしてんのってなるでしょ
> 文学のロシア作家のスレで東洋の宗教の話されても、なにそれってなるのは分かるでしょ
>
不思議なたとえをもってきたね。君にとっては宗教というのは一文化圏に限定されたものだという解釈だ。
文学のロシア作家であるドストエフスキーは、東洋の宗教とは無関係だ、という意見だ。
君にとって、たとえばキリスト教というのは、野球部員のバットに過ぎない。ドストエフスキー作品中に
出てくるキリスト教も、ひとつの「物語中の物語」に過ぎない。もっと言えばきみの信仰はアクセサリーにすぎない。
キリスト教が世界と宇宙を解釈しうるなら、創価学会とは何かを説明できるはずだ。
そしてもっとも大切なことは、創価学会員である僕こそがもっともよく「ゾシマとアリョーシャの物語」について
説明しうるという、この事実だ。
僕らは、キリーロフやイヴァンの自己欺瞞などには、まったく幻惑されない。ちょっとネットから引いてくる。
「もし神がいないとすれば、その時は僕が神なのだ。」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、僕も神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ、したがって、僕は我意を主張する義務があるわけだ。」
「僕は自殺する義務があるのだ。なぜって、僕の我意の最も完全な点は、−ほかでもない、自分で自分を殺すことにあるからだ。」
ドストエフスキーはなんのために、こんな観念論に陷った、なんの価値も産まない、否定的人物像を描いたのか?
悪霊については詳しく知らないが、「罪と罰」から推定すれば、こうした観念の遊戯から立ち上がり、生まれ変わるためではないか? 池田大作先生はゾシマ長老の生まれ変わりですからね
毎日することのない暇な迷惑じいさんは朝から晩まで何妙法蓮華経というわけです >239吾輩は名無しである2019/04/13(土) 00:36:11.10ID:/z2bKri6
>悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
ドストエフスキーの本を読まずとも、ネットで拾った断片をコピペするだけで真理を語れる
それが創価学会ひいては日蓮大聖人の教えというわけです >>639
おまい口だけでころころ話が変わるからダメだわ
仏教が無神論かどうかは宗教スレでやってください
そんな話じゃなくドストエフスキーのスレだからドストエフスキーの話をする場だと言ってるの
最低限のルールは守りましょう
自分のレス読んでみ
ここはおまいの日記帳じゃないの 先生とゾシマは何もかもちがう。しかしひとつだけ、完全に同じ点がある。
カラマーゾフから引用しよう。
――彼の所へは大勢の人が、自分の心中を打ち明けて、 霊験のある言葉や忠
言を聞こうという希望に渇しながらやって来る。長老はこういう人達と永年のあいだ
無数に接して、その 懺悔や、 苦悶や、告白を数限りなく自分の心に納めたので、
しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どんな用事で来たの
か、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を 苛んでいるか、とい
うようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。 >>642
ここはおれの日記帳だ。お前たちはおれの心を知ってそこから学べ。 >>641
> >悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
おれの一流のカキコをよくひろってきたねw
> ドストエフスキーの本を読まずとも、ネットで拾った断片をコピペするだけで真理を語れる
> それが創価学会ひいては日蓮大聖人の教えというわけです
問う。胸に手を当てて考えてみよ。
ドストエフスキーの本を読むと、真理を語れるのか?
答える。
けっしてそういうことはない。
しからば、どうすれば真理に到達するか?
答える。
南無妙法蓮華経のお題目を唱えぬき、創価学会活動に全力で取り組むしかない。
ヤる、ヤラないは、おまえの自由だ。やれば思いもよらない想像を絶する幸福を知り、
ヤラなければ愚人として惨めな人生で終わる。
カラマーゾフの表現を借りて、創価学会員の人生とはどういうものか説明する。 1,ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と
意志に同化させるものである。
2,人はいったんある長老を選び出したら、全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長
老に自分の意志を捧げるのである。
3,願かけをした人は長い苦行の後自己を征服し、かつ制御する日が来るのを楽しんで、
こうした試練、こうした恐ろしい『人生の学校』を、自ら進んで双肩に担うのであ
る。
4,この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、即ち自分自身に対する自由
に到達する。
5,そして一生涯のあいだ自己を発見することのできない人々と、運命をともにするのを避ける
ことができるのである。
略
6,長老に対する義務は、いつの時代にもわが国の僧院にあった普通の『服従』とは、類を異に
している。ここに認められるものは、服従者の永久の 懺悔である、命令者と服従者との間の
破ることのできない関係である。
創価学会とは『人生の学校』である。
おまえたちは 5にあるとおり「一生涯のあいだ自己を発見することのできない」ものどもである。 >>642
> そんな話じゃなくドストエフスキーのスレだからドストエフスキーの話をする場だと言ってるの
おまいはw ドストエフスキーの話などしていない... w
ドストエフスキーの話をしてるのは、第一に俺であり、あと数人しかいない。
では、しばらくカキコしないから、ドストエフスキーの話をしてみろ。 >>644
ういーその態度わかった、じゃあオレもここを去るわ
最後になるから餞別として
いずれ人に向けた言葉の矢先は自分に向かうよ
ドストエフスキーに限らず文学や、そして宗教も、自己を大きなものと同一化して強化するという意味で一定の力を持つ
自己の精神が安定するという意味で健康にもなれる
だけどある時点で反省しないと、ただの欲の強化にはまり込むだろう
そういう意味で宗教は危うい、人を選ぶ
君はどの宗教をやっても排他的なカルトになる
その宗教のせいではない、君自身のせいですべてカルトに仕立て上げてしまうだろう
崇拝とは人間に向けるものではない
ドストエフスキーは神に与えられた自由意思をどこまでも重んじた
一方で意思の自由には同じだけの責任も問われるとした
そこに神の沈黙があるとする、ただこれは恩寵でもある
だけどここにはドストエフスキーの信じた一神教としての神の位格、人でいう人格をもった神の顔がある
君はそこをそうかの汎神論(人格のない神)と同等にしてしまい、そして問題はそこことに何ら疑問すら抱いていないという最大の事実がある
ここが分からない限り、宗教が何なのかはさとれないだろう
そして君のアイデンティティもどこまでいっても築くことはできないだろうね
それでは皆様、この偉大な作家とそこに魅了されたすべての方に、神の祝福がありますことを! こんな創価プロパガンダのクソスレはぺっぺですよ、ぺっぺ! BS日テレのロシアドラマ『エカテリーナ』がエロい
今日は、結婚してもまだ処女のままのエカテリーナに女帝が夫を誘惑しろと命じる やはり俺がいなければ、また他のなんにんか以外は そもそもドストエフスキーについて語っておらんじゃないか >>648
> いずれ人に向けた言葉の矢先は自分に向かうよ
俺の言葉は愛の言葉だ。慈悲の言葉だ。わからんのかっ?
目先のこのスレ内で表面だけ仲良しこよし なんかして なんになる? 慈悲の弱いおれだから、勇気をもって
真実の言葉を語っている。そうであればこそ、おれはアリョーシャの生まれ変わりと呼ばれるんだ。
この真実と慈悲の言葉のゆえに、おれは現実生活において周囲のひとから、真実と慈悲によって接してもらえる。
ところで、なんのために、嫌がるやつに、信心を語るのか? そいつがしないとわかってるのに?
そこにどういう秘密が隠されていると思う?
> ドストエフスキーに限らず文学や、そして宗教も、自己を大きなものと同一化して強化するという意味で一定の力を持つ
そうだね。だが、もう一つ重要なことがあるぞ。「宗教や信仰は大きな力をもつ」がゆえに「悪しき信仰と宗教は
とんでもない結果を生む」ということなんだ。
> 君はどの宗教をやっても排他的なカルトになる
> その宗教のせいではない、君自身のせいですべてカルトに仕立て上げてしまうだろう
おまえが定義するその「排他的なカルト」というのは、どういう意味なんだ?自分で意識してないだろうが、
ネットの低俗な人間が使う言葉を軽々しく借用して、俺と学会に投げつけている。... だがそのことはよい。
おれはワザとしてることだからな。おまえに誤解されるように。
今日はつぎの一文について書きたい。
> 崇拝とは人間に向けるものではない 今日はつぎの一文について書きたい。
> 崇拝とは人間に向けるものではない
=================================================================================
ぼくが過去に引用してきた文を再掲していくからいっしょに考えてみてくれ。
>>602
> 彼が僧院生活に入ったのも、ただこれ一つのみ
>
> が当時の彼の心に驚異の念を呼び覚まし、世界悪の闇から愛の光明を目指して驀進(ばくしん)する彼の心に
>
> 究極の理想として映じたからである。また僧院生活が彼に驚異の念を呼び覚ました訳は、当時彼が
>
> 稀有の人物と考えていた有名な長老ゾシマを、その中に発見したからである。彼は乾いた心の初恋に
>
> も似た熱情を捧げて、この長老に傾倒したのである。
これは、アリョーシャの崇拝は「人間に向けたものではないのか?」答えてくれ。 > 607
> しかしそれでも大多数は、すでに疑いもなく長老ゾシマの味方であった。のみならずその
> 中には、真底から熱情を込めて、彼を愛している者も少くなかった。ある者はもうほとんど
> 狂信的に彼に傾倒していた。こういう人達は公然にこそ言わないが、長老は聖徒である、そ
> れにはいささかの疑いもない、と噂していた。
>
> そしてほどなく長老の逝去を予見しているので、ごく近いうちに僧院にとって偉大な名誉と
> なるような奇跡が、必ず現われるに違いないと期待していた。長老の奇跡的な力はアリョー
> シャも絶対に信じて疑わなかった。それはちょうど、寺の中からけし飛んだ棺の話を絶対に
> 信じたのと同じ理屈であった。
>
=================================================================================
>崇拝とは人間に向けるものではない
としたら、ここに描かれているひとびとは、邪信のひとなのか?
>長老の奇跡的な力をアリョーシャも絶対に信じて疑わなかった。
アリョーシャも、君の観念によれば、まちがっているのか? > ――彼の所へは大勢の人が、自分の心中を打ち明けて、 霊験のある言葉や忠
> 言を聞こうという希望に渇しながらやって来る。長老はこういう人達と永年のあいだ
> 無数に接して、その 懺悔や、 苦悶や、告白を数限りなく自分の心に納めたので、
> しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どんな用事で来たの
> か、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を 苛んでいるか、とい
> うようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。
民衆はなぜ「泣きながら」「ロシヤ全土」から 「長老の下へ」集うのか?
その答えは、次下に書いてある。
>『たとえ我々に、罪悪や、不義や、誘惑などがあっても構いはしない、
>地球の上のどこそこには、神聖で高尚な方がおいでになる。あの人は、我々に代わって真理を持っていらっしゃる、真理を知っていらっしゃる、
>つまり真理は地上に亡びていない証拠だ。して見ると、その真理はいつか我々にも伝わって来て、神様が約束されたように、地球全体を支配するに違いない。』とこんなふうに民衆は感じ
ている、感じているのみか考えてさえいる。
>アリョーシャにはそれがよくわかった。 君には民衆の心がわかるか? なぜ日本で、また世界で、多くの民衆が この創価学会の信心にいのちと希望のすべてをかけているか?理解できるか?
理解しようとする精神があるか? アリョーシャがいまこの日本に生きていたら「端的に理解したと思う」
そしてゾシマもアリョーシャもドストエフスキーも まちがいなく創価学会に入信してるのだ。
ドストエフスキーは「もし誰かが自分にキリストは真理の外に立っていることを示し、またもし真理が、本当にキリストの他にあるならば、僕は真理のところに留まるよりも、キリストの所に留まる方がよい」
という言葉の前段は「キリストは真理の外にある」ということを、ドストは覚知していたんだ。
それが作品の否定的人物に仮託されて表現されていた。そして「キリストの所に留まる方がよい」という後段部分はそのほうが人生として価値がある、という判断だ。
あたりまえだ。無信仰の人間のバカげきった発言や思考を、さんざん このスレでも目にしているだろう?
だが、まちがいなく、ぼくら創価学会員はドストエフスキーをして、この南無妙法蓮華経の信心と創価学会の
生き方のほうが、キリスト教よりも美しく価値的で生きるに値する人生であると理解せしめ、入信させていることだろう。 誤解したらいけないからもう一つつけくわえる。
>崇拝とは人間に向けるものではない
という意味はもちろんわかっている。われわれの信心もまったく同じ。
信仰の対象は「御本尊」であり、「日蓮大聖人」であり、「南無妙法蓮華経の仏法」です。
けっして「先生ではない」
しかしわれわれには「人生と広宣流布の死身弘法(ししんぐほう)の師匠がいる」ということなんだ。
われわれは、先生を熱愛しているということなんだ。次元はちがうがアレクセイが長老を熱愛したのと同じことだ。 >>658
> 御本尊と日蓮大聖人も人間だろw
どうやら、この信心のことを少し知っているようだね?
御本尊は法です。日蓮大聖人は歴史的には人間ですが、ぼくらは末法の御本仏と
信じています。 きみは、創価・学術出入り禁止スレにはけっして出入りしてはいけないよ?
アソコは正真正銘のクズが集まるすれだからっww !!
秘境もんが集まるスレだ どんだけ読解力がないんだよ
好きなとこしか見ないとかやっぱカルトじゃんw ご本尊も人間だろw
インド人の無職、ゴータマ氏の偶像だwww >>663
> ご本尊も人間だろw
御本尊が人間って意味分かんないんだけどwww
それとここは創価スレじゃないからっ
ドストエフスキーの文を交えてゆって ? 人間崇拝の人神論は戦前の日本か北朝鮮か中国共産党かアフリカの独裁国と変わんない
池田先生は神w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています