ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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いまどきアレフのシンパですか? 宗教ってこわいですねー 信じる必要性がそもそもない
必要になればそのとき必要なものを信じる
お説教失敗? オウム・アレフに関しては
仏教なのにハルマゲドンとか言い出した時点で眉に唾をしないと
インド思想ならせめてカリ・ユガ程度の話で
そういう意味ではオウムのみが好戦的なわけでもない
ドストエフスキーの場合は最終審判や黙示録に基づく抗争を
人間の世界から神の領域に返還したようなところがあるので
ヨブ記が取り上げられるのもそんなところだと思いますね キリスト教は補遺にまわっていって表立った布教活動はしない。
ユダヤの一派であってユダの人生の方がどれだけ自由だだろう。 キリスト教はドストエフに関係なく暦学で信仰を保つ方だよ。 タバコもやめろ酒もやめろ、コーヒーもやめろというわがままが不吉。
食道楽もな。 地下鉄にサリンを撒きなさい
これは神の教えである
そのまま信じなさい
疑うのは信仰心が足らぬからである
神の救済を求めよ! 盗撮のニュース見るたびに思うんだが、
どうして、犯人は、顔撮り姿撮りまでで自重しないんだ・・・?
可愛い子なら、顔のドアップ画像だけで十分抜けるだろ
顔撮るだけなら、スマホのレンズを向けるだけで良いし、
よっぽど不自然な動きしない限り、見つかるわけないから、まず、捕まらない
パンツ撮るとかね、もうアホかと
秘部を映像に収めたい気持ちはわかるけど、リスクが大きく跳ね上がる
まぁ、そういうのは、コレクター欲や支配欲に突き動かされるのかねぇ 「ねえ、トーツキイさん、話によると、日本じゃ恥辱を受けた者が恥辱を与えた者のところへ行って『きさまはおれに恥をかかした、だからおれはきさまの眼の前で腹を切ってみせる』と言うそうじゃありませんか。
そして、ほんとに相手の眼の前で自分の腹を切って、それで実際に仇討ちができたような気分になって、すっかり満足するらしいですがね。世の中には奇妙な性質もあるもんですねえ、トーツキイさん!」 ステパン先生カックイイ
「人間存在の法則は、ことごとく一点に集中されています。ほかでもない、人間にとっては、常に何か無限に偉大なものの前にひざまずくことが必要なのです。人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きていくことができないで、絶望の中に死んでしまうに相違ない。
無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息しているこの微少な一個の遊星と同様に、必要欠くべからざるものなのです。」 激文!!
「「世界中のジャーナリストの命」は、
キリスト教徒12憶人が守る!!
キリスト教徒12憶人の[全情報力]をもって、
「暗殺者」と「権力者」を見つけ出す!!」
「キリスト教会12億人」は、
「勇気あるジャーナリスト」を支持(しじ)する!
「女性ジャーナリスト」が、「無残(むざん)な殺され方」をした!!
「独裁者(むざん)というのは、必ず、「ジャーナリストたち」を、
「最初に」皆殺し(みなごろし)にするものなのだ!!
昔、「中国の毛沢東(もうたくとう)」は、自分に批判的(ひはんてき)な
マスコミの人間を、まっさきに、「全員みな殺(ごろ)し」にした!!
毛沢東は、多くみつもっても「1〜2憶人の中国人」も虐殺した!!
「教養のあるレベルの高い中国人」は、文化大革命(集団リンチ)で、
虐殺(ぎゃくさつ)されたのだ!!
今、生き残っている中国人は、農民出身のレベルのひくい中国人ばかりです。
「女性の人権」を、ふみにじり、「女性の尊厳(そんげん)」を傷つけた!!
「最悪の敵」が、今、あらわれた!!「全人類の敵」とみなす!!
「世界中の若者」(わかもの)たちよ!!立ち上がれ!!
「女性の尊厳」(そんげん)を傷つける「本物の悪魔」があらわれたのだ!!
「キリスト教徒12億人」の力をもって、「権力者」をひきずりおろし、
「必ず」、「神の制裁」(かみのせいさい)をくわえる!!
「世界中のジャーナリスト」は、「キリスト教徒」が守護(しゅご)する!!
今こそ、命をすてて、「権力者」(独裁者)と戦うのだ!!
「男は、「人間の尊厳(そんげん)をふみにじる敵」が、あらわれた時は、
命を捨ててでも、戦わねばならない!!
若者たちよ!!「予言(よげん)されたら戦いの時」がきたのだ!!
ミカエル 十二億人でも救うこと、世界を丸々一つはユダヤの新教典の英雄さだよ。
キリストに接するごとく、だれであれ接することが、次点。 プロテクト ヤ ネック じゃないけど首から上が不審な方が胸がエロい事。 採点を読み込んでくこともいいけど、レスにもナンバー導入したら
いいリアクションになるよ。4 24 特殊公務的相対性の時間と、メータルフィジックス メーディアル。
脂肪と死亡は似てるが第一志望なんてどんな時間の読みなんだろうね。
本校にはいかなかったけど、教会といったら、キリストだけじゃない関係なのに
キリストの立て看板が連発するのも同かな。 ドストエフスキーが文学だなんて昔の話で、いまや、何かになってるから
昔すぎるのもよくないわな。 (I)地獄 地獄の火 神秘的考察
諸師よ、『地獄とはなんぞや』と考察するとき、私は次のごとく解釈する、『すなわち、
もはや愛しあたわざる苦悶である。』時間をもっても、空間をもっても、はかることの
できない無限の世界において、ある一つの精神的存在物は、地上の出現によって『われ
あり、ゆえに、われ愛す』という能力を授けられた。
彼は実行的な「生きた」愛の瞬間を、一度、たった一度だけ与えられた。これがすなわち
地上生活なのである。
それと同時に時間と期限が与えられた。ところが、いかなる結果が生じたか?
この幸福な生物は限りなくとうとい賜物をこばんで、尊重することも愛好することも知らず、
嘲笑の目をもってながめながら、冷淡な態度をじしていた。 >>314
> 「ねえ、トーツキイさん、話によると、日本じゃ恥辱を受けた者が恥辱を与えた者のところへ行って『きさまはおれに恥をかかした、だからおれはきさまの眼の前で腹を切ってみせる』と言うそうじゃありませんか。
> そして、ほんとに相手の眼の前で自分の腹を切って、それで実際に仇討ちができたような気分になって、すっかり満足するらしいですがね。世の中には奇妙な性質もあるもんですねえ、トーツキイさん!」
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白痴、第一編のラストですね。ぼくも、ここが好きでした。 ドストエフスキーの胸中にも、たしかに「日本と日本人の心」のイメージがあったんですね。 根拠もなく断言するだけの観念論者
だからこそ宗教による救済とかいう空虚な話になる ピョートル・ヴェルホーベンスキーの正体はキリスト教過激派、つまりイルミナティー トルストイってドストエフスキーと違って東洋思想が強いですね
この際、懺悔でも読んでみようかな
ドストエフスキーは孔子か、さもなくば仏教徒の教えを知ったらよかったのだ。そうすれば彼は気持ちが安らぎ落ち着いたことだろう。これは大事な点で、みんなこのことを知るべきだ。byトルストイ ドストエフスキーに現代旅行させたい。
共産主義が崩壊し、ネリーのような虐げられた子供が先進国にはほぼいなくなり、神が科学的に否定された現代において。
そのうえでまだ、キリスト教バンザーイと言い続けられるのか見てみたい あの時代のロシアはどういう感じでアジア思想うけてたんだろう
ムソルグスキーも日本の曲ひけたというし >>333
> ドストエフスキーに現代旅行させたい。
おまえの発言はかなり愚かに見えるが、自分ではどうおもう?
> 共産主義が崩壊し、
では資本主義が勝利したのか?日本国民は幸福といえるのか?共産主義は巨大な社会実験である。
ロシアや中国のような偉大な国民だからこそ、できたことである。お上にさからう勇気なき、俗人にあふれかえった、この小国日本ではとうていできなかった。
>ネリーのような虐げられた子供が先進国にはほぼいなくなり、
虐げられた子供だらけだ。なにを言っているか!そして、虐げられた青年壮年老年ばかりだ!!
>神が科学的に否定された現代において。
究極に意味不明だぞ。ならば、ドストエフスキーの時代には「科学的に肯定も否定もされてなかった」のか?
または「科学的に肯定されてた」のか? おまえの言ってる科学的ってどんな?
> そのうえでまだ、キリスト教バンザーイと言い続けられるのか見てみたい
そんな単純じゃないだろ。 このスレのレベルがさいきん急激に落ちたのはなぜだ?
まず第一に「まともに作品を読み込んでいるヤツが消えた」 10代からひじょうに熱中して読まないかぎり
ムリなのか?
> そのうえでまだ、キリスト教バンザーイと言い続けられるのか見てみたい
そうでないと、この程度の感想しか持てないのか?
おれは悲しい。これでは意見交換もできない。 冷戦時代の冗談に"マルクス・エンゲルスによってキリスト教は科学になった"というのがある
古代社会に生じた宗教の神秘主義や意味不明な言い回しを現実的なものへと置き換えるという点において
共産主義の成し遂げた功績は大きい ヨーロッパにおける東洋思想の理解とはショーペンハウアーに代表される
永遠の命とは逆の完全なるニヒリズムを涅槃とする"虚無への信仰"というサタニズムであろう
実際の仏教はもっと掴みどころのない宗教ではあるが、私はこのステレオタイプを気に入っているし、
世俗的な大乗仏教のふざけた姿勢は嫌なので、あえてこの単純明快な原理主義で仏教の核心をとらえている >>337
シャートフの言葉はドストエフスキー自身の言葉だったんだろうね
「もしだれかがわたしに向かって、キリ ストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう。」
ドストエフスキーの信仰とはは感情の話なのでしょう
「おれは生きていたい、だからおれは、たとえ論理に逆らってでも生きるよ。
世の中の秩序なんて信じちゃいないが、春に芽をだすあのねばねばした若葉がおれにはだいじなのさ。
青空がだいじなのさ、いいか、時としてなぜかわからず好きになってしまう、そういう相手がだいじなのさ。それと、人間がなしとげる偉業ってやつもだいじだな。
ひょっとすると自分でももう、とっくの昔に信じることをやめてしまったかもしれないくせに、古い記憶が生きててさ、心のなかじゃあやっぱり尊敬しているんだよ。」 >>339
> ヨーロッパにおける東洋思想の理解とはショーペンハウアーに代表される
> 永遠の命とは逆の完全なるニヒリズムを涅槃とする"虚無への信仰"というサタニズムであろう
> 実際の仏教はもっと掴みどころのない宗教ではあるが、私はこのステレオタイプを気に入っているし、
前段はわからんでもないが、きみは日本人だろう。名誉白人のごとき 言い回しになってないか。
> 世俗的な大乗仏教のふざけた姿勢は嫌なので、あえてこの単純明快な原理主義で仏教の核心をとらえている
「世俗的な大乗仏教」とは、なにをさすの? ふざけた姿勢とは? >>340
「もしだれかがわたしに向かって、キリ ストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう。」
そして次のイヴァンの美しい言葉も、簡単ではあるが、むずかしい問題をはらんでいるね >>338
> 冷戦時代の冗談に"マルクス・エンゲルスによってキリスト教は科学になった"というのがある
すばらしい冗談を教えてくれてありがとう。
> 古代社会に生じた宗教の神秘主義や意味不明な言い回し
といったものには「深い深い意味がある」と思うんだ >意味不明な言い回しには「深い深い意味がある」と思うんだ
いやそういうのは適当なこと言ったもん勝ちになるだけ 過疎ってるから久々に投下してみます
ある数秒間がある、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感されるのだよ。
これは地上のものじゃない。
といって、なにも天上のものだというのじゃなくて、地上の姿のままの人間には耐えきれないという意味なんだ。肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。
これは明晰で、争う余地のない感覚なんだ。ふいに全自然界が実感されて、思わず、『しかり、そは正し』と口をついて出てくる。神は、天地の創造にあたって、その創造の一日が終わるごとに、『しかり、そは正し、そは善し』と言った。
これはおのずからなる喜びなんだね。おお――それはもう愛以上だ!
何より恐ろしいのは、それがすさまじいばかり明晰で、すばらしい喜びであることなんだ。
もし、五秒以上もつづいたら――魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう。
この五秒間にぼくは一つの生を生きるんだ。この五秒間のためになら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。
十秒間もちこたえるためには、肉体的な変化が必要だ。ぼくの考えでは、人間は子供を生むことをやめるに相違ないね。目的が達せられた以上、子供が何になる、発達が何になる? 福音書にも、復活のときには子を生まず、天にある御使たちのごとし、と言われている。
ここまで生を肯定していたキリーロフが、最後は理性を失った無神論者として自殺することが意味がよくわからない、と思いました >>345
> ある数秒間がある、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感される
> 地上の姿のままの人間には耐えきれない
>肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。
> これは明晰で、争う余地のない感覚
> これはおのずからなる喜びなんだね。おお――それはもう愛以上だ!
> もし、五秒以上もつづいたら――魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう。
> この五秒間にぼくは一つの生を生きるんだ。この五秒間のためになら、ぼくの全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。
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悪霊を未読だが、要旨をまとめた。
この感覚を体験してみたいものだな! いや、かならず体得してみせる。 シャブでも吸えばすぐに体感できる
感覚というものは愚かな人間中心主義の空想に甘んじぬ限り、何の意味も持たない >>347
自己矛盾の塊
草すぎて臭すぎ
こっちくんなあっちいけ
>>330
>根拠もなく断言するだけの観念論者
>根拠もなく断言するだけの
>根拠もなく断言するだけの
↓
>>331
>ピョートル・ヴェルホーベンスキーの正体はキリスト教過激派、つまりイルミナティー
>>347
>感覚というものは愚かな人間中心主義の空想に甘んじぬ限り、何の意味も持たない レベル低いなあ
宗教以外に本を読まないからそうなる ピョートル・ヴェルホーベンスキーは社会主義者ではなく、子供のころより信心深いキリスト教徒である
ピョートル・ヴェルホーベンスキーはローマ法王の権威に頼ろうとしていた
世の中に破壊と混乱をもたらすことで神の救済を早めるという考えはメシア思想(フランキズム)に基づくものである
裁判時に聴衆が「秘密結社の仕業ですな!」と冗談でコルナサイン(イルミナティーサイン)をする
以上の理由からピョートル・ヴェルホーベンスキーはキリスト教過激派(イルミナティー)だと分かる
『悪霊』に登場する共産主義者はシガリョフだけであり、彼はマルクスというよりプレハーノフの人物像に近い >>350
コテ付けるなら自分のレスに一貫性を持ちなよ
断言するなと言ってる先から断言するな
そうやってレッテルばっかりまきちらしてると誰も信じなくなるぜ
恥ずかしくないのか?
教皇の権威と創造の前に破壊を望んだからって
なんでキリスト教過激派になるんだ?
自分がまったくないのか君は 私は本に書いてあることを根拠として列挙したまでだ
宗教家が「永久調和の訪れ」とか会話が通じない妄想を述べているのとは違う
宗教ってのは知的に貧しい人間のゴミ捨て場なんだよ
「なにそれ?」「なんで?」と聞かれても答えない、答えられない
意味のない妄想を「そのまま信じなさい」としつこく迫ってくるだけ
権力志向の弱者が無自覚に妄想の中で己の暴力的な正体を発露するのだ 宗教いっぱんで話をしてしまうと、スレが荒れる。
ドストエフスキーの本文にのっとって批判したほうがいい てきとーに知ってることとドスト絡めて憂さ晴らししてるだけだよ たとえそうでも、>>354のやり方が一番穏やかにできる手段だとおもいます
できる限りドストエフスキースレの名目にのるのがいいでしょう
ドストエフスキーだから宗教の話も避けられないというのはその通りなんでしょうけどね ドストの面白さは宗教に絡めなくても語れると思うよ
ドストというか19世紀小説の面白さの背景にキリスト教があるのはそうだと思うけど
程度の問題だ 上記も現実的な問題を宗教に逃避することで万事解決と安易に結論付ける
ドストエフスキーの思想に対する疑問という一連の流れではあった
キリーロフの思想がどうとか思想に関する話も荒れること間違いないし
すぐにカッカする信心深いお方が人それぞれ考え方が違うことを容認しないとね >>358
頭おかしいのか
さっきから真信深い人とか言ってるけど、オレは無宗教だと何回も言ってるんだけど
人を勝手に決めつけるな
レッテルはるな妄想で
不愉快なんだよ
荒れてる原因はおまえだよ
容認してもらいたきゃおまえがまず容認しろ >>336
画太郎先生の功罪じゃないかな?
それだけインパクトあるし、巨匠だし
画太郎先生のおかげでドストエフスキーの距離がグンと近づいたのは間違いない!(^ワ^)
僕はアニメ白箱の影響でスレにいるけどまだドスト読んでないよ
今夜はドスト祭りっスって早く言いたい! >>353
>宗教ってのは知的に貧しい人間のゴミ捨て場なんだよ
>「なにそれ?」「なんで?」と聞かれても答えない、答えられない
>意味のない妄想を「そのまま信じなさい」としつこく迫ってくるだけ
>権力志向の弱者が無自覚に妄想の中で己の暴力的な正体を発露するのだ
まるでニーチェのようなことを仰っているわけですが
そのニーチェが熟読していたのがドストエフスキー作品であり
ドストエフスキーの場合は既存の宗教を単に妄言だ、と否定するのではなく
人間や人間社会の諸事情によって成立する宗教とは別の次元にある
信仰や超越的なものを論じたわけであって
ニーチェのように知性や人格の統一性すら否定す破滅的な方向には向かわない
ドストエフスキーがヨブ記を評価するのはそういう事だと思うんですけどね >現実に根差している宗教とは別の次元にある信仰や超越的なものを論じたわけであって
つまりますます現実遊離した頭おかしい人の寝言ということか(笑)
ヨブ記だって、人生を前向き生きるための気の持ちようとしてのハウツー本として古代人が考えた生活の知恵となる寓話でしょ
しかしドストエフスキーが主張する宗教による救済はファンタジーを信じなさいの類の人を不幸にする危ない宗教だよ >>361
> ドストエフスキーの場合は既存の宗教を単に妄言だ、と否定するのではなく
> 人間や人間社会の諸事情によって成立する宗教とは別の次元にある
> 信仰や超越的なものを論じたわけであって
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ここのところは、大いに納得いかない、というか文意不明。
人間や人間社会の諸事情によって成立する宗教とは別の次元?
「人間や人間社会の諸事情」ってなに?
「既存の宗教を単に妄言だ、と否定」しなかったなどというネガティブなものではなく、まさに「既存の宗教」を信じたし、その未来をも信じていたと思う。
「別の次元にある信仰や超越的なもの」など存在しません。
「人間や人間社会の諸事情によって成立する宗教」そのものが聖性であり、
超越的なものです。
そういう風にとらえるのは、信仰のうすい信力の弱いオニオンのようなものと
同じです。 ドストエフスキーはスラヴ派だったね
現代日本で言えば大東亜聖戦論を展開する日本会議の人みたいなもんかな
素朴で現実的なイエスではなく、超能力を使って偉そうにしてるイエスじゃないと満足できない >>362
聖典に入れられてる時点で寓話ではない
つまり「神は偽り、騙し、試す」可能性があるのが基本 カント哲学でもそうだが、神は必要に応じて道具として用意されるものだ
本気で神とサタンを信じても、それは本末転倒というものだ 反知性主義としての宗教には反吐が出る
ドストエフスキーはドン・キホーテを称賛していたが、
あれのほうがずっと宗教の核心に迫っているな >>364
むしろドストエフスキーは奇跡からの信仰に否定的でしたよ
大審問官で第2の悪魔の誘惑の話は簡単に言えば、奇跡の否定という意味です
彼なりに規制の中で考え出した奇跡信仰の否定の物語ですよ それよりぼくはキリーロフが好きなんです
なぜなんだろうと考えてもよくは分からないけれど
生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。今は苦痛と恐怖ばかりですよ。
いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。
いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。
いまの人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。
生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。
そして、あの神はいなくなる。 物語では対になったりコンビになりますよね
でも大事なことは死ぬという事だと思います
一方は有神的にキリスト者であり、一方は無神的において自分を神としたけれども、どちらも死ぬのです
ドストエフスキーは何が言いたかったのだろう、何て考えてしまいます 神いるいないなんてアホくさい、
というキャラは作らなかったのか 四 ガリラヤのカナ
アリョーシャが庵室の入口までたどりついたのは、僧院の慣わしからいえばもはや非常に遅かった。門番は特別な通路から彼を入れてくれた。もう九時が打った、
――それは、すべての人にとってわずらい多かりし一日の後に訪れた、一般の
休息と安静の時である。
アリョーシャはおずおずと戸を開けて、長老の庵室へ足を入れた。ここにはいま棺が据えられてある。部屋の中には、棺に向かってさびしく福音書を読んでいるパイーシイ神父と、若い見習い僧のポルフィーリイのほか、誰もいなかった。
ポルフィーリイは昨夜の談話と今日の混雑に疲れ果てて、床の上で若々し
い深い眠りを 貪っていた。パイーシイ神父はアリョーシャの入った物音を聞いたけれども、その方を振り向こうともしなかった。
アリョーシャは戸口から右手の隅の方へ曲がって行き、跪いて祈祷を始めた。
彼の胸は一杯になっていたが、妙にぼーっとして、これという まとまった感じは一つとして浮かんで来なかった。それどころか、さまざまな感じが 緩やかによどみない回転をしながら互いに消し合おうとしていた。しかし、心は不思議な甘い感じに浸っていた。 彼は再び目の前にある棺を見た、――四方からことごとく 蔽い尽され
た、いとも貴いなきがらを見た。しかし今朝ほどの泣きたいような、
疼くような、悩ましい 哀隣の情はもはや彼の心になかった。
彼は神聖な物に対するように、入口のすぐそばにある棺の前へ身を投
げ出した。けれど歓喜の情、――歓喜の情が彼の理性と感情をぱっと
照らしだした。
庵室の窓が一つ開け放たれて、 爽やかなすがすがしい空気はしんと静
まり返っていた――『とうとう窓を開けたところを見ると、匂いがい
よいよひどくなったんだな』とアリョーシャは考えた。 彼は静かに祈り始めたが、まもなくその祈りが機械的のものにすぎな
い、ということを自分でも感じた。
思想の断片は彼の心をかすめて、小さな星のように 閃いたが、すぐほ
かのものとかわって消えて行くのであった。
けれどそのかわり、何か心の渇きを癒やすような、完全な、しっかり
したあるものが彼の魂を領していた。
彼は自分でもそれを自覚した。ときおり彼は熱誠を込めて祈り始めた。
何か妙に感謝したいような、愛したいような欲望が込み上げてくる......
けれど祈りを始めても、すぐふいとほかのことに心が移ったり、妙に
考え込んだりして、祈りも、祈りの妨げをするものも、ことごとく忘
れてしまうのであった。 パイーシイ主教の読誦の声に耳を傾け始めたが、疲労しきった体は、
しだいしだいにまどろみに落ちて行く......
「三日めにガリラヤのカナにて婚宴ありしが」 『婚宴? なんだろう......婚宴なんて......』という考えが、旋風の
ようにアリョーシャの頭脳を疾駆した。
『あの女もやはり幸福を得て......饗宴に出かけて行った......なんの、
あの女はナイフなぞ持って行きゃしない、決して持って行くもの
か......あれはただ『哀れな』泣き言にすぎないのだ......そうとも......
哀れな泣き言はぜひゆるしてやらなきゃならない。哀れな泣き言は
心を慰めてくれる......これがなかったら、悲哀は人間にとって、ずい
ぶん苦しいものとなったに相違ない。
ラキーチンは路地へ入ってしまった。ラキーチンが自分の侮辱を考え
ている間は、いつでも露地へ入って行くだろう......ところが本当の道
はどうだ......本当の道は広々として、まっすぐで、明るくて、水晶の
ように澄み渡って、向こうの果てには太陽が輝いている......おや?...
...何を読んでいるのかしら?』 >>371
一粒の麦、
地に落ちて死なずば、
ただ一つにてあらん、
もし死なば、
多くの実を結ぶべし。
(新約聖書ヨハネ伝 第12章)
塩狩峠なんかでもテーマになっているが、
キリスト教ではイエスが人類のために死んだ(?)ように、
自己犠牲か何かで死ぬと後世に影響を残すので偉いそうだ >>379
なるほど、麦の話を忘れていました
キリーロフは確かに自分が新しい人間の最初なので、自分は死ななければならない、とも言っていましたね >>375
――『とうとう窓を開けたところを見ると、匂いがいよいよひどく
なったんだな』とアリョーシャは考えた。
しかし、つい先頃まで不名誉と思われた、腐屍の匂いに関する想念も、今はあの時のような憂悶も 憤懣も呼び起こさなかった。
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(我)なぜ、アリョーシャは「しかし、つい先頃まで不名誉と思われた、腐屍の匂いに関する想念も、今はあの時のような憂悶も 憤懣も呼び起こさなかった。」のか? そもそもアリョーシャは、なぜ「不名誉と思い、憂悶と憤懣」を感じたのか? 「ぶどう酒つきければ母イエスに言いけるは、彼らにぶどう酒なし」
という声がアリョーシャに聞こえた。
『ああそうだ、僕はここを聞き落とした。聞き落としたくなかったん
だがなあ。僕はここのところが大好きだ。これはガリラヤのカナだ、
はじめての奇跡だ......ああ、この奇跡、本当になんという優しい奇跡
だろう。キリストは初めて奇跡を行う時に当たって、人間の悲しみで
なく喜びを訪れた、人間の喜びを助けた......「人間を愛するものは、彼
らの喜びをも愛す......」これは亡くなった長老が絶え間なくいわれたこ
とで、あのお方の主な思想の一つだった......喜びなしに生きて行くこと
はできない、とミーチャは言った......そうだ、ミーチャ......すべて、真実
で美しいものは、いっさいをゆるすという気持ちに充ちている、――こ
れもやはりあのお方のいわれたことだ......』
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(我)この「第四 ガリラヤのカナ」はカラマーゾフ中もっとも美し
く、もっとも示唆に富む箇所だと思います。
その瞬間アリョーシャの心に、なにが起きたのか?そこをいっしょに
追体験していきましょう。 ドストエフスキーはアリョーシャを僧院から出そうと考えていた
しかしここの人はナルチスとゴルトムントならナルチスを選べというだろう >>383
同じくアリョーシャの物語の中でピークだったと思うよ
もっと言えば、その時のアリョーシャ見た夢の箇所はとても感動的で神秘的な物語だったと思う
イエスの最初の奇跡はガリラヤでの祝福だったよね
貧しい者の為に祝福のために水をぶどう酒に変えた、とかだったと思う
アリョーシャはその夢を見て生まれ変わる、みたいな感じだったと思う
忘れている所が多いから読み返さなければ カラマーゾフは読んでいない
白痴、悪霊、罪と罰は手元にある >>387
罪と罰でもラスコリニコフがシベリアで夢を見ますよね
その夢により、彼の中で何かが変わってその変化がラスコリニコフの生活を変えていくだろう、みたいな感じで終わります(たしか)
ドストエフスキーにとって夢とは何かそういう重要な出来事として捉えていたように思えます
カラマーゾフではアリョーシャが夢を見るのですが、やはり夢から覚めると何かが大きく変わる、という物語が書かれています
カラマーゾフの兄弟はおススメですよ
ラスコリニコフの夢とは違ってゾシマに再会するという少し明るい夢ですw これはこれで考えさせられるものはあるのだけれど
全世界が、アジアの奥地からヨーロッパにひろがっていくある恐ろしい、見たことも聞いたこともないような疫病の犠牲になる運命になった。
ごく少数のある選ばれた人々を除いては、全部死ななければならなかった。
それは人体にとりつく微生物で、新しい旋毛虫のようなものだった。しかもこれらの微生物は知恵と意志を与えられた魔性だった。
これにとりつかれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった。しかも感染すると、かつて人々が一度も決して抱いたことがないほどの強烈な自信をもって、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思い込むようになるのである。
自分の判決、自分の理論、自分の道徳上の信念、自分の信仰を、これほど絶対だと信じた人々は、かつてなかった。
全村、全都市、全民族が感染して、狂人になった。すべての人々が不安におののき、互いに相手が理解できず、一人一人が自分だけが真理を知っていると考えて、他の人々を見ては苦しみ、自分の胸を殴りつけ、手をもみしだきながら泣いた。
誰をどう裁いていいのか、わからなかったし、何を悪とし、何を善とするか、意見が一致しなかった。
誰を有罪とし、誰を無罪とするか、わからなかった。 俺も最近は年取ったからか知らないけど性欲が劇的に低下したなぁ。
若い時は常に頭の中エロのことしかなくてムラムラして射精したい気持ちでいっぱいだったけど今はオナニーするにも気が向かない時が多くなった。
可愛い女見たらどんなものか触りたいとかは思うけどエッチしたいとか精子出したいとは思わないんだよな >>390
その点、じいさんになっても性欲旺盛なフョードル・カラマーゾフさんは凄いよな フョードルって真っ先にトランプ思い出すんだけど自分だけじゃないはず 宗教家は性欲の塊
可愛い女見たらどんなものか触りたいとかは思うけどエッチしたいとか精子出したいとか
そんなことばかり考えている韓国人みたいな犯罪者予備軍なのである
主よ、シコり給え、ザーメン✚ >>391
アリョーシャにグルーシェニカと結婚したい気持ちを伝えた際の
「俺はな、この年になってもまだ男でいたいんだよ」(だっけ?)ってセリフはなんか味があったな >>386
>その時のアリョーシャ見た夢の箇所はとても感動的で神秘的な物語だったと思う
これは夢ではないんです。
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アリョーシャは戸口から右手の隅の方へ曲がって行き、跪いて祈祷を始めた。
彼の胸は一杯になっていたが、妙にぼーっとして、これという まとまった感じは一つとして浮かんで来なかった。それどころか、さまざまな感じが 緩やかによどみない回転をしながら互いに消し合おうとしていた。しかし、心は不思議な甘い感じに浸っていた。
彼は静かに祈り始めたが、まもなくその祈りが機械的のものにすぎな
い、ということを自分でも感じた。
思想の断片は彼の心をかすめて、小さな星のように 閃いたが、すぐほ
かのものとかわって消えて行くのであった。
けれどそのかわり、何か心の渇きを癒やすような、完全な、しっかり
したあるものが彼の魂を領していた。
彼は自分でもそれを自覚した。ときおり彼は熱誠を込めて祈り始めた。
何か妙に感謝したいような、愛したいような欲望が込み上げてくる......
けれど祈りを始めても、すぐふいとほかのことに心が移ったり、妙に
考え込んだりして、祈りも、祈りの妨げをするものも、ことごとく忘
れてしまうのであった。
パイーシイ主教の読誦の声に耳を傾け始めたが、疲労しきった体は、
しだいしだいにまどろみに落ちて行く......
「三日めにガリラヤのカナにて婚宴ありしが」
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いろいろのことがあって、疲れきって、彼はまどろみに落ちて行くなかで、
パイーシイ主教の読誦の声だけが、聞こえてくる。
その聖書の言葉をうけていろいろのことを考えた。 「……イエス彼に言いけるは、婦(おんな)よ、なんじとわれとなんの係わりあらんや、わが時はいまだいたらず。その母は僕(しもべ)どもに向かいて、彼がなんじらに命ずるところのことを せよ と言いおけり……」 『せよ……そうだ、喜びを作らなきゃならない。だれか知らんが、貧しい、非常に貧しい人の喜びを作らなきゃならない……それはもう婚礼にぶどう酒がたりないといえば、むろん貧しい人に決まっている…
…歴史家の説によると、ゲネサレ湖の周囲とその付近一体にわたって、想像も及ばないような貧しい部落があったそうだ… …ところで、そこにいたいま一つの偉大な存在、つまりイエスの母の偉大な魂は、そのとき彼が降って来たのも、あながち恐ろしい大功業の為ばかりでない、ということを見抜いたのだ。
自分の貧しい婚礼に愛想よく彼を招いた無知な、とはいえ正直な人々の純朴な罪のない楽しみも、彼の胸に感動を与えられるということを、イエスの母は見抜いたのだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています