ドストエフスキーPart47 [無断転載禁止]
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>>899
>その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、
>いよいよ魂の中に根を張るのです。
>とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。
>そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。
懐疑と自己否定による虚無感が希死願望につながる
というのはADHD(ドストエフスキーもその一人)に顕著な傾向で
こういう人間が「生」に縋りつこうとするのなら
不合理ゆえにわれ信ずという信仰の世界に進むしかない
ただ信じられないので苦しむという悪循環の繰り返しで
これは死ぬまで続く
脳内分泌物質の不足から普通の人間がオートマティスムとして
習慣的に処理できることがどうしても出来ない
それゆえこの欠陥を「〜となるのは何故か?」という原理主義的「思考」で補おうとする
そうやって懐疑によって掘削していっても
大した意味は発見できない(人間的事情による取り決めにすぎない)ので非常に苦しむ
しかし、この種の原理主義的思考の副産物として科学や思想が発達するわけで
もちろん最終的真理などないので心理的に苦しむ人間が後を絶たない
われわれ凡人はそういう苦悩から生じる甘露の一滴を享受する
ひじょうに虫のいい人生を送っているわけです なんか分かる気がしないでもない
なぜなんだと色々な出来事を考えていくと、そこに最後に待ち受けているのは、何もないという事が分かる
だけど何も信じないで生きていけるほど人間は強くできていない
だから何かを信じたくて、不合理とか不条理とかいう根拠はなくてもいいという気になる
だけど根拠がないから最初の懐疑に戻ってしまう
だけどそれでも一つの答えを見つけたよ
信と不信の間に「葛藤」は確かにいつも有ったはずなんだ
意識的にか無意識的にか、なりきれずにも中間は確かに存在したと言えなくはない
ドストエフスキーの思想はまさにこれだと思っています
肯定もできないが否定もできない
曰く、葛藤であり、もしかするとそれは彼にとって苦痛と同義になるのかもしれない >>902
地下室の主人公がドストエフスキーの分身であるというのが本当ならば、その分析はよくできているんだろう
麗しく崇高なるものを持つ人間に立ちはだかる壁とは2かける2が4になるという事
つまり自然の法則のに同意できる、彼のいう習慣的に生きれる真っ当なやり手の人間はこのかけ算に適応できる人間であるということ
だから
(引用)(脳内分泌物質の不足から)
>普通の人間がオートマティスムとして
習慣的に処理できることがどうしても出来ない
それゆえこの欠陥を「〜となるのは何故か?」という原理主義的「思考」で補おうとする
そうやって懐疑によって掘削していっても
大した意味は発見できない(人間的事情による取り決めにすぎない)ので非常に苦しむ
ただ脳内分泌物質の不足かどうかについては、僕は唯物的な医学の知識はないので分からないけど 岩波文庫「2019年〈春〉のリクエスト復刊」34点40冊
スペインの太子 ドン・カルロス シルレル/佐藤 通次 訳
ルーヂン ツルゲーネフ/中村 融 訳
スピノザ 神・人間及び人間の幸福に関する短論文 畠中 尚志 訳
「ルーヂン」にはオニオンそっくりの頭の悪いオヤジが出てくるぞ ドスとカミュ
あとひとり研究したいのにいなかった。
トルストイはキリスト教の説教臭さが無ければ文句無しなんだけどな。 キルケゴールはどうだろうか
ドストエフスキーとカミュと似ている所はある
ただ残念なのは小説がない
ならばシェイクスピアかシラー方が似てるのかもしれない シェイクスピアはちっとも面白くなくてね
なんでこんなやつが評価されてるんだとずっと疑問に思ってたんだが
最近『七人のシェイクスピア』という漫画を読み始めてから楽しめるようになった >>899
>わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われる まで、不信と懐疑の子です。
これは、何をいわんとするか?世紀の子とは? 19世紀はみなが不信と懐疑であったと?とりわけて、自分自身が不信のかたまりであったと?
信じることと不信は、表裏一体だとおもう。19世紀や21世紀など関係がないのではないか。以下は13世紀の日蓮のことばです。
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「我並びに我が弟子、
諸難ありとも、疑う心無くば、
自然(じねん)に仏界にいたるべし。
天の加護無きことを疑わざれ、
現世の安穏ならざることを嘆かざれ。
我が弟子に、朝夕(ちょうせき)教えしかども、
疑いを をこして、皆すてけん。
つたなき者の習いは、
約束せしことを、まことの時は
忘るるなるべし。」
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大聖人は「我が弟子よ!」ではなく「我並びに我が弟子よ!」と自分自身にも
よびかける。
先のドストエフスキーの
>わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽われる まで、不信と懐疑の子です。
にも通じる。
「あなただけが、不信なのではないですよ」
>いわば悪魔と神の戦いだ、そしてその戦場が人
間の心なのだ。
とミーチャは言ったね。人間生命の中に神と悪魔はおることを喝破している。
信と不信の戦いである。約束を守れ。つたなき者(しょーもない者)になってはならぬ。いざ何かあった時に、約束を忘れて、不信して捨ててはならん。
それでは、しあわせになれないからだ。 (略)...どのように努力しても目的に達せぬばかりか、かえって遠のいて行くような気がして
ぞっとする時、そういう時あなたはこつぜんと目的に到達せられる。そして絶えず密かにあなたを導きあなたを愛された神様の奇跡的な力を、自己の上にはっきりと認めつたなき者(しょーもない者)
られますじゃ、ご免なされ、もうこれ以上あなたとお話はできません、待っておる人
がありますでな、さようなら。」
夫人は泣いていた。
「リーズを、リーズを祝福して下さいまし、祝福して!」
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とゾシマ存命中に、全力の指導を受けながら、のちにホフラコーヴァ夫人は、ゾシマの遺骸から腐臭が発したという
報告を受けると
>『わたくしはゾシマ大主教のような立派な
長老から、ああした行為を予想することができませんでした!』
と発言するにいたる。これが、つたなき者(しょーもない者)の姿です。 >>913
>それでは、しあわせになれないからだ。
2、2が4になるような、いわゆる誰もが幸せを目指すというのは実は錯覚で、もしかすると完成を恐れて幸せと同じくらい苦痛と破壊を人間は望んでいるのかもしれませんよ
気まぐれこそ意識ですからね
「人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、生そのもののなかにこそ含まれており、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。」
そして
「有史以来、人間が自分の利益だけから行動したなどという実例があるだろうか?
人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ、いや、そのことを証明する幾百万もの事実をどうしてくれるのだ?
しかも彼らは、だれかれも、何からも強要されてそうしたわけではない。ただ指定された道を行くのだけはごめんだとばかりに、それとは別の困難な、不条理な道を、それこそ暗闇をてさぐりせんばかりにして、強情に、勝手気ままに切りひらいてきたのだ。」
だから
「二二が四というのは鼻持ちならない代物である。
二二が四などというのは、ぼくにいわせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行く手に立ちはだかって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。
二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。」
結局、なにもしないこと、地下室ばんざーい!という事ですね >>915
> 2、2が4になるような、いわゆる誰もが幸せを目指すというのは実は錯覚で、もしかすると完成を恐れて幸せと同じくらい苦痛と破壊を人間は望んでいるのかもしれませんよ
> 気まぐれこそ意識ですからね
>
「しあわせ」「幸福」といった言葉は、底が浅く感じるかもしれない。しかし、以前も引用したゾシマの思想にもあったが
「喜び」「幸福」とは人間にとって究極の価値なんです。そこには両義があって「苦痛や破壊を人間は望む」
という人間本性の別の側面をも止揚していくものではないか。 自分ひとりだけそう思ってればいいんじゃないの?
他人に押し付けないことだね >>917
> 自分ひとりだけそう思ってればいいんじゃないの?
> 他人に押し付けないことだね
誰に対して発言してるの? 「そう思っている」とは? こういうシニカルな発言しかできない
人というのは、取り扱いに困るな。 > 自分ひとりだけそう思ってればいいんじゃないの?
> 他人に押し付けないことだね
-------------------------------------------
この手のバカげた意見を書く人はドストエフスキースレにカキコすべきではない。
討論していく気持ちがないし、真理を追求しようという姿勢もない。 915 さんはとても重要なことを書いてくれた。これに返答するには準備が必要だ。
これは幸福論であり、そしてドストエフスキーの真意は何か、自分自身の思想はどうか?をもっと考えないと。
では、また明日w ていせい。>自分自身の思想 というより
自分自身の「信仰」ですね。自分はなにを頼りに生きていくか?ということですね。 >>916
ドストエフスキーが地下室を書いた時とカラマーゾフ を書いた時では思想に違いがあるからね
地下室の主人公の主張とゾシマの主張、相反する思想があるけどもどちらもドストエフスキーの声に他ならない、という面白さがあると思うのです >>915
> 2、2が4になるような、いわゆる誰もが幸せを目指すというのは実は錯覚で、もしかすると完成を恐れて幸せと同じくらい苦痛と破壊を人間は望んでいるのかもしれませんよ
> 気まぐれこそ意識ですからね
この場合「苦痛と破壊と気まぐれ」が幸福なのか。ほんにんはそれが幸福と思っている。しかし、それは幸福ではない。
> 「人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、生そのもののなかにこそ含まれており、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。」
これはそうだなあ!
> そして
>
> 「有史以来、人間が自分の利益だけから行動したなどという実例があるだろうか?
> 人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ、いや、そのことを証明する幾百万もの事実をどうしてくれるのだ?
> しかも彼らは、だれかれも、何からも強要されてそうしたわけではない。ただ指定された道を行くのだけはごめんだとばかりに、それとは別の困難な、不条理な道を、それこそ暗闇をてさぐりせんばかりにして、強情に、勝手気ままに切りひらいてきたのだ。」
>
なんという素晴らしいことが書いてあるのだ!そしてそれを、こうして見事な文で表現してくれるから、
ドストエフスキーは文豪とよばれるのだ!!
ドストはこんにちの流行作家ではない。ドストは19世紀の人だ。ドストは死んじゃってもういない。それなのに、
いまをときめくAKB や嵐とおなじように、まいにちどっかで語り継がれている。
それはなぜだ?文明に確かな足跡を残したからだ。その点ではニュートンとかエジソンとかといっしょなのだ。
ほかにこんな外国の作家がいるのか?もしいるとしたらシェークスピアぐらいだろう。
たとえばサルトルは、1960年代には世界的に流行した。ノーベル賞も受賞した。こんにち読み語る人はほとんどいない。 >>924
> ここは自演スレなの?
自演スレじゃなくて、彼はおれの味方なのw
文がへたくそで、雑なことも書くけど、きみらより数段深くドストエフスキーを愛読し、
その作品から学ぼうとする情熱をもってることを知っているから、それでおれの味方をしてくれるわけwww >>923
とりあえず気になったら地下室の手記がいいよ
短編で、ドストエフスキーのドストエフスキーしている所がとても濃く出ている
嫌いになるか好きになるか、判別するのに持ってこい 青年時代に書いた「二重人格」と中年になって書いた「地下室の手記」
これふたつともあんま考え変わってないんじゃないかと思った。 やはり死刑宣告を分岐として考えに違いが出てくるのかもしれない
もしくはマリイの死か
地下室の頃に最愛の妻をなくしているね >>924
ここを占拠して変な長文を書き続けている日本語不自由な創価学会員の二人組がいるのよ
自分の意見すべてに服従しない者はドストエフスキースレにカキコすべきではないと言い張り
威張りん坊してるプチ宗教の教祖様たちがね >>932
いつのまにか学会員さんがふたりになったんかっ?wwwwwwwwwww
こりゃーユカイなことになってきたな!w
おまえらクズねらーのイクナイ点はな、「ドストエフスキーを読んで」どう感じたか?自分の生活に即して、どう考えるか?
そういうことを書かないor 書けない点じゃない?
書けないのは、能力がないからじゃないと思う。人にどうおもわれるか?とか、勇気がないからだと思うぜ。 >>915
>「人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、
>生そのもののなかにこそ含まれており、
>目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。」
たとえばアリストテレスが説くように
「幸福」という「目的」があり個人においても人類においても
共通の目的として「幸福」が設定されていて
人類史とは幸福追求の過程であるという考え方がある
ただ、幸福なるものはの正体はよく分からないので
不幸あるいは不快なものの抹消によって幸福へと前進する
という弁証法的解決が提示される
これがドストエフスキーやニーチェだと
生の本質は惨苦であり幸福とはそれに耐え得ない人間が生み出した
虚構に過ぎないという身もふたもない考え方になる
ニーチェの場合は自己欺瞞の破壊に猛進して発狂するが
ドストエフスキーは例えばゾシマのように惨苦もまた恩寵となり得る
として踏みとどまる
惨苦も歓喜に変換する人間精神(まあ一種の倒錯に過ぎないのだが)に
創造性や豊かさを見出し、そこに何者か超越的なものを感じさせる
ここがニーチェとは決定的に違う ……キリストやキリスト教との関係で記述すると多分に比較的解り易くなるよ。
あと例えばV.E.フランクルの著作を読み込んでみるとかね >たとえばアリストテレスが説くように 〜
>人類史とはXX追求の過程であるという考え方がある
これはマルクスが唯物史観の功利主義的な合理性の追求という形で完成させたように見える
――が、人類共通の真理の追及から相対的真理の時代に移行してちゃぶ台返しされた
>ニーチェだと 〜
ニーチェは虚構を虚構と自覚するリアリストでありながら
あえて虚構や自己欺瞞を駆使し、それを知性のコントロール下に置き、
嘘も方便じゃないけど有効活用するというのが彼の能動的ニヒリズムである
宗教は自分で考えることを止めて虚構を本気で信じなさいと説き、それは時に役に立つこともあるが、
嘘を付いた本人(例えばイエス)いなくなったら、頭カラッポな信者の方は運転手不在の車になって暴走する
その意味においてはイスラム教なんか最も宗教らしい宗教と言えるだろう 宗教家が論じた宗教というのはどうしても身内の馴れ合いに終始していてね
霊的な、あるいはそう見なされるような空虚な概念を垂れ流し、最初から議論にならないものさ これは個人的見解である、と断った上でドストエフスキーの思想について解釈してみる
まず、幸福には不幸が、歓喜には苦痛が包括される
つねに極にある概念は同じだけその極にある概念に内包されるという事
そして、幸福にはまず不幸が、不幸には幸福が先行する
その性質とは反対の性質の状態からの変化が必要条件となるという事
ならば人間が生きていく上でどのような意味付け必要とし、この世界をどように見渡すのか
ドストエフスキーは世界を堕落と不正としてまず設定したのではないかと思う
永遠の不正や苦悩を認め、反抗するからこそ、永遠の幸福と歓喜を構築「しなければならない根拠」とした
彼はこの世界を苦痛と残酷の限りとし、それを是正しないために徹底的に反抗する事で幸福を見出そうと試みたのではないだろうか
ただし、
地上から天上を目指すのは神の恩寵とした
こればかりは形而上的神性に頼る他がなかったのかもしれない、彼にとってはキリストだった
一方で、
天上を地上に引きずり下ろす事は人間の神格化という主義思想が存在する、社会主義者たちはそういう意味で無神論者というより反有神論者なんだと思う
ドストエフスキーは前者を選んだ人、というだけにすぎないのかもしれない そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないーーとだけ書けば十分な見解ですな、へっへ! あれだけ捻くれたキャラクター書けるのがすごい才能だな。
他の作家でいる? 罪と罰、ほんと読みやすいな
思わず、身を入れて朗読してしまうほどの名文 >>935
> 生の本質は惨苦であり幸福とはそれに耐え得ない人間が生み出した
> 虚構に過ぎないという
ぼくは主として「罪と罰」と「カラマーゾフの兄弟」しか読んでいません。これらの作品中
どの登場人物に仮託して、なんと語られていますか?この思想について。
> ドストエフスキーは例えばゾシマのように惨苦もまた恩寵となり得る
> として踏みとどまる
> 惨苦も歓喜に変換する人間精神(まあ一種の倒錯に過ぎないのだが)に
前にも同じことを訊きましたが、なぜ「倒錯的」だと考えるのでしょうか?
> 創造性や豊かさを見出し、そこに何者か超越的なものを感じさせる
> ここがニーチェとは決定的に違う 倒錯的だろ歓喜って下品な言い方だけど気持ち良くなったって事だからな >>937
> 宗教は自分で考えることを止めて虚構を本気で信じなさいと説き、それは時に役に立つこともあるが、
> 嘘を付いた本人(例えばイエス)いなくなったら、頭カラッポな信者の方は運転手不在の車になって暴走する
> その意味においてはイスラム教なんか最も宗教らしい宗教と言えるだろう
この考え方はすこぶる通俗的で卑しく感じられるが、じつは大審問官に近くないか?
宗教の教えを虚構ととらえる。これ自体はたとえばキリスト教徒でないならとうぜんといえる。しかし信仰というのは「信じなさい」と説かれるから信じえるものではないということを理解しているのか?
また「嘘を付いた本人(例えばイエス)」と書いているが、各宗派の祖師というものは、あたりまえであるが
「だれよりも深い信仰をもっていた」のだ。
つまり「大審問官」とはオニオン的な卑小な精神が思い描く信仰宗教を詩的に表現したものではないか。
さらに笑止千万なのは、キリスト教にせよイスラム教にせよ仏教にせよ「1ミリたりとも知らず」体験したこともないのに、語っている点である。全世界の笑いものの発言レベルであろう。 地獄とは「愛すべきひとを愛することのできない生命」だ。
愛や尊敬を軽蔑して生き、無為に人生を過ごす生命をさす。
イヴァンカラマーゾフは父親さえ愛せない。母親も愛せない。だから他人を愛せるはずがない。
> 宗教は自分で考えることを止めて虚構を本気で信じなさいと説き、それは時に役に立つこともあるが、
> 嘘を付いた本人(例えばイエス)いなくなったら、頭カラッポな信者の方は運転手不在の車になって暴走する
> その意味においてはイスラム教なんか最も宗教らしい宗教と言えるだろう
だから、だいたい以上と大差ない世界に生きている。そしてわれわれ自身もまた「イヴァンカラマーゾフなのだ!」 > 惨苦も歓喜に変換する人間精神(まあ一種の倒錯に過ぎないのだが)
この考えもまた地獄の思考といえる >>948
おそらくだけど>>935さんは、論理的思考として、苦痛を幸福と概念的に同等に扱い、加えて幸福を一方的な状態とはせずに受容と拒否の間にある調和としようとするようなドストエフスキーの創造性は豊かだ認めているんじゃないだろうか
だけどそういう事を分かった上で、それでも個人的には倒錯的に感じる、ということじゃないかな
苦痛は苦痛でしかなくて不快なものである、というのは普通のことで、歓喜や幸福を苦痛や不幸に同じ価値を認めるというのはなかなか難しい事ではあるからね
例えばこういう考えがあった時、理解は出来ても納得は難しいとさえ思うんだ
この苦痛によって幸福をあがないとる、とはまず自らに課せられた生は苦でしかない事を認める事になる
ニヒリストなら喜んで受け入れるだろうけどw
「人間は幸福のために生まれるのではない。人間は自分の幸福をあがない取るのだ、しかも常に苦痛によって。そこには何の不公平もない。
何故なら、人生を知ること、生活意識(つまり、直接肉体と精神とによって、すなわち生活のプロセス全体によって得る矛盾せる感覚)は、経験、すなわち肯定と否定(pro et contra)によって獲得される。
その肯定と否定とをみずから背負わねばならぬ。」『罪と罰』創作ノート なんというか、君たちの考察は常に浅いというか、井の中の蛙なんだよな
そしてついていけない議論になると誹謗中傷や人格攻撃に終始する
創価学会の信者がどういう人間なのか、君たちがここで体現していることを忘れないようにね 宗教的独断論、あるいは根拠なき信念の告白には「ああそうですか」とスルーしておく
よくUFO番組で自称金星人が宇宙人語で「アバババババ」と訳のわからん真理を授けてくれるが、反論以前に会話にならんからな
つまり適当なこと言ったもん勝ちの唯心論・神秘主義の時点で、議論の前提が間違っているということ さて話を本題に移そう
ドストエフスキーの時代はヘーゲル左派のリアリストとしての唯物論が台頭し、
人間精神の特別さを否定していた最中で、ドストエフスキーとかニーチェはそれに抵抗感を覚えた
(「地下室の手記」は唯物論に反駁する唯心論者の話である。しかし幾ら念じたところで、人間精神は物体を、サイコロひとつ動かしたり奇跡を起こすことはない)
しかし精神論者が崇高なものと捉える幸福や愛とは何か?
それは所詮、感情の高揚とそこから生じる快楽であり、
それはマリファナのような薬物を投与して得られるものと何ら変わりは無いと、唯物論者やフロイトのような人々は言うだろう
ハックスリー「素晴らしい新世界」では、副作用の無い薬物投与によって人々は常に幸福感に満ちた感情で居続ける完璧な世界が描かれている
宗教家が意味の無いことをブツブツと呟いて意味深いことを書いたつもりでも、
それは詐欺師が情に訴えるほどの浅はかさに過ぎない
唯物論vs唯心論という問題、人間が個人的に何かを思うことに何か特別な意味があるのかという問題の核心に触れなければ、ドストエフスキーを読んだとは言えないだろう >>942
キャラはこいーよね
おかげで他の小説が物足りなくなるというデメリットがあるw >>949
> おそらくだけど>>935さんは、論理的思考として、苦痛を幸福と概念的に同等に扱い、加えて幸福を一方的な状態とはせずに受容と拒否の間にある調和としようとするようなドストエフスキーの創造性は豊かだ認めているんじゃないだろうか
935さんが深い教養を持ち、かつまじめに考えていることはわかっている。
「苦悩を突き抜け歓喜に至る」と表現を変える。それが倒錯的であるというのは、
「私たちの現実感覚にあわない」
具体例を出す。(どこが具体例なのか?とオニオンが言うであろう。ぼくにとってはカラマーゾフとは現実だからだ)
ゾシマの腐臭によって多くの人が疑惑におちいった。アリョーシャ自身も苦悩した。その後彼は
カナの婚礼の場面で「なにかを悟り」大歓喜に至った。こうした体験は倒錯的なのか?
ひとりアリョーシャのみではない。わたしたちすべてのものが「苦悩を突き抜け歓喜に至った」体験を持つのでないか?なぜなら苦悩と苦痛は人生の付属品だからです。生きることはそれをば歓喜に変え乗り越えゆくことじゃないですか? >>952
>人間精神は物体を、サイコロひとつ動かしたり奇跡を起こすことはない
ところがぼくは、人間精神は大宇宙を動かすと思っている。きみのドストエフスキー理解はおかしい。
そうでないというなら、カラマーゾフの兄弟第六編ゾシマの遺訓の章節にちくいち反論を加えてみせよ。 >>952
きみはドストエフスキーを読んでいないと思う。おそらく「ああそうか〜〜〜」という感じに斜め読みしてる。
ぼくのように「一行一行精読」してみせよ。 >ID:ghmyeTzK
>ところがぼくは、人間精神は大宇宙を動かすと思っている。
前にも書いたが、きみには常にwhyが無い。自分一人で何となくそう思ってるだけ
オウム真理教の信徒は今でも麻原彰晃が空中浮遊したと本気で信じているが、きみもそう思っているのか?
もちろん今すぐ大宇宙を動かしてくれても構わない。いわゆる「ここがロードス島だ、飛べ!」というやつだ
>カラマーゾフの兄弟第六編ゾシマの遺訓の章節にちくいち反論を加えてみせよ。
では引用してその論点を述べよ
>きみはドストエフスキーを読んでいないと思う。おそらく「ああそうか〜〜〜」という感じに斜め読みしてる。
ひとりでそう願ってればいいんじゃないかな
宗教家に「僕は神様に選ばれた人間なんだと思う」とか言われてもね、「あっそー」としか言いようがない
>ぼくのように「一行一行精読」してみせよ。
一行一行精読した結果どうなの? 思いあがった自意識以外には、なんにもないじゃん。随分と空虚な人間だね >苦悩を突き抜け歓喜に至る
心頭滅却すれば火もまた涼し――そう説教する人たちがいる
ところが「じゃあ早速あんたがやってみてくれよ」とガソリンを持ってくると
蜘蛛の子を散らすように逃げていくんだな、へっへ! >>954
>935さんが深い教養を持ち、かつまじめに考えていることはわかっている。
そっかじゃあ勘違いだったよ、余計な事を言ったようだね
オーウェルのディストピアならばハクスリーの描くディストピアかザミャーチンそれだな
だってフリーセックスがあるもんねw 目の付け所が良いな
ジョージ・オーウェル「1984年」を近いうちに引用しようと考えている
ドストスレでドストを貼っても、それはツァラトゥストラでいうところの「海に塩を投げ込む」ようなことだからな
フリーセックスは自由と反体制の象徴である
しかし宗教は現世の繁栄を否定し、禁欲を説く
ニーチェ「キリスト本人は天衣無縫のアナーキストとして自由主義者だった」 しかし私が教えてばかりではギブ&テイクにならないな
乞食に施しをしてはならないとニーチェも言うからね
――もっと優れた知見を投稿しなさい、私のように! 唯心論と唯物論か。夢幻のごとくにひかるの国は幻術士もいるぞ。
心が映し出す物というところだろうな。物自体はあって、心が物とつながっているんだよ。 「未成年」2回目読んでるけど前回もそうだけど
なんか手紙がすごい重要みたいな感じなんだけど
それが全然ピンと来ないのは私だけかな? フォークナーを買ってみた。
なんか重厚でドロドロした人間関係とかでドスっぽいかなと。 フォークナーとか手が出せずにいる
アメリカ小説は幻想的なイメージという勝手な先入観があるけどどうなんだろう
同じく未成年でそこまで手紙の重要性は気にならなかった
でも、検索してみたら手紙は物語のメインで動かすとても重要な役割らしい
いつか読み返さなければw ドストエフスキーは晩年に少しだけ
平穏な時期があっただけで結構苦しみの
多い人生だと思うけど意外に自殺の
誘惑は受けなかった?
また自殺についてどう思ってたとか文章ある? 自分の人生に自己決定権がある自殺はよくない。他者の多さ他者の圧力から抜けろ。 >>966
スタブローギン?
私は、自分がいっそ自殺すべきである、いやしい虫けらのようにこの地上から自分を掃き
捨てるべきであることを知っている。
しかし私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。
私はそれがまたしても欺瞞であるだろうこと、無限につづく欺瞞の列の最後の欺瞞である
だろうことを知っている。
心の広さを演じてみせるためだけに自己をあざむいてみて何になろう?私の内部には憤怒
と羞恥はけっして存在しえないだろう。したがって、絶望も。
ゾシマ
しかし地上において我とわが身を滅ぼした者は気の毒である。まことに、自殺者は気の毒
である! これより不幸な者はほかにないと私は思う。彼らのために神に祈るのは罪悪であ
ると人はいう。そうして、教会も表面的には彼らを破門するような具合である。けれども
私は心の奥で、彼らのためにも祈ることができると考えている。キリストも決して愛をと
がめて、怒られるわけがないではないか。私は白状するが、こういう人々のために一生
涯、心の中で祈っていた、今でも毎日祈っている。 『作家の日記』の自殺についての章は次の通り
1976年10月 第1章 3二つの自殺 4宣告
1976年12月 第1章 2遅れてやって来た教訓 3根も葉もない断言 4青年についての若干 5自殺について、そして尊大について
少しだけ抜粋すると
私の小文『宣告』は、人間存在の根本的な最高の思想、つまり人間の霊魂不滅の信念の必然性、不可避性について論及している。
「論理的自殺」によって死につつあるこの人間の告白の裏付けとなっているのは、今すぐこの場で次のような結論を出す必要があるということである。
つまり、自分の魂とその不死に対する信仰なしには、人間存在は不自然であり、考えられず、また堪えがたいものだという結論である。
最も優れた観念なしでは、人間も国家も存在することはできない。
ところでこの地上における最も優れた観念はただ一つしかない。
つまり、人間の霊魂の不滅についての観念である。
というのは、人間が生きる拠りどころとなっているすべての残りの「最も優れた」観念は、この一つの観念にのみ源を発するからである。 つづき
私は言明しておく、人類に対する愛は人間の霊魂不滅に対する信仰と共にあるのでなければ、まったく考えられず、理解できず、全く不可能である、と。
不死の観念喪失の場合の自殺は、まったく不可避であり、必然的なものとさえなっており、逆に不死は永遠の生命を約束することによって、それだけ強く人間を地上に結びつける。
自分の不死に対する信念がなかったら、人間と地上のとのつながりは切れ、より細く、腐ってゆく。
そして人生最高の意味の喪失は、疑いもなく自殺を招来する。
不死についての観念、これは生命そのものであり、生きた生であり、生命の決定的な公式であり、人類にとっての真実と正しい意識との主要なる源泉である。
自殺のいろいろな事実を叙述し、ついでこれらの自殺について私がどのように考え、またどのようにそれを説明するつもりなのかとたずねる手紙を非常にたくさん受け取っている。
私はこれらの自殺のすべてに説明を与えようとしているのではないし、そんなことはできない。
しかしそのかわりに、この自殺者たちが、その大部分、全体として、直接間接に、同じ一つの精神の病から、自分たちの魂の中に存在することについての最高理念の欠如からわが身を滅ぼしたのであると、私は確信して疑っていない。 翻訳の都合なのか、あの時代の文章と言うのは実に読みにくいね
スタヴローギンの遺言てのは、『異邦人』の最後同様に、結局開き直っただけのことなのよ
――私は、自分が自殺すべきであること、容赦なく死ぬべきで悪人であることを、まるで他人事のような"一般論"としては分かっている。
しかし私は自殺がこわい、なぜなら良心を示すことを恐れるからだ。
私はそれがまたしても嘘であるだろうこと、無限につづく嘘の列の最後の嘘であるだろうことを知っている。
私には良心が無い。さも良心が欠片でも有るかのように演じてみせるためだけに、自分に嘘をついて何になろう?
私の心には、私がしてきた犯罪の数々に対して怒り、絶望、恥、そして罪悪感はけっして存在しえないだろう。
神がいなければ、すべては許される まったく素晴らしい!
すばらしすぎる引用とタイミングだ。
これを読めばハッキリわかる。「カラマーゾフの兄弟」とは筆者ドストエフスキーの思想をあますところなく、
完全な形で展開しきったものであると。
ですから、「地下生活者の手記」「悪霊」等?をもって、不信仰にしてネガティブな思想をドストエフスキーであるかのごとくとらえてはいけない! >>968
自殺と言われると、ぼくもスタヴローギン(もしくはキリーロフ )を最初に思い浮かべてしまった
不遜ながらスタヴローギンに付け加えさてておくれw
これは自殺についての言及と読んでいる
「私は善悪の別を知りもしないし、感じてもいない男である、たんにその感覚を失ってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ、あるのは一つの偏見だけ。私はすべての偏見から自由になりうるのだが、その自由を手に入れた瞬間、私は破滅する。」 >>969
やはり作家の日記は重要だね
思想の原型がそこには木のように立っている
6巻まで文庫を2万近く払って買ったのだけれど、4巻あたり止まっている自分(T ^ T) >>973
しかし、地獄の中にも傲慢、残忍を押し通したものもいる。否定することのできぬ真理を
確知し、かつ認識したにもかかわらず、サタンとその 倨傲な精神に結合しきった恐ろし
い人間もいる。
こういう人たちにとって地獄は、望むところでもあり、それでもまだものたりないところ
である。彼らはみずから好きでなった受難者である。なぜなれば、彼らは神と生をのろっ
て、おのれ自身をのろったからである。
たとえば砂漠で飢え渇いたものが、自分で自分の体から血を吸い始めるのと同じように、
自分の毒に満ちた倨傲を糧としている。
しかし、永劫に飽満を知らぬ彼らは、赦免を拒み、自分を招いてくれる神を呪うのである。
彼らは生ける神を憎悪の念なしに考えることができぬ。
そうして、生命の神のなからんことを願い、神が自分と自分の創造物を減ぼすことを要求
している。
こうして、永久に瞋恚(しんに)のほむらの中に燃えながら、死と虚無を願うことであろ
う。しかし、その死はとうてい得られないのである...... >>972
プロとコントラとして、否定の部分に飲み込まれてしまうとドストエフスキーは悪魔の書になり得る
ゾシマで姿勢を正すことは正しいと同意するよ
でも他が甘美であることソドム的な誘惑がそこにあるw 確実なことだけ 書き込みます。
>>968
> ゾシマ
> しかし地上において我とわが身を滅ぼした者は気の毒である。まことに、自殺者は気の毒
で始まるゾシマの教えをひとことで表すと「自殺者はかわいそう」ということです。
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自殺者はかわいそうだから、自殺させないようにする。もう自殺したものには回向する。というのが、宗教者です。宗教的発想です。
ところで、悪霊の登場人物は「私は自殺がこわい、なぜなら心の広さを示すことを恐れるからだ。」
あるいは「人神」となるため自殺する?(悪霊当該箇所未読ですので、このスレの引用からの判断w ごめん)
といった複雑さとゾシマのシンプルさと、どちらが真実か?
このように観念を弄ぶことに、なぜなるのか? また
オニオン的ラキーチン的ミウーソフ的考えというのは、観念をもてあそび、哲学的学術的文学的だんぺんを
ひけらかしつつ、信仰に「ペッペッ」とツバをはきつけてまわっている。こうした浅い人物像というのは
その出現した由来は何なのか?
おれはこれは日本人の主流ではないと思う。いな、日本というより、世界のなかでひじょうに孤立した人間だと思う。 ただ、誤解なきよう追加しておきたいのは
オニオン的じんぶつの「態度は確かに卑しい」が「宗教宗派への激しい不信と侮蔑」というのは
ぎゃくに「求めている証左でもある」そして「宗教というのは」ある面「ひじょうに恐ろしいものです」
なにを信じてもいい、なにを信じても同じ」などということは「ぜったいにない」 すまん。みなの衆
もう二度とオニオンのことなぞ書かん。約束する。荒れるからな。
ドストエフスキー本文にそって書いていこう!
オニオンよ。おまえもこのとおり書いていくんだぞ。 ID:od7JfXHy = ID:tgg65jwp
創価学会は勧誘を拒絶されると執拗に人を誹謗中傷するカルト集団です
みなさん気を付けましょう
選挙前に電話がかかってきても公明党には絶対に投票してはいけませんよー!
:P オニオンよ、こう考えたらいいんじゃね?
宗教信仰とは「正しいか正しくないか?」いぜんに
人間にとって必要だからあるんだ。
上の「作家の日記」の引用、それよりカラマーゾフを読んでみろ。 >980吾輩は名無しである2019/02/18(月) 00:05:57.12ID:tgg65jwp
>もう二度とオニオンのことなぞ書かん。約束する。荒れるからな。
創価学会はみずから誓った約束すらすぐに破る、信用できない人たちです
このスレの創価学会員が体現しているのでよく分かります。気を付けましょう
――実存は本質に先立つ >哲学的学術的文学的な深い教養をひけらかしつつ、
>信仰に「ペッペッ」とツバをはきつけてまわっている。
「ぺっぺ」と言えば、ドストエフスキーの小説ではよく出てくるが、
ロシア語版だとどういう表現になっているのだろう?
翻訳者はこういうところでセンスを問われている ちくま文庫の「作家の日記」復刊してくんねーかな。
全6巻だよね?これでも全部じゃないの?
あとは岩波文庫の「妻への手紙」も復刊してほしい。 今日もすばらしい書き込みを授けよう
人生は幸福か、それとも苦痛か? 宗教が繰り返すそれは実に無益な問いであった
幸福は苦痛によって、苦痛は幸福によって、弁証法的に発展し続ける
――人間とは、揺れ動き続ける状態である(『銃夢』) >>985
全6巻であっている
文庫で読む習慣がある自分はこれをネットで買ったのだけれど、廃刊扱いだからネットで買って、中古なのに1冊3000円とかした
ドストエフスキーなんてどれも有名なんだ売れると思うんだから復刊させ欲しいよね まあ、いくらドストエフスキーでも「作家の日記」とかは
よほどのマニアしか読まないよね。
自分的にはなんでも読みたいけど。 全集が普通に売ってるなら「書簡」と「創作ノート」は読みたいけどねえ。
でも古本だと汚いから嫌だ。 古本汚いのは意外と気にならないけれど、たまに蛍光ペン引いてあったりするよね
まーそれはそれで前の人の影が見えて悪いもんじゃないんだけどね
でも本は新品買って大切にしていきたいな
読み返したくなった時がきっとあるだろうから 人間は死を恐れる。それは生を愛するからである。
悪霊から
弁証法が成り立つね 死を恐れることで生に執着し、生に執着することで更に死を恐れるという悪循環
この過程の副産物として死とは何か、生とは何かの定義もまた変化していく(社会的死とか観念的生の概念が生まれる)
だが根源にあるのは宗教的空言ではなく、生物的本能だな
すべての生物は(元々は)自己保存のためだけに生きている 279 名前:名前書くのももったいない[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:01:24.22 ID:???
大阪から鹿児島に引っ越したけど車のマナーの良さが段違いなのに驚き
歩行者が横断歩道にいたら普通に止まってくれる(大阪じゃありえないレベル)
あと大阪みたいに自転車がうじゃうじゃいたりもしない
各店舗の駐車スペースが大阪の倍はあって路駐がほぼない
285 名前:名前書くのももったいない[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 00:58:15.57 ID:???
>>279
大阪に住み慣れてから、他地域行くと、
マナーの良さにびっくりするよな
スーパーの店員のある人は、
クレームが全く無くて、怖いくらいって言ってた
大阪なら、98円のほうれん草を128円の小松菜に間違えただけで、
「どないなってんねん!この店は!」って、散々説教されるし
駐車場に持って行く途中で割れた卵を、
「割れてもたから、変えてくれ」」って平気で言ってくる客も居る
学校の先生やってた人の話によると、給食費を請求しても、
「ワシらは、お前らに食わせろとは言ってない。お前らが勝手に食わせたんや」
と断固として払わない。修学旅行費も、
「お前らが勝手に連れていったんや。ワシらは知らん」と
楽器屋の店員やってた人に聞くと、
大阪では、毎回のように値引き交渉されるのに、東京ではほぼゼロだからびっくり
どうして金を払う立場の、店からすれば神様のような人が、
こっちの言う通りの金額を払ってくれるのか不思議がっていた 「未成年」2回目読んだけど1回目と違ってだいぶ内容が理解できたw
最初はもうゴチャゴチャしすぎてなにやってるのかわかんなかった。
でも不思議な作品、どんな作品か説明できない。 >>990
鉛筆のカキコはニヤリとする
試験用の参考書で最初の数ページしかかやってなかったのを見た時は
他人事ながらショボンとした 埋め
「いちばん大事なのは、自分を愛するように他人を愛するということだ。これがいちばん大事なのだ。これがすべてであって、これよりほかには何も必要でない。」作家の日記より >自分を愛するように他人を愛するということだ
聖書の引用 >>997
そうだね
新約での重要なイエスキリストの戒め んー。。。
神よりの愛の観点も実際とっても大切かと。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。