ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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>>849
> 幸福の科学と創価学会の争い? どっちもカルトじゃん
幸福の科学といっしょにすんなアホw
おまえのオカルトの定義ってなんだ? はやくコウメイに投票してこい。それで許してやるよ... w 幸福の科学において「エル・カンターレ」は「うるわしき光の国、地球」もしくは「地球の光」という意味を持つ地球神を表す言葉で、幸福の科学の本尊である。
また、幸福の科学の教義では、エル・カンターレの本体部分が地上に下生したのが、大川隆法とされていることから、幸福の科学総裁の大川隆法のことも示す。
幸福の科学の信者は、エル・カンターレを体現した「現成の仏陀(悟りたる者)」であるとして大川隆法を信仰している。 祈りの言葉では「主エル・カンターレ」という呼称が用いられる。
つまり御本尊とは大川総裁ですよ
創価学会のように過去の会ったこともない坊主ではないのです
皆さま、幸福実現党だけが、あなたの明日を明るくします! 1956(昭和31)年7月7日、徳島県に生まれる。東京大学法学部卒業後、大手総合商社に入社し、ニューヨーク本社に勤務するかたわら、ニューヨーク市立大学大学院で国際金融論を学ぶ。
81年、大悟し、人類救済の大いなる使命を持つ「エル・カンターレ」であることを自覚する。
86年、「幸福の科学」を設立。信者は世界100カ国以上に広がっており、全国・全世界に精舎・支部精舎等を700カ所以上、布教所を約1万カ所展開している。説法回数は2900回を超え
(うち英語説法130回以上)、また著作は31言語に翻訳され、発刊点数は全世界で2500書を超える(うち公開霊言シリーズは500書以上)。
愛読者は世界で数億人を超え、『太陽の法』(幸福の科学出版刊)をはじめとする著作の多くはベストセラー、ミリオンセラーとなっている。 幸福の科学に入って素直に信心に励めば、確実に生命力が強くなり、元気になり、
今まで思ってみたようなこともない世界と感覚を体験し、生きることへの強い意欲がわく。
これはぜったいに確実です。これは否定しようもない、どーしよーもない事実です。
それはあたかもカラマーゾフの兄弟などの作品が
「ドストエフスキーなんかクズ!賭博してるから」とか「リアリティがない!」とか
「文章がおかしい」とか そんな小人の誹謗中傷などいくら受けても微動だにしない
超絶的な価値をもっているのと同じことです
小説作品というジャンルにおいて、人類がなした頂点
といっぱんに認められているのが「カラマーゾフ」で
あるならば
宗教界の頂点はまぎれもなく「幸福の科学」です。
全世界的な勢いで広宣流布中です!! つまり「大川総裁はゾシマ長老の生まれ変わりである」ということです。
幸福実現党党に投票しない者は地獄に落ちて苦しみます。
特に理由はないけど、ぼくは何となくそう信じてる。
幸福の科学に非ずは人に非ず。 カラマーゾフの兄弟をこうして冒頭から読んでいくと、エル・カンターレ総裁指導と100%共通なのは、驚くべきことである。 マジか幸福の科学ってスゲーんだな!
奥さんの大川きょう子氏は文殊菩薩やギリシャ神話の女神アフロディーテの生まれ変わりらしいからな
大川総裁がゾシマ長老の生まれ変わりであってもなんら不思議ではない、さすが東大卒といったところだ
低学歴の池田大作とは格が違うわ >>856
あなたはお目が高いようですね。
総裁はドストエフスキーを自身に降臨させて本も出しておられます。
これはまぎれもなく総裁がゾシマ長老の生まれ変わりだから出来たということです。
ぜひご購入をオススメします。
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1962 公明党か、幸福実現党か、どっちに投票するべきですか? 創価学会は僕らを破門した先人たち、日蓮宗の轍を踏みません。
不承々々の「服従」には満足しないし、ひたすら平身低頭してこちらの言いなりになる態度にも満足しない。
最終的に入信させるときには、本人の自由意志でなければならないのです。
(『真・聖教新聞』1984年)
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ヤる、ヤラないは、おまえの自由だ。やれば思いもよらない想像を絶する幸福を知り、
ヤラなければ愚人として惨めな人生で終わる。
この生涯の服従を通じて、ついには充実した生活と完全な自由、即ち自分自身に対する自由
に到達する。
自分の頭で物事を判断しない自由、長老(命令者)に服従し、永久に懺悔し続ける不毛な人生の自由である。 僕らは異端者を改心させる、その内なる心を占領する、その捻くれた人間性を作り直します。
その人に宿っているあらゆる善悪基準と固定観念を消して脳を真っ新に初期化し、仲間になるよう真言《マントラ》で上書きします。
見せかけではなく、衷心から、全身全霊で仲間になっていただきたいのです。
誤った思想とその信心がこの世界のどこかに存在することは、たとえそれが人目につかず、無力なものであるにしても、創価学会には耐え難いことです。
昔の宗教は「貴方は〇×をしてはいけません」と命じました。近代社会と全体主義体制が示した社会規範は「貴方は〇×をしなさい」でした。
しかし僕ら創価学会は「貴方は〇×です」と塗り替えます。一度学会に入信したもので最後まで抵抗を続けたものはいません。
(『真・聖教新聞』1984年) もが垢を落としてきれいになります。脱退してyoutubeで学会の悪口を広めていた裏切者にしても、最後には僕らに屈服します。
彼らは次第に精神的に参っていって、哀れな声を出すようになり、這いつくばって涙を流すでしょう。
そして結局そうなるのは仏罰の苦痛のせいでも地獄に落ちる恐怖のせいでもなく、ひたすら悔悟の念からそうなるのです。
確信に目覚めたとき、彼らはもぬけの殻に成ります。
自分たちがやったことへの後悔と池田大作への愛情以外には何も残っていない。
その愛の深さを目のあたりにするのはきっと感動的でしょう。
心が汚れないうちに入信させてくれと、彼らの方から懇願するはずです。
(『真・聖教新聞』1984年)
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真実に目覚めろ。自分を欺き続けるのか? 確信が欲しくないのか? いや、まったく彼らは静寂の中にあって、「その時その時のために」と自己の鍛錬をしているのである。
古い古い昔の高僧、使徒や殉教者たちから伝えられたキリストの輝かしい姿を、いささかも曲げること
なくそのままに保存して、時いたらば現世のゆらげる真理の前に、この姿を掲げ示そうとしている。
ああ、なんという偉大な思想であろう。この星はやがて東の空から輝きだすのである。
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今回これを読んで
月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へ
かへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の
長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には
一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり
を想起した。わたしの中ではカラマーゾフの文中の教えも、即座に変換されて、仏法となるのだ。 本を読んできた人の読解力の回路は、論理的思考の回路と同一視できることが読む一つの力になる時がある
まず、
> 最終的に入信させるときには、本人の自由意志でなければならないのです。
と、自由意思をに優先度を認めておいて、
次に、
> その人に宿っているあらゆる善悪基準と固定観念を消して脳を真っ新に初期化し、仲間になるよう真言《マントラ》で上書きします。
と、限定された選択のみを与えて、
最初に、
> 不承々々の「服従」には満足しないし、ひたすら平身低頭してこちらの言いなりになる態度にも満足しない。
と、服従を否定しておきながら、
最後に、
> そして結局そうなるのは仏罰の苦痛のせいでも地獄に落ちる恐怖のせいでもなく、ひたすら悔悟の念からそうなるのです。
心が汚れないうちに入信させてくれと、彼らの方から懇願するはずです。
と、善悪をなくす筈だったのに、不安を煽って語る側の都合のいい善悪を植え付けるという矛盾をしているが、
でもオルテガのいう大衆みたいに人は結構単純だから、こんな感じがちょうどいいかもねw
宗教における善悪は普遍で変わらないもの、過去に今に未来に同じでなければ意味がないよ
語る側の都合とか時代で変えるものは、自由意思を持つものっはポイしましょう!
by 5chのエマニュエル・ゴールドスタインより (我)ここは学会員さんと、一般日本人とのちがいについて書かれている。
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>余は僧侶についてこんなふうに考察する。(僧侶とは学会員さんのことです)
これがはたして偽りであろうか、傲慢であろうか?
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「彼らは静寂な中にあって、『その時その時のために』と自己の鍛錬をしている」
そのメンバーはいま、何処にあるや?
「古い古い昔の高僧、使徒や殉教者たちから伝えられたキリストの輝かしい姿を、いささ
かも曲げることなくそのままに保存して」おる それに従事しているメンバーは
いったいいずこへ消えたのかっ?
(ここは「キリスト」を「日蓮大聖人」「仏」と読み替えてください)
「時いたらば現世のゆらげる真理の前に、この姿を掲げ示そうとしている」時至らずとも
この世界悪と戦う覚悟のできた友は、この日本のいずこにあらん!?
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これを知るには世間の人の現状を見るがよい。(世間の人とは、まさにあなたがた邪宗の
メンバーと無信仰の一般日本人です)
人民の上に君臨している神の世界において、神の姿とその真理が曲げられていないであろ
うか?
彼らの社会には科学がある。しかし、科学のうちには五官に隷属するものよりほか何一つ
ない。
人間の貴き一半を形づくっている精神界は、凱歌でも奏するような態度で駆逐されてし
まった。
いな、むしろ増悪をもって拒否されたのである。
彼らは自由を強調していて、これは最近に至ってことに甚しいが、このいわゆる自由の中
に発見しうるものはなんであろう。 ただ、隷属と自滅にすぎぬではないか! なぜというに、世間の人は、『お前らは欲望を
持っているのだから、大いにその満足を図るがよい。なぜならば、お前らも貴族や富豪
と同等の権利を持っているからだ。欲望は恐るるところなく満足させるばかりでなく、
進んで増進すべきだ』と叫んでいる、――これが彼らの教義である。彼らはこの中に自由
があると思っている。
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(我)現代日本の、あるいは全世界の(世界を知らぬから推定であるが)世間の人を見るに、ま
さに、われらは「科学をもっている」(例せばパソコンでありインターネットである)
それはまさに「五官に従属するものばかりである」 >>863
> 本を読んできた人の読解力の回路は、論理的思考の回路と同一視できることが読む一つの力になる時がある
ずっと以前から教えてきたけど、勉強することは大事だ。しかし、本から学べるものは、人生の中の極小部分だ。
それくらいはわかるよね?
グダグダ書いてるが、きみは勇気のない人間だ。だから、思考力も低下する。
>宗教における善悪は普遍で変わらないもの
そのとおりだ。しかし
>過去に今に未来に同じでなければ意味がないよ
きみなどが思い描くようなレベルにはないのだ。宗教的真理というものは。つぎの瞬間にはまったく別に見えることが指導される場合もある。
大切なのは、自分を信じず、目の前にいる友を信ずることだ。自分を投げ捨てることだ。投げ捨てるというより
投げ込むんだ。
カラマーゾフを読んできたなら、それくらいわかるよな? >>863
>限定された選択枝のみを与えて自由意思なんてマッチポンプじゃないか
名探偵コナンも「真実は常に一つ」といいます。
正解は最初から決まっており、それを自由意志の下に選ぶのか、選ばないかに過ぎません。
>宗教における善悪は普遍で変わらないもの、過去に今に未来に同じでなければ意味がないよ
問題ありません。先生は次のようにおっしゃられています。
「過去をコントロールする者は未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」
(池田大作先生 四季の励まし 1984年)
過去・現在・未来の「三世」は常に信心の解釈次第、すなわち人間の心や記憶の中に存在しています。
創価学会は僕ら自身を含めたあらゆる「三世の記憶」をコントロールしているので、
いつでも必要に応じて過去・現在・未来を好きなように塗り替えることができるのです。
従って創価学会の仏法は一切ブレることなく、普遍的に在り続ける老舗の味ということになります。
永遠の命《三世の生命》とは、そういうことなのではないでしょうか?
長老《大作先生》への絶対の服従をもって、客観的事実からの自由に到達なさい。 >オルテガのいう大衆みたいに人は結構単純だから
庶民を小バカにするきみの態度はよくない。それは庶民がどれほど偉大たり得るかを知らぬから出る愚かさだ。
それは信仰活動というものをやったことがないからであろう。
君のそういう側面が君の人生を味気ないものにしている。ぜったいにいま変わるべきだ。
アレクセイが「ひとりで読書して」オルテガとか読んで「おれゴールドスタインw」とか言って、悦に入っていたりするか?
アレクセイは自分の一身をなげうって、ゾシマの教会に身を投じた。それは「いっさいをつかむ」ためである。
ぼくも若い時にそうした。自分のすべてを創価学会にかけた。俺より幸福な人生というものは、少ないと思う。
おれのようなペーペーの学会員でもそう感じる。いわんや、強烈な信心でいっかんしてがんばってきた人においておや。 >>866
>>867
真理と宗教の善悪は神の法であり、創造から既に決まっていたというのがキリスト教の一般解釈だよ
ドストエフスキーもキリスト教だから、ドストエフスキーの本で書いてある真理もそういう考え方しか、しないのではなくて出来ないんだよ
真理が変わって見えたかどうかは、それを眺める存在がなにか成長したとか不安だったとかの、見る側の印象が変わった、というだけで真理は変わっていないとするのが宗教だよ
その真理そのものを変えてくのは、もはや宗教ではなく哲学とかそーいう類のものになる、と思うよ
あと、過去や今や未来を塗り替えられる、みたいなことについては、キリスト教だと神の意志にお任せみたいな感じだから、そもそも変えられるかどうかは気にしていないと思うよ
変えられちゃうなら罰の概念も意味を失い、何より悔い改める必要のないキリスト教なんてないも同じだからねw
キリスト教では2000年前にこうあって(正確にはそれはそう決めれていてキリストが受肉して伝えた)、変わらないよ、仏教についてはは分からないけどね
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。(マタイ 22:37-38) 理屈じゃないんだ。信心というものは。
一分を伝えるなら、たとえば今日の宮迫の会見の言葉を借りれば、「先輩から返そうにも返せるはずのない
恩を受けて」アレと同じだ。
入信以来、無数の先輩がた、壮年・婦人・同年代の友・後輩たちが、おれを守りに守ってくれた。
その当時気が付かなかったような 何気ないことでも、いま思えば、絶対真似できないたいへんなことばかりだ。
しかもそれは学会員だけではない。この信心を通じて仏法対話などで、たくさんの真実の友人をつくり、その友人たちがまた、守りに守ってくれた。今もだ。
ここにいる諸君も、創価学会へ入信すれば、まったく同じ体験をし、いや、それ以上の人材となるのはまちがいない。
そうした無数の体験と感謝が全世界で累積していって、たとえば昨日の選挙でも比例で700万とか入るのだ。
10年くらい前は900万くらいあったみたいだけど。
もちろん学会といえども人間の集まりであり、時と場合によって、適応できないときもあろう。
自分にもあった。
そうであっても、根幹に信仰の絶対的な体験があれば、いつでも、ほんの一念の変革で、いつでも広布の庭に
帰ってこれるのみならず、
苦労した体験がぜんぶ100倍になって生きてくるのだ。瞬間的に仏国土に変わるのだ。 >>869
1,きみはどこかの教会か宗派かに属して活動をしているのか?
2,またドストエフスキー本文をもって、きみの考えを書いてくれ。
なぜなら、そうでないと、君の脳内にある、本で読んで思索してきたゴタマゼの哲学やら教えやら
を聞くことになる。そんなものは、僕のみならず、他のメンバーも聞きたくないはずだ。
とくに第一の質問には明確に答えてくれ。 >> by 5chのエマニュエル・ゴールドスタイン
>宗教は普遍で変わらないもの、過去に今に未来に同じでなければ意味がないよ
「勝者が歴史を作る」ともいいます。
池田先生の言葉は日蓮大聖人の言葉であり、日蓮大聖人の言葉は釈迦の言葉です。
従って池田先生の説法は、釈迦の時代から変わらぬ永劫の真理ということになります。
紙面に書かれたテキストの意味が違うことは些末なことにすぎません。 >>873
何がドストエフスキーの本文を持ってとか言ってるのよw
自分は創価学会のことしか書かんだろうがw
みんないい事言う時は自分棚にあげすぎw >>874
そういう勝てば官軍、みたいな強者主義は相対的過ぎて、釈迦のいう原始仏教とはかけ離れてるよw
勝ち負けで歴史つくる、とか嫌悪しないところが哲学宗教になるということです
真理はこの世で勝つか負けるか関係なく真理です
池田先生云々より、宗教が何かを根本から勉強しましょうね
そのあとでドストエフスキーよw >>876
マタイ氏の教科書に書かれていることだけが真理ではありません
だから教会があり、聖職者がいるのです
池田先生は聖書にも書かれていない真理を授けてくれます
絶対服従なさい、いつかあなたにも池田先生のあらゆる御言葉が真理と知る日が来るでしょう 教会に属して宗教活動をしてるのか?と問うても答えない。
A 君は明確に答えてくれた。その他のものは答えない。
他人にたいする信仰活動、キリスト教的に表現すれば「実践の愛」を実行していないものに、
宗教的真理などぜったいにつかめないし、永遠の生命の片影も覚知できない。そんなものは、脳内の妄想です。
さらにもう一問。「祈っているのか?」
毎日毎刻祈らないものは、自分でいくら「おれはキリストを信じている」と
思っていてもまったく信仰者ではない。
なぜかわかりますか?カラマーゾフの兄弟のゾシマの章に書いてある。
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>>875
>>876
君たちは、ひじょうに弱い信仰へのあこがれは持っている。ぼくの書き込みを読んで本物の信仰者の
世界というものを知り学ぶんだ。
ぼくの口まねをしてるスメルジャコフからは、卑しい人間の地獄の末路を学ぶんだ。この者は
あと7ヶ月以上は生きられない。ひじょうに厳しい仏罰が下るからだ。 彼をひとりで死なせなさい。
こうした狂人のカキコに触れることは、法華経・御本尊・日蓮大聖人に違背し離れていく縁となる。
専ブラを使っているなら、彼の独特の言い回しや語彙があるから、それをNGワードに登録しなさい。 >>877
なるほど確かに教会はそのためにあるよね
迷信も入り込んだが、真理も教会なくしてはありえない、とトルストイも懺悔で言ってるね
だけど池田先生が聖書の上を行くとか、キリスト教徒からすればもう神の冒涜ですw
最高の罪ですw
なので俺は服従より自由意思に今のところは留まるよ
ドストエフスキーも言ってたでしょ
数学的に証明されたとしても、キリストに留まりたいと ああ、僕はどんなにかあなたを愛してるでしょう。どんなにこの瞬間あなたを尊重し
てるでしょう! それはつまり、あなたが僕と一緒にいるのを、恥かしがっていらっしゃ
るためです。なぜって、あなたはちょうど僕と同じだからですよ! 」コーリャはすっかり
夢中になって、こう叫んだ。彼のほおは燃え、目は輝いた。
「ねえコーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ」アリョーシャはなぜか
突然こう言った。
「知っています、知っています。ほんとうにあなたは、なんでも先のことがおわかりにな
りますね!」とコーリャはすぐ承認した。
「だが、全体としてはやはり人生を祝福なさいよ。」
-------------------------------
疑問
1,コーリャは、なぜ「あなたはちょうど僕と同じだからですよ! 」と感じた?
2,アリョーシャはなぜ、コーリャのことを「君は将来非常に不幸な人間になりますよ」
と思ったのか?
感激したのは、
>「知っています、知っています。ほんとうにあなたは、なんでも先のことがおわかりになりま
すね!」とコーリャはすぐ承認した。
嬉しがって答える、この返事ですね。もうなにを言われても、あまりにも高い相手への信頼ゆえに、
すべてをいい意味にとらえるんでしょうね。「君は将来、非常に不幸な人間になりますよ」という
言葉も、世間通途の意味でなく、宗教的な、ゾシマの教えのとおりの意味あいで「自己の深い使命」
として、ちょっかんで理解してるんでしょう。 >>526
> 「だが、全体としてはやはり人生を祝福なさいよ。」
> -------------------------------
重要な引用ミスだ。
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福するでしょう」(正) >>530
> コーリャの場合は甘いロマンチシズムの中に浸っている分
> 救いようがなく、それ故に不幸な境遇に際してはその甘さが
> 苦痛に変わる可能性が高い
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福するでしょう」というアリョーシャの予言は? > コーリャのように世のため人のために不幸を背負いたがる受難者は
> 実のところ受難者という境遇に恍惚感を覚える
> この心情は背中に両腕で十字を組んで衆人環視の中
> あえて殴打の辱めをうけるスタヴローギンのマゾヒスト的恍惚感に近い
ぼくは、コーリャの人物像について、かなり忘れており、読みこみも甘い。
「世のため人のために不幸を背負いたがる」という部分が「そうだったけ?」
となってる。
> コーリャの場合は甘いロマンチシズムの中に浸っている分
ここはわかります。なんとなく。
> 救いようがなく、それ故に不幸な境遇に際してはその甘さが
> 苦痛に変わる可能性が高い
しかしその結論が「救いようがなく」という理解は疑問です。 >>534
> ぼくは社会主義者なんです、とコーリャは自らアリョーシャに自己紹介しているね
> わざわざヴォルテールの、神がないなら人間が作り出さなにゃならない、みたいな言葉も引用しながら
> 社会主義者とは無神論者のことだから、ミーチャのようにはいかないだろうと思われる
彼はこどもなんですよ!ぼくらも子供の頃 少年のごろ、とんでもないこと夢想してませんでしたか?
> 不幸が天恵と捉えられるのはミーチャの場合に限られるのかもしれない
「いちばん不幸なひと、いちばん苦労したひとが、いちばん幸福になる」というのは人生の方程式であり、ミーチャひとりに限ったことではない。これはロマン主義などではない。真実です。
> ミーチャは詩的すぎる性格だけど、
これはそのとおりだなあ、と思った。あ、そっか!とポンとひざを叩いた。
536 名前:吾輩は名無しである [sage]: 2018/12/12(水) 16:35:34.98 ID:aLn9te2V (3)
それにたとえ、社会主義者であろうが無神論者であろうが、革命に身を投じ、一身を投げうって、民の嘆きを
いやさんとしたその生涯はたっときものであると考える。
人生がまさに終わらんとするとき、この人生を自己ならびに自己の家族の安寧のみに奉仕したものと、その最後の瞬間に瞳の中に映り込む太陽の輝きは、異なるものであると想像する。 著者 より(抜粋)
彼 が 奇妙 な、 むしろ 変人 とも 名 づく べき 男 だ という
こと で ある。 しかし、 奇妙 な こと や 変 屈 な こと は、
注目 の 権利 を 与える より、 むしろ 傷つける 場合 の 方
が 多い。 ことに 現代 の 如く すべて の 人 が、 部分 を
統一 し て、 世界 全体 の 混沌 の 中 に、 普遍的 意義 を
発見 しよ う と 努め て いる 時代 には なおさら で ある。
そう では ない か?
変人 は いつも 部分 もしくは 特殊 に 限ら ない のみ か、
かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て、 その他 の
同時代 の 人間 は 何 かの 風 の 吹き 廻し で、 一時 変人
から離れ た もの に すぎ ない、 という よう な 場合 が
しばしば だ からで ある……
> 彼 が 奇妙 な、 むしろ 変人 とも 名 づく べき 男 だ という
> こと で ある。
著者は、アレクセイをして、どのような点をとって「奇妙・変人」と
書いたのか?
>しかし、 奇妙 な こと や 変 屈 な こと は、
> 注目 の 権利 を 与える より、 むしろ 傷つける 場合 の 方
> が 多い。
これはそのとおりであろう。 >ことに 現代 の 如く すべて の 人 が、 部分 を
> 統一 し て、 世界 全体 の 混沌 の 中 に、 普遍的 意義 を
> 発見 しよ う と 努め て いる 時代 には なおさら で ある。
> 変人 は いつも 部分 もしくは 特殊 に 限ら ない のみ か、
> かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て、 その他 の
> 同時代 の 人間 は 何 かの 風 の 吹き 廻し で、 一時 変人
> から離れ た もの に すぎ ない、 という よう な 場合 が
> しばしば だ からで ある……
ここの表現がちょっと難しいが、こういう視点があったんだと。
そして少年時代の自分は、自分を変人と思っていたから、ここを
読んで、励まされたし、慰められもした。ことに
> かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て
の一文は、歳をとった今、まさにそのとおりだと、感じるんだ。
> 変人 は いつも 部分 もしくは 特殊 に 限ら ない のみ か、
> かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て、 その他 の
> 同時代 の 人間 は 何 かの 風 の 吹き 廻し で、 一時 変人
> から離れ た もの に すぎ ない、 という よう な 場合 が
> しばしば だ からで ある……
-------------
そして、この主張・考えを書くだけのひとと、ドストエフスキーのごとく、巨大な小説作品として、芸術的手腕をもって表現しうることとの 間には、異次元の隔たりがあるのでしょう。 過去のわたしの素晴らしい書き込みシリーズ
名前:吾輩は名無しである [sage]: 2018/12/15(土) 00:31:57.43 ID:45W5I5MQ (7)
先日のコーリャとアレクセイの、下の会話にもつながっているね。
> 「滑稽がなんです? 人間が滑稽な者になったり、あるいはそうい
> うふうに見えたりすることは、いくらあるかしれません。今日
> ではみんな才能のある人たちが、滑稽な者になることをひどく
> 恐れて、そのために不幸になってるんですよ。ただ私が驚くの
> は、君がそんなに早く、これを感じ始めたことです。もっとも、
> 私はもうとっくから、ただ君ばかりでなく、多くの人にそれを
> 認めていたのですがね。今日ではほとんど子供までがこれに苦
> しむようになっています。それはほとんど狂気の沙汰です。
> この自負心の中に悪魔が乗り移って、時代全体を荒らし回って
> るんです、まったく悪魔ですよ。」
>
> じっと熱心に相手を見つめていたコーリャの予期に反して、
> アリョーシャは冷笑の影も浮かべずに言い足した。
どれほど真剣に、このことをコーリャに伝えたかったか! アレクセイは。
これは「カラマーゾフの兄弟」全体をとおして主張されてる、大切なテーマでもあると思うんだ。
奇妙になることを恐れる。変人と、滑稽と見られることを!
このことを、もっともっと、突き詰めて考えていきたい。
われわれの行動の規範が、いずこにあるか?ということじゃないか?
現実問題、「この自負心の中に悪魔が乗り移って」のために、ぼくら自身の輝きが、いっさい奪われているんじゃないかっ? あまりにも多すぎてコピペ不可能です!
いつも尊敬してくれてありがとう >>880
> なるほど確かに教会はそのためにあるよね
> 迷信も入り込んだが、真理も教会なくしてはありえない、とトルストイも懺悔で言ってるね
>
> だけど池田先生が聖書の上を行くとか、キリスト教徒からすればもう神の冒涜ですw
> 最高の罪ですw
キリスト教を愛惜する人にとって、とんでもない発言です。そして不快でしょう。
ただし誤解がある。きみは、ぼくの文とふざけて書いている悪意のひとの文も見分けられないの?
「池田先生が聖書の上を行く」などひとことも言っていない。池田先生といってもふつうの人間です。一面的には。
僕らの教えは「ぼくまたは君」が「キリストよりはるかに上の存在なんだよ!」ということだ。
そういう生命が、仏の生命が内在しておるが、それを現せてないということなんだ。
ほんものの信心をすればかならず「開く」んだ。アレクセイがコーリャに教えたとおり「恥ずかしい」なんて思ってちゃダメだ。
>
> なので俺は服従より自由意思に今のところは留まるよ
> ドストエフスキーも言ってたでしょ
> 数学的に証明されたとしても、キリストに留まりたいと
それでよい。しかし、カラマーゾフの兄弟でドストが語っていることは、もう一段突き詰めるべきだ。
宗教を信仰を、自分の内的な世界の哲学・思想ととらえてはいけない。それは民衆の中へ飛び込んでいくための道具と
解するのだ。 創価くんは坊さんになりたい創価大学の学生さんか?
カルマジーノフみたいなやつだな つまんない書き込みをスルーされて嫉妬心を爆発させるとかさ、
仏教を志す者のわりにはあまりにも煩悩にとらわれすぎている
そんな恥知らずな荒らし風情が他人に説法しようなど実に烏滸がましい 宗教ってある意味でとっても怖いよね
だいたいは本当の事を言ってるんだと思う
それも真理を含んでいる(というかコピペしてる)
そして一番厄介なのは、ドストエフスキーも問題視していたキリスト教社会主義みたいな、宗教に政治を混ぜてくる主義者たちにもあてはまる
最初は本当の事を言っておいて、最後にちょっとだけ自分の都合を混ぜ込む
そうすると、全体は正しくて立派な外観に見えるのに、本質は世俗的な欲の集客システムに変わる
箱は同じだが方向だけ違う船のように、乗っていたものはたまらない
いつしか別の目的地につかされちゃうw
しかも一番の問題は、本人がここが目的地だったんだ、と最後まで気がつかないことw
詐欺のシステムに本当に似ていて、勉強になる、って勉強しちゃダメなんだけどねw >>891
カルガーノフなら知ってるけど。カルジーというのは未成年かなんかの登場人物かい?
おっさんだよ。しかし心は青年やで。 >>892
ぼくは君をスメルジャコフと呼んでいるが、ほんとうにそう思ってるわけではないよ?
とにかく悪ふざけするのはやめな。あたりまえだけど、ほんとうに信心をしてる人というのは、
無信仰で、自分の気ままに生きてる、君たちのような存在とくらべ、人間としての本質において
数段上なのはわかるでしょ? そして一見傲慢なこの言葉は、これを言い切ることがとても大切なんだ。
ウソがいけない。自分の悪いところ恥ずかしいところを吐き出せる人間というのは、すでにそれを乗り越えている。
>>893
きみたちは反発するのは仕方がない。そういうもんなんだ。2ちゃんなんかのカキコで、言うこと聞くやつはいないw
君らの見てきた世界と育ってきた価値観で、捉えられるはずがないからね。
いつの日か現実の存在として創価学会にであえば、あるいは目が覚めるかもしれない。
でも893君は、こと創価学会のことになると、途端にヤクザな無信仰のチンピラみたいなカキコになるのはなぜなんだ?
ドストを語ってるときは聡明なのに。無知無教養で、ずる賢い、ラキーチンみたいなキャラになるのが不思議で仕方ないよ。 ウソごまかしはダメだ。おれは真実を語る。
現今の世界で、カラマーゾフを正しく解釈し、ドスト以上にその本質を剔抉し得るのは
信仰にすべてをかけるぼくのみだ。いやちがう... この表現は。「すべてをかける」というのは、他に選択肢があるのに
あえて創価の信仰にかけているみたいだ。僕にはそれしかないのだ。他にはなにもない。どんな道もない。 >>893
> 宗教ってある意味でとっても怖いよね
> だいたいは本当の事を言ってるんだと思う
> それも真理を含んでいる(というかコピペしてる)
>
> そして一番厄介なのは、ドストエフスキーも問題視していたキリスト教社会主義みたいな、宗教に政治を混ぜてくる主義者たちにもあてはまる
どうも、そこに、特に引っかかるみたいだな。政治アレルギーがある。政治というものの捉え方がちがう。おれたちは
政治屋じゃない。政治ゲーム屋は2ちゃんには殊に多い。おれらは根本的にちがう。
>
> 最初は本当の事を言っておいて、最後にちょっとだけ自分の都合を混ぜ込む
> そうすると、全体は正しくて立派な外観に見えるのに、本質は世俗的な欲の集客システムに変わる
> 箱は同じだが方向だけ違う船のように、乗っていたものはたまらない
> いつしか別の目的地につかされちゃうw
> しかも一番の問題は、本人がここが目的地だったんだ、と最後まで気がつかないことw
> 詐欺のシステムに本当に似ていて、勉強になる、って勉強しちゃダメなんだけどねw
きみはじつはだれよりも宗教不信が強い。君が愛してるのは自分の己心にのみ思い描いている
キリストとか神だ。しかしそれでいいんだ。そういう人間でも、あるきっかけで変わるんだ。ただしそのためには
第六編 「なぞの客」みたいな、あるいはゾシマ兄の逸話があるだろう? ああいう命がけの体験がひつようだな。 さあ、寝よう!
いろいろゴーマンかましてるが、結局のところ、キミらは僕の弟子みたいなもんで、もう半分以上は
創価学会員といってもいい存在なんだw
A 君は「キリストは真理の外にあると数学的に証明されたとしても、キリストに留まりたい!」が口癖の学会員だし
スメルジャコフ君は、おれに憧れていっしょうけんめい口真似する小鳥みたいな創価学会員だ... w >>897
宗教アレルギーというか、まがい物が多すぎるんだよw
俺は仏教だってこの上なく敬ってるぜ
もちろん豪華な寺とかつくったりするような、変えまくったインチキ仏教はアレルギーだけど
あまりにまがい物が多すぎるアレルギーってとこかな >>898
君は特有の誤解しているけど、その言葉はそういう意味ではないよ
ドストエフスキーが、たとえ真理がほかにあると数学的に証明されたとしても、私はキリストに留まる、といっのは、君がいっように短絡的にドストエフスキーがほかに真理がある、と思ってたというのは論理的にまったく当てはまらないよ
文には前提と結論がある
たとえーーでも、ーーーをする
というのは、
たとえーーーでなくても、ーーーををする
の、ーーをする、ということの強調文だから、これを正確に言えば、たとえ真理が外にあろうとなかろうと、どっちでもよくて、なんだろうと私はキリストにとどまる、と言ってるだけで
真理がほかにあるなんて読むのは、読解力の問題かそういう事にしたいという欲望のあらわれか、悟性が足らないかのどれかだよ
これこそ「方向の違う船」みたいにとても危うい
まるでキリスト教社会主義者のようだ
by ドストエフスキー >>創価くん
ドストエフスキーの小説には「奴はキチガイなのか?」という台詞が時々出てくるが、君のためにあるような言葉だな
>>893
バートランド・ラッセルが回想録『ロシア共産主義』の中で宗教性はそれ自体が腐敗をもたらすのでダメだといってる
ボルシェビキは宗教的であり、レーニンはあまりにも自分の意見や信念に固執しており、
多少はマルクス主義を贔屓している自分ですらまるで話し合いにならなかったという
君は古い時代の名残としてではなく、まだ何か宗教に期待しているのかね? >>901
そういう事になるようですね
俺の性格はきっと原理主義なんだと思う
なんでも原理的に物事をとらえるから、だいたいが虚無主義的な結果に終わる
ほとんどが最後には意味がない、で終わる
だからまだ俺にとって、宗教は名残ではなくて、期待を込めた最後の藁みたいなもんなのかなw
もちろんマルクス主義で唯物論でもいいんだけど、唯物論は唯物論で意外と楽観的な気がして、悲観する俺にはちと明るすぎるw それはこれといった趣味の無い人、ニヒリスト、飽きっぽい人というだけさ
世間体としてどうかは別として、直さなきゃいけないようなことでもないぞ その点、私は子供のころから何かに熱狂したことがないな
恋愛にしろ何にせよ、常に一歩引いて冷めた目で見ている
だがそれに疑問を感じたことはない
さて、ニーチェあたりに言わせれば、人は死を見つめて焦ることで、
日々を大事に濃く生きることができるという
しかし私はそういう刹那的な熱狂や陶酔に身を投じる気分にはなれない
他人がやってるのを責任ない立場から観戦するのは嫌いじゃないけどね
その意味においては、私はカーライル的な英雄主義者かもしれない
自分の人生には幼少のころから何も期待していないし、特に欲望も野心も無い
きっと誰かが自分の代わりに何かを成し遂げるのを見届けるために自分は存在する >>904
ニヒリズムという点では似てるじゃないかw
ならば、最後に神に賭けないと生の意味とすべての道徳を失う気がする、という反動からくるあのどんよりとした虚無感も君には理解できるじゃないだろうかw
サンシモン(というか好きなのはフーリエだけど)のいう空想的社会主義はなんとなく分かる気がするけど、カーライルのいう封建主義的個人主義というのはイマイチ意味がつかめない
単純に論理が難しいのと、俺の直感に合わないみたいよ
ニーチェは死をみて焦ったんだね
俺は死を見た時、そのイメージは花火のように感じた
着火したからには燃え尽きちゃうな、という感覚に近い
生まれちゃった限り、否応なく死は時間と共に絶対的に近づいてくるからね
そして、終わるからにはなぜ始めたのか原理的に考えると、そこに出る答えは結局、意味はなかった、というオチw
俺がドストエフスキー好きなのはそんなところなんだろうと思ってるけどね 老いや死を意識することで後先のことや本質を考慮せずに目先の生に全力投球する
これは女性にありがちな刹那的実存主義で、『悪霊』のリーザなんかはこのタイプだ
ニーチェは人生を危険な綱渡りの連続と表し、現実的挫折や俯瞰的視野(ニヒリズム)に心折れず、
究極的には無意味な人生の綱渡りを勇敢に渡っていく人間を強者と讃えた
神に賭けないと――というのは抽象的でなんとも言い難いが、要は自分をルールや型にはめるということかな?
『悪霊』終盤のシャートフの台詞に「ぼくはロシア人だけどロシア人になれないからスラブ民族主義派に属しているんだ」みたいな台詞がある
シャートフの考えは分かるが、私としては共感性を持つなら嫌いな人々を無理して相手にするより動物でも飼った方が良い >>900
> ドストエフスキーが、たとえ真理がほかにあると数学的に証明されたとしても、私はキリストに留まる、といっのは、君がいっように短絡的にドストエフスキーがほかに真理がある、と思ってたというのは論理的にまったく当てはまらないよ
>
> 文には前提と結論がある
> たとえーーでも、ーーーをする
> というのは、
> たとえーーーでなくても、ーーーををする
> の、ーーをする、ということの強調文だから、これを正確に言えば、たとえ真理が外にあろうとなかろうと、どっちでもよくて、なんだろうと私はキリストにとどまる、と言ってるだけで
俺もそう思うw
ワザとウソで書いた... w
おれを誹謗中傷する言葉を書かないように。罰が当たるww >>904
> その点、私は子供のころから何かに熱狂したことがないな
> 恋愛にしろ何にせよ、常に一歩引いて冷めた目で見ている
> だがそれに疑問を感じたことはない
人間にはそれぞれ個性があって、どの性質も一長一短だ。
しかし、自分がまだ知らない自分に会えるとしたら? それにかけてみるのも一興じゃないか?
今夜は疲れていて、大量タイプはできないが。
> さて、ニーチェあたりに言わせれば、人は死を見つめて焦ることで、
> 日々を大事に濃く生きることができるという
これはニーチェ固有の思想ではなく、至極あたりまえではないか? とうぜんそうあるべきじゃないか?
> しかし私はそういう刹那的な熱狂や陶酔に身を投じる気分にはなれない
なにが刹那的なんだ? どうして気分にならないんだ?
> 他人がやってるのを責任ない立場から観戦するのは嫌いじゃないけどね
>
> その意味においては、私はかもしれない
> 自分の人生には幼少のころから何も期待していないし、特に欲望も野心も無い
> きっと誰かが自分の代わりに何かを成し遂げるのを見届けるために自分は存在する
心の中の夢想や理想、思想や哲学で終わらすのはたやすい。現実の人間に働きかけていくしか喜びもない。
そうであってこそ、刹那は永遠であり、熱狂と陶酔も最高の理知になる。「カーライル的な英雄主義者」だか
なんだか知らんが、そんな自己満足にふけってるときじゃない。 君らはとにかく、平凡にして偉大な僕らのような人間になるべきだ。
平凡な庶民として、信仰と理想に生きるべきだ。
君らは平凡で卑小だ。自己の観念の殻に閉じこもって、一歩もでてこないからだ。
大事なことは、自分より優れた人物。つまりおれのような信仰者に対して、頭を垂れて、一から教えを請うことだ。
できるか? >>906
ニーチェはニヒリズムの先を上手く生に転換できたんだろうね
いわく超人の概念を構築しただけはあると感じる
だけど、刹那主義はある意味で欲望の権化にならないのだろうか?とも思う
神に賭けるとは、要はニヒリズムの転換方法がこういうやり方しか出来なかった、ということに過ぎないのかもしれない
つまるところ俺も生に、そして善悪に無関心になった時があるが、生きるに値しないと思った人間が思いつく手段なんて一つしかないだろうw
それに自尊心に興味がなくなれば、人は自分の欲望が善に向いているのか悪に向いているのかに関心を失うのも必然なんだろうね
だからこそ「普遍的善悪の不変の創造者」を俺は求めたのかもしれない
そこで、すべてが許されている、と転換できれば社会性の塊にでもなれるんだろうけど、それは出来なかった
転換の方向がなぜかそこなのかは分からない
そう説明するよりも、スタヴローギンのあの無関心に近い、と言った方が君は理解するんだろうけどねw
シャートフはいいね、とても人間味がある
だけど、人間に共感を求めるくらいならば動物を可愛がる方がマシ、というのも人間味がある気がするよw >>909
君は本当に対話ができないね
対話は自分の主張が少なからず入らなければ成立すらしないよ
君は否定と嘲笑で終わりだね
君のレスは話のつながりがないし、何より誠実さがない
前に5chに何を求めてるんだ、とか言ってたけど、そんなのは当たり前で、そこで自分もそれに迎合するなら独り言と変わらないよ
独り言というのはこうやるんだよ
だから偶像崇拝の政治屋集団は無能だな(´・ω・`) >>904
>さて、ニーチェあたりに言わせれば、人は死を見つめて焦ることで、
>日々を大事に濃く生きることができるという
あたり?
ハイデガーならそんなものだけどニーチェの場合は少し違う
生の本質を惨苦としつつその苦しみを引き受け、
創造性こよって快楽に変えることを主張する
それこそが芸術、そして人生の意義だとしている
死の恐怖や不安の裏返しとしての生への愛着とはちょっと違う
だから神亡き時代の恐怖や不安の克服として提唱された超人思想が
永劫回帰思想へと展開していくわけだね
これがドストエフスキーだと不在の神との対話にとどまる 「不在の神」ではなく「沈黙の神」といった方が適切かな
ヨブ記を持ち出すのはそういう事だよ
信じる力を持ち続けることの威力が分かっているし
それを創作のベースにしている まあ、死ぬまで懐疑と虚無に身を焦がしているのがドストエフスキーだけどねw >>912
> 永劫回帰思想へと展開していくわけだね
> これがドストエフスキーだと不在の神との対話にとどまる
なんで?この世界のどこにも、ニーチェ教もドスト教もないのか?
だれひとり、ニーチェの永劫回帰思想を奉ずる宗派が、地球上のどこにも発生しないのか?
科学教はあるのに? キリーロフ教はなぜない?
それは、民衆救済の教えではないからではあるまいか? 民衆を連結させる教えではないからでは
あるまいか?
> そうです、生の本質とは苦痛とみなしたキリーロフです
(生の本質とは苦痛とみなした)そんなものは遥かな太古に釈迦が、それどころか歴史発生以前から
思索されていただろう。
> 「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。今は苦痛と恐怖ばかりですよ。
> いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。
> いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。
> いまの人間はまだ人間じゃない。
> 幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。
> 苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる。」
>
> 「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です。」
> 「最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。
> その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神です。」 こんな教え・思想が、苦悩する民衆の救いになるか? バラバラに分断された孤独な庶民を
連帯せしめる理想となりうるか?ちょっと考えりゃわかりますよね?
もちろん否です。
だからどれだけ、日蓮大聖人の教え、南無妙法蓮華経が大事かわかりますか?
池田先生という存在が、創価学会のリーダーとして、キリーロフなど比較にならないほど、この
日本国を根底から支えていたか了解できますか?
もし池田先生が狂った指導者であれば、日本人には絶望しか無かった。
日本人にとって縁のない砂漠で発生し、ヨーロッパで育まれた宗教― そうしたバカげたものに
我が国は蝕まれていた。
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> > ドストエフスキーが、たとえ真理がほかにあると数学的に証明されたとしても、私はキリストに留まる、といっのは、君がいっように短絡的にドストエフスキーがほかに真理がある、と思ってたというのは論理的にまったく当てはまらないよ
> >
> > 文には前提と結論がある
> > たとえーーでも、ーーーをする
> > というのは、
> > たとえーーーでなくても、ーーーををする
> > の、ーーをする、ということの強調文だから、これを正確に言えば、たとえ真理が外にあろうとなかろうと、どっちでもよくて、なんだろうと私はキリストにとどまる、と言ってるだけで いちおうは君のいうとおりだと思う。しかし再往はドストエフスキーは「キリストは真理の
外にある」
とも考えていたと思う。このことは彼の著作を読めば明らかではないか。
信と不信の間を弁証法的に彷徨していた。
キリスト教文明が作り出す最良の人物、たとえば、アリョーシャやゾシマのような人々は実
在すると思う。しかしまぎれもなく、そのいっぽうで、彼らはキリスト教特有の問題性を抱
えた人物であろうと予測する。それは「偽善者」であるということです。そうして今世(こ
んぜ)は良くとも、来世においては地獄しかないのである。
そうして地獄の苦悩というのは、死後に在るのではないのである。
みなさん。地獄の姿というのは即座にあらわれるものなのです。ID:0TWYqNEz 君を見て
ほしい。
ずっと理想主義的なカキコをしてきたのに、さいきんは誹謗中傷しかできない畜生のような
姿に成り果てている。
これを地獄と呼ぶ。 大作イズムの人はもう完全に頭が天国にいってしまわれてるな
キリスト教的救済とは所詮このような白痴を崇拝しているに過ぎないのかもしれない
よく教会が知的障碍者の世話をしてるけど、現実の白痴の人の知性や人格は
優しくも純粋でも無く、かなり横暴なんだよね ではなぜ、僕があえて、彼らをして誹謗中傷させるようなカキコをするか、その秘密を教えよう。
それは日蓮大聖人の教えであり、法華経の経文中にそうするようにと指示が在るからである。
君らは地獄と定まっている。可哀想だから、信じても信じなくても、この法華経に縁させるしかない。
これを毒鼓(どっく)の縁という。 >>919
君自身はキリスト教徒なのかい?あるいは無信仰というか日本教的な? >>913
ヨブ記はまさに沈黙の神との対話だからね
対話の作家がよくヨブ記を持ち出すけど、理由は知るに耐えないよね
>>918
誹謗中傷ってw
おまいは人のこと偽善者とか地獄とかそんな表現しかしないだろうにw
道徳とは自分に向けるものです、人に向けるものではありません
教えられた道徳を人に向けたがる気持ちは宗教の副作用で、それは君の欲に過ぎませんので、もう少し抑制を覚えましょう
そして何千回も言うけど、ここは仏教スレでも大作スレでもありません
退廃の5chだけど、その退廃の中にあるスレの最低限のルールは守りましょう
>>919
キリストが招く人は彼のような人なんだという側面があるね
ウィトゲンシュタインはカラマーゾフを50回以上読んでこう言うんだけど、アリョーシャは簡単だが、読者は、はたしてスメルジャイコフを愛する事が出来るのだろうか、と
キリスト教において隣人愛は最高の教義となるけど、どれだけ不可能に満ちた狭き門の道か、だからイワンはアリョーシャは愛せるけどもスメルジャイコフは愛せなくて発狂する
隣人愛は難しいが、神が憐れむ人もそういう人なんだろうけどね >こんな教え・思想が、苦悩する民衆の救いになるか? バラバラに分断された孤独な庶民を
>連帯せしめる理想となりうるか?ちょっと考えりゃわかりますよね?
ファシズムとは、分断された孤独な民衆(モブ)をかき集め、組織された集団に対する奉仕のみを考えることを命じ、
組織と考えの異なる者を取り込み、あるいは徹底的に排撃することによってのみ成り立つ内輪の大作イズムである
大作イズムにおいて他者とは、せいぜい将来的に布教・洗脳できるかもしれない、潜在的な信者と見なされているにすぎない
しかし民主主義とは、考えの異なる者をそのままに承認し、敬意を払うことによる外の世界との連帯によって成立するのだ
(『全体主義と創価学会の原理』ハンナ・アーレント) オルテガ・イ・ガセットによる大衆と創価学会の定義
これはいわゆる政治・経済的な意味での大衆(経済力や社会的地位の階層的なピラミッドの中・下層を占める多数者)を指すものではなく、「生き方」としての大衆を指す哲学的概念です。
主体性をもたず、ただ人間集団の数の力や既成の権威の力に依存し、名前(私という固有性)という責任を持たない匿名に埋没する一般大衆のことです。
だから支配者層や富裕層やインテリ層にも大衆はたくさんいるわけです。
それは仲間集団と同じであることに喜びを覚え、個人の責任を希釈された集団的無責任(「赤信号みんなで渡れば恐くない」)に安心をおぼえ、反対に出る杭は打ち、他集団への極端な排他性と不寛容さをもつ人々です。
数の力と権威の中にある何者でもない自分自身に陶酔し、自身に対しては何も課さず反省もせず満足し、義務を果たそうともせずただひたすらに権利を主張します。
彼らは自分を疑わず、知的な人間であると思い込み、能天気なほどの平静に生きます。
今ある自分の気楽な生活環境は、自分自身に先天的に与えられた永久不滅のものであると信じて疑わず、他者や先人への感謝もなく、平気でそれを打ち捨てようとします。
蛇口をひねれば当たり前に水が出る環境を、先人がどれだけの苦労をしてこしらえたかは、海外の生活環境を見ればよく分かります。
平和や人権という当たり前に見えるものが、過去にどれだけの闘争と犠牲を払って成就されたものか知る由もありません。
大衆は環境が激変したときにようやく、そのことに気付きます。
彼らはいわゆる「甘やかされたお坊ちゃん」であり、現代文化の中に生きる野蛮人です。
大衆は責任を放棄し、安逸な思考停止に陥り、やがてそれは全体主義やファシズムを生み出します。 うむ、オルテガの説は古今東西、人類普遍の真理ですな
普通の人には何を意味してるかも分からない何妙法蓮華経より、
こういう警句を復唱した方が教育に良い いつも、拙いおれのカキコを尊敬してくれて、ありがとう。
ぼくが真心で書くから、キミらも真心で返すんだね。
ぼくが君たちを未来の仏と思って合掌してカキコするから、君らも知らずに合掌してレスをつけている。
こんな2ちゃんだからこそ、ぎゃくに「同意してあげる」ことってたいせつだよね。
「同意」もひとつの対話の技術として、使うことは使うwww
でも、信じてほしい。おれは君たち信心していない人たちは大好きです。悪口をいくら書いても好きなもんは好きです。
ここは大作スレではない... w ですが仏とは、宇宙を包括するいっさいです。
そのことはひとまず置く... ドストエフスキーに戻ろう。おやすみ。 「仏」というものを、キリスト教の神のようにとらえては、ならぬ。
仏とはだれですか?
それはオレです。
また、君たちもほんとうは生命の奥深くに持っているのだ。その存在を知らず、
それを「あらわす」手だてがないというだけ。
「南無妙法蓮華経」とただいっぺん、でっかい声で叫びなさい。いま。
それで過去遠遠劫(かこおんのんごう)からの罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)し、こ
のクソスレで積み重ねてきた悪業を消せる。がんばれ!
>白粉(おしろい)の力は漆(うるし)を変じて雪のごとく白くなす。須弥山(しゅみせ
ん)に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至(ないし)過去遠々劫
(かこおんのんごう)の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金
色となり候なり。しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととな(唱)へさせ給ひしか
ば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。
なん妙法蓮華経と書いてるおまえ!あと一歩だ。あと二文字だ。南無妙法蓮華経と正しくカ
キコしなさい。
>無一不成仏と 申して. 南無妙法蓮華経を 只 一度 申せる 人一人として 仏に ならざるは な
し どうして西洋ではキリスト教が問題になるのか
それは、この世と人間を彼らの神が創造したからである
ここが仏教と根本的に違うところ
仏はこの世界も人間も作った存在ではないから、人間やこの世界の善悪と何の関係もない
したがって、仏が存在しようがしまいが人文・社会・自然科学にとってどうでもよい
キリスト教の神はそうではない、神がこの世界と人間の存在に関っているなら、人間の罪や社会の悪と神とは切り離して考えられないのである
ドストエフスキイのテーマもそこにある
したがって、ドストエフスキイやその作品の理解にとって、仏教など何の関係もなく、どうでもよいのだ >>929
ホントこれなんだよ
そもそも何の宗派だって仏教なら無神論なんだよ
仏教徒にとっての信仰とは仏に成ることを意味する
「自己がどう仏になるか」が問題であるから、善悪とかあらゆる概念は空で、認識する自己の内にすべて存在する
だから神がどうとか、外に規定された善悪がどうとか、仏教徒にはどうでもいい話
一方でキリスト教などのアブラハムの宗教は、宗派を問わず、一神教の神であって位格(人格)を持つ
キリスト教徒にとっての信仰とは神に跪拝することを意味する
「自己が神の前にどう立つか」が問題であるから、善悪とは自己の外に存在していて、認識する自己の外にある概念をどういう風に関係するのか、が問題となる
ドストエフスキー懐疑の人なんて言われるけど、大前提として「もし神いるならばーー」という外の規範について懐疑しているのだから、仏教には関係ないし、鎌倉時代に変革された極東アジアの独自の大乗仏教ににはまったく関係しない
なんか神を混ぜて政治まで混ぜちゃう何でも屋みたいな仏教も日本にはありけどw 仏教の目的である仏になること、すなわち"無"になることはキリスト教から見て"罪"だと思う
キリスト教の兄弟であるイスラム教が執拗に仏像壊して回る姿はキリスト教の本性なんだよ >>931
偶像崇拝は罪なんだけど、自分が偶像を避けることはもちろんとして、じゃあ偶像崇拝を人がやっている時に見過ごすのか関与するのか、どちらが正しいのかはグレーな部分ですね
懐疑人ドストエフスキーも迷うところだろうねw
無我になれ、というのは一見キリスト教にも見られる感覚と思いがちだけど、仏教の無我とは差異がある
自己の確たる自立が必要となる、と前提しないと、自分自身のように隣人を愛する、という隣人愛が成り立たないように思えるよ
そこには明確な「善」の意識なくしては何も語れないからだろう
大海に落ちた一滴が大海に「なる」のが仏教の無我であって、大海に落ちた一滴が一滴のまま大海と「向き合う」瞬間に同時に自己が存在する(と認識でき得る)
キリスト教において自己(善悪)の放棄は神の放棄と同じだから、それならもちろん仏教的無我は罪だろうね
ムイシュキンが美しい人なのは、自己の放棄が見られる
ただ、彼が神を愛していたため、という理由で神の被造物である人間を愛したのかどうか、は分からない
なぜならムイシュキンは子供をよく可愛がっていた、という箇所があって、これは単純にムイシュキンには自尊心が欠落していたという一点がそうさせたに過ぎないのかもしれない
が、それでもドストエフスキーはムイシュキンをキリストのように書いているので、もっと違う解釈ができるのかもしれないけどね >>929
> どうして西洋ではキリスト教が問題になるのか
問題になってんのか? ほとんどなってねえよなw 死んだ宗教と思われてる。
カラマーゾフ本文にも「もうとっくから死んでいる」と書いてあるわなWW?
だいたいお前からして、キリストなんか信じてねえだろ... w?
> それは、この世と人間を彼らの神が創造したからである
そんなこと、これっぽっちも信じてねえよな?
> ここが仏教と根本的に違うところ
おまえは東大入ったことねえのに、東大はどんなところかわかるか〜〜?
いかなる仏教も1ミリも知らねえし実践したことねえだろう?おい?
それとオンナジだよ! 創価学会ちゅーのは、東大といっしょだ。次元はちがうけどなw
東大はガリ勉しとったらクズでも入れる。ガリガリ亡者で自分の栄達しか考えねえw
おれらはスゲー。もうスゲーとしか言えねえ集まりだwww > 仏はこの世界も人間も作った存在ではないから、人間やこの世界の善悪と何の関係もない
なにをテキトーのこと言ってんだw アホやろ?仏は人間やこの世界の善悪とまっすぐつな
がってんだよ!
てめえはどこの邪宗教のもんだあ〜? まず所属を名乗れやww ハウツー本で読んだ知識を
書くんじゃねーよ。
> ドストエフスキイのテーマもそこにある
> したがって、ドストエフスキイやその作品の理解にとって、仏教など何の関係もなく、ど
うでもよいのだ
ドストエフスキーのことで、なんかまともなカキコしたことあんのか?WWWWW
このスレでドストエフスキーについて最高のカキコしてんのは、俺じゃねーか!!W
まあ、あと「キリストは真理の外にある!キーッ!!」って黄色い声出してるクソガキも、
いちおう、いいカキコする時がたまにある。
コイツは認めとる。ただし、最近はアホになってるWWWWWW 仏罰厳然たり、や。 仏罰などという概念は仏教に存在しません
あっても傲慢な君のために仏が君の味方をするのでしょうか
創価学会はお金を払えば誰でも入れるのかもしれませんが、東大は勉強という犠牲なくしては入れません
あまり人を貶めるような発言は自制しましょう
それに、私は最高おまえは最低、という発言にまったく意味がありません
少しは考えましょう >>925
>主体性をもたず、ただ人間集団の数の力や既成の権威の力に依存し、名前(私という固有性)という責任を持たない匿名に埋没する一般大衆のことです。
→既成の権力に依存する、君らとかおまえらという「ら」で一括りにするのが好き、だってぼく「ら」は集団だもん!
>それは仲間集団と同じであることに喜びを覚え、個人の責任を希釈された集団的無責任(「赤信号みんなで渡れば恐くない」)に安心をおぼえ、反対に出る杭は打ち、他集団への極端な排他性と不寛容さをもつ人々です。
→集団でいると安心する、排他を駆使して不寛容
> 数の力と権威の中にある何者でもない自分自身に陶酔し、自身に対しては何も課さず反省もせず満足し、義務を果たそうともせずただひたすらに権利を主張します。
彼らは自分を疑わず、知的な人間であると思い込み、能天気なほどの平静に生きます。
→何者でもない自分に酔う、権利はOK義務はNGで満足、能天気だけどなぜか知的だと思い込んでいる
> 今ある自分の気楽な生活環境は、自分自身に先天的に与えられた永久不滅のものであると信じて疑わず、他者や先人への感謝もなく、平気でそれを打ち捨てようとします。
→感謝はしないが与えれることが当然だと考える
> 彼らはいわゆる「甘やかされたお坊ちゃん」であり、現代文化の中に生きる野蛮人です。
大衆は責任を放棄し、安逸な思考停止に陥り、やがてそれは全体主義やファシズムを生み出します。
→全体主義は正しいし、ファシズム大好きイズム
さて、誰を思い浮かべるでしょうw 創価の人は創価の中でも浮いてるんじゃないか?
それともカルトの内部では同類が集まって自画自賛を繰り返してるのかな?w まあ創価でもまともな人もいるだろうね
だけど世間でこれだけ疎まれるのはそれなにり理由はあるんだろうけど、彼を見てると分からなくもないw 彼の本質は空っぽだった、まるでレスに一貫性がない
何者にでも成れる彼は何者でなかった
皮肉な事に別の意味で仏教の空が出来ているw
ドストエフスキースレなのでドストエフスキーで語れば、そもそもキリーロフを彼は嫌悪する
だけどドストエフスキーで最も仏教的(ありえない話だがw)なのがキリーロフで、最も非仏教的なゾシマなんだけど、なぜかゾシマばかりに目をやる
キリーロフは自由を求めている人、の代名詞でもある
それは、永遠や不滅の存在が有ろうと無かろうとどっちでもいいが自分は使えない、だって自分は生の中で自由だ、なぜなら神の属性は「我意」だからだと言う
これは、あの世なんてどうでもいいし生きていることは唯我独尊、と言ったシャカを連想しないあたりで彼は空っぽだよ
ゾシマはまるで反対に、永遠の存在とか不滅があるからなぜ使えないでいられよう、という最もキリスト的な考えの代名詞だよ
ゾシマの神の属性は「神」だからだ
散々このスレで悪霊を話題にしておいて、それが気がつかないところが彼の本質だろうと思わせられる
要は好きなところしかみない、嫌いなところはなかったことにする
もしくは彼の宗教はシャカとかどうでもいいくらいに言ってる似非仏教なのかな
創価って縁がまったくなかったから分からんw 勘違いをして読まれているメンバーが多い。追記させて頂きます。
当然ですが、創価学会は成仏をしている人の集まりではありません。
一生成仏と広宣流布を目指している人の集まりです。
いろんな人がいます。そのいろんなひとの代表がぼくです。
関係ないけど、カキコのとき「512バイトを超えています」メッセージが出て投稿しにくいねw?
はやく次スレへ行ってください。それから集中的にカキコします。 平成19年11月6日本部幹部会前日、関西での全国代表者会議での
池田先生自らの毎日の決意表明ということで、発表されました。
決意表明11事項
1.今日も私の生命力を広宣流布に捧げて参ります
2.何が起ころうとも心の平和を乱さぬ強さを持つこと
3.会う人ごとの健康、幸福、希望について語りゆくこと
4.友人に対しては、常にその人にしかない長所がある
ことを感じさせてあげること
5.必ず、全ての明るい面を見て、楽観主義で行くこと
6.常にベストのみを考え、ベストの結果をだす事だけを
考え行動する
7.他人の成功を自分のことのように喜べる自分であること
8.過去の失敗にとらわれず、未来の偉大なる成功を
目指し前進すること
9.他人の失敗を指摘する間もないほど自己の向上に専念すること
10. 何者にも恐れぬ強さを持ち、怒りに対しては忍耐を
持って優しく接していく
11. 困難をチャンスととらえ喜んでいく。ご本尊の大功徳を
生活上で実証が示せるよう我が信心が毎日倍増すること ここは創価学会の建物の廊下ではありません
5chのドストエフスキーのスレです
勝手に何でも貼っていいところではありません
選挙ポスターだって法律で場所は決められています
スレの最低限のルールは守りましょう
こういうやり方は批判を生むばかりです
自分の自由ばかりではなく、他人の自由も尊重しましょう
どうか創価スレに移動して下さい
きっと大作先生も君を見たらそう言うと思いますよ 文学スレッドガイドライン
ここは文学についての話題を扱う、学問カテゴリーの掲示板です。
学問系でない作家や小説については【一般書籍】、自作の小説等については【創作文芸】でお願いします。
また専用の板がある場合、スレ立てはそちらで行ってください。
・重複スレッド(同じ事象・人物に関するスレッド)
・乱立スレッド(内容に変化のない・内容が無意味なスレッド)
・エロ・下品スレッド(過度なエロ・性的煽り・性的妄想・下品ネタ)
・連続投稿、コピー&ペースト(会話の妨害や荒らしが目的の場合)
・差別・蔑視発言や固定ハンドル叩き(特に差別・蔑視発言は重要削除対象)
等の、5ちゃんねる削除ガイドラインに抵触する行為は文学板でも固く禁止します。 disるとかdisらないとかどうでもいいです
ここは文学板のロシア作家ドストエフスキーのスレッドなので、ドストエフスキーの話をする場です
池田先生の決意表明でも何でも、人間革命スレでも立ててやってください
これは俺個人の願望でも意志でもないです
5cのルールです まあ褒めてくれ。褒めてくれ。僕はそれが大好きなんだから
カキコを止めるなどと書いたのは、ちょっと言ってみたまでのことでね
まだ三百回くらいは君らをうんざりさせてあげるよ
愛すべき僕の弟子たちよ、学会員(メッシウ)よ、メルシイ!
創価の道を歩もうではないか! メルシイ、メルシイ、メルシイーっ!
(『悪霊』ドストエフスキー)
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俺は自分のすべてを創価学会にかけてきた。俺より幸福な人生というものは、少ないと思う
創価学会ちゅーのは、お金を払えば誰でも入れる。おれらはスゲー、もうスゲーとしか言えねえ集まりだwww
無信仰で、自分の気ままに生きてる、君たちのような存在とくらべ、人間としての本質において 数段上なのはわかるでしょ?
結局のところ、キミらは僕の弟子みたいなもんで、もう半分以上は 創価学会員といってもいい存在なんだ
キミらに大事なことは、自分より優れた人物。つまりおれのような信仰者に対して、頭を垂れて、一から教えを請うことだ
いつも尊敬してくれてありがとう、メルシイ! 石原さとみ創価高出身。創価に入信すれば上戸彩や石原さとみとヤれる。
どうだ? せっかく日本人に生まれてこれたんだ。いっしょにヤるか?
そんときは俺に電話してこいっ ピョートル「そしたら、カルマジーノフがなんと言ったと思います?
池田先生の教義は本質から言って、廉恥心の否定である
そして公然たる破廉恥の権利こそ、学会員の心を何よりも容易に引き付けるものだとね」
スタヴローギン「それは名言だ! 黄金の言葉だな! まさに図星だ!
破廉恥の権利――そうなれば、みんな公明党に投票して、維新の会には誰も残らなくなる!」
(『悪霊』ドストエフスキー)
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″Позор!(恥知らずに)、第一に大胆たれ、第二に大胆たれ、第三に大胆たれ″と。
こんなカッコイイこと言ってるけど、これをゴーマンに言い切ることがとても大切なんだ。
さあ聖教新聞を買え。真実に目覚めろ。自分を欺き続けるのか? 確信が欲しくないのか? 残すところあと少しだからサービスしようw
いずれこのスレもなくなるから、単純に良心において助言しようと思う
自我が審級に耐えられなくなった時、原則的に人は反動プロセスか退行プロセスを通して守ろうとする傾向がある
退行プロセスについてドストエフスキーでフョードルを描いてみせた
または地下室の主人公でもあり、ドストエフスキーはこの描写にかけては天才的と言える
取りも直さなず、道化を演じるのである
自分は他者の言動には何も咎めれらなかった、なぜならもっと醜悪になれるのだと、むしろ指摘された卑劣さを自覚しながらワザと「退行」して演じるのだ
そして苦痛を快感原則であるかのように演じることで、自我の超自我の審級を「抑圧」して免れようとする
文学ならこれはとても面白い描写と言えるし、読者はこれを勉強する価値さえ見出すことができ得る
だけど現実では良心の呵責の抑圧は危うい
精神が病む可能性が大きすぎるのでやめた方がいい
なぜなら審級というのは時を持たない特性がある、つまり言い換えると年を重ねても消えない
そして最悪なことに人は反芻する精神を持つがゆえに神経を病むことになる
宗教はそれを可能にしてしまう力を持つが、同時に奈落落ちる可能性も比例してしまう
>>947
咎は咎としてその咎を受けた「瞬間」に負わないと、取り返しのつかない、言葉であらわせないくらいに後悔することになるお
とにかくお大事に レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。