ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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嘆かわしいことだけどそういうことになるね
あまりに高い存在は相手の暗部を曝け出して、それそのものをその本人に突きつけてしまう
だから躓く、まるでキリストを前に躓いた人たちのように >>ハーイ!マイ、ペンフレンズ
> スタヴローギンもロリレイプの自己嫌悪で自殺した
> チホン神父の対応がよくなかったのだろう
スタヴローギンとチホン神父。読んでいない。だからゾシマとイヴァンに置き換えて考えてみる。
対応が良くなかったから自殺― イヴァンはゾシマの教えを、そのまま受け入れようとしたか?
> ラスコリニコフはソーニャに叱られて罪の意識がスカっとしたようだが >>498
気になった点を。
> マルメラードフが自己嫌悪で自殺したのも
マルメラードフが自殺? カラマーゾフの兄弟とくらべ、ほとんど再読してないが。
> むしろソーニャが怒らなかったからじゃないか?
> かみさんに殴られるのが快感とか言ってたが
> 殴られて開き直る方が気が楽だっただろうね >>499
>マルメラードフもラスコリニコフも母も、ソーニャの献身性や、ただ黙って見て何も言わない沈黙性、何よりこどものような「目」が怖かったんだろう
本文に、ドストエフスキー自身により、そう解説されているんだろう。しかし、なにも予備知識がない
ひとが聞いて、
>献身性や、ただ黙って見て何も言わない沈黙性、何よりこどものような「目」が
なぜ?「怖い」のか? それは解せないだろう。 >>499
> 2000年前の人たちがキリストにつまずいたあの躓きがそこにある、と考えているよ
> つけたせばキルケゴールのいう、暗い可能性、もそこにある
それぞれ、「つまずき」「暗い可能性」というのは、なんなの? >>500
> ソーニャは自己に対する信仰の躓きを、すなわち自己不信をもたらす存在だったということか
> 自己犠牲というより自己否定がキリスト教の本質だな
「自己否定がキリスト教の本質だな」という部分が理解できない。補足してほしい。 さいきん、ひじょうにレベルが向上している。
本来的なドストエフスキースレ。このレベルなら、まったく2ちゃん民ではない、ドストエフスキー愛好者をも、吸引するだけのものがある。 創価学会の荒らしが書き込まなければ良いスレなのにな 「自己否定がキリスト教の本質だな」
というのは、深い意味があるんだろ? ま、いいや...
取るに足らないやつだと、わかったし。 ほかのメンバーに聞きたい。「自己否定がキリスト教の本質 」とは
もう少し解説を加えると、どうなるんだ? たとえばゾシマの教説をなどを引用して
説明してくれたまえ。 自分でも、ゾシマの説教のところとか、再読したときに
「自己否定がキリスト教の本質」的なことが、書いてあるか、注意しとくw
ただ、おれはちがうと思う... w
といのうは、その言葉の含む一般的意味では、まったくまちがっていないが、
とくにキミらには、君らの場合には「ちがうんだ」 創価学会とは何か
創価学会とは君自身だ。
いつかわかる日が来る。
キリスト教も、我らに無関係ではけっしてない。
この世に、われわれと無関係のものなどひとつもない。
>>512
で、「その言葉の含む一般的意味では、まったくまちがっていないが」うんぬんについて。
説明する。
ウィトゲンシュタインは「言葉と現実は一対一で対応していない」という結論に達したという。
若き日に主著を書いたときはその逆を論証していたそうだ。(読んだことない)
戦争と小学校教師を体験して、まったく逆の結論に達したというのだ。
「自己否定がキリスト教の本質だな」はそのまま「自己肯定がキリスト教の本質だ」とも言えるのだ。
各各の教えというものは、とつぜん真逆たりうる。だからこそ、そのひと、その場合、個別に
教えは説かれる。
だからおれは、いつも「カラマーゾフ本文では、どこに該当しますか?引用してください」といったことを
聞くんだ。
文豪の筆致によって、個別具体性の影を、そこに見出すからだ。
ドストエフスキー作品を読む最大の効用は、そこだと感じた。哲学的観念的思弁は、役立つようでいて、
じっさいには「なにも言っていないのと同じになる」 たとえば、ぼくが見本を示したように
>>486
> 苦しみながらもやはり微笑を浮かべて
> =================================================================================
>
> 苦しむのは、肉体を捨てて、この地上を去るからです。
> 微笑を浮かべているのは、弟子たちに、周囲のものたちに、信仰の偉大さと、永遠の生命への確信と、
> 自分の人生が最高であったことの歓喜を示すためです。
といったように、カラマーゾフの兄弟のこの箇所を「引用し」つぎに「どう感じたか?」書くのだ。
もちろん、テキストをみんなが持ってないかもしれない。そこはなんとかしてくれ。おれもなんとかした。
ネットがあるから どうにかできるはずだ。 ヨブ記の時点、つまり旧約の神に対しても自己否定だよ
キリスト教だけではなくユダヤ教やイスラム教でも
神と信徒との間にはこの関係がつきまとう
ここで重要なことは自分を神への供物として捧げる(自己犠牲=献身)ではなく
神の被造物に過ぎない自分が元の持ち主のもとに返還される(自己否定)
といった具合に再規定され、不合理な運命やそこから派生する苦痛や恐怖が
宗教的法悦に一転すること
このあたりは仏教も変わらないのだけど
キリスト教(や旧約の派生宗教)の場合は絶対者と「私」が直接向き合って
「私」という人格の崩壊に愉楽がともなう事とかなあ
はっきりいって狂気なんですけどね
でもこれもまた一種の救いですね まーた迷惑老人が独り言をブツブツと連投してスレ流ししてる
君は他人が仲良く議論してると嫉妬やっかみで荒らさずにはいられない性分のようだな
創価学会に閉じこもってろ このスレッドレベルがガタ落ちだな。そもそもお前ら大卒なのか?
「自己否定がキリスト教の本質」に至っては全く何も分っていないとしか言いようがない。
>>507
いい気になってんじゃねーよ。馬鹿が!
まあ所詮は便所の落書きだな。
小学生の作文、読書感想文じゃないのだから学問的な掘り下げも出来るのなら頼むよ。
お前等には無理か? >>505
アブラハムはモリヤの山で、老年にしても授かった愛する子イサクを神の命で捧げることになる
アブラハムは子を憎んでいたのではない
子を愛していたからそれが殺意と区別がつかなくなるほどの愛がそにはあり、相手を滅ぼしてしまうほどの「暗い可能性」がその裏に潜むことになる
自分自身のように愛することに私は尻込みする、とラカンはいったが、同じくぼくたちもここで「躓く」
神人は賤しい姿をとり、時間の中で愛し、そしてその生命さえも犠牲にされた
しかしその神人さえも愛の暗い可能性とつまずきを不可能にはできなかった
そこに人間の最大の悲惨も同時にあるが、自分自身のように愛することの意味をこれを取り去ってしまっては語り得ない
その愛のわざが人間にはかえって逆のものになり、より悲惨なものになり得るかもしれないという可能性がそこにはある
この暗い可能性、人間がつまずいて、そのつまずきの中に留まることを罪とした
だからイエスキリストはいう「私につまずかないものはさいわいである(マタイ11)」と、そしてその先は言わない
人間は最大の矛盾をはらんでいる、自分自身のように愛することで自分自身とその相手さえほろばしてしまう可能性が同時にまとわりついてくる
つまずきと暗い可能性とはそういうものです
書けば書くほど駄作の論文ができそうな勢いで、とてもレスでは説明しきれません
死に至る病と旧約のアブラハムの聖句、もう少し踏み込むならばフロイトも同じことを性を交えていっているので参照をオススメします 創価学会は西洋哲学などの教養がないから全く話についてこれない
他の人は互いにある程度知っていること前提に話を進めている
ただそれだけのこと だいたい読んでないドストエフスキーの著作にまで知ったかぶりだけで口を挟むなよ
よく読んでからレスをしろ >>515
それはもう狂気にうつりますね
否定は自己に関わる最大の敵ですもんね
しかしそれがなければ宗教そのものの意味を失いかねない
ぼくが思うにラスコリニコフは老婆とリザヴェータを殺したのではなく、神を殺したんです
でもそれはイアゴーが、眠りを殺した、といった意味ではないでしょう
イアゴーは少なからず神と向き合っていた狂気があるが、ラスコリニコフは、私が殺した、ということが認知できていなように思えます
私が殺した、という意識と、私は殺していない、という意識と無意識の差異に自己同一性を失い立っていられなくなっている
無意識とは、見たくないものを避けて通っているというわけではなく、すでに知っていることを知らないままにしておく、ということです
彼の無意識化で知っているがふせているもの顕示、それがソーニャの存在でしょうね
だからソーニャに殺人を告白する時初めて殺したリーザを思い出す
そして自分の言葉がまったく同じに他者から語られる時、ラスコリニコフは選択を迫られる
自殺か自首か、です >>515
> 神の被造物に過ぎない自分が元の持ち主のもとに返還される(自己否定)
「カラマーゾフの兄弟」本文が想起され、わかりやすかった。
> 「私」という人格の崩壊に愉楽がともなう事とかなあ
「私」という人格の崩壊?
> はっきりいって狂気なんですけどね
> でもこれもまた一種の救いですね
狂気と推測される信仰をあなた自身は持っているのか?あなた自身はこうした信仰を持っているの?
それとも知識として客観的に書いているだけなの? >>518
まずいつも、最大限の誠実さでレスをつけてくれることに感謝する。
> アブラハムはモリヤの山で、老年にしても授かった愛する子イサクを神の命で捧げるこ
とになる> アブラハムは子を憎んでいたのではない
ここまでは、よく解りました。
> 子を愛していたからそれが殺意と区別がつかなくなるほどの愛がそこにはあり、相手を滅ぼしてしまうほどの「暗い可能性」がその裏に潜むことになる
というものを、未だかって見たことも聞いたことも体験したこともない。
それを「愛」と名付けるのか?
>「相手を滅ぼしてしまうほどの「暗い可能性」」
>自分自身のように愛することに私は尻込みする、とラカンはいった
なんとなく、わかってきた。
そのようにラカン兄さんというひとが 言ったんだね?
その「暗い可能性」というのはゾシマやカラマーゾフに、出てこないようだね。
>同じくぼくたちもここで「躓く」
つまずいたら、そのつまずいた大地に手をついて、おのが体を持ち上げて、何度でも再起せよ。
人間に暗い衝動があることは、もちろん認める。
南無妙法蓮華経の信心で、師弟不二の信心ですべて乗り越えていけると確信せよ。 > 神人は賤しい姿をとり、時間の中で愛し、そしてその生命さえも犠牲にされた
> しかしその神人さえも愛の暗い可能性とつまずきを不可能にはできなかった
略
> つまずきと暗い可能性とはそういうものです
> 書けば書くほど駄作の論文ができそうな勢いで、
とんでもない。あなたの回答は、誠実かつ論理的一貫性があり、よくわかった。
「 つまずきと暗い可能性」について。
ときどき聞くクリスチャンの「躓き」という独特な言い回しをかんぺきにつかんだ。
その上であなたならできるから、頼みます。以上の思想や問題意識が、カラマーゾフや、
他のドスト作品本文においてどの箇所にあるのか引用してほしいです。 >>515
ぼくはあなたに対していつもキツイ。ID:aBSF2lbJ さんに対しては甘い口調でしゃべる。
だからといって、あなたを軽視してるということではない。ぼくはむしろ貴方こそほんとうは信仰について
深い憧憬を持っていると予測しています。 Fラン文系の大学でも占い師のチラシの裏を論文とはいわんだろう(創価大学では知らんが)
○×は△ですと個人的な信念の表明では学会は成り立たないのだよ >>523
カラマーゾフにおいてはゾシマの訪問者が一番その可能性が出ているよ
ゾシマの言葉は隣人愛が根本にある
その暗い可能性が、訪問者の現在の自己自身を崩壊させる
他は例えばイワンもまた同じ可能性がある
アリョーシャの、あなたは殺していない、という言葉がイワンの、オレは殺していない、という言葉と重なったときにイワンの自己自身は崩壊する
自己自身は自己の中で現れるのではなく、他者との関係において初めて現れるものだから
イワンがアリョーシャの言葉、つまりは「隣人愛」を受け入れられないかぎり発狂は終わらない、と言える
そこにイワンのつまずきという大きな深い罪がある
この罪がイワンの分裂、悪魔の分身の生みの親です
上レスで話した事柄は、キリスト教を「とおして」、ドストエフスキーに「ついて」話ているよ
結局は同じことなんです
その対象について語るとき、その対象自身に関わろうとするけど、そのもの自体と関係するのではなく、その関係にさらに関わっている「最後の関係」について話しているにすぎない
だからこのスレッドで話すことはすべてドストエフスキーに帰着する
あくまでぼくの場合はだけどね >>523
>それを「愛」と名付けるのか?
アブラハムにとって愛する子を神の御手に委ねることは自分自身を愛するように愛するという愛そのものだよ
だけど一般という主観性からみたらアブラハムの子を生贄にするという行為は殺人になる、むしろ狂気にうつる「暗い可能性」がそこにはある
これが愛と感じられなかったあなたもつまずいた、と言えるんだよw
というぼく自身もつまずいているけどね
だからキリストはつまずかない者はさいわいである、と語るのだけれど、だからつまずいていともわるいとも言わない
つまずかないものはさいわいである、文字通りそのまま
だから
>>523
>つまずいたら、そのつまずいた大地に手をついて、おのが体を持ち上げて、何度でも再起せよ。
その先を肯定すること、それもまた一つの絶望であり一つの罪である、キルケゴールは解釈するんだ
このへんはキリスト教とか正教の考えが基礎になるので聖書を少しで読まないと理解は難しいと思う
少なくとも無知な自分の場合はそうだった >>524
>その上であなたならできるから、頼みます。以上の思想や問題意識が、カラマーゾフや、
>他のドスト作品本文においてどの箇所にあるのか引用してほしいです。
罪と罰においてはラスコリニコフとリーザとの関係で話すこともできる、とぼくは考える
ラスコリニコフはソーニャに殺人告白するのだけれど、これはソーニャに赦しを求めているわけではない
殺したリーザに赦されたいが、そして死せるリーザがソーニャの中であらわれるのだけれど、ソーニャを通してリーザに赦しを求めるわけでもない
「死せるリーザに赦されたいのだ」
だけど彼は理解できない
だからなぜ自首しなればならないのか、シベリアという檻に入ってさえも、どういう罪で罰せられているのかまったく分からない
なぜなら死んだ者に赦されたいと願うことは、死んだ者がそこに文字通りいる可能性を信じることで、ラザロの復活を求めるが、復活を文字通り信じられないラスコリニコフには理解が出来ない
この無神論と信仰の間にいるラスコリニコフはつまずいている、とある面からは解釈出来得る
ソーニャに愛されることではなく、ラスコリニコフがソーニャを愛するとき、ラスコリニコフ自身に隣人愛が根ずくとき、果たしてそのつまずきが消えるのかどうかは物語が終わっているので分からない 一切を自己否定せずに開き直ればそれで済む話だと思うけどな by ニーチェ ――あなたはただいま『自分を恥じてはならない、これが一切のもとだから、』とご注意く
ださりましたが、あのご注意でわたくしを腹の底までお見透しなさいました。全くわたしは
いつも人中へ入って行くと、自分は誰よりも一番いやしい男で、人がみんな自分を道化者あ
つかいにするような気がいたすのでございます。
そこで、『よし、それなら一つ本当に道化の役をやって見せてやろう。人の思わくなど
怖くはない。誰も彼もみんなわしより卑屈な奴らばかりだ!』こういうわけで、わたくしは
道化になったのでございます、恥ずかしいが 故の道化でございます、長老さま、恥ずかし
いが故の道化なのでございます。
ただただ疑り深い性分のために、やんちゃをするのでございます。もしわたくしが人の
中へ入る時、みんなわたくしのことを世にもおもしろい利口な人間と思うてくれるに違いな
い、こういう自信ができましたなら、いやはや、その時はわたくしもどんないい人間になっ
たことでしょうなあ! 長老さま」 と、いきなりとんと膝を突いて、「永久の生命を受け継ぐためには、一体どうすれば宜しいのでございましょう?」 「どうすればよいか、自分でとうからご存じじゃ。あなたには分別は十分ありますでな。飲酒に耽らず、言
葉を慎しみ、女色、ことに拝金に溺れてはなりませんぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにゆか
ぬまでも、せめて二つでも三つでもお閉じなさい。が大事なのは、一番大事なのは、嘘をつかぬというこ
とですじゃ。」 ゾシマからヒョードルへの指導
肝要なのは自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。
自ら欺き、自らの 偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることができぬようになる、
すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。
何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう。
ところが、愛がないから、自然と気を紛らすために 淫らな情欲に溺れて、畜生にも等しい悪行を犯すようになりますじゃ。
それもこれもみな他人や自分に対する絶え間のない偽りから起こることですぞ。自ら欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。
実際、時としては、腹を立てるのも気持ちのよいことがある。そうではありませんかな? そういう人はな、誰も自分を馬鹿にした者はない、ただ自分で侮辱を思いついてそれに色どりをしただけなのだ、ということをよく承知しております。
一幅の絵に仕上げるため自分で誇張して、わずかな他人の言葉に突っかかり、針ほどのこ
とを棒のように触れ回る、――それをちゃんと承知しているくせに、自分からさきになって腹を立てる。し
かもよい気持ちになって、なんともいえぬ満足を感じるまで腹を立てる。こうして本当のかたき同志のよ
うな心持ちになってしまうのじゃ......さあ立ってお座りなされ、お願いですじゃ。それもやはり偽りの身振
りではありませんか。」 >>527
> カラマーゾフにおいてはゾシマの訪問者が一番その可能性が出ているよ
> 他は例えばイワンもまた同じ可能性がある
以上2つの箇所を重点的箇所として、精密に忠実に引用しよう。こんど。まだ、よくわからないから。
> 上レスで話した事柄は、キリスト教を「とおして」、ドストエフスキーに「ついて」話ているよ
> だからこのスレッドで話すことはすべてドストエフスキーに帰着する
> あくまでぼくの場合はだけどね
ぼくはドストエフスキーを「とおして」自分自身の信仰について語っているつもりだ。 >「永久の生命を受け継ぐためには、一体どうすれば宜しいのでございましょう?」
>「どうすればよいか、自分でとうからご存じじゃ。あなたには分別は十分ありますでな。
>飲酒に耽らず、言葉を慎しみ、女色、ことに拝金に溺れてはなりませんぞ。」
やはり『1984年』の体制派の性質とキリスト教てそっくりだよな >>527
> その暗い可能性が、訪問者の現在の自己自身を崩壊させる
「暗い可能性」ちょっと聞いただけでは、まったく思い当たらない。できるだけ早く、そこを見てみる。
> 他は例えばイワンもまた同じ可能性がある
> アリョーシャの、あなたは殺していない、という言葉がイワンの、オレは殺していない、という言葉と重なったときにイワンの自己自身は崩壊する
> 自己自身は自己の中で現れるのではなく、他者との関係において初めて現れるものだから
> イワンがアリョーシャの言葉、つまりは「隣人愛」を受け入れられないかぎり発狂は終わらない、と言える
> そこにイワンのつまずきという大きな深い罪がある
> この罪がイワンの分裂、悪魔の分身の生みの親です
ここも同じく、そのキリスト教的一種の複雑さとハッキリ適合するのか?ラカンの言葉?で説明できるのか? 今の時点で理解できぬ。
> 上レスで話した事柄は、キリスト教を「とおして」、ドストエフスキーに「ついて」話ているよ
> 結局は同じことなんです
おれは、君とラカンとキルケゴール等の西洋哲学者自体への、信仰及び人間およびキリスト教解釈を疑う。
それにたいし、ドストエフスキーの、カラマーゾフの、ゾシマの思想については、きわめて高い思想であり、てっていてきに討論されるべき内容だと思う。
> その対象について語るとき、その対象自身に関わろうとするけど、そのもの自体と関係するのではなく、その関係にさらに関わっている「最後の関係」について話しているにすぎない
> だからこのスレッドで話すことはすべてドストエフスキーに帰着する
> あくまでぼくの場合はだけどね
ぼくはゾシマの思想の表現をとおして、自己の信仰と希望について、創価学会と日蓮仏法へと帰着させたい。 >>536
> >「永久の生命を受け継ぐためには、一体どうすれば宜しいのでございましょう?」
> >「どうすればよいか、自分でとうからご存じじゃ。あなたには分別は十分ありますでな。
> >飲酒に耽らず、言葉を慎しみ、女色、ことに拝金に溺れてはなりませんぞ。」
>
> やはり『1984年』の体制派の性質とキリスト教てそっくりだよな
どう同じなのか? 『1984年』を引用して説明してほしい。君が「カラマーゾフの兄弟」を
読めてないのは確実だ。自分でもわかるだろう? これを絶対に煽りとうけとめてはならぬ。 >>528
> >それを「愛」と名付けるのか?
> アブラハムにとって愛する子を神の御手に委ねることは自分自身を愛するように愛するという愛そのものだよ
よくわかった。
> だけど一般という主観性からみたらアブラハムの子を生贄にするという行為は殺人になる、むしろ狂気にうつる「暗い可能性」がそこにはある
これもわかった。
> これが愛と感じられなかったあなたもつまずいた、と言えるんだよw
つまずいたな... w
> というぼく自身もつまずいているけどね
同じやんけっww
> だからキリストはつまずかない者はさいわいである、と語るのだけれど、だからつまずいていともわるいとも言わない
キリスト教ではそうなるんだな!
> つまずかないものはさいわいである、文字通りそのまま> だから
> >>523
> >つまずいたら、そのつまずいた大地に手をついて、おのが体を持ち上げて、何度でも再起せよ。
> その先を肯定すること、それもまた一つの絶望であり一つの罪である、キルケゴールは解釈するんだ
> このへんはキリスト教とか正教の考えが基礎になるので聖書を少しで読まないと理解は難しいと思う
> 少なくとも無知な自分の場合はそうだった
ぼくはキリスト教を外道信仰、キルケゴールは問題外の小物、という立場だが、ドストエフスキー作品
なかんずく「カラマーゾフの兄弟」なかんずく「ゾシマの思想」を、我ら日本人の共通教養にして、
我らのシェークスピアととらえている。日蓮大聖人が仏法ではない外道の中国思想を、縦横無尽に
引用して、仏法の深義を弟子どもに説くのと同じことだね 「暗い可能性」ほか
きみが、誠実にも、我ら部外者に説明しようと試みた内容は
『信仰の核心的深義』に当たる部分で、「信じよう、信じたい!」と強く願う人以外には
理解できない。
同様にして、その評判につられて読んだ、カラマーゾフに挑んだ大多数の読者をも、軽く退ける。
「カラマーゾフの兄弟」の信仰と思想と、「人間とは何か?」の本然に迫ろうとした この小説作品は
「カラマーゾフ」はいっけん「平易」です。筋立ても面白く、中学生でも読める。
しかし... 以下つづく... w 君が日蓮大聖人の仏法を理解してないのは確実だ
無責任にいい加減なことばかり書き込まないで一から修行しなおせ >>541
あ... アニキーッ
厳しい指導ありがとうございましたっ >飲酒に耽らず、言葉を慎しみ、女色、ことに拝金に溺れてはなりませんぞ
が、なんで1984と同じなの?
じゃ、どんどん酒飲み!いっぱい暴れろ、女のケツを追っかけまくれ!みたいにアドバイスすんの?
「フョードルの場合」はそれがガンになってるんでしょ? それにね、この教えの核心は以下のところなんだ。
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自ら欺き、自らの 偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることができぬようになる、
すると、当然の結果として、自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うことになる。
何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう。
ところが、愛がないから、自然と気を紛らすために 淫らな情欲に溺れて、畜生にも等しい悪行を犯すようになりますじゃ。
それもこれもみな他人や自分に対する絶え間のない偽りから起こることですぞ。自ら欺くものは、何より第一番に腹を立てやすい。
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イヴァンもみんな、腹を立てやすいだろ? きみらアンチ創価学会も。
自ら欺き、自らの 偽りに耳を傾けるからなんだよ
自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることができぬからだよ
自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うからですよ!
何者をも尊敬せぬから愛することを忘れてしまうんだよっ
自分で気が付かんだろうが、まさにキミら一般的2ちゃんねらーこそ、『1984年』の体制派の
愚民そのものの姿なんだね!! ドストエフスキー作品に出てくる否定的人物というのは、すべてこの共通項をもっている。
スヴィドリ・ラスコーリニコフから始まって、ピョートル・スタブローギン・
キリーロフ(読んだことないけどw)、イヴァン・大審問官... とにかく全員です! 読んでいない本のことを知ったかぶり、適当なことを書き散らしてばかりでは相手にされないよ?
世の中はギブアンドテイクだからね、へっへ! >>537
>おれは、君とラカンとキルケゴール等の西洋哲学者自体への、信仰及び人間およびキリスト教解釈を疑う。
>それにたいし、ドストエフスキーの、カラマーゾフの、ゾシマの思想については、きわめて高い思想であり、てっていてきに討論されるべき内容だと思う。
>ぼくはゾシマの思想の表現をとおして、自己の信仰と希望について、創価学会と日蓮仏法へと帰着させたい。
>>539
>ぼくはキリスト教を外道信仰、キルケゴールは問題外の小物、という立場だが、ドストエフスキー作品
>なかんずく「カラマーゾフの兄弟」なかんずく「ゾシマの思想」を、我ら日本人の共通教養にして、
一つ話すべきか少し悩んだけど、そこまで強くキリストを否定するなら伝えておこうと思います
ゾシマの談話の原典は聖人イサクシーリンだよ
ドストエフスキーがカラマーゾフを書いた時に本棚に置いていたということ、グレゴーリが熱心に読んだということ、スメルジャイコフがあの三千ルーブリを隠した本であったということ、そしてゾシマの談話はイサク箴言集から構想したということ
どこまでいってもアブラハムの宗教になる
アブラハムの宗教とは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教すべてを指す、おそらく宗派も問わない
知らないことは罪になる可能性が隠れている
君は知らないうちに君にとっての異教徒の聖典の上に、君自身の道理を打ちたてようとしている
いずれ選択を迫られる時が来るだろうけど、君のアイデンティティに関わる事にならない事を願っています 創価くんが信仰しているのはキリストでも日蓮でもなく己自信だからね
だから独裁的傾向で、自分が知ってるもの=全ての日本人に押し付けよう、
自分が知らないもの=なんとなく気に入らないから許さん絶対否定となる
したがって創価とゾシマうんぬんしか知らない馬鹿のひとつ覚えだが、
問題の本質は無知であることではなく激しい自惚れ、恥知らずにある > 一つ話すべきか少し悩んだけど
迷わなくていいんだよ。いつでも「自分の本音で」ありのままで語ればいい。 イサクシーリンか― ありがとう。こんどググってみるw 「一書の人を恐れよ。書を読め、書に読まれるな。自己を作る事だ。それには、熱烈たる、勇気が必要だ。」
昭和21年 「読書ノート」冒頭 池田大作
我にとって一書とは、あるいはカラマーゾフかも知れぬ。 「青年よ、心に読書と思索の暇をつくれ」
「青年たる者は、一日に二十分でも三十分でもいい、深く静かに思索し、品位と教養を高めよ、読書によって、偉大なる自己を確立せよ。」
戸田城聖先生 また... 「一書」とはなにか?
さらにまた、「書を読め、書に読まれるな」とは?
「自己を作る事」とは...? 自由は隷従なり。
二足す二は五である。
神は権力なり。 シリヤの聖イサアク全書
第二説教
訳者:堀江復
明治四十二年
1909年
通解は我。(記号<)理解しやすきように、きわめて大ざっぱに、語句を添えて。調べてないので、
間違っている点多々と。指摘をお願いします。
<< 神に感謝すること并に初等の教の簡短なる説明。 >>
受くる者の感謝は與ふる者をして先に受けたるよりも多くの賜を與へしむ。
少き者の為に感謝せざる者は多き者に於ても偽なり、不真実なり。
<受ける者の感謝と感謝の言葉は、与える者をして、先の受けた人よりも、多くの たまものを
与えたことになる。
<与えられた物が少きがゆえに、感謝しないものは、もし多くを与える者に於てもいつわりであり、不真実
である。 >病んで、その病を知る者は必ず療法を尋ねん。
病気になって、その病気を自覚するものは、必ず療法を尋ねるであろう。
>己の病を他に告ぐる者は治療に近づきてその療法を易く発見せん。
おのれの病気を他人に知らせるものは、治療に近づき、その療法をたやすく発見するであろう。
>心の頑なるによりて彼の病は増加す、
心の頑くななものは、それがために、彼の病はますます増逆するであろう。
>もし病者は医に反対するならば、その苦痛は益々大ならん。
もし病人が医師に反対し、その指導に従わなければ、その苦痛は益々大きくなるであろう。
>悔いざる罪の外に赦す可らざる罪なし。
「けっして後悔しない」という罪以上に、許すべからざる罪というものはない。
=================================================================================
続きはこんど。 >而して賜はただ之が為に感謝することなき時の外は加増なくして了らざるなり。
しこうして、天や神からたまわったものは、ただ此のたまものの為に感謝さえあれば、
ますますその功徳は増えないわけがない。
>愚鈍なる者の受くる部分はその眼中に小なり。
愚鈍なる者の受ける部分は、つねに、そのものの眼中にとっては「小」なのである。
=================================================================================
以上!
一節をとにかく現代語訳完了。 >徳行に於て汝より優越なる者を常に記憶に存して忘れざるべし。
徳の行動において。(あとは通解の必要なしと判断。自明)
>彼らの尺度に対して己の足らざるを不断に見んが為なり。
同。(一言付加す。徳行に於て汝より優越なる者を、つねに汝の身辺に求めよ、というべきである。
その尊敬する先輩なり同志なり後輩なりが、すぐ身近にあり、つねに我が身と照らし合わせねばならぬ)
>憂ふる者と軽蔑せられたる者の最苦しき憂愁を常に心に存すべし、
我にとっては自明の文であるが、文語に慣れていない友のために。類義語に置き換える。
悩み苦悩する人と、軽蔑されバカにされている人の、その最も苦しい「憂愁」を常におのが心に存すべきである。
>汝自ら逢ふ所の微小にして論ずるに足らざる憂愁の為にも当然の感謝を為し喜んで之を忍耐するを得んが為なり。
汝自らが出逢うであろうもの、先の「最苦しき憂愁」と比較し、それが「微小な苦悩」であり、「論ずるに足らざる」憂愁であることに、当然の感謝を為し、喜んで之を忍耐し得るためである。 膨大な量であるが、シリヤの聖イサアク全書から、翻訳文が読めるもののみ、ぼくが現代誤訳していく。 こうして冒頭から読んでいくと、学会指導と100%共通なのは、驚くべきことである。 生活上ネット上の、あいまあいまにやっていくため、ごく少量ずつになる。 グリゴーリイが
>またどこからか『 聖き父イサーク・シーリン』( 七世紀の隠遁者)の 箴言や教訓の書き抜きを
手に入れて、ほとんど何一つ分からぬくせに、長年のあいだ辛抱づよく読み返すのであった。
しかし、その分からないということのために、よけいこの書物を尊重し、かつ愛したのかもしれない。
とカラマーゾフで描写されているのが記憶に残っているが、こんかい冒頭から読み出してみて、
まったく簡明で、分かりにくいという印象はまったくない。今の所。 >>549
>迷わなくていいんだよ。いつでも「自分の本音で」ありのままで語ればいい。
許可がでたので、今後は出来るだけ思ったままにレスするよ
>>563
>こうして冒頭から読んでいくと、学会指導と100%共通なのは、驚くべきことである。
だから欺かれているとは認識しないの、と疑問に思ったけど思わないよね
超自我が禁止がエスに向かえば自我が保てなくなる
そう思えば思うほど何を言えばいいのか分からないという自己完結で終わったw
にしてもイサアクの箴言集は興味を持って読めるよ
ドストエフスキーに学会の思想はオマケだけどw
ドストエフスキーにとってイサアク箴言集は特別な書物だったと予測できる、それと自身の癲癇も
その癲癇とイサアクの本をスメルジャイコフに与えた、という事に読み解く鍵がかくされている
フロイトはドストエフスキーに父親殺しを重ねたと分析しているけど、意外とこの分析はあっているのかもしれない >>566
>病んで、その病を知る者は必ず療法を尋ねん。己の病を他に告ぐる者は治療に近づきてその療法を易く発見せん。心の頑なるによりて彼の病は増加す、もし病者は医に反対するならば、その苦痛は益々大ならん。
この教えは君のことを書いていると感じた。
君は病んでいる。そしてその病を自覚していない。君だけではない。大半の日本人も同じです。
だから、なぜ創価学会が日本最高の宗教組織なのか その一端を知ることなどできるはずがない。
君はその頑なな心のために、どんどん病気が増進していく。では「病気」とは何か?
その答えは、きわめて簡潔に、たった一言で書けるものなのだが。
別の角度からひとつだけ。
生活で、その他の苦悩において、(このことは諸外国のキリスト教社会でも同じ方程式であろうが)
生活にさほど困らず、軽蔑されきった境遇でもなく、そういった人たちは、バカみたいに創価学会を
否定します。まったく理解せず。当たり前のことです。なにせ、彼らは「救いなど必要としていないから」
仏法、絶対的幸福、相対的幸福、いかなる観念も必要としていない。
しかしあたかも、トルストイの あの中編小説のラストのごとく、人生の最期の真実において
君たちは敗北を自覚するでしょう。
君がほんとうに病気を自覚し、その治療方法を死にものぐるいで求めるならば、その時はたやすく発見するのだ。そうでない限り、いつまでも
>どこまでいってもアブラハムの宗教になる
>超自我が禁止がエスに向かえば自我が保てなくなる
というように、理屈で解釈しようとするだろう。 いろいろの西洋東洋の教えも
僕らは信心があるから読める。それらを学ぶのは何のため?か。それもこの仏法のためです。
この仏法によって、自分自身が最高に幸福になり、まわりに、社会へと波動させていくためです。
理屈以前に 祈り、広宣流布の理想に若いときから生きた。もちろん言葉による
教えを深化させることにも 取り組んできた。
青春時代に、君のような「キリスト教の友」 またオウム真理教そのほかのメンバーとも対話してきた。
宗教なんかぜんぜん関係がない一般的なやつらとも。だから、信心をさせることなど無理であることは
君ら以上に体験的にハッキリと承知している。「理屈や教えでは、ぜったいにだれ一人動きません。」
このことは創価学会の教えであるのみならず、日蓮大聖人が言っている。僕らがやってきたことは
入信させるというよりも「この確信をとおして友人を作ることであった」おれという人間を信頼させることであった!
ところで、なんで人は信心すると思う? 創価学会に入信した人は、例外なく「一線を越えてきた」
1,幸せになりたいからです。
2,今の自分を変えたいからです
3,なんとかしたいからです!
君は、入信しません。理由は「なんとかしたい」と思っていないからです。今の自分に満足しているからです。
そうしてこれからも、軽薄なるアンチ創価学会の連中と同じレベルの考えを持ち続けるでしょう。 >>567
まずどうして学会員が健康、それ以外が病人、と仮定したの
何か根拠があるんだよね
まだか自分の感情がそう思った、なんてことはないはず >>568
>「なんとかしたい」と思っていないからです。今の自分に満足しているからです。
自己に満足している人間はいないよ
自己から逃れられる人間はいないからね
君のナルシシズムの根本はここにある
いつしか君の自我は防衛のために、自分はこの世界に仕返しする権利があると思ってしまった
一方で、彼らはもうすでに恵まれているのだから、当然その仕返しを受け入れなければいけないと
だからぼくならこう仮定する
病気とは、自我が処理すべき欲動がそこになく、その欲動が居どころを失ってしまった精神をいう
その治し方もだいたいは分かるけど、君は受け入れないだろうね
リチャード三世を読むといいよ、ドストエフスキーに近いものがあるのでおススメです なにも君の自我を崩したいとか、宗教をやめさせようとかじゃないんですよ
なにも肉好きの集まりに魚の土産を持っていく必要はないし、魚嫌いにお刺身定食をおごる必要もないわけでw
そうかの話がしたいならそうかの中ですればいいと思いますよ
自由にやる事と身勝手にやることは違います
教会に行ってわざわざ仏の話をするのは行き過ぎです
ドストエフスキーすれではドストエフスキーの話をしましょう 幸福とは無知な認識である
キリスト教はぺテロにより、生に対する復讐へと転倒した by ニーチェ 七人のシェイクスピアっていう漫画読んでてさ
リチャード3世が紹介されてて面白そうだった
まあ見所抜粋じゃなくて普通に読んだら面倒臭そうだけどね キリスト本人にとって神がうんぬんてのは言葉遊びに過ぎず、
実際には単なる実存主義者だったのではないかという現実的で素朴な解釈は
聖書の狂気じみた記述を読むと打ち砕かれるな >>573
なんか漫喫で見たことある漫画だw
シェイクスピアは文庫で200ページもないのばっかだから簡単に読めますよ
ニーチェ読める人なら片手間でしょうね すべての否定するのが批判哲学の帰結としての虚無主義
善人も悪人もお前の全てを許すのが実存主義(超人思想)
かくかくしかじかでなければならないと命令するのが本質主義(プラトン主義)
人の生きざまは千差万別、俺はロックンロール、貴様は何もんだぁ〜?
https://www.youtube.com/watch?v=2heGfHy0Hew そういう意味で考えた時にドストエフスキーはなに主義だったんだろうか、なんて思う
主義は結局のところ、なんでもかんでも自分の信じる主義に還元してしまう
実在主義者はなんでも実在主義にしてしまうように
モノローグはモノローグということなんだろうね
でもドストエフスキーはポリフォニーであったとバフチンはいう
存在はどこまでいっても個という存在を消せない、ということなのかな
そうならば、ドストエフスキーの顔はいくつもあったことになる 肯定せず、否定もせずの日和見主義としてのポリフォニー >>578
それもある意味当たってるねw
ちなみにフロイトは心理分析でこう言っているよ
結構面白いよ
彼に言わせれば、四つの顔があるらしい
詩人の顔、道徳家の顔、犯罪者の顔、神経症患者の顔
そして父親から受け継いだ超自我を形成するサディズムが通常は発揮される
些末なことにはサディストを秘め、気性が激しく他人に攻撃的になり簒奪を求める人格を持つ
重要なことには、サディストとしての攻撃性が自分自身に方向転換してマゾヒストに変わり、他人に温和になり寛容でエゴの少ない博愛の人格が顔を出す
ギャンブラーだったのもここにあるのかな
ここに犯罪者の顔と道徳家の顔が葛藤し、自己自身のアンビエントに苦悩して耐えられず神経症患者の顔をもつ
詩人の顔は彼の芸術家としての自然の恩恵があるのみ、曰く理由はなく、ただの才能ですね
人並み外れたドストエフスキーの持つ欲動の昇華だったのかも、というのは個人的分析です
彼はいつでも良心からの苦痛を求めていたという
父親から受け継いだ超自我のサディスティックに、自我の持つ女性的なマゾヒスティックが抑圧されて、心理の中では常に罰せられることを望む性格があった、云々、と精神分析されている
苦しみを求めるラスコーリニキ、分離派に興味を持ったというのも頷けますね あつ、アンビバレントでした、訂正スマン
ambivalent 「あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。」 『地下室の手記』
自分で病人といっちゃってる レーニンは『唯物論と経験批判論』という本の中でエルンスト・マッハという人の思想を紹介している
そのマッハによると人間の脳はあらゆる事物を意識しすぎると情報を処理しきれなくなるので
普段は意図的に五覚の情報を半分くらい遮断しているとのこと(情報のエコノミー) なるほど、正常であるためには凡庸がちょうどいいんだろうね
意識しなすぎるのも問題だけど、意識しすぎるのも問題をうむことになる
無自覚は放銃にするが、意識過剰は傲慢さをむき出しにする、なんてバルザックがどこかで書いていたのを思い出しました 南無妙法蓮華経(5時間唱題)
生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなり
さて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、
又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、
無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり
有とは地獄は地獄の有の儘十界本有の妙法の全体なり、
生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如なり
若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、 む?だれも書かなくなったな?
しゃーない。書いたろか?ゾシマ長老の指導集を、学会精神で読み解く、俺の超一流の投稿を読みたいか?
おれは日蓮大聖人の御書の研究に没頭せねばならんと決意して忙しいが。 ここはアテナイ?の大聖堂だと空想してみよ。
ここにプラトンがいて、アリストテレスがいると仮定せよ。
たとえそいつらがいても無意味なんだあ!!
どんな哲学を述べても、現代の民衆のだれひとり評価せんのだ。
もしそれが、現実生活のなかで生きられるので無ければ。
御書の一節。たとえば「冬は必ず春となる」でもいい... 体調不良のため、とうとつにカキコ終わります... w >>585
> 誰のためにもならん時間の無駄w
レスありがと... w 黙れ、不信心者!! そういってスタブローギンは目をギラギラとさせ、カラカラと笑った 「人の地に倒れて還って地より起つが如し」等云云、地にたうれたる人は・かへりて地よりをく、法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には・たうれ候へども・かへりて法華経の御手にかかりて仏になると・ことわられて候
伝教大師は依馮集で「讃ぜん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く。然りと雖も信ぜん者に於いては天鼓と為り、謗らん者に於いては毒鼓と為る。信謗彼此、決定して成仏せん」 祈り。勤行唱題のときの姿勢・姿かたちに、あり得ぬほど如実に、生命が現れる。
浮ついた心のままに。イヤイヤの心が 先生より贅沢なイスにはぜったい座らぬ。先生の足腰、先生の肺が健康であれと
3ヶ月といわれたのに、3日でしんどいです。先生笑う。
「今から家へ帰って、どう過ごしたらいいでしょうか?」「ニコニコ笑っとったらいい。」 昭和33年1月7日
夕刻、本部へゆく。先生に、ちょっと、お目にかかる。お身体の具合、非常にお悪い様子。おいたわしい限りである。
時代は、変わってきた。残念だ、無念だ。しかし、広布実現まで、長い人生である。
先生、見ていてください。成長して、必ず青年部が、あとに続きます。
夜、御僧侶招待……Nで。先生のお姿、全くお元気なし。御僧侶16人。大幹部30名。
先生、お帰りのあとは、まことに淋しい。弟子一同に、一段の奮起を望みたいほどである。 1月8日
夜、会合あり。先生のご様子、心配。お元気との報あり。安堵。
1月17日
朝、注射を。先生と、久しぶりに、じっくりお会いする。本部にて、「“大”久しぶりだね……」と、おっしゃられた。師匠の暖かな眼差し。懐かしい。大愛の師に、感動あり。
青年よ、一切の邪悪の権力に抵抗せよ。
1月18日
夕刻、先生とお目にかかる。
「やりづらくとも、君たちが、学会を支えてゆくのだ」と、厳しき指導あり。先生の胸中……。 1月20日
将来への、先の先まで、お考えくださる慈愛に、ただただ、感謝申し上げるのみ。
先生のご指示を、更にさらに、力強く感じ、実践せねば、証明せねばならぬ。 1月21日
先生と、お目にかかれず……淋し。不思議なぐらい淋し。 1月23日
朝、注射。
先生のお体も、芳(かんば)しからず。
「闘争の源は、鉄の肉体であり、生命力であり、健康体である」と、つねづねいいし、その師も弟子も、つねに病弱とは、運命のいたずらや、にくし。 1月24日
夜、本部に戻り、一人、たまっていた先生の指導をメモする。
1月27日
午前中、先生のお宅に、お邪魔する。O君のご報告等々のため。先生の包容・慈悲に驚くのみ。“横死と宿命”についてお話あり。
1月28日
朝、先生のお宅に、お邪魔する。2時間余、暖かなお話を戴く。感謝深し。心奥に、いつか、いつか、厳粛なる日の来たることを直覚してならぬ。胸はりさける悩み出ず。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています