加藤1239段って一体何者だよ
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キリスト教系新興宗教団体と野良猫にカネを貢いでいる爺ちゃん
もう50年ほど育てばジャバザハットに成るかもしれない 一二三系列(羽生・郷田ら)
谷川系列(渡辺明・藤井聡ら) >>4
一ニ三九段から
一に三十段に下がった
って話題になっていなかったっけ? 賀集正三七段
正=10の40乗なので
賀集10000000000000000000000000000000000000037段 YAHOOトップ
・両雄再戦 一二三が丸山に反則勝ち 加藤一二三は奨励会入り以降、南口繁一九段門下であったが、南口が1995年に死去した後の1998年に将棋連盟に申し出て剱持松二八段門下となった
加藤はこの理由について「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」と述べている
剱持氏は1934年の3月生まれで、1940年1月1日生まれの加藤一二三とは
6つしか違わない。さらに言えばプロ棋士になった順番は加藤一二三の
ほうが早い。本当ならば成立しない師弟関係である。
剱持門下になりたいというよりも南口門下でありたくない、が本音で、
南口繁一の悪口の類いは一切言っていないが、何か恨むような感情が
加藤一二三にあったのではないかと思われる。
将棋世界誌では「妻と私の長年の願いだった」みたいに書かれていたから
中学校時代の同級生である加藤一二三夫人も南口九段のことを快く思って
いなかったことが窺われる。 加藤一二三は1951年9月、南口繁一門下として3級で関西奨励会に入った。この時の入会試験官を務めた奨励会員は有吉道夫であり、加藤は勝利した[61]。この入会の経緯について田丸昇によれば、小学6年生の夏休みに京都の親類を父と共に訪ねた加藤が京都の将棋大会に参加し、審判長を務めていた南口の指導対局を受け、2枚落ちで2連勝し、加藤の棋才に感嘆した南口から棋士を目指すよう勧められたからだという[60]。そして南口の内弟子となり、南口の自宅がある京都府相楽郡木津町(現・木津川市)にて高校を卒業するまで過ごした
南口の内弟子だったのに、南口から一切世話にならなかったとは?
余程酷い確執があったのだろう 加藤一二三妻は中学時代の同級生らしいから、実家は南口家の近所なんだろう。
加藤一二三妻の親戚が南口とトラブルになってたから、南口の死後に加藤一二三が南口を逆破門して剣持門下に逃げ出したというところか 最高齢現役(77歳5か月)
最高齢勝利(77歳0か月、2017年1月20日 対・飯島栄治戦)
最高齢対局(77歳5か月、2017年6月20日 対・高野智史戦)
年長者側の最多年齢差勝利(58歳5か月、2015年3月11日 対・増田康宏(17歳4か月)戦)
最多年齢差対局(62歳6か月、2016年12月24日 対・藤井聡太(14歳5か月)戦)
最長現役勤続年数(62年10か月)
最多対局数(2,505局)
最多敗戦数(1,180敗)
最年少五段(15歳3か月)
最年少A級(18歳3か月)[14][15]
最年少名人挑戦(20歳3か月)
最年少王将戦リーグ入り(16歳)
順位戦デビューからA級まで、4期連続で最短昇級(加藤の他には中原誠のみ)
A級順位戦最多勝利(149勝)
A級順位戦最多対局(313局)
順位戦最多出場[145](62期)
19世紀生まれ・20世紀生まれ・21世紀生まれの棋士と公式戦で対局(史上唯一)
62歳A級(大山康晴に次ぐ史上2位)
名人・A級通算在位36期(大山康晴に次ぐ史上2位) 最年少A級陥落(21歳)
最多A級昇級・B級1組降級(5回)
最年少A級返り咲き(22歳。A級昇級年少記録全体で見ても、自身の18歳、谷川浩司の19歳に次ぎ3位)
最年少敗戦 14歳9カ月 (1954年9月29日 西本馨四段 第14期名人戦C級2組順位戦) 加藤さんが反則した時は負けで聡太君の時は黙認ズルくないか?
GOださんと久保さんのとき時間切れだともめたけど
こないだの叡王戦も6五香を指したとき残り時間が
完全に0:00になってから焦って指したけど またも黙認 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています