ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>227
つまりおまえが反日チョンの巣窟ってことw そりゃ朝鮮人だらけの組織じゃあ半島とも利権ずぶずぶだわな
やはり日本の宗教は日本人のためだけにある神道だけで十分
ゴミはゴミ箱へ、反日創価&統一教会は朝鮮半島へ 神道といえば漫画で読む神道みたいな本を読んだなあ
覚えているのは、なんか怒って祠かなんかに閉じこもった神さまがいたり、足の多いカラスが出てきて道案内するとかだった気がする
ぜんぜん違うかもだけどw 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
これどこで読めるんだろう
ネットだと主の祈りの部分くらいしか載っていない
1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
2 ゆえに人は、霊をもってこの本源につかえなければならぬ。
3 万人の生命は聖なる本源を持っている。そしてその本源だけが神聖である。
4 ゆえに人は、万人の生命中に存するこの本源につかえなければならぬ。これは父の意志である。
5 生命の父の意志に対する奉仕は、生命を与える。
6 ゆえに自分一個の意志の満足は生命にとって不必要である。
7 一時の生命は真の生命の糧である。
8 ゆえに、真の生命は時間を超越しているーそれはつねに現在のなかに在る。
9 生命の欺きは、時のなかにある。過去と未来の生命は、人の前に、現在の真の生命を隠蔽する。
10 ゆえに人は、過去と未来の一時的生命の欺きを破却するために、つねに努力しなければならない。
11 真の生命は、万人に共通なる現在の生命であって、愛によって表現されるものである。
12 ゆえに、現在において万人に共通する生命であるところの愛に生きるものこそ、父、本源、および基礎的生命と一致するものである。
やっぱりトルストイは直球というか正道というか、ほんとに宗教者と感じる
ドストエフスキーは宗教者と言われると何かの違和感すら感じる
それでもドストエフスキーの方がなんか惹かれるものがあるんだよね >>229
神道信じてんのかよ?
まいにちパンパン!って手を合わせてるのかよ? >>222
> 人間は死ぬ
> だから精一杯生きよう
> だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
人間は死ぬ → だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
こういう方程式を現実の人間において見たこと感じたこと ありますか?
自殺者はたくさんいるけど、いっぱんてきに普遍的に必然的に「人間は死ぬ」から、人生における努
力そのほかが無意味に感ずる、だからぼくは自殺する―というのはほんとうでしょうか?
> そして同時にあり得る事が言葉の闇でもあり崇高な特性でもある
言語論としてそうですよね。ぼくも2ちゃんカキコのとき「わざと意味的に矛盾・倒置させて、キチ
的にするように努力してる」とはいえそんな小手先だけで「キチを演じるのは甘くないです」が。W
> アリョーシャが、イワンに殺したのはあなたじゃないと言ったのに、イワンは「おまえが殺した」
みたいな解釈を勝手に想像して拗ねてしまうね
あのあたりも本文引用しつつ、いっしょに考えていきたいですねW
> 今話にあがっているドストエフスキー土壌主義がどこまで国家主義と重なっていたか、どういう意
味で国家主義を捉えていたかの明確な判断は難しい、とぼくは思います
> 勉強不足で明確に書いてある箇所がわからないのですw
> もしあったらレスよろしくー
ぼくこそ、カラマーゾフと罪と罰と白痴の一部のみしか読んでなくて、あなたの引用するプーシュキ
ンの演説とか参考になる。
ずーっと体調不良で、レスが遅くなりすいませんでした。もしコンディションよくなったら、まず第
一番にあなたのカキコにレスつけたいとおもってた。 >>231
> 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
> 廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
> これどこで読めるんだろう
国立国会図書館デジタルアーカイブでは? ぼくはぎゃくに紙の書籍が目の関係でダメなんだけど、だから
キンドルや青空でさがすけど。ぼくが少年時代にはたいがいの図書館には(東京ですけど)かならず
中村百葉訳のトルストイ全集がありましたが!
これもたぶんみんなとぎゃくで「新訳のたぐいは受けつけない」古い言い回しじゃないと純文学読んでる気がしないちゅーのもありますW
もともと母親といっしょに読み出した純文学が芥川ほか、明治大正昭和初期のころのが多かった。 > 1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
西洋的な肉体と霊を立て分けるかんがえ。仏法の色心不二の反対か。
> やっぱりトルストイは直球というか正道というか、ほんとに宗教者と感じる
言わんとすること良くわかりますW
> ドストエフスキーは宗教者と言われると何かの違和感すら感じる
> それでもドストエフスキーの方がなんか惹かれるものがあるんだよね
しかし、カラマーゾフ中のゾシマの遺訓は? >>233
いずれ誰もが死ぬと分かった時に自殺まではいかなくても、なんだか生きることが嫌になってしまったり怠惰になってしまうことはあるんじゃないかな
曰く、精神的な自殺とは生の堕落ととも言えると感じる
自分は紙で読みたい派なんです
もちろんまだ幸いなことに目に問題がないから言えるだけなんだけどね ドストスレだけど、トルストイのいう死の先駆について面白い箇所がある
ロシア人が書いたとは思えないくらいとても東洋的
古い東洋の寓話の中に、草原で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。
猛獣から逃れて、旅人は水の涸れた古井戸の中へ逃げ込んだ。
が、彼はその井戸の底に、彼をひとのみにしようと思って大きな口をあけている一ぴきの竜を発見した。
そこでこの不幸な旅人は、怒り狂う猛獣に一命を奪われたくなかったので、外へ這い出ることもできず、
そうかと言って、竜に食われたくもなかったので、底へ降りて行くこともできず、仕方がなくて、中途のすき間に生えている野生の灌木の枝につかまって、そこにかろうじて身を支えた。
が、彼の手は弱って来た。
で彼は、井戸の上下に自分を待っている滅亡に、まもなく身をゆだねなければならないことを感知した。 それでも彼はつかまっていた。
とそこへさらに、黒と白との二ひきの鼠がちょろちょろとやって来て、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲をまわりながらこれをかじりはじめたのである。
もうじき灌木はかみ切られて、彼は竜の口へ落ちてしまうに違いない。旅人はそれを見た。
そして自分の滅亡が避け難いものであるのを知った。
が、しかも彼は、そこへぶら下がっているそのわずかな間に、自分の周囲を見まわして、灌木の葉に蜜のついているのを見いだすと、いきなりそれを舌に受けて、ぴちゃりぴちゃりと嘗めるのである。
──私もまたこの旅人のように、私を牙にかけようと思って待ち構えている死の竜の避け難いことを知りながら、生の小枝に掴まっているのだ。
そして私は、何でそんな苦悩の中へ落ち入ったかを知らないのだ。
私もまたいままで自分を慰めてくれた蜜を嘗めてみる。──が、その蜜はもうこの私を喜ばせてくれない。そして白と黒との二ひきの鼠は、日夜の別なく、私のつかまっている生の小枝をがりがりと齧る。
私はまざまざと竜の姿をまのあたり見ている。
だから蜜ももう私には甘くないのである。
私の見るのはただ一つ、──避け難い竜と鼠だけである、──そして私は彼らから目をそらすことができないのだ。これは決して単なる作り話ではない。
まさしくこれは真実の、論じ合う余地のない、全ての人が知っている真理なのだ。 竜に対する恐怖をまぎらせていた生の喜びといういままでの欺瞞は、もはや私を欺くことができなかった。お前は人生の意義をさとることができないのだ、考えずにただ生きよ、とどれほど自分にいってみても、私はそれをあえてすることができない。
過去においてあまりにも久しくそれをくり返して来たからである。今や私は、たえず私を死の方へ引きずりながら駆けて行く日々夜々を見ずにはいられない。
私はこれのみを見つめている、なぜなら、これのみが唯一の真理で、その他のすべてはみな欺瞞だからである。
他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、二滴の蜜──家族に対する愛と、私が芸術と名づけている著作に対する愛──さえも、もはや私には甘くないのである。
『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、やはり人間である。彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、偽りの中に生きて行くか、さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。
一体なぜ彼らは生きなければならないのか?またこの私は何のために彼らを愛し、いたわり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?
私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、あるいはまた痴呆状態に導くためか?私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。
──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、彼らをこの真理へと導いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!』
トルストイ『懺悔』 >「悪霊」におけるキリーロフの神と民族に関する議論の方がまだマシであって
ドストエフスキーの演説はこれよりも後退しているんだよ
>人間は死ぬ
だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
悪霊のこれらの逸話は多くのひとの心をうっている。恥ずかしながらまだ読んでないんだ!
もし、小手先で考えた思弁なら、これほどの影響があるはずがない。 トルストイ『懺悔』
初めて読ませてもらいました。ディスプレイの横書きの白い文字が黒い背景から
飛び出してくるような感覚を味わった。これは「死の先駆」とよばれているの?
>>238
------------------------------------------------------------------
> 『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、
やはり人間である。彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、
偽りの中に生きて行くか、さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。
> 一体なぜ彼らは生きなければならないのか?またこの私は何のために彼らを愛し、いた
わり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?
> 私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、あるいはまた痴呆状態に導くためか?
私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。
> ──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、彼らをこの真理へと導
いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!』
------------------------------------------------------------------
普通の人々なら「家族がいるから」「友人がいるから」と書くところを
トルストイは欺瞞であると書いた。釈迦が青年時代、親も子も妻も捨てて旅立ったように。
彼は底しれない絶望と惑乱に陥っているように見える。 いま、トルストイにあるのは痛ましい絶望感なのか? この追いつめられたような感覚は
どこから来たのか? 彼は死への恐怖と不安を、
>他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、
二滴の蜜──のひとつである芸術によって表現している。それはギリギリの戦いだった。
そうだ...... 彼はまだ今この瞬間も蜜を嘗めている。
絶望を彼の芸術表現によって極限まで描き、それを現在と未来の読者のために提示するこ
とによって、この踏み絵をふんで、それを通じて「真理」に至れ、というのだ。
ぼくは無根拠につぎのように類推したい── トルストイは「死の恐怖を超えた」と。ま
たは、最後の瞬間に「死が怖くなくなった」はずだと。
人生の最後の瞬間を「臨終」と呼ぶ。「ひとは生きてきたようにしか死ねない」と聞く。
仏法で「臨終正念」と説かれる。「臨終正念」たらんために、長い、膝を屈する修行を送
る。
青年期、壮年期において、凡夫たるぼくらは「死ぬ瞬間の準備のために、今を生きる」な
どかんがえもしない。ところが現にトルストイは、強くこのことに固着している。
痛ましくも「家族への愛」すら欺瞞だと説きつつ。
ここでフッと、ぼくの頭の中に、カラマーゾフ中の ドストエフスキーのあの言葉が浮かん
でくる。 ほかでもない、神は再びヨブを奮起せしめて、再び彼に富を与えたのである。こう
してさらに数多の歳月が流れて、もう彼は新しい別な子供らの親となり、その子供
らを愛することとなった。ところが人は『ああ、なんたることだ! 以前の子供らがい
なくなったのに、以前の子供らが永久に奪い去られたのに、どうして彼はこの新し
い子供らを愛することができたのか? どんなに新しい子供らが可愛く思われるに
もせよ、以前の子供らのことを思いだして、前と同じように十分な幸福を味わい得
るだろうか?』ところが、それが可能なのである。大いに可能なのである。昔の悲し
みは人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな感激に充ちた悦びと変わってゆく。
若い時の湧き立つような血潮のかわりに、つつましく晴ればれとした老年が
訪れるのである。私は日々の日の出を祝福し、私の心は依然として朝日に向かっ
て歌を歌うけれども、しかしどちらかというと、むしろ入日の方を愛する。斜めにさす
夕日の長い光線を愛する。それを眺めているうちに、静かな、つつましい感激に充
ちた追憶や、懐かしい人のおもかげなどが、長い祝福すべき生涯の中から 甦ってくる、
――そうしたすべてのものの上に、人を感激せしめ和解せしめ、かつ一切を許す
神の真理がさし昇るのである! 私の生涯はまさに終わらんとしている、それは自
分でも分かっている。しかし、わずかに残れる日の訪れごとに、私の地上の生活が
既に新しい、限りない、まだ知られない、とはいえ近く訪れるべき生活と、相触れ
んとしているのが感じられる。その生活を予感すると、私の魂は歓喜に震え、知性
は明らかに輝き、感情は喜悦に 咽び泣くのである。......
-----------------------
トルストイの重いコントラと このドストの穏やかなプロは 一体不二ではないか?
表裏ではないか? 重苦しい絶望をくぐり抜けて、はじめてこの境地を得るのでないか?
このふたりのロシヤが生んだ大詩人が希求したところはある一点において共通している。
そうであるから、ふたりとも共通の結果を得るはずだと―― ぼくは考えるのだ。
そして、ドストエフスキーとトルストイに限らない。われわれは誰でも信仰さえあれば
彼らと同じ境地に立てる。それが「どういう信仰なのか?」と疑念に陥りもしよう。 ここでぼくは そのことについて触れない。
「ただ信仰によって」とだけ端的に書く。
トルストイやドストエフスキーのごとく芸術的迫真性で思想や感情や叙事詩について
語れなくてよい。必要なのは「信仰のみ」によって死と絶望を乗り越えた人々のものがたりだ。
最後の最後に勝つひとたちの言葉を聞かなければならない。
追伸。
OSがおかしくなっちまった!直さないといけないが、このレスをつけるほうが大事だ。価値があると
考えて書きました。この青臭い文の底に隠された思いを汲み取ってください。 >>242
トルストイとドストエフスキーの類似と比較がよく分析してあるね
個人的に分析してみるとこうなる
トルストイは死を見つめ、一旦はすべてが嫌になるが、国民と共にある信仰が最後に残される
生に関わるすべてあらゆる物事は相対的になる
それらはあらゆる条件、時代、国家等で変わってしまう
けど彼にとって、信仰するという主観とその信仰されている神の存在は唯一、時間と色々な条件に属すことなく絶対的な非時間性を持っているように思えた
トルストイの信仰には、必要なものが確かにそこにあった
それは死を見つめた時に自覚させられる虚無感と失望
一方でドストエフスキーはこういう
飛び越えるかどうかは知らないけど、無神論者は有神論者の一つ下の段にいると
ある意味で思考に法則なんてものがあるのならば、そこには順序が出来ていて、まるで階段のようになっていて、その階段は死で舗装されていて、もし超えられれば真理みたいなものに辿り着けるのかもしれない
だけどこれは2大作家の場合で、可もなく不可もないような凡人の自分に与えられている段差は何でどのくらいのものなのかはまったくわからないけどねw みんなやっぱりトルストイも読んでるの?
自分は大昔に新潮文庫辺りは全部読んだけど今はもう読まない。
やはりキリスト教的道徳臭がキツくて嫌になる。 第3 イリューシャの埋葬 アリョーシャの弔辞
(要約)
アリョーシャは部屋へはいった。白いひだつきのレエスで飾られた空色のひつぎの中には、
両手を組み合わせ、眼を閉じたイリューシャが横になっていた。その顔はやつれていたが、
死ぬ前とほとんど変わりがなかった。そして、ふしぎなことには、死骸からほとんど臭気
が発しなかった。
顔には厳粛な物思わしげな表情が浮かんで、十文字に組み合された、さながら大理石で刻
んだような手は、ことに美しく見えた。
その手には花が持たせてあった。それに柩の内側も外側も、きょう早朝リーザ・ホフラコ
ワが送って来た花で一面に飾られてあった。そのほかカーチャからも花が贈られていた。 >>246
> やはりキリスト教的道徳臭がキツくて嫌になる。
気持ちはよくわかりますw 裁判官がしぬ瞬間を描いたあの中編を読みました?
道徳として読むのではなく、19世紀当時そして今でも「自分は穏健なキリスト教徒」だと
(知らんけどw)諸外国では そう表明することは常識人・社会人としてとうぜんのこと
と聞きます。
ところがそうした人々(これはもちろんキリスト教批判ではありません。日本でも原理は
いっしょです)がその宗教の教えをどこまで現実のものとして、肉体化?してるでしょう
か?
カラマーゾフ中でアリョーシャの少年時の誓いとして
>聖書にも、『もし 完からんと欲せば、すべての 財宝(たから)を 頒ちて我の後より来
たれ』といってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は「すべて」の代わり
に二ルーブリ出し、「我の後より来たれ」の代わりに、 祈祷式へだけ顔を出すようなこ
とはできない。』
とある。
トルストイには狂信のそしりを受けようとも、全世界全人類へむけてモラルを説く情熱が
あった。
トルストイの欺瞞への怒り、死という絶望を乗り越えたいという叫びは、先の引用を読め
ば明らかなように、腹の底か ら湧いてくるよ うな、魂を引き裂 くよ うな感情であった。
寝不足で文がねじれてるけど、何が言いたいかわかりにくいだろうけど!
それともうひとつ。
宗教と道徳はまったくの別物ですよ。あなたは(わたしは)キリスト教を信じていないか
ら道徳と感じる。宗教というのは「行動」です。「なぜその教えがあるのか?」をつかむ
のは宗派の中に属して皆と行動をともにしなければ、ぜったいに体得できません。 >>245
> 買っちゃえ!新しいのw
Linuxとパソコンが趣味で膨大な時間を取られている。なかなか、こっち来れない。
OS の一部が壊れたくらいでいちいちマシン買ってらんないWWW 修復するの。 >>246
読書として、むしろガッツリ宗教色が強い作家も時たま読みたくなる瞬間があるよ
そういう時にトルストイはもってこいの作家です
だからこそ嫌になる気持ちもわかるけどね
ちなみにトルストイのいう欺瞞の考え方は好き
キリスト教会は迷信と恣意的な欺瞞が入りこんでしまっているけど、その教会なくしてキリスト教そのものは存在しなかったと書いている
歴史は常に前提に重ねて築かれていく
前提がなくなればその後もなかった、みたいな
批判は批判だから正教会とから破門される異端だけどね
天才なんてどこかおかしいからしょうがないんだけどねw
https://jp.rbth.com/arts/2015/02/24/52101 >>250
> 読書として、むしろガッツリ宗教色が強い作家も時たま読みたくなる瞬間があるよ
> そういう時にトルストイはもってこいの作家です
> だからこそ嫌になる気持ちもわかるけどね
戦争と平和はその宗教色が濃くないね。カラマーゾフも宗教色が濃いのに、なぜ嫌にならんのかな? トルストイばアンナカレーニナくらいしか読んでないな
小説自体よりレーニンの読解が面白い >>251
>カラマーゾフも宗教色が濃いのに、なぜ嫌にならんのかな?
先に断りを入れておく
個人の感覚としての抽象と独断でならば説明がつく気がする、だから断定するけどあくまで個人の感想です
トルストイはキリスト論の中で人間論を語っている
だから彼にとって言葉は見出すものではなく守るものになる
言葉と真理はすでに外にあって揺るがす事はなく、その中で人間がどう生きるべきかが最善なのか、を語る
この外にあたるものこそキリストに他ならない
それはすべての人間はーーと言い切れる根拠でもあり、だからその普遍的な語り方に拒否してしまう要因でもあると想定しているよ
まるでお手本見ているような感覚におちいるね
ドストエフスキーは人間論の中でキリスト論を語る
言葉や真理はすでに内にあって、その個人との関係において見出して身につけていくものとした
あくまで持っている本来のものを思い出していくことになるし、だからそのには相反する葛藤が書かれる
人間には神聖な性質がすでに誰もが持っていて、それを思い出すことや見出すこと、その最上にあるのがキリストでありキリストの言葉であるとした
だけど真理は普遍的であるとするが、それは各個人とキリストとの関係において個々のものであるとし、人間は同じところを目指すが手法はバラける、という個の世界観がつよい
キャラクターがみな主人公並みに濃いのも頷ける
受け入れやすさはここにあるのでは?と個人的には思うのです 遊戯王の台詞だったかな
「人は真理を目指して生きるのではなく、人が生きるところに真理は在るのです」 >>253
トルストイについてはじつはほとんど読み込んでいない。だからコメントを避ける。
だが、とても正しく書けていると感じる。ただし、本文の引用がなく、この深夜のアタマでは
理解しづらい部分が多い。その上で印象に残ったのは
> 言葉や真理はすでに内にあって、その個人との関係において見出して身につけていくものとした
> あくまで持っている本来のものを思い出していくことになるし、だからそのには相反する葛藤が書かれる
> 人間には神聖な性質がすでに誰もが持っていて、それを思い出すことや見出すこと
この部分であり、日蓮の「観心本尊抄」の「末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずる人は人界に仏界を具足する故なり」という言葉だ。
「言葉や真理」「神聖な性質」という語句を「仏界」置き換えればだ。 さくらという 極限に美しき 薄紅色のあの花びらが
醜くゴツゴツとした あの桜の木の なかに備わっていると誰が信ずるのか?
しかし、縁に触れてたしかに出生(しゅっしょう)するのだと。
それと同じことだ―― と日蓮は仏界の生命が我らあさましき凡夫の生命のなかに
内在することを教えた。
当時の人々は、釈迦や仏という極限に清らかにして力強き生命に、われわれなどがなれるはずがないと
理解していた。 ぼくも初めて読んだトルストイはアンナカレーニナだ
とはいえ その良さを理解できなかったし途中まででやめた
翻訳のせいもあろうし、なにより「自分の人生経験が足りないからか」とも感じる。
だいぶんたって、戦争と平和を、ついに最初の読みづらい貴族の夜会のところを突破すると
... それはたいへんな読書体験であった!(しかし半分以下でやめたw )
文学であろうが、映画であろうが、「偉大な作品と目されているもの」について、「こんなもの!」とか
言うのはたいへんバカげている。これだけはアドバイスできる。
古典というか「時代を超えて、地域文化を超えて継承されてる文化遺産というのは、とてつもない」ものだけです。
さあ、寝る予定時間をおおはばに超えた。脳が壊死ww おやすみ! パリの大聖堂が赤赤と燃えた
燃えるはずなき石造の
典雅を極めた建築が灰燼となった
それはなぜだ?
キリスト教は邪宗だからだ! フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
池田大作先生が極楽浄土から仏罰を下したのでしょう
公明党に仇なすすべての国々に呪いあれー! >>259
> フランスでは創価学会はカルト認定されてますからね
きみの言うとおりだ。フランスは大謗法国家である。仏罰であることはまちがいない。
世界広しといえど我らの健気な同志をいじめ抜いたのはフランス国だけだ。
初めて意見があったなw おやすみ 法華経を信ずるものをバカにしイジメたものには
恐ろしい罰がある
このことだけは教えておかないといけない
冗談でふざけて仲良しでウソでイジメただけで
心の中では仲良しだったとする
それでも、とてつもない罰がある バフチンか
いずれ手を出そうと思ってた本だ
思い出しついでに本屋に行ったら気にしよう ノートルダム大聖堂を破壊した仏罰こそ法蓮華経であり、僕ら創価学会の信仰の力によるものです。
したがって法蓮華経とは破壊であり、あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
ゾシマ長老の生まれ変わりである池田先生は、あの世で「永遠の命」を得て森羅万象を創造し、
その代弁者である僕もまた神仏に等しい存在なのです。
ドストエフスキーも晩年はキリストを見限り、日蓮大聖人の弟子になったと思います。 神がいないならば、僕がかみである、であるならドスト読書として分からなくもないが
いつから君は無神論者になったのだいw 神がいないのではありません。神と合一するのです。
マイスター・エックハルトをご存知でしょうか?
自己を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
(要約)
最初に認識すべきは、権力が集団を前提とすることだ。
個人が個人であることを止めたとき、はじめて権力は生じる。
君は《自由は隷従なり》という党のスローガンを知っているだろう。
この逆も言えると考えたことはないかね? つまり《隷従は自由なり》ということだ。 (続き)
ひとりでいる――つまり自由でいる、このとき人は必ず打ち負かされる。
それは必然というべきだろう。人は寿命か何かで死ぬ運命にあり、死は敗北の中でも致命的な敗北だからね。
しかし組織や集団に対する無条件の完全なる服従ができれば、自己とアイデンティティーを完全に脱却することができれば、
すなわち自分=池田大作になるまで創価学会そのものになれれば、その人物は全能で不死の存在、つまり永遠の命となる。
無数にいるクローン人間のような学会員のひとりとなれば、その中の一部に過ぎない肉体が死んだとしても、他の肉体が生きていれば自分が生きているに等しいからだ。 繰り返しますが、ゾシマ長老の生まれ変わりである池田大作先生が死ぬことなどありえません。
池田先生は神と合一し、キリストとなり、「永遠の命」を得たのです。
創価学会をカルト認定するフランスの邪教寺院には仏罰が下り、日蓮は仏界の道理を示しました。
創価学会は全世界に信者を持ち、特段に多い国のひとつが韓国です。
韓国人が公明党を裏切った安倍晋三の靖国神社を放火したのは、色心不二の表れに過ぎません。
法蓮華経とは破壊であり、あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
何を根拠にこれを断言するのかという問いに対しては、「ただ信仰によって」とだけ端的に答えておきましょう。
では!
――あなたの、明日を、新しく 生まれ変わりの意味は?
「俺は悟空の生まれ変わり」とかあるのか? >>270
自由と罪のイデアについて反論するつもりでいたけどやめとく
エックハルトとの引用とか、ビックブラザーとか読んでいて面白いとおもったからw
だけどテオーシスから政治も話につなげるのは無理があるきがするよ
合一によってもし自己自身から逃れることが出来て、個我の放棄が出来るならば、人の不幸に寛容になるのが必然だと思うよ
だって個我の喪失には国籍も党派もないはずだから
弁証法的に寛容とは綜合という意味が含まれなければならない
そういう意味で彼らのアイデンティティが燃えてしまったことは嘆かわしい事だと思います >>265
> ノートルダム大聖堂を破壊した仏罰こそ法蓮華経であり、僕ら創価学会の信仰の力によるものです。
常識で考えなさいよw ノートルダム大聖堂を破壊したのは単なる火事でしょ?それと法蓮華経ってなんだ?
「妙法蓮華経」でしょ。創価学会のひとたちが、 ノートルダム大聖堂なんか相手にすると思う?
あれは観光地であり、清水寺みたいなもんでしょ?
地域の「幸福責任者」であり「先駆者」であるのがわたしたち。
いつでも、どこでも、誰でも、
目の前に苦しんでいる人がいれば、
親身に声を掛ける。
悩みを聞き、共に泣き、
共に祈り、共に喜び合う。
この「一人を大切にする」
人間主義の行動が、
あらゆる人に
無条件に開かれているところに、
創価学会が
世界に広がった理由があるのだ。
「一対一」の粘り強い対話で
勝ち得た信頼は、
何ものにも揺るがない。(池田大作先生 四季の励まし 2018年3月25日) >>265
>あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
仏法とは希望の異名です
> ゾシマ長老の生まれ変わりである池田先生は、あの世で「永遠の命」を得て森羅万象を創造し、
お前は「生まれ変わり」ということに執着してるが、そんな証明もできないたわごとをホザクのは
邪教・幸福の科学かなんかの信者だろう? いくら口真似だけしてもダメなんだ。
ぼくはイヴァンで、おまえはスメルジャコフだWWW
お前の最後は自殺か発狂だ。これは定まっている、これはまちがいないWWWW
> その代弁者である僕もまた神仏に等しい存在なのです。
代弁者もなにもない。仏とは学会員のことであり、おれは仏だ。
> ドストエフスキーも晩年はキリストを見限り、日蓮大聖人の弟子になったと思います。
たぶんドストは大聖人を知らなかっただろうね。
もし知っていたとしても、それを受け入れる下地は彼にはなかった。だが、彼の偉大さは変わらない。
このことはおいおい証明していくよ。 日本がひどい目にあったとしたらそれは仏罰?
結局負けたら宗教も負けるのか >>275
いやそれは違う。勝てなくても負けないことが仏法正義の証明だ。
負けて負けて... それでも自分に打ち勝つ。
東日本大震災で命を失ったとしても、正義の心はだれにも破壊できないと、池田先生は
仰せだよ!
仏罰はなんのためにあるのですか? 懲らしめて苦しめるためではない。
親が子を鞭打つのと同じです。励まし鍛え、強くするためです。
過去世・現在世の悪業を叩き出し、こんぜにおいて仏の境涯を獲得するためです。
先生はゾシマ長老の生まれ変わり? ゾシマは小説中の登場人物。先生は実在の大衆指導者。
先生は凡夫です。われわれ創価学会員もひとり残らず凡夫です。凡夫のままに偉大な人生を歩みたいと
願った。さいしょはそんなこと「偉大な人生」など考えもしない。ある日、ふと気づく。
これしかありえない!創価学会の人生しかありえない!ほんとうに良かった。幸福であった!
いまも幸福ですと。 ID:vOnRUWr8は創価学会の末席を汚す出来損ないですが、
池田先生はこのような面汚しの舎弟にも門徒を開き、創価の光を照らし続けています。
日蓮大聖人の教えは三千世界の仏敵を粉砕し、勝利に次ぐ勝利を重ね、
反抗する者は自殺か発狂へと追い込み、魂をその罪から救済しているのです。
東日本大震災では「我亡き後に洪水よ来たれ」と驕る俗人に仏罰を与え、我欲を洗い流し、民衆に個我を放棄させ、
すべてを失い真っ白に清められた脳髄に大作先生のマントラ(真言)をたっぷりと注入し、多くの人々を仏道へと導きました。
大事なことなのでもう一度だけ書きましょう。
個を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
(要約)
ぼくらに仏罰を下された異端者は、苦痛のあまり悲鳴を上げ、意気阻喪し、卑しむべき姿に成り果てる。
そして遂にはすっかりと悔い改め、自分自身の意志を失い、自発的に創価学会に救いを求めてくる。
それこそが僕らが池田先生と共に掲げる『人間革命』なのだ。
勝利に次ぐ勝利、布教に次ぐ布教。限りなくどんどん動員をかけて公明党を議席を増やすのだ。
どんな未来が待っているのか、君もようやく分かりかけてきたようだな。
しかし創価学会の本質を理解するだけに甘んじてはならない。君は最後にはそれを受け入れ、歓迎し、その一部になるのだ! >>277
> ID:vOnRUWr8は創価学会の末席を汚す出来損ないですが、
見抜いてるねWW スメルジャコフの言うとおりぼくは創価のできそこないだW だがひとたび
言論戦に打って出たときは、この地上のいかなる大天才にも負けることはない。それが創価の宿命だからだ。
> 池田先生はこのような面汚しの舎弟にも門徒を開き、創価の光を照らし続けています。
> 日蓮大聖人の教えは三千世界の仏敵を粉砕し、勝利に次ぐ勝利を重ね、
>
> 反抗する者は自殺か発狂へと追い込み、魂をその罪から救済しているのです。
=================================================================================
ここまではおおむねあっている。ここまで読んだかぎりではきみはあるいは学会員かも知れないと感じる。
> 東日本大震災では「我亡き後に洪水よ来たれ」と驕る俗人に仏罰を与え、我欲を洗い流し、民衆に個我を放棄させ、
> すべてを失い真っ白に清められた脳髄に大作先生のマントラ(真言)をたっぷりと注入し、多くの人々を仏道へと導きました。
だが「マントラ」だの不気味な用語をつかうし、やはり邪宗の回し者とわかる。
=================================================================================
> 個を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。
「永遠の命」を得るかは知らんが、ある重要な真理をついてるね。そしてこのことは「宗教の本質」の一部でもあると思う。 >>278
> 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
読んだよ。うーむ。。。どうやらきみは「求めている者」らしいな。
ほんとうは学会に入りたいんだね? だが、懐疑に打ち勝てない。このまま一生それを続けるのかっ?
疑ったままでいいから やってみたらどうだ?? 青年らしく!
君のせいで創価スレになっちゃってるじゃねーかっ!! ここはドストスレだぞ?わかってんのかっ?
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW いいか?勘違いすんなよ
自殺だの、発狂だの書いたのは、おまえが哀れだからだ!
真実に目覚めろ。自分を欺き続けるのか? 確信が欲しくないのか? 誰だかが言っていた、バフチンのドストエフスキーの詩学を今日本屋でたのんできた
待ち遠しいが、文庫で1600円は高いよー 一八四七年に社会主義者といえば、一方では、さまざまな宗教的体系の信奉者たち、
すなわちイギリスのオーエン派、フランスのフーリエ派をさしていたが、このどちらも、すでに死滅しつつあった。
他方では、社会主義者とは、種々雑多な《ヤブ医者》のことであって、不幸をもたらす現実の原因を変革せずに、
上から目線の美辞麗句と得体の知れぬ言葉遊びの説教および精神論によって世の中を救済すると称していた連中であった。
『空想から科学へ』 F.エンゲルス 世の中に不幸な人がいないとき、人々を救済すべく使命を担った宗教は存在意義を失います。
逆に創価学会が世界に羽ばたき、勢力を拡大するには何が必要でしょうか? それは救済を必要とする哀れな人々です。
救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人たちに仏罰を与え、
自殺か発狂へと追い込み、自発的に神仏に救いを求めるように導かなくてはなりません。
ゆえに全ての仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
既存のアイデンティティーを完全に破壊し、綺麗真っ白に「リセット」してこそ、僕らは仏道の慈悲を与えることができ、
「日蓮大聖人の教え」以外に善悪の基準を持たない「完全なる信仰」へと至ることができるのではないでしょうか!
これは「キリスト教が目指す理想」にも通じる話であり、池田大作先生が「永遠の命」を得たことの何よりもの証明となります。
=================================================================================
チホン神父「完全な無神論者は、完全な信仰に至る最後の階段に立っています」(『悪霊』) 初めての痴漢は中二の時ですね
電車で遊びに行った時、すごく混んでて身動き取れなくて触られた
そんなことが自分の身に降りかかるなんて考えたこともなかったから固まってました
このときはお尻を触られたくらいだった
この頃から男性不信気味になった(そんなにひどいわけじゃない)
2回めは高一の時
電車通学でお尻を触られました
10分くらいずっと触られて、怖くて固まって泣きそうになりました
3回めは2回めの一週間後くらいで、また通学時です
後ろから押されて、目の前にいたイケメンサラリーマンにくっついたままになってたら、腰を撫でられ、スカートの中に手が入ってきたと思ったら、お尻を撫でられたり揉まれたりした
イケメンなのにこんなことするの!?って怖くて怖くてどうすることもできなかったです
とりあえずここまで。 >>285
ずいぶんがんばってキッチリ説明してるじゃないかっ
> 世の中に不幸な人がいないとき、人々を救済すべく使命を担った宗教は存在意義を失います。
> 逆に創価学会が世界に羽ばたき、勢力を拡大するには何が必要でしょうか? それは救済を必要とする哀れな人々です。
> 救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人たちに仏罰を与え、
9割がた いい事が書いてあるね。しかしここで はたと膝を打つ。一大疑問が沸き起こったからだ。
>救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人
とは
誰のことだ? そういうひとはいるのかね? たとえばトルストイは大貴族の家に生まれ、
人類の教師として在世中から世界的名声を博した。それなのに、信仰と救いを求めたのはなぜだ?
>救済を必要としていない、現世に十分満足している不埒な俗人
というものが実在していたとしても、それは人生における瞬間的なものじゃないか? >俗人たちに仏罰を与え、
自殺か発狂へと追い込み、自発的に神仏に救いを求めるように導かなくてはなりません。
=================================================================================
われわれは仏罰など与えない。与えるのは仏であり御本尊です。自殺か発狂へと追い込むのではなく、
君らは自然にそうなる。理由は法華経を信じず、法華経を信ずるものを誹謗するからです。
いまぼくが書いていることは、ふつうの学会員さんは「ぜったいに言わない」なぜか?
君ら哀れな無信仰者や邪宗のメンバーを救うのが、われわれの目的だからです。そして現実問題として
学会に入信して幸福となる。あるいは幸福への確かな羅針盤を得る。入会させるためには「地獄へおちる」
といったたぐいのことを言って「はい、わかりましたっ」っていいます?君のようによけい反発するだけでしょ?
ここは2ちゃんです。リアルの人間関係ではない。だから「本当のことを、己心のありのままを」書くのだ。
ぼくは究極的には、このやり方がいちばんあなたの生命に刺さると信じてそうしてるのだ。 >>285
あとは、略す。君は学会批判などして なんの得になるのかね?
自分自身が「どんな信仰、どんな理想」持つか開陳したらどうかね? そう、われわれは仏罰など与えません。
僕らはただ「自殺しろ、発狂しろ」と願い、「そうあれかし」と他人の不幸を御本尊に祈るだけです。
御本尊は創価学会に歯向かい、維新の会に投票した者や哀れな異端者に呪いをかけ、
彼らは苦痛のあまり悲鳴を上げ、意気阻喪し、卑しむべき姿に成り果てる。
それこそが僕らが池田先生と共に掲げる『人間革命』なのです。
故に法華経とは呪いであり、あらゆる仏道は「他人の不幸は蜜の味」にも通じています。
そして無信者は遂にすっかりと悔い改め、自分自身の意志を失い、自発的に創価学会に救いを求めてくる。
しかし彼らを呪い、苦しめ、地獄に落とすのはあくまで仏道に救済するためなのです。
=================================================================================
もしこの書き込みを無信者による「遠回しな嫌味」だと解釈するのであれば、それは不信の表れです。
確信が欲しくないのですか? 信ずることがたいせつなんです。ある立脚点に立つことが。
政局であれば「どんな場合も公明党が正しい」という立脚点です。
僕は池田先生に「殺せ」と一言命じられれば、誰であろうと迷わずに殺る。
絶対的幸福とは、そういうことなのではないでしょうか? 幸福とは無知な認識である、とするならばその通りだね
よく頭がお花畑なんてバカにするけど、時にお花畑の人生なんてとても本人は幸福だろうと思う
と、書いていて思い出した言葉は、無知は力なりだったw
Big brother is watching you ! オブライエンびいきで読めばピカレスク小説の傑作ですな 傑作は置いといて、風刺文学をよんでいて面白いと思った感情に似たものがあるw 日本全体が経済破綻などにあって、日本全体が仏罰を受けたとしたらどうなる?
戦前は廃仏毀釈運動があって仏教排斥してたからそれが仏教隆盛のきっかけになった
でも次起きたらどうなる?
全ての宗派が仏罰を受けたことになるのかな 人間は神すらも人間にしたてあげてしまった
理解できない存在は不安とおそれをまねくからね
罰もまた同じくそうする
この不幸な出来事が果たして何なのか、偶然なのか、運命なのか、罰なのか、もしくは恵なのか
罰と理解しようとすることはできても、それが罰だったと理解することはできないよね
だって分からないのだから >>294
>>295
ひじょうに重要な問をありがとう。 >日本全体が経済破綻などにあって、日本全体が仏罰を受けたとしたらどうなる?
自分が仏罰を受けた場合:
「これは神様が私たちに与えてくださった試練です。神様は乗り越えられる試練しか与えません!!」
他人が仏罰を受けた場合:
「不信者&異教徒ざまあwwwメシウマwwwww天罰だぁーーーーwwwwwwwwwww」
これが宗教者の心理です。その本質は自分に対する節度の無い甘さにあります。 人間は理解できない存在を神に仕立て上げて納得しようとする
理解できない存在は不安とおそれをまねくからね
大昔は災害が部族の死活問題だったので、それを生贄の儀式でそれを防ごうとした
(ドストエフスキーの『悪霊』にもその議論が少し出てきます)
みんな"神"という共通の単語を用いるが、実際には各々が最も強い関心を持ってるものを
勝手に神と呼ぶので、神に対する論争はまるで前提からして話がかみ合わないと相場は決まっている
歴史学・宗教学の基本 ドスの影響で人生変わった?
それ以外でも文学によってそんな体験したひと多いのかな?
自分はどうなんだろ?意識してないレベルで影響受けてるのかな? >>299
本は自己を写す鏡である、と仮説したらどうだろうか
本来理解できる事は既に知っている事だけになる
先にも言ったけど、理解しようとする事と理解できるという事は質的差異がまったく違う
何が違うのかと問えば、意志の介在の有無がある
よく磨かれた鏡がある、そしてその反対に合わせ鏡が置いてある
鏡に写った人間が何に驚くのか、共感するのか、悲しむのか、嫌悪するのか、喜ぶのかを見ている
見ている者とは自己であり、見られてる者とは自己自身であるならば、自己自身が何を思うのか本によって確かめられることになる、そして合わせ鏡とは措定する第三者になる
これが本ということになる
本を読むことで他人の声が紛れこむ
そこには理解しようとする第三者の意志が入りこみ、その第三者を理解しようとする自己自身の意志が見えてくる
この私が何を思うのかではなくて、この私自身が何を思っているのかをこの私が眺めることが出来る、と言える
自らの意志を1人で眺めることが読書とも言える
その過程を、影響を受けたとか変わった、と呼んでもいいと思うよ
実際ぼくもそうだしw
そしてドストエフスキーは個々のキャラが強いから、誰か1人くらいは共感するヤツがいるよねw >>300
>そこには理解しようとする第三者の意志が入りこみ、
➡︎
そこには自分の理解をこえた第三者の意志が入り込み、
でした 俺の魂の中で、もはや俺の全存在を凌駕してしまったある状況に対する恐ろしい思慕の念が強まっていった。他でもない、それは俺の心をとらえた、この世界の中どこでもすべてはどうでもいいのだという確信であった。
ずっと以前にそのことは予感していたのだが、それが去年突然に完全な確認となって現れたのだ。俺は突然、世界が存在しようがしまいが、どこに何もなかろうが、そんなことは俺にとってはどれもみなどうでもいいことなんだ、と感じたのだ。
俺は自分の存在をもって、俺には何一つなかったということを知り、感じ始めたのだ。
おかしな男の夢の部分で、自殺前の人間の描写と書かれている
キリーロフ の自殺前と似ているね
それにしてもバフチンのドストエフスキーの詩学を読んでるんだけど思ったより難しい… >>295
汎神論において、おそらくみんなが神とよんでいる神は同じですよ
太古の人の災害も、勝利の女神なんてのも、現代人にとっての宇宙や太陽だって同じ
災害が神なのではない、手に負えないような必然性や自然の法則を神と呼んでるにすぎない、と思うのです
ぼくのいう理解できない神を人間にしたてあげてしまった神、というのは人格を持つ神のことを言っています
神を神人ではなく人神にしてしまった、という意味です
イワンが肯定的にも否定的にも決着できなかった、善悪と裁きと救いを与える神、という意味ですね >>302
俺の魂の中で、もはや俺の全存在を凌駕してしまったある状況に対する恐ろしい思慕の念が強まっていった。他でもない、それは俺の心をとらえた、この世界の中どこでもすべてはどうでもいいのだという確信であった。
ずっと以前にそのことは予感していたのだが、それが去年突然に完全な確認となって現れたのだ。俺は突然、世界が存在しようがしまいが、どこに何もなかろうが、そんなことは俺にとってはどれもみなどうでもいいことなんだ、と感じたのだ。
俺は自分の存在をもって、俺には何一つなかったということを知り、感じ始めたのだ。
=================================================================================
またまた、またしても! きみは美しい引用文で俺を誘う。俺は歓喜する。青春の感覚だけが
体験の一瞬を切り取るのか? ふつふつとライヴァル心が湧く。「よし、俺ならもっと美しい詩を
引いてくるぞ」と。 キリーロフの人神論て、食欲や生存本能・死の恐怖などに囚われなければ
自分の心は自分で決めることができ、したがって自分の心の神は自分であるて話だよね? 人間は所詮は猿の進化系として猿の動物的本能の名残を基礎として
仲間を大事にするだとか、逆に潜在的にメスを奪う身近なイケメンに対する敵意だとかそういう心理が働くんだけど、
そういった煩悩から自由になると、善悪の基準とか、何かに対する意欲を白紙から心の中だけで作ることはできないんだよね
その辺はマルクスとか唯物論の方がきっちり説明できていると思うけど、
ドストは何故か宗教が無ければ駄目なんだみたいな結論に無理矢理に至る >>303
艦コレでも犬でも猫でもいいけど
人間はなんでも擬人化してしまうものよ >>304
> 俺の魂の中で、... 略
以下の引用ですが、ぼくもこうした感覚を体験したことがあるような気がする。完全に同じではないような気はするが。 俺は疲れているわけではなかつた
そんなことは皆どうでもよいのだつた
ただある壮大なものがしづかに傾いているのであつた
戦争中、戦争を謳歌してた連中が、速攻「民主主義の宣教師」になった。
それでいいんだ! おまえたち庶民はマルクス主義の世になればマルクス主義になびき
維新の世になれば維新になびく。それだけのことなんだ。 正しくないから公明党は負けたのだよ
つまり驕る創価学会に仏罰が下った >>310
> 正しくないから公明党は負けたのだよ
> つまり驕る創価学会に仏罰が下った
素直なもの
優しいもの
誠実なもの
穏やかな愛
そして愛と死
それが僕の好きなものなんです!!
ですから、究極的には、創価も公明も維新もどうでもいいのだと
正しい正しくないではないんです
僕の好きな僕のたいせつなひとたち。先生。同志。あるいはネット上で出会うひとかけらの善意
でも、僕にとっては大切なものなんです。
南無妙法蓮華経とは、この世界と宇宙へのぼくのラヴレターです。 >>305
そうです、生の本質とは苦痛とみなしたキリーロフです
「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。今は苦痛と恐怖ばかりですよ。
いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。
いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。
いまの人間はまだ人間じゃない。
幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。
苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる。」
その時人間は自由になるといったキリーロフです
「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です。」
だから自殺するキリーロフです
「最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。
その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神です。」
自殺しないためにも、自分自身を神のように頼るのは危ういことなのかもしれません
曰く、それこそ自己自身の絶望です 都合が悪くなると話をすり替えるのが日蓮大聖人の教えなんですね 思うんだが初期キリスト教とか創価も
信者は敬虔で悪さしないようにしてて
一部の人間が暴動や極端な行為をやるようにして
その責任を悪さしないやつになすりつける、みたいな感じで成り立ってたんじゃないだろうか そうなのかもしれないね
そしてほとんどの集団がそういう一面を持っている 人神とか背伸びして大袈裟な言い回しするから混乱しがちだけどさ、
自分の気の持ちようというあまりに小さな話なんだよな
唯心論的にはそれが天地創造の神と繋がるんだろうけど 意外と知られてないけど病院の手術
病気の程度の大小に関係なく、手術患者の手術着の下は全裸だからな
全身麻酔なり局部麻酔なりを打って手術スタートすると、呼吸確保なりなんなりでまず胸元丸出しにさせられるならな
高確率で尿道に管を通されるので下半身も丸出しにさせられる
手術室には多くのスタッフがいて、手術する先生や助手は必死かもしれんが、筆記記録するだけのスタッフもいる
それと動画撮影もされている
記録という意味もあるが万が一のトラブルが起きた時の証拠としても残す必要がある
まとめると、長時間に渡って全裸を大勢にガン見され、映像も残されているのです キリーロフもイワンもラスコリニコフも反抗だったんだと思う
人は関係から逃れられない
最初の人間から最後の人間まで、自分と係る関係は存在したしこれからもそれは続く
人は他者に与えられる部分と自分が持っている部分の均衡で平安を保ち、それが傾けば不安におちいる
ではその他者とは何なのか
イワンもキリーロフも知っていたのだろう
絶対的な他者とは地上には存在しない
地上にあるものを基礎にするならばすべてが相対的になる
ならば神か
しかし反抗する、まるで親に癇癪を起こす子供のように
キルケゴールの言葉を借りれば、
「永遠者へと自己を結びあわせるべきであることを意識していながら、この永遠者が本来の自己を恵み与えてくれるかどうか不確実であること、
このような不確実なものとのかかわりのために現実の自己を否定しなければならないということに腹を立てて、反抗的に自我を固執し、
自我を絶対視してその上に傲慢に居直るのである。
ここで、自我の殻への自己閉鎖性は絶頂に達する。」
曰く、強い絶望ですね
ドストエフスキーはこの反対に、絶望的自我に閉じこもらなかったものも書き出している
それは、アリョーシャ、ゾシマ、そして何より売春婦という環境にありながらもそう在り続けたソーニャ
ただ最後に疑問があります
なぜ絶望から抜け出す方法をしっていながら、反抗という絶望を、イワンもキリーロフも留まることを選んだのだろうか?
この辺はまだ読みが甘いようですw 「反抗」とは「決してひざまずかない」こと
現実に対して、この世界に対して、この世界を作った神に対して
革命は、暴力に行き着き、権力を求める
反抗は、平和的であり、反権力である
ただ、決して現実をこの世界を受け入れない
カミュは、こういう「反抗的人間」の代表としてイワン・カラマーゾフを上げて詳しく分析している >>314
> 一部の人間が暴動や極端な行為をやるようにして
> その責任を悪さしないやつになすりつける、みたいな感じで成り立ってたんじゃないだろうか
創価学会の場合、具体的にそんなことがあったのか? まったく具体例があげられていなくて、
自分にとっては意味不明。 >>315
> そうなのかもしれないね
> そしてほとんどの集団がそういう一面を持っている
これもまったく意味不明。しつれいながら。具体例を摘示して書いてないから。 >>321
> 「反抗」とは「決してひざまずかない」こと
> 現実に対して、この世界に対して、この世界を作った神に対して
> 革命は、暴力に行き着き、権力を求める
革命とは→暴力であり権力である
という方程式を既定のものという偏見の枠組みがきみの脳髄に出来上がっている。そうではないんだ。
ぜったい平和だ。だれひとり犠牲にせず、幸福の連帯を築き上げるのが、われら創価学会である。
これを人間革命という。
> 反抗は、平和的であり、反権力である
> ただ、決して現実をこの世界を受け入れない
> カミュは、こういう「反抗的人間」の代表としてイワン・カラマーゾフを上げて詳しく分析している
個人主義的な考えが強すぎ。イワンが現実世界において善をなさない、そのゆえんたるべきか。 創価学会はもうあきらめろ
お前は完全に論破されたんだ >>323
彼が言ってるのは単純に権力者への批判ということでないかな
どの団体も、末端にいる人たちはただ自分が善く生きることに目指していて、宗教なら自分の信仰を強めること、政治団体なら票の獲得に協力するとか、そしてまず第一に従うことに専念する
歴史的に、異教徒に戦争をする決定も政治的な革命も、決定できる権力者が決定している(というより末端には出来る権限がない)し、そもそも宗教も政治も歴史とは権力者争いの記録でしかない
学会の組織についてはまったくしらないけど、キリスト教の歴史については多少は具体例をあげられるよ
キリスト教による異教徒弾圧として、もっとも有名なのは、歴史上、中世ヨーロッパの十字軍の遠征がある
表向きは聖地エルサレムのイスラム諸国からの奪還であるが、実態は西方・東方同士のキリスト教に対する権力争いであり、自らの勢力を拡大しようという政治的な野望である
キリスト教徒による「正義の戦い」という大義名分は、指導者の「政治的野心」を神聖化するための方便として用いられ、虐殺の命令は末端つまり民衆によって行われる、云々
これもその一面にはならないかな
>>314
>信者は敬虔で悪さしないようにしてて
>一部の人間が暴動や極端な行為をやるようにして
>その責任を悪さしないやつになすりつける、みたいな感じで成り立ってたんじゃないだろうか >>324
少し違う立場で話をするよ、あなたとは歴史がある
だから批判ではなく、個人的な意見を偽りなく伝えた、と受けてほしい
もし君がその信仰のために、他にも生活や人との関係のために、創価学会が大切ならばその通りにいくのも悪いことだとは思わない
それでも一つ言いたいのは、ドストエフスキー読者としての個人的な意見だけど、宗教と政治は相入れることはないという考えは結構大事なことになる
積極的に信仰につくなら、出来るだけ政治的な行いには消極的になるべきだと思うよ
おそらく組織に属しする以上は課されている義務があって、現実的には難しいんだろうけど
宗教とは、無限性なるもの、永遠という時間のないもの、形而上的な天上を目指すことが本質になる
政治とは、どれだけ現実的で物質的か、それだけ現実化できるかの形而下の地上で実現可能な行為の見える形で実現することが本質となっている
もしそうならハッキリと言えることがある
宗教の反対語は政治なのだと
だけど個人的な考えだから、反論がわくのも当たり前だろうけど、こういえば少しは伝わるじゃないかな
曰く、大審問官は政治的でありキリストはどこまでも宗教的であったと
そしてこれは大審問官のテーゼの一部でもある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています