ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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2月1日
痩せ衰えゆく、先生を、本山にお迎えする。先生、毅然たる態度で、指揮をとりはじめゆく。
2月2日
朝、熱あり。風邪か?
午前9時、先生と共に、御開扉。万思、祈念す。
2月3日
朝より微熱あり。
先生、熱海にて、ご静養。種々、電話あり。
2月4日
遅く、病める先生より「大作の病気の方はどうだ」と、奥様を通じて電話あり。申し訳なし。 彼が僧院生活に入ったのも、ただこれ一つのみ
が当時の彼の心に驚異の念を呼び覚まし、世界悪の闇から愛の光明を目指して驀進(ばくしん)する彼の心に
究極の理想として映じたからである。また僧院生活が彼に驚異の念を呼び覚ました訳は、当時彼が
稀有の人物と考えていた有名な長老ゾシマを、その中に発見したからである。彼は乾いた心の初恋に
も似た熱情を捧げて、この長老に傾倒したのである。 四 三男アリョーシャ
彼はまだやっと二十一であった(中兄のイワンはその時二十四、長兄のドミートリイは二十八であっ
た)。第一に言っておかなければならないのは、この青年アリョーシャが決して狂信者でもなければ、また
少なくとも筆者の考えでは、断じて神秘主義者でもないということである。あらかじめ筆者の忌憚なき
意見を述べるなら、彼は単に若き博愛家にすぎない。
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ぼくは、この文をそのまま自分のこととして、自己紹介と思ってコピペしている。ぼくはまさに「若き博愛家」
であった。 ぼくが創価学会に入ったのも、ただこれ一つのみ
が当時のぼくの心に驚異の念を呼び覚まし、世界悪の闇から愛の光明を目指して驀進
(ばくしん)するぼくの心に究極の理想として映じたからである。
また信仰生活がぼくに驚異の念を呼び覚ました訳は、当時ぼくが稀有の人物と考えていた有名な
○○先生を、その中に発見したからである。彼は乾いた心の初恋にも似た熱情を捧げて、
この先生に傾倒したのである。
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以上のごとく、文字を入れ替えて、そのまま完全にぼくの青春時代を言い表すことが可能だし、しかもそれは
いまもまったく同じ濃度と質量で、否、いやまして創価学会の信心と先生に傾倒している。 長老ゾシマについては、多くの人がこんなことをいっていた、――彼の所へは大勢の人が、
自分の心中を打ち明けて、霊験のある言葉や忠言を聞こうという希望に渇しながらやって来
る。長老はこういう人達と永年のあいだ無数に接して、その懺悔や、苦悶や、告白を数限り
なく自分の心に納めたので、しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どん
な用事で来たのか、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を苛んでいるか、
というようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。そして、当人がまだ口を利
かないさきに、その霊魂の秘密を正確に言い当てて、当人を驚かしたりきまり悪がらせたり、
どうかすると気味わるく感じさせたりするのであった。
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試みに問う。きみたちは、こういう人物とおのが人生の中で出会ったことがあるか? しかしアリョーシャは、はじめて長老の所へ差向いで話しに来る多くの人が、大抵みな恐
怖と不安の表情で入って行くが、出て来る時には、悦ばしそうな明るい顔つきになっている
のに気がついた。実際、恐ろしく沈み込んでいた顔が、わずかの間にさも幸福そうになるの
であった。いま一つアリョーシャを感動させたのは、長老が人と応対するとき決して厳格で
ないばかりか、かえっていつも愉快そうな顔をしていることであった。彼は少しでも余計罪
の深い者に同情して、最も罪の深いものを誰より一番に愛するのだ、と僧達は話し合ってい
た。
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>彼は少しでも余計罪の深い者に同情して、最も罪の深いものを誰より一番に愛するのだ、
ふつうは、罪の深いものを忌避し、イノセントなものを愛するのが凡夫です。それなのに逆にこのような
感情をもつのは、まさに信仰のゆえです。信仰と使命感の故です。 しかしそれでも大多数は、すでに疑いもなく長老ゾシマの味方であった。のみならずその
中には、真底から熱情を込めて、彼を愛している者も少くなかった。ある者はもうほとんど
狂信的に彼に傾倒していた。こういう人達は公然にこそ言わないが、長老は聖徒である、そ
れにはいささかの疑いもない、と噂していた。
そしてほどなく長老の逝去を予見しているので、ごく近いうちに僧院にとって偉大な名誉と
なるような奇跡が、必ず現われるに違いないと期待していた。長老の奇跡的な力はアリョー
シャも絶対に信じて疑わなかった。それはちょうど、寺の中からけし飛んだ棺の話を絶対に
信じたのと同じ理屈であった。
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ぼくも真底から熱情を込めてその先生を愛した。狂信的にそのひとに傾倒していた。日蓮大聖人
に次ぐ存在である。
先生の奇跡的な力をぼくは絶対に信じて疑わなかった。
だからキリストであろうが、いかなる主義主張であろうが、すべて問題外の愚論であった。
なぜかならば、眼前の偉大な人物につかえているからである。 彼は病気の子供や大人の親類などを連れて来て、長老様がその上にちょっと手を載せて、お
祈りをいって下さるようにと頼む多くの人を見た。
彼らはまもなく(中にはすぐその翌日)やって来て、涙ととも
に長老の前に打ち倒れ、病人を全治してもらった礼を述べるのであった。
それははたして長老が全治さしたのか、病気が自然の経過を経て快方に向かったのか、――
そんな問題はアリョーシャにとって存在しなかった。
なぜならば、アリョーシャはすっかり師の精神力を信じきって、師の名声を自分自身の勝利
ように思いなしていたからである。 >それははたして長老が全治さしたのか、病気が自然の経過を経て快方に向かったのか、――
そんな問題はアリョーシャにとって存在しなかった。
重要なことが書いてある。ある信仰があって、そこに奇跡的な力があるから信じる―― などという
態度は、信仰の本質を示していない。
アリョーシャは、ゾシマの病気を治癒する奇跡的力のゆえに、信仰したのではなく、傾倒して愛したのでもない。
そんな問題はアリョーシャにとって、どうでもよいことであった。
1,アリョーシャはすっかり師の精神力を信じきっていた。
2,師の名声を自分自身の勝利のように思っていた。 ことに、彼が満面照り輝いて胸のときめきをとどめ得なかったのは、長老に会って祝福を受
けるためにロシアの全土から流れ寄って、庵室の門口で待っている平民出の巡礼の群へ、し
ずしずと長老が姿を現わす時であった。
彼らはその前へ打ち倒れて、泣きながらその足に口づけし、その足の踏んでいる土
に口づけし、声を上げて 慟哭した。また女房どもは彼の方へ子供を差し出したり、病める
狂い女を連れて来たりする。 長老は彼らと言葉を交え、簡単な祈祷を捧げ祝福をして、彼らを退出させるの
であった。最近に至って病気の 発作のため、時とすると、庵室を出ることができないほど弱ってしまうこと
があった。そんな時、巡礼者は二日でも三日でも僧院の中で、彼が出て来るのを待ち受けていた。
なんのために彼らはこれほど長老を愛するのか、
なぜ彼らは長老の顔を見るやいなやその前に倒れて
ありがた涙に暮れるのか、それはアリョーシャにとって少しも疑問にならなかった。 (我)ぼくにとって、それは少しも疑問にならなかった。その回答はこうである。
おお、彼はよく知っていた! 常に労役と悲哀、――いな、それよりもなおいっそう、常日頃の生活に
付きまとう不公平や、自己の罪のみならず全人類の罪にまで苦しめられているロシア民衆の謙虚な魂
にとっては、聖物または聖者を得てその前に倒れ 額きたいというより以上の強い要求と 慰藉はない
のである。
(我)このことは、ロシア民衆あるいは民衆と、抽象的にとらえてはならぬ。これは僕ら自身のことを言っている。僕ら自身の不幸な青春の魂について言っている。
『たとえ我々に、罪悪や、不義や、誘惑などがあっても構いはしない、地球の上のどこそこに
は、神聖で高尚な方がおいでになる。あの人は、我々に代わって真理を持っていらっしゃる、真理を知
っていらっしゃる、つまり真理は地上に亡びていない証拠だ。して見ると、その真理はいつか我々にも伝
わって来て、神様が約束されたように、地球全体を支配するに違いない。』とこんなふうに民衆は感じ
ている、感じているのみか考えてさえいる。アリョーシャにはそれがよくわかった。そして長老ゾシマが民衆の考えているのと同じ聖人であり、真理の保管者であるということを少しも疑わなかった。その点におい
て、彼自身もこれらの有難涙に暮れる百姓や、子供を長老の方へ差し出す病身な女房などと変わり
はなかった。 >612
心配しなくてもよい。君たちとぼくでは次元が違う。仏法者と依怙依託(えこえたく)なき、人生の羅針盤なき一般人である君らとでは。
君らが僕のカキコを必死で読んでいることも、よくわきまえている。 キリストであれ、釈迦であれ、その他信仰であれ、民衆から遊離し、現実の目の前にいるひとりを救わんと
動いていないならば、そして誰よりも自分自身のネガティブな、もろもろの虚しさを超克しようと
祈り、走り抜いていないのならば、そんなものは観念論に過ぎない。
それを可能にするための、創価学会の組織である。 >また長老が永眠の後、この僧院に並々ならぬ名誉を与えるという信念は、僧院内の誰よりも一番
深く、アリョーシャの心に根ざしていた。
この発想は僕にはわからぬ。キリスト教と関係があるのか?僕ならば次のように考える。
「ああ、長老様が亡くなったら、この僧院も終わりだあ〜〜。そんでぺくも終わりだあ〜〜、もう誰も
ぼくを守ってくれる人はいないんだあ。頼る人もお〜〜!」と。
>それに全体として、このころ何かしら深刻な炎のような心内の歓喜が、いよいよ烈しく
彼の胸に燃え盛るのであった。
青春時代たしかに、僕もこうした歓喜の炎が胸に燃え盛っていた。そのことはよく憶えている。しかしもしかすると、自覚できていないだけで、老年近い今こそ、人生最大の歓喜と情熱の火の玉なのかしれん。
もしそうだとすると、これこそ信心の大功徳としか言いようがない。 >なんといっても、自分の目に見える真理の保持者
は、この長老一人にすぎないということも、決して彼を当惑させなかった。
『どっちにしても同じことだ。長老は神聖な人だから、あの人の胸の中には万人に対する更新の秘訣が
ある、真理を地上に押し立てる偉大な力がある。それですべての人が神聖になり、互いを愛し得るよう
になるのだ。そして貧富高下の差別もなくなって、一同が一様に神の子となる。こうしてついに神の王国が実現されるのだ。』これがアリョーシャの心に浮かぶ空想であった。
(我)
1,万人に対する更新の秘訣
2,真理を地上に押し立てる偉大な力
3,すべての人が神聖になり
4,すべての人が互いを愛し得るようになる
5,貧富高下の差別もなくなって
6,一同が一様に仏の子となる
7,ついに仏国土が実現される
微妙な表現の違いはあるが、まさにぜんぶことごとく、アリョーシャの夢想とおれの空想は完全合致だ!!
おれたちには1から7までのすべてがある。君らには 何一つないだろう?当たり前だ!
まず1,の「万人に対する更新の秘訣」がない。というより そもそも概念が理解できんだろう?
あえて説明せんとく... w 今回は。 >>610
> 長老に会って祝福を受けるためにロシアの全土から流れ寄って、
庵室の門口で待っている平民出の巡礼の群へ、
しずしずと長老が姿を現わす時であった。
1,長老に会うため
2,その目的は祝福を受けるため(心内の闇を払うため)
3,広大なロシア大陸のすべての片田舎からでも集う。長老の下へ
4,民衆は、庵室の門口で待っている。応接室やソファで、予約制で待つのではない。
日蓮大聖人御書に「伝教大師は二千里をすぎて止観をならい、玄奘三蔵は二十万里をゆきて般若経を得給へり」
「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と。
また池田先生は、
「仏法のために歩けば、歩いた分だけ、自在に世界を回れる福徳を得る。
仏法のために、法座となる会場を整え、会館や研修道場を清掃する人は、
未来に『宝の家』に住まう境涯になるでしょう。
これらは、おとぎ話ではない」
> 彼らはその前へ打ち倒れて、泣きながらその足に口づけし、その足の踏んでいる土
> に口づけし、声を上げて 慟哭した。また女房どもは彼の方へ子供を差し出したり、病める
> 狂い女を連れて来たりする。
1,長老の前に打ち倒れること(長老の前で とりつくろい、威儀を保つのではない。それは信心弱き
ひとのなすことである)
2,泣きながら
3,その足に口づけし
なぜか?命がけだからです。全存在をかけて 苦悩の解決のために 長老の前へ集ったからです。 >>613
> おお、彼はよく知っていた! 常に労役と悲哀、――いな、それよりもなおいっそう、常日頃の生活に
> 付きまとう不公平や、自己の罪のみならず全人類の罪にまで苦しめられているロシア民衆の謙虚な魂
> にとっては、聖物または聖者を得てその前に倒れ 額きたいというより以上の強い要求と 慰藉はない
> のである。
1,つねに労役、つねに働かないといけない。不労所得はない。土地財産もない。官位も爵位もない。もちろん学歴など皆無だ
2,常日頃の生活に付きまとう不公平
1があるから、とうぜん2もある。
3,自己の罪に苦しみ
2の不公平ゆえに、罪を犯すではないか。
一例を挙げれば、ここに財布が落ちていたとする。なかに10万円入っていたとする。所持金は5円だったとする。自分のみならず家族が食べるごはんもないとする。
4,全人類の罪にまで苦しめられている
罪というのは哲学者が考えるような「ひとりのもの」ではない。全人類共通のものです。 >民衆の謙虚な魂にとっては、聖物または聖者を得てその前に倒れ 額きたいというより以上の強い要求と 慰藉はないのである。
1,民衆の
先の1〜4に該当しないものは、民衆ではありません。
2,謙虚な魂
傲慢な魂、賢い魂ではなく、謙虚な魂。謙虚な心ではなく、謙虚な魂です。頭で考えるのでも
感じるのでもなく、存在それ自体が謙虚にならざるを得ない。
3,聖物
聖なる「物」。御本尊です。
4,聖者
5,その前に倒れ 額きたい
それより以上の強い「ねがい」と「なぐさめ」はない。
もとより他のことなどどうでもいいと思っている。これが信仰篤き民衆の飾らざるありのままの姿です。
自分にはこれこれの財産がある。自分にはこれこれの学歴がある。自分には、これこれの能力がある。馬鹿げたことです。賢い人間など腐るほどいるが、信心バカ信心キチガイはめったに出現しない。
たとえば末期ガンになったとき、そんなものが何の役に立つか? 僕が数年前から述べてきた主張を思い出してもらうために、再度書きます。
1,このスレの99%のひとたちは、カラマーゾフや他のドスト作品を「読み飛ばしているだけ」です。
2,一語一語、思索し「自分のこととして」「自分の身に当てて」読んでいません。小説として
ちょっと教養高めのエンターテイメントと思っている。ちがいますか?
3,そうなるワケですが、カラマーゾフの小説作品中の世界と、あなた達が生きている生活してる
現実が遊離してるからです。全く関係ないからです。 >『たとえ我々に、罪悪や、不義や、誘惑などがあっても構いはしない、
1,罪悪
悪業・罪業である
2,不義
不正義・不義理である。我らはそれらの塊である。
3,誘惑
性の誘惑、悪の誘惑、怠惰の誘惑、努力の放棄、信念の放棄
>地球の上のどこそこには、神聖で高尚な方がおいでになる。あの人は、我々に代わって真理を持っていらっしゃる、真理を知っていらっしゃる、
つまり真理は地上に亡びていない証拠だ。して見ると、その真理はいつか我々にも伝わって来て、神様が約束されたように、地球全体を支配するに違いない。』とこんなふうに民衆は感じ
ている、感じているのみか考えてさえいる。
>アリョーシャにはそれがよくわかった。
アリョーシャは貴族のむすこであり、厳しい労働もしていない。それなのになぜ、民衆の心がわかりますか?
アリョーシャは「いっさいを捨てて」信仰にかけているからです。長老につかえきっているからです。 >>623
> フランスでカルト認定された創価学会のモノローグ性
フランスだけではない。台湾でも(比較的近年まで)、韓国でも(1964年)猛烈な弾圧を受けました。
げんざい、イタリア・イギリス・インドでとてつもない勢いで広宣流布中です。 欧米、ラテンアメリカでは「仏教といえば創価学会をさします」 ただし、諸外国のことは、ぼくは知らないし、
そんなことは、どうでもイイとも言える。
ぼくたちは日本に住み、なかんずく地域に住み、その地域のなかで
学会員という生き方を見せている。
究極的には、アリョーシャも長老も救われません。信仰の対境が、キリストだー、イスラエルの民だー、神だーという邪宗教だからです。
ただし、彼らは本物のキリスト教徒です。行動と実践があるからです。
このスレで「キリスト!」と言っている人は、行動と実践なきゆえに、もちろんキリスト教徒ではない。 >>623
> フランスでカルト認定された創価学会のモノローグ性
おフランスでカルト認定されたら、なにか悪いものと思う。そりゃそうだ... w
君ら俗物の特色で、権威に弱く、白人バンザイの愚人だからね。
君は権威権力に弱いでしょ?ケイサツとか... w
そういう弱っちい人間で一生を終えたいなら、自己満足の世界で生きていなさい。 創価学会にのめりこむほど社会から孤立していく
彼らはそれを救済と呼んでいる ドストスレは滅んだ!
俺に滅ぼされた。
なぜか? 内発的な、自分の胸中から湧き上がる、作品への思いが、なにもなかったからだ!
たとえば長文である必要はない。たった一言であっても、虚飾ない心からの叫びなら、それは
届く。たとえば以前「罪と罰」について。「ラスコーリニコフは俺自身だ!」というカキコがあった。
「ラスコーリニコフは俺の代わりに罪を犯し、罰を受けた」と。 なぜこの言葉が心を打つのか?
読書体験から直接得た「真実の感想」だからだ。 >>629
> 創価学会にのめりこむほど社会から孤立していく
> 彼らはそれを救済と呼んでいる
それにたいし この者は、自分で創価学会を体験したわけではなく、2ちゃんあたりのネットで得た偏見をもとに、語っている。だから愚人・狂人とよばれる。
だれが真実に「社会から孤立している」のか? とうぜん、こういう愚人は孤立するのが宿命なのです。 なに言ってんだ
おまいの聞きたくもない創価の話を無理矢理聞かされるから誰もいなくなってるんだ 教育がーとか、親がーとか、日本人の文化がーとか
ぜんぶちがうと思う。
自己肯定感が低いのは、信仰がないためだろう。
俺達は創価学会の強固なコミュニティに所属し、
若いときから、民衆を救う!この日本から不幸な人をなくす!
人間革命する!という価値観のもと、あらゆる訓練を受けてきた。
そしてなにより、この絶対の御本尊様に対して
南無妙法蓮華経の信心により、「自己の無力感を制覇する」祈りの連続であった。
だから、ありのままの自分を受け入れられる!!
304 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/06/19(水) 16:08:02.58 ID:45n2Wq6f0 (5)
哀れな2ちゃんねらーどもよ!
ひとつだけ教えてやる。
おまえらは「自己肯定感が低くて良いのだ」
それが極限まで低くなった時、入信も可能なのだ!
305 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/06/19(水) 16:09:22.91 ID:45n2Wq6f0 (5)
もし学会に入り、命がけで信心したくなったら、
何もかもお前らが目指してたものが、幻影に過ぎない、
そんなものは策だった!と気づいたら、そんときは
俺に電話してこいっ >>633
> なに言ってんだ
> おまいの聞きたくもない創価の話を無理矢理聞かされるから誰もいなくなってるんだ
わかった... w 半分にする。それでいいか? 創価スレへどうぞ
日頃から偉そうなことばっか言ってるんだから行動でしめせ
責任とって出ていこう
ほんとこれで最後 >>635
そうかの話はスレチだからやっぱり合わないと思う
半分とかでなくて
バスケ部でゴルフのアイアン持ってきたら、野球部で将棋の駒もってきたら、なにしてんのってなるでしょ
文学のロシア作家のスレで東洋の宗教の話されても、なにそれってなるのは分かるでしょ
だからそうかの事はそうかスレでやって、ドストエフスキーの話があるならばドストスレですればいいじゃん
みんなそーしてるんだし
そういう区切りができないなら、君ごとそうかのスレにうつったほうがいいと思うよ >>638
> バスケ部でゴルフのアイアン持ってきたら、野球部で将棋の駒もってきたら、なにしてんのってなるでしょ
> 文学のロシア作家のスレで東洋の宗教の話されても、なにそれってなるのは分かるでしょ
>
不思議なたとえをもってきたね。君にとっては宗教というのは一文化圏に限定されたものだという解釈だ。
文学のロシア作家であるドストエフスキーは、東洋の宗教とは無関係だ、という意見だ。
君にとって、たとえばキリスト教というのは、野球部員のバットに過ぎない。ドストエフスキー作品中に
出てくるキリスト教も、ひとつの「物語中の物語」に過ぎない。もっと言えばきみの信仰はアクセサリーにすぎない。
キリスト教が世界と宇宙を解釈しうるなら、創価学会とは何かを説明できるはずだ。
そしてもっとも大切なことは、創価学会員である僕こそがもっともよく「ゾシマとアリョーシャの物語」について
説明しうるという、この事実だ。
僕らは、キリーロフやイヴァンの自己欺瞞などには、まったく幻惑されない。ちょっとネットから引いてくる。
「もし神がいないとすれば、その時は僕が神なのだ。」
「もし神があれば、神の意志がすべてだ。したがって、僕も神の意志から一歩も出られないわけだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ。ところが、神がないとすれば、もう僕の意志がすべてだ、したがって、僕は我意を主張する義務があるわけだ。」
「僕は自殺する義務があるのだ。なぜって、僕の我意の最も完全な点は、−ほかでもない、自分で自分を殺すことにあるからだ。」
ドストエフスキーはなんのために、こんな観念論に陷った、なんの価値も産まない、否定的人物像を描いたのか?
悪霊については詳しく知らないが、「罪と罰」から推定すれば、こうした観念の遊戯から立ち上がり、生まれ変わるためではないか? 池田大作先生はゾシマ長老の生まれ変わりですからね
毎日することのない暇な迷惑じいさんは朝から晩まで何妙法蓮華経というわけです >239吾輩は名無しである2019/04/13(土) 00:36:11.10ID:/z2bKri6
>悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
ドストエフスキーの本を読まずとも、ネットで拾った断片をコピペするだけで真理を語れる
それが創価学会ひいては日蓮大聖人の教えというわけです >>639
おまい口だけでころころ話が変わるからダメだわ
仏教が無神論かどうかは宗教スレでやってください
そんな話じゃなくドストエフスキーのスレだからドストエフスキーの話をする場だと言ってるの
最低限のルールは守りましょう
自分のレス読んでみ
ここはおまいの日記帳じゃないの 先生とゾシマは何もかもちがう。しかしひとつだけ、完全に同じ点がある。
カラマーゾフから引用しよう。
――彼の所へは大勢の人が、自分の心中を打ち明けて、 霊験のある言葉や忠
言を聞こうという希望に渇しながらやって来る。長老はこういう人達と永年のあいだ
無数に接して、その 懺悔や、 苦悶や、告白を数限りなく自分の心に納めたので、
しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どんな用事で来たの
か、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を 苛んでいるか、とい
うようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。 >>642
ここはおれの日記帳だ。お前たちはおれの心を知ってそこから学べ。 >>641
> >悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
おれの一流のカキコをよくひろってきたねw
> ドストエフスキーの本を読まずとも、ネットで拾った断片をコピペするだけで真理を語れる
> それが創価学会ひいては日蓮大聖人の教えというわけです
問う。胸に手を当てて考えてみよ。
ドストエフスキーの本を読むと、真理を語れるのか?
答える。
けっしてそういうことはない。
しからば、どうすれば真理に到達するか?
答える。
南無妙法蓮華経のお題目を唱えぬき、創価学会活動に全力で取り組むしかない。
ヤる、ヤラないは、おまえの自由だ。やれば思いもよらない想像を絶する幸福を知り、
ヤラなければ愚人として惨めな人生で終わる。
カラマーゾフの表現を借りて、創価学会員の人生とはどういうものか説明する。 1,ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と
意志に同化させるものである。
2,人はいったんある長老を選び出したら、全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長
老に自分の意志を捧げるのである。
3,願かけをした人は長い苦行の後自己を征服し、かつ制御する日が来るのを楽しんで、
こうした試練、こうした恐ろしい『人生の学校』を、自ら進んで双肩に担うのであ
る。
4,この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、即ち自分自身に対する自由
に到達する。
5,そして一生涯のあいだ自己を発見することのできない人々と、運命をともにするのを避ける
ことができるのである。
略
6,長老に対する義務は、いつの時代にもわが国の僧院にあった普通の『服従』とは、類を異に
している。ここに認められるものは、服従者の永久の 懺悔である、命令者と服従者との間の
破ることのできない関係である。
創価学会とは『人生の学校』である。
おまえたちは 5にあるとおり「一生涯のあいだ自己を発見することのできない」ものどもである。 >>642
> そんな話じゃなくドストエフスキーのスレだからドストエフスキーの話をする場だと言ってるの
おまいはw ドストエフスキーの話などしていない... w
ドストエフスキーの話をしてるのは、第一に俺であり、あと数人しかいない。
では、しばらくカキコしないから、ドストエフスキーの話をしてみろ。 >>644
ういーその態度わかった、じゃあオレもここを去るわ
最後になるから餞別として
いずれ人に向けた言葉の矢先は自分に向かうよ
ドストエフスキーに限らず文学や、そして宗教も、自己を大きなものと同一化して強化するという意味で一定の力を持つ
自己の精神が安定するという意味で健康にもなれる
だけどある時点で反省しないと、ただの欲の強化にはまり込むだろう
そういう意味で宗教は危うい、人を選ぶ
君はどの宗教をやっても排他的なカルトになる
その宗教のせいではない、君自身のせいですべてカルトに仕立て上げてしまうだろう
崇拝とは人間に向けるものではない
ドストエフスキーは神に与えられた自由意思をどこまでも重んじた
一方で意思の自由には同じだけの責任も問われるとした
そこに神の沈黙があるとする、ただこれは恩寵でもある
だけどここにはドストエフスキーの信じた一神教としての神の位格、人でいう人格をもった神の顔がある
君はそこをそうかの汎神論(人格のない神)と同等にしてしまい、そして問題はそこことに何ら疑問すら抱いていないという最大の事実がある
ここが分からない限り、宗教が何なのかはさとれないだろう
そして君のアイデンティティもどこまでいっても築くことはできないだろうね
それでは皆様、この偉大な作家とそこに魅了されたすべての方に、神の祝福がありますことを! こんな創価プロパガンダのクソスレはぺっぺですよ、ぺっぺ! BS日テレのロシアドラマ『エカテリーナ』がエロい
今日は、結婚してもまだ処女のままのエカテリーナに女帝が夫を誘惑しろと命じる やはり俺がいなければ、また他のなんにんか以外は そもそもドストエフスキーについて語っておらんじゃないか >>648
> いずれ人に向けた言葉の矢先は自分に向かうよ
俺の言葉は愛の言葉だ。慈悲の言葉だ。わからんのかっ?
目先のこのスレ内で表面だけ仲良しこよし なんかして なんになる? 慈悲の弱いおれだから、勇気をもって
真実の言葉を語っている。そうであればこそ、おれはアリョーシャの生まれ変わりと呼ばれるんだ。
この真実と慈悲の言葉のゆえに、おれは現実生活において周囲のひとから、真実と慈悲によって接してもらえる。
ところで、なんのために、嫌がるやつに、信心を語るのか? そいつがしないとわかってるのに?
そこにどういう秘密が隠されていると思う?
> ドストエフスキーに限らず文学や、そして宗教も、自己を大きなものと同一化して強化するという意味で一定の力を持つ
そうだね。だが、もう一つ重要なことがあるぞ。「宗教や信仰は大きな力をもつ」がゆえに「悪しき信仰と宗教は
とんでもない結果を生む」ということなんだ。
> 君はどの宗教をやっても排他的なカルトになる
> その宗教のせいではない、君自身のせいですべてカルトに仕立て上げてしまうだろう
おまえが定義するその「排他的なカルト」というのは、どういう意味なんだ?自分で意識してないだろうが、
ネットの低俗な人間が使う言葉を軽々しく借用して、俺と学会に投げつけている。... だがそのことはよい。
おれはワザとしてることだからな。おまえに誤解されるように。
今日はつぎの一文について書きたい。
> 崇拝とは人間に向けるものではない 今日はつぎの一文について書きたい。
> 崇拝とは人間に向けるものではない
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ぼくが過去に引用してきた文を再掲していくからいっしょに考えてみてくれ。
>>602
> 彼が僧院生活に入ったのも、ただこれ一つのみ
>
> が当時の彼の心に驚異の念を呼び覚まし、世界悪の闇から愛の光明を目指して驀進(ばくしん)する彼の心に
>
> 究極の理想として映じたからである。また僧院生活が彼に驚異の念を呼び覚ました訳は、当時彼が
>
> 稀有の人物と考えていた有名な長老ゾシマを、その中に発見したからである。彼は乾いた心の初恋に
>
> も似た熱情を捧げて、この長老に傾倒したのである。
これは、アリョーシャの崇拝は「人間に向けたものではないのか?」答えてくれ。 > 607
> しかしそれでも大多数は、すでに疑いもなく長老ゾシマの味方であった。のみならずその
> 中には、真底から熱情を込めて、彼を愛している者も少くなかった。ある者はもうほとんど
> 狂信的に彼に傾倒していた。こういう人達は公然にこそ言わないが、長老は聖徒である、そ
> れにはいささかの疑いもない、と噂していた。
>
> そしてほどなく長老の逝去を予見しているので、ごく近いうちに僧院にとって偉大な名誉と
> なるような奇跡が、必ず現われるに違いないと期待していた。長老の奇跡的な力はアリョー
> シャも絶対に信じて疑わなかった。それはちょうど、寺の中からけし飛んだ棺の話を絶対に
> 信じたのと同じ理屈であった。
>
=================================================================================
>崇拝とは人間に向けるものではない
としたら、ここに描かれているひとびとは、邪信のひとなのか?
>長老の奇跡的な力をアリョーシャも絶対に信じて疑わなかった。
アリョーシャも、君の観念によれば、まちがっているのか? > ――彼の所へは大勢の人が、自分の心中を打ち明けて、 霊験のある言葉や忠
> 言を聞こうという希望に渇しながらやって来る。長老はこういう人達と永年のあいだ
> 無数に接して、その 懺悔や、 苦悶や、告白を数限りなく自分の心に納めたので、
> しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どんな用事で来たの
> か、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を 苛んでいるか、とい
> うようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。
民衆はなぜ「泣きながら」「ロシヤ全土」から 「長老の下へ」集うのか?
その答えは、次下に書いてある。
>『たとえ我々に、罪悪や、不義や、誘惑などがあっても構いはしない、
>地球の上のどこそこには、神聖で高尚な方がおいでになる。あの人は、我々に代わって真理を持っていらっしゃる、真理を知っていらっしゃる、
>つまり真理は地上に亡びていない証拠だ。して見ると、その真理はいつか我々にも伝わって来て、神様が約束されたように、地球全体を支配するに違いない。』とこんなふうに民衆は感じ
ている、感じているのみか考えてさえいる。
>アリョーシャにはそれがよくわかった。 君には民衆の心がわかるか? なぜ日本で、また世界で、多くの民衆が この創価学会の信心にいのちと希望のすべてをかけているか?理解できるか?
理解しようとする精神があるか? アリョーシャがいまこの日本に生きていたら「端的に理解したと思う」
そしてゾシマもアリョーシャもドストエフスキーも まちがいなく創価学会に入信してるのだ。
ドストエフスキーは「もし誰かが自分にキリストは真理の外に立っていることを示し、またもし真理が、本当にキリストの他にあるならば、僕は真理のところに留まるよりも、キリストの所に留まる方がよい」
という言葉の前段は「キリストは真理の外にある」ということを、ドストは覚知していたんだ。
それが作品の否定的人物に仮託されて表現されていた。そして「キリストの所に留まる方がよい」という後段部分はそのほうが人生として価値がある、という判断だ。
あたりまえだ。無信仰の人間のバカげきった発言や思考を、さんざん このスレでも目にしているだろう?
だが、まちがいなく、ぼくら創価学会員はドストエフスキーをして、この南無妙法蓮華経の信心と創価学会の
生き方のほうが、キリスト教よりも美しく価値的で生きるに値する人生であると理解せしめ、入信させていることだろう。 誤解したらいけないからもう一つつけくわえる。
>崇拝とは人間に向けるものではない
という意味はもちろんわかっている。われわれの信心もまったく同じ。
信仰の対象は「御本尊」であり、「日蓮大聖人」であり、「南無妙法蓮華経の仏法」です。
けっして「先生ではない」
しかしわれわれには「人生と広宣流布の死身弘法(ししんぐほう)の師匠がいる」ということなんだ。
われわれは、先生を熱愛しているということなんだ。次元はちがうがアレクセイが長老を熱愛したのと同じことだ。 >>658
> 御本尊と日蓮大聖人も人間だろw
どうやら、この信心のことを少し知っているようだね?
御本尊は法です。日蓮大聖人は歴史的には人間ですが、ぼくらは末法の御本仏と
信じています。 きみは、創価・学術出入り禁止スレにはけっして出入りしてはいけないよ?
アソコは正真正銘のクズが集まるすれだからっww !!
秘境もんが集まるスレだ どんだけ読解力がないんだよ
好きなとこしか見ないとかやっぱカルトじゃんw ご本尊も人間だろw
インド人の無職、ゴータマ氏の偶像だwww >>663
> ご本尊も人間だろw
御本尊が人間って意味分かんないんだけどwww
それとここは創価スレじゃないからっ
ドストエフスキーの文を交えてゆって ? 人間崇拝の人神論は戦前の日本か北朝鮮か中国共産党かアフリカの独裁国と変わんない
池田先生は神w 池田先生は三世の生命を得て不死身となった人外ですからね。
釈迦、日蓮に続いて御本尊すなわち神になるのも時間の問題かと思います。 なるほど
我々誇り高き日本人は池田先生を額縁に飾って毎朝お祈りするべきですね さあ、ぼくといっしょに「カラマーゾフの兄弟」へ帰ろう。
以前どこかの誰かが書いていたとおり
ぼくは映画アルマゲドンのブルース・ウィルスなのだから。
周りの仲間を助けるため、自らを自己犠牲にして死んでゆくんだと。
「そのことはゾシマ長老がたびたび話していらっしゃいました」とアリョーシャが口を入れた。「長老もやはり
人間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとって、しばしば愛の障害になると言っておいでになりました。 自分はまだ23のくちばしの黄色い小僧っ子ですが、この訳が一番好きです。
他の訳と比べ字は小さく、言葉遣いも古いのですが、米川さんの訳文からは深い教養が感
じられます。
読めば古い作家のものを読む時に感じられる、深い教養の穴から立ち昇る表現の寛容さと
緻密さの香煙のようなものが、脳の深くから染み渡り、その完成された人柄を感じると安
心感すら覚えます。
何よりゾジマ長老の口調はこの訳が一番チャーミングですじゃ。
作品自体は一口に語り切れるものではないので触れずに置きますが、とにかく登場人物に
会いたくていつもページを開いてしまいます。
現代は頑なな実際主義のラキーチンのような人がもてはやされ、みなそう成ろうとしてい
るように見受けられますが、本当に人間の生きゆく道はその方向でいいのでしょうか、
ミーチャのような詩人が生くべき場所はあるのでしょうか、そんな私のような若いどこか
生き辛さを感じている人にもおすすめできる古典文学かもしれません。 物語は"神の子"アリーョシャの精神的成長を底流に、私生児スメルジャコフの父親殺しを
表向きのテーマにして進む。
放蕩息子ドミートリイが最後で見せるキリスト教的寛容精神の謎。
スヴィドロガイロフ風超人的無神論者のイワンが最後でスメルジャコフに精神的に屈服する様
これら、人間と宗教に係るあらゆる問題を圧倒的な心理描写で綴っているのだから、その
迫力と深遠さは人智を超えていると言っても過言ではない。これまでの文学が持ち得た世
界最高峰の作品。 しかるにこの人が老衰と病気のため、ほとんど死になんなんとして
いるにもかかわらず、誰を後継者としたらいいかわからなかった。
(我)長老のような存在は、不世出であり、後継者というものはありえなかった。 >>669
>>670
わたしたちはチンピラは相手にしない。求道心のあるものだけを相手にする。 池田先生が死ぬことなどあり得ません。
先生はキリストとなり、「永遠の命」を得て生き続けるのです。
それは公明党に投票した者だけが分かります。 258 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 00:39:20.16 ID:CxTCwyJB
パリの大聖堂が赤赤と燃えた
燃えるはずなき石造の
典雅を極めた建築が灰燼となった
それはなぜだ?
キリスト教は邪宗だからだ!
259 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 01:20:11.70 ID:7dsbGGJB
フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
池田大作先生が極楽浄土から仏罰を下したのでしょう
公明党に仇なすすべての国々に呪いあれー!
260 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 01:51:05.40 ID:CxTCwyJB
>>259
> フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
きみの言うとおりだ。フランスは大謗法国家である。仏罰であることはまちがいない。
世界広しといえど我らの健気な同志をいじめ抜いたのはフランス国だけだ。
初めて意見があったなw おやすみ
261 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 01:57:15.06 ID:CxTCwyJB
法華経を信ずるものをバカにしイジメたものには
恐ろしい罰がある
このことだけは教えておかないといけない
冗談でふざけて仲良しでウソでイジメただけで
心の中では仲良しだったとする
それでも、とてつもない罰がある >長老に対する義務は、いつの時代にもわが国の僧院にあった普通の『服従』とは、類を異
にしている。ここに認められるものは、服従者の永久の 懺悔である、命令者と服従者との間の破ることのできない関係である。
きみたちは『服従』といっても理解できまい。そこにいかなる意義があって『服従』なの
か?
その根本を経験していないからだ。だから「崇拝とは人間に向けるものではない」という発
想になる。
書籍と、そこから出生する観念論を信仰とカン違いしてるからだ。
>例えばこんな話がある。キリスト教の創始時代、ある一人の修行僧が、長老に命ぜられた
何かの義務を果たさないで、僧院を去って他の国へ赴いた。それはシリアからエジプトへ行ったのである。そこで長い間いろいろ偉大な苦行をしたが、ついに信仰のために拷問を受け、殉教者として死に就くこととなった。
きみらは「カラマーゾフを読み飛ばしてるにすぎない」ということはさんざん教えてきた。
これを読めるためには、創価学会で高度に宗教的な「体験」を積んでいないとダメなのはも
ちろんだ。
では、この箇所について解説を加える。
この修行僧は
1,長い間いろいろ偉大な苦行をし
2,ついに信仰のために拷問を受け、殉教者として死に就く
ゆえに
>すでに教会は彼を聖徒と崇めて、その体を葬ろうとした ところが、
『許されざるものは出でよ ! 』(祈祷式ではこの言葉が発せられた時、キリスト教徒で
ない者は教会を出るべきものと定まっていた)
という助祭の声が響き渡ると同時に、突然殉教者の体を納めた棺が、むくむくと動き
出して寺の外へけし飛ばされた。これが三度までくりかえされたのである。
(我)ここで重要な解説をするから注意深く聞くこと。
きみらはこれをおとぎ話かなんかと思って読んだだろう?まったくその逆です。これは歴史
的事実です。
じっさいに棺が、むくむくと動き出して寺の外へけし飛ばされた。これが三度までくりかえ
された。
わたしたちは創価学会の信仰において、まったく同じく世俗的思考ではしょせん信ずること
も、見ることもできないような事象をじっさいに経験してきた。
============================================================================
>その後ようやく、この苦行を重ねた聖徒が、服従の誓を破って自分の長老のもとを立ち
去ったた
め、たとえ偉大な功業があるにしても、長老の許可なくしては、罪をゆるしてもらえないと
いうことがわかった。
で、呼び迎えられた長老が彼の誓いを 解いた時、初めてようやく葬式を営むことができた
とのことである。
============================================================================ =====
如是相・如是体.... 十如是でいえば、如是因において「服従の誓を破っている」
それを破っているがゆえに、彼は努力した。(この心理がきみらにもなんとなくわかるか?)
それで、
1,長い間いろいろ偉大な苦行をし
2,ついに信仰のために拷問を受け、殉教者として死に就く
しかしどこまでいっても、彼は根本において「反逆者」だ。「反逆者」の棺桶は、弾き飛ば
される。そういう方程式なのだ。
だが、長老はゆるす。そうしてその修行僧の超人的な努力の生涯が完結する。キリスト教徒
としての葬式が無事終了だ。
長老とはなんのためにあるか? ここでいう「服従」はいったい? それについては、俺と
引き続き学んでいこう。 ここは2ちゃんだから正直にいう。表面的儀礼など、こうした掲示板では害毒にこそなれ、
利益はない。
きみらは底辺の劣等生だ。きみらの人生がまるごとそうだと言ってるのではない。君らのことなんぞ
なにも知らない。
が、君らのレスを見れば「カラマーゾフの兄弟」について語り合えるような人間ではないことは確かだ。
だがおれは、未来を見ている。だから、犠牲をはらってカキコをするのだ。未来の、俺の弟子共の姿がありありと
見える。彼らの青春の魂に影響を与えるために書いているんだ。
もし君が、アレクセイ・カラマーゾフのごとく、青春を駆け抜けたいなら、創価学会へ入れ!
もしラキーチンのごとく、卑屈に暗い路地へと消えていきたいなら、このスレのクズたちのように生きろ。
わかったね? >>678
素晴らしい!素晴らしい文章じゃないか? ありがとう。 はい!ぜひゾシマ学会員とアリョーシャ学会員のところに向かいます
創価学会 万歳! 265 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/18(木) 01:19:56.24 ID:pY/MnSRo
ノートルダム大聖堂を破壊した仏罰こそ法蓮華経であり、僕ら創価学会の信仰の力によるものです。
したがって法蓮華経とは破壊であり、あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
ゾシマ長老の生まれ変わりである池田先生は、あの世で「永遠の命」を得て森羅万象を創造し、
その代弁者である僕もまた神仏に等しい存在なのです。
ドストエフスキーも晩年はキリストを見限り、日蓮大聖人の弟子になったと思います。 644 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/06/20(木) 23:23:36.99 ID:/02ZfR5n
>>642
ここはおれの日記帳だ。お前たちはおれの心を知ってそこから学べ。 メサイアコンプレックス
メサイアというのは、一般的な日本語ではメシア(救世主)と言われるもののことである。
この心理が形成されるのは、自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。
このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。
本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。
そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。
しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]。 メサイアコンプレックスの人は人から感謝されることを望むために、音着せがましく感謝を要求してきたり、あたかも感謝しなければいけないような状況を作り出すことで「ありがとう」という言葉を引き出そうとします。
また、感謝されたい、誰かの助けになりたいという自分本位な考え方で行動するために、実際にやっていることが相手が望んでいる行動ではなく、ただのありがた迷惑になっているのに「私は感謝されて当然」という態度を取ることがあります。
基本的に同情するような言動と、押し付けがましい「やってあげた」「心配してあげた」という上から目線の言葉が目立つ。
たちが悪いのが、自分の妄想が善だと疑わないことだ。迷惑だと告げてもやる。「あなたのためだから」と。
・結局のところ、やっていることが「自分の思い通りにやる」事に終止している。相手のためと言いながらも、相手を一切見ていない。
・一番ダメなのは当の本人であり、そのため「自分を助けてくれる人」を作ろうとするタイプも居る。
そのための洗脳、布教活動に余念がない。つまりは「善」の概念を都合よく汚染、捏造する。
「自分みたいに人間には助けが必要だし、あなたは私を助けるべきだ」と。
ルールやモラルを方便として他者に何かを強要する点は自己愛と酷似している。 メサイアコンプレックスの例
基本的に同情するような言動と、押し付けがましい「やってあげた」「心配してあげた」という上から目線の言葉が目立つ。
・結局のところ、やっていることが「自分の思い通りにやる」事に終止している。相手のためと言いながらも、相手を一切見ていない。
>>682
>だがおれは、未来を見ている。だから、犠牲をはらってカキコをするのだ。未来の、俺の弟子共の姿がありありと
>見える。彼らの青春の魂に影響を与えるために書いているんだ。 ワロタw ソーカの人が醜態を晒すことによって
ドストエフスキーの宗教救済論に身をもって反駁しているのかもしれん >>371で説明されてるけどソーカの人には難しくてわからんだろw ソーカ人って創価学会を語りたいだけなんだよな
ドストエフスキーじゃなくてもアンパンマンでも
なんでもいいから創価学会の話にしたいんだろ
こういうのがカルトって言われるんだけど本人は分かってなさそう
久しぶりに来たけどちょっと前はいいスレだったのになあ また参議院選挙で動員されてるんじゃないの?
うちにも同級生の女から創価に入れろとしつこく電話くるんだが止めてほしい ところがみなさん、それは違うのです。
ダイサク氏は実に真剣に自分の仏法に没頭しておられて、しかも謙虚すぎるくらいなのです。
私は彼の著書『人間革命』を知っています。
彼はですね、三千世界を救済するために、人類を二つの身分に分割することを提案しているのです。
学会員が個人の自由とその他の不信者に対する無制限の権力を獲得する。
で、非学会員は人格を失って、いわば家畜の群れとなり、絶対服従のもとで何世代か退化を得た後、
原始的な天真爛漫さに到達すべきというのですよ。これはいわば極楽浄土ですな。
============================================================================
(『悪霊・後編』ドストエフスキー) 彼の何妙法蓮華経はいいですよ。
彼は理想的恒久制度を提唱していましてね。
つまり学会員がおたがいを監視して、公明党に投票する義務を負うわけです。
各人は全体に属する。全員が奴隷である点で平等です。
従わない不届き者に対する制裁も必要ですが、何よりも大事なのは平等です。
まず手始めに教育、学術、才能の基準が引き下げられる。そんな世俗的な能力は必要ない!
高度な知能をもった者は信仰を持ち得ないし、常に宗教の絵空事より現実と向き合ってきたんです。
彼らは追放されるか、処刑されます。キケロは舌を抜かれ、コペルニクスは目をえぐられ、
シェイクスピアは石で打たれる――これがネオダイサキズムですよ。
は、は、は、君は妙な気がしますか? ぼくはネオダイサキズム賛成ですね!
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(『悪霊・後編』ドストエフスキー) スフィフト並みにうまい風刺と本質が出来ていて
いい文章だね 池田先生は同志シガリョフの生まれ変わりでもあり、生死不明という点ではビッグブラザーでもあります ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています