ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
先生とゾシマは何もかもちがう。しかしひとつだけ、完全に同じ点がある。
カラマーゾフから引用しよう。
――彼の所へは大勢の人が、自分の心中を打ち明けて、 霊験のある言葉や忠
言を聞こうという希望に渇しながらやって来る。長老はこういう人達と永年のあいだ
無数に接して、その 懺悔や、 苦悶や、告白を数限りなく自分の心に納めたので、
しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どんな用事で来たの
か、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を 苛んでいるか、とい
うようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。 >>642
ここはおれの日記帳だ。お前たちはおれの心を知ってそこから学べ。 >>641
> >悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
おれの一流のカキコをよくひろってきたねw
> ドストエフスキーの本を読まずとも、ネットで拾った断片をコピペするだけで真理を語れる
> それが創価学会ひいては日蓮大聖人の教えというわけです
問う。胸に手を当てて考えてみよ。
ドストエフスキーの本を読むと、真理を語れるのか?
答える。
けっしてそういうことはない。
しからば、どうすれば真理に到達するか?
答える。
南無妙法蓮華経のお題目を唱えぬき、創価学会活動に全力で取り組むしかない。
ヤる、ヤラないは、おまえの自由だ。やれば思いもよらない想像を絶する幸福を知り、
ヤラなければ愚人として惨めな人生で終わる。
カラマーゾフの表現を借りて、創価学会員の人生とはどういうものか説明する。 1,ところで、長老とは何かというに、これは人の霊魂と意志を取って、自分の霊魂と
意志に同化させるものである。
2,人はいったんある長老を選び出したら、全くおのれの欲望を断ち、絶対の服従をもって、長
老に自分の意志を捧げるのである。
3,願かけをした人は長い苦行の後自己を征服し、かつ制御する日が来るのを楽しんで、
こうした試練、こうした恐ろしい『人生の学校』を、自ら進んで双肩に担うのであ
る。
4,この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、即ち自分自身に対する自由
に到達する。
5,そして一生涯のあいだ自己を発見することのできない人々と、運命をともにするのを避ける
ことができるのである。
略
6,長老に対する義務は、いつの時代にもわが国の僧院にあった普通の『服従』とは、類を異に
している。ここに認められるものは、服従者の永久の 懺悔である、命令者と服従者との間の
破ることのできない関係である。
創価学会とは『人生の学校』である。
おまえたちは 5にあるとおり「一生涯のあいだ自己を発見することのできない」ものどもである。 >>642
> そんな話じゃなくドストエフスキーのスレだからドストエフスキーの話をする場だと言ってるの
おまいはw ドストエフスキーの話などしていない... w
ドストエフスキーの話をしてるのは、第一に俺であり、あと数人しかいない。
では、しばらくカキコしないから、ドストエフスキーの話をしてみろ。 >>644
ういーその態度わかった、じゃあオレもここを去るわ
最後になるから餞別として
いずれ人に向けた言葉の矢先は自分に向かうよ
ドストエフスキーに限らず文学や、そして宗教も、自己を大きなものと同一化して強化するという意味で一定の力を持つ
自己の精神が安定するという意味で健康にもなれる
だけどある時点で反省しないと、ただの欲の強化にはまり込むだろう
そういう意味で宗教は危うい、人を選ぶ
君はどの宗教をやっても排他的なカルトになる
その宗教のせいではない、君自身のせいですべてカルトに仕立て上げてしまうだろう
崇拝とは人間に向けるものではない
ドストエフスキーは神に与えられた自由意思をどこまでも重んじた
一方で意思の自由には同じだけの責任も問われるとした
そこに神の沈黙があるとする、ただこれは恩寵でもある
だけどここにはドストエフスキーの信じた一神教としての神の位格、人でいう人格をもった神の顔がある
君はそこをそうかの汎神論(人格のない神)と同等にしてしまい、そして問題はそこことに何ら疑問すら抱いていないという最大の事実がある
ここが分からない限り、宗教が何なのかはさとれないだろう
そして君のアイデンティティもどこまでいっても築くことはできないだろうね
それでは皆様、この偉大な作家とそこに魅了されたすべての方に、神の祝福がありますことを! こんな創価プロパガンダのクソスレはぺっぺですよ、ぺっぺ! BS日テレのロシアドラマ『エカテリーナ』がエロい
今日は、結婚してもまだ処女のままのエカテリーナに女帝が夫を誘惑しろと命じる やはり俺がいなければ、また他のなんにんか以外は そもそもドストエフスキーについて語っておらんじゃないか >>648
> いずれ人に向けた言葉の矢先は自分に向かうよ
俺の言葉は愛の言葉だ。慈悲の言葉だ。わからんのかっ?
目先のこのスレ内で表面だけ仲良しこよし なんかして なんになる? 慈悲の弱いおれだから、勇気をもって
真実の言葉を語っている。そうであればこそ、おれはアリョーシャの生まれ変わりと呼ばれるんだ。
この真実と慈悲の言葉のゆえに、おれは現実生活において周囲のひとから、真実と慈悲によって接してもらえる。
ところで、なんのために、嫌がるやつに、信心を語るのか? そいつがしないとわかってるのに?
そこにどういう秘密が隠されていると思う?
> ドストエフスキーに限らず文学や、そして宗教も、自己を大きなものと同一化して強化するという意味で一定の力を持つ
そうだね。だが、もう一つ重要なことがあるぞ。「宗教や信仰は大きな力をもつ」がゆえに「悪しき信仰と宗教は
とんでもない結果を生む」ということなんだ。
> 君はどの宗教をやっても排他的なカルトになる
> その宗教のせいではない、君自身のせいですべてカルトに仕立て上げてしまうだろう
おまえが定義するその「排他的なカルト」というのは、どういう意味なんだ?自分で意識してないだろうが、
ネットの低俗な人間が使う言葉を軽々しく借用して、俺と学会に投げつけている。... だがそのことはよい。
おれはワザとしてることだからな。おまえに誤解されるように。
今日はつぎの一文について書きたい。
> 崇拝とは人間に向けるものではない 今日はつぎの一文について書きたい。
> 崇拝とは人間に向けるものではない
=================================================================================
ぼくが過去に引用してきた文を再掲していくからいっしょに考えてみてくれ。
>>602
> 彼が僧院生活に入ったのも、ただこれ一つのみ
>
> が当時の彼の心に驚異の念を呼び覚まし、世界悪の闇から愛の光明を目指して驀進(ばくしん)する彼の心に
>
> 究極の理想として映じたからである。また僧院生活が彼に驚異の念を呼び覚ました訳は、当時彼が
>
> 稀有の人物と考えていた有名な長老ゾシマを、その中に発見したからである。彼は乾いた心の初恋に
>
> も似た熱情を捧げて、この長老に傾倒したのである。
これは、アリョーシャの崇拝は「人間に向けたものではないのか?」答えてくれ。 > 607
> しかしそれでも大多数は、すでに疑いもなく長老ゾシマの味方であった。のみならずその
> 中には、真底から熱情を込めて、彼を愛している者も少くなかった。ある者はもうほとんど
> 狂信的に彼に傾倒していた。こういう人達は公然にこそ言わないが、長老は聖徒である、そ
> れにはいささかの疑いもない、と噂していた。
>
> そしてほどなく長老の逝去を予見しているので、ごく近いうちに僧院にとって偉大な名誉と
> なるような奇跡が、必ず現われるに違いないと期待していた。長老の奇跡的な力はアリョー
> シャも絶対に信じて疑わなかった。それはちょうど、寺の中からけし飛んだ棺の話を絶対に
> 信じたのと同じ理屈であった。
>
=================================================================================
>崇拝とは人間に向けるものではない
としたら、ここに描かれているひとびとは、邪信のひとなのか?
>長老の奇跡的な力をアリョーシャも絶対に信じて疑わなかった。
アリョーシャも、君の観念によれば、まちがっているのか? > ――彼の所へは大勢の人が、自分の心中を打ち明けて、 霊験のある言葉や忠
> 言を聞こうという希望に渇しながらやって来る。長老はこういう人達と永年のあいだ
> 無数に接して、その 懺悔や、 苦悶や、告白を数限りなく自分の心に納めたので、
> しまいには自分の所へ来る未知の人を一目見たばかりで、どんな用事で来たの
> か、何が必要なのか、いかなる種類の苦悶がその人の良心を 苛んでいるか、とい
> うようなことを見抜き得るほど、微妙な洞察力を獲得した。
民衆はなぜ「泣きながら」「ロシヤ全土」から 「長老の下へ」集うのか?
その答えは、次下に書いてある。
>『たとえ我々に、罪悪や、不義や、誘惑などがあっても構いはしない、
>地球の上のどこそこには、神聖で高尚な方がおいでになる。あの人は、我々に代わって真理を持っていらっしゃる、真理を知っていらっしゃる、
>つまり真理は地上に亡びていない証拠だ。して見ると、その真理はいつか我々にも伝わって来て、神様が約束されたように、地球全体を支配するに違いない。』とこんなふうに民衆は感じ
ている、感じているのみか考えてさえいる。
>アリョーシャにはそれがよくわかった。 君には民衆の心がわかるか? なぜ日本で、また世界で、多くの民衆が この創価学会の信心にいのちと希望のすべてをかけているか?理解できるか?
理解しようとする精神があるか? アリョーシャがいまこの日本に生きていたら「端的に理解したと思う」
そしてゾシマもアリョーシャもドストエフスキーも まちがいなく創価学会に入信してるのだ。
ドストエフスキーは「もし誰かが自分にキリストは真理の外に立っていることを示し、またもし真理が、本当にキリストの他にあるならば、僕は真理のところに留まるよりも、キリストの所に留まる方がよい」
という言葉の前段は「キリストは真理の外にある」ということを、ドストは覚知していたんだ。
それが作品の否定的人物に仮託されて表現されていた。そして「キリストの所に留まる方がよい」という後段部分はそのほうが人生として価値がある、という判断だ。
あたりまえだ。無信仰の人間のバカげきった発言や思考を、さんざん このスレでも目にしているだろう?
だが、まちがいなく、ぼくら創価学会員はドストエフスキーをして、この南無妙法蓮華経の信心と創価学会の
生き方のほうが、キリスト教よりも美しく価値的で生きるに値する人生であると理解せしめ、入信させていることだろう。 誤解したらいけないからもう一つつけくわえる。
>崇拝とは人間に向けるものではない
という意味はもちろんわかっている。われわれの信心もまったく同じ。
信仰の対象は「御本尊」であり、「日蓮大聖人」であり、「南無妙法蓮華経の仏法」です。
けっして「先生ではない」
しかしわれわれには「人生と広宣流布の死身弘法(ししんぐほう)の師匠がいる」ということなんだ。
われわれは、先生を熱愛しているということなんだ。次元はちがうがアレクセイが長老を熱愛したのと同じことだ。 >>658
> 御本尊と日蓮大聖人も人間だろw
どうやら、この信心のことを少し知っているようだね?
御本尊は法です。日蓮大聖人は歴史的には人間ですが、ぼくらは末法の御本仏と
信じています。 きみは、創価・学術出入り禁止スレにはけっして出入りしてはいけないよ?
アソコは正真正銘のクズが集まるすれだからっww !!
秘境もんが集まるスレだ どんだけ読解力がないんだよ
好きなとこしか見ないとかやっぱカルトじゃんw ご本尊も人間だろw
インド人の無職、ゴータマ氏の偶像だwww >>663
> ご本尊も人間だろw
御本尊が人間って意味分かんないんだけどwww
それとここは創価スレじゃないからっ
ドストエフスキーの文を交えてゆって ? 人間崇拝の人神論は戦前の日本か北朝鮮か中国共産党かアフリカの独裁国と変わんない
池田先生は神w 池田先生は三世の生命を得て不死身となった人外ですからね。
釈迦、日蓮に続いて御本尊すなわち神になるのも時間の問題かと思います。 なるほど
我々誇り高き日本人は池田先生を額縁に飾って毎朝お祈りするべきですね さあ、ぼくといっしょに「カラマーゾフの兄弟」へ帰ろう。
以前どこかの誰かが書いていたとおり
ぼくは映画アルマゲドンのブルース・ウィルスなのだから。
周りの仲間を助けるため、自らを自己犠牲にして死んでゆくんだと。
「そのことはゾシマ長老がたびたび話していらっしゃいました」とアリョーシャが口を入れた。「長老もやはり
人間の顔は愛に経験の浅い多くの人にとって、しばしば愛の障害になると言っておいでになりました。 自分はまだ23のくちばしの黄色い小僧っ子ですが、この訳が一番好きです。
他の訳と比べ字は小さく、言葉遣いも古いのですが、米川さんの訳文からは深い教養が感
じられます。
読めば古い作家のものを読む時に感じられる、深い教養の穴から立ち昇る表現の寛容さと
緻密さの香煙のようなものが、脳の深くから染み渡り、その完成された人柄を感じると安
心感すら覚えます。
何よりゾジマ長老の口調はこの訳が一番チャーミングですじゃ。
作品自体は一口に語り切れるものではないので触れずに置きますが、とにかく登場人物に
会いたくていつもページを開いてしまいます。
現代は頑なな実際主義のラキーチンのような人がもてはやされ、みなそう成ろうとしてい
るように見受けられますが、本当に人間の生きゆく道はその方向でいいのでしょうか、
ミーチャのような詩人が生くべき場所はあるのでしょうか、そんな私のような若いどこか
生き辛さを感じている人にもおすすめできる古典文学かもしれません。 物語は"神の子"アリーョシャの精神的成長を底流に、私生児スメルジャコフの父親殺しを
表向きのテーマにして進む。
放蕩息子ドミートリイが最後で見せるキリスト教的寛容精神の謎。
スヴィドロガイロフ風超人的無神論者のイワンが最後でスメルジャコフに精神的に屈服する様
これら、人間と宗教に係るあらゆる問題を圧倒的な心理描写で綴っているのだから、その
迫力と深遠さは人智を超えていると言っても過言ではない。これまでの文学が持ち得た世
界最高峰の作品。 しかるにこの人が老衰と病気のため、ほとんど死になんなんとして
いるにもかかわらず、誰を後継者としたらいいかわからなかった。
(我)長老のような存在は、不世出であり、後継者というものはありえなかった。 >>669
>>670
わたしたちはチンピラは相手にしない。求道心のあるものだけを相手にする。 池田先生が死ぬことなどあり得ません。
先生はキリストとなり、「永遠の命」を得て生き続けるのです。
それは公明党に投票した者だけが分かります。 258 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 00:39:20.16 ID:CxTCwyJB
パリの大聖堂が赤赤と燃えた
燃えるはずなき石造の
典雅を極めた建築が灰燼となった
それはなぜだ?
キリスト教は邪宗だからだ!
259 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 01:20:11.70 ID:7dsbGGJB
フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
池田大作先生が極楽浄土から仏罰を下したのでしょう
公明党に仇なすすべての国々に呪いあれー!
260 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 01:51:05.40 ID:CxTCwyJB
>>259
> フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
きみの言うとおりだ。フランスは大謗法国家である。仏罰であることはまちがいない。
世界広しといえど我らの健気な同志をいじめ抜いたのはフランス国だけだ。
初めて意見があったなw おやすみ
261 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/17(水) 01:57:15.06 ID:CxTCwyJB
法華経を信ずるものをバカにしイジメたものには
恐ろしい罰がある
このことだけは教えておかないといけない
冗談でふざけて仲良しでウソでイジメただけで
心の中では仲良しだったとする
それでも、とてつもない罰がある >長老に対する義務は、いつの時代にもわが国の僧院にあった普通の『服従』とは、類を異
にしている。ここに認められるものは、服従者の永久の 懺悔である、命令者と服従者との間の破ることのできない関係である。
きみたちは『服従』といっても理解できまい。そこにいかなる意義があって『服従』なの
か?
その根本を経験していないからだ。だから「崇拝とは人間に向けるものではない」という発
想になる。
書籍と、そこから出生する観念論を信仰とカン違いしてるからだ。
>例えばこんな話がある。キリスト教の創始時代、ある一人の修行僧が、長老に命ぜられた
何かの義務を果たさないで、僧院を去って他の国へ赴いた。それはシリアからエジプトへ行ったのである。そこで長い間いろいろ偉大な苦行をしたが、ついに信仰のために拷問を受け、殉教者として死に就くこととなった。
きみらは「カラマーゾフを読み飛ばしてるにすぎない」ということはさんざん教えてきた。
これを読めるためには、創価学会で高度に宗教的な「体験」を積んでいないとダメなのはも
ちろんだ。
では、この箇所について解説を加える。
この修行僧は
1,長い間いろいろ偉大な苦行をし
2,ついに信仰のために拷問を受け、殉教者として死に就く
ゆえに
>すでに教会は彼を聖徒と崇めて、その体を葬ろうとした ところが、
『許されざるものは出でよ ! 』(祈祷式ではこの言葉が発せられた時、キリスト教徒で
ない者は教会を出るべきものと定まっていた)
という助祭の声が響き渡ると同時に、突然殉教者の体を納めた棺が、むくむくと動き
出して寺の外へけし飛ばされた。これが三度までくりかえされたのである。
(我)ここで重要な解説をするから注意深く聞くこと。
きみらはこれをおとぎ話かなんかと思って読んだだろう?まったくその逆です。これは歴史
的事実です。
じっさいに棺が、むくむくと動き出して寺の外へけし飛ばされた。これが三度までくりかえ
された。
わたしたちは創価学会の信仰において、まったく同じく世俗的思考ではしょせん信ずること
も、見ることもできないような事象をじっさいに経験してきた。
============================================================================
>その後ようやく、この苦行を重ねた聖徒が、服従の誓を破って自分の長老のもとを立ち
去ったた
め、たとえ偉大な功業があるにしても、長老の許可なくしては、罪をゆるしてもらえないと
いうことがわかった。
で、呼び迎えられた長老が彼の誓いを 解いた時、初めてようやく葬式を営むことができた
とのことである。
============================================================================ =====
如是相・如是体.... 十如是でいえば、如是因において「服従の誓を破っている」
それを破っているがゆえに、彼は努力した。(この心理がきみらにもなんとなくわかるか?)
それで、
1,長い間いろいろ偉大な苦行をし
2,ついに信仰のために拷問を受け、殉教者として死に就く
しかしどこまでいっても、彼は根本において「反逆者」だ。「反逆者」の棺桶は、弾き飛ば
される。そういう方程式なのだ。
だが、長老はゆるす。そうしてその修行僧の超人的な努力の生涯が完結する。キリスト教徒
としての葬式が無事終了だ。
長老とはなんのためにあるか? ここでいう「服従」はいったい? それについては、俺と
引き続き学んでいこう。 ここは2ちゃんだから正直にいう。表面的儀礼など、こうした掲示板では害毒にこそなれ、
利益はない。
きみらは底辺の劣等生だ。きみらの人生がまるごとそうだと言ってるのではない。君らのことなんぞ
なにも知らない。
が、君らのレスを見れば「カラマーゾフの兄弟」について語り合えるような人間ではないことは確かだ。
だがおれは、未来を見ている。だから、犠牲をはらってカキコをするのだ。未来の、俺の弟子共の姿がありありと
見える。彼らの青春の魂に影響を与えるために書いているんだ。
もし君が、アレクセイ・カラマーゾフのごとく、青春を駆け抜けたいなら、創価学会へ入れ!
もしラキーチンのごとく、卑屈に暗い路地へと消えていきたいなら、このスレのクズたちのように生きろ。
わかったね? >>678
素晴らしい!素晴らしい文章じゃないか? ありがとう。 はい!ぜひゾシマ学会員とアリョーシャ学会員のところに向かいます
創価学会 万歳! 265 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/04/18(木) 01:19:56.24 ID:pY/MnSRo
ノートルダム大聖堂を破壊した仏罰こそ法蓮華経であり、僕ら創価学会の信仰の力によるものです。
したがって法蓮華経とは破壊であり、あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
ゾシマ長老の生まれ変わりである池田先生は、あの世で「永遠の命」を得て森羅万象を創造し、
その代弁者である僕もまた神仏に等しい存在なのです。
ドストエフスキーも晩年はキリストを見限り、日蓮大聖人の弟子になったと思います。 644 名前:吾輩は名無しである [sage] :2019/06/20(木) 23:23:36.99 ID:/02ZfR5n
>>642
ここはおれの日記帳だ。お前たちはおれの心を知ってそこから学べ。 メサイアコンプレックス
メサイアというのは、一般的な日本語ではメシア(救世主)と言われるもののことである。
この心理が形成されるのは、自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。
このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。
本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。
そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。
しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]。 メサイアコンプレックスの人は人から感謝されることを望むために、音着せがましく感謝を要求してきたり、あたかも感謝しなければいけないような状況を作り出すことで「ありがとう」という言葉を引き出そうとします。
また、感謝されたい、誰かの助けになりたいという自分本位な考え方で行動するために、実際にやっていることが相手が望んでいる行動ではなく、ただのありがた迷惑になっているのに「私は感謝されて当然」という態度を取ることがあります。
基本的に同情するような言動と、押し付けがましい「やってあげた」「心配してあげた」という上から目線の言葉が目立つ。
たちが悪いのが、自分の妄想が善だと疑わないことだ。迷惑だと告げてもやる。「あなたのためだから」と。
・結局のところ、やっていることが「自分の思い通りにやる」事に終止している。相手のためと言いながらも、相手を一切見ていない。
・一番ダメなのは当の本人であり、そのため「自分を助けてくれる人」を作ろうとするタイプも居る。
そのための洗脳、布教活動に余念がない。つまりは「善」の概念を都合よく汚染、捏造する。
「自分みたいに人間には助けが必要だし、あなたは私を助けるべきだ」と。
ルールやモラルを方便として他者に何かを強要する点は自己愛と酷似している。 メサイアコンプレックスの例
基本的に同情するような言動と、押し付けがましい「やってあげた」「心配してあげた」という上から目線の言葉が目立つ。
・結局のところ、やっていることが「自分の思い通りにやる」事に終止している。相手のためと言いながらも、相手を一切見ていない。
>>682
>だがおれは、未来を見ている。だから、犠牲をはらってカキコをするのだ。未来の、俺の弟子共の姿がありありと
>見える。彼らの青春の魂に影響を与えるために書いているんだ。 ワロタw ソーカの人が醜態を晒すことによって
ドストエフスキーの宗教救済論に身をもって反駁しているのかもしれん >>371で説明されてるけどソーカの人には難しくてわからんだろw ソーカ人って創価学会を語りたいだけなんだよな
ドストエフスキーじゃなくてもアンパンマンでも
なんでもいいから創価学会の話にしたいんだろ
こういうのがカルトって言われるんだけど本人は分かってなさそう
久しぶりに来たけどちょっと前はいいスレだったのになあ また参議院選挙で動員されてるんじゃないの?
うちにも同級生の女から創価に入れろとしつこく電話くるんだが止めてほしい ところがみなさん、それは違うのです。
ダイサク氏は実に真剣に自分の仏法に没頭しておられて、しかも謙虚すぎるくらいなのです。
私は彼の著書『人間革命』を知っています。
彼はですね、三千世界を救済するために、人類を二つの身分に分割することを提案しているのです。
学会員が個人の自由とその他の不信者に対する無制限の権力を獲得する。
で、非学会員は人格を失って、いわば家畜の群れとなり、絶対服従のもとで何世代か退化を得た後、
原始的な天真爛漫さに到達すべきというのですよ。これはいわば極楽浄土ですな。
============================================================================
(『悪霊・後編』ドストエフスキー) 彼の何妙法蓮華経はいいですよ。
彼は理想的恒久制度を提唱していましてね。
つまり学会員がおたがいを監視して、公明党に投票する義務を負うわけです。
各人は全体に属する。全員が奴隷である点で平等です。
従わない不届き者に対する制裁も必要ですが、何よりも大事なのは平等です。
まず手始めに教育、学術、才能の基準が引き下げられる。そんな世俗的な能力は必要ない!
高度な知能をもった者は信仰を持ち得ないし、常に宗教の絵空事より現実と向き合ってきたんです。
彼らは追放されるか、処刑されます。キケロは舌を抜かれ、コペルニクスは目をえぐられ、
シェイクスピアは石で打たれる――これがネオダイサキズムですよ。
は、は、は、君は妙な気がしますか? ぼくはネオダイサキズム賛成ですね!
============================================================================
(『悪霊・後編』ドストエフスキー) スフィフト並みにうまい風刺と本質が出来ていて
いい文章だね 池田先生は同志シガリョフの生まれ変わりでもあり、生死不明という点ではビッグブラザーでもあります 池田先生このダブスタどーすんのw
山本太郎参院議員(44)が代表を務める政治団体「れいわ新選組」が、4日公示の参院選の
公認候補者に、沖縄創価学会壮年部の野原善正氏(59)を選んだことを2日、発表した。
https://hochi.news/articles/20190702-OHT1T50131.html 電動髭剃りなら分かるけど電動トリマーて何だ?
ググると木材削る大工道具しかでてこんけど 大作が死んだらどうなるんだろ
神として偶像として崇めるのかな 神格化したところでよっぽどでないと残らないよね
極東アジアのイチ政治屋なんて世界の歴史ではカスみたいなもん
あのカエサルですら知らない人が多いのに池田先生がギリシャの歴史と同等にはなれないよね
あれだけ知名度あげたアサハラだってもう忘れられてるw それにしてもスッカリここは創価すれと痴漢スレになったじゃまいかw
ソーカの人の思惑通りじゃまいかw 現在もなお麻原総帥がアレフで語り継がれるように、ぼくら学会員は永遠に先生のことを忘れません。
池田先生は天に召されると共に、御本仏そのものへと成られるでしょう。
したがって創価の心の中で生き続ける意味において、池田先生は三世の命を得たと述べても過言ではありません。
キリスト教の聖人は「永遠の命」を得るといいますが、同じことではないでしょうか? キリスト教では人にたいする冒涜はなんでも悔い改めれば十字架によってゆるされるとする
絶対にゆるされない罪が唯一ある
聖霊にする冒涜は永遠にゆるされないとしている
キリスト教徒という人を嘲ることはいいが、神そのものを人間と同等であるかのように扱うのはよくない
一歩間違えると人ではなく聖なるもの冒涜することになりえる
マタイ12章
31「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、゛霊゛に対する冒涜は赦されない。
32人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
マルコ3章
28「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
ルカ12章
10「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」 だからこの地上で誰を尊敬しようと好きにすればいい
池田先生大好きですでもいいw
だけど神のように崇拝したりさせたりしていて
はいそうですねーなんていうキリスト教徒はいないw
公明党の中で勝手に仏罰とネオ大作IZUMしあってればいいジャマイカw
https://i.imgur.com/nY60Oz1.jpg 下のカキコを書いたA君はどうしたんだ?
↓
=================================================================================
これ、キリスト教で言えば霊的にとか、そういう意味で移り変わるという意味だろうか
それとも動物的に、つまりは唯物の塊として低次な存在としての人間が肉体的変化する、という意味なのかな
どっちでもとれる気がします
悪霊 キリーロフ一節
ある数秒間がある、(略)そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感されるのだよ。これは地上のものじゃない。
といって、なにも天上のものだというのじゃなくて、地上の姿のままの人間には耐えきれないという意味なんだ。肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。これは明晰で、争う余地のない感覚なんだ。
ふいに全自然界が実感されて、思わず、『しかり、そは正し』と口をついて出てくる。
神は、天地の創造にあたって、その創造の一日が終わるごとに、『しかり、そは正し、そは善し』と言った。
これは・・・(略)おのずからなる喜びなんだね。(略)おお――それはもう愛以上だ!
何より恐ろしいのは、それがすさまじいばかり明晰で、すばらしい喜びであることなんだ。
もし、五秒以上もつづいたら――魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう。この五秒間にぼくは一つの生を生きるんだ。この五秒間のためになら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。
十秒間もちこたえるためには、肉体的な変化が必要だ。ぼくの考えでは、人間は子供を生むことをやめるに相違ないね。
目的が達せられた以上、子供が何になる、発達が何になる? 福音書にも、復活のときには子を生まず、天にある御使たちのごとし、と言われている。暗示だな。きみの奥さんは子供を生むんだったね? ぼくはA君を批判したが、このスレのその他の有象無象など問題外の希少な魂であると思っている。 まず第一に彼はほんものの文学愛好家であり、虚心坦懐にドストエフスキーの文を理解せんと
取り組んでいる。 また彼自身が自覚しているように、形而上的なものに強く憧れている。 ある数秒間がある― の引用がまさにそうだ。これは「白痴」においても同じことが描かれている。
これはドストエフスキー自身の体験を記述したものであることはまちがいない。
他人の言葉、他人の思想の借り物ではないんだ!
だからこそA君は強く惹かれ、ぼくも同じく魅了される。 >>710
しかし聖霊とは、集団によって共有された認識、すなわち空虚な集団的唯我論に過ぎないのではないでしょうか? きみたちは「服従」といっても理解できまい。そこにいかなる意義があって「服従」なのか?
誰かに「服従」する者たちは、何時の日か自分もまた教祖と同じように誰かを「服従させたい」とひそかに願うものです。
たとえば服従者に節制せよと説教し、自分は隠れて高級メロンを食べる。
これが分かるためには、創価学会で高度に宗教的な「体験」を積んでいないとダメなのはもちろんだ。
============================================================================
>池田先生は人類を二つの身分に分割するカースト制度を提案しているのです。
>非学会員は人格を失って、いわば家畜の群れとなり、「絶対服従」のもとで何世代か退化を得た後、
>原始的な天真爛漫さに到達すべきというのですよ。これはいわば極楽浄土ですな。
============================================================================
きみらはこれをおとぎ話かなんかと思って読んだだろう? まったくその逆です。これは歴史的事実です。
わたしたちは創価学会の信仰において、まったく同じく世俗的思考ではしょせん信ずることも、
見ることもできないような事象をじっさいに経験してきた。
「お前たちはおれに服従し、おれの心を知ってそこから学べ。」(池田大作先生『総体革命とは何か?』) ぼくも所詮は人間だった、当たり前だけど
このスレに書き込むことになるとは
まずもう書き込まないという前言と相違することに、ごめんなさいしないとだねw
レスに横槍いれて勝手にレスします
>>717
正統派と異端派では三位一体の定義が異なるから、集団なのか個人なのかの判断は難しいね
唯我論という意味においては間違っていないと思うよ
ただ宗教においてはどうしても唯我論にならざるを得ない一面がある
この私にとってこの私の神はどういう存在なのか、という主観は人間である以上は外せない
この私に見える色は果たして他人と同じであるかどうか、その判断は客観性を失う唯我だからだろうね
信仰は色の見え方とよく似ている
ただしドストエフスキーにおいて言うならば、正教会は三位一体を肯定(というよりこれ以上の教義はない)しているので、聖霊とは一つの神の位格になり、旧約聖書はユダヤという集団であるけれど、新約聖書で人類にキリストがその範囲を広げられたとも解釈できる
なので集団的唯我論というよりは、ただ唯我論と言った方が意味は近いのかもしれないと思うよ
聖書モノローグ的な書物だけど、聖書を読むの人間はポリフォニー的にしか捉えられない、ということになるのかな
聖書の冒涜とはおそらく、神を知っていてという自覚があるのに神に立ち還らないこと、だと言える
ドストエフスキーがそのことを書いている
曰く、悪霊のキリーロフかな >>718
久しぶりだね
そして相変わらずじゃないかw
君は「ドストエフスキー」を使って「創価」の話をするからスレチだと嫌がられるんだよ
「創価」の話を使って「ドストエフスキー」について話すならば、多少スレチでもスルーできる人もいるんじゃないかな
あと君は、ぼくらとかきみらは、って一括りにするから対話を阻害して、結局アンチ創価学会らを生み出す
>きみらはこれをおとぎ話かなんかと思って読んだだろう? まったくその逆です。これは歴史的事実です。
また一悶着起きそうだけどw、おとぎ話じゃなくスターリンがやったその思想は、ドストエフスキーに描いたシガリョフ主義の予言そのものだよ
君が人間崇拝をしたいならすればいいけど、それがどんなに危険なことなのかは歴史にイヤってほど書かれているよ
まーどちらにしろここはドストエフスキースレにしましょう >>719
かつて創価大学にサリンを散布しようとし、失敗した新実智光死刑囚は誤って毒ガスを吸引して
意識不明の死の淵に立った際、これまで体験したことのない快楽を感じたといいます。
また『悪霊』のキリーロフはてんかんの発作で死にかけた際に、同様の快楽を感じたようです。
そのような「感覚」、あるいは恋愛感情や覚せい剤による神経作用「高揚感」を、人間は特別なものと思い込みがちです。
したがってキリスト教が崇拝する聖霊(神秘的感覚)とは、足の裏をくすぐれば笑うような必然的な神経作用あるいは
幻覚・精神現象を特別視している認識の集団内における共有に過ぎません。その意味において、集団的唯我論なのです。
――あなたの、あしたを、あたらしく! >>722
おまえは、わかってると思うが、おれの影の部分・闇に過ぎない。
おれがイヴァンでおまえはスメルジャコフだ。
いかなる崇高な思想信仰も、その奥底を理解できず、悪臭ふんぷんたるものにしてしまう。
創価学会であれ、池田先生であれ、なぜ全世界の民衆から求めに求めぬき憧れに憧れぬかれているか?
または、小説中のロシヤのキリスト教信仰・ゾシマが同様なのか?
そのワケを理解できるようにひとことで言う。
人間のふるまいです。人として、人間としてすばらしいからです。
だから、一円の価値も無きネットのクソ情報を猿真似して
>幻覚・精神現象を特別視している認識の集団内における共有に過ぎません
とか、もっともらしいことを書いても無駄なのだ。 いいですか?
たとえキリスト教がとんでもない邪宗教だったとしても
ゾシマやアリョーシャが、立派なすばらしいふるまいをしておれば、それは「この信仰には何かある!」
ということになるんです。そこが根源なんですよ。その逆ではない。
だからおまえのようなカスが、たわけた妄言を書き散らしても、おれとの根源的ちがいをみんな見抜くんです。 「何かとは何ですか!?」ということになるんです。そこが疑問なんですよ。その逆ではない。
大勝利♪ >>723 >>725
せっかくなので根拠をもう少し踏みこんでもらえますか
昨日は寝てしまったw
>幻覚・精神現象を特別視している認識の集団内における共有に過ぎません。その意味において、集団的唯我論なのです。
どうして感覚を大事にして共有することが、キリスト教徒のいう聖霊が集団的になると思ったの
見た目が黒いね、みんなそう思ってるよ、だからオマエはカラス、と言ってるのと同じに聞こえるよ
その根拠は一般概念を言ってるだけで、キリスト教の聖霊だけに当てはまるような特別概念にはならない、と思うんだけどね つづき
>>719で書いたことの繰り返しになってしまうけど、色の見え方と同じで感覚とは共有しようと欲することはできても、それが同じであるかどうかの証明はできないと思う
人間は存在を持った存在だし、存在するとは個別的なことだからという理由で、人間は存在するとも言える
マルになって最初に戻るという理由だよ
一滴の水滴が大海に落ちたからといって、私は大海である、とは言えない
大海に入った一滴の水は一滴の水という存在は消せない
人間もまたどんな宗教に入ろうと、自分は自分のまま存在し続ける
三位一体を取り入れている教派は聖霊を一つの位格として考えていると前文で述べたよね
つまり一つの存在であるという事で、集団的唯我論というよりはただ唯我論と言ったほうが意味が近い、と説明したんだ ドストエフスキースレだからドストエフスキーで説明するよ
キリスト教は集団なる宗教だから服従しろ、と言ったのは紛れもなくなく大審問官になる
その大審問官を読めば、この文がとかこの章がというのではなく、全体の中に一つの声が読める
大審問官の思想を根本から否定する声がある
パンを自分で収穫し、奇跡を必要とせず、権威溺れず、一人ただ立ち、自らの自由において信仰を勝ちとれと、荒野の悪魔の3つの誘惑に反駁していく
この辺は三位一体の考えがとてもよく入っていると思うよ
神は父と子と聖霊という位格は別だが、属性は神になる
人間もまた同じで、人はそれぞれ人格を別に持つが、属性は人間である
ゆえに、皆同じであると共に皆同じではないのだろう
だからその声も集団にまとめて降り立つのではなく、一人一人に降り立ち、一人一人に声を与えるとはならないだろうか
それが分かっていながらもその事に反抗し、ただ同じであるかように考え、集団に服従することを大審問官に述べさせ、そしてドストエフスキーは書かずに反駁した
創価がどういう考えを持って服従しろと言っているのか、集団を重視するのかは知らないけど、ドストエフスキーは多音性を重視して個別であることに重点をおいた
それが正しいのかどうかもまた知らないけどね
イワンには粘っこさがない
8歳の女の子(概念)という見えないものには哀れんで見せるが、イリューシャのようにジュウーチカ(個人)という目の前のものは哀れまない
固有名詞は嫌いなんだろうね
ハッキリいうと争いになるだろうけど、君の説明する創価という集団(ほんとの所は知らないけど)の考えはイワンのように粘っこさが見えないよ >>728
こんばんはー。久しぶりだねw
> 大審問官の思想を根本から否定する声がある
これはまちがいないね。
> パンを自分で収穫し、奇跡を必要とせず、権威溺れず、一人ただ立ち、自らの自由において信仰を勝ちとれと、荒野の悪魔の3つの誘惑に反駁していく
「自らの自由において信仰を勝ちとれ」これはとうぜんのことだね。また多くのひとがそうしてるんだよ。それが
信仰者というものじゃないか?
このスレにウヨウヨいる俗物の無信仰者の諸君が妄想してるのとは真逆なんだよ。 >>ID:eEc9vfRS
またずらずらと頓珍漢なことを述べてますねー。
貴方の理屈の混迷は、たましいの混迷を暗示している。
されど安心なさい。僕が池田先生から授かった創価の光であなたを照らして見せます。
では本題に入りましょう。かつてオウム真理教では、LSDの幻覚作用や覚醒剤の薬理作用などを利用して
「神秘体験」を誘導する「キリストのイニシエーション」という儀式を行っていたようです。
しかし仮にオウムの「神秘体験」を得てなお、それを「大して意味の無い現象である」と断じるものがいるとすれば、
それは聖霊の冒涜であり、従って普遍の真理への冒涜である。
(キリーロフが癲癇の臨死体験と共に神秘体験を得てなお無神論者であるようにね)
============================================================================
>聖霊の冒涜とはおそらく、神を知っていてという自覚があるのに神に立ち還らないこと、だと言える
============================================================================ さて、ここで>>710から聖書を引用させてもらおう。
============================================================================
>『マタイによる福音書12章 』
>だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、゛霊゛に対する冒涜は赦されない。
>人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
============================================================================
あなたが聖霊と解釈した現象に対して、僕が「それは薬物反応だよ」「不思議な夢も単なる現象に過ぎないんだよ」と反駁したとしよう。
それに対して真摯なキリスト教徒とその集団は「そうだね、見解は人それぞれだよね」とは絶対に言わない。
彼らは自分たちの見解を異教徒にも普遍的真理として一方的に適用し、この真理を冒涜するものは赦されないという。
教団は集団内において見解を統一し、集団の内でも外でも異論を排撃することによってのみ、みずからの観念を普遍的真理へと昇華するのである。
したがって「聖なるものを冒涜してはならない」というけれど、キリスト教に限らずその「聖なる概念」はつまるところ集団的唯我論に過ぎないのだ。
============================================================================
権力とは、集団を前提としているものである。
(『1984年』ジョージ・オーウェル)
============================================================================ >集団に服従することを大審問官に述べさせ、そしてドストエフスキーは書かずに反駁した
大切なことだから、ずーっと あえて言ってきたことを、もう一度書く。
君はキリスト教の教会であろうが、創価学会であろうが、宗派というもの、
組織というものに不信を抱いている。それは一面、とうぜんのことです。
君が人生のなかで、君を納得せしめ、ぜったいにこれしかない!
このためにおれは生まれてきた!という宗教に出会ったことがないからだ。
また、アレクセイにとってのゾシマのような師に未だ出会っていない。
それで君は僕のいうことを「理解できない」「拒否している」大審問官などという
ある意味どーでもいい話へ持っていってしまう。
>創価がどういう考えを持って服従しろと言っているのか、集団を重視するのかは知らない
けど、ドストエフスキーは多音性を重視して個別であることに重点をおいた
ぼくは「多音性を重視して個別であることに重点をおいた」などというのは大嘘だと思う。 ドストエフスキーは民衆の素朴な信仰、そしてアリョーシャの信仰のあり方に希望を求めた
とおもう。
君の良くない点は、知らないことを論評することだな。創価学会のことになったら、
おおよそ教養人とは思えない低レベルな書き込みになっている。
そんな人間になるな! 損をする。少しは僕のいうことを信じるよな?
ぼくは丁寧にるる述べただろう? ぼくの口真似してるバカのアホカキコに幻惑されたのか
い?
ぼくが述べたのは大審問官なんか関係がない。ゾシマがいう服従でしょ?
(アレクセイが整理したゾシマの指導集のところで、独立した章として「信仰と服従の重要
性について」書いてあったはず。)
ゾシマが述べている意味での「服従」について、ずーっとカキコしてきたでしょ?
意図的に、わからないふりをしてるの?
===========================================================================
アリョーシャは、ゾシマの病気を治癒する奇跡的力のゆえに、信仰したのではなく、傾倒し
て愛したのでもない。
そんな問題はアリョーシャにとって、どうでもよいことであった。
1,アリョーシャはすっかり師の精神力を信じきっていた!
2,師の名声を自分自身の勝利のように思っていた!
===========================================================================
師の精神力を信じきることが、個人崇拝になるのかい?
師の名声を自分自身の勝利のように思うことがいけないか? 創価学会ではね、「集団を重視する」などという考えは一ミリたりともない。
目前のひとり― たった一人をたいせつにする。それしかない。
師ということについて言えば
アリョーシャがね、ゾシマを一途に熱烈に求め抜くのとまったく同じだ。
もちろんさ。こんなカッコイイこと言ってるけど、おれなんて酷いもんだよw?
でもね、「そういう強固な理想をもっている」その理想の崇高なる様は、ハッキリ言って
カラマーゾフどころじゃーない。 またスメルジャコフが出てきたねw
あんなものは読む価値がない。
アボンするんだよ... w ============================================================================
どんなことでも真実に成りえる。
いわゆる自然法則はナンセンスである。引力の法則など戯言だ。
もし麻原彰晃が床から浮かぶと"思い"、そして同時にわたしも麻原彰晃の浮かんでいる姿が見えると"思う"なら、
そのときには空中浮遊が現実に起きていることになる。
ところがはたと膝を打ち、疑問が沸き起こる。
そんなことが現実には起こりえない。想像の産物、幻覚だ――もちろん、直ちにその考えは粉砕される。
謬見であることは歴然としているではないか。なにしろ、自分の認識の外側に"現実"世界があるという前提に立っているのだ。
そんな世界が存在すると確かめることは不可能である。自分の精神を通さずに、何を認識できるというのだ?
すべての出来事は精神の中で存在する。あらゆる人間の精神の中で起こることは、それが何であれ、本当に起きることなのだ。
(『1984年』ジョージ・オーウェル)
============================================================================
麻原彰晃は空中浮遊し、池田大作は行方不明となった現在も未来もなお生き続けている。
創価の心の中で生き続ける意味において、池田先生は三世の生命を得たのです。 さあ聖教新聞を買え。真実に目覚めろ。自分を欺き続けるのか? 確信が欲しくないのか? そもそも君は創価という組織で話しているだけだよ
オレはキリストという個人について話しているだけ
個人の話を集団では語れない
それに集団の話の例で大審問官を引用しただけであって、カラマーゾフの重点がゾシマの談話なのかどうかは別問題だよ
話をそらさずに答えてほしい
なんで感覚を共有することが、キリスト教の聖霊にのみ適用される定義になるんだ ドストエフスキーのすべてはこれで終わる
大審問官もゾシマもアリョーシャの演説も繋がっているのであって、カラマーゾフはゾシマの談話だけに限定されない
「4月16日 マーシャは台の上に横たわっている。マーシャと再会できるだろうか?
キリストの教えに従って、人を自分自身のごとく愛することは、不可能である。
地上の個性の法則に縛られる。われ(Я) が妨げる。キリストだけが出来た。
しかしキリストは太古からの人間の理想であり、人間がそれをめざし、自然の法則からいってもめざさざるをえない理想である。
しかしながら、肉体に宿った人間の理想としてのキリストが出現して以来、白昼のごとく明らかになったのは、個性の最高度の最終的な発達は、まさしく次の点にまで(発達の極限、目標到達の最終地点で)達しなければならないということだ。
すなわち、人間が自分の個性、自分のわれの完全な発達に基づいて出来る最高の行為は、そのわれを滅却し、万人と個々の人に差別なく、献身的に自分を完全に捧げることであると悟り、自覚し、自分の本性のすべてをかけてそう確信することである。
これこそ最大の幸福である。このようにして自我の法則はヒューマニズムの法則と合流し、この両者の合流のなかで、相互に敵対しあうわれも万人も(一見して、極端に対立しあうこの二つが)、同時に各々の発達の最高目標を実現する。
これこそキリストの天国にほかならない。
しかし、もしこれが人類の最終目標(それが実現されれば、人類は発達する必要がなくなる。
すなわち実現の努力も闘争も、自分の堕落の時に理想に目覚める必要も、永久にそれをめざす必要もなくなる―とすれば生きる必要がなくなる)であるとすれば、当然、人間がこの目標を実現せんとする暁には、自分の地上的な存在も終わりを告げることになる。
だから、人間は地上においてはひたすら発達の過程にある存在であって、従って、完結的な存在ではなく、過度的な存在である。
しかし私の考えでは、この大目標に到達すると同時に、すべてが消失、消滅するとしたら、すなわち目標の実現とともに人間の生活がなくなるとしたら、このような目標に到達することはまったく無意味である。だからこそ、未来の、天国の生活があるのだ。」 >>737
欲しくないよw
そもそも確信が欲しいなら、金とか名誉とか地位とか政治に求める
それにそんなもの既に十分すぎるほど持ってるw 君が宗教求めているものとオレが求めているものは正反対だね
だから本一つ読むのも捉え方が違うんだろう
君は幸福とか名誉とか確信とか安定を宗教に求めようとする
だから創価やその他の宗教、いわゆる世俗的哲学が教えとなる組織に魅了されるんだろう
オレは確信や金や我意が捨てられないからキリストにすがり、そのキリストにすがっているドストエフスキーにも魅了される
手に入れたいからじゃない、捨てられずに執着する自己に抗しているだけだよ >>738
>なんで感覚を共有することが、キリスト教の聖霊にのみ適用される定義になるんだ
意味が分からない。キミが単純に文脈を無視しているだけじゃないかなw
>>710と>>717の流れからなぜ「感覚を共有することが、キリスト教の聖霊にのみ適用される定義」という俺ルールで議論を展開するのか?
>>710には「他はともかく、聖霊を冒涜することだけは許されない」とあり、
>>717では「その聖霊もキリスト教の集団内にしか通用しない妄想に過ぎないだろ」と述べている。
別にオウム真理教の〇×でもいい。(あの教団は特にインド神話由来の独自造語とそれに基づいた俺ルールが多い)
オウム真理教の信者たちは、自分たちが身内で共有している感覚を普遍的真理と見做して、とうぜん他の人たちも同じだと一方的にみなしている。
キリスト教も最初はキリストひとりだったかもしれない。そのときキリストは、自分ただ一人で共有している見解をみんなのものと勝手に見做していたわけだ。
これが分からないなら、キミも創価学会に入信したほうがいい。そこには何かがある!(何があるかは、入ってからのお楽しみ〜☆) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています