ドストエフスキーPart48 [無断転載禁止]
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>>876
マタイ氏の教科書に書かれていることだけが真理ではありません
だから教会があり、聖職者がいるのです
池田先生は聖書にも書かれていない真理を授けてくれます
絶対服従なさい、いつかあなたにも池田先生のあらゆる御言葉が真理と知る日が来るでしょう 教会に属して宗教活動をしてるのか?と問うても答えない。
A 君は明確に答えてくれた。その他のものは答えない。
他人にたいする信仰活動、キリスト教的に表現すれば「実践の愛」を実行していないものに、
宗教的真理などぜったいにつかめないし、永遠の生命の片影も覚知できない。そんなものは、脳内の妄想です。
さらにもう一問。「祈っているのか?」
毎日毎刻祈らないものは、自分でいくら「おれはキリストを信じている」と
思っていてもまったく信仰者ではない。
なぜかわかりますか?カラマーゾフの兄弟のゾシマの章に書いてある。
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>>875
>>876
君たちは、ひじょうに弱い信仰へのあこがれは持っている。ぼくの書き込みを読んで本物の信仰者の
世界というものを知り学ぶんだ。
ぼくの口まねをしてるスメルジャコフからは、卑しい人間の地獄の末路を学ぶんだ。この者は
あと7ヶ月以上は生きられない。ひじょうに厳しい仏罰が下るからだ。 彼をひとりで死なせなさい。
こうした狂人のカキコに触れることは、法華経・御本尊・日蓮大聖人に違背し離れていく縁となる。
専ブラを使っているなら、彼の独特の言い回しや語彙があるから、それをNGワードに登録しなさい。 >>877
なるほど確かに教会はそのためにあるよね
迷信も入り込んだが、真理も教会なくしてはありえない、とトルストイも懺悔で言ってるね
だけど池田先生が聖書の上を行くとか、キリスト教徒からすればもう神の冒涜ですw
最高の罪ですw
なので俺は服従より自由意思に今のところは留まるよ
ドストエフスキーも言ってたでしょ
数学的に証明されたとしても、キリストに留まりたいと ああ、僕はどんなにかあなたを愛してるでしょう。どんなにこの瞬間あなたを尊重し
てるでしょう! それはつまり、あなたが僕と一緒にいるのを、恥かしがっていらっしゃ
るためです。なぜって、あなたはちょうど僕と同じだからですよ! 」コーリャはすっかり
夢中になって、こう叫んだ。彼のほおは燃え、目は輝いた。
「ねえコーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ」アリョーシャはなぜか
突然こう言った。
「知っています、知っています。ほんとうにあなたは、なんでも先のことがおわかりにな
りますね!」とコーリャはすぐ承認した。
「だが、全体としてはやはり人生を祝福なさいよ。」
-------------------------------
疑問
1,コーリャは、なぜ「あなたはちょうど僕と同じだからですよ! 」と感じた?
2,アリョーシャはなぜ、コーリャのことを「君は将来非常に不幸な人間になりますよ」
と思ったのか?
感激したのは、
>「知っています、知っています。ほんとうにあなたは、なんでも先のことがおわかりになりま
すね!」とコーリャはすぐ承認した。
嬉しがって答える、この返事ですね。もうなにを言われても、あまりにも高い相手への信頼ゆえに、
すべてをいい意味にとらえるんでしょうね。「君は将来、非常に不幸な人間になりますよ」という
言葉も、世間通途の意味でなく、宗教的な、ゾシマの教えのとおりの意味あいで「自己の深い使命」
として、ちょっかんで理解してるんでしょう。 >>526
> 「だが、全体としてはやはり人生を祝福なさいよ。」
> -------------------------------
重要な引用ミスだ。
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福するでしょう」(正) >>530
> コーリャの場合は甘いロマンチシズムの中に浸っている分
> 救いようがなく、それ故に不幸な境遇に際してはその甘さが
> 苦痛に変わる可能性が高い
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福するでしょう」というアリョーシャの予言は? > コーリャのように世のため人のために不幸を背負いたがる受難者は
> 実のところ受難者という境遇に恍惚感を覚える
> この心情は背中に両腕で十字を組んで衆人環視の中
> あえて殴打の辱めをうけるスタヴローギンのマゾヒスト的恍惚感に近い
ぼくは、コーリャの人物像について、かなり忘れており、読みこみも甘い。
「世のため人のために不幸を背負いたがる」という部分が「そうだったけ?」
となってる。
> コーリャの場合は甘いロマンチシズムの中に浸っている分
ここはわかります。なんとなく。
> 救いようがなく、それ故に不幸な境遇に際してはその甘さが
> 苦痛に変わる可能性が高い
しかしその結論が「救いようがなく」という理解は疑問です。 >>534
> ぼくは社会主義者なんです、とコーリャは自らアリョーシャに自己紹介しているね
> わざわざヴォルテールの、神がないなら人間が作り出さなにゃならない、みたいな言葉も引用しながら
> 社会主義者とは無神論者のことだから、ミーチャのようにはいかないだろうと思われる
彼はこどもなんですよ!ぼくらも子供の頃 少年のごろ、とんでもないこと夢想してませんでしたか?
> 不幸が天恵と捉えられるのはミーチャの場合に限られるのかもしれない
「いちばん不幸なひと、いちばん苦労したひとが、いちばん幸福になる」というのは人生の方程式であり、ミーチャひとりに限ったことではない。これはロマン主義などではない。真実です。
> ミーチャは詩的すぎる性格だけど、
これはそのとおりだなあ、と思った。あ、そっか!とポンとひざを叩いた。
536 名前:吾輩は名無しである [sage]: 2018/12/12(水) 16:35:34.98 ID:aLn9te2V (3)
それにたとえ、社会主義者であろうが無神論者であろうが、革命に身を投じ、一身を投げうって、民の嘆きを
いやさんとしたその生涯はたっときものであると考える。
人生がまさに終わらんとするとき、この人生を自己ならびに自己の家族の安寧のみに奉仕したものと、その最後の瞬間に瞳の中に映り込む太陽の輝きは、異なるものであると想像する。 著者 より(抜粋)
彼 が 奇妙 な、 むしろ 変人 とも 名 づく べき 男 だ という
こと で ある。 しかし、 奇妙 な こと や 変 屈 な こと は、
注目 の 権利 を 与える より、 むしろ 傷つける 場合 の 方
が 多い。 ことに 現代 の 如く すべて の 人 が、 部分 を
統一 し て、 世界 全体 の 混沌 の 中 に、 普遍的 意義 を
発見 しよ う と 努め て いる 時代 には なおさら で ある。
そう では ない か?
変人 は いつも 部分 もしくは 特殊 に 限ら ない のみ か、
かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て、 その他 の
同時代 の 人間 は 何 かの 風 の 吹き 廻し で、 一時 変人
から離れ た もの に すぎ ない、 という よう な 場合 が
しばしば だ からで ある……
> 彼 が 奇妙 な、 むしろ 変人 とも 名 づく べき 男 だ という
> こと で ある。
著者は、アレクセイをして、どのような点をとって「奇妙・変人」と
書いたのか?
>しかし、 奇妙 な こと や 変 屈 な こと は、
> 注目 の 権利 を 与える より、 むしろ 傷つける 場合 の 方
> が 多い。
これはそのとおりであろう。 >ことに 現代 の 如く すべて の 人 が、 部分 を
> 統一 し て、 世界 全体 の 混沌 の 中 に、 普遍的 意義 を
> 発見 しよ う と 努め て いる 時代 には なおさら で ある。
> 変人 は いつも 部分 もしくは 特殊 に 限ら ない のみ か、
> かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て、 その他 の
> 同時代 の 人間 は 何 かの 風 の 吹き 廻し で、 一時 変人
> から離れ た もの に すぎ ない、 という よう な 場合 が
> しばしば だ からで ある……
ここの表現がちょっと難しいが、こういう視点があったんだと。
そして少年時代の自分は、自分を変人と思っていたから、ここを
読んで、励まされたし、慰められもした。ことに
> かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て
の一文は、歳をとった今、まさにそのとおりだと、感じるんだ。
> 変人 は いつも 部分 もしくは 特殊 に 限ら ない のみ か、
> かえって 変人 こそ 全体 の 核心 を 包蔵 し て、 その他 の
> 同時代 の 人間 は 何 かの 風 の 吹き 廻し で、 一時 変人
> から離れ た もの に すぎ ない、 という よう な 場合 が
> しばしば だ からで ある……
-------------
そして、この主張・考えを書くだけのひとと、ドストエフスキーのごとく、巨大な小説作品として、芸術的手腕をもって表現しうることとの 間には、異次元の隔たりがあるのでしょう。 過去のわたしの素晴らしい書き込みシリーズ
名前:吾輩は名無しである [sage]: 2018/12/15(土) 00:31:57.43 ID:45W5I5MQ (7)
先日のコーリャとアレクセイの、下の会話にもつながっているね。
> 「滑稽がなんです? 人間が滑稽な者になったり、あるいはそうい
> うふうに見えたりすることは、いくらあるかしれません。今日
> ではみんな才能のある人たちが、滑稽な者になることをひどく
> 恐れて、そのために不幸になってるんですよ。ただ私が驚くの
> は、君がそんなに早く、これを感じ始めたことです。もっとも、
> 私はもうとっくから、ただ君ばかりでなく、多くの人にそれを
> 認めていたのですがね。今日ではほとんど子供までがこれに苦
> しむようになっています。それはほとんど狂気の沙汰です。
> この自負心の中に悪魔が乗り移って、時代全体を荒らし回って
> るんです、まったく悪魔ですよ。」
>
> じっと熱心に相手を見つめていたコーリャの予期に反して、
> アリョーシャは冷笑の影も浮かべずに言い足した。
どれほど真剣に、このことをコーリャに伝えたかったか! アレクセイは。
これは「カラマーゾフの兄弟」全体をとおして主張されてる、大切なテーマでもあると思うんだ。
奇妙になることを恐れる。変人と、滑稽と見られることを!
このことを、もっともっと、突き詰めて考えていきたい。
われわれの行動の規範が、いずこにあるか?ということじゃないか?
現実問題、「この自負心の中に悪魔が乗り移って」のために、ぼくら自身の輝きが、いっさい奪われているんじゃないかっ? あまりにも多すぎてコピペ不可能です!
いつも尊敬してくれてありがとう >>880
> なるほど確かに教会はそのためにあるよね
> 迷信も入り込んだが、真理も教会なくしてはありえない、とトルストイも懺悔で言ってるね
>
> だけど池田先生が聖書の上を行くとか、キリスト教徒からすればもう神の冒涜ですw
> 最高の罪ですw
キリスト教を愛惜する人にとって、とんでもない発言です。そして不快でしょう。
ただし誤解がある。きみは、ぼくの文とふざけて書いている悪意のひとの文も見分けられないの?
「池田先生が聖書の上を行く」などひとことも言っていない。池田先生といってもふつうの人間です。一面的には。
僕らの教えは「ぼくまたは君」が「キリストよりはるかに上の存在なんだよ!」ということだ。
そういう生命が、仏の生命が内在しておるが、それを現せてないということなんだ。
ほんものの信心をすればかならず「開く」んだ。アレクセイがコーリャに教えたとおり「恥ずかしい」なんて思ってちゃダメだ。
>
> なので俺は服従より自由意思に今のところは留まるよ
> ドストエフスキーも言ってたでしょ
> 数学的に証明されたとしても、キリストに留まりたいと
それでよい。しかし、カラマーゾフの兄弟でドストが語っていることは、もう一段突き詰めるべきだ。
宗教を信仰を、自分の内的な世界の哲学・思想ととらえてはいけない。それは民衆の中へ飛び込んでいくための道具と
解するのだ。 創価くんは坊さんになりたい創価大学の学生さんか?
カルマジーノフみたいなやつだな つまんない書き込みをスルーされて嫉妬心を爆発させるとかさ、
仏教を志す者のわりにはあまりにも煩悩にとらわれすぎている
そんな恥知らずな荒らし風情が他人に説法しようなど実に烏滸がましい 宗教ってある意味でとっても怖いよね
だいたいは本当の事を言ってるんだと思う
それも真理を含んでいる(というかコピペしてる)
そして一番厄介なのは、ドストエフスキーも問題視していたキリスト教社会主義みたいな、宗教に政治を混ぜてくる主義者たちにもあてはまる
最初は本当の事を言っておいて、最後にちょっとだけ自分の都合を混ぜ込む
そうすると、全体は正しくて立派な外観に見えるのに、本質は世俗的な欲の集客システムに変わる
箱は同じだが方向だけ違う船のように、乗っていたものはたまらない
いつしか別の目的地につかされちゃうw
しかも一番の問題は、本人がここが目的地だったんだ、と最後まで気がつかないことw
詐欺のシステムに本当に似ていて、勉強になる、って勉強しちゃダメなんだけどねw >>891
カルガーノフなら知ってるけど。カルジーというのは未成年かなんかの登場人物かい?
おっさんだよ。しかし心は青年やで。 >>892
ぼくは君をスメルジャコフと呼んでいるが、ほんとうにそう思ってるわけではないよ?
とにかく悪ふざけするのはやめな。あたりまえだけど、ほんとうに信心をしてる人というのは、
無信仰で、自分の気ままに生きてる、君たちのような存在とくらべ、人間としての本質において
数段上なのはわかるでしょ? そして一見傲慢なこの言葉は、これを言い切ることがとても大切なんだ。
ウソがいけない。自分の悪いところ恥ずかしいところを吐き出せる人間というのは、すでにそれを乗り越えている。
>>893
きみたちは反発するのは仕方がない。そういうもんなんだ。2ちゃんなんかのカキコで、言うこと聞くやつはいないw
君らの見てきた世界と育ってきた価値観で、捉えられるはずがないからね。
いつの日か現実の存在として創価学会にであえば、あるいは目が覚めるかもしれない。
でも893君は、こと創価学会のことになると、途端にヤクザな無信仰のチンピラみたいなカキコになるのはなぜなんだ?
ドストを語ってるときは聡明なのに。無知無教養で、ずる賢い、ラキーチンみたいなキャラになるのが不思議で仕方ないよ。 ウソごまかしはダメだ。おれは真実を語る。
現今の世界で、カラマーゾフを正しく解釈し、ドスト以上にその本質を剔抉し得るのは
信仰にすべてをかけるぼくのみだ。いやちがう... この表現は。「すべてをかける」というのは、他に選択肢があるのに
あえて創価の信仰にかけているみたいだ。僕にはそれしかないのだ。他にはなにもない。どんな道もない。 >>893
> 宗教ってある意味でとっても怖いよね
> だいたいは本当の事を言ってるんだと思う
> それも真理を含んでいる(というかコピペしてる)
>
> そして一番厄介なのは、ドストエフスキーも問題視していたキリスト教社会主義みたいな、宗教に政治を混ぜてくる主義者たちにもあてはまる
どうも、そこに、特に引っかかるみたいだな。政治アレルギーがある。政治というものの捉え方がちがう。おれたちは
政治屋じゃない。政治ゲーム屋は2ちゃんには殊に多い。おれらは根本的にちがう。
>
> 最初は本当の事を言っておいて、最後にちょっとだけ自分の都合を混ぜ込む
> そうすると、全体は正しくて立派な外観に見えるのに、本質は世俗的な欲の集客システムに変わる
> 箱は同じだが方向だけ違う船のように、乗っていたものはたまらない
> いつしか別の目的地につかされちゃうw
> しかも一番の問題は、本人がここが目的地だったんだ、と最後まで気がつかないことw
> 詐欺のシステムに本当に似ていて、勉強になる、って勉強しちゃダメなんだけどねw
きみはじつはだれよりも宗教不信が強い。君が愛してるのは自分の己心にのみ思い描いている
キリストとか神だ。しかしそれでいいんだ。そういう人間でも、あるきっかけで変わるんだ。ただしそのためには
第六編 「なぞの客」みたいな、あるいはゾシマ兄の逸話があるだろう? ああいう命がけの体験がひつようだな。 さあ、寝よう!
いろいろゴーマンかましてるが、結局のところ、キミらは僕の弟子みたいなもんで、もう半分以上は
創価学会員といってもいい存在なんだw
A 君は「キリストは真理の外にあると数学的に証明されたとしても、キリストに留まりたい!」が口癖の学会員だし
スメルジャコフ君は、おれに憧れていっしょうけんめい口真似する小鳥みたいな創価学会員だ... w >>897
宗教アレルギーというか、まがい物が多すぎるんだよw
俺は仏教だってこの上なく敬ってるぜ
もちろん豪華な寺とかつくったりするような、変えまくったインチキ仏教はアレルギーだけど
あまりにまがい物が多すぎるアレルギーってとこかな >>898
君は特有の誤解しているけど、その言葉はそういう意味ではないよ
ドストエフスキーが、たとえ真理がほかにあると数学的に証明されたとしても、私はキリストに留まる、といっのは、君がいっように短絡的にドストエフスキーがほかに真理がある、と思ってたというのは論理的にまったく当てはまらないよ
文には前提と結論がある
たとえーーでも、ーーーをする
というのは、
たとえーーーでなくても、ーーーををする
の、ーーをする、ということの強調文だから、これを正確に言えば、たとえ真理が外にあろうとなかろうと、どっちでもよくて、なんだろうと私はキリストにとどまる、と言ってるだけで
真理がほかにあるなんて読むのは、読解力の問題かそういう事にしたいという欲望のあらわれか、悟性が足らないかのどれかだよ
これこそ「方向の違う船」みたいにとても危うい
まるでキリスト教社会主義者のようだ
by ドストエフスキー >>創価くん
ドストエフスキーの小説には「奴はキチガイなのか?」という台詞が時々出てくるが、君のためにあるような言葉だな
>>893
バートランド・ラッセルが回想録『ロシア共産主義』の中で宗教性はそれ自体が腐敗をもたらすのでダメだといってる
ボルシェビキは宗教的であり、レーニンはあまりにも自分の意見や信念に固執しており、
多少はマルクス主義を贔屓している自分ですらまるで話し合いにならなかったという
君は古い時代の名残としてではなく、まだ何か宗教に期待しているのかね? >>901
そういう事になるようですね
俺の性格はきっと原理主義なんだと思う
なんでも原理的に物事をとらえるから、だいたいが虚無主義的な結果に終わる
ほとんどが最後には意味がない、で終わる
だからまだ俺にとって、宗教は名残ではなくて、期待を込めた最後の藁みたいなもんなのかなw
もちろんマルクス主義で唯物論でもいいんだけど、唯物論は唯物論で意外と楽観的な気がして、悲観する俺にはちと明るすぎるw それはこれといった趣味の無い人、ニヒリスト、飽きっぽい人というだけさ
世間体としてどうかは別として、直さなきゃいけないようなことでもないぞ その点、私は子供のころから何かに熱狂したことがないな
恋愛にしろ何にせよ、常に一歩引いて冷めた目で見ている
だがそれに疑問を感じたことはない
さて、ニーチェあたりに言わせれば、人は死を見つめて焦ることで、
日々を大事に濃く生きることができるという
しかし私はそういう刹那的な熱狂や陶酔に身を投じる気分にはなれない
他人がやってるのを責任ない立場から観戦するのは嫌いじゃないけどね
その意味においては、私はカーライル的な英雄主義者かもしれない
自分の人生には幼少のころから何も期待していないし、特に欲望も野心も無い
きっと誰かが自分の代わりに何かを成し遂げるのを見届けるために自分は存在する >>904
ニヒリズムという点では似てるじゃないかw
ならば、最後に神に賭けないと生の意味とすべての道徳を失う気がする、という反動からくるあのどんよりとした虚無感も君には理解できるじゃないだろうかw
サンシモン(というか好きなのはフーリエだけど)のいう空想的社会主義はなんとなく分かる気がするけど、カーライルのいう封建主義的個人主義というのはイマイチ意味がつかめない
単純に論理が難しいのと、俺の直感に合わないみたいよ
ニーチェは死をみて焦ったんだね
俺は死を見た時、そのイメージは花火のように感じた
着火したからには燃え尽きちゃうな、という感覚に近い
生まれちゃった限り、否応なく死は時間と共に絶対的に近づいてくるからね
そして、終わるからにはなぜ始めたのか原理的に考えると、そこに出る答えは結局、意味はなかった、というオチw
俺がドストエフスキー好きなのはそんなところなんだろうと思ってるけどね 老いや死を意識することで後先のことや本質を考慮せずに目先の生に全力投球する
これは女性にありがちな刹那的実存主義で、『悪霊』のリーザなんかはこのタイプだ
ニーチェは人生を危険な綱渡りの連続と表し、現実的挫折や俯瞰的視野(ニヒリズム)に心折れず、
究極的には無意味な人生の綱渡りを勇敢に渡っていく人間を強者と讃えた
神に賭けないと――というのは抽象的でなんとも言い難いが、要は自分をルールや型にはめるということかな?
『悪霊』終盤のシャートフの台詞に「ぼくはロシア人だけどロシア人になれないからスラブ民族主義派に属しているんだ」みたいな台詞がある
シャートフの考えは分かるが、私としては共感性を持つなら嫌いな人々を無理して相手にするより動物でも飼った方が良い >>900
> ドストエフスキーが、たとえ真理がほかにあると数学的に証明されたとしても、私はキリストに留まる、といっのは、君がいっように短絡的にドストエフスキーがほかに真理がある、と思ってたというのは論理的にまったく当てはまらないよ
>
> 文には前提と結論がある
> たとえーーでも、ーーーをする
> というのは、
> たとえーーーでなくても、ーーーををする
> の、ーーをする、ということの強調文だから、これを正確に言えば、たとえ真理が外にあろうとなかろうと、どっちでもよくて、なんだろうと私はキリストにとどまる、と言ってるだけで
俺もそう思うw
ワザとウソで書いた... w
おれを誹謗中傷する言葉を書かないように。罰が当たるww >>904
> その点、私は子供のころから何かに熱狂したことがないな
> 恋愛にしろ何にせよ、常に一歩引いて冷めた目で見ている
> だがそれに疑問を感じたことはない
人間にはそれぞれ個性があって、どの性質も一長一短だ。
しかし、自分がまだ知らない自分に会えるとしたら? それにかけてみるのも一興じゃないか?
今夜は疲れていて、大量タイプはできないが。
> さて、ニーチェあたりに言わせれば、人は死を見つめて焦ることで、
> 日々を大事に濃く生きることができるという
これはニーチェ固有の思想ではなく、至極あたりまえではないか? とうぜんそうあるべきじゃないか?
> しかし私はそういう刹那的な熱狂や陶酔に身を投じる気分にはなれない
なにが刹那的なんだ? どうして気分にならないんだ?
> 他人がやってるのを責任ない立場から観戦するのは嫌いじゃないけどね
>
> その意味においては、私はかもしれない
> 自分の人生には幼少のころから何も期待していないし、特に欲望も野心も無い
> きっと誰かが自分の代わりに何かを成し遂げるのを見届けるために自分は存在する
心の中の夢想や理想、思想や哲学で終わらすのはたやすい。現実の人間に働きかけていくしか喜びもない。
そうであってこそ、刹那は永遠であり、熱狂と陶酔も最高の理知になる。「カーライル的な英雄主義者」だか
なんだか知らんが、そんな自己満足にふけってるときじゃない。 君らはとにかく、平凡にして偉大な僕らのような人間になるべきだ。
平凡な庶民として、信仰と理想に生きるべきだ。
君らは平凡で卑小だ。自己の観念の殻に閉じこもって、一歩もでてこないからだ。
大事なことは、自分より優れた人物。つまりおれのような信仰者に対して、頭を垂れて、一から教えを請うことだ。
できるか? >>906
ニーチェはニヒリズムの先を上手く生に転換できたんだろうね
いわく超人の概念を構築しただけはあると感じる
だけど、刹那主義はある意味で欲望の権化にならないのだろうか?とも思う
神に賭けるとは、要はニヒリズムの転換方法がこういうやり方しか出来なかった、ということに過ぎないのかもしれない
つまるところ俺も生に、そして善悪に無関心になった時があるが、生きるに値しないと思った人間が思いつく手段なんて一つしかないだろうw
それに自尊心に興味がなくなれば、人は自分の欲望が善に向いているのか悪に向いているのかに関心を失うのも必然なんだろうね
だからこそ「普遍的善悪の不変の創造者」を俺は求めたのかもしれない
そこで、すべてが許されている、と転換できれば社会性の塊にでもなれるんだろうけど、それは出来なかった
転換の方向がなぜかそこなのかは分からない
そう説明するよりも、スタヴローギンのあの無関心に近い、と言った方が君は理解するんだろうけどねw
シャートフはいいね、とても人間味がある
だけど、人間に共感を求めるくらいならば動物を可愛がる方がマシ、というのも人間味がある気がするよw >>909
君は本当に対話ができないね
対話は自分の主張が少なからず入らなければ成立すらしないよ
君は否定と嘲笑で終わりだね
君のレスは話のつながりがないし、何より誠実さがない
前に5chに何を求めてるんだ、とか言ってたけど、そんなのは当たり前で、そこで自分もそれに迎合するなら独り言と変わらないよ
独り言というのはこうやるんだよ
だから偶像崇拝の政治屋集団は無能だな(´・ω・`) >>904
>さて、ニーチェあたりに言わせれば、人は死を見つめて焦ることで、
>日々を大事に濃く生きることができるという
あたり?
ハイデガーならそんなものだけどニーチェの場合は少し違う
生の本質を惨苦としつつその苦しみを引き受け、
創造性こよって快楽に変えることを主張する
それこそが芸術、そして人生の意義だとしている
死の恐怖や不安の裏返しとしての生への愛着とはちょっと違う
だから神亡き時代の恐怖や不安の克服として提唱された超人思想が
永劫回帰思想へと展開していくわけだね
これがドストエフスキーだと不在の神との対話にとどまる 「不在の神」ではなく「沈黙の神」といった方が適切かな
ヨブ記を持ち出すのはそういう事だよ
信じる力を持ち続けることの威力が分かっているし
それを創作のベースにしている まあ、死ぬまで懐疑と虚無に身を焦がしているのがドストエフスキーだけどねw >>912
> 永劫回帰思想へと展開していくわけだね
> これがドストエフスキーだと不在の神との対話にとどまる
なんで?この世界のどこにも、ニーチェ教もドスト教もないのか?
だれひとり、ニーチェの永劫回帰思想を奉ずる宗派が、地球上のどこにも発生しないのか?
科学教はあるのに? キリーロフ教はなぜない?
それは、民衆救済の教えではないからではあるまいか? 民衆を連結させる教えではないからでは
あるまいか?
> そうです、生の本質とは苦痛とみなしたキリーロフです
(生の本質とは苦痛とみなした)そんなものは遥かな太古に釈迦が、それどころか歴史発生以前から
思索されていただろう。
> 「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。今は苦痛と恐怖ばかりですよ。
> いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。
> いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。
> いまの人間はまだ人間じゃない。
> 幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。
> 苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる。」
>
> 「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です。」
> 「最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。
> その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神です。」 こんな教え・思想が、苦悩する民衆の救いになるか? バラバラに分断された孤独な庶民を
連帯せしめる理想となりうるか?ちょっと考えりゃわかりますよね?
もちろん否です。
だからどれだけ、日蓮大聖人の教え、南無妙法蓮華経が大事かわかりますか?
池田先生という存在が、創価学会のリーダーとして、キリーロフなど比較にならないほど、この
日本国を根底から支えていたか了解できますか?
もし池田先生が狂った指導者であれば、日本人には絶望しか無かった。
日本人にとって縁のない砂漠で発生し、ヨーロッパで育まれた宗教― そうしたバカげたものに
我が国は蝕まれていた。
=================================================================================
> > ドストエフスキーが、たとえ真理がほかにあると数学的に証明されたとしても、私はキリストに留まる、といっのは、君がいっように短絡的にドストエフスキーがほかに真理がある、と思ってたというのは論理的にまったく当てはまらないよ
> >
> > 文には前提と結論がある
> > たとえーーでも、ーーーをする
> > というのは、
> > たとえーーーでなくても、ーーーををする
> > の、ーーをする、ということの強調文だから、これを正確に言えば、たとえ真理が外にあろうとなかろうと、どっちでもよくて、なんだろうと私はキリストにとどまる、と言ってるだけで いちおうは君のいうとおりだと思う。しかし再往はドストエフスキーは「キリストは真理の
外にある」
とも考えていたと思う。このことは彼の著作を読めば明らかではないか。
信と不信の間を弁証法的に彷徨していた。
キリスト教文明が作り出す最良の人物、たとえば、アリョーシャやゾシマのような人々は実
在すると思う。しかしまぎれもなく、そのいっぽうで、彼らはキリスト教特有の問題性を抱
えた人物であろうと予測する。それは「偽善者」であるということです。そうして今世(こ
んぜ)は良くとも、来世においては地獄しかないのである。
そうして地獄の苦悩というのは、死後に在るのではないのである。
みなさん。地獄の姿というのは即座にあらわれるものなのです。ID:0TWYqNEz 君を見て
ほしい。
ずっと理想主義的なカキコをしてきたのに、さいきんは誹謗中傷しかできない畜生のような
姿に成り果てている。
これを地獄と呼ぶ。 大作イズムの人はもう完全に頭が天国にいってしまわれてるな
キリスト教的救済とは所詮このような白痴を崇拝しているに過ぎないのかもしれない
よく教会が知的障碍者の世話をしてるけど、現実の白痴の人の知性や人格は
優しくも純粋でも無く、かなり横暴なんだよね ではなぜ、僕があえて、彼らをして誹謗中傷させるようなカキコをするか、その秘密を教えよう。
それは日蓮大聖人の教えであり、法華経の経文中にそうするようにと指示が在るからである。
君らは地獄と定まっている。可哀想だから、信じても信じなくても、この法華経に縁させるしかない。
これを毒鼓(どっく)の縁という。 >>919
君自身はキリスト教徒なのかい?あるいは無信仰というか日本教的な? >>913
ヨブ記はまさに沈黙の神との対話だからね
対話の作家がよくヨブ記を持ち出すけど、理由は知るに耐えないよね
>>918
誹謗中傷ってw
おまいは人のこと偽善者とか地獄とかそんな表現しかしないだろうにw
道徳とは自分に向けるものです、人に向けるものではありません
教えられた道徳を人に向けたがる気持ちは宗教の副作用で、それは君の欲に過ぎませんので、もう少し抑制を覚えましょう
そして何千回も言うけど、ここは仏教スレでも大作スレでもありません
退廃の5chだけど、その退廃の中にあるスレの最低限のルールは守りましょう
>>919
キリストが招く人は彼のような人なんだという側面があるね
ウィトゲンシュタインはカラマーゾフを50回以上読んでこう言うんだけど、アリョーシャは簡単だが、読者は、はたしてスメルジャイコフを愛する事が出来るのだろうか、と
キリスト教において隣人愛は最高の教義となるけど、どれだけ不可能に満ちた狭き門の道か、だからイワンはアリョーシャは愛せるけどもスメルジャイコフは愛せなくて発狂する
隣人愛は難しいが、神が憐れむ人もそういう人なんだろうけどね >こんな教え・思想が、苦悩する民衆の救いになるか? バラバラに分断された孤独な庶民を
>連帯せしめる理想となりうるか?ちょっと考えりゃわかりますよね?
ファシズムとは、分断された孤独な民衆(モブ)をかき集め、組織された集団に対する奉仕のみを考えることを命じ、
組織と考えの異なる者を取り込み、あるいは徹底的に排撃することによってのみ成り立つ内輪の大作イズムである
大作イズムにおいて他者とは、せいぜい将来的に布教・洗脳できるかもしれない、潜在的な信者と見なされているにすぎない
しかし民主主義とは、考えの異なる者をそのままに承認し、敬意を払うことによる外の世界との連帯によって成立するのだ
(『全体主義と創価学会の原理』ハンナ・アーレント) オルテガ・イ・ガセットによる大衆と創価学会の定義
これはいわゆる政治・経済的な意味での大衆(経済力や社会的地位の階層的なピラミッドの中・下層を占める多数者)を指すものではなく、「生き方」としての大衆を指す哲学的概念です。
主体性をもたず、ただ人間集団の数の力や既成の権威の力に依存し、名前(私という固有性)という責任を持たない匿名に埋没する一般大衆のことです。
だから支配者層や富裕層やインテリ層にも大衆はたくさんいるわけです。
それは仲間集団と同じであることに喜びを覚え、個人の責任を希釈された集団的無責任(「赤信号みんなで渡れば恐くない」)に安心をおぼえ、反対に出る杭は打ち、他集団への極端な排他性と不寛容さをもつ人々です。
数の力と権威の中にある何者でもない自分自身に陶酔し、自身に対しては何も課さず反省もせず満足し、義務を果たそうともせずただひたすらに権利を主張します。
彼らは自分を疑わず、知的な人間であると思い込み、能天気なほどの平静に生きます。
今ある自分の気楽な生活環境は、自分自身に先天的に与えられた永久不滅のものであると信じて疑わず、他者や先人への感謝もなく、平気でそれを打ち捨てようとします。
蛇口をひねれば当たり前に水が出る環境を、先人がどれだけの苦労をしてこしらえたかは、海外の生活環境を見ればよく分かります。
平和や人権という当たり前に見えるものが、過去にどれだけの闘争と犠牲を払って成就されたものか知る由もありません。
大衆は環境が激変したときにようやく、そのことに気付きます。
彼らはいわゆる「甘やかされたお坊ちゃん」であり、現代文化の中に生きる野蛮人です。
大衆は責任を放棄し、安逸な思考停止に陥り、やがてそれは全体主義やファシズムを生み出します。 うむ、オルテガの説は古今東西、人類普遍の真理ですな
普通の人には何を意味してるかも分からない何妙法蓮華経より、
こういう警句を復唱した方が教育に良い いつも、拙いおれのカキコを尊敬してくれて、ありがとう。
ぼくが真心で書くから、キミらも真心で返すんだね。
ぼくが君たちを未来の仏と思って合掌してカキコするから、君らも知らずに合掌してレスをつけている。
こんな2ちゃんだからこそ、ぎゃくに「同意してあげる」ことってたいせつだよね。
「同意」もひとつの対話の技術として、使うことは使うwww
でも、信じてほしい。おれは君たち信心していない人たちは大好きです。悪口をいくら書いても好きなもんは好きです。
ここは大作スレではない... w ですが仏とは、宇宙を包括するいっさいです。
そのことはひとまず置く... ドストエフスキーに戻ろう。おやすみ。 「仏」というものを、キリスト教の神のようにとらえては、ならぬ。
仏とはだれですか?
それはオレです。
また、君たちもほんとうは生命の奥深くに持っているのだ。その存在を知らず、
それを「あらわす」手だてがないというだけ。
「南無妙法蓮華経」とただいっぺん、でっかい声で叫びなさい。いま。
それで過去遠遠劫(かこおんのんごう)からの罪障(ざいしょう)を消滅(しょうめつ)し、こ
のクソスレで積み重ねてきた悪業を消せる。がんばれ!
>白粉(おしろい)の力は漆(うるし)を変じて雪のごとく白くなす。須弥山(しゅみせ
ん)に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至(ないし)過去遠々劫
(かこおんのんごう)の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金
色となり候なり。しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととな(唱)へさせ給ひしか
ば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。
なん妙法蓮華経と書いてるおまえ!あと一歩だ。あと二文字だ。南無妙法蓮華経と正しくカ
キコしなさい。
>無一不成仏と 申して. 南無妙法蓮華経を 只 一度 申せる 人一人として 仏に ならざるは な
し どうして西洋ではキリスト教が問題になるのか
それは、この世と人間を彼らの神が創造したからである
ここが仏教と根本的に違うところ
仏はこの世界も人間も作った存在ではないから、人間やこの世界の善悪と何の関係もない
したがって、仏が存在しようがしまいが人文・社会・自然科学にとってどうでもよい
キリスト教の神はそうではない、神がこの世界と人間の存在に関っているなら、人間の罪や社会の悪と神とは切り離して考えられないのである
ドストエフスキイのテーマもそこにある
したがって、ドストエフスキイやその作品の理解にとって、仏教など何の関係もなく、どうでもよいのだ >>929
ホントこれなんだよ
そもそも何の宗派だって仏教なら無神論なんだよ
仏教徒にとっての信仰とは仏に成ることを意味する
「自己がどう仏になるか」が問題であるから、善悪とかあらゆる概念は空で、認識する自己の内にすべて存在する
だから神がどうとか、外に規定された善悪がどうとか、仏教徒にはどうでもいい話
一方でキリスト教などのアブラハムの宗教は、宗派を問わず、一神教の神であって位格(人格)を持つ
キリスト教徒にとっての信仰とは神に跪拝することを意味する
「自己が神の前にどう立つか」が問題であるから、善悪とは自己の外に存在していて、認識する自己の外にある概念をどういう風に関係するのか、が問題となる
ドストエフスキー懐疑の人なんて言われるけど、大前提として「もし神いるならばーー」という外の規範について懐疑しているのだから、仏教には関係ないし、鎌倉時代に変革された極東アジアの独自の大乗仏教ににはまったく関係しない
なんか神を混ぜて政治まで混ぜちゃう何でも屋みたいな仏教も日本にはありけどw 仏教の目的である仏になること、すなわち"無"になることはキリスト教から見て"罪"だと思う
キリスト教の兄弟であるイスラム教が執拗に仏像壊して回る姿はキリスト教の本性なんだよ >>931
偶像崇拝は罪なんだけど、自分が偶像を避けることはもちろんとして、じゃあ偶像崇拝を人がやっている時に見過ごすのか関与するのか、どちらが正しいのかはグレーな部分ですね
懐疑人ドストエフスキーも迷うところだろうねw
無我になれ、というのは一見キリスト教にも見られる感覚と思いがちだけど、仏教の無我とは差異がある
自己の確たる自立が必要となる、と前提しないと、自分自身のように隣人を愛する、という隣人愛が成り立たないように思えるよ
そこには明確な「善」の意識なくしては何も語れないからだろう
大海に落ちた一滴が大海に「なる」のが仏教の無我であって、大海に落ちた一滴が一滴のまま大海と「向き合う」瞬間に同時に自己が存在する(と認識でき得る)
キリスト教において自己(善悪)の放棄は神の放棄と同じだから、それならもちろん仏教的無我は罪だろうね
ムイシュキンが美しい人なのは、自己の放棄が見られる
ただ、彼が神を愛していたため、という理由で神の被造物である人間を愛したのかどうか、は分からない
なぜならムイシュキンは子供をよく可愛がっていた、という箇所があって、これは単純にムイシュキンには自尊心が欠落していたという一点がそうさせたに過ぎないのかもしれない
が、それでもドストエフスキーはムイシュキンをキリストのように書いているので、もっと違う解釈ができるのかもしれないけどね >>929
> どうして西洋ではキリスト教が問題になるのか
問題になってんのか? ほとんどなってねえよなw 死んだ宗教と思われてる。
カラマーゾフ本文にも「もうとっくから死んでいる」と書いてあるわなWW?
だいたいお前からして、キリストなんか信じてねえだろ... w?
> それは、この世と人間を彼らの神が創造したからである
そんなこと、これっぽっちも信じてねえよな?
> ここが仏教と根本的に違うところ
おまえは東大入ったことねえのに、東大はどんなところかわかるか〜〜?
いかなる仏教も1ミリも知らねえし実践したことねえだろう?おい?
それとオンナジだよ! 創価学会ちゅーのは、東大といっしょだ。次元はちがうけどなw
東大はガリ勉しとったらクズでも入れる。ガリガリ亡者で自分の栄達しか考えねえw
おれらはスゲー。もうスゲーとしか言えねえ集まりだwww > 仏はこの世界も人間も作った存在ではないから、人間やこの世界の善悪と何の関係もない
なにをテキトーのこと言ってんだw アホやろ?仏は人間やこの世界の善悪とまっすぐつな
がってんだよ!
てめえはどこの邪宗教のもんだあ〜? まず所属を名乗れやww ハウツー本で読んだ知識を
書くんじゃねーよ。
> ドストエフスキイのテーマもそこにある
> したがって、ドストエフスキイやその作品の理解にとって、仏教など何の関係もなく、ど
うでもよいのだ
ドストエフスキーのことで、なんかまともなカキコしたことあんのか?WWWWW
このスレでドストエフスキーについて最高のカキコしてんのは、俺じゃねーか!!W
まあ、あと「キリストは真理の外にある!キーッ!!」って黄色い声出してるクソガキも、
いちおう、いいカキコする時がたまにある。
コイツは認めとる。ただし、最近はアホになってるWWWWWW 仏罰厳然たり、や。 仏罰などという概念は仏教に存在しません
あっても傲慢な君のために仏が君の味方をするのでしょうか
創価学会はお金を払えば誰でも入れるのかもしれませんが、東大は勉強という犠牲なくしては入れません
あまり人を貶めるような発言は自制しましょう
それに、私は最高おまえは最低、という発言にまったく意味がありません
少しは考えましょう >>925
>主体性をもたず、ただ人間集団の数の力や既成の権威の力に依存し、名前(私という固有性)という責任を持たない匿名に埋没する一般大衆のことです。
→既成の権力に依存する、君らとかおまえらという「ら」で一括りにするのが好き、だってぼく「ら」は集団だもん!
>それは仲間集団と同じであることに喜びを覚え、個人の責任を希釈された集団的無責任(「赤信号みんなで渡れば恐くない」)に安心をおぼえ、反対に出る杭は打ち、他集団への極端な排他性と不寛容さをもつ人々です。
→集団でいると安心する、排他を駆使して不寛容
> 数の力と権威の中にある何者でもない自分自身に陶酔し、自身に対しては何も課さず反省もせず満足し、義務を果たそうともせずただひたすらに権利を主張します。
彼らは自分を疑わず、知的な人間であると思い込み、能天気なほどの平静に生きます。
→何者でもない自分に酔う、権利はOK義務はNGで満足、能天気だけどなぜか知的だと思い込んでいる
> 今ある自分の気楽な生活環境は、自分自身に先天的に与えられた永久不滅のものであると信じて疑わず、他者や先人への感謝もなく、平気でそれを打ち捨てようとします。
→感謝はしないが与えれることが当然だと考える
> 彼らはいわゆる「甘やかされたお坊ちゃん」であり、現代文化の中に生きる野蛮人です。
大衆は責任を放棄し、安逸な思考停止に陥り、やがてそれは全体主義やファシズムを生み出します。
→全体主義は正しいし、ファシズム大好きイズム
さて、誰を思い浮かべるでしょうw 創価の人は創価の中でも浮いてるんじゃないか?
それともカルトの内部では同類が集まって自画自賛を繰り返してるのかな?w まあ創価でもまともな人もいるだろうね
だけど世間でこれだけ疎まれるのはそれなにり理由はあるんだろうけど、彼を見てると分からなくもないw 彼の本質は空っぽだった、まるでレスに一貫性がない
何者にでも成れる彼は何者でなかった
皮肉な事に別の意味で仏教の空が出来ているw
ドストエフスキースレなのでドストエフスキーで語れば、そもそもキリーロフを彼は嫌悪する
だけどドストエフスキーで最も仏教的(ありえない話だがw)なのがキリーロフで、最も非仏教的なゾシマなんだけど、なぜかゾシマばかりに目をやる
キリーロフは自由を求めている人、の代名詞でもある
それは、永遠や不滅の存在が有ろうと無かろうとどっちでもいいが自分は使えない、だって自分は生の中で自由だ、なぜなら神の属性は「我意」だからだと言う
これは、あの世なんてどうでもいいし生きていることは唯我独尊、と言ったシャカを連想しないあたりで彼は空っぽだよ
ゾシマはまるで反対に、永遠の存在とか不滅があるからなぜ使えないでいられよう、という最もキリスト的な考えの代名詞だよ
ゾシマの神の属性は「神」だからだ
散々このスレで悪霊を話題にしておいて、それが気がつかないところが彼の本質だろうと思わせられる
要は好きなところしかみない、嫌いなところはなかったことにする
もしくは彼の宗教はシャカとかどうでもいいくらいに言ってる似非仏教なのかな
創価って縁がまったくなかったから分からんw 勘違いをして読まれているメンバーが多い。追記させて頂きます。
当然ですが、創価学会は成仏をしている人の集まりではありません。
一生成仏と広宣流布を目指している人の集まりです。
いろんな人がいます。そのいろんなひとの代表がぼくです。
関係ないけど、カキコのとき「512バイトを超えています」メッセージが出て投稿しにくいねw?
はやく次スレへ行ってください。それから集中的にカキコします。 平成19年11月6日本部幹部会前日、関西での全国代表者会議での
池田先生自らの毎日の決意表明ということで、発表されました。
決意表明11事項
1.今日も私の生命力を広宣流布に捧げて参ります
2.何が起ころうとも心の平和を乱さぬ強さを持つこと
3.会う人ごとの健康、幸福、希望について語りゆくこと
4.友人に対しては、常にその人にしかない長所がある
ことを感じさせてあげること
5.必ず、全ての明るい面を見て、楽観主義で行くこと
6.常にベストのみを考え、ベストの結果をだす事だけを
考え行動する
7.他人の成功を自分のことのように喜べる自分であること
8.過去の失敗にとらわれず、未来の偉大なる成功を
目指し前進すること
9.他人の失敗を指摘する間もないほど自己の向上に専念すること
10. 何者にも恐れぬ強さを持ち、怒りに対しては忍耐を
持って優しく接していく
11. 困難をチャンスととらえ喜んでいく。ご本尊の大功徳を
生活上で実証が示せるよう我が信心が毎日倍増すること ここは創価学会の建物の廊下ではありません
5chのドストエフスキーのスレです
勝手に何でも貼っていいところではありません
選挙ポスターだって法律で場所は決められています
スレの最低限のルールは守りましょう
こういうやり方は批判を生むばかりです
自分の自由ばかりではなく、他人の自由も尊重しましょう
どうか創価スレに移動して下さい
きっと大作先生も君を見たらそう言うと思いますよ 文学スレッドガイドライン
ここは文学についての話題を扱う、学問カテゴリーの掲示板です。
学問系でない作家や小説については【一般書籍】、自作の小説等については【創作文芸】でお願いします。
また専用の板がある場合、スレ立てはそちらで行ってください。
・重複スレッド(同じ事象・人物に関するスレッド)
・乱立スレッド(内容に変化のない・内容が無意味なスレッド)
・エロ・下品スレッド(過度なエロ・性的煽り・性的妄想・下品ネタ)
・連続投稿、コピー&ペースト(会話の妨害や荒らしが目的の場合)
・差別・蔑視発言や固定ハンドル叩き(特に差別・蔑視発言は重要削除対象)
等の、5ちゃんねる削除ガイドラインに抵触する行為は文学板でも固く禁止します。 disるとかdisらないとかどうでもいいです
ここは文学板のロシア作家ドストエフスキーのスレッドなので、ドストエフスキーの話をする場です
池田先生の決意表明でも何でも、人間革命スレでも立ててやってください
これは俺個人の願望でも意志でもないです
5cのルールです まあ褒めてくれ。褒めてくれ。僕はそれが大好きなんだから
カキコを止めるなどと書いたのは、ちょっと言ってみたまでのことでね
まだ三百回くらいは君らをうんざりさせてあげるよ
愛すべき僕の弟子たちよ、学会員(メッシウ)よ、メルシイ!
創価の道を歩もうではないか! メルシイ、メルシイ、メルシイーっ!
(『悪霊』ドストエフスキー)
=================================================================================
俺は自分のすべてを創価学会にかけてきた。俺より幸福な人生というものは、少ないと思う
創価学会ちゅーのは、お金を払えば誰でも入れる。おれらはスゲー、もうスゲーとしか言えねえ集まりだwww
無信仰で、自分の気ままに生きてる、君たちのような存在とくらべ、人間としての本質において 数段上なのはわかるでしょ?
結局のところ、キミらは僕の弟子みたいなもんで、もう半分以上は 創価学会員といってもいい存在なんだ
キミらに大事なことは、自分より優れた人物。つまりおれのような信仰者に対して、頭を垂れて、一から教えを請うことだ
いつも尊敬してくれてありがとう、メルシイ! 石原さとみ創価高出身。創価に入信すれば上戸彩や石原さとみとヤれる。
どうだ? せっかく日本人に生まれてこれたんだ。いっしょにヤるか?
そんときは俺に電話してこいっ ピョートル「そしたら、カルマジーノフがなんと言ったと思います?
池田先生の教義は本質から言って、廉恥心の否定である
そして公然たる破廉恥の権利こそ、学会員の心を何よりも容易に引き付けるものだとね」
スタヴローギン「それは名言だ! 黄金の言葉だな! まさに図星だ!
破廉恥の権利――そうなれば、みんな公明党に投票して、維新の会には誰も残らなくなる!」
(『悪霊』ドストエフスキー)
=================================================================================
″Позор!(恥知らずに)、第一に大胆たれ、第二に大胆たれ、第三に大胆たれ″と。
こんなカッコイイこと言ってるけど、これをゴーマンに言い切ることがとても大切なんだ。
さあ聖教新聞を買え。真実に目覚めろ。自分を欺き続けるのか? 確信が欲しくないのか? 残すところあと少しだからサービスしようw
いずれこのスレもなくなるから、単純に良心において助言しようと思う
自我が審級に耐えられなくなった時、原則的に人は反動プロセスか退行プロセスを通して守ろうとする傾向がある
退行プロセスについてドストエフスキーでフョードルを描いてみせた
または地下室の主人公でもあり、ドストエフスキーはこの描写にかけては天才的と言える
取りも直さなず、道化を演じるのである
自分は他者の言動には何も咎めれらなかった、なぜならもっと醜悪になれるのだと、むしろ指摘された卑劣さを自覚しながらワザと「退行」して演じるのだ
そして苦痛を快感原則であるかのように演じることで、自我の超自我の審級を「抑圧」して免れようとする
文学ならこれはとても面白い描写と言えるし、読者はこれを勉強する価値さえ見出すことができ得る
だけど現実では良心の呵責の抑圧は危うい
精神が病む可能性が大きすぎるのでやめた方がいい
なぜなら審級というのは時を持たない特性がある、つまり言い換えると年を重ねても消えない
そして最悪なことに人は反芻する精神を持つがゆえに神経を病むことになる
宗教はそれを可能にしてしまう力を持つが、同時に奈落落ちる可能性も比例してしまう
>>947
咎は咎としてその咎を受けた「瞬間」に負わないと、取り返しのつかない、言葉であらわせないくらいに後悔することになるお
とにかくお大事に はやく次スレにしたいから、わざと短文で書く。
>>932
> 偶像崇拝は罪なんだけど、自分が偶像を避けることはもちろんとして、じゃあ偶像崇拝を人がやっている時に見過ごすのか関与するのか、どちらが正しいのかはグレーな部分ですね
> 懐疑人ドストエフスキーも迷うところだろうねw
> 偶像崇拝は罪なんだけど
なんて教えは「カラマーゾフの兄弟」文中、ゾシマの教えにせよ、
ドストエフスキーみずからの言葉にせよ、ありますかね?
答えの範疇を限定しないと。キリスト教の解釈として、どちらが正しいか?じゃないですよ。
「カラマーゾフの兄弟」文中または、ドストエフスキーの言葉として、> 偶像崇拝は罪 なんてありましたか? という問いです。 >>931
> 仏教の目的である仏になること、すなわち"無"になることはキリスト教から見て"罪"だと思う
> 仏教の目的である仏になること
これはいちおうよいw。
>仏になること、すなわち"無"になること WWWWWW
なんすかコレ?WWW 無になるのが目的ってww そんな宗派どこにあんの?
禅宗でも、浄土宗でも、はたまた原始仏教でも、なんでもいいけど、仏になること=無
って。
お前たちのように「ハウツー本や翻訳書」で聞きかじった仏教理解なんてダメでしょ。
それどころか、ほんとうに専門的訓練もうけて、原典をものすごい迫力で学んでいるひとでさえ、
ネットを見ればわかるように、たいはんがキチガイです。
「我見」のかたまりです。
正しい師匠につかなければぜったいに習得できない。また同志先輩の良い影響下にあって、毎日毎刻競い合って磨いていかなければならない。
そのことを「カラマーゾフの兄弟」では文学的に表現されてますよ。アリョーシャとゾシマや、他の教会の僧侶などです。
ぼくがゾシマとアリョーシャをことさらに引用するのは、そこに「師弟不二」の一面が描かれているからです。
いま言ってることは、創価学会固有の説でもなんでもないですよ。
他の宗教やってるひと、何しゅうでもいいし、キリスト教会のひとにでも、きいてみてよ。
「ひとりで本読んで」信仰のことがわかりますかっ?ってね!!
つーか、たとえでいうと、おまえが歯医者さんになりたいとする。学校行くのイヤだし、ムリだ。
自分でネットで学ぼう! つべに歯の治療の仕方の動画があったぞ。なんかわからんが、歯医者さんになれたわ!!
こういうひとに治療してほしいか?
いわんや宗教は、それを習得するのに、歯の治療など比べるべくもない至難である。
ストレスたまからひとことだけ言わせてくれ。オメーら、ほんまカスやわ!!! 何を書いても
まともなレスはつけられねーしwww 脳あんのかっ? いま書いたことは 一時が万事で、おまえらのどの書き込み見ても、おれはいっつも呆れてるぜ!
可哀想だから、すぐ指摘しないようにしてる。信仰のことになったら幼稚園児だからな、オメーら!!
根底から狂っとるwww
理由は簡単で
1,「祈ったことねえ」
2,宗派に所属してねえ
3,活動してねえ
たとえ邪宗教でもな!オウムだったとしても、オメーらより格段に上なんだよ!!
「信じる」ということについてはな。どうだ?創価のアリョーシャと言われているオレの指摘を素直に
受け止めてみろ。「言い方に惑わされるんじゃねー!」わざとやってるんだよ!! オメーらいま何歳や?
40だろうが、50だろうが、とにかく人生はあっという間に終わるぜ?
それなのに、勇気もないし、真剣さもなくて、仏教やキリスト教をアクセサリーと思って
馬鹿やろっ?
無信仰なら無信仰でけっこう。はやく地獄へ修学旅行へ行ってこいや〜〜。 池田先生がゾシマ長老の生まれ変わりなら
俺ら学会員はカルマジーノフの生まれ変わりだよ!!
朝鮮人には恥の概念がねえ。さんざん反日活動に精を出して、制裁されたら被害者面だwww
池田先生は在日朝鮮人、だから韓国には学会員も多い。真の本拠地は先生の祖国にある!
カルマジーノフに万歳! 恥知らずの権利に万歳! 大勝利っ!! >>955
スレのサイズが512Kバイトを越えています。
本当に書き込みますか?
-----------------------------------------
このメッセがでて、うっとうしい。だからよっぽどのヤツ以外はレスしねえ。
> 池田先生がゾシマ長老の生まれ変わりなら
>
> 俺ら学会員はカルマジーノフの生まれ変わりだよ!!
てめえは学会が信じられねーんだよな!
> 朝鮮人には恥の概念がねえ。さんざん反日活動に精を出して、制裁されたら被害者面だwww
>
> 池田先生は在日朝鮮人、だから韓国には学会員も多い。真の本拠地は先生の祖国にある!
>
> カルマジーノフに万歳! 恥知らずの権利に万歳! 大勝利っ!!
そんで、韓国が嫌いなんか?
イイんだよ!! ぜんぶ。仕方がネーもんな。
なんでてめえにだけレスつけたるか、わかるか? あと一歩で「南無妙法蓮華経!」と言えそうだった
じゃねーかっ!!
なんだかんだ言って おめーだけだよ。おめーがいちばん成仏できる可能性があるっ いいか? この宇宙ってのはナ! 知的に捉えれるものじゃねー。
信じるか、信じないか? コレしかねー!!
50分だけまったる。「南無妙法蓮華経」と正しくカキコしろ。打ち込んでみろ。。。
この50分でてめえのみじめな人生の結論が出る。
オレのことが好きか? おれを信じたいか? 待ってるから「南無妙法蓮華経」とかならず叫べ。 >>951
理解足りない人間は、悟性が足らないのか、バイアスを確証して理解できる形に物事自体を作り変えてしまうらしい
だけど君には当てはまらないようだね
ただ読解力という知性が足らない
書かれていることを見るだけならば、物語は必要ない
ただ文字だけあればいい
ドストエフスキーの最もと言える有名な文「神がいなければすべて許される」というテーマは、否応なくキリスト教の十戒を指す、というのはドストエフスキーを興味を持ったものならば問う必要すらない事だろう
何がすべてなのか、それを文字通りに「すべての行い」くらいに漠然と考えているならば、カラマーゾフは捨てるべきだ
そしてキリスト教徒でなくとも、モーセの十戒に何が含まれるのか、偶像崇拝がどういう意味で偶像とするのか、もし知らないならば、もはや一般教養すら疑がわしいことだよ 残念だけど、ドストエフスキーからロシア正教というキリスト教を切り離すことはできないよ
君がどんなに喚き散らそうが、仏教ましてや戦後にできた集団とつなげることは時系列という物理的に無理だよ
少しでも知性があるならば、なにもわざわざ過去を撤回する必要はない
何も言わずにドストエフスキーから去ればいいだけのことだよ >>958
さいきん、きみはアカンな.... w
以前の明晰さと真摯さはどこへ行った?ぜんぶ天罰だからな!!ww
法華経へ反逆し、仏の使いであるぼくに反逆したから、低能になった。
> ドストエフスキーの最もと言える有名な文「神がいなければすべて許される」というテーマは、否応なくキリスト教の十戒を指す、
それはドストエフスキー本文中にどこどこの箇所に書いてありますか?という質問なんだが。
正しいか正しくないか?など問うてないと、前置きしたでしょ?
>というのはドストエフスキーを興味を持ったものならば問う必要すらない事だろう
> 何がすべてなのか、
>それを文字通りに「すべての行い」くらいに漠然と考えているならば、カラマーゾフは捨てるべきだ
そんな評価は聞いてない。きみはネット上によくいる「〜だから、そんなやつはカラマーゾフを読む資格はない」とか、我見のかたまりになって発狂してるひとにそっくりになってるぞ?
あいつらがでっかい声でわめくのは、自分が不利のことを自覚してるからだ。
ぼくのように自分の絶対的正しさを確信してるものは、淡々と話すのだww
> そしてキリスト教徒でなくとも、モーセの十戒に何が含まれるのか、偶像崇拝がどういう意味で偶像とするのか、もし知らないならば、もはや一般教養すら疑がわしいことだよ
「偶像崇拝」に深い意味があるか、ないか? そりゃあ、あるでしょうよ。キリスト教徒にとってね。
いま問うているのは、カラマーゾフ中、その他作品中の該当する文のことを聞いてるの。
ぼくは予想する。ドストエフスキーはそんなことを重視していない。
さいきんのきみのカキコはぜんぶ「自分の脳内の妄説」だけを根拠にしている。
作品本文を引くこと。 >>959
> 残念だけど、ドストエフスキーからロシア正教というキリスト教を切り離すことはできないよ
何が残念なんだ?あたりまえじゃないか?wwww ドストエフスキーとキリスト教は切り離せない。
そして日蓮大聖人の仏法は、キリスト教もドストエフスキーも内部に包摂するものだ。
> 君がどんなに喚き散らそうが、仏教ましてや戦後にできた集団とつなげることは時系列という物理的に無理だよ
その考えでいい。それは仕方がないことだ。きみの器はその程度しかない。これから成長していこうな。ところでカラマーゾフにこういう文がある。「長老制は創始されてから100年もたっていない」と。
仏教を卑しみ、西欧由来のものを尊ぶ。また、新しいものをさげすみ、ロシヤ正教は古いという。自分自身は正教徒でもなんでもないのに?
きみの思考の枠組み自体が、極めて凡庸だ。だからラキーチンやミウーソフの生まれ変わりだというのだ。イヴァンが見たら、フフンと軽蔑されるぞ?アリョーシャなら、おまえを叱るだろう。
こんな時間だけど、無理して書いたんだぞ!? ほんとは寝る時間だったんだからな。
可哀想だからレスしたっ おまえも南無妙法蓮華経と今晩から唱えるんだぞ! 1時間でいい。
それでいっさいが変わる! ダメだこれw
まったく会話が噛み合わないけどいいw
てかそもそも偶像崇拝禁止がどうとか、自称宗教者と話すしをする日が来るとはw
何を言おうと残念だけど、ドストエフスキーと創価学会はまったく関係ない、で終わりってことよ
君には色々言うと理解できないみたいだからこれだけでいいんだよ
ドストエフスキーと創価学会は関係ない
スレチだから他行って、ということ 創価くんという存在はフィクションの中でどれだけ美化しても
現実の宗教なんてこんなもんだよねという良い例ですね
(信じていれば彼のような人間になるだろうし、ならなければ信心が足らんというわけですw)
こうやって実存(頭の中で描いた全体像ではなく個別の実例)を観察することで学習することを
ベーコン哲学に始まるイギリス経験論、またはカント三大批判でいうところの実践理性といいます 実存の例を自らになるようにわざわざ実際に指摘してあげて、実践理性批判のカントとベーコンの類似をわざわざ持ち出してあげても、彼は理解できないよ
そもそも理解しようとする意思がないし、理解しようとする意思を持つほどの誠実さがない
意思がないのに理解はできないだろうね
卵がなければトリは生まれない
だから簡単言うのがいいと思うよw
残念だけど、ドストエフスキーに創価学会は関係ない
スレチだから移動してどうぞ
残念だけど、偶像崇拝は罪だからどこまで行っても偶像崇拝の集団も罪の集団なんだよ
とても残念だけど
と、言えば腹を立てて去るかもしれない、と願ってる きみらのちっぽけな世界観・宇宙観ではそう感じる。創価学会は全世界に信者を持つが特段に多い国のひとつが韓国だ。
人口比率でいえば日本国内より多い。韓国人が靖国神社を放火したのは、色心不二の表れに過ぎません。
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声闘(ソント)とは朝鮮人の古くからの風習で声の大きさで相手の言論を封じること。
人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、
相手が何も言い返せなくなれば勝ち、というしきたり。 (池田大作先生 抗日の励まし)
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池田大作先生は在日朝鮮人として伝統的な韓流仏法を広めてきました。
声闘は創価学会の仏法における中枢を担っており、とうぜん日蓮大聖人の教えでもあります。
ぼくら創価学会は統一教会と手を組み、韓国の学会員と反日の旗の下に一致団結する。
忘れてはならないのは解脱すること、すなわち仏になることは日本人でありながら日本人をやめる自由です。
既存のアイデンティティーを完全に破壊し、綺麗真っ白に「リセット」してこそ、僕らは仏道の慈悲を与えることができ、
「日蓮大聖人の教え」以外に善悪の基準を持たない「完全なる信仰」へと至ることができるのではないでしょうか! https://static.wixstatic.com/media/fd75e8_95d933787d10497ab30d5483682ba341~mv2.jpg/v1/fill/w_482,h_525,al_c,lg_1,q_80/fd75e8_95d933787d10497ab30d5483682ba341~mv2.jpg
https://static.wixstatic.com/media/fd75e8_c71244c366784660a50a72cb189a8095~mv2.jpg/v1/fill/w_418,h_592,al_c,lg_1,q_80/fd75e8_c71244c366784660a50a72cb189a8095~mv2.jpg プラトン派の連中が見たら顔真っ青になるなw
すべてを真逆にできるなんてしゅごい才能でそw
これぞ偉大なる先生の人類の発展
声闘(ソント)とは朝鮮人の古くからの風習で声の大きさで相手の言論を封じること。
人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、相手が何も言い返せなくなれば勝ち、というしきたり。
古来朝鮮において、法律と言う物は意味が薄かった。兎に角裁判になった場合は、大きな声で相手が何も言えないまでにひたすら発言をしまくる。
内容がオウム返しであろうと、罵倒や嘘八百だろうと、レッテル貼りや人格攻撃、関係のない親類縁者への悪口、嘘泣きなども総動員し、相手が何も言えなくなれば、こちらの勝利である。
負けたらすぐ死刑になるので、もし後で相手が正しかったと明るみになっても関係無い。
客観的な真実などという証明に時間の掛かるものには、何の価値もない。 嘘も100回言えば真実になると言う。おや、ぼくらが南無妙法蓮華経と繰り返し唱える、その理由にようやく気づいたようだね?
然り。勝てば官軍、勝者が歴史を作る――それが創価学会の掲げるスローガン「大勝利」に隠された真理なのだ。
君には民衆の心がわかるか? なぜ日本で、また世界で、多くの民衆がこの創価学会の信心にいのちと希望のすべてをかけているか? 理解できるか?
理解しようとする精神があるか? アリョーシャがいまこの日本に生きていたら「端的に理解したと思う」
そしてゾシマもアリョーシャもドストエフスキーもまちがいなく創価学会に入信してるのだ。 功徳の大きさはそれに伴う代償の大きさに等しい
金銭を惜しまず仏道に奉ずる者だけが冥土の安堵を約束される
(池田大作先生 購入の励まし)
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幾ら払えるかで、お前の価値は決まる。
このまま一生迷い続けるのかっ?
迷ったら一番いいやつ買ってみたらどうだ?? 青年らしく! 有難いお言葉ありがとうございます
これですね
https://www.sgibutsudan.com/item/a-000.html
当分はもやしとキャベツの生活になりそうですが、先生の懐と党の皆様の繁栄が温かくなるならば、私の贅沢など捨てなければならないでしょうね
「服従に意志など必要ない」
そう確信出来ない私の心をこの500万の仏壇とともに捨て去るべきでしょう
家族と相談してみます リモコン機能も付いていました!
見落としていました!
照明もあるようです!
法華経もキラキラした金銀財宝は特別な像を彩ることが分かりました
釈迦はいらないなんてトンチキな事ばかり言っていましたが、
日蓮様のおかけでそんなたわ言はとっくに乗り越えてきたぼくらです
500万だけど心が動かされます
法華経(ほけきょう or ほっけきょう)とは、大乗仏教の経典の1つである「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(「正しい教えである白い蓮の花」の意)を指します。
法華経の成立は、釈尊滅後からほぼ500年以上後、すなわちBC50年〜BC150年頃だと推定されています。
七宝のほかに、「法華七喩」(ほっけしちゆ)という有名な七つのたとえ話がつづられていることからも、
「七」と言う数字が仏教において特別なものとして扱われていることが伺えます。
法華経における七宝は以下です。
法華経における七宝
金
現代の金と同じものを指します。
銀
現代の銀と同じものを指します。
瑠璃(るり)
現在ではラピスラズリの和名として用いられますが、当時は広く「青色の玉」を指す言葉でした。
玻璃(はり)
クリスタルの和名です。
しゃこ
シャコガイに代表されるような美しい貝殻を指します。
真珠(しんじゅ)
現代の真珠と同じものを指しますが、特に「赤珠」(しゃくしゅ)と呼ばれるときは「赤い真珠」を指します。
まいかい
中国で採取される紫色をした美石のことです。 >>971
シャートフ「あなたが無神論者なのは、あなたが苦労知らずの坊ちゃんだからです。
(中略)苦労することによって神を手に入れるのです」(ドストエフスキー『悪霊 前編』)
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一般論、本の知識、紙上の空論ではなく、頭カラッポにして実践に身を投じ、体で学ぶことで創価の道は開ける。
そう、もやしとキャベツの極貧生活によって修練を積み、その地獄の苦難によって根性と叩きなおして「人間革命」を得るのだ。
かくして君は自我を捨て、成仏し、生きていても死んでも同じ、すなわち意味のない人間になる。
されど安心なさい。池田先生は大好物の「トロ」を口にするたびに、君の仏道に対する寄与をきっと思い出してくれるだろう。 >釈迦はトンチキな事ばかり言っていましたが〜
釈尊は小乗仏教ですが、日蓮大聖人の率いる大乗仏教が台頭し、仏教は上下逆さまに歪められました。
もはや釈尊は異端の負け犬に過ぎず、彼の姿を真似た像は彫られても、その教義には誰も関心を抱いていません。
いずれあらゆる仏閣の像の顔が日蓮大聖人、ひいては池田先生の顔に修正される日がくるでしょう。
かくして古い開祖は忘れ去られ、削除され、仏教の開祖は池田先生であるという既成事実が作られます。
もちろん普通の人は誰が元祖であるかなど無関心ですから、真理なんてものは幾らでも塗り替え可能です。
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「現在を支配するものは過去を支配する」 (1984年)
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「創価学会は紀元前より存在する由緒ある本家宗派である」という認識が周知徹底されるのも時間の問題ではないでしょうか? >>974
仰る通りです
いずれ仏像の顔がすべて先生の顔に塗り替えられるでしょう
それに250万にいると言われておりますが、もうすぐに世界宗教として構築されることでしょう
キリスト教の23億人、イスラム教の16億人などあっという間でしょうね
だって先生はまだ生きているのですから
それに党には仏罰がありますからね
釈迦はこう言ったとされていますがすべて嘘っぱちですね
それに仏罰は罰ではなく、仏が悟った根本の真理に背いたために自然に蒙る罰のこと。神罰との対比でよく誤解されているが、仏が罰を与えるのではない。
などと原始仏教は考えられているようですけど、
仏罰とは公明党に投票しないものに与える仏からの罰です
学会員をいじめるものに与えられる仏の罰です
本当に釈迦はいい加減なのでしょうね、まったく 釈迦はこんなたわ言も言ったみたいです
中道
人間は厳しすぎる道を選ぶと苦しむ。しかし、楽すぎる道を選んでも苦しむことになる。その真ん中の道を選ばなければならない。
無常
この世のすべては移りかわる。人はいづれ死ぬ。昼は夜になる。花は咲きづづけることはできずいずれ枯れる。常に同じで変わらないことはない。変わらないことを求めることで苦しみが発生する。
縁起
物事はそれ自体で存在しているのではなく、他の物との関係があり、その結果として存在している。
まったく違いますね
先生は精神を支配しているからこそ物質も支配しているのです。
現実というのは頭蓋骨の内部にしか存在しないのです。
誰もが段々に分って来るでしょう。
先生に出来ないことは何一つないと言えます。
姿を隠すこと、空中を浮遊すること--何だって出来きます。 その気になりさえすれば、先生はこの床上からシャボン玉のように浮揚できでしょう。
しかし先生はそれをやりたくないだけです。
党がそれを望んでいないからです。
自然の諸法則に関する21世紀的な考え方は放棄しなくてはなりません。
先生が自然の諸法則を造るのです。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。